その一般女性、特殊嗜好につき。
テーマ:芸能人
ある日、弟と住んでいる家に帰ると、玄関には私のものでも弟のものでもない靴が転がっていて、それでもって「げ、帰ってきた」なんて弟の呻き声も聞こえた。
靴はどう見ても男物だった。それなのに「隠れろ」「いやもう無理じゃん」「役立たずの高身長!」と男だけの声が慌てふためく。
弟が友達を連れてきて怒ったことなんてないのに、なぜ――……。一体誰がいるというのか、弟の部屋の扉を「佑馬、なにしてるの」と開けた。
そこにはギャグマンガよろしく、クローゼットに友達(ぽい男)を押し込む弟の姿があった。両手でぎゅ、と閉じられたクローゼットからは、窮屈そうに長身の男が顔だけを出している。
つい、佑馬の部屋をじろじろと見回した。テレビ画面には先月発売されたばかりのRPGが表示されていて、その前には、いかにもさっきまで座っていましたといわんばかりにビールの缶とつまみの袋が転がっている。
エロゲをしていたわけでもないのに、何をそんなに慌てて? つい、首を傾げた。
「……双子の姉の佐月です」
「え、あ、どうも……」
「お構いもしない代わりに構う必要もないので、どうぞごゆっくり」
だから、クローゼットを甲羅代わりに、にゅっと顔だけだした佑馬の友達に軽く頭を下げ、部屋に戻った。
その高身長が佑馬と「いや、あの様子だと、多分ガチ」「まさか、そんなわけある?」コソコソと話しながら「佐月ぃ」と部屋をノックしたのは、その数十分後だった。
こういうときは干物女の恰好をしているのがお約束だけれど、弟の友達が来ているのにそんな隙は作らない。お行儀と品のいい部屋着でコーヒーカップ片手に「なに?」と扉を開けると、2人はじっと私を見つめて、互いに目を合わせて「ほらね」「……マジ?」なんて示し合わせる。
「……なに?」
「あ、えっと、自己紹介してなかったっていうから」
「西條成海です」
笑顔と同時に、ホワイトニングケアでもしたように白い歯が覗いた。
「……サイジョウってどう書くんですか?」
「西に……えーっと竹冠のない『篠田』って言って伝わります?」
伝わった。頭の中に文字を浮かべて「格好いい苗字ですね」と頷いた。
沈黙が落ちた。……え? なに? 私が悪い? 名前だけでもっと盛り上げるべきだった?
「……ほらね」
ただ、佑馬はその西條くんを見上げて肩を竦めたし、西條くんは「……マジ?」と少し呆然と呟いた。部屋に入る前と全く同じやりとりだった。
「……なに?」
「いや、いい、いい。用は済んだ、おっけーおっけー」
私は何も“おっけー”じゃないのに、佑馬は西條くんの背中を押して「続きやろ、続き」と部屋へ戻ってしまった。西條くんは後ろ髪引かれるように何度も私を振り返っていた。
きつねにつままれたような、というのはこういう状況をいうのだろうか。はて、と私は首を傾げ続けた。
これが、2022年の抱かれたい男No.1に輝いた芸能人の西條成海との記念すべき初対面だった。
佑馬の友達の西條くんが芸能人である、と知ったのは、西條くんが遊びにきて7回目、初対面から実に2ヶ月が経過した後だった。私の中では「やたらよく遊びにくる佑馬の友達」「やたら背が高い友達」「やたらスタイルも良い友達」程度の認識だった。陰キャ大学生でゲーム以外に興味のない弟との共通点はゲームしかないけどゲームがある、だから友達なんだ、そう思っていたし、実際、佑馬は「ベアーズの大会で意気投合してさあ」と彼女との馴れ初めよろしく聞いてもない友情の始まりを語っていた。ちなみに「ベアー」とは“Bare’s TAG”の略で、何のゲームなのかは知らない。
その西條くんが、ある日――というか7回目にうちに遊びにきたとき、キッチンテーブルに雑誌が置いてあった。その表紙にはモデルだか俳優だかが映っていて「今年のトレンドを見逃すな」とキャッチコピーがついていた。
「なにこれ、ファッションの勉強したほうがいいってこと?」
週1ペースで遊びに来られれば弟の友達は私の知り合い、なんなら顔見知り、そんな勢いだったから、揃ってデリバリーのピザを食べる2人の前でついそう感想を漏らしてしまった。西條くんはピザを食べるために口を開けたまま穴が空くほど私を見つめていた。
「……ファッション雑誌であってるよね?」
何か、間違えましたか?
