7:<荀彧編>青州黄巾賊(後編)
対青州黄巾賊編後半です。
収穫の秋が過ぎ、季節は冬になろうとしていた。
曹操が青州黄巾賊と戦い始めて早四か月が過ぎようとしている。この間荀彧はひたすら兵糧集めに奔走していた。時には手持ちの兵を使って麦を刈り取りさえした。周囲で賊徒が暴れまわっていると、農民が畑を放棄して逃げてしまうこともままあったからだ。
曹操は百万の賊徒相手に実にうまくやっていた。さすがにそれなりの犠牲はだしてはいたが、最初東平国にいたものを寿張の東で打ち破ると、後は戦ったり逃げたりを繰り返しながら、賊徒は今済北の山間へと向かっているようだった。曹操としては、山のふもとに追い詰めようというのだろう。
この間、曹操は実に巧みに城市に被害が及ばないように賊徒と戦っていた。賊が城市になだれ込もうとすれば背後を討って防ぎ、逃げるときはなるべく城市のない方へと誘導したらしい。必然的に周囲の城市は曹操に好意的になり、協力したいと物資の提供を申し出てくることも少なくなかった。
賊徒は収穫の時期に穀物を略奪して腹を満たすはずが、その目論見が外れて士気を落としていることだろう。
おそらく、じきに決着がつく。
講和の使者を任せたいので前線へ来い、と曹操から手紙が来たのはそう感じはじめた十月の半ばだった。
東武陽を陳宮に任せ、兵に導かれて済北へと向かう。陳宮は相変わらず不満げな顔をしていたが、さすがにここまで状況がひっ迫していると、彼としても忙しいのだろう。そこまで荀彧につっかかってくることはなくなっていた。
陣営に着くと、すぐに曹操の幕舎へと通された。そばには程立も立っている。
二人とも明らかにやつれていたが、目には気力がみなぎっていた。
「降伏勧告は一度出したのだがな」
そう言って、曹操は荀彧に竹簡を差し出してきた。
「ここに追い詰めた直後、届いた書簡だ」
開いてみると、賊徒が書いたとは思えない整った文字で、淡々と文章が書かれていた。曰く、曹操がかつて済南で邪教の神殿を破壊したことを挙げ、それは中黄太乙と道は同じであるのに、なぜまた道をたがえようとするのか。漢王朝はすでに滅びの運命にあり、曹操一人にどうこうできるものではない、とある。
「これは、向こうがこちらに降伏勧告しているのでしょうか?」
「そう思い、使者を怒鳴りつけて返したのだが、読みようによっては、考え方は同じなのだからと、こちらに擦り寄っているようにも見えなくもない」
数の上では、まだ賊側の方が多いだろう。山のふもとには食もないおびただしい数の人々があふれていることになる。
「おそらく、そう強硬に反抗してくることもあるまい。お前と程立を使者に立て、講和の話を持ちたいと向こうに打診するつもりだ。よいな」
「かしこまりました」
程立と共に拱手すると、すぐに先ぶれの使者が走っていった。ほどなくして彼は帰ってきて、話し合いの場が持たれることになった。
場所は、両陣営の中間地点だ。建物も何もない、両陣営がにらみ合う真っ只中へ、荀彧は程立と共に歩いて行った。二人が曹操の陣営を出てほどなくして、賊側からも出てくるものがあった。老人と、それを支える若い男を中心に、その後ろに十人程度が歩いてくる。
「人数が多いとお思いかもしれませんが、我らはいくつかの所帯のあつまりでございます。どうかご容赦を」
中間地点に来ると老人がしわがれた声で言った。それに、荀彧はふわりと微笑みかけ、拱手する。
「構いません。曹東郡太守司馬、荀彧と申します。ここは長い話し合いになりましょう。胡床を用意させたいと思いますが、よろしいですか?」
第一声がそんなものだとは思いもしなかったのだろう。賊徒側の者たちは目を丸くし、しばらくしてうなずいた。
