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君の心の、その片隅。

テーマ:幸せになってね

「あー……」


 喉の浅瀬から出たダミ声のような奇声に、カウンターを挟んで生ビールを飲む彼が苦笑した。


「お前、仮にも女だろ。やめろ、んな声」

「仮にも、なんて言わないでください。しっかりと女性ですよ、私は」


 現にカシオレなんて可愛いもん飲んでるじゃん、と口を尖らせれば「はいはい、可愛い可愛い」とあしらわれた。


「なに、また仕事でやなことあった?」

「ん、いや、仕事っていうかね。彼氏と喧嘩した」

「また?」

「また、じゃないよ。初めてだもん」

「初めてじゃないだろ。そりゃ、あんま喧嘩してないのは知ってるけど」

「初めてだよ。こんな本格的な喧嘩」

「本格的なの?」

「うん。全部連絡断ち切ったのは、初めて」


 スマホをカウンターに置いたまま、LINEを起動した。彼氏の名前が上部に表示されたその画面の下部・メッセージ送信欄には、「ブロック中」という灰色の文言が浮かんでいる。


「と、いうわけですよ」

「どういうわけですかね?」

「そりゃ、言い争いになったことが一度もないわけではないですけども。そういう時、必ず私が喚き散らして、ヤツがごめんねって謝って終わりだったわけですよ」

「聞いてる限りそうでしたね」

「それが、喚き散らすことも何もせず、暫く構わないでほしいって連絡を絶ち切ったのは初めてなのですよ」

「そういうわけでしたか」


 わざとらしい丁寧語で相槌を打たれ、そのまま一瞬話が止まる。


「……最近、彼氏に悪いことしちゃって」

「浮気でもした?」

「ううん。セックスで演技した」


 ゴボッ、と彼の喉で液体が奇妙な音を立てる。ゴホゴホと苦しそうに咳き込み、彼は慌てて別のグラスに水を注いで、それを口に流し込んで……、まるで私が悪いとでも言いたげにこっちを睨んだ。


