初恋プレリュード
テーマ:これからもよろしく
「どうしたの、たかちゃん。珍しいね、こんなとこいるなんて」
今でも時々、夢に見る。それは、初恋の夢。
「学校の、部活で来たの」
「そうなんだ」
昔の想い出がそのまま夢になっているわけじゃない。大きくなって、背の伸びたゆーくんがいる。脈絡もない再会を喜んでいる。ただ、それだけだ。
「ね、一緒に写真撮ろう」
「えー、仕方ないなあ」
嫌いな写真も、ゆーくんが言うから一緒に撮ることにした。ゆーくんと一緒に写った写真があるのは嬉しかったから。
「ねえ、ゆーくん、今、どこにいるの?」
「どこって、戻って来たんだよ」
「そうなの?」
「うん、だからまた遊べるね」
ゆーくんが笑うと、えくぼができて、ちょっとだけ八重歯が覗いて、可愛かった。その笑顔が好きだった。
「あ、そうだ、たかちゃん――」
小学生のときの、初恋だ。
叶わなかった初恋は、今でも綺麗なまま、私の中に遺っている。
“スクールカースト”。誰が思いついたか知らないけれど、天才だと思う。
ホームルームの前、教科書を片付けついでに、ぱら、ぱら、と捲り、カースト制度という太字に目を留めた。制度内では、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラと身分が名付けられる。どれも生まれつき決められていて、生きてる限り、それが変わる余地はない。
スクールカーストだってそうだ。陽キャでないと上位にはいられないのに、その性質は生まれ持ったもので、陰キャがどう足掻いたって陽キャにはなれない。なんなら、足掻いているのを見られたら“イタい(笑)”なんて指をさされてカースト最下位に転落してしまう。それでもって、カースト上位でいるためには見た目も大事だ。
結論、学校生活というのは、身だしなみの整え方と身の振り方を自然と身に着けていない私のような人に、頼んでもない荒療治を施すものだ。
「たーかよー」
顔を上げると、廊下から大きく手を振る詩織がいた。
「なに?」
「なに、じゃねーだろ、会いに来てやったんだよ!」
ほらほら、上手くやってんのか? そうとでも言いたげに小突かれ、思わず笑った。
「いや、別に。陰キャは陰キャらしく大人しくしてる」
「はあ? お前別に陰キャじゃねーだろ?」
「で、詩織は何しに来たの」
「だから、お前の様子を見に来てやったんだよ! まだ友達いねーの?」
ひょいと教室内を覗き込んで見回してみせる。すると、詩織に気付いた人たちが何人かこちらを向く。
「あれ、詩織じゃん」
「何してんの?」
「いやー、コイツ、中学から一緒なんだけどさ、ちゃんとやってんのか見に来たわ!」
口調も仕草も男みたいに私を指差す。途端、まだ話したこともないクラスメイトがわらわらと寄ってきて「えー、詩織と友達なの? なんか意外」「詩織って本当、誰とでも仲良いな」《《詩織》》《《と》》、親し気に言葉を交わす。詩織も詩織で「ま、アタシだからな!」とその場の空気を全部掻っ攫って、それでいて「コイツ、暗いけど悪いヤツじゃないよ」なんて私を引き込もうとする。どう反応すればいいのか分からなかったので、私は何も言えなかった。
そんな詩織が「じゃーな、鷹陽、また来るわ!」と去り際に私の苗字を呼んだことで「あ、そういえばこの人って鷹陽って名前だったな」なんて空気が漂う。圧倒的スクールカースト上位の詩織と圧倒的スクールカースト下位である私は、こんなにも分かりやすく太陽と月だ。
詩織が漫画の主人公だとしたら、私はよくて親友その2くらいのモブで、でもそれでいいと思う。サイドストーリーも作ってもらえなくていい、描かれない物語の中で、私はそれなりに楽しく平和に学校生活を送る。みんなに誉めそやされるよりも、声の大きい誰かに嫌われないことのほうが大切だから。そしてそのためには、本当は、詩織のような太陽にさえ照らされないほうがいい。
そんな守りの態勢に入っている私を嘲笑うかのようなイベントが、ホームルームで起こった。
「よろしくね、鷹陽さん」
