あなたのモノじゃ、ないのだけれど?
きっかけは、隣国、リベチア神聖国への新しい航路について父が悩んでいた時、ノーラの使い魔であるクリスがそのうちの一つを選ぶような行動をとったことだった。
ペンを咥えて先を動かし「チィ」と鳴いた様子に、気まぐれに父はよし! と決めてその航路を選び取った。
アルフリート王国とリベチア神聖国を結ぶ交通手段は二つある。一つは迂回が必要な陸路で、もう一つが直線距離で移動できる海路だ。
そして入り江を擁しているルーデンドルフ辺境伯家はその交易によっても多くの収益を得ているが、さらに効率よく、そして短期間でリベチア神聖国へと向かうことが出来れば利益率も高くなる。
そういうわけで毎度父は悩んでいるのだが、そんな適当な決め方でいいのかとノーラは思ったものだ。
しかし、クリスが選んだように見えたのも事実、彼はとても小さなネズミの魔獣だけれど純白の毛並みに赤い瞳の神秘的な姿をしているのだ。
「……待ってね、もう少しで完成よ。このチャームを縫い付けて……ああ、素敵、とってもいい感じ」
「チィ」
「うん。ほら見て、魔法使いのローブにブローチ、これであなたも立派な魔法使い、着て見せて」
作っていた小さなローブを彼に差し出す。すると今までしていた襟と蝶ネクタイがついた首輪を器用に外し、ローブを前足で押さえて頭から中に入りスポンと顔を出す。
そのすっかりローブを纏ったその姿に、ノーラは「はぁ」と感嘆の息を漏らして手のひらに乗せる。
手のひらの上でもぞもぞと動いてこちらにローブを見せてくれる様子にななんて素敵なんだと表情がほころぶ。
「チチッ」
小さく鳴く彼に、コクコクと頷いた。
……苦しいところはないみたい。良かったわ。これで一緒に魔法使いとしての仕事に行くときお揃いの服を着られるもの。
凶暴な魔獣と対峙するのは怖いけれどもそう思えば任務だって楽しみで、ノーラのやる気につながる。
ノーラは辺境伯家出身のしがない魔法使いで、魔獣はネズミというありきたりのたいして強くもない使い魔、強いて言うなら少し、珍しい色をしているぐらいでそれ以外は割と普通だ。
ネズミはきれいな生き物ではないけれどもアルフリート王国では使い魔を持つ文化がとても根強く、使役しやすい小動物は魔獣として重宝されているまである。
だからこそノーラがわざわざ服を作って溺愛していても誰も文句も言わないし嫌悪することもない。
クリスがノーラの腕に上って肩までやってくる。どうやら彼も喜んでくれている様子で項に頭をこすりつけてフスフスとした鼻息が首筋にかかってくすぐった。
柔らかい毛並みにふれるとくすぐったくて身じろぎしてしまいそうになるがクリスがバランスを崩すと危険なので声を出して笑うに留める。
「くすぐったいよ、クリス。喜んでくれて良かったけどそこは、ダメッ、っふ、あはは」
「チチッ」
「笑ってる? もうやめてよ、クリスッたら」
そうしてノーラが笑うと、クリスは揶揄うように首の後ろを経由して右肩に行ったり、左肩に行ったりと忙しなく動き、柔らかい毛の塊が左右を移動して耐えきれなくなってノーラはそっと手で押さえて捕まえる。
「っ、こら! あまり揶揄わないで」
逃がさないように両手で包み込んで指の間からひょっこり顔を出すクリスを見つめる。
しかしそのつぶらな瞳を見つめているとどうしても愛おしさが湧きだしてきて頭を親指でよしよしと撫でた。
そんな穏やかな時間だったのだが慌てたようなノックの音が響いて、穏やかな時間にもノーラの平穏な人生にも幕を下ろしたのだった。
父は通夜のような顔つきをして、目の前にいるノーラとクリスに向っていた。
先ほどの荒々しいノックは急いでノーラを呼びに来た侍女のものであり、緊急の呼び出しにこうして来てみればなにやらとても深刻そうだった。
「お父さま? ……なにかこの間の件で不都合でもあったの?」
ノーラは父に問いかけて彼の座っている机に手をついた。
その手を伝ってクリスは机の上へと降り立ち、同じように父を見上げた。
この間の件というのは、航路の件ではない。
それについてはうまくいったという話を聞いているし、これで最近、豊作が続いているルーデンドルフ辺境伯家は安泰だという会話をしたばかりである。
けれどもそのあと、面白がった父は、ものは試しとばかりにクリスにとあるものを選ばせた。それは、我が国、アルフリート王家に対する贈り物だ。