「……なんだって?」

「言ったとおりですが」


 しれっとカシオレを口に運びながら、こっそりと、彼が逡巡するのを観察する。


「……その話、俺にしていい話?」

「逆に誰にしろと」

「そーいやお前、友達いなかったな」

「うるさいな、親友はいないけど友達なら適当にいるよ」


 強がりながらも、口からは正直な渇いた笑いが零れた。


 いつからだっただろう。何かイヤなことがあると、ここに飲みに来るようになった。


 別に、友達がいないわけじゃない。お昼を一緒に食べるとか、一緒に遊びに行くとか、そういう友達がいないわけじゃない。


 ただ、どうしても、どうしても自分のすべてをさらけ出さなければならないほど辛くなったときに相談できる相手がいない――目の前の彼を除いて。


「それで、なんで演技したわけ」


 ほら、そうやって、押しつけがましくない柔らかい声で、私に続きを促してくれる。ただの会話なのに、まるで子守唄のように心地いい声で。


「……したくなかったのにしたら全然気持ちよくなかったから」

「じゃあなんでしたんだよ」

「私はしたくなかったけど、ショウマはしたそうだったから」

「したくないって言えばよかったのに」

「……言えなかった。最近ずっとしてなかったし」

「なんでしてなかったの」

「……仕事で疲れてて、相手する元気なんてなかったの」

「んな状態のお前に求めるほうが悪いじゃん」

「……なんか、恋人同士なのに、ずっと拒否り続けるのも可哀想かなって思って」

「子守りじゃあるまいし」

「でも嫌われたくなかったし」

「それくらいで嫌われんの?」

「……分かんないけど。なんか、しなきゃだめかなって思っちゃったんだよね」

「つかお前、なんでしたくなかったの?」

「……仕事で同期がミスって、代わりに私が怒られた」

「何でだよ」

「……私、今、企画の班長だって話したっけ」

「ああ、聞いたな」

「まあ、班員の責任を班長がとるのは当然ですよね」

「なるほどね。それでか」

「言い訳するとさ。全部私がやるのは無理だから、班員に仕事振って、最終的に統合する予定だったんだよね。だから……仕事振って、そのまま安心してたんだ」

「そしたら、やってなかったと?」

「うん。見事にすっぽかされた。途中経過は確認してたんだけど、仕事進んでるかどうかとしか聞かなかったんだよね。目で、確認しなかった」

「そしたら、口先だけだったと」

「うん。お蔭で徹夜して私が作った。徹夜したもんのクオリティも保障できるほど要領よくないから、当然上司にそのミスを怒られましたよ」

「そのレベルの話もショウマさんに相談できねぇの?」

「……できない」

「別れろよ」


 至極真っ当な意見だった。それでも、その選択は私にはなかった。


「……プロポーズ、されたんだ」


 ビールの入ったグラス片手に、彼は少し驚いた顔をした。でもすぐに笑った。


「結婚するんだ?」

「……うん」

「……おめでと」


 なんなら、まるで祝福でもするように、そのグラスを私のカシオレのグラスにカチンと軽くぶつけた。……祝福でも、するように。


「……本当に、思ってる?」

「……さあ」

「……今更、別れたいなんて言えないよ」

「なんで、プロポーズされたら別れちゃいけないなんてことないだろ」

「そうじゃないの、私はショウマと結婚するって決めてるってだけ」

「悩みも相談できないのに?」

「うん」

「なんで相談できないの?」

「……分かってるから」

「何が?」

「彼も私と同類だって」


 私とショウマが惹かれあった理由は、きっとそこにある。


 なにがどう同類なのかを言語化することはできない。ただ、少なくとも同類だから合う意見があるし、同類だから合わない意見同士を否定しない。私達は、他人同士が究極的には理解しあうことなどないと理解している。恋人でありながら、その冷めた一線を引きながら、私達は付き合っていた。それが、この4年間、大きな喧嘩もせずに付き合えた理由の一つなのかもしれない。


「同類だから相談できないってのが分かんないんだけど?」

「……前にも同じようなことあったじゃん」

「仕事で?」

「うん。ほら……広報部と合同でする仕事があったんだって話、しなかったっけ?」

「あー……えっと、広報部の担当がお前の先輩だったって話?」

「そう、それ。先輩が仕事しなくて、大幅に予定狂って、仕事委託できる業者がめちゃくちゃ絞られて、しかも例年より格段に劣る結果になりましたってやつ」

「はいはい、思い出した。んで、先輩達にめちゃくちゃ嫌味言われて凹んだってやつな」

「うん。それ、ショウマに愚痴ったんだけど」

「うん」

「パートナーの仕事を管理できない私が悪いって言われたの」

「……上司がいうなら、正しい回答だな」


 そう、正しい回答だ。なんなら、社会人なら、その回答は自分の中で出すべき模範解答だ。


「……私ね、恋人は、味方になってくれる人だと思ってた」

「どういうこと?」

「客観的に正しいかどうかじゃなくて……辛いなら、その気持ちを受け止めるくらいしてあげるよ、っていうか。そういうのを、期待してた。社会では言い訳にすらならないことを、優しく聞いてくれる人かなって」


 でも、そうじゃない。私が求めていたのは模範解答じゃない。私があの仕事を適切にこなすために必要だった解法を求めていたわけじゃない。


「大人になっても、甘えていい相手なんだと、思ってた」


 それが“甘え”なのか、それとも正しいのか、私には分からなかった。


 彼も、そういうものだとは頷いてくれなかった。


「……班員のミスは班長の責任だし、ミスしないように管理するのも当然班長の義務。でもね、私がこの話をしたい理由は、そういう回答が欲しいからじゃないの。ただ……大変だったね、って。上っ面でもいいから、班員が悪いな、って言ってほしいの」

「相談してもそう言ってもらえないって分かってるから、言わないんだ?」

「うん。だから、相談じゃなくて、ただの愚痴なんだ」


 頬杖をついていたけれど、その手を首の後ろまでずらして、腕にもたれかかる。頬がカウンターテーブルにつきそうだった。


「班員を管理できない班長が、一番悪いの? そもそも仕事しない班員は悪くないの? 班長が責任をとるべきだから、仕事しなかった班員は、謝りもせず、黙って班長が叱られる姿を見ていて許されるの?」


 それを、ショウマに話しても無駄だということは、分かっている。彼にとって、相談も愚痴も、根源に悩みがあるという点で変わりない。だから、自分なりの答えを出してやることが、“悩みの解決”という意味で求められることだとショウマは考えていて、実際にそうする。いつだって、ショウマは“正しいこと”しか言わない。


