63:<荀彧/郭嘉編>落陽再び1
突如張楊から書簡が来て、郭嘉は曹仁と共に曹洪の救援に向かうことに
「文若、旅に出たいので路銀と馬車と護衛をくれ」
荀彧が視察から戻ってくるなり、荀悦が旅に出たいと言い出した。
「旅に、って、こんな時世に一体どこへ。危険ですよ」
「洛陽だ。なに、ここから馬で二日の道のりだ。護衛が一人二人いれば何とかなるだろう」
「なんとか、って……」
荀悦はこうと決めるとなかなか譲らないところがある。それはわかっていたが、簡単にうなずける話ではなかった。
「なぜ洛陽へ。かの地は董卓が焼いて以来、ほとんど廃墟だと聞いていますよ。それこそ野盗がたむろし、どのようなことが起こるかわからないのに」
「だからこそだ。君の留守を預かっていた若造から、洛陽を見てきたらどうかと言われたのでな」
「若造? 奉孝殿ですか? 奉孝殿も、またなぜそんなことを」
「あの若造は帝が気に入らんようだな。だが、確かに言っていることに一理なくもない。どう感じるか、まずは廃墟になった洛陽を見てみようと思ってな」
「何を呑気な。物見遊山気分で行けるわけがないでしょう。駄目です」
荀彧が言うと、荀悦はあからさまに眉根を寄せた。
「ケチだな」
「ケチで結構です。死ぬよりましでしょう。いずれ帝をお迎えして周辺が安定すれば行ける日も来るでしょうから、しばらく待つことです」
荀彧の言葉に、荀悦が途端に眉をひそめた。
「帝を? 迎える?」
「ええ、そのつもりです。陛下は大変な窮状とか。ろくでもない佞臣たちが権力争いを続けるので、長安の街中はひどい有様だと聞きます。そこから洛陽に戻ろうとして、陛下を奪いあうため戦まで起こったとか。そのような佞臣たちに陛下を任せておけるわけがありません」
荀悦は怪訝そうに眉をひそめた。
「要は、佞臣どもを押しのけて、自分たちが帝を操ろうということか」
「仲豫殿」
思わず咎めるように言うと、彼はあきれたとばかり肩をすくめて見せた。
「お前も同じ穴の狢だったか」
「違います」
「どこがだ。どこが違う。今帝をめぐって相争っているという佞臣どもの輪に加わろうというのではないか」
「そうではありません! それに終止符を打つべく、陛下を保護しようというのです」
「保護してどうする。結局は己が政を行うのだろうが。お前の持論は『帝の親政をやめ、能臣に治政を任せるべき』というものだからな」
「そうです。だからその土壌を作ろうというのではありませんか。才ある能吏が実績に応じて帝に任じられ、政を動かす。それこそが、政治の腐敗を防ぐ唯一の方法です」
「どうだか。それでは帝という絶対的な存在の権威の力をそぐことになる。早晩実権を握ったものが帝位を奪いにかかるだろう」
「まさか、そんなこと」
「充分ありうる。帝が能臣に治政を任せる? そう簡単に行くと思うか? 実権を握った者がそうやすやすと帝の言うことなど聞くと思うか。自分の首が帝の一存で飛ぶかもしれないと思えば帝が邪魔になるだろうし、仮に能臣が帝の言うことを聞く奴ばかりなら、今度は従前の宦官どものように裏で帝を操ろうという者も出てくる。そう簡単にいくはずがない」
「では、どうするのです? このめちゃくちゃな状況をただ黙って見ていろと?」
「そうではない。帝をお救いし、朝廷を立てなおして陛下が強権を持って政を行う。これこそが最も安寧を導ける道だ」
「陛下が親政を行い、それで治政が回復するなら、わたしはそれでもいいと思っていますよ。政の在り方は、あくまでわたしの思う理想の形でしかありませんから。ただ。親政をするしないに関わらず、喫緊の課題は陛下をお救いし、まともな政を行えるだけの朝廷の姿を取り戻すことです。そのためには、佞臣どもを退け、少なくとも帝をめぐって表立った殺し合いなど起こらない朝廷を取り戻さなくては。違いますか?」
「確かにそうだが」
「手をこまねいているわけにはいかないのです。佞臣を退けるには物理的な力も必要です。そして軍の維持には金と人が要る。そのためには領土が必要なのです。あなたの目から見れば諸侯の暴虐のようにも見えるかも知れませんが、すべて必要なことなのです」