近々、リベチア神聖国との会談を控えている王族への贈り物で年に一度の会談はとても大切な意味を持つ。
少しでも隣の大国であるリベチアの覚えめでたい存在になろうとアルフリート王族も必死だ。そんな王族に恩を売ろうと貴族たちも贈り物をする。
そういう意味のあるものなのだが、なにかとてつもない不都合があったという話だったらどうしようかとノーラは考える。
けれどもその考えはすぐに父の言葉によって否定された。
「いやそういうわけじゃない。そうじゃないんだ、ノーラ、ただヘクターとも話し合ったんだが厄介なことになったかもしれない」
「厄介なこと?」
「ああ……はぁ、ともかく安心してくれ、あの献上品はとても好評をもらったそうだ。それに気をよくしたリベチアの王族はなんと周辺国よりも優遇することを約束してくれたそうだ」
「……うそ、それって……」
「ああ」
リベチア神聖国は大国だ。
そして名前にもついているように神の遣いだという伝説もあるとても重要な外交相手、そんな彼らの好印象を得られたことはかつてないほどの幸運だろう。
リベチア神聖国の王家については非常に謎が多く、その神の遣いとしての力がより土地を豊かに堅牢にしているらしい。
そんな彼らの好みをこんな小国の一貴族が当てるというのは至難の業であり、ダメで元々の賭けみたいなもの。
しかしそんな可能性の低い博打が当たって、利益を約束されたも同然であるからしてルーデンドルフ辺境伯家にもその利益の分配がなされるだろう。
「とてもおめでたいことね。……でも、なんていうか……航路のこともあったし」
「ああ、ああそうなんだ。それで、つい、浮かれていた」
父は後悔するように顔をあげて苦しそうに言った。
「つい口を滑らせてしまったんだ。ノーラ、君の使い魔が幸運を呼ぶ選択肢を教えてくれるのだって」
「……」
「すまない」
ガクリと肩を落としてそういう彼にノーラは少しキョトンとして、それからほっと息をついた。
「なんだ、そんなこと? クリスが有能なのはいつものことだもの、いいのよ。魔法学園では私よりもクリスの方が頭がいいって皆が茶化していた」
「っ、そう、茶化されるだけならまだしも、私は……いや、これがただの思い過ごしの杞憂ならいいんだが」
「そうだと思うわ。お父さま、今は良い選択肢を教えてくれたクリスにお礼を言っていいチーズを食べさせてあげたいの」
「ああ、チーズぐらいいくらでも、クリスが食べきれないほどに買ってくれ」
父の了承を得てノーラは、やったと少し喜んで、クリスと喜びを分かち合おうとした。
しかしいつもだったらこちらを見て、一緒に喜んでくれるクリスが今日は父をじっと見つめていて、その様子に自分も少し危機感を持った方がいいのかもしれないとノーラは思ったのだった。
危機感を持つとしてもどういうふうに警戒をすればいいのか、いったい何を心配すればいいのかノーラはあまりピンと来ていなかった。
しかしその結論はすぐに出る。
王城での舞踏会のこと、ノーラは新しいクリスのマントを用意して望んだのだ。
そんな装飾には目もくれず、舞踏会のホールに入場したノーラの元に貴族たちが群がって、品定めするような目線を向ける。
「ルーデンドルフ辺境伯令嬢、いやはや今回のことは幸運でしたな」
一人の貴族が目を細めて口にする。
父の言葉を聞いて噂になっているのだろうと思い、ぎこちない笑みを返す。
「はい、けれど本当にただの偶然だと思います。クリスは普通の使い魔ですから、きっとお父さまの長年の勘がクリスの行動の解釈を広げて正解を拾い上げたのかもしれません」
こう言っておけば、父の失言があったとしてもきちんと彼の功績としてとらえられるだろうと思っての言葉だった。
しかし、その言葉を否定するように自身に満ち溢れた声が響く。
人々をかき分けるようにしてやってきた彼は、ノーラの婚約者であるルドルフだった。
けれども不思議なことに彼は、金の刺繍が施されたとても目立つジャケットを羽織っていて、その指にはいくつも大きな魔石のついた指輪がはめられている。
肩に乗っているクリスが「キッ」と小さく鳴いて嫌悪感を示した。
「そんなはずはない! そうだろう? ノーラ、お前は謙遜しているだけだ、俺は知っているぞ、魔法学園時代、お前の使い魔の頭が良すぎるなんて言う噂があった!」
「……それは」
「それに見てみろ、普通のネズミとは違ってその白い毛に神聖な炎のような瞳! まさしく幸運を運んでくるのにふさわしい! やっとその権能をあらわにしたんじゃないか!」