 私だって、悩みを解決したくてショウマに話すことはある。でも、私の中で、それには相談と愚痴があって……、そして今回の、企画の班長の話は、ただの愚痴だ。なんでちゃんと働いてくれないの、働かない班員が悪いくせになんで私が叱られなきゃいけないの、そう言いたくて、それに対しては、そうだよね、そのサボり組がクソだよね、ただそう同意してもらいたい。


 “回答”の必要な“相談”と“共感”の必要な“愚痴”――その分水嶺は難しいけれど、少なくとも私とショウマではきれいにズレている。


 でも、私だって同じだ。私だってきっとショウマの相談にも愚痴にも正しい答えばかりを返している。でもショウマがそれをとやかく言ったことはない。


 私達は同類で、だからこそ、上手くやっていける。


「それ、結婚してからやっていけるの?」

「ん?」

「お前、嫌なこと溜めこんで、そんで俺にくらいしか相談しないじゃん。結婚してもまだ俺に愚痴るつもり?」

「……半年に1回くらい」

「マジかよ。でも俺もいつまでもバイトしてるわけじゃないんだからな?」

「そっか」


 そんなことは分かっている。なんなら、エイジがバイトをしていたって、いつまでもここで話を聞いてもらえるわけじゃないとも分かっている。


 ペタリと、冷たいカウンターに頬を載せた。


「エイジ」


 口から名前が零れると、テーブルが曇った。


「なに、ルナ」


 返事をしてくれたその声は、今でも愛おしい。


「……エイジ」

「なあに、ルナ」

「……好き」

「知ってる」

「エイジは?」

「さあ」


 そこで“好き”だと言わないのが、エイジの優しさと残酷さだった。


「好きだって言ってくれてもいいじゃん」

「何で。お前、ショウマさん愛してるんでしょ」

「……まあ、多分、好きだと思うよ」

「じゃあ俺に好きだって言ってもらわなくてもいいじゃん」

「……私のこと、好きじゃないの?」

「さあね」

「……私、自惚れてることがあるんだ」

「なにが」

「エイジが私をフッたとき、もう好きじゃなくなったって言ったけど。きっと、本当は私のことが好きで、バンドやり続けたいから、将来どうなるかも分からないから、結婚ってものが見えてくる前に切ったんじゃないかって」

「つまり?」

「……私のことが好きとか嫌いとかじゃなくて、安定して養えるようになるか分からないから、結婚しても養えないかもしれないから、だから、結婚ってものがチラつく年齢になる前に、フッたんじゃないのかなって」


 あまりにも自意識過剰な話だった。でも、エイジは愛想笑い以上の笑みはみせなかった。


 エイジにフラれたのは、大学4年生の夏だった。就職が決まったと報告した矢先の出来事だった。めでたいから飯でも食うか、と食事に連れて行ってくれた。


 そして、社会人になるお祝いにと名刺入れをくれた。外側はベージュのシンプルな名刺入れだったけれど、内側は綺麗な鮮青色で、花の刺繍が施されていた。


 そんなプレゼントを片手に浮足立って帰る途中、私の家に帰るものだとばかり思っていた分かれ道で「ルナ、別れよ」あまりにも唐突に切り出された。


 食事をしていたときもその帰り道も、別れ話を切り出される気配なんてどこにもなくて、言われたことが理解できなかった。


 どうして、と訊ねれば、エイジは、もう好きじゃないから、といつもの飄々とした調子で告げた。じゃあなんでお祝いくれたの、と訊くと、頑張ってるのを一番近くで見てたから、と。


 じゃあね、とたったそれだけの遣り取りをして、エイジは私に背を向けた。


 私の問いに対する、それは答えになっていなかった。


 エイジだってそれは分かっていたはずだ。それでもエイジは堂々と“答え”だと宣言し、そんな態度に出られれば、動揺していた私はろくに返事もできなかった。


 エイジと付き合った3年間、大学時代の恋は全てそこにあった。下手をすれば、初めて知った愛おしさが、そこにあったのに。それは、一瞬で終わった。


 あれからもう5年経つ。私は、入社して間もなく付き合い始めたショウマと結婚する。エイジは、大学時代からのバイトを続けながら、バンドを続けている。作詞作曲、そしてベース。私は、エイジの声も好きだったけど、エイジはボーカルになる気はないと言った。


