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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
1.乱世の始まり
8/64

8:<郭嘉編>逃れるための策

すっかり袁紹軍の中で目をつけられてしまった郭嘉は、冀州を穏便に脱出するために策を弄すことに

 曹操が青州黄巾賊百万に勝った、という報はすぐに郭嘉の耳にも届いた。

 それだけで袁紹軍は大騒ぎになった。誰もが曹操が負けるものと思っていたらしい。

 次いで、ひと月ほど経つと徐々に詳細がわかってきた。

 曹操は戦で何度か黄巾賊を討ち負かすと、その大半を心服させ、三十万の兵と百万の民を手に入れたという。兵からは精兵を選んで青州兵と名付けて曹操直属の軍とし、百万の民には土地を与え、帰農させたという。

「百万の民に土地を与え……って、嘘だろ」

 静から報告を聞いた時、郭嘉が真っ先に思ったのはそれだった。

「ありえないだろ。どこにそんな土地あるんだ? 数、水増しされてるんじゃないか?」

「それもあろうかとは思います。元々の青州黄巾賊百万も果たしてどこまで正確だったのかわかりませんし。ただ、曹操殿は確かに東武陽の南東あたりの土地に、ある程度まとまった集落を築いてそこに元黄巾賊の者たちを住まわせたという話です。また、そこから精兵十万を選んで直属の兵としたことも、間違いないかと」

 百万と言えば、もう立派な大都市だ。そんな簡単に作れるとは思えない。それとも、宗教という支柱があれば、百万の民をまとめることなど造作もないことなのだろうか。

「一説によれば、民の内何割かは各地の城市に数千から数万単位で入植したという話もあります。兗州一帯には耕作放棄地がかなりあり、作り手を失った田畑を黄巾の者たちに与えたとか」

「それはそれでまた……どう考えてもうまくいきそうにないとしか思えないけどな」

 仮に何十万の都市だったとしても、いきなり移民が一万やってきたとしたら大混乱だろう。しかも、それは元周囲で略奪を行っていた賊徒なのだ。いくら上からのお達しとはいえ、そう簡単に都市になじめるものかどうか。

「反発とかは?」

「結構あるようですが、今のところどこかの都市が反旗を翻したというような話は聞きませんね。それよりも、黄巾賊百万を平らげた曹操殿の声望の高まりがすさまじく、各地から曹操殿に仕えたいと知将勇将が集まっているとか」

「ふーん」

 日の出の勢い、とはこういうことか。感心してうなずくと、静は更に続けていった。

「ちなみに、黄巾賊の中に戯志才という人物がおられ、降伏した後は曹操殿になかなか重用されているそうですよ」

「戯志才って、あの潁川の変人? 古今あらゆる兵法書を読みつくして講釈垂れるのだけが生きがいだとか言う」

「であろうかと思います。確か、一度お邸に来て若と議論なさったことがありましたよね」

「ああ。今でもよく覚えてる」

 十二・三歳くらいの頃に一度、郭図が戯志才を伴って邸にやってきたことがあった。他の何人かと共に孫子の話になったが、あまりの知識量に誰も彼の話についていけず、結局戯志才の長い長い古今の戦略分析を聞かされる羽目になった。子供のころの話とはいえ、未だに印象に深い。

「よくあんな人臣下にしたなあ。しかしそうなると……俺、あの人に勝つ自信ないわ」

 古今の兵法書を網羅した知識、くらいならば郭嘉でもなんとかなるが、古今すべての戦の記録まで頭に入っているのではないかと思うようなあの戯志才の知識には正直敵う気がしない。

 去年、軍議で要らぬことを言って部屋に引きこもってもう数か月になる。そろそろここを出ることを考えようかと思っていたが、こうなってくると、仮に曹操のところへ行っても多くの知将に埋もれてしまいそうな気がしてきた。

「……やっぱ、仕官なんてしても無駄かなあ」

「これはまた弱気な」

「だって文若殿だけじゃなくてあの戯志才もいるんだぞ。俺の出る幕ある?」

「ちなみに、曹操殿にはほかにも程立殿や陳宮殿という、兗州の名士たる謀士がついているそうですが」

「軍師多すぎじゃないか?」

「曹操殿はその多数の軍師をうまく使われるだけの器の持ち主ということでは。それに、袁紹殿にはそれよりも多くの軍師がおられますでしょう」

「まあ、そりゃそうだけど」

 袁紹の軍師たちはどちらかというと派閥争いにかまけている印象しかなく、あまり負ける気はしない。ただ、郭嘉はそんな派閥争いに加わりたくはなかったし、仮に加わったところで袁紹はいまいち覇気に欠ける気がしてならないので、天下が獲れるとも思えない。