彼はまるで自分のことのように、周りの貴族たちに向って自慢するように言う。
ノーラの手を取って笑みを浮かべるルドルフの瞳に、ノーラは映っていない。
映っているのは肩に乗っているクリスのことだけだ。
「そうに違いない、ただ、悪いなお前らノーラは俺たちのモノなんだ、行こうノーラ!」
手を取られて人ごみを抜ける。そこには、これまた派手な恰好をして真っ赤な唇をこれでもかと吊り上げているルドルフの母ビアンカの姿があった。
「やっと来たわね、わたくしたちの希望の星、ノーラ! 本当によくやったわ。改めてあなたの母親になれること、わたくしは誇りに思うわ」
彼女とはまったく仲が良かったというわけでもないし、会ったことも数える程度だ。
それにむしろ息子の婚約者として敵対的な目線を向けられていたはずなのにルドルフとはさまれるようにビアンカの隣に座らされて、ノーラは肩をすくめて小さくなった。
「っ」
「さぁ、その幸運の魔獣を見せて! ああ、なんて可愛らしいの。皆様もそう思うでしょう?」
「ええ、その通り!」
「素晴らしいですわ、ビアンカ様」
彼女はグイッとノーラの肩を抱き留めて、クリスのことを鼻息荒く見つめてほめそやす。
その言葉に共鳴するように彼女の周りにいた同世代の貴族たちは声をあげた。
「みろ、ほらな、これで俺の地位も安泰だ。こんなに良いモノをルーデンドルフから奪ってしまうのは辺境伯に申し訳がないが、なんせ初めから決まっていたことだ! ノーラは俺の嫁、ノーラの魔獣だ、さて今日はいい酒が飲めそうだ」
「本当にその通りですね」
「さすが、ルドルフ!」
「ほら、次は誰が俺のグラスに酒を注ぐんだ? おっと、お前ら喧嘩するなよ、順番だ! 今日はこの後のイイ店まで全部俺のおごりなんだからついて来ればいくらでも機会はある!」
今度はルドルフに腰を抱かれて彼のグラスになみなみ注がれるワインを見つめる。間接照明の炎の明かりに透き通ってきらりと輝く。
軽やかなワルツの音は聞こえない。肩に乗っているクリスを手に乗せてそっと腿の上に置いた。
それから優しくなでる。
今日の彼のマントは二人で色とデザインを決めて、お披露目を楽しみにしていたのに。
「わたくし、今までは家の為に厳かな生活をしていたけれどそんな必要はなくなったのよ! これってまさしく、そういうことじゃないのかしら、つつましく我慢している人間にこそ福が訪れるのよ!」
「そうですわ」
「ビアンカ様の行動が招いたのよ!」
「だからこそ、わたくしは意地悪しないわ。皆の為にこの後は、わたくしの館で夜通し楽しみますわよ」
褒めてくれとは言わないけれども、ただひそかに今日の衣装は新しいものなのだと心が躍ればそれでよかった。
それなのに、右を見ればルドルフが、左を見ればビアンカが取り合うようにしてノーラのことを自慢して、息をつく暇もない。
父が恐れて嘆いていたことはこういうことだったのだ。たしかに慎重になるべきことだった。
つい先日会った時もルドルフは普通の人だったし、ビアンカはこんな様子ではなかった。
けれども二人とも箍が外れてもう元には戻ることはなさそうである。
それが少し残念で、ノーラはしずかに小さくため息をついたのだった。
舞踏会を終えてノーラはしずかに準備を進めていた。そんな中、ノーラの事情を知って一人の魔法使いが訪ねてきた。
彼はアレクシスと言って協会所属の魔法使いであり、クリスと使い魔の契約を結んでいるノーラにいろいろとアドバイスをくれたりおせっかいを焼いてくれる人である。
一応、魔法使いの先輩と言えばいいのかとも思うが、主に体色や体毛が白い動物についての研究に力を入れているらしく、クリスを譲ってくれと言われたこともあった。
なので純粋に先輩だと口にするのは難しい相手なのだが悪い人ではない。
それだけはたしかだった。
「……手放すことも一つの手だと、私は思うのですが、この際ですし」
応接室で向かい合って座ると彼はそう切り出した。
その言葉にノーラは顔をしかめる。
最近多いのだ、派手なルドルフやビアンカふるまいに感化されて少しでも恩恵を受けようと媚びてきたり将又、譲る気はないかと言ってくる人間もいる。
彼らのことをノーラは決して好意的には受け取れなかった。
「いや、気を悪くさせたいわけじゃないんです。ただなんと言いますか私の立場上どうしても……ですね」