 エイジがその一面を奏でる、エイジの世界が詰まった歌を聴くのが好きで、付き合っていたときから、別れた後も、今でもずっと聴いている。仕事が終われば、ライブにだって行く。エイジは決して私を特別扱いしてくれないし、知った顔だという素振りさえ見せないけれど、それでも。


「……違う?」


 何も答えてくれないエイジに畳みかける。


 エイジは、微かに笑った。


「さあ」


 やっぱり、答えてくれない。仮初かりそめの優しさでもいいんだと言ったばかりの私に、仮初の優しさを見せてくれる、そんな優しさはエイジにはない。


 私が惹かれた、エイジの優しさと残酷さは健在だ。


「……そういうとこ、嫌いだった」

「そう」

「……でも、好きだよ」

「そう」

「……新曲、良かった。このタイミングで失恋歌とは思わなかったけど」

「そりゃよかった」

「最近失恋でもしたの?」

「さあね」

「恋人できたの?」

「いや。ルナが、最後だよ」


 でも、時折その残酷さを貫くことができない。そういうところだよね、と笑いを零すと、自分でも泣きそうになったのが分かった。それでも、涙は出ない。


「早く恋人作ってくれないと、諦めきれないじゃん」

「何で。お前結婚するじゃん」

「エイジと不倫したくなっちゃう」

「お前がそんなことできない性格だって知ってます。つーか俺も、バンド売れるまで恋人作る気ねぇし」

「だから私もフッたの?」

「さあね。……もっかい訊くけど、辛いことも言えないショウマさんと結婚してやっていけるの?」

「……やっていけるよ。だって、ショウマが本当に私のことを大事にしてくれてるんだって知ってるから」


 辛いことがあったときに、真っ先に浮かぶ相手は、ショウマではない。何かイヤなことがあったときに、相談する相手は、ショウマではない。頼りたいと思う相手は、ショウマではない。


 それでも、私がショウマと4年間付き合うことができて、結婚してもやっていけると思う理由わけがある。


「連絡断ち切るほどの喧嘩したのは初めて、って言ったじゃん」

「うん」

「多分ね、今回こんな大きな喧嘩になっちゃったのは、私がショウマに不誠実だった罪悪感からだと思うんだ」

「演技したっていう、最初の話?」

「うん。……ショウマは、私に誠実なの。いつも味方してくれるわけじゃないけど、嘘で誤魔化すより本当で傷つける、そういう誠実さがあるって、知ってる」

「ふーん」

「私達は多分、そういう誠実さがあればやっていけるんだと思う」

「なんで?」

「……4年間、小さな喧嘩をしても別れ騒動にまでならなかったのは、お互い誠実だったからだと、思うから」

「そう」


 その答えに、エイジが納得したのかどうかは分からない。だって、エイジの声は最初から今までずっと淡々と、変わらない温度感で頷き続けているから。


「まあ、でも、お前がそう思うなら、いんじゃない。離婚したくなったらまたその時考えりゃいいし」

「そうだね、目の前の相手に相談すればいいし」

「俺はただ詞書いて曲作ってベース引いてるだけですから。あてにしないでください」


 そう言いながらも、きっと、エイジはこれからも相談に乗ってくれる。そこも、貫ききれない残酷さだと思う。


 ショウマと付き合い始めてからも、エイジのバイト先に顔を出すのはやめられなかった。そして、エイジが何でもない顔で接してくれるから、それに甘えて、今ではすっかり行きつけとなっっている。お客さんが少ない月曜日と木曜日に、私は決まって一人、カウンターに座ってエイジを独り占めしている。