佑馬が「ほらね」と肩を竦めれば「……いやもはや俺の顔が認知されてないレベル」愕然と呟く。西條くんと私を前にした佑馬は肩を竦めてばかりだ。
そんなことにしびれを切らしたかのように、佑馬はピザを持っていた手で「佐月、これ、ここ見て」とトントン雑誌を叩く。
「ファッション雑誌を汚れた手で触るのをやめることから始めるべきでは?」
「いやそういう話じゃないから。てかこれ成海のだし」
「他人のもの汚すのはどうかと思う」
「いやそうじゃなくて、これ見て」
佑馬が頻りに叩く指先の、文字を目で追う。くすみカラーで大人の春を、彼女が喜ぶリンクコーデ、などなど。
「どれを見てほしいのかはっきり示して」
「顔!」
「顔?」
佑馬の顔を見ると「雑誌の!」また雑誌を叩かれて、どうやら表紙のモデルだか俳優だかを見てほしいのだと知った。
「あー……これ、西條くんに寄ってるね」
「そうじゃない!」
「ははは、分かってる分かってる。西條くんが寄せてる、そういうことだよね」
「俺です!」
気の利いた冗談のひとつでも、そんなつもりだったのに怒鳴り声に等しい大声のツッコミを受けて固まってしまった。西條くんはキッチンテーブルを叩きそうな勢いだった。
「……あ」
困惑した私の口からは短い音が漏れた。
「……あ、これ、西條くんなの?」
雑誌と西條くんを交互に見比べる。確かに、髪型は違うけど顔は同じだった。
「へー……西條くん、モデルかなんかやってんの」
「俳優だよ」
「……役者ってこと?」
「『愛の咲く島』に出てたよ」
「なんだっけそれ、聞いたことある」
「月9でやってたドラマ」
「あー、お母さんが見てたかも。え、すごいじゃん、じゃプロだ」
「その、主役」
言い聞かせるようにゆっくりと言葉を区切った佑馬の前で、西條くんは不躾にも「この女、本気で言ってるのか」なんて目で私を見つめていた。細切れの解説とその態度で、私はやっと理解した。
「もしかして、超有名? ごめん、私、テレビ見なくて」
もともと、ドラマに興味はない。それが大学生になったところで変わるはずもなく、それでもって日常生活はバイト、カラオケ、ボーリング、そして授業以外にない。さらに言えば、たった1台のテレビは基本的にゲーマーの佑馬が占領していて、映画を見るとしたら気が向いた金曜日の夜だけ。そうなれば俳優に疎いのも必然だった。
たまに佑馬とテレビを見るとき、私はいつもこう零す――全部同じ顔に見えるから、隅っこに名前を書いてほしい、と。
「ほーらね、最初に話したじゃん」
鬼の首でもとったように、佑馬は大きく手を広げて私を馬鹿にする準備を始めた。
「佐月、芸能人に疎いとかいうレベルじゃないから、マジで俗世から隔絶されてますかってくらい知らないから、知ってるの松村浩之くらいだから」
「失敬な、他にも片手で数えられるくらいなら言えるわ」
「片手じゃん。てかいま『西條成海』って聞いて知らない女子いないっしょ!?」
「いないと思ってたよ、俺は」
とはいえ、渋い顔でコーラを飲む西條くんは、サークルの男子と大差ない。
「あと佐月はマジでイケメンセンサーが死んでる」
「それはよく言われるけど納得してない」
「西條成海を知らなくても、見ればクソイケメンで芸能人ですか? って思うから普通は。てか俺は思った」
「佑馬も知らなかったんじゃないか」
「俺は男だから。あとベアーズの大会にいるとは思わないじゃん」
「西條くんはなに、お忍びでゲーム大会に行ったの?」
「芸能人も人間なんで、趣味は人並みにあるんで」
しっかりと、これまた言い聞かせるように重い口調で言われたし、その内容はごもっともだったから、それもそうだなあ、と頷いた。
「じゃあ、これからは西條くんのインスタとかちゃんと見て、顔覚えるね」
暗に西條くんの顔をまだ覚えていないと自白してしまった、その日の最後の会話はそれだった。
次の日、友達に「最近、西條成海を知った」と話した結果「ああ、佐月、好きな芸能人聞かれて松村浩之って答えるもんね。50歳の大御所もいいけど、まあ普通に20代のイケメンも推しな?」さも当然のように西條くんが認知されていることを改めて知った。人としての弁えはあったので、その西條くんがうちに遊びに来ているなど口が裂けても言わなかった。
「20代のイケメン……」
「珠玉のイケメンって言われてっからね。でも2年くらい前までマジ無名だったんだよね、ゴリゴリの役者志望でさ、でも最初はモブ役ばっかだったし、そしたらあんま顔に注目されないし」
「珠玉のイケメン……」
「いやマジ宝っしょ、宝。それ以外に形容が必要ないくらい超イケメン、あらゆる恋愛ドラマで主役張ってほしいわ、全ヒロインが惚れるわ」