「研究をしたいということは理解しているわ、でも私はクリスと離れる気はありません、少なくともクリスが望んでくれる限りは」
アレクシスにそういう自分の声は酷く不満そうに聞こえて、少し感じが悪かったかと反省して顔をあげる。
机の上にいるクリスはそれでもノーラに加勢するように「キーッ!」と鋭い声をあげた。
「ああ、そうですよね。そうだった、わかってはいるんです、でもそれなら解決手段が必要ではないですか? ノーラ様」
彼はクリスからの威嚇に怯えるように肩をすくめながらも、自分に都合の悪い話からすぐに切り替えてノーラにニコッと笑みを浮かべて提案した。
その言葉に一応、その通りだと頷く。
なんせ事は次第に大きくなっていく、しかしノーラはクリスと助け合いたいと思いつつも、彼を利用したいとは思っていないのだ。
だからこそ、それを示したい。
けれども取れる手段も手札も多くないのが事実だ。
できないことはないが、それでも足りない場合があるだろう。
「……そうね。なにか良い物でもあるの?」
「! ええ、それはもう。ぴったりのシロモノを、ただ、ノーラ様には少し胡散臭く思われるかもしれませんが……」
そう言って彼は従者へと視線を向ける。するとその従者はトランクを机の上に置き、ゆっくりと開いてノーラに見せた。
完全には開ききらないタイプのトランクで上側にはぎっちりとクッションが詰め込まれて丸い水晶が埋め込まれている。
下側には木の台座があり、どう使うのかは想像ができない。
「クリス様なら使うことが出来ます。そのための道具ですから」
「使う? 魔獣が使う魔法具なんて聞いたことがないけれど」
「リベチア神聖国から取り寄せた品です。これはいざというときの為に話し合いの席において置いてください、そうすれば、後はクリス様の望むようにできますから」
「そうなのね、わかったわ。アレクシスからの選別というつもりで受け取っておく」
「はい、それで構いません。どうかお気をつけて」
そう短く言葉を交わして、魔法具を受け取った。
ノーラが意味深な言葉にすぐに納得したのには理由がある。
ノーラがクリスを見つけたのは、任務の時に魔獣の生息地の森で見つけたから、ではなく領地の入り江にやってくるリベチアからの船に彼が商品として乗っていたからだ。
珍しい色で商人に買い付けられてきた異国の魔獣、それが、クリスだった。小さな檻の中で弱り切った彼が今にも死んでしまいそうだったのでノーラは彼を買うことにした。
つまりは、同じリベチア神聖国由来、その魔法具をクリスならいざというときに使える。
となれば彼のなにか特性を引き出す物かもしれない。
クリスは、あまり格の高い魔獣ではないために魔法属性を持たない。なのでノーラもクリスも正直戦闘には不向きなのだが、その特性を引き出せるものならあって損はないだろう。
それにクリスも否定しなかった。
きっとその方がいいと思ったのねと、クリスを見てみる。彼は「チィ」と語りかけるようにノーラに鳴いて見せたが、珍しくなにを言っているのか予想はつかないのだった。
ノーラは自分のために、そしてクリスのためにも、父と話し合いをしてルドルフとビアンカに再三の忠告をした。
しかし、予想通りと言ってしまえば予想通りなのだが彼らは忠告など気にせずに派手なふるまいを社交界で続けている。
その様子に決断し、ルーデンドルフ辺境伯邸に彼らを呼び出した。
ルドルフとノーラ、ビアンカと父が向かい合って座り、テーブルの一番中央、奥にはアレクシスから貰った魔法道具が鎮座している。
彼らは変わらずどこか浮足立った様子で「それで、なんの御用かしら?」と上機嫌に聞いた。
その言葉に父が用意していた書面を彼らに向けて机の上に出し、しずかな声で言った。
「今のエンゲルベルト伯爵家に娘を嫁にやるにはあまりに不安でね、こういう物を用意させてもらった」
それはざっと調べた程度でも上がってきた彼らの大きな買い物や支払いの終えていない買い付け、それから予想で用意されたエンゲルベルト伯爵家の収益に関する資料だ。
それらを鑑みるに最近の彼らの行動は、身の丈にあったものとは到底言えない。
しかしそれを見てもルドルフとビアンカは、ばれてしまったと青くなるでもなく、むしろ二人で目を合わせてさもとても可笑しなことがあったかのように笑った。