じゃんけんで負けて風紀委員をすることになった、そこまでは渋々頷くこともできたけれど、同じく風紀委員を務める男子が、獅真悠都に決まった。穏やかに微笑むその綺麗な顔を前に、内心では苦虫を噛み潰した。
獅真悠都。高身長、イケメン、サッカー部、陽キャ。指折り挙げるステータスはどれもこれも優れていて、ここまで典型的なスクールカースト上位者がいて堪るかと辟易したくなる。だから、ド陰キャの私にとって、高校生活で関わりたくない人・第1位に輝いている。
「……よろしく」
心からよろしくしたくなかったけれど、仕方がない。どうせ委員会のとき以外に関わりなんてないんだ、そう割り切って早速一緒に風紀委員会に顔を出し、教室に戻った後。
「ねえ、鷹陽さん。俺のこと、覚えてる?」
西日が差し込む、誰もいない教室で、唐突かつ不穏なセリフに目を丸くした。
「……覚えてる、って」
「覚えてない?」
そっと机に手を置き、緩く、その口元が弧を描く。
「“たかちゃん”」
そして、その呼び名をトリガーとしたかのように、一瞬で脳裏に蘇った光景に、愕然とした。
獅真は、私を嗤うでも嘲るでもなく、ただ悪戯っぽく笑った。
「ただいま、“たかちゃん”。帰って来たよ」
『たかちゃん』
今でも時々見る、初恋の夢。
初恋を引き摺ってるとか、そんなんじゃなくて、何もなかったから綺麗なままで遺っているだけの恋。
『ばいばい、たかちゃん』
急でもなんでもなく、ごく自然に決まったらしい転校は、哀しかったし寂しかった。でも、それに涙を流すほど、私の恋は成熟していなかった。
だから、今でも、あれは確かに恋だったと思うけど、その反面、本当に恋だったのかなあと、想いを巡らせる。答えが出ることのないその想像は、私を無条件に切ない気持ちに落とす。その切なさは、宝物みたいなものだった。答えが出ないということは、美しいままでいてくれるということだから。
だから、綺麗なままで遺しておきたかった。
「これからもよろしくね」
ずっと、ずっと、綺麗なままだったはずの初恋が。
「……嘘」
大嫌いなカースト上位に、塗り潰される。
「おはよう、たかちゃん」
謀ったように同時に家から出てきた獅真に、思わず苦虫を噛み潰した。
「風紀委員の集まりが8時だから、逆算したら家を出る時間が同じになるのは仕方ないよね?」
「人の心を読むんじゃない」
「だってあからさまにイヤそうな顔するから。たかちゃん、本当に俺のこと嫌いなんだね」
委員会決めをした日と同じく、そう口にした獅真は私に嫌われていることをこれっぽちも気に病んでいないらしい。イケメン様の顔は今日も涼し気だった。
「……その呼び方、やめろ」
「たかちゃん呼び?」
「そう」
「なんで?」
「昔の話だから」
だから何だというわけだけれど、私としては、初恋を獅真で塗り潰されたくない。
いや、私の初恋は獅真だから、塗り潰すも何もないわけだけれど、私が好きになったのは《《あの》》《《時の》》《《獅真》》であって、《《今の》》《《獅真》》ではない。それなのに、今の獅真が私のことを“たかちゃん”と呼ぶのは間違っている気がした。
「でも、じゃあなんて呼んでほしいの?」
「普通に、苗字で呼べばいい」
「鷹陽さん、って? 余所余所しくない?」
「それでいいだろ」
「……ふーん。《《鷹陽》》《《さん》》、変わったね」
「なにが?」
確かに、たったそれだけで随分と余所余所しくなった。安心して返事ができたし、心なしか、我ながら言葉の棘が取れたような気もする。
「男っぽい喋り方とか」
「兄と弟の影響で」
「俺のこと嫌いになったこととか」
「嫌いじゃない、苦手なだけ」
昔話をしよう。獅真は、小学1年生のときに引っ越してきて、1年間だけ同じクラスだった。獅真が住んでいたマンションがうちのすぐ近くにあって、獅真の弟が私の弟と同じ幼稚園だったこともあって、母親同士の仲が良かった。私と獅真と、私の弟と獅真の弟で、よく一緒に遊んでいた。私は、いつも一緒にいる獅真をごく自然に好きになった。