そこまで言うと、荀悦は口をつぐみ、腕を組んだ。言い返すつもりはない、ということか。とはいえ、まだ納得はしていないようだが、彼が少しでも理解してくれたならそれでいい。
「とりあえず、洛陽へ物見遊山気分で行くなんてやめてください」
「……ケチな奴だ」
「ケチで結構。いずれ洛陽へ行けるような状況になることを祈っていてください。なんなら、また手伝ってくださってもいいのですよ。あなたが政務を手伝ってくれれば、洛陽に行ける日も近くなろうというものです」
荀彧がそう言うと、途端に荀悦はふいと顔をそむけた。
自宅で軽く身支度を整えると、荀彧はその足で府へと向かった。
郭嘉がきちんと仕事をしているかどうか。心配しながら向かうと、その点では問題はなかったが、彼は荀彧の顔を見るなり、伝令の持ってきた報せを荀彧に渡してきた。
「おかえりなさい、文若殿。早速で悪いんですけど、これ」
「これは?」
「張楊からですよ。殿の力を借りたい、って」
渡された竹簡は二つあった。一つは曹洪からのもの、もう一つは張楊が寄こしたという、曹操宛のものだった。
張楊の方を読むと、まずは謝罪があり、次いで大仰に曹操をほめちぎり、貴殿を英雄と見込んで力を借りたい、とある。具体的には曹操が洛陽へ向かうことに助力するので、帝を救う手伝いをしてほしいということのようだ。
曹洪からの書簡には、行く手を阻んでいた董承からの圧力が急になくなり、進んでいいものか迷っている、とあった。罠を疑っているのだろう。また補給の必要性も訴えている。
「張楊の方はご丁寧にも麦と絹まで送ってきましたよ。董承が退いたってのは、もしかしたら張楊の影響かもしれないけど、張楊と董承ってつながってんのかな? 曹子廉殿の言う通り、罠の可能性もなくはないかな。油断させておいて、引き込んで討つみたいな」
「そうですね……。急にこのような書簡を寄こしたことが少々ひっかかりますが、いかんせん判断するにはいささか情報が足りませんし」
「供物を持ってきた使者には、殿がいないんで殿の判断を待って返事するって言ってあります。帰っていいって言ったんですけど、返事をもらうまで留まるって」
「そうですか。殿からの返事は?」
「昨日出したばっかりですから、早くても明後日くらいかな」
どうします? と郭嘉は問うているようだ。
曹操の返事を待つのが妥当だろうが、郭嘉の目にはもう結論が見えているような色があった。
「話に乗るべきだと思っているのですね」
荀彧の言葉に、郭嘉は意外そうに目を丸くし、微笑んだ。戦場で見れば兵士たちが勝利を確信するという、噂の笑みだ。
「わかります?」
「ええ。ですが、罠の可能性もあるのでは?」
「なくはないですけど。でも、確率は低いかな。仮に罠でも逆手に取っちゃえばいいんです。連中は内輪もばかりしてて大して強い軍でもないでしょ。陛下の名を利用して周辺を乱そうとしていたので討ち取りました、って皇帝に首差し出せばいい」
「奉孝殿」
荀彧が咎めるように言うと、郭嘉は叱られた子供のように肩をすくめた。
「帝を取り合ってる連中は五千くらいしかいないって話ですし、余裕ですよ。くっだらない内輪もめ延々やってるような奴ら、木っ端みじんにしちゃえばいいんです。コウテイヘイカを困らせたろくでなしには違いないんですから。いなくなった方が世のためだ」
「口が過ぎますよ」
「はいはい、すみません。じゃあ、とりあえず殿の返事待ちですね。ま。結果は見えてるけど」
悪びれもせず郭嘉が微笑む。
荀悦の言う通り、郭嘉はどこか朝廷に対して斜に構えるところはあった。彼自身、それを隠しもしない。事あるごとに世の中がめちゃくちゃなのは朝廷がしっかりしていないからだ、とぼやいてもいる。荀彧もそう思うところはあるが、荀悦にああ言われた後だと、郭嘉が軽んじているのは朝廷というより皇帝そのもののようにも感じられた。望ましいことではないが、かといって彼の性格を考えると軽々しく陛下を重んじよと言ってどうにかなるとも思えない。これもまた、今上陛下を迎えてきちんと朝廷を整え、太平の世を取り戻すしかないだろう、と荀彧は思った。
三日後、曹操からの返書が届いた。郭嘉の言った通り、張楊に丁重に礼をし、共に洛陽へ向かうように、というものだ。
その返書を持ってきたのは兵を率いてきた曹仁だった。