「曹操殿のところでもみんな権力争いしてんのかな? 文若殿の手紙にはそういうの全然書いてないけど」

「手紙にそんなことを書くような方ではないという可能性もありますが」

「まあ、そうかな」

 あの清廉潔白をそのまま形にしたような男が、曹操のご機嫌獲りに汲々としているというのも想像しがたい。ただ、これだけ軍師がいれば権勢争いは当然あるだろうとは思えた。

「仕官ってめんどくさいな。やっぱ学問やってたほうが――」

 そこに、戸を叩く音が響く。

 一応寝込んでいることになっているので、普通は客人など来ない。

 郭嘉が静に目を向けると、彼は立ち上がって次の間へと向かった。客人に断りを入れるためだ。しかし、言い争う声が聞こえたと思うと、客人と思しき男はそのままずかずかと中へと入ってきた。

「えっと……」

 牀に横になってだらだらしていた郭嘉は、思わず半身を起こした。やってきた男には見覚えがある。よく袁紹の隣に立っていた年かさの軍師だ。確か、名は――

「田豊と申す。こうして向き合ってお話しするのは初めてだな」

 袁紹軍の中では、かなりの重鎮だ。といっても、郭嘉の印象では舌鋒鋭すぎて袁紹に疎んじられている印象の方が強いが。

「何か、ご用ですか?」

 郭嘉が問うと、田豊は持っていた竹簡を郭嘉へと差し出してきた。受け取って、田豊を見る。

「読まれよ」

 田豊にそう言われたので、郭嘉は竹簡を留めていた紐をほどき、中に目を通した。

 竹簡は荀彧からの物だった。相変わらずたわいもない雑談から始まる。いつもなら少し近況報告があって、せいぜいで郭嘉もそろそろ仕官しては、という程度の文言で終わるのだが、今回は違った。曹操軍がいかに忙しいかを書き連ね、ぜひ幕下に招きたいとある。

「……お読みになったので?」

 田豊を冷たく見つめ言うと、彼は当たり前のようにうなずいた。

「ここでは他人の書簡を読むのが当たり前なんですかね? 普通、ありえないと思いますけど」

「当然であろう。どこの誰が何者と内通しておるかもわからん」

「失礼だな。内通なんてしてないですよ。向こうが勝手に送ってきてるだけじゃないですか」

「ちなみに、荀文若から竹簡を受け取ったものは多数いるが、そのようにはっきりと引き抜きの文言が書かれておったのはそなただけだ」

「全員分読んでんのかよ」

 郭嘉は大仰に肩をすくめ、竹簡を脇に置いた。

「曹操軍はよっぽど人手に困ってるんじゃないですか? なんせいきなり兵が三十万、民が百万増えたっていうんだから。当然それを管理する官吏も必要でしょう」

「そなた、曹操の下へ参るつもりか?」

 射るような視線に、妙な反抗心が煽られる。しかし、ここで妙なことを言えばろくなことにならないのもわかっていた。

「そんなつもりはありません。ただ、そろそろここは出て行こうと思っています。病弱な身では、到底お役にも立てそうもない」

「それはならぬ」

「は?」

 田豊は郭嘉のすぐ目の前に立つと、相変わらず牀に座ったままの郭嘉を間近で見下ろしてきた。

「そなたの慧眼、なかなかのものだ。加えて殿におもねる様子もなく、なかなか気骨がある。そのように斜に構えておらんで、軍議に参加してはどうだ」

「何言って」

「先だって、曹操が勝つことを予想したのはそなただけだった。いくら賊徒相手とはいえ、百万の軍相手に数万で勝てるわけがないと誰もが考える。しかし、そなただけはそれを見抜いた。大したものではないか」

「そんな大したことじゃないですよ。ただ、破れかぶれじゃないならどうすればって思っただけで」

「そなたのように気骨があり、慧眼を持ったものが殿には必要なのだ。そなたが殿をあえて『殿』と呼ばぬにはそれ相応の理由もあろう。しかし、ここまで長くここに在って、天下を思う心もまたあるのであれば、殿にお仕えしてもいいのではないか?」

