62:<郭嘉編>その善なるは偽なり
曹操たちは賊徒討伐に出立したものの、郭嘉は荀彧と共に留守番を命じられることに。
「えっ、留守番!?」
曹操から許に残るように言われたのは、軍議が終わったその夜のことだった。久々に曹操と二人きり、彼の居室で碁盤を挟んで向き合っていた時、曹操が言ったのだ。
今回の賊徒討伐にお前は連れて行かない、と。
「そうだ。俺がいない間、子修とうまく連携をとってやっていたことは聞いた。それは大変喜ばしいことだが、俺としては子修を見極めたいという気持ちもあるし、あれを独り立ちさせたいという思いもある。元譲の話では、子修は作戦に関してはお前に頼りきりだという話ではないか」
「う、それは……。多少そういうところはあるかもしれませんけど。でも、今回の全体的な作戦は俺が立てたわけで」
「実行にはお前がいてもいなくても差し障りあるまい。賊徒相手にそうそう不測の事態があるとも思えぬし、仮にそのようなことが起こっても、俺がどうにかする」
「それは、そうなんですけど」
「お前は休養がてら、しばらく文若の政務の手伝いでもするがよい」
「殿、それ絶対休めないですって。文若殿人使い荒いですもん」
郭嘉がぼやくように言うと、曹操は楽しそうに笑った。
「では、文若にはほどほどにしておけと申し付けておく。よいな、奉孝」
何とか言い返せないか。考えてみたがいい言い訳は思い浮かばなかった。それに、医師に休めと言われたことは郭嘉としても脳裏に強く残っている。
わかりました、とうなずくと、曹操もまた微笑んでうなずいた。
「これが終わったら洛陽だ。帝をどうお救いするか。それを考えておけ」
「……かしこまりました。っても、そういう政治的なの俺の範疇外な気もしますけど」
「決めつけず、考えることだ。さ、久々の一局だ。楽しませてくれ。他の連中は弱くていかん」
碁盤を前に嬉々として言う曹操に、郭嘉は大仰にため息をついて見せた。
「そんなこと言って、俺にも簡単に勝っちゃうでしょ。今に絶対、殿に勝ちますからね!」
「楽しみにしておるぞ」
声に出して曹操が笑う。こんなやり取りも久々で、妙な安心感があるのを郭嘉は感じていた。留守番は納得いかないがしようがない。せいぜい荀彧をうまく言いくるめて、久々に書でも読む時間を確保しよう、と頭の片隅で思った。
「ご武運を」
出立の朝、そう言って拱手した荀彧に倣って郭嘉も拱手し、深々と頭を下げた。
顔を上げると、自分を苦笑しながら馬上から見下ろしている曹操の姿があった。
「まだ不満か、奉孝」
「不満だなんて。俺はこれを機にじっくり休んで体力を養いますよ。久々にゆっくり書でも読もうと思ってます。戯志才殿の記録、まだ全部読めてないんですよね。いいですよね、文若殿」
隣の荀彧ににっこり微笑みかけると、彼はかすかに嘆息して苦笑した。
「そうですね、ある程度は手伝っていただかなくてはなりませんが、きっと書を読む時間くらいは作れると思いますよ」
「ほら、またこき使う気でいる」
おどけて言うと、困ったな、とばかりに荀彧が眉を下げた。
「仲良くやれよ。文若、後は頼んだ」
「かしこまりました」
荀彧と共に曹操を送ると、その後は府に戻って荀彧の手伝いになった。
曹操の言葉が効いたのか、そこまで難しいことを任せられることもなく、任されたのは竹簡の整理だった。曹操にそうしていたように、内容を選別し、優先度の高いものから荀彧に渡していく。時に荀彧に意見を求められることもあるが、面倒な細々とした仕事は別に文官がいて、郭嘉は本当に荀彧の手伝いだけでよかった。
日が暮れれば荀彧と一緒に軽く夕食をとって、後は自分の房へ帰るだけだ。このくらいならさほどの苦はない。
「そういえば、仲豫殿――私の従兄の荀悦殿ですが、彼が戯志才殿が書いた過去の戦の著述を読みたいと言っていましてね。確か、奉孝殿が持っていましたよね?」
食事の最中問われ、郭嘉はうなずいた。
「ええ、全部じゃないですけど。俺が持ってるのは殿の戦の記録だけですね。それ以前に戯志才殿が史書に照らして書いたっていうのは、書庫に片づけておけって頼んだんですけど」
「そうですか。では明日にでも家僕を書庫にやりましょう。仲豫殿が読みたがっているのはおそらくそちらでしょうから」