荀彧は次に隣に立つ程立に目を向けた。どうやら、知り合いが賊側にいるようだ。彼はしばらく知り合いらしき男と見つめあった後、視線を老人へと向け、拱手した。
「同じく曹東郡太守旗下、程立と申す」
その後、賊徒が次々に名乗った。どうやら老人は賊徒全体の長とされる男で、他の者たちは多くが元は別の賊徒を率いていたが合流した者のようだ。うち二人はしっかりとした物言いで、文人らしい雰囲気が感じられた。
いずれもずいぶん疲れた様子が見える。交渉はそう難航しないだろうと思えた。
荀彧が兵士に胡床を持ってこさせると、そこから話し合いが始まった。
まず、荀彧が条件を提示した。信仰を認めること、武器を捨てることが条件で、それを受け入れるならば首領を含め、これ以上誰も殺さないと約束した。農民に戻り、平和裏に暮らしてほしい、曹操はそのために尽力するつもりであるとも告げた。
「我らの望むところは実はそう違わないはずです。平和な世を、誰もが安心して暮らせる世を築きたい。あなたたちは信仰を通してそれを望み、わたしたちは政に向かうことでそれを実現せんと尽力している。かなうならばお互い力を合わせ、再び天下を安んじられればこれに勝るものはありません」
荀彧は相手の反応を見ながら、ゆっくりと理想を説き、現実を話した。賊徒たちは、何度かうなずきながら荀彧の話を聞いているようだが、言葉は発しない。
「こちらからは土地を提供するつもりでいます。兗州・予州は戦乱で荒らされ、耕作放棄された土地も少なくありません。無論、全員に十分な土地を、というわけにはいきませんが、そこではあなたがたの信仰を守り、心穏やかに暮らせる場所を作れるはずです。今すぐ十分な食を提供することはできませんが、あなた方がそこで田畑を耕してくだされば、来年からは食に飢えることはなく、また我らとしても租税が増え、お互いに利益になります。その代わりと言っては何ですが、あなたがたには兵士を提供していただきたいのです」
予想の範疇だったのか、賊徒たちは顔色を変えることもなかった。淡々と聞いている。
「無理な徴発をするつもりはありません。あなた方の中にも天下のために戦いたいという方はいるでしょう。そのような方々を募りたいのです。もちろん、兵士になれば他のわが軍の兵士たちのように食は保証され、装備も与えられます。そして同じように訓練を受け、将に従って戦地へと向かうことになるでしょう。兵士としてではなく、文官として働きたいという方がいれば、もちろんそれも受け入れます」
「青州に戻りたいと言ったらどうする?」
「それは、ご自由になさればよろしいかと存じます。ただし、我が主は現時点では東郡太守、勢力圏はせいぜいで兗州一帯というところです。青州に帰られた場合は、何のお約束もできませんが」
その後いくつか質問を受けた後、老人が言った。
「……少し、話し合いをさせていただけませんか」
どうぞ、と言うと、賊徒たちの代表はそこで話し合いを始めた。特に隠すつもりもないのか、言っていることは荀彧にも聞こえてくる。反抗的な連中がうなずくかどうかということが主題のようで、どうやら、交渉自体は大きな問題なく終わりそうだ。
軽く息をつき、隣の程立を見上げた。
「お知り合いの方がいたようですね」
「ええ。手紙を送っていた男です。儂が知っていたころより、いささか目つきが変わりましたな。賊徒に加わって、相当苦労したのでしょう。前はそこその家の御曹司らしく、福福としておったものを。それはそうと、殿が言っておられた文若殿のお知り合いはいなかったのですかな? 軍略の天才だとかいう」
「戯志才殿のことですね。もしかしたらと思ってはいたのですが、あの中にはおられません。もしかしたら本当にここにはいないのかもしれません。あるいは、黒山の賊の方に居たのやも……」