昔話を終わり、今の話をしよう。昨晩、仕事の都合で挨拶が遅くなってしまったなんてお詫びと一緒に、獅真一家が挨拶に来た。母親同士も弟達も、まるで旧友のように意気投合していた。獅真はたまに母親達の会話に混ざっていた。私は母親の隣で無言を貫いた。
「なんで苦手なの。昔はあんなに仲良かったのに」
「昔と変わったから」
「そう? どこが?」
「……八重歯じゃなくなった」
「ああ、転校してすぐ矯正したから」
苦し紛れに絞り出した特徴は、実際、“ゆーくん”と“獅真”との顕著な違いだった。昔は笑うたびにえくぼと八重歯が可愛かったのに、今はまるで芸能人のようにぴしいっと揃った歯を見せつけられるだけ。
もちろん、変わってないところだってある。昔から鼻は高かった。昔から目はくりんとしていた。昔から髪の毛はふわふわのさらさらだった。昔から肌は綺麗だった。ただ、今となっては、それが全部、イケメンの構成要素になってしまっているだけだ。
その全てが、残念というか、私をがっかりさせるというか。なんというか、とにかく奇妙な疎外感を抱かせるのに充分なのだ。
「鷹陽さんも」獅真は少し目を伏せて「変わったね。昔は、もっと笑ってくれた」
「気のせいだろ」
無知で無垢だったから、締まりなくへらへら笑っていただけだ。
「……鷹陽さんは、俺のこと、覚えてなかったの?」
「……なに?」
ホームで電車を待っているとき、ぽつりと、獅真らしくない自信なさげな声が聞こえた。
「だって、俺のことは分かってたんでしょ」
「分かってたってなんだよ」
「獅真悠都ってクラスメイトがいることは、分かってたんでしょ?」
念押しするように、その声音は少し変わった。
確かに、獅真悠都という人物を認識するのは早かった。いつも友達に囲まれていて、入学式のときから目立っていたし、みんなが「獅真」と呼ぶから、「あの人は獅真というんだ」と知っていた。特に気にかけたわけではなかったけれど、獅真の名前が悠都だということも知っていた。いかにもリア充みたいなスクールカースト上位に君臨する男子だったから、その動向を意識しているところがあった。だから「獅真悠都」というクラスメイトの存在はずっと分かっていた。
「……まあ、カースト上位は目立つからな」
「でも、昔遊んでた俺だとは分からなかった」
「雰囲気が変わってたからな」
「同姓同名だよ? そんなにありふれた名前でもないと思うけど」
「同姓同名でも別人だと思うくらい、獅真とゆーくんは違ったんだよ」
「鷹陽さんの中で、俺と“ゆーくん”は別なわけ?」
「そうだよ」
満員電車の中で離れ離れになりたい、そう期待したのに、滑り込んできた電車はいつもより空いていた。いつもより少し早い時間に出たせいだった。
「だから私は獅真をゆーくんと呼ぶつもりはないし、昔仲が良かったから今でもどうとは思わない」
「……ふーん」
仕方なく乗り込んだ車両では、扉を背に立つ私の前に獅真が立つ。
まるで彼氏と彼女のような距離感で、イヤだった。感じ悪く、あからさまに視線を背けた。
「……ところで、鷹陽さんって友達いないの?」
「急に話題変えた挙句、失礼の極みかよ」
「いつも教室で1人だなって、ふと気になって」
「見てんじゃねーよ、ストーカーかお前は」
「初恋の女の子に再会したら、気になるもんじゃない?」
予想外のセリフに、顔を上げてしまった。
「そうでしょ?」
畳みかけてくる獅真に、心の中で湧き上がった動揺と、何より嬉しさとを見抜かれないように、必死で仏頂面をした。
「……別に」
「鷹陽さんは気付かなかったらしいけど、俺はすぐに分かったよ」
――いくら小学1年生だったといっても、初恋の人のフルネームは漢字も含めて忘れるはずがない。獅真悠都という字面を見た瞬間に「ゆーくんと同じ名前だ」と驚いて、なんならゆーくんが帰ってきたのかもしれないと期待した。
それでも、獅真本人を見て、落胆した。あんなのはゆーくんじゃない、別人だ――あんなのがゆーくんだなんてイヤだ、と。
「座席表に貼ってある名前を見て、すぐに気付いた。後ろから見える横顔は、少し大人っぽくなったなって思ってた。俺には全然気づいてくれないから、もう忘れちゃったのかなって思ってた」