 驚くほど、真摯な言葉だった。

 袁紹にもまともな家臣がいたのだと初めて知った。どいつもこいつも勝ち馬に乗って楽したい連中ばかりだと思っていた。

「殿に仕えられぬ理由でもあるのか?」

 郭嘉が押し黙って答えなかったせいだろう。田豊はじっと見つめ、問うてきた。心底不思議でならないという顔だ。それに、郭嘉は少しためらってから答えた。

「では、逆にお伺いします。あなたは袁将軍が天下を獲るとお思いで?」

「無論だ」

「俺には、そうは思えない。それだけのことです」

 田豊は視線を逸らし、何かを考え込むかのように瞳を閉じた。

「そなたに、そう見えるのも無理からぬこととは思う。しかし、では他に誰が天下を獲りうるというのだ? 曹操か? 公孫瓚か? はたまた袁術か。どれもこれも、器はあっても家柄が足らぬか、家柄があっても器が足らぬ。しかし我が殿はどれもしかるべきものをお持ちだ」

 この男にはそう見えているのだ。半ば呆れて見つめると、田豊は睨むように郭嘉を見つめてきた。

「確かに、足らぬところもおありだ。だがそこは、我らがお支えすればよい。仮に曹操が天下を獲って誰が従う。やはり天下は然るべき家柄の、然るべき教育を受けたものが受け継ぐのがもっとも平穏なのだ。下手に曹操などが天下を取ってみよ。宦官の孫になど膝を屈せぬという者が続出し、天下の人士は朝廷に背を向けるであろう。袁術は小人に過ぎず、そもそも天下など獲れる器ではない。ひき比べ、我が殿は大きな器と広い度量をお持ちだ。名門袁家に仕えるのをためらう者もない」

 家柄ってそんな大事なことかな、と郭嘉は思っていた。もちろん、曹操が宦官の孫だから仕えるのは嫌だと言っている文人が何人かいたことは知っているが。

「よいな、再び軍議に出るのだ。何も、私の派閥に入れと言っているわけではない。以前のように郭公則の陰に隠れる必要もなかろう。なんならそなたがそなたの派閥を作ってもいいのだ」

「そんなの、誰も従うわけないですよ」

「そうか? 家中の文人の中にはお前を誉めそやす者も少なくない。やる気にさえなれば、不可能ではない」

「やる気になることなど――」

「我が殿にお仕えせぬというのであれば、それ相応のことも考えねばならぬ」

 ぴしゃりと言われ、郭嘉は思わず口をつぐんだ。見上げると、田豊は顔色一つ変えず、冷厳と郭嘉を見下ろしている。

「そなたは、敵に回すにはいささか厄介だ」

「……それって、出てくんなら殺すって言ってます?」

「そうだ」

「俺、曹操殿のところに行くなんて一言も言ってませんけど」

「そなたが荀文若と親しくしていることは明白。曹操が勝つと予見したのも曹操にそもそもひいき目があったからとも考えられる。そなたが曹操に膝を屈する可能性は十分あろう。あるいは、実はすでに曹操に臣従していて、密偵としてここに来ているのかもしれんが」

「まさか! だったらなんで文若殿が俺に『早く仕官しろ』なんて言ってくるんです。そもそも、袁将軍と曹操殿は友軍のはずだ」

「今のところはな。だが、考えてもみよ。早晩公孫瓚はうち滅ぼすことになるだろう。そうなったとき、中原に出るには明らかに曹操が邪魔だ。しかし、曹操は我が殿に膝を屈するような男ではない。そして、敵とすればまこと厄介な相手には違いない」

 老婆心が過ぎるんじゃないか、と言いかけて、やめた。実際、あと五年くらいすれば袁紹と曹操が戦うことは十分ありうる。

 郭嘉が返答に困ってじっと見つめていると、田豊は嘆息し、踵を返した。

「明朝、軍議がある。そなたも出席するように」

 有無を言わせぬ調子で言い置くと、彼はそのまま室を出て行った。

「若」

 控えていた静がためらいがちに声をかけてくる。郭嘉は肩をすくめ、再び長椅子に横になった。

「ここまで目を付けられるとか、思ってなかったんだけどな。俺、そんなすごいこと言ったかね」

 なんとかしてここは離れるべきだろう。袁紹の臣下になるのも、殺されるのもまっぴらごめんだ。

 では、どうするか。

 郭嘉は目をつむってそれを考え始めた。





 翌朝の軍議に、郭嘉は久々に参加した。今回は郭図の後ろに隠れるような真似もせず、席は適当に前の方に座った。座るとき、袁紹が意外そうに見つめてくるのに気づいたが、軽く会釈するだけに済ませた。