黒山の賊はしばしば伏兵など行っていたと聞いた気がする。もしかしたら情報をくれた相手が賊徒の区別がついていなかったのかもしれない。
そうこうするうち、話し合いは終わったようだ。老人が向き直り、軽く頭を下げてきた。
「講和には、異存はございません。しかし、なにせ我らは人数が多い。一日、お時間をいただけませんか。明後日の正午、またこちらでお会いしたい。我らはそれまでに皆に説明しましょう」
「かしこまりました。では、明後日の正午に」
「できれば、その時には曹操殿にお目にかかり、お話を伺いたい。我らの命運を預かるに足るお方か否か、見せていただきたいのです」
「それも、承知いたしました。殿に伝えましょう」
会はそれで散会となり、お互い、元の陣営に戻った。
曹操の陣営では、曹操と武将たちが陣営の端に立って趨勢を見守っていたようだ。荀彧たちは陣営に着くと、まず曹操に拝礼した。
「講和を受け入れるそうです。明後日の正午までに全員を説得するので時間が欲しいと。そしてその時に、殿からお言葉を賜りたいとも申しておりました」
「よかろう。ご苦労だったな」
わっと、周囲の兵士たちの歓声が沸き起こる。百万相手にいつ終わるとも知れない戦の終わりが見えたのだ。無理もない。荀彧はその様子を見て自分も頬が緩むのを感じた。
「おい! まだ終わったわけじゃないぞ! 気を引き締めろ! 引き続き警戒を怠るな!」
夏侯惇が一喝すると、すぐさま兵士たちが静まり返り、持ち場へと戻っていく。彼は兵士たちの様子を見てから、曹操に目を向けた。
「まだ、気を緩めるつもりはないぞ。同じだけの警戒は保たねばならん。本当に、連中が降って散会するまでは」
「無論だ。頼んだぞ。諸将も気を抜くな。兵士たちがだれていないか見て回れ」
は、と小気味よく返事をして、武将たちが兵士たちの方へ向かっていく。それでも、どこか武将たちの頬もゆるい。
勝ったのだ。その実感がわずかに沸き起こってくる。ちらと見た曹操の顔にも、どこか安堵の色が見えた。
そして、二日後。
太陽が天の頂上に来た頃、今度は曹操が両陣営の中央に立っていた。そばには荀彧と夏侯惇がいる。賊側からは再びあの老人たちが歩み出てきたが、その背後にはおびただしいまでの人波が見えた。ざわめきがさざ波のように絶えず聞こえてくる。しかしそこに、戦の時のような殺気立ったものは感じられなかった。
お互いの距離が十歩ほどの距離で、自然と足が止まる。
賊徒たちはじっと曹操を見ているようで、声を発することもなければ、膝を屈することもない。
口火を切ったのは曹操の方だった。
「曹孟徳である!」
さざ波のように聞こえていたざわめきを打ち消すような、よく通る声だった。一瞬にしてしん、とあたりは静まり返り、風に揺れる木の葉の音まで聞こえた。
「この数か月干戈を交え、思うところもあろう。だが、これ以上の戦は無駄だ。お前たちは安寧を求めて戦っておるのではないのか? しかし、賊徒の反乱の先に安寧などありはしない。賊徒はどこまで行っても賊徒であり、仮にどれだけ街を落とそうと、どれだけの者を従えようと賊徒は賊徒。どこまで行っても討伐の対象にこそなれ、安住の地を得ることもなければその手で国を変えることなどできん。安寧を求むなら武器を捨てよ! 世を正さんと願えば我らと共に手を携え、戦え! 私もまた、この世を正さんと願う一人である!」
相変わらず葉擦れの聞こえる静けさの中、曹操の声だけが響いていた。
曹操は賊徒たちを見回しながら、一層高く声を張り上げた。