そうかあ、西條くんはイケメンなのかあ。確かに歯はホワイトニングしたみたいに綺麗だし、肌だってどんな高級洗顔料も敵わない遺伝子の暴力的な綺麗さだし、ちょっと存在感のある眉も言ってしまえば凛々しいし、ぱっちり二重との組み合わせがいい。よくよく思い出してみれば、定規でも当ててみたくなるような鼻の高さもしている。
「……そうかあ」
「佐月はどうせ『好きな芸能人って聞かれたら西條成海って答えよう』程度なんだろ。目、腐ってるもんな」
「失敬な、濁りもなければ皮膚から飛び出てもないわ」
しみじみと、そうかあ、西條くんみたいな顔をイケメンというのかあ、そう頷いていたのがバレてしまったかのように、後日、西條くんは雑誌を複数冊携えてうちにやってきた。バッ、と広げられた表紙には全て西條くんの顔があった。そしてその中には、確かに「珠玉のイケメン」という煽りもあった。
「……気になってたことがあるんだけど」
「なんですか?」
「……ここまで珠玉のイケメンって言われると、毎朝自分の顔を鏡で見て『珠玉のイケメン顔だな』とか思うの?」
「自分の顔は自分の顔ですよ」
「ああ、そういうもんなのかあ」
「成海、いいから対戦やろうぜ。マジ豚に真珠ってヤツだから」
西條成海が家に来ることの価値を理解しない佐月に何を言ったって無駄だ、そういうことだ。実際、西條くんがうちに来ることは「佑馬の友達が家にくる」以上の意味を持つものではなかった。
それが、西條くんにはお気に召したらしい。ゲームをしにくる頻度は変わらなかったけれど、うちで食事を摂ることは増えた。ちなみにデリバリーではなく私の手料理だ。
「西條成海がゲーム友達の姉の作ったどうでもいい食事食べてるとか、世の女子が聞いたら卒倒しそう」
「世の女子は西條くんに何食べててほしいの? ロールキャベツ?」
「ロールキャベツ系男子は比喩であってロールキャベツを主食とする動物という意味ではないです」
「分かってるよそんなことは」
なお、私は料理上手ではない。下手ではないけど上手ではないので、出てくるものは名前がついたりつかなかったりする家庭料理に過ぎず、しかもたまに失敗する。現に目の前にはルーが足りなくて若干水分の多いカレーがある。スープカレーということで、と出したらスープカレーなめんなと佑馬にディスられた。正直、スープっぽいカレーなら全部スープカレーになるものなんだと思っていた。
「実際疑問なんだけど、マネージャーにギチギチに食事管理されてないの」
「管理されないように自分でやってます。ストレスかかるのは逆に体に良くないんで」
「えー、えら、ストイックじゃん。でもこの間ピザとコーラの組み合わせしてなかった?」
「ギチギチ管理されてるとそれができないのでイヤなんです。多めに水分摂ったり走ったりして調整するんですよ」
「えー、えら、やっぱストイックじゃん」
「西條成海に『えら、ストイックじゃん』とまるで後輩をあしらうような声をかける姉」
「同い年なのは分かってるけど佑馬の友達だし、西條くんも私に敬語だし、どうしても」
「そこじゃない。てか佐月、やっと成海のこと認識したのに、成海が出てるバラエティとか見ないよね」
ひたひたと佑馬のスプーンから滴るカレーを見ていて首を捻る。規定量のルーを入れたはずなのに、なぜ失敗したのだろう、と。
「見たほうがいい?」
「いや、見ないでいいです」
「てかバラエティ出るの? 俳優なのに?」
「俳優だから出ないってわけじゃないですけど、あんま出ないのはそうです」
「そうじゃなくてさあ、インスタとかもフォローしてないんでしょ、どうせ」
「他人との距離感を弁えた私、SNSのフォローは基本フォロー待ち」
「西條成海からのフォローを待つな」
「大丈夫ですよ、あれ中身俺じゃないんで」
「マジで顔も名前も知らない人ってことじゃん、余計フォローしないわ」
「てかだからそうじゃなくて、西條成海のありがたみをもっと噛みしめなよ。猫に小判だよ」
「でも西條くんも言ってたじゃん、芸能人も人間だって」
「で?」
「人間、友達の姉からやたら可愛がられても謎だし気持ち悪くしか感じなくない?」
「可愛がれとは言ってないじゃん、ありがたがれって言ってるだけで」
「同じことだよ、孫じゃないんだから」
それでもって、西條くんと出会ってはや数ヶ月、夏本番が見え隠れする季節になった。ここまできたら(感じたことはないけど)ありがたみも薄れるというものだ。
