13.江夏郡への侵攻(地図あり)
建安2年(197年)9月 徐州 下邳
諸葛瑾や趙雲などの人材を受け入れたこともあり、徐州と揚州2郡の開発は順調に進んでいた。
まず戦乱を嫌って江東へ逃げていた領民が、続々と江北に戻ってきた。
おかげで徴税が可能な農地が増えて、税収の増加が期待できる。
ただし放っておくと、豪族が土地を収奪したり、流民を私有民にしちまうから、定期的に領地を巡回するなどして、目を光らせねばならない。
領民の増加は、貨幣経済の活性化も促していた。
魯粛に頼んでおいたように、徐州内の市場を整備し、取り引き規則も周知させた。
すると人口の増加も相まって、徐州に商売の流れが広がってきたのだ。
そのうえで市場には官吏を派遣し、私鋳銭や違法取り引きを取り締まったりしたものだから、その流れはさらに加速した。
今は平和になった江東や、荊州までをも巻きこんで、俺の支配地の商業が活性化しつつある。
漢王朝が健在だった頃に比べるとまだまだだが、この流れは維持したいと思う。
それと並行して、軍の強化も進めていた。
基本的には各郡や県で募兵をして、訓練を施すものだ。
しかしそれだけでは、大した兵力は揃えられない。
そこで屯田制と兵戸制ってのを、採用してみることにした。
屯田制とは民に土地を与えて耕作させる制度で、兵士を使う場合は軍屯、ただの農民の場合は民屯と呼ぶ。
そして兵戸制とは、専従兵士を農民とは別の戸籍に登録し、税の減免をする代わりに、兵役の義務を課す制度である。
これは曹操がやってる仕組みで、あいつはこれによって、強大な軍と食料の確保を実現してるんだ。
そのまま真似るのは難しいが、俺の支配地に適した感じで、採用してみた。
まあ、細かいことは陳羣とか諸葛瑾たちに、丸投げしてるんだけどな。
このおかげで動員できる兵数が増えて、いざとなれば2万人ぐらいは動かせるようになった。
前は数千人が精一杯だったのが、ずいぶんと変わったもんだ。
いずれにしろ、今の徐州は食料は足りてるし、経済も活性化してる。
このまま兵を鍛えていけば、荊州への侵攻も夢じゃないだろう。
ちなみに今年に入ってからの周辺の情勢だが、まず曹操と袁紹が疎遠になってきた。
元々は袁紹が曹操の上に立って、中原に幅を利かせてる感じだったのだ。
しかし曹操が天子さまを保護したもんだから、立場が入れ替わっちまったんだな。
天子さまを迎えた功績で、曹操はいきなり大将軍に任命された。
しかし袁紹がそれに不満を漏らしたため、曹操は大将軍の座を袁紹に譲ったらしい。
そのうえで曹操は改めて司空に任命され、車騎将軍も兼ねているのが現状だ。
とりあえず表面上はそれで収まったが、どちらも内心は面白くないだろう。
その結果、袁紹は勢力の拡大に勤しむことにしたようで、今は幽州の公孫瓚と敵対している。
そして公孫瓚を倒した後、曹操と対決するのは前生でもあった話だ。
今生でもそれは起きるだろうから、俺はそれまでに力を蓄えるつもりでいる。
それからこの夏には、曹操が荊州の南陽郡へ遠征して、張繍に大敗したらしい。
これは前生でもあったことだな。
この張繍ってヤツは董卓の元配下で、董卓の暗殺後に南陽郡を攻略して居座っていた。
その際に張繍は、劉表と結んでいたらしい。
そこへ曹操が攻めてきて、張繍は一度は降伏したものの、再び背いたんだって。
一説によると、叔母を曹操に取られてキレたってんだが、本当かねえ。
いずれにしろ、曹操に油断があったんだろう。
この反乱で何人もの腹心や、長男まで失ったってんだから、曹操もお気の毒さまだ。
しかしまあ、俺にとっては曹操が強大になりすぎないので、都合がいいとも言える。
それにしても、徐州や揚州の状況は前生と大きく違ってるのに、起こることは起こるもんだな。
しかし歴史が変わってるのも事実なので、今後も油断なく情報を集めるつもりだ。