「なにを言っているんだ、辺境伯閣下、結婚も近い、まずはノーラの持参金で支払う予定だ。それからはその幸運の魔獣に頼ればいい」
「もうわたくし考えていますのよ、ソレには魔脈の探知をやらせるのがいいと思いますの」
「ああ、名案だ、俺は投資先を選ばせたいな!」
「ともかく、わたくしたちのほうでもうまく運用しますわ。だからそんな些末な支払いのことなど、指摘しないでくださいな。器がしれますわよ」
「それにいくら、ノーラが俺たちのモノになってしまうからと言っていちゃもんをつけようなどとはお笑い草だ」
そして父のことを笑う。彼らの視点ではそう見えたらしいが父はそんなことを考えているわけではない。
というか、前回からも思っていたが聞いていれば酷い話だ。
……だってそうでしょう。でもお父さまが言うには分が悪い、ここは私が意思表示しなければいけないところね。
そう、覚悟を決めてノーラは背筋を伸ばした。
「……そういう話をしているわけではないのです。ルドルフ、ビアンカ様」
ノーラが口を開いて父の代わりに指摘すると、彼らはまるで喋るべきではないものが喋ったかのように驚いて目を見開く。そもそもその反応がおかしいのだ。
「こういったふるまいをする人との今後に不安しかない、だからこそこの場で指摘したのです。再三の警告にも応じずに、散財をしているあなた達は、幸運などという不確かなものを信じ込んで大きな失敗をしないと言えますか?」
ノーラの言葉に、ビアンカはとても不愉快そうな顔をした。
ルドルフも同様だったが彼は、一応少し取り繕って、ぎこちない笑みを浮かべてノーラに言った。
「いや、一度でも成功すればいいんだ。そうだろ? それで俺たちは安泰だ。ルーデンドルフ辺境伯家は今回のことでどれだけ潤った? 本当はわかってるんだろ?」
「それは遠くから見ているからそう見えるだけです。実際は散財を続けていけばすぐに儲けなんてなくなるわ」
「それはお前の、場合だろ、いいんだ、俺らがちゃんと稼げるようにお前を使ってやるから」
ルドルフは、安心させる言葉のつもりでそう言っている様子だった。
けれどもノーラは到底そうは思えない。むしろ忌避感は強まるばかりだ、ルドルフのその言葉遣いの端々から感じる扱いの差。
女など、魔獣など、自分たちがうまく利用するためのモノでしかないと強く思っていることが伝わる。
「……今の使うという言葉できちんとわかったわ。私のことはクリスの付属品として見ているし、クリスは自分たちが得をするために利用して、好きにして、私やクリスのことなど主張などなにも加味しないのでしょう」
「おいおい、そこまで言ってないだろ」
「言っているも同然だわ。あなた達に取って、私もクリスもどういう存在か、話を聞いてわかった」
ノーラは腿に置いていた手をぎゅっとにぎって、ぐっと彼らを強く睨みつける。
「利用して、好きにして当然のモノなのね。意思も尊厳もないモノ、たしかにそんなお金を稼げそうな道具が手に入るのならばそうして自由に喜んでもいいのかもしれない」
「……」
「けれども、私はそんなことのためにクリスを使いたくない。この子をそんなことを強要される場所に置くつもりはないの。クリスはモノじゃない。彼が選んで私のそばにいてくれているだけ」
「た、たかが魔獣になにを言ってんだよ」
ルドルフは真剣に言うノーラを馬鹿にするようにそう指摘した。
「魔獣でも意思のあるものだわ。彼が私を助けてくれるから、私も彼を思いやってる。それが対等な関係というものでしょう。だからこそ私もクリスもモノ扱いされるような場所に行きたくない」
「は? ……じゃあ、どうするってんだ? 今更お前になにができる。もう結婚なんてすぐそこだ」
「あなたと結婚なんてするぐらいなら、世を捨てるわ。私、もしどうにもならずに結婚するようなことになっても、あなた達に得をさせるためにクリスをどうこうしたりしない」
「馬鹿じゃないのか、こんなモノのために」
「あなた達にとってはくだらないことでも、私にとっては重要なことだわ。私は私、クリスもクリス、意思があって、考えがあって誰とだって対等よ。それを履き違える様な人たちと一緒になんてやっていけるもんですか!」
ノーラが言い終えるとクリスも肩の上で「チィ!」と鳴いて加勢してくれる。
ノーラの言葉を彼も認めてくれた、それに安堵しつつ彼らの様子を窺う。
部屋は重たい沈黙に包まれて、それからしばらくしてビアンカが父に言った。