そんな現実逃避をしていた私は、獅真が私に話しかけてこないことに安心と落胆を感じていた。ああよかった、やっぱり獅真は“ゆーくん”じゃないんだ、そんな安心と、獅真は“ゆーくん”で、でも今の私達はカーストが違うから関わってくれないのかもしれない、そんな落胆を。
「あの頃──このまま仲良くずっと一緒にいるんだって思ってた頃、本当にあのままずっと一緒にいられたら何か違ったのかなって思ってたよ。俺は」
「言ったでしょ、鷹陽さん。これから《《も》》よろしくねって」
「せっかく再会したんだから、小学2年生から中学3年生までの空白を埋めさせてよ。そうすれば、鷹陽さんの中で、“ゆーくん”と俺が同じになるでしょ?」
叶わなかった初恋は、引き摺っていないはずなのに、心の中に遺り続けている。
「……なるもんか」
「獅真だって言ったろ、あのままずっと一緒にいられたら何か違ったのかって。反実仮想だ、現実は一緒にいなかったから、これだ」
「でも、あれ以来会ってなかった」
でも現実は違う。獅真が強調したように、私はそうは感じなかった。
「私達が一緒にいたのは昔の話だ。私が一緒に遊んでたのは“ゆーくん”だ。獅真じゃない」
獅真は肯定も否定もしなかった。
「獅真の初恋なんか、知ったことじゃない。それはもう終わった話だ。そうだろ」
私達は違うカーストにいるのだから。
「……そうだね」
だから、私達の初恋は始まらない。
「どうしたの、たかちゃん。珍しいね、こんなとこいるなんて」
今でも時々、夢に見る。それは、初恋の夢。
「学校の、部活で来たの」
「そうなんだ」
昔の想い出がそのまま夢になっているわけじゃない。大きくなって、背の伸びたゆーくんがいる。脈絡もない再会を喜んでいる。ただ、それだけだ。
「ね、一緒に写真撮ろう」
「えー、仕方ないなあ」
嫌いな写真も、ゆーくんが言うから一緒に撮ることにした。ゆーくんと一緒に写った写真があるのは嬉しかったから。
「ねえ、ゆーくん、今、どこにいるの?」
「どこって、戻って来たんだよ」
「そうなの?」
「うん、だからまた遊べるね」
ゆーくんが笑うと、えくぼができて、ちょっとだけ八重歯が覗いて、可愛かった。その笑顔が好きだった。
「あ、そうだ、たかちゃん――」
小学生のときの、初恋だ。
叶わなかった初恋は、今でも綺麗なまま、私の中に遺っている。
“スクールカースト”。誰が思いついたか知らないけれど、天才だと思う。
ぱら、ぱら、と教科書を捲り、カースト制度という太字に目を留めた。制度内では、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラと身分が名付けられる。どれも生まれつき決められていて、生きてる限り、それが変わる余地はない。
スクールカーストだってそうだ。陽キャでないと上位にはいられないのに、その性質は生まれ持ったもので、陰キャがどう足掻いたって陽キャにはなれない。なんなら、足掻いているのを見られたら“イタい(笑)”なんて指をさされてカースト最下位に転落してしまう。それでもって、カースト上位でいるためには見た目も大事だ。
結論、学校生活というのは、身だしなみの整え方と身の振り方を自然と身に着けていない私のような人に、頼んでもない荒療治を施すものだ。
「えーと、あとは風紀委員が男女両方で、保健委員が男1人」
視線を上げると、ホームルームの終了時刻を20分も過ぎていた。教壇にはクラス委員になった2人が立ち、どうにもこうにも埋まらないその3枠に困った顔をしている。
黒板に書かれた他の委員の下には、錚々《そうそう》たる面々ともいうべきカースト上位の方々の名前が並んでいた。中学のときもそうだった、委員会に立候補するのはカースト上位の方々ばかり、それでもって、ホームルームを長引かせる委員会には、最終的にカースト下位が宛がわれる。
「決まらんなあ、仕方ない」担任の先生がパイプ椅子の上で体を揺らし「委員会に入ってない男女で分かれて、話し合って決めなさい」……お決まりの提案をした。