今生では慎重にやらなきゃな。
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建安3年(198年)3月 徐州 下邳
曹操はその後も南陽へ兵を出して、張繍を攻めているようだ。
ところが張繍もふんばってるらしく、曹操はなかなか攻めきれない。
これには劉表が後ろ盾になって、兵糧なんかを支援してるのもあるようだ。
この件、俺にとっては他人事だと思ってたんだが、そうは問屋がおろさなかった。
「江夏郡へ兵を出せですと?」
「ああ、劉表の注意を逸らしたいんだろうな」
「ふうむ、勅命とあれば、従わざるを得ませんな」
「ああ、ちょっと早いが、荊州攻略に手を付けよう。廬江へ行くぞ」
朝廷(曹操)から俺に、荊州への出兵指示が下りてきた。
前生では曹操が単独で張繍を降していたのだが、今生では俺がいることに気がついたらしい。
そこで廬江郡に隣接している荊州の江夏郡に、兵を出せと言ってきた。
考えてみれば、呂布に徐州を取られてボロボロだった前生の俺とは、大違いなのだから当然だ。
本当はもっと力を蓄えたかったのだが、仕方ない。
俺は本格的な出兵を進めるために、廬江へ跳んだ。
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建安3年(198年)6月 揚州 廬江郡 尋陽
廬江で関羽たちと相談した結果、翌月には6千の兵を荊州へ送り出した。
目標は荊州 江夏郡の夏口城だ。
ここは江夏郡の要衝であり、前生でも孫策や孫権が手こずっていた城である。
孫策といえば以前、周瑜と会談した時に、荊州攻めに興味を示していた。
しかしこの状況で援軍をもらっても、大して嬉しくない。
むしろ分配で揉めると思った俺は、単独で出兵することにした。
そんな我が軍は関羽を主将に、太史慈と趙雲も兵を率いている。
そして俺は廬江郡の西端にあたる尋陽に陣取って、後方から指揮を執ってるわけだ。
えっ、最前線には行かないのかって?
関羽がいるとこに、俺なんかが行っても、大して役に立たないからね。
それぐらいならちょっと後ろに控えていて、兵站を維持したり、いざという時に指示を出せるようにしたんだ。
いやあ、有能で信頼できる部下がいると、楽でいいね。
まあ、最終的な責任は、俺が取るんだけどさ。
しかしさすがの関羽も、夏口城の攻略には手間取っていた。
敵には黄祖っていう武将がいて、我が軍に抵抗してきたんだ。
この黄祖って男、孫堅を討ち取ってるし、前生で孫策や孫権の侵攻を跳ね返したりと、なかなかの良将らしい。
おかげで2ヶ月経っても落ちないんだが、その間に荊州の情勢が変わった。
「はあ? 長沙で反乱が起きた?」
「はい。張羨という男が、零陵と桂陽を巻きこんで、劉表に反乱しているそうです」
「なんとまあ。それで俺たちと、連携したいってのか?」
「はい、そう言ってきております」
「ふうむ……」
なんと長沙で太守をやってる張羨ってやつが、零陵と桂陽を巻きこんで反乱を起こした。
言われてみれば、前生でもそんなことが起きてたかもしれない。
どうやら張羨は劉表に疎まれてるらしく、普段から恨みを抱いていたんだろう。
そこで俺が江夏郡を攻めたもんだから、これ幸いと兵を起こしたようだ。
状況が見えてくると、俺はそれを利用することに決めた。
「よし、張羨には了解したと伝えろ。劉表はそっちにも兵を取られるから、今が攻めどきだ。こっちは追加の兵を出すぞ」
「はっ、張遼どのの部隊が、整いつつあります」
「ああ、急いで出させろ。それとこっちは、江夏郡に噂をばらまくぞ」
「フフフ、長沙で反乱が起きたから、援軍は来ないと言うのですな?」
「そんなとこだ。細かいことは頼むぜ」
「お任せを」
参謀役の陳宮が、いそいそと動き出した。
さて、これで状況は動くかな。