「信仰は認めよう! しかし、それを理由に世を乱すことは許されん。乱を成すに信仰を利用するな! あくまでそれを己が生きる糧とするのであれば、咎めることはしない。これからは心に中黄太乙を抱き、大地と向き合って田畑を耕すのだ。そしてもし、世の乱れを嘆き賊徒に身を落とした者があるならば、そなたらを賊徒へと追いやった我らの不明を詫びよう。時はかかるだろうが、私は政を正し、この国を立て直す! 世の泰平を願うなら、我に従え! 共に安寧を得られる世を勝ち取ろうではないか!」
わっと、最初に小さな声が後方から上がった。それが徐々に連鎖し、激しい波となってあたりを飲み込む。それはあっという間に耳を覆いたくなるような大歓声になっていた。
見れば、先頭に立っていた賊徒の長たる老人は目を覆って震えていた。彼はそのままよろよろと膝をつくと、地に平伏した。
「我ら、曹操様に降伏いたします……!」
老人につられるように最前列にいた者たちが膝をついて首を垂れると、まるで波が引くように次々と人々が膝をついた。さすがに全員とまでは行かないが、見える範囲ではほとんど者が膝をついている。
「もっと早く、あなたのようなお方に出会いたかった! 我らはずっと、あなたのような方を求めてさまよっておったのだとさえ思えます。どうか我らをお使いになり、その志を果たされますように……!」
嗚咽交じりの老人の声は、大音量の歓声に遮られて所々しか聞こえなかった。それでも、彼の想いは痛いほど荀彧にも伝わってきた。
全身の肌が泡立っている。前に立つ曹操を見ると、その横顔は紅潮し唇は緩やかに笑みを刻んでいた。
群衆に圧倒されることもなく、それを当たり前のように受ける曹操を見て、荀彧はしみじみと自分は然るべき主を得たのだ、と痛感した。この人こそ、天下を獲りうる男だと。
しかし、感動のまま視線を前に戻せば、とんでもない人の波が見える。
おびただしい人の数だ。これを、今からうまく定住させねばならない。失敗すれば、また賊徒に戻ることは必至だ。
急に自分に課された責務の大きさを実感して、荀彧はぞっとしてしまった。きつく目をつむってそれをやり過ごす。曹操は百万の賊徒に勝ったのだ。ならば自分も、当たり前のように彼の期待に応えねばならない。そうでなければ、このまぶしいばかりの男の隣に在ることなど許されない。
頭の中では、必死にどうやってことを進めるかの算段を始めていた。
曹操と共に主だった幕僚と共に幕舎へと戻ると、曹操が言った。
「荀彧、兵糧はどれだけある?」
「兵を何人と考えてお答えすればよろしいですか?」
荀彧が問うと、曹操は少し考えるそぶりを見せてから言った。
「十万」
「となりますと、一年分は」
「一年分残し、残りを連中に分けてやった場合は?」
兵士の場合は基準があるが、民に食わせるとなると基準が難しい。荀彧は少し考え、言った。
「一人あたりを少なく見積もって、もって三月程度かと思われます。春まではなんとかなるとは思いますが……」
「連中に食を与えるのか?」
口を挟んだのは夏侯惇だった。曹操がうなずく。
「与えぬわけにはいくまい。条件には出していないが、差し当たって食っていけねばまた略奪を始めかねん」
「それはそうだが……」
心配そうに夏侯惇が見つめてくる。それに荀彧はうなずき返した。
「わたしも、必要なことと思います。最初に十分な量があるわけではないと断ったうえで、少量ずつ与えるのがよいかと思います。その先のことは、また考えねばなりませんが」
「市井に遊んでいる穀はあるか?」
「多少はあるのではないかと。今年は豊作でしたので、商人たちもいくらかは隠しているのではないかと思います。わたしもそこまで強硬に徴発はしませんでしたので」
戦の最中に城市の民を味方につけることは必須だ。あまり強硬に食料を徴発すれば逆に反発を招くかと、荀彧はあえて蔵を暴くことまではしなかった。