 もうフラれているのに、結婚を決めた恋人がいるのに、あえて元カレを選んで相談しに来る私を、エイジは追い返したことがない。


「エイジ、好き」

「知ってる」

「エイジは?」

「さあ」


 この問答が終わることがあるとしたら、私が完全にエイジを諦めきったとき以外ない。そんな、ふとした瞬間のこの問いかけを、エイジは答えずに、4年間受け流し続けている。


 そのエイジが、ふ、と何かを思いついたように視線を上げた。


「ねえ」

「ん?」

「俺に好きだって言い続けることは、ショウマさんへの不誠実じゃないの?」


 ん、と、少し考えこんでしまったけれど、あまり悩むことはなかった。


「不誠実じゃないよ」

「何で? 浮気じゃないの?」

「ショウマはショウマ。エイジはエイジ」

「なんじゃそりゃ」

「ショウマはね、恋人なの。これから結婚して、愛を誓うの」

「じゃ、俺は?」

「エイジは、愛してる」

「じゃ、現状俺のほうがショウマさんより上じゃん」


 それって不誠実じゃん、そう言いたげな口ぶりだった。


「でも、私、本気でエイジのこと愛してたもん。一回本気で愛した相手を、そう簡単に愛せなくなるわけないじゃん」


 私は、狡いのかもしれない。誠実であり続けたと、これからもあり続けると、ショウマに対して言っているのに、エイジを本気で愛してると、今でも平気で心底告白する。ショウマにできない愚痴も相談も、エイジにだけはする。恋人であるショウマについて、昔の恋人であるエイジに愚痴を零す。ショウマにはそうそう囁きすらしない陳腐な愛の言葉を、エイジには押し付けるほどに吐き出す。私は浮気していると、ともすれば言われてしまうだろう。


「まあ、その言い分は分かるけど。愛してる人が2人もいていいの?」

「いいじゃん。ちょっと、愛してるの種類が違うんだよ」

「種類?」

「私は、ショウマを愛してるよ。だから、キスもハグもエッチも、ショウマとしかしない。私はエイジを愛してるけど、エイジとはキスもハグもエッチもしないよ。……どんなことがあっても」