ガタガタと気だるそうな椅子の音と共に教室の後ろに女子の塊ができる。案の定、口火を切るのはカースト上位の方で、「風紀とか、真面目な人がやればいんじゃね」と私達カースト下位に視線を向ける。彼女達のいう“真面目”は、校則通りに制服を着ている“面白みのない人”だ。
学校の“話し合い”はいつだってそうだ、カースト上位の方々の圧を下々が一身に受けて唯々諾々と従うだけの、ただの圧力会議。
「……はい」
威圧感のある彼女達に逆らう気がないことを示すために、そっと手を挙げた。
「じゃあ、私、風紀やります」
「お、鷹陽さんマジ?」
「ありがとー!」
「せんせー、風紀の女子、鷹陽さんで決まりましたー」
「そうか、じゃあ女子は帰ってよし」
明るく変わった面々にほっと胸を撫で下ろす。面倒ごとを引き受けることになってしまったけれど、カースト上位の方々に睨まれ続けるよりマシだし、じゃんけんでもしてカースト上位の人に貧乏くじを引かせてしまうわけにはいかない。そんな事態になって「あのとき鷹陽さんとかがやってくれればよかったのになー」なんて言われてしまうより、3ヶ月間黙々と働くほうがまだマシだ。
そう割り切っていたのに、教室を出た後「鷹陽さん」――とんでもない人に声をかけられ、ギョッと目を剥いた。
クラス随一どころか学年で一、二を争うカースト上位の男子が、そこにいた。
「……何?」
「そんな顔しないで、傷つくから」
顔には“ゲッ”とでも書かれたのだと思う。そのくせ、飄々とした顔には“傷付いた”なんて感情は微塵も見えなかった。
「あのね、風紀委員、早速明日の朝に集まりあるんだって。先生が伝え忘れたから、鷹陽さんにも伝えてって」
「あー……うん……ありがとう……」
だからって、よりによってこんなヤツに言伝を頼まなくてもいいのに。もっと適当なモブっぽい男子に頼んでほしかった。頭には、細い目に丸メガネをかけた名前も知らないクラスメイトが浮かんだ。
「だから、明日からよろしくね」
「……え、何が」
嫌な予感を声で表現したのに、それをものともせずににっこりと微笑まれた。きっと持ち前の顔面偏差値で笑って許されてきた人種なんだろう、これだからカースト上位とは相容れない。
「俺も風紀委員だから、明日からよろしくね」
――人生はクソだ。心の中で、シンプルにして最大級の悪態を吐いた。
獅真悠都。高身長、イケメン、サッカー部、陽キャ。指折り挙げるステータスはどれもこれも優れていて、ここまで典型的なスクールカースト上位者がいて堪るかと辟易したくなる。だから、ド陰キャの私にとって、高校生活で関わりたくない人・第1位に輝いている。
それが、1学期中同じ風紀委員をすることになるなんて。空気を読んだ数分前の自分を殴りたくなった。
「……どうも。じゃ」
「鷹陽さん、どこらへんに住んでるの?」
校舎を出ると、曇天の下、地面からのぼってきた土の匂いが鼻をつく。挨拶もそこそこに逃げようとしたけれど、獅真は颯爽と隣に並んだ。
「……保科町」
「じゃあ近くだ。俺も保科町だから」
「え」
「何で嫌そうなの」
「いや、別に……」
親しみやすいというべきか、馴れ馴れしいというべきか。きっと獅真みたいな陽キャがやれば前者で、私が同じことをやれば後者だ。
「……中学は違ったなと思って」
「ん?」
「保科中学に、いなかっただろ、獅真は」
「ああ、うん。先週、引っ越してきたばっかりだから」
「……あ、そう」
「最寄は? 保科駅と更科駅と」
「……更科のほう」
「そうなんだ、じゃあ俺と一緒。朝も会うかもね」
カースト上位と一緒に登校なんて拷問もいいところだ。明日から通学時間を極端に早いか遅いかのどちらかに変えることを決めた。
そんな私の気などいざ知らず、カースト上位は駅についても電車に乗っても喋り続けた。穏やかな調子と笑顔を崩さず、他愛のない、それでいてつまらなくはない話をずっとしていた。私相手でも延々と話を続けられるなんて、このコミュ力はまごうことなきカースト上位だ、そんな感想を抱きながら相槌を打ち続けた。
「……獅真は」
「ん?」
「家、こっちで間違いないのか」
「うん、間違ってないよ」