「金のなる木を手放したくないからって、む、娘をわざわざ教育しなおしたのかしら? 本当にがめつい!」
「そうだ! 心変わりするように教え込んだのだろう! 辺境伯閣下」
どうやらノーラの思いは正しく伝わることがなくノーラは自分の主張をしたのではなく父に操られてそう言ったと解釈される。
心の底からノーラのこともクリスのことも対等だと考えていない。そして、責められた父は苦々しい顔をして「本当にそれだけの話だとお思いか……」と呟くように半ば幻滅したように言った。
「それ以外に、どんな可能性があるんだ!」
父の言葉に真っ向から返すルドルフは目を見開きなんとか誰かのせいにして糾弾して、そしてノーラを手に入れるために言葉を紡ぐ。
ビアンカも大きく頷いてルドルフに加勢する。彼らは身分が上の相手に遠慮も忘れて唾を飛ばし、遠回しに罵る。
それに父は怒りを抑えて冷静に言葉を返す、そんな時間がしばらく続いた。
険悪な話し合いが続き息が詰まるようで、それでもこればかりは譲れないとノーラも顔をあげる。
すると肩からクリスがするすると降りていき、テーブルの上に降り立った。
クリスはノーラの視線をきちんと自分の方へと向けられているかと一度、振り返りそれから、テーブルの上に置かれているトランクの中へと入り込んだ。
……魔法具、本当に使い方がわかるのね。
彼のその迷いのない行動に、驚くが彼はトランクの中にある木の台座の中にちょこんと座る。
すると上部の水晶の中に光りの粒が集まって文字を生成した。
『ノーラ』
……私の名前……。
「う、うんっ」
クリスに視線を向けられて、すぐにこれは彼の言葉なのだと理解できた。
彼が言葉を発したということに対する驚きや、今までのノーラの言葉を理解してクリスもなにかを発しているのかもしれないという可能性が現実になったこと、それにももちろん驚いた。
しかし、魔獣の言葉を文字にする魔法具など聞いたこともないし、人間の言葉を理解できる魔獣というのはもっと高位の魔獣だけだ。
クリスにはそれが当てはまらないはずという思考もあり、混乱しつつも彼を見る。
『注目を集めて』
指示されて、ノーラは自身の混乱など二の次にして、どうにでもなれとばかりに口元に手を当てて「わっ!!」と大きな声を出した。
もっと他になにか言えばよかったかもしれないが、丁度いい言葉が思い浮かばず、彼らを脅かすような大声になってしまったことは申し訳がない。
突然大きな声を出したノーラの元に、すぐに三人の視線が集まる。そのままノーラはそばに置いたトランクへと視線を落とす。
「なんだこれ、文字が浮かんでいるぞ」
すぐにルドルフが反応し、それからビアンカも怪訝そうな顔をした。
『言葉を控えろ、君達は誰の前にいると思ってる』
「は?」
『話を聞いていればなんとも、醜い。私がなんであるか、それを誰も考えようともせず、自らが得をするために貶し合い、実に下らない』
そう言ってクリスは、ビアンカの方へとそのつぶらな瞳を向ける。
すると、やっとクリスが喋っているのだと理解できたらしいビアンカが信じられないものを見るような眼になって無言で固まった。
『私はただ、ほんの少し与えただけに過ぎない、この家の者に報いてやっただけに過ぎない』
光の文字はゆっくりと追記されていき、読み終わるころには消えて霧散する。
水晶の中の文字なので少し読みにくいが、しっかりと目で追っていく。
『それを、なにもしていない輩が横やりを入れて恩恵にあずかれるとでも? むしろ、この家の者に厄介をかけて侮辱する輩など私は邪魔にしか思わない』
「……」
「……」
『神聖なる力でむごたらしい最期を迎えたくなければ、去れ。愚か者どもめ、くだらん欲で私を煩わせるな』
そう言い終わるとクリスは「キーッ!」と威嚇するような声をあげる。
普段だったら、誰の反応も得られないその小さな威嚇に、二人はびくっと体を震わせて、得体のしれない技術にもクリスの言葉にもしばらく逡巡する。
そして彼らの頭の中にはきっと可能性が浮かんだに違いない。話をする魔獣は存在する。そして人と同等に話をできる魔獣はとても高位の魔獣で、竜や人をたくさん食べて魔力を吸収したものだ。
しかしそのどれでもないクリスがこんなに流暢に言葉を紡ぎ、恩寵を与えることが出来る。そして先日の舞踏会でルドルフ自身が言っていた通り、白い体毛に、神聖な炎のような真っ赤な瞳。
なにか本当に、怒らせてはいけないような力を持った得体のしれない、なにかでは無いか。
