ああ、死にたいな
テーマ:レーゾンデートル
チン、とトースターが音を立てる。熱いトーストを指先で引っ張り出すと、鉄板と食パンが擦れてガリ、ガリと音がした。その横では、ゴポポ、とコーヒーが出来上がる音もする。
午前8時。トーストにジャムを塗って、口に運び、咀嚼する。
「はー……死にて」
生命活動を維持しながら、そう呟いた。
“死にたい”という言葉は、随分と気軽で手軽なものになった。
「死にたい」と口にした人にロープを渡して「はいどうぞ」と言ったところで、「いやそういうことじゃなくて」と言われるだけだろう。もしかしたらその反応は優しいほうで、よくて「滑ってるぞ」と笑われるだけで、大抵は「正気か?」なんて目で見られて終わってしまうのかもしれない。
でも、そういうことじゃなくて、自分は日々死にたいから。「死にたい」なんて口にする人はみんな本当に死にたいのだと思ってしまう。
それなのに、世間でいう「死にたい」は、ちょっと失敗して凹んだとか、なんだか疲れてしまって休みたいとか、そんな気持ちに過ぎないらしい。そうだよね、みんな死にたいよね、なんて頷く自分が馬鹿みたいだから、本当に死にたくもないのに、気軽に手軽に「死にたい」なんて口にするのはやめてくれないかなあ。「死にたい」と聞くたびに、そう思ってしまう。
人身事故のため運転を見合わせます――そんなアナウンスが流れてきたのは、駅のホームに突っ立って、音楽を聴きながらそんなことを思っていた矢先だった。
「マジかよ最悪」「あぶね、会議明日でよかった」「ごめーん事故で電車止まった、遅れる」「平日の朝はやめろよなあ……」「死ぬなら一人で死んでくれよ……」
アナウンスを聞くためにイヤホンを外した、それもあって耳には次々と文句が飛び込んでくる。そんな中でも駅員は「振り替え輸送を実施しております――」と果敢に呼びかけ、それに合わせて人の群れが列をなす。その波の動きの邪魔にならないように動きながらスマホを見て、ツイッターに検索をかけた。路線名と「人身事故」というワードを入力しただけで、まるで「迷惑」でエゴサをかけたようなツイートが並ぶ。
改札口手前までやって来て、スマホから顔を上げた。もう一度スマホを見て、時刻を確認してからポケットに突っ込む。わざわざ迂回してまで、大学の図書館に行くのもねえ……。
まあいいか、と家へと引き返すのを決めるまで、そう時間はかからなかった。迫り来る夏本番と院試を前にした真夏日、線路沿いにとろとろと歩く中、空には爛々と太陽が輝いていた。
「グロかったなあ」
目をやると、線路沿いに男が2人歩いてくるところだった。
「てか、臭いやばくなかった?」
「ほんとそれな。バイト先の店長がさ、何でも屋で、ああいうのの片付けもやってたんだって」
「マジ、トラウマになりそう」
「いやマジ、最初はしばらく肉食えなかったって。でもそのうち慣れるつってたよ、臭い以外は」
ああ、人身事故――ってか飛び込みって、隣の駅だったのか。会話を盗み聞きしながらそう知り、それでもってもう少し話を聞きたくて立ち止まった。
「どんな感じなの、そういうときの死体ってさ」
「えー、知らね、とにかくグロいってことしか聞かないし。でも人間っぽくないつってた、ボロボロってか、木っ端みじんってほどじゃないけど、そんな感じらしいしさ」
「んじゃ死体ってか肉の塊的な?だ」
「らしいよ、知らないけど。あと夏はヤバイつってた、ほら、すぐ腐るから。だから今日とか最悪かもな……」
段々と遠のいて聞こえなくなった話に後ろ髪を引かれ、つい振り返ってしまった。でも話し声は遠ざかるばかりで、なんなら辛うじて聞き取れたのは「明日の期末の勉強してねー」だったので、もう耳を澄ませるだけ無意味だった。溜息を吐き、線路沿いに、その飛び込みがあった駅のほうへと歩く。
……飛び込みか。じりじりと肌を焼かれながらたらたらと歩く中、頭では線路に飛び込む人間をイメージする。