カースト上位と駅から家に帰るまでの道が同じだなんて、運が悪いにもほどがある。少女漫画なら諸手を挙げて歓迎する偶然かもしれないけれど、私はそんなの求めてない。運命の出会いをするならスクールカースト中位くらいがよかった。よりによって、こんな、スクールカースト最上位にいる男子なんか……。
「鷹陽さん、俺、ここだから」
それどころか、獅真くんが足を止めた玄関先は、私の家の隣だった。
「……嘘」
「嘘、って」カースト上位はクスクスと可笑しそうに笑みを零して「鷹陽さん、俺のこと嫌いだよね」……発言内容に対して余裕のある態度をみせる。
「……人見知りなだけだよ」
「そう。じゃあこれから仲良くなれるといいね」
玄関扉に手をかけたままこっちを見るその姿が、無駄に絵になって、余計に自分との格差を感じた。
「……そうだな」
獅真くんは関わりたくない人・第1位だし、私が関わり合いになるべきではない人・第1位でもある。改めて確信しながら、心にもない返事と一緒に玄関扉に手を伸ばそうとして――。
「ねえ、鷹陽さん。俺のこと、覚えてる?」
……何? 不穏なセリフに、つい視線を戻してしまった。
「……覚えてる、って」
「“たかちゃん”」
そして、その呼び名をトリガーとしたかのように、一瞬で脳裏に蘇った光景に、愕然とした。
獅真くんは、私を嗤うでも嘲るでもなく、ただ悪戯っぽく笑った。
「ただいま、“たかちゃん”。帰って来たよ」
『たかちゃん』
今でも時々見る、初恋の夢。
初恋を引き摺ってるとか、そんなんじゃなくて、何もなかったから綺麗なままで遺っているだけの恋。
『ばいばい、たかちゃん』
急でもなんでもなく、ごく自然に決まったらしい転校は、哀しかったし寂しかった。でも、それに涙を流すほど、私の恋は成熟していなかった。
だから、今でも、あれは確かに恋だったと思うけど、その反面、本当に恋だったのかなあと、想いを巡らせる。答えが出ることのないその想像は、私を無条件に切ない気持ちに落とす。その切なさは、宝物みたいなものだった。答えが出ないということは、美しいままでいてくれるということだから。
だから、綺麗なままで遺しておきたかった。
「これからもよろしくね」
ずっと、ずっと、綺麗なままだったはずの初恋が。
「……嘘」
大嫌いなカースト上位に、塗り潰される。
「おはよう、たかちゃん」
謀ったように同時に家から出てきた獅真に、思わず苦虫を噛み潰した。
「風紀委員の集まりが8時だから、逆算したら家を出る時間が同じになるのは仕方ないよね?」
「人の心を読むんじゃない」
「だってあからさまにイヤそうな顔するから。たかちゃん、本当に俺のこと嫌いなんだね」
昨日と同じく、そう口にした獅真は私に嫌われていることをこれっぽちも気に病んでいないらしい。イケメン様の顔は今日も涼し気だった。
「……その呼び方、やめろ」
「たかちゃん呼び?」
「そう」
「なんで?」
「昔の話だから」
だから何だというわけだけれど、私としては、初恋を獅真で塗り潰されたくない。
いや、私の初恋は獅真だから、塗り潰すも何もないわけだけれど、私が好きになったのは《《あの》》《《時の》》《《獅真》》であって、《《今の》》《《獅真》》ではない。それなのに、今の獅真が私のことを“たかちゃん”と呼ぶのは間違っている気がした。
「でも、じゃあなんて呼んでほしいの?」
「普通に、苗字で呼べばいい」
「鷹陽さん、って? 余所余所しくない?」
「それでいいだろ」
「……ふーん。《《鷹陽》》《《さん》》、変わったね」
「なにが?」
確かに、たったそれだけで随分と余所余所しくなった。安心して返事ができたし、心なしか、我ながら言葉の棘が取れたような気もする。
「男っぽい喋り方とか」
「兄と弟の影響で」
「俺のこと嫌いになったこととか」
「嫌いじゃない、苦手なだけ」
昔話をしよう。獅真は、小学1年生のときに引っ越してきて、1年間だけ同じクラスだった。獅真が住んでいたマンションがうちのすぐ近くにあって、獅真の弟が私の弟と同じ幼稚園だったこともあって、母親同士の仲が良かった。私と獅真と、私の弟と獅真の弟で、よく一緒に遊んでいた。私は、いつも一緒にいる獅真をごく自然に好きになった。