そして、ルドルフが先にソファーを立ち、挨拶もなしに駆け出した。
「あっ……」
そしてその後ろ姿を見てビアンカも混乱の中、応接室を出ていく。
部屋の中にはクリスと、ノーラ、父の三人が残る。そして疑惑も残る。
クリスが何者であるのか、今までもやけに賢いと思うこともあったし、この騒動の原因となった二つの事柄もある。
ただものではない、それは事実だった。
「…………」
「…………」
『と、それらしい文字を喋ったように表示する魔法具だよ』
ノーラと父の沈黙に苦し紛れの文字が表示される。
「そ、そうか、だろうな、そうでなければいや! なにも言わないぞ私は!」
そう言って父は自分を納得させ、ノーラもとりあえずはクリスを手に乗せて尻尾の先から耳のてっぺんまでくまなく見つめた。
なんの変化もなかったが、やはり疑惑は消えないのだった。
ルドルフとビアンカは、その後すぐに婚約解消に応じ、ノーラやクリスには一切の被害がなく今回の件を終えることが出来たのだが、彼らはそうもいかなかったらしい。
商人につけで買っていたアクセサリーや衣類に対する支払いを追われるのは当然として、内々に新しい屋敷の建設やリフォームについて発注していたらしくその支払いが重くのしかかっている。
破産寸前という様子らしいが、ノーラたちに話が回ってくることはなく平穏な日々が続いている。
けれどもノーラたちの方にも問題がある。
もちろんまったく気にしないということもできないわけではない。しかしわざわざやってきてくれたアレクシスがキラキラとした笑みで問いかけてきた。
「それで、これは使いましたか? どうでした?」
前のめりになって問いかけてくる彼に、ノーラは少し戸惑いながらも小さく頷く、それから口を開いた。
「うん。使ったわ。きちんとクリスが……それで、これは……その」
最後に表示された文字、喋っているように見えるような言葉を表示するだけの魔法具なのか、そう聞こうと考えた。
このままアレクシスに会わないならば、うやむやにしてしまってよかった、だってそれはクリスがそうであることを望んでいるということだろう。
ならば、ノーラはそれでいい、彼がなんだとしてもノーラにとってクリスはクリスだ。彼もノーラとともにいたいと望んでくれているのだからそれでいい。
しかし、ノーラの言葉にアレクシスはすぐに返した。
「ええ、魔獣の言葉を表示することのできる優れものです! リベチア神聖国では重宝されているのですよ。ただし、これを使えるのはただの魔獣ではありません。低級の魔獣は言葉を介しませんから、それはご存じですよね?」
「ええ、知っているわ」
「じゃあ、もう、隠し切れませんね?」
「……クリスの秘密を知っているの?」
アレクシスに問いかけるが彼が見ているのは机の上に乗ったクリスで、ノーラは彼が机の端に向かって走りだしたのを目で追った。
やはり彼の言葉を理解しているらしく、机からぴょんと飛び降りたところで、ふわっと魔法の光の粉が飛び散った。
「っ、」
光を纏ってて現れたのは、白髪に赤い目をした男性で、同じ貴族……というよりはもっと身分が上だろうと察せられる上品で装飾の多い服を着ている。
歳はノーラよりも少し上で、どこかはかなげが雰囲気のある、神秘的な人物だった。
「ああもう! 何年ぶりだと思っているんですか、人語を忘れてはいませんね!?」
「……忘れるわけないよ。ノーラはよく私に話かけるし」
「さぁもう逃げられませんよ、クリストハルト王子殿下。私とともに祖国に帰りましょう!」
アレクシスはついにやったとばかりに拳を握って笑みを浮かべながらクリス……もといクリストハルトの方へと向かい詰め寄った。
しかし、当のクリストハルト本人はとても残念そうな顔をしていてノーラのことを静かに見つめている。
「……」
「……」
そんな彼にノーラもなにも言葉が出ずに、ただ見つめ返した。
……つまり彼は、なに? 王子殿下? 隣国の? 特殊な魔法で動物に変身していた? そんな魔法、聞いたことがないわ。でもこうして変身したからにはありえないなんて言えない。
それに、リベチア神聖国は神の遣い一族だとも言われている、だから神様に遣える動物の姿を持っていると解釈できないこともないの? 動物が神様の遣いとして神聖視されていることは事実だけれど。
でもそんなことある? そんなこと誰が想像するっていうの?