「さて、此度の議題は孟徳だ。公孫瓚は今劉虞とやりあっておって、ひとまず置いておくべきであろう。孟徳が思ったより大きくなってきている。これをどうすべきか、意見を求める」

 軍師たちが次々に意見を述べ始める。今のところ様子見でいいだろうというのが大勢だ。やはり曹操を侮っている者が多く、また、彼が敵として向かってくるはずがないと思っている者も多かった。

 田豊を見る。彼はまだ発言していない。目が合うと、彼はすぐに袁紹へと向き直って言った。

「殿、私はいくらかの牽制は必要かと思っております」

「牽制だと?」

「はい。兵十万を手に入れた曹操が、果たしてどういうつもりなのか。突然兵力が何倍にも増えて持て余しているという可能性もございます。ここは、探りを入れてみられてはいかがかと」

「探りと言って、どうするのだ。孟徳相手に兵を出せば、あいつのことだ、怒って牙をむきかねぬぞ」

「賊徒をお使いになればよろしいでしょう。黒山の賊は本拠をつぶされたとはいえ、まだ兗州にくすぶっておりますし、黒山に加担していた匈奴の於夫羅なども予州あたりにいるという話です。連中をけしかけてみては」

「ふむ。それならば……」

 袁紹がうなずきながらひげをさすっている。それを見ていると、また袁紹と目が合った。

「郭嘉」

「は」

「久しいではないか。もう体調はいいのか?」

「はい。おかげさまで、もう何も問題はございません」

「そなた、この件についてどう思うか?」

「そうですね……」

 もったいぶって小首をかしげてから、郭嘉は言った。

「俺も、牽制してみたらいいんじゃないかと思います。曹操軍はいきなり兵が増えたとはいえ、おそらくまだ把握しきれていないのではないでしょうか。しかも、百万の民まで受け入れ、各地の城市に入植させたとか。これもまた、兗州の元々の民にとっては心穏やかなことではないでしょう。案外つついてみたらあっさり崩れるかもしれない。先程田軍師がおっしゃったように賊徒を使うのも手ですが、もう一つ。袁術をけしかけてみてはいかがでしょう?」

「袁術?」

 周囲から驚きの声が上がった。

 袁術と袁紹は同族とはいえ、仲はよくない。袁術は特に、袁紹を目の敵にしている。曹操を攻めてくれなどと要請できるはずがなかった。案の定、周囲の軍師たちがあきれたような目を向けてくるのがわかったが、郭嘉は気にせず袁紹に向かって言った。

「袁術もまた、曹操殿が兗州を制したことを苦々しく思っているでしょう。宦官の血筋の者が日の出の勢いってのもそうだし、何より、袁術は曹操殿を袁紹殿の部将くらいに思ってるでしょう。すなわち、袁紹殿の権勢が増すと言うことは、袁術にとっては自分の権勢が衰えて見えることになる」

「だからといって、袁術に孟徳を攻めろなどと言えるわけがないではないか。それこそ孟徳と完全に敵対する」

「表立ってやる必要はないでしょ。元々袁術は曹操を叩きたがってるはずだから、後はその理由をつけてやればいいんです。例えば、袁術の名前で朝廷に上奏して、兗州刺史を任じてもらうようにするとか。あるいは、誰かを使って袁術にそういう趣旨のことを献策させる。多分、袁術は乗ってきますよ。朝廷から正式な兗州刺史が来たら、曹操殿を叩くいい理由づけになる。それくらいの裏工作、できますよね? 当然隠密とか使っておられるでしょ?」

 袁紹が驚いたように目を開いた。

 朝廷から正式な刺史が来れば普通なら従う義務がある。もちろん、今の朝廷には任じることは可能でも、それを実行に移せるだけの権力などない。今朝廷から刺史が任じられてきたとしても、多分なにもできない。

