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そのこいは、うたかた。

テーマ:泡沫

「どっかで会ったことあるっけ」


 その言葉に、ドキリと心臓が跳ねた。髪をほどきながら「ええ?」と困ったような顔で振り返る。


「ないよ? どうして?」

「いや」


 それは、ともすれば口説き文句にも聞こえたかもしれない。


「あったら面倒だと思っただけ」


 ただ、実際にはその逆だ。


 そして、会ったことは、確かにない。でも、見たことはある。よくあるように、駅でよく見かけていて、電車でよく一緒になっていただけだ。彼が友達と話して、笑って──そんな様子を一方的に見ていただけだ。一目惚れなんてないと思ってたのに、一目惚れした。


「え」


 不意に滑らかに頬を滑り、髪を梳いた冷たい指先に、ゾク、と全身が粟立った。動揺した私の目の前で、長い睫毛がゆっくり上下し、伏し目がちに見つめてきた。


「しよ」


 きゅう、と、胸が締め付けられると同時に──キスされた。唇が何度も何度も角度を変えて重ねられて、ますます胸が苦しくなる。ついさっき頬を撫でた指が首を滑って胸元に触れた。体が震えてるんじゃないかと思うほどに激しく鼓動する心臓の上を、まるで何もないかのように滑り、指が、シャツのボタンを器用に外していく。


「んっ──」


 唇から離れた唇は、首筋に触れる。そのまま舌が鎖骨の上をなぞる。


「あっ……」


 手が、開かれたシャツの中に入ってきた。冷たい手は躊躇いなく胸の上を撫でて、私は我慢できずに嬌声を上げる。自分でもどこから出てるのか分からないくらい高くて甘い声が聞こえる。その声なんて聞こえてないみたいに、手はキャミソールを捲って、双丘の間に指を沈め、下着の中をまさぐる。そんな指先の動きひとつひとつが体温を上げていく。


 ただ──詩的にいえば──その指先から愛情を感じることはなかった。わかりきったことではある。でも、手の動きは乱暴でもなければ、自分本位でもなかった。


「っ、あ──……そ、こ、だめ……」


 手は、太腿の外側から内側、そのままゆっくりとスカートの中に入ってきた。そのまま指先が静かな水音を立て始める。私の声は聞こえてないなんて勘違いだ。私の喘ぎ声を聞いて、反応を見ながら、指は動いている。私の体を暴こうとするように、その手は丁寧に動く。


 現に、気持ちがよかった。付き合ってた彼氏と──好きあっていた、いわゆる愛して愛されてる人と──するよりもずっと気持ちがよかった。お陰で、愛がないと、愛があると、なんてありきたりな文句は綺麗ごとなんじゃないかと思ってしまった。


 ただ、その手に優しさはなかった。どうしようもない作業感があったとでもいうべきだろうか。乱暴に感じることはなかったし、寧ろ丁寧だったし、多分、優しいと言っても正しかった。それなのにどうしても優しいとは思えなかったのは、きっと、彼と目が合わなかったからだ。ベッドの上では、まだ不自然ではないかもしれない。でも、一番最初にキスするときですら、彼は私を見なかった。


「ダメなら止めてよ」

「……ん」


 今だって、そうだ。


 体の奥が疼く。突き上げられた体の中が、その度に嬉しい悲鳴を上げる。喘ぎすぎて、喉が潰れそうだった。それなのに、その手までもが、私の体を鳴かせようとする。


「っ……だ、め……!」


 きゅう、とまた胸の奥が締め付けられた。彼の背中に手を回して、爪を立ててしまうくらい強く抱きしめた。ベッドだって激しく軋んでいた。でも、喘ぎ声は私の口から零れるばかりで、彼にとっては、息を乱すほどではない僅かな運動に過ぎなかった。


 ドクン、ドクン──と、彼が私の中で脈打った時でさえ、息を荒げていたのは私だけだった。


「……帰るの」


 暗に二回目を提案した私に、彼は振り向かなかった。返事もしなかった。


「……名前、なんていうの」


 シャツのボタンをとめて、カーディガンを着て、上着を羽織って──余韻など残すつもりなどないかのように淀みなく動いていた手が、ふと、止まった。


「…………」

「え?」


 唇はほんの少ししか動かなくて、そのせいで何も聞き取れなくて、彼が名前を教えてくれたのか、それとも無関係な何かを呟いたのか分からなかった。そして、それを確かめる間もなく、彼は部屋から出て行った。


 なんでそんなことを思い出したかというと、数年ぶりに彼を電車の中で見かけたからだ。


「あのっ」


 思わずその腕を掴んでしまったけれど、彼は訝し気に眉を顰めるだけだった。すると何も言えなくて「いえ……」とすぐ手を離し、なんなら彼が「知り合い?」「いや、知らなかった。人違いかな?」なんて話すのも聞いて、そういえばあの日は目も合わなかったことを思い出した。


 どうしてあの時、彼は私を選んでくれたんだろう──ずっとそう思っていたけど、それは間違いだった。さながら確率論の例題のごとく、無作為に無個性な女を一人引いただけだったんだ。


 あの手が、好きだったな──。


 彼の腕を掴んだ自分の手のひらを、そっと見つめる。


 ある日、前触れなく膨らみ、そして一瞬で弾けた恋だった。その泡沫のような恋を思い出すときは、いつも、彼の手を思い出す。冷たくて優しくない、愛のない、あの手を。


某過去作のスピンオフでした。

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