でも目の前にクリスはいるし、え、でも彼はクリスでクリスは彼なの??
「ノーラ」
混乱する思考の中に、クリストハルトの声が響く、静かで男性らしくて、あの可愛い小さな鳴き声ではない声がノーラを呼ぶ。
彼は名前を呼んでからすこし迷ってそれから、言い訳をするように口にした。
「……私の姿は、魔獣を使役する文化のないリベチアでは、一番縁起が悪いものなんだよ。病気を媒介し、食物を荒らす害獣、そんな姿を持った王子は不要だ。それはなにも変わっていないよ、アレクシス」
「いいえ、だとしても失踪されているままでは困ります。正式な手続きをしてくださらなければ」
「嫌だよ。あの人たち頭が固いから、他国に出ることなんて許しやしないだろ」
「それでも、筋を通すべきです。でなければ私のように王子の行方を捜し続ける不憫な魔法使いが生まれるのですから!」
「それは、悪かったって」
理由があってこちらへと渡ってきて、たまたまノーラと出会ったということだろうかと彼らの話を聞いていて理解する。
しかし、到底、即座に受け入れられるものでは無く、ノーラは固まったままだった。
「でも、ここにいたいんだ。……ノーラは私のことをモノではないというけれど、私はそうじゃないよ。ノーラ」
彼は跪いてノーラの手を取る。そっと握られた手はノーラよりも大きくて明らかに人である。
「私はノーラが望むなら誰に利用されてもいい、ノーラ、あのね。私はノーラのモノでいい、ノーラのモノでいたい」
ノーラ、ノーラと彼はよくノーラの名前を呼ぶ。まるで小さな魔獣の姿をしていたあの時のように。
彼はあの時と何ら変わらず、ただ体が大きくなってしまっただけのクリスなのかもしれない。ノーラはそう考えることによってどうにか自分の混乱に決着をつけようとした。
「……ダメかな」
しかしノーラの手を額に当てて懇願する彼のひたいと髪の感触は、まったくもって大人の男性で、今までの彼との生活が頭の中を駆け巡った。
一緒に楽しく服を作った思い出、共に眠ったあの夜、体を洗ってあげたあの日、寒い日には彼が冷えないようにドレスの胸元に入れていたこともあった。
一緒にお風呂に入ったことすらある!!
キスをして頭を撫でてずっとそばにいた。
それが、彼だった。それは間違いなくアウトである。
けれども同時に彼は彼で、大切なクリスなのだと思うとノーラは恥ずかしいやらなにやら、もうわからなくなって顔が馬鹿みたいに熱くなった。
「っ、……ぅ……っ~、わ、わからない!」
そう言って目をつむる。それから手を放して応接室を飛び出した。
「ノーラ!」
背後からまた彼の呼ぶ声がして、振り返りたくなるけれどどうしようもなくて走った。
でも彼の呼ぶ声にノーラはきちんと振り返りたくなった。それを自分の足が止まってしまいそうになるので感じる。
彼の声で呼ばれてクリスに呼ばれたとノーラはすぐに判断した。だから、小さな体ではノーラを追いかけることは難しいだろうと反射的にいつものように思い、彼に呼ばれたら振り返りたくなるのだ。
「っ、はっ、っ」
息を切らして廊下を走る。
それでも止まらなかったのはきっとただ、感情を吐き出す方法がわからなかったからだ。だから走るなんて安直だけれど「あーっ!」と声を出して走れば暴走しそうな感情は消えていく。
咄嗟に呼ばれて、行かなければと思う、その相手がクリスでなくて何だというのだろうか。
ノーラの中ですでに答えは出ているも同然だった。
だからこそ使用人たちにお嬢様は何をしているのかと不思議に思われながらも一頻り、感情を発散して廊下を駆け抜けて、それからやっと落ち着くと、結局彼らのいる応接室へとノーラは戻ることにした。
彼を……クリストハルトを、クリスとして知るために、クリスのそのノーラのモノでいたいとすら願うその深い献身にも似た思いを知って向き合うために。
彼とノーラは対等なのだ、知ることが出来ることはとても尊い。彼も私もモノではないから向き合って分かり合えるのだ。
そうして、また扉を開いて、顔が熱くなってもノーラはクリストハルトに話しかけることにしたのだった。
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