 ただ、その刺史を保護すれば、袁術にとっては「朝廷から来た刺史に兗州を治めさせるべきだから、曹操は朝廷に逆らう逆賊だ」という大義を得ることになる。曹操軍に攻め入る口実になるというわけだ。

「袁術は曹操くらい軽く叩けるって思ってるんじゃないかな。ここで曹操軍に――すなわち袁術から見たら、袁紹軍に痛打を与える理由があれば、多分動くと思うんですけど」

 ざわ、と場がどよめく。袁紹はふむ、と考えるようにひげをさすった。

「孟徳が負けたらどうするのだ。今はまだ、孟徳につぶれてもらっては困る。袁術と直接ぶつかるのは避けたいのだ。ましてや袁術に兗州まで獲らせるなど」

「それには、劉表を動かします。劉表に背後から袁術を襲うようけしかけるんです」

 また、どよめき。

 劉表は数年前荊州刺史に任じられて以来、領土を守ることに徹底し、外に攻め込むことはしていない。ただ、外敵が来ることには敏感なのか、先だって孫堅が荊州にやってきた時は彼と戦ってもいる。

「劉表が袁術を攻めるとは思えんがな」

「劉表とて、曹操殿が大きくなり、押し出された袁術がいつ荊州に攻めてくるかと思っているはず。孫堅が死んだことで、なんとなく袁術と劉表は対立しているはずですからね。劉表には、曹操殿と挟撃の形になるから、南陽くらいは獲れるだろうとでも言えばいいでしょう。曹操殿の方には劉表と共に袁術を討てと命じれば、曹操殿の今後の態度もわかりますし、賊徒相手ではない、十万とも言われる袁術の正規軍との戦いで曹操殿の力も測れる。しかも、うまくすれば袁術は挟撃に遭って相当な痛手を被るでしょう。どうです?」

 郭嘉は袁紹をまっすぐに見据え、にっこりと笑った。

「なんなら、俺が使者として劉表を説得してまいります」

 ざわ、とまた場にどよめきが満ちた。

 袁紹はと言えば、怪訝そうにじっと郭嘉を見ていた。無理もない。ついこの間まで仮病を使ってやる気がないと公言していた男が、突然自分の策を採用して使者にしてくれなどと言ったのだ。驚かない方がおかしい。

 ――だけど、わかるだろ。これってかなり、あんたに利になる話だぞ。

 今までの袁紹のやり方を見ていれば、わかる。この男は徹底して自分の手を汚したくない男なのだ。劉表をうまく動かせば袁術と曹操に痛手を与えられる。そう考えれば、乗ってこないはずがない。

 郭嘉には自信があった。

「なるほど、うまくいくならなかなかの策だ。劉表を説得する自信はあるのか?」

「あります。というより、劉表との同盟自体はそう難しくはないでしょう。なんとなく、態度を見てると荊州だけ保ちたい感じじゃないかな。劉表としては盟を結ぶ相手を探してる可能性がある。袁術とは敵対してて盟は結べないでしょうしね。それに、こちらとしては劉表を取り込んでおけば後々色々と有利になると思いますけど。袁術の背後に味方がいることになる」

「ふむ。……沮授。そなた、どう思うか?」

 袁紹が沮授に聞いた。沮授は袁紹の実質的な軍事司令官の地位にあったはずだ。

「は。わたくしは、悪くない案かと思います。劉表を使うというのもそうですし、うまくすれば曹操と袁術はつぶしあって相当力を失うでしょう。使者が奉孝殿というのも悪くはないと思います。奉孝殿はなかなか弁が立ち、頭も回る。ただ……」

 沮授が郭嘉を見つめてくる。

「病弱と評判の奉孝殿が、果たして無事荊州にたどり着けるかどうかが、いささか」

 じっと沮授に見つめられると、郭嘉としては反論できなかった。確かに、病と偽って半年近くも部屋にこもっていたのは事実だ。

 どう言い訳したものか。困っていると、袁紹と田豊もまた郭嘉をじっと見つめていることに気づいた。田豊の方は、もしかしたら郭嘉の意図に気づいているかもしれない。

 ――失敗したかな。

 しかし、続いて聞こえてきたのは田豊の意外な言葉だった。

「殿、奉孝殿は顔色もよく、かなり回復した様子。ここは彼に任せてみられてはいかがでしょう。ただ、荊州は遠く、道中何があるかもわかりませぬ。護衛をつけて同行させてはいかがでしょうか」