昔話を終わり、今の話をしよう。昨晩、仕事の都合で挨拶が遅くなってしまったなんてお詫びと一緒に、獅真一家が挨拶に来た。母親同士も弟達も、まるで旧友のように意気投合していた。獅真はたまに母親達の会話に混ざっていた。私は母親の隣で無言を貫いた。
「なんで苦手なの。昔はあんなに仲良かったのに」
「昔と変わったから」
「そう? どこが?」
「……八重歯じゃなくなった」
「ああ、転校してすぐ矯正したから」
苦し紛れに絞り出した特徴は、実際、“ゆーくん”と“獅真”との顕著な違いだった。昔は笑うたびにえくぼと八重歯が可愛かったのに、今はまるで芸能人のようにぴしいっと揃った歯を見せつけられるだけ。
もちろん、変わってないところだってある。昔から鼻は高かった。昔から目はくりんとしていた。昔から髪の毛はふわふわのさらさらだった。昔から肌は綺麗だった。ただ、今となっては、それが全部、イケメンの構成要素になってしまっているだけだ。
その全てが、残念というか、私をがっかりさせるというか。なんというか、とにかく奇妙な疎外感を抱かせるのに充分なのだ。
「鷹陽さんも」獅真は少し目を伏せて「変わったね。昔は、もっと笑ってくれた」
「気のせいだろ」
無知で無垢だったから、締まりなくへらへら笑っていただけだ。
「……鷹陽さんは、俺のこと、覚えてなかったの?」
「……なに?」
ホームで電車を待っているとき、ぽつりと、らしくない自信なさげな声が聞こえた。
「だって、俺のことは分かってたんでしょ」
「分かってたってなんだよ」
「獅真悠都ってクラスメイトがいることは、分かってたんでしょ?」
念押しするように、その声音は少し変わった。
確かに、獅真悠都という人物を認識するのは早かった。いつも友達に囲まれていて、入学式のときから目立っていたし、みんなが「獅真」と呼ぶから、「あの人は獅真というんだ」と知っていた。特に気にかけたわけではなかったけれど、獅真の名前が悠都だということも知っていた。いかにもリア充みたいなスクールカースト上位に君臨する男子だったから、その動向を意識しているところがあった。だから「獅真悠都」というクラスメイトの存在はずっと分かっていた。
「……まあ、カースト上位は目立つからな」
「でも、昔遊んでた俺だとは分からなかった」
「雰囲気が変わってたからな」
「同姓同名だよ? そんなにありふれた名前でもないと思うけど」
「同姓同名でも別人だと思うくらい、獅真とゆーくんは違ったんだよ」
「鷹陽さんの中で、俺と“ゆーくん”は別なわけ?」
「そうだよ」
満員電車の中で離れ離れになりたい、そう期待したのに、滑り込んできた電車はいつもより空いていた。いつもより少し早い時間に出たせいだった。
「だから私は獅真をゆーくんと呼ぶつもりはないし、昔仲が良かったから今でもどうとは思わない」
「……ふーん」
仕方なく乗り込んだ車両では、扉を背に立つ私の前に獅真が立つ。
まるで彼氏と彼女のような距離感で、イヤだった。感じ悪く、あからさまに視線を背けた。
「……ところで、鷹陽さんって友達いないの?」
「急に話題変えた挙句、失礼の極みかよ」
「いつも教室で1人だなって、ふと気になって」
「見てんじゃねーよ、ストーカーかお前は」
「初恋の女の子に再会したら、気になるもんじゃない?」
予想外のセリフに、顔を上げてしまった。
「そうでしょ?」
畳みかけてくる獅真に、心の中で湧き上がった動揺と、何より嬉しさとを見抜かれないように、必死で仏頂面をした。
「……別に」
「鷹陽さんは気付かなかったらしいけど、俺はすぐに分かったよ」
――いくら小学1年生だったといっても、初恋の人のフルネームは漢字も含めて忘れるはずがない。獅真悠都という字面を見た瞬間に「ゆーくんと同じ名前だ」と驚いて、なんならゆーくんが帰ってきたのかもしれないと期待した。
「座席表に貼ってある名前を見て、すぐに気付いた。後ろから見える横顔は、少し大人っぽくなったなって思ってた。俺には全然気づいてくれないから、もう忘れちゃったのかなって思ってた」
