響くん、付き合ってよ
唖然とする俺と瑠生を見て、ニコニコと笑いながら「あんまり人の家、汚したくないんだよね。片付けが面倒だから」と言う宇佐神さんは、汚したくないと言いながらも土足で部屋に上がってきた。その理由はこのあとすぐに分かる。
一体誰なのか、という考えと、一体これから何が起こるのか、という考えで瑠生も俺も黙ったまま宇佐神さんの行動をジッと追ってしまう。
ゆっくりと宇佐神さんがキッチンに移動していく、そして、シンク近くのホルダーに刺さっていた包丁をおもむろに手に取った。
「え?」
そう言ったのは俺に馬乗りになっていた瑠生だった。
「さて移動してもらおうか」
宇佐神さんが瑠生の鼻先に包丁を突き付けたのだ。ニコニコと表情は変えないが、その瞳から放たれる殺気は凄まじく、これは本気だと思った瑠生が俺の上から飛び退き、ジリジリと後ろに追い詰められていく。
向かう先は玄関ではなく、お風呂場で……
「うわぁ!」
しばらくして、血だらけになった瑠生が顔面に恐怖を貼り付けた状態でお風呂場から飛び出して来て、玄関の外に一直線に走って逃げていった。
怯えながらも一体何があったのか、と恐る恐るお風呂場に向かう俺。
近付いていくとポタポタと雫が下に落ちる音が聞こえてきた。その音を聞きながら狭い脱衣場からお風呂場を覗き込むと、こちらを振り返る宇佐神さんと目が合った。そして
「響くん、僕と付き合ってよ」
彼は手に持ったナイフを顔の横に持ち上げ、血に塗れた姿でニコニコと笑った。
「ひぃっ!」
――こ、この人! サイコパスだ! 人殺しだ! こ、ここ、殺される!
恐怖を感じて、俺はその場から動けなくなった。
「その顔……嫌だな、もしかして、僕が本当に人を傷付けたと思った? 僕も一応れっきとした人間だよ?」
宇佐神さんが表情を変えることなく言う。
そんな彼に怯えながらも「そ、それ、何も否定してないですよ! ただ“自分人間ですよ”って言っただけですよ!」と、心の中で何故かツッコミを入れられる自分に驚いた。
「これね、豚の血。お肉の加工屋さんで仲良くしてくれてる人が居てさ、映画撮ってる友達が欲しいって言ってるって伝えたら用意してくれて、準備しておいて良かったなぁ。君の誕生日も聞いておいて良かった。あ、でも部屋のロックに誕生日を使うのはちょっと危険だね」
パクパクと口を動かすだけの俺に対して、説明をしながら宇佐神さんは一層キラキラとした顔でニコッと笑い、「お風呂借りるね」と普通に人の家のお風呂に入り始めた。
その間、俺は自分の心を落ち着かせるためと単純に部屋が汚れたために床に落ちた豚の血を雑巾で拭く羽目になり、宇佐神さんがバスタオルを腰に巻いただけの状態でお風呂から出て来たときにはソファでぐったりとなっていた。
警察に通報しなかったのは、瑠生は消え、冷静になってちゃんと考えてみたら宇佐神さんが俺を助けてくれたってことだけは分かったから。
「……」
そっと宇佐神さんが俺の隣に腰を下ろす。沈黙が流れる。
――なんだ、この状況。
三重野を好きなことから分かるように俺の恋愛対象は男だ。恋人でもなんでもない今日知り合ったイケメンが半裸で自分の横に座っている、という状況にドギマギしてしまう。たとえ、宇佐神さんがぜんぜん俺のタイプじゃないとしても。
そんな空気に気が付いたのか、宇佐神さんから口を開いた。
「ねえ、響くんの服貸してくれないかな? バスタオルだけだと変質者になっちゃうから」
――この人、何言ってんの? 俺の服なんか着たら明らかに変態になるじゃんかよ。帰れなくなるじゃんかよ。
俺と宇佐神さんではサイズが違いすぎる。
パツパツだし、へそが見えて、明らかに渋谷のギャルになるだろう。
「いや、俺の服だと小さいし、瑠生の服があるんで、それ着てください」
と言いつつ、宇佐神さんの方を見ることなく立ち上がり、隣の部屋のクローゼットに入っていた瑠生のジャージを取り出して戻ってくる。そして、それを差し出すときに半裸の宇佐神さんの胸元に目立つ大きな傷跡のようなものがあって少しビクッとしてしまった。
――これ、これは刺し傷の跡では……? 一体、何者なんだ? このヒト……。