どうして、その人は、その死に方を選んだのだろう。真っ先に浮かんだのは、そんな疑問だった。
だって、いくら死ぬったって、電車の前に飛び出すことはないじゃないか。そんなことをしたら――さっき見たスマホの画面を思い出す――顔も名前も知らないどこかの誰かさん達にネットでこれでもかってくらい叩かれるんだ。そんなの文字通り死体蹴りだ、死んだ後にそんなことされたくないじゃないか。それでもって、随分前に話題になったとおり、鉄道会社が家族にとんでもない額の損害賠償を求めてくるらしいじゃないか。他人どころか家族にまでそんな迷惑をかけることになる、そんなことを知らない人なんて、さすがにこのご時世にはいないはずだ。いくらでも死ぬ方法なんてあるはずなのに、なんでよりによって飛び込み自殺なんだ。
それに考えが及ばないほど、その人は死にたくて死にたくて仕方がなかったと、そういうことだろうか? 線路の脇で、足を止める。どうしようもなく日々が憂鬱で、死にたくて死にたくて仕方がなくて、手段を選ばずにいられなかったのだろうか。それとも、手段を選ぶもなにもなく、ただ線路の中に吸い込まれていったのだろうか――日々死にたかったから。
じりじりと太陽に照り付けられながら、その人に思いを馳せるように、線路をじっと見つめる。
その人が死にたかった理由は、考える気にならなかった。
「ふぅー……」
1Kのマンションに帰ってきて、無駄にかいた額の汗を拭う。図書館へ行って院試の勉強の続きをしようと思っていたけど、今日はだめだ。ちょっと離れた隙に蒸し風呂のような有様になった部屋のクーラーをつけ、ぺたりと床に座り込んだ。
パチ、とテレビをつけると、昼前のニュースをやっていた。画面には、大学へ行く途中でよく見かけている工事現場が映っていた。
『――にて、昨晩9時頃、鉄骨が落下するという事故がありました。幸いにも怪我人はいないとのことです』
「ああ、これで死にたかったなあ」
誰に聞かせるでもなく、つい、そう呟いた。
本当に、死にたい。大学受験に失敗したとか、恋人にフラれたとか、借金があるとか、そんな明確な理由はない。ただ、死にたい。
我ながら世間的にとってもいい大学に通っているし、大抵の人にはことあるごとに前途洋々と褒められるし、恋人がいたことがないわけじゃないし、友達もいないわけじゃない。でも、どうしても、日々は退屈で、無為だ。
刹那的に楽しい瞬間はある。友達とカラオケに行くのは楽しい、飲み会で酔っ払うのだって楽しい、旅行するのだって楽しい。それでもいつだって、死にたい。
だって、楽しいっていったって、刹那的だし。これから広がる将来が希望に満ち溢れているっていったって、しょせんいい会社に勤めていい給料をもらえるってだけだし。生きていくためにせっせと金を稼いだって、そもそもなんで生きなきゃいけないんだ?
自分は歴史に名を遺す偉人でもなければ、SNSで認知される程度の有名人にもならない。自分は何かになることはなく、個性はしょせん限られたコミュニティで浮いた性質に過ぎなくて、世界から見れば自分はただ1人のありふれた人間で、いてもいなくても誰かの何も変わらない。
それなら、生きてる意味ってないよなあ。自分がこの世に存在してる理由ってないよなあ。それでも、“死”を“選択”すると、その作為に意味が生じてしまうから、別に死にたいことに理由なんてないのに、死にたい理由があったみたいに見えて、おかしな話だよなあ。
そう考えると、わざわざ死ぬ気にはならないのだけれど、それは、死にたいなあ、という感情と矛盾するものではない。
だから、こういう、不慮の事故という名の偶然に殺されてしまえば、何も考えずに、ただ早めに死ぬことができるのになあ。日々生命活動を維持しながら、今日もそう思っている。
昔書いた話が消えてしまったので思い出しつつ、思い出せずにアレンジしました。当時のものが再現できなかったのは感覚が変わってしまったからなのか……。