でもさすがにここまでうちに来ている芸能人を指して「なんか有名らしい」で済ませるのも失礼な話かもしれない、そう考え直して、その日西條くんが帰った後に西條くんのインスタとツイッターとウィキペディアを見た。代表作の映画は恋愛ものばかりだったので見る気にはならなかったけれど、少なくとも何に出ているのかは把握した。
そしてそんなことをされると、私の閲覧履歴が「西條成海」に汚染されてしまって、サジェストに「西條成海、いまの流行は『Bare’s TAG』」というニュース記事が出てきた。我が家でよく見るように、笑っている西條くんが映っている。
よし、こういうのもちゃんと読むぞ。そんな気持ちでタップすると、タイトルのとおり、要旨、西條くんが佑馬と知り合ったというゲームにはまっているという話が書いてある。なんだ知ってる情報じゃないか――とさっとスクロールして、次に目に入った記事にコーヒーを吹きそうになった。
『最近は「Bare’s TAG」で仲良くなった友達の家に行って、そのまま夕食もご馳走になることが多いですね』
『――女性ですか?』
『まさか、男です。勘繰られてもいいんだけど、残念ながら「Bare’s TAG」やってるのなんて男ばっかりなんで、それらしい相手は見つからないと思います』
『――男友達の家でゲームして、そのまま一緒に食事をして、帰る?《笑》』
『そういうことになりますね』
『――まるで恋人ですね』
『というより、実家みたいな。食事が、ただのカレーとか、冷蔵庫にある余った野菜の炒め物とか、葉物を和えたとか、そういう感じなんで』
次の週、佑馬が「レポート終わってないからちょっと待ってて」なんてくだらない理由で西條くんをキッチンで待たせていたとき、麦茶を出しながらその記事を思い出してしまった。
「……実家のような安心感ってヤツ?」
「もしかして先週のゲーム記事読みました?」
「読んだ読んだ、少しは西條くんのことを勉強するべきかと思って」
「やっと興味を持ってもらえたようで、光栄です」
「テレビの中の芸能人よりは家の中の芸能人を尊重しようという心掛け」
「……佐月さんにして佑馬あり、って感じですよね」
「佐月さんて」
名前を認識されているとは思わなかったのでたじろいでしまった。いや、そうじゃない、佑馬に言わせれば「西條成海に名前を呼ばれるなんて」と恐れおののくべきだ。
「そもそもベアーズやってる人って芸能人とか全く知らないんで当然といえば当然なんですけど、佑馬も俺のことは知らなくて」
「愚弟が失礼しました」
「雑誌持ってくるまで気付いてくれなかった佐月さんほどじゃないです」
好青年が売り(らしい)西條くんは意外とはっきりと物を言うし、根に持つ。
「だから気楽でいい友達なんですよね。俳優友達もそれはそれでいいんですけど、仕事仲間って意識のほうがあるし、気も遣うし」
「あのニュース記事に書いてあること正しいじゃん、それ告白じゃん、恋人じゃん。弟に片想いしてる人と話すとか気まずいんだけど」
「女が好きなんで安心してください」
「そっか……二卵性だから女版佑馬みたいになれなくてごめんね。とはいえ二卵性じゃないと男女にならないからどうしようも解決しようがないんだけどね」
「佑馬が女なら付き合ったのになんて思ったことはないです」
「確かに私も女友達に男だったら付き合ったのにって思ったことないわ。恋愛対象ってそういうもんだね」
「佐月さんって男を好きになるんですか?」
「なんでそんな驚いた顔をするんですか。人並みになりますよ」
「好みとかあるんですか?」
「学歴と年収と身長が私より高い男」
「バブル期の理想形だしてきましたね」
「私より高いっていう相対評価で妥協してるからそんなに高望みじゃないと思ってる」
「佐月さん、170センチくらいありますよね? 絶対評価に近いですよ」
あとは学歴か……と西條くんは麦茶のグラス片手に頷いた。ちなみに西條くんは平安大学に籍を置いているとウィキペディアに書いてあった。
「なるみー、ごめんお待たせ」
「ああ、ううん」
「じゃ、私は部屋に引っ込むので、いつもどおりお構いなく」
アイスコーヒーを淹れ始めた私を、西條くんがその整った目でじっと見つめた。西條くんには迷わず麦茶を出したくせに、自分は昨日からセットしていたアイスコーヒーを取り出したせいかもしれない。
「……飲む?」
「……いやそれはよくて」
西條くんは少し考え込むように、視線を虚空に向けて長い睫毛を軽く上下させた。
「佐月さんの一番好きな芸能人は?」
「松村浩之」
「そこは西條成海って答えるところですよ」
芸能人も人間なんで、最初にそう教えてくれた西條くんは、今日も実家のような安心感を抱いてくれている。そうに違いない。
暇なら続きを書いてみたいと思っています。