 愛してる、愛してる愛してる愛してる。エイジを愛してる。誰になんと言われようと、私はエイジを愛してる。


 それでも私はもうエイジにキスを求めないし、抱き着かないし、体を許すこともない。だから、この愛の種類は違う。


「それ、愛してるの種類が違うのか、お前の中のギリギリな倫理観なのか――“誠実”なのか、分かんないね」


 そう思っているのだけれど、ただの“誠実”だと言われればそれまでだ。


「そうだね。私もよく分かんない」

「自分で言ったくせに」

「だからね、エイジ、エイジはずっと私のいい話し相手でいて」


 エイジは苦笑した。


「当たり前じゃん」


 ぐっとカシオレを飲み干すと「何か飲む?」エイジが空のグラスを指した。


「ん、いい。もう帰るよ」

「今日は早いな」

「うん。電話かかってるから」

「連絡断ち切ってないじゃん」

「電話なんてしない私達が電話で連絡を取り合うなんて、よっぽどのことなのです」


 バッグを膝の上に載せて財布を取り出した。その視界に、エイジの手が割り込んでくる。


「いいよ、俺につけとく」

「いいの?」

「うん、御祝儀代わり」

「それはちょっと安すぎでしょ」

「バンドマンは金がないのです」

「じゃ、結婚式の招待状出しても来れないかな」

「出すときは欠席に○つけといて」

「そんなひどい女だと思われてるの、私」


 じゃ、ごちそうさま――そう口にして椅子から滑り降りると、エイジは私のグラスを回収した。その指先に名残惜しさなどなかった。


 そして、ただの愛想笑い以上の笑みを、私に手向ける。


「ルナ、結婚おめでと」


 笑っていてもいいから、それでも哀しそうに言ってほしかった。


「ありがとう、エイジ」


 けれど、どうせ、そんなの期待しても無駄だ。


「最後くらい、好きって言ってくれない?」

「折角説教垂れてくれたんだ、俺もお前には誠実であろうと思って」

「なにそれ、別にエイジに求めてないよ」


 じゃあね、そうもう一度口にして、顔を出口に向けるか向けないか、その瞬間、エイジの笑みが止まったように見えた。


「──愛してるよ、ルナ」


 顔を向ければ、間抜けに瞬く私と、まるで恋人を見るかのように愛しげに細められたエイジとの、視線が絡み合った。


「一回本気で愛した相手を、そう簡単に愛せなくなるわけないだろ?」


 ──なにそれ。どうしようもない笑みと一緒に、そう零したくなった。


 きっと、ここでの私は、エイジのそのセリフを茶化して誤魔化して終わらせるべきだった。でも、そんなことをするには、私はエイジを愛し過ぎた。


 そのせいで、エイジじゃなくて私が、哀しく笑ってしまった。


「馬鹿だな、エイジは」

「何が?」

「私の隣でバンド続ければ良かったのに」

「女に養われるなんてイヤなのです」

「そんな変なプライドより、私を選んでくれればよかったのに」

「譲れないプライドってのはあるのよ」

「エイジのそういうとこ嫌い」

「でも愛してるんでしょ」

「うん」


 いつに戻ったって、私とエイジのやり直しなんてきかない。それは、間違えたところなんて一ヶ所たりとも存在しないから。


 私は、エイジの口から、嘘でもいいから、私を「好き」だと引き出したかった。エイジと別れて5年間もだ。それなのに、エイジは笑って流すばかりで何の答えもくれなかった。それは、既に別の恋人がいる私に対する優しさと、エイジとの別れに区切りをつけられない私に対する残酷さだった。


 それがどうして今になって、望みを遥かに超えた答えを囁いてくれたのか。


 その理由が、私がこれから結婚するからだというのなら、いいと思う。


「愛してるよ、エイジ。ずっと、ずっと私の大事な人だよ」


 溜息をつくように吐き出せば、エイジは微笑んだ。エイジが微笑んだときの、優しく光るその瞳の色が、好きだった。


「知ってるよ」


 今まで何度となく繰り返された問答と同じはずなのに、違って聞こえるのは、どうしてだろう。


「結婚したら、もう、二度と言わないよ」

「うん」

「愛してる」

「うん」

「本気で愛してた」

「うん」

「……ばいばい」

「ん、幸せになりな」


 そして、エイジのほうが、私を愛してるなんて、二度と言ってくれないのだ。それどころか、他の男と幸せになって自分のことは忘れろなんて、さり気なく釘をさすのだ。


 そういうところが、嫌いで、好きだった。


 ――さよなら、エイジ。


 お店を出ると、カウンターにただ一人いた客に向かって「ありがとうございましたー」と挨拶をするエイジの声が聞こえた。飲食店舗独特の、扉に対応した鈴の音が収まる頃、私は漸く不在着信に応える。電話の向こうから、心細げに私の名前を呼ぶショウマに、少し笑った。


「今から帰るよ。うち来る?」


 エイジのことを、ショウマは知らない。エイジが一方的に、私の声を通して、ショウマを知っている。この状態は、きっとこれからも変わらない。


 明るくなったショウマの声に、悪戯を許された子供を見るような気持ちで笑いながら、エイジのいるバーを背に、歩き出す。


 エイジが、最後に答えてくれたのは、もう二度と、私がエイジに問いかけることはしないと分かったからだろうか。今更別れることなんてできないと、結婚を前向きにきちんと決めたんだと告げた私が、もうエイジを求めないと、そう確信したゆえの言葉だったのだろうか。


 分からない。そして、それをエイジに訊いたところで、きっとまた新たな問答が始まるだけだ。


 ショウマとの通話を終えたスマホをバッグに放り込んで、新たな問いかけを抱えてしまったことに気が付き、どうしようもない笑みを零した。


 もう、エイジに答えを求めることはできない。そう知りながら、答えることで問いかけを残したエイジは、結局、優しくて、どうしようもなく残酷だ。


 こうして、私とエイジの長い問答は、終わりを告げた。






 さよなら、エイジ。


 声に出したか出してないか、きっと自覚してない彼女の最後の言葉を何度も何度も再生してしまうのは、愛してるから。


 ずっと、俺は狡かった。好きだよ、好きだよ、そう繰り返す彼女に、相槌を打つだけにしていた。それに対して答えは返さない。そうすることでいつまでも好きだと言ってくれるのが心地よくて、その心地よさに埋もれた。


 エイジ、エイジ。


 そう呼ぶ彼女の声が好きだった。聞き続けたかった。


 でも、その声はもう、俺のものにはならない。


 そして、きっと、それでいい。


 俺達は何も間違ってない。だからやり直しなんてきかない。


 俺達の問答が終わってたのは、本当は、もっと前。




私は君を、僕は君を、愛してる。

だから、君に愛を語るのはもうやめよう。

私は君を、僕は君を、幸せにしないから。

でも、どうか、忘れないで。

君を愛してる私を、君を愛してる僕を。


これまた昔(なんと十年近く前)に書いた短編です。これは当時のものをちょっと修正しました。らしくない軽い文体で正直いま読むとモゾモゾします。

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