それでも、獅真本人を見て、落胆した。あんなのはゆーくんじゃない、別人だ――あんなのがゆーくんだなんてイヤだ、と。
「あの頃は、このまま仲良くずっと一緒にいるんだって思ってた。戻ってきても鷹陽さんは俺に気付いてくれなかったから、本当にあのままずっと一緒にいられたら何か違ったのかなって思ってたよ」
そんな現実逃避をしていた私は、獅真が私に話しかけてこないことに安心と落胆を感じていた。ああよかった、やっぱり獅真は“ゆーくん”じゃないんだ、そんな安心と、獅真は“ゆーくん”で、でも今の私達はカーストが違うから関わってくれないのかもしれない、そんな落胆を。
「だから、小学2年生から中学3年生までの空白を埋めさせてよ。そうすれば、鷹陽さんの中で、“ゆーくん”と俺が同じになるでしょ?」
そして、その安心と落胆のどちらが正しいかを知りたくなかったから、私は、獅真と関わりたくなかった。
「……なるもんか」
突っぱねれば、獅真は少し悲しそうな顔をした。でもそうなんだ、獅真と“ゆーくん”は同じにはならない。
「獅真だって言ったろ、あのままずっと一緒にいられたら何か違ったのかって。反実仮想だ、現実は一緒にいなかったから、これだ」
獅真はカースト上位で、私はカースト下位だ。違うカースト同士は、関わり合うことはない。
「獅真の初恋なんか、知ったことじゃない。そんなのはもう終わった話だ」
昔話をしよう。今度はそう昔ではなくて、中学生のときの話だ。
中学生のとき、好きな人がいた。その人はバスケ部で、私には手の届きようもないカースト上位者だった。でも中学生の私はそんな現実なんて知らず、身の程を弁えないままにその人を好きだった。その人に話しかけられる度に顔が綻びそうになって、照れ隠しに仏頂面をしていた。
『鷹陽ってさあ、上條のこと好きだよな』
それがなんでバレてしまったのかは分からない。無意識のうちに目で追っていたのかもしれないし、あえての仏頂面は笑顔以上に好意を伝えてしまっていたのかもしれない。
『え、キモチワル』
口々に同意して笑う声の中には「ああいうカースト下位にまでモテんの大変だな」なんてものも含まれていた。
昔話を終わろう。つまり私は、カースト上位に片想いをして、その分不相応な恋愛を嗤われた、そんな陳腐な経験から、ただひたすらにカーストを意識するようになった。同時に、私はカースト下位、それを受け入れて、学校生活はカースト下位に許される範囲内で楽しもうと決めた。
「終わってないよ」
だから、カースト上位の獅真を好きになって、その獅真に好かれるような、そんなシンデレラストーリーはまっぴらごめんなんだ。
「言ったでしょ、鷹陽さん。これから《《も》》よろしくねって」
それなのに、“ゆーくん”の面影を残した顔で微笑むのは、やめてほしい。
「人の初恋を勝手に終わらせてもらっちゃ困るよ」
どんなに理性的に身の程を弁えたって、それでも胸に期待を抱かずにはいられないのが、私の馬鹿なところだから。
それでも、やっぱりその期待を顔に出すわけにはいかなかった。代わりに頭をフル回転させて「……まさか」と冗談めかしてみせた。
「まさか獅真、風紀委員に立候補したとか、言わないよな」
埋まらなかった男子の2枠。女子の1枠が私で埋まった瞬間に、狙いすましたように埋まった、その2分の1枠。
「言うに決まってるでしょ?」
私を慈しむような微笑みで、それでいてほんの少しの嘲りが混ざった顔だった。
「だって、そうでもしないと、俺と話してくれないでしょ?」
顔に熱が上る前に、電車が駅に着いたのは不幸中の幸いだった。逃げ道といわんばかりに扉が開いたのを背中で感じ、慌てて電車から飛び出た。
「待ってよ、たかちゃん」
「だからその呼び方はやめろって言ってるだろ!」
叶わなかった初恋は、心の中に遺り続けている。引き摺っていないはずなのに、中学生になって得た経験のほうが鮮烈なはずなのに、獅真の言動にほんのりとした期待を抱くくらいには、ずっと、心の中に。