「ふむ、そうだな。では、郭嘉。やってみよ。そなたに使者を任せる」

「ありがとうございます。必ずや、お役に立って見せます」

 拱手して首を垂れながら、郭嘉は内心舌を出していた。

 どうやら、お目付け役は付くようだが、無事荊州には行けそうだ。田豊を見ると、彼は一瞬だけ郭嘉を見て、すぐに素知らぬ風で袁紹へと目を向けた。

 軍議が終わって部屋に戻ると、すぐさま郭図がやってきた。

「どういうつもりだ、お前!」

 襟首をつかむような勢いだ。出しゃばるな、と言いたいのだろう。郭嘉は肩をすくめて見せた。

「どうもこうもない。軍議に出て献策しないならただじゃ置かないって脅されたから、しようがなくだ。勘違いすんな。俺は別に袁紹殿の重臣になりたいなんて思ってない」

「見え透いた嘘をつくな。誰がそんな」

「田軍師だよ」

「田軍師が?」

「疑うなら本人に聞いてみろ。ま、俺は感心したよ。袁紹殿にも真に彼のために尽くそうっていう立派な臣下がいたんだってな」

 郭図が顔をしかめる。皮肉だったのが伝わったのだろう。

「でも、これで俺は大手振って荊州に行ける。下手したら数か月帰って来られない。そのくらいあれば、田軍師も俺に目をつけるのやめるだろ」

「それは、そうだが……」

「そんな袁紹の役に立ちたいってんなら、あんたにひとつ献策しとくよ。袁紹殿に、劉虞を助けろって言うんだ」

「何?」

 今、公孫瓚は劉虞と冀州のすぐそばで相争っていて、袁紹はそのどちらにも加担していない。もともと公孫瓚と争っているのだから、普通なら劉虞に味方してもよさそうなものなのだが、袁紹はここでも援軍を出していない。他人は使うくせに、他人に協力してやるのは嫌いなのだろう。

「敵の敵は味方だろ? それに、長い目で見てみろ。やる気満々戦大好きの公孫瓚より、高貴なお生まれで争いを好まない劉虞の方が絶対に与しやすい。まず劉虞と結んで公孫瓚を討つ。で、その後劉虞に臣従なり降伏なりを求めれば、あっさり河北四州は袁紹殿のものだ。最悪劉虞が臣従しなくたって、袁紹殿がまともに天下を治めるような姿勢を見せてれば、穏便に同盟は結べるだろう。そもそも劉虞は天下に覇を唱えるつもりなんてなさそうだからな」

 郭図はしばらく考える様子を見せたが、首を振った。

「多分それは無理だ。劉虞は一度、殿から帝に即位するよう頼まれて、断っている。それで、殿は劉虞にいい感情を持っていない」

「そんなもん、天下を獲ろうっていうのにくっだらないこといつまでも根に持つなって言ってやれよ。ほんのちょっとムカつくのを我慢するだけで、ぐっと戦は楽になる。このままいけば負けるのは劉虞だろう。袁紹殿は公孫瓚には散々てこずらされてるんだ。まともに当たったら疲弊は避けられない。逆に、今劉虞と結べば公孫瓚はあっさりつぶせるかもしれない。加えて、劉虞は蛮族とも仲がいいって言うじゃないか。うまく劉虞を臣従させられれば、精強と名高い蛮族の騎馬隊がそのまま使えるかもしれないぞ。中原を制するのも楽になる。こんだけ材料そろってれば袁紹殿だって考え方変えるだろ。で、そこでうまくいけば、それはあんたの手柄だ」

 郭嘉はまっすぐに郭図を見つめ、その胸に軽く指を押し当てて言った。郭図の視線が揺れる。うまくいくか、迷っているのだろう。

 こんなことを言いながら、多分、袁紹は策を用いないだろうな、と郭嘉は思ってもいた。袁紹は、どこか小さい。大局を見て動けばもっと効率よくいけるはずなのに、どこか私情で動いている。