「殿の命で、自分が兵を率いて洪兄の救援に赴きます。洪兄と合流後、殿の指示通り洛陽へ。また、殿は込み入ったことに対応できるよう、郭軍師も同行するようにと」
曹仁がそう言った瞬間、郭嘉が実に嬉しそうに微笑んだ。文官仕事が嫌だとぼやいていたので、久々の戦場が嬉しいのだろう。しかし。
「奉孝殿、体は大丈夫なのですか?」
「散々こき使っておいて今更それ言うんですか? 大丈夫ですよ、無理しなきゃ」
「それと、もう一つ。殿から郭軍師へ伝言です」
曹仁の言葉に、郭嘉が「俺に?」と首をかしげる。それにうなずきかけ、曹仁は短く続けた。
「はい。『子廉の命には服さずともよい。大将は子廉だが、全体の作戦はお前が考えろ』だそうです」
「え?」
郭嘉が困惑げに小首をかしげる。それに曹仁もまた暫時迷う様子を見せてから、続けた。
「……多分、行けばわかるでしょう」
援軍と張楊への贈物、曹洪へ届ける輜重などを数日で準備し、郭嘉は曹仁の率いる援軍に混ざって出発した。
当初、曹仁は郭嘉のために馬車を準備すると言ってくれたが、それは断った。
「大丈夫ですか? 殿は郭軍師を伴うことは命じられたものの、無理はさせてはならぬと」
そう言いながら、彼の表情に困惑の色は見て取れても、心配しているという感じではなかった。どこか淡々としている、それが郭嘉の曹仁の印象だ。いい意味で動じることはないし、夏侯淵のようにつっかかってくることもない。しかしやるときはしっかりやる。曹操がいざという時にしばしば曹仁を頼りにすることも、郭嘉はよく知っていた。
「そこまで早い行軍じゃないし、大丈夫ですよ。やばくなったらどっかの荷台にでも乗せてください」
郭嘉がそう言うと、曹仁はわかりました、といってあっさりと引き下がった。
淡々としているものの、曹仁の郭嘉への態度は妙に恭しいものだった。夏侯淵や曹洪のぞんざいさから考えると違和感しかない。曹仁は曹操の親類の中ではかなり若い方だが、それでも確か郭嘉より二つ三つ年上だったはずだ。
「あの、子孝殿、俺はあなたより年下だし、特に偉いわけでもないし、そんな畏まってもらわなくていいんですけど」
夏侯淵たちが郭嘉にどう対応しているか知らない彼でもないだろう。郭嘉が言ってみると、曹仁はちらと小首をかしげた。
「年齢は関係ないでしょう。郭軍師が我が軍にとっていかに重要な人物かは皆が知っています。お構いなく」
「そう、ですか? でも俺はちょっと調子狂うっていうか」
「お気になさらず。じきに慣れます」
曹仁と行動を共にするのは初めてだ。確かに慣れるかもしれないが、なんとなく居心地が悪い。
「それで、郭軍師。我らはまず洪兄と合流、その後野王にいる張楊のところへ、でよろしいな?」
「そうですね。張楊のところへはなるべく少ない人数で行きましょう。面倒だけど、大軍そのまま引っ張っていくのもよくないかもしれないし。あと、張楊がどういう感じなのかも見たいですね。本気で俺たちに助力を求めてるのか、それとも利用するだけして切り捨てるつもりなのか。まあ、一目見て見極めるのは難しいかもしれませんけど」
出がけに荀彧からしつこいくらい使者の口上と作法を叩きこまれたのを思い出し、郭嘉はかすかに眉をひそめた。
「噂じゃ張楊は割と人の好い人物だって話です。本当に帝を心底心配するだけの奴なら楽でいいんですけどね」
「わかりました。……ただその前に、洪兄ですね」
そう言った曹仁の顔色は、どことなく浮かない感じだ。いや、もともと淡々とした彼のことだから、単にいつもの表情なのかもしれないが。
曹仁と曹洪は仲が悪いのだろうか。そういえば、何かと別動隊を任せられている曹洪と曹仁は、あまり一緒にいるところを見たことがない気がする。
郭嘉が見つめると、曹仁は首を振った。
「いえ、大したことでは。ただ、先陣がいささか心配だと思っただけです」
「心配ですか。報告では先に進めなくて困ってはいるけど、そこまで深刻だとは聞いてませんけど」
「戦況としてはそうでしょうが……。まあ、行けばわかります。予想が外れるといいのですが」
曹仁が何を心配しているのか、郭嘉にはその時わからなかったが、曹洪の陣に着いてすぐ、彼が何を懸念していたのかを知った。