「殿、できれば彼らからの募兵は十万までにしていただきたいのです。でなければ、兵糧が持たなくなる可能性があります」
「それは俺も賛成だ。無制限に受け入れていきなり十倍以上の兵を擁するとなると、指揮系統が混乱するぞ」
夏侯惇が言った。荀彧の知る限りでは、今曹操軍は曹操配下の親族の武将たちが五千ずつくらい兵を擁している形をとっていたはずだ。これがいきなり十五万に増えるとなると、彼らはいきなり数万の兵を旗下に置くことになる。
「混乱するなどと言うな。お前らは数万の兵を率いて当たり前と思え。四方八方に敵がいることを忘れるな。ひと月のうちに兵を把握し、指揮系統が今まで通りいくようにしろ。配下の使えそうなやつを適宜上に上げるのだ」
「はっ!」
武将たちの返事の声が重なる。曹操は曹仁に食を東武陽にから取って来るように指示し、残りの者たちには兵の選抜を任せる、と言った。
「文若、連中をどこの土地に向かわせるかは決まっているのか?」
「数千から数万と言う単位で、ある程度まとめて各城市に向かわせるのがいいかと思っております。候補はいくつか考えてありますが、まずは、各城市の県令に通達を出す必要があるかと思います。中黄太乙を認めること、また彼らを民として受け入れることなどをです。それでも反発は残るでしょうが、いくらかはましになるでしょう」
荀彧の言葉に、曹操はしばらく考える様子を見せた。
「殿?」
「いや、それでいい。ただ、いっそ街を作ってしまうというのも手かと思ってな。なにせ人口が多い。それに、連中は中黄太乙を奉じていて、多少生活様式も違うのではないか? また元の城市の住人も、元黄巾賊と聞けば抵抗もあろう」
「それも然りです。しかし、あまり多くをまとめておくと言うのも危険かと。いくら帰順したとはいえ元は賊徒なのです。再び事を起こさないとも限りません。やはりある程度分散させた方が……。それに、いきなり百万人の都市を作るのも相当な至難でしょう。彼らだけで街は成り立ちません」
「確かにな」
曹操は再び考える様子を見せ、それならば、と続けた。
「寿張の西、東阿から范のあたりは大きな城市もなく、土地は空いておろう。あのあたりに街とは言わずとも、集落を作らせてはどうか。完全に分散させるのではなく、ある程度まとめておくのだ。他の城市に行きたいものは、行かせればよい」
どうやら曹操は、彼らに土地を与えることは賛成だが、あまり分散させることには前向きではないようだ。
「かしこまりました。それでは、彼らには条件を出しましょう。寿張の西の空いた土地を自ら開拓するか、あるいは各地の耕作放棄地に入植するか」
曹操がうなずく。
寿張の西、東阿の南あたりとなると東武陽からも近い。曹操の威光も伝わりやすく、確かに場所としては向いているかもしれない。
「まずはそちらへ移動し、集落を作りつつ兵士の選抜を行うか。そこで、希望する者は他の城市へと向かわせればよい」
「そうですね。それならば色々と手間も省けます。東武陽からも近いので、兵糧を運ぶことも難しくありません。では、そのように」
その後は、曹操と武将たちでどう兵士の選抜を行うかの話になった。荀彧は幕舎の端で今後どう進めていくかを考えていた。賊徒にとっても、曹操にとっても、そして城市にとっても受け入れられる状況で進めなければならない。
――まずは戸籍を作らなくては。その後、各城市に連絡を……。
どう考えても人手が足りない。百万人の名簿を作るだけで骨だ。東武陽から部下を呼ぶか。しかし、あちらはあちらで忙しいはずだ。
人手が足りない。
どう考えても、そんな結論にしか達しなかった。