 だが、それでいい。下手に効率よく河北を制してしまったら、次に標的になるのは曹操だ。

 郭嘉は、どうせなら袁紹ではなく曹操に天下を獲ってほしいと思う。あの、燃えるような瞳で、真に天下の平和を願う人に。

「じゃ、俺はのんびり荊州行ってくるから。あとはうまくやれよ」

 半ば押しやるように郭図を部屋の外へと押しやって、郭嘉は深くため息をついた。

「ったく、どいつもこいつも。お前の仕事は俺の牽制じゃなくて、袁紹がどうやったら天下獲れるか考えることだろっつーの!」

 倒れこむように寝台に突っ伏して、目をつむる。

 袁紹が天下を取れないのは、臣下に恵まれてないのもあるな、と思った。




 冀州の知人から来た手紙に、荀彧は眉をひそめていた。

 友人は、袁紹の下にはいるが袁紹に仕える気のない文人で、しばしば袁紹陣営の情報を届けてくれていた。

 曰く――


 最近、袁紹軍旗下の軍師たちの間で、郭奉孝殿という若者が目立っています。本人はいたってやる気がなさそうであまり発言はしないのですが、たまに言うことが非常に鋭い。先だって、曹操殿が青州黄巾賊に勝つことを予見したのも彼だけでした。家中の軍師たちに論戦を挑まれても全く負けておらず、なかなかの知略の持ち主です。袁紹殿も目をかけておられると見え、最近、使者の任を任されたようですよ。郭奉孝殿は潁川の出身とか。文若殿もご存じではありませんか?


「……困ったな」

 荀彧は誰もいない室で小さくつぶやくと、眉間に拳を当てて瞑目した。

「冀州に残ればいいなんて言うんじゃなかったな。袁紹に仕える気はないと言っていたのに、気が変わってしまったのか……。あんな、無難だけが取り柄の能無しのどこがいいのか。頭はいいのに、見る目がないのか。あるいは、若さゆえか……」

 ここしばらく、郭嘉からの返事は来ていない。しつこく仕官を誘ったせいかもしれないと思っていたが、いよいよ本当に袁紹に仕えるつもりになったから、と考えられなくもなかった。

 荀彧は小さくため息をつき、しばし考えた。

 確か、郭嘉は陳留に家族を残してきたと言っていたはずだ。陳留は張邈と言う曹操の友人が治めているが、ほぼ曹操の勢力圏だ。加えて潁川は董卓軍に略奪されて以来まだ復興はなっていないはずだから、おそらくまだ陳留にいる可能性が高い。

「誰か。陳留まで遣いを頼めるか」

 やってきた家僕に、荀彧は陳留にとどまっている郭家の者を探せ、と告げた。

「見つけ次第、丁重にこちらへお連れするのだ。よいな」




 鄴から出るとき、郭嘉に与えられたのは劉表への書状と進物、路銀、そして、護衛の兵三人だった。

 護衛三人は、数だけ見れば無難な気がするが、どうも兵は兵でも上級の兵が来たらしい。武術の心得のない郭嘉さえ、ぱっとみてかなりの手練れだとわかった。従者として同行する静も、見るなり眉をひそめている。

 静には、荊州に行ってそのまま冀州には戻らないつもりだと言ってある。となれば、この護衛三人をどこかで撒くか始末するかしなければならないわけだが、どうも彼の反応からするに、それはかなり難しそうだった。

「どう、勝てそう?」

 少し後ろを歩く護衛にわからないよう、小さく静に聞く。彼は後ろからわからないよう、かすかに首を振って言った。

「無理ですね。さすがに本職三人相手に一人では」

「なんだよ、本職って」

「彼らは戦場で人を殺すのが仕事でしょう。でも、私は情報収集が本業です。人を殺すのは専門ではありません。賊徒ならともかく、あそこまでしっかり訓練された兵には勝てませんよ」

「なるほど」

「どうするのです? 荊州には行かれるのですか?」

「行くよ。やることはやるさ。袁術を挟み撃ちは、曹操殿にとっても結構利のあることだしな。ただ、問題はその後だな」

 どういう意図の護衛なのか。郭嘉が冀州に帰るつもりはないと言って、あっさりわかりましたと言ってくれるような護衛なのか、それとも冀州へ帰らないと言ったらこちらを殺そうとしてくるのか、読めない。

「俺、ちょっと自意識過剰なのかな? どう思う? あいつら、穏便に帰ってくれそうな感じかな」

 静に問うと、彼はまたかすかに首を振った。

「わかりません。ただ、用心に越したことはないと思います」

「……少し、探り入れてみるか」

 郭嘉はつぶやくと、後ろを振り返り、言った。

「すみません、実は俺、家族が陳留にいるんだけど、途中で寄ってもいいかな? ちょっと回り道になるけど、もう何年も会ってなくて」

 護衛の内の一人が考える様子を見せる。彼はしばらく考えた後、ほかの二人に相談することなく言った。

「いいでしょう。ただ、あまりのんびりはできません」

「わかってますよ、もちろん。生きてるのを確認できればそれでいいんで」

 どうやら、護衛は一人が隊長的存在で、他の二人はその部下のようだ。そして、意外と鷹揚だな、と思った。

 鄴から陳留まで、馬で三日ほどの道程だった。母とは冀州に着いて以来ほとんど手紙も交わしてもいない。心配してはいないが、一応生きているか確認しておくかくらいのつもりだった。

 しかし、陳留に着いてみると、すでに母たちは李家にはいなかった。

「えっ、引っ越した?」

「ええ、二日ほど前の話ですけど」

 李家の家僕が不思議そうに言った。

「曹兗州様の部下だという方がいらっしゃって、濮陽に家を用意したから引っ越した方がいいって、ご子息が言っていたと……聞きましたけど」

 ご子息ってあなたですよね? と言わんばかりの視線を向けられ、郭嘉は混乱した。

 曹兗州、すなわち曹操だろうが、なんで曹操の部下が自分の名を騙って母を濮陽まで呼び寄せるのか。

 李家の家僕から向けられる視線も、後ろに立っている護衛からの視線も、痛い。しかし、すぐには訳が分からなかった。

 もちろん、曹操がわざわざ郭嘉の家族を保護するとは考えられない。となれば。

 ――文若殿、か?

 一番ありそうなのは、荀彧が郭嘉が曹操に帰順するものと思ってそうしたか、あるいは、冀州から一向に動こうとしないのでしびれを切らして、保護という名の下に郭嘉の家族を曹操の下へ呼び寄せようとしたか、だ。先日の仕官の誘いの手紙には返事を書いていないので、彼が早合点した可能性はなくはない。が、もし荀彧が強硬手段として家族を濮陽へ連れて行ったとなると……

 脳裏にふんわり微笑んでいた荀彧の顔が浮かぶ。

 腹黒さなんて感じたこともなかったが、もし彼が強硬手段に出てまで仕官をさせようとしているとなると、ちょっと見る目が変わりそうだ。

「静、お前なんか聞いてる? 時々母上と連絡とってるとか言ってたよな?」

「いえ、私も何も。ただ、少し前に陳留から移動しようかと思っているようなことは、おっしゃっておられましたね。それに、二日前に引っ越したというのなら、連絡が行き違いになった可能性もあるとは思いますが」

 静も困惑しているようだ。

「……まあ、いいや」

 李家の家僕に軽く礼を言うと、郭嘉は護衛たちに向き直った。護衛の男たちは、あからさまに胡散臭げに郭嘉を睨んでいる。無理もない。袁紹に仕えているはずの男が、曹操に家族を保護されているとなれば明らかに妙だ。

「すみません、無駄足踏ませてしまって。荊州へ行きましょう」

「よろしいので?」

「生きてるのは間違いなさそうだから、いいんです。それにさすがに濮陽まで行くような時間はない。これ以上荊州に着くのが遅れてしまえば、機を逸するかもしれないし」

 馬に乗って、再び街道に出る。隣に並んだ静が馬を寄せ、小さく言った。

「大変ですね、若」

「何がだよ」

「田軍師に続いて、荀彧様にまで、半ば強硬に仕官を求められるとは。私も従僕として鼻が高いですよ」

 どこからどう聞いても皮肉だ。郭嘉は静を睨みつけてため息をついた。

「男にモテても嬉しくないっつーの。つーか、どうなのかな、文若殿。どういうつもりで……。いや、まだ文若殿と決まったわけじゃないけど」

「他に誰がするって言うんです。それこそ曹操殿がそんなことするわけもありませんし、若を個人的に恨むような人間がいるとも思えません」

「文若殿に恨まれてる覚えはないんだけど」

「荀彧様は、逆では? 若をどうしても手に入れたいのでしょう」

 静が笑っている。それに、郭嘉はため息をついた。


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