その夜、まだ今後のことを考えていた荀彧は、兵士に呼ばれ幕舎の外へと出た。なんでも荀彧を訪ねてきた者がいるという。
その名を聞いて、荀彧は慌てて陣営の入り口へと向かった。
「志才殿!」
かがり火をうけて、闇の中にたたずむ人影が見える。しかし、独りではない。彼はもう一人の男に抱えられるようにして、陣営の端に立っていた。
「ああ、文若殿」
かがり火に照らされた顔が、かろうじて笑みを刻む。彼が戯志才であることはすぐに分かった。普通なら髪を結って巾で覆うのが最低限の身だしなみだが、彼は下ろした髪を無造作に一つにまとめただけで背に流している。そんなことをする男で、自分を見知った男などそうそういない。
「会えてよかった」
戯志才は荀彧を見るなり、そう言って笑って、崩れ落ちた。脇を抱えていた男がつられて倒れ、二人して地面に座り込む。
「どうしたのです? どこか、怪我を?」
「腕が……多分、もうだめだ」
自嘲気味な笑いと共に告げられる。見れば、着物の袖が破れ、そこにはべったりと血の跡があった。破れた着物からのぞく腕は、夜目にもはっきりとどす黒く変色しているのがわかる。
「どうして、こんな」
「決まっているだろう。戦場に出て、満足に戦うこともできず、このざまだ」
「戦場に、出たのですか」
「もちろん。俺も、賊徒の一員だったのだから」
「そんな、賊徒などと」
「いや、いいんだ。それより、俺は死ぬまでにどうしても、あんたに謝りたかったのだ。講和の席にあんたがいたと聞いて、いてもたってもいられず来てしまった」
力なく笑い、戯志才がじっと見あえげてくる。荀彧は彼の前に膝をつき、その手を取った。
「死ぬまでになどと言わないでください。あなたの才はここで失われるにはあまりに惜しい」
荀彧が言うと、戯志才は目を丸くし、すぐにたまらないとばかり笑い出した。
「相変わらずだな。俺にそんなことを言うのはあんたくらいだ。こんな、役立たずを」
「役立たずなどと、いったい誰がそんなことを」
「兵法ばかり知っていても、人を動かすこともできない。役立たず以外の何物でもないさ」
戯志才はかぶりをふると、荀彧の手をきつく握り返し、じっと見つめてきた。その目はかがり火に照らされ、涙に揺れていた。
「かつて、あんたは俺に言ってくれた。才あらば世に出てそれを人の役に立てるのが筋だと。それを、俺は笑った。くだらない連中に仕えることに意味などないと。俺は、驕っていたと思う。潁川が荒らされ、乱世を憎み、逃げた先で黄巾賊に加わったが、結局何もできなかった。どれだけ知識があっても人を動かせないのでは何も意味がない。机上の空論では世を変えることなどできなかったのだ」
曹操の言っていた通り、戯志才は賊徒をうまく指揮できなかったのだろう。戯志才がぎゅっと目をつむると、涙が頬を伝った。
「対して、曹操殿の用兵はどうだ。兵法書も真っ青の、実に見事なものだった。地形を利用し、時には我らを勝ちに乗ったと勘違いさせ、油断したところを伏兵で討つ。昼夜の別なく攻められ、どんどん死の恐怖に陥れられたのは圧倒的に数の多い我らの方だった。百万相手にたった数万でよくぞここまでと思わずにはいられなかった。兵法は、それを生かしうる将器があって初めて成り立つもの。兵法だけ知っていても誰も救うこともできなければ、あたら周りの人間を殺すだけだった……っ!」
戯志才はそこまで言うと、うなだれ、泣き出してしまった。
「志才殿。それならば、あなたは殿の下でその才を生かされればいいのです。まだ遅くはない」
「もはや、この身は長くはあるまい。ただ、最後にあんたに言いたかったのだ。あんたは正しかった。知識も才も、それを生かす主があってこそだったのだ。あんたはその才を生かし、天下を泰平へと導いてほしい」
「無論です。ですが、あなたも一緒にそうすればいい!」
触れる戯志才の手はかなり熱い。顔色は夜でよくわからないが、おそらく発熱しているのだろう。血にまみれた袖をめくり、戯志才の右腕を見る。ひじの上に大きな切り傷らしきものがあり、傷口は化膿して、そこから下の肌はどす黒く変色していた。
「腕を切れば助かるかもしれんぞ」
声に驚いて振り返ると、曹操がすぐ後ろに立っていた。どうやら少し前から見ていたようだ。
「殿」
「戦場ではよくある話だ。壊死した手足はもう切り落とすしかない。放っておけば全身に毒が回って死ぬだけだ。おい、軍医を呼べ!」
は、と返事をして傍にいた兵が走っていく。
「その方が戯志才だな。文若から話は聞いておるぞ。兵法に精通しておると言う話ではないか。私も兵法の実践には大いに興味がある。ぜひ一度語らってみたいと思っておった」
戯志才が呆然と曹操を見上げる。荀彧が曹孟徳様です、と言うと、戯志才は軽く頭を下げた。
「あなたの戦、お見事でした。韓信や陳平にも劣らぬ用兵、きっとあなたは天下を獲られましょう」
「そう思うならば、生きながらえ、我がためにその命を使え。天下を泰平たらしめんとするならば、私がお前の才を有効に使ってやる」
曹操がにやりと笑って見下ろしている。戯志才はまぶしいものでも見るかのように目を細めて曹操を見上げたあと、まるで崩れ落ちるように地面に手をついて、首を垂れた。
ほどなくして軍医が走ってきて、手早く戯志才の腕を確認した。袖を引き裂き、持ってきた紐で腕の付け根をきつくしばると、医師は曹操に向かって言う。
「こちら、上腕のこのあたりで切り落とす必要があるかと思います。どなたか、お願いできればと思うのですが」
「私がやろう」
曹操が腰に佩いていた剣をすらりと抜いた。荀彧が驚いて見つめると、曹操が笑って言う。
「安心しろ、腕の一本切り落とせないような腕ではない。それに、これは陣中最も切れ味のいい剣だ。痛みの少ないよう、なるべく一思いにやった方がいい」
「それでも、痛みは相当でございます。舌を噛まないよう、何か噛んでおられた方がいいかと存じます」
医師は持ってきた布を細かく折りたたみ、戯志才に噛ませた。そして彼を胡床に座らせると、腕を兵士と共に横に固定する。
「いくぞ」
曹操が剣を振りかぶる。思わず荀彧が目を閉じたその瞬間、風を切る音が聞こえ、続いて戯志才の悲鳴が聞こえた。
しばらくして荀彧が目を開くと、戯志才の体が傾ぎ、それを押さえていた兵士が慌てて支えているところだった。
「志才殿!?」
「ご安心ください、痛みのあまり気を失われただけです」
医師は淡々と言い、持ってきた道具箱から小さな刃物と針と糸らしきものを取り出して傷口を縫い始めた。皮膚を引っ張り、それを縫い合わせ、傷口を覆うようだ。見ている方が寒気がする。しかし医師の手際は見事で、あっという間に縫い合わせてしまった。
「傷口の処理はいたしましたが、状態が安定するまではまだ危険な状態です。どう、いたしましょうか? 傷病者用の幕舎に運びますか?」
「そうしろ。何としても生き残らせるのだ」
「かしこまりました」
戯志才を抱え、医師と兵士たちが歩いていった。
「殿、ありがとうございます」
「気にするな。俺にとっても利になることだ。幸先がいいではないか。黄巾の者らを降し、お前の探しておった策士がやってきた」
「きっとこれからも、どんどん人は増えましょう。百万の賊徒を心服せしめたという報は、瞬く間に各地へと広まり、殿を慕って知将勇将が集まってくること必定でございます」
「そう願いたいものだ。どう考えても、人が足りん」
曹操が肩をすくめて嘆息する。それに、荀彧も大きくうなずいた。