「あの人、俺はあまり話してないですけど、ちょっと変わった感じでしたね。仕官しないぞとか連呼してて」
郭嘉の言葉に、荀彧は苦笑をこぼした。
「ええ、そうなのですよ。昔から学問にしか興味がなくて、最近は山奥の庵に籠っていました。絶対に仕官しないと言い張っていますけど、しばらく手伝ってくれていたころは本当に助かったのですよね。可能ならまた出仕してくれないものかと思っているのですが」
荀彧はあきらめ半分でため息をついていた。
「今はどうしてるんですか?」
「わたしの邸で書に溺れていますよ。時々子供たちに学問を教えてくれているので、それは大変助かるのですけど。ああ、そういえば。子供たちがあなたに会いたがっていましたよ。また休みの日にでも我が家へ遊びに来てはどうですか? 奉孝殿も、四六時中官舎の房に籠っていては気が滅入るでしょう」
一見にこにこと話しているようで、なんとなくそう言った荀彧の笑顔にはわずかな緊張を感じた。なんでだろうと思ったが、思い当たる節はない。郭嘉は小首をかしげて言った。
「んー、そう言ってもらえるのは嬉しいですけど、あんまり甘えるのも悪いですよね。俺、一族でも何でもないのに」
「そのようなこと、気にしなくていいのですよ」
「文若殿は気にしなくても、他の連中は気にするかもしれないですよ。それでなくてもあんなかわいい女の子がいるんだし。今回の移動で荀玲殿に目をつけた人結構いるんじゃないですか? 俺が文若殿の邸に入り浸ってたら、もしかして俺と荀玲殿が結婚する予定、みたいな変な噂になるかもしれない。俺は全然そんなつもりないけど、まあ、この歳で結婚してなくて、父親の文若殿とも仲良くて、しょっちゅう邸に呼ばれてるってなると、変な勘ぐりする奴もいるだろうし」
郭嘉としては、至極真っ当なことを言ったつもりだ。生真面目な荀彧のことだから、こう言えばわかってくれるだろうとも思っていた。しかし、郭嘉のその言葉を聞いても、荀彧は妙にこわばった笑顔のまま、引き下がらない。
「そのようなこと、気にせずともよいのですよ。奉孝殿は、相変わらず妻帯する気はないのですか?」
「ないですね。なんかピンとこないですよ。そんな、他人と四六時中一緒にいなきゃいけないとか、なんかやだなとしか思えないです」
「他人といっても、妻として迎えれば、その人は家族でしょう?」
「そんな簡単にそうなれるもんですかね? なんか想像できなくて。文若殿は、唐夫人との結婚って親が決めたんですよね? 嫌じゃなかったですか?」
「嫌も何も、決まっていたことでしたから」
思いもしなかったのか、荀彧は小首をかしげ、考える様子を見せた。
「あまり彼女と一緒にいることに嫌悪を感じたことはないですね。そういうものだと思っていましたし。それに、働きに出ていれば、それほど長く一緒にいるわけでもありませんよ。家に帰っても、子ができれば妻は子に掛かりきりでずっとわたしと一緒にいるということもありませんし」
「まあ、そうかもしれませんけど」
「妻子がいるというのはいいものですよ。辛い時も支えてくれる存在がいるということは何物にも勝る幸せです。たまに帰ってぐっすり眠る子供たちを見ていると、この子たちのために早く平和な世を作れるようがんばろうという気にもなれます」
「でもそういう平和な夫婦ばっかりじゃないでしょ? 殿なんか大変じゃないかなと思いますよ」
曹操は正夫人の丁氏とはかなり仲が悪い。だからこそああやって第二・第三夫人と迎えたのだろうが、これで正夫人と他の夫人たちがもめていたらもっと大変だろう。その点、曹操の夫人たちはそこそこ平和にやっているようだが、必ずしもそうなるとは限らないはずだ。
「まあ、それは……」
さすがに返す言葉に困ったのだろう。荀彧が眉を下げた。
「なんか、言い寄ってくる女の子見てるとたまにうんざりするんですよね。別に玉の輿狙おうとか、そういうのはいいですよ。でもなんかガツガツしすぎてて、一緒にいて幸せ~とか、想像もつかないですよ」
郭嘉の言葉に、思い当たる節でもあったのだろう。荀彧は口をつぐんでしまった。しつこく言い寄ってくる女官たちにうんざりしているのは、きっと郭嘉以上だろうから、無理もない。
「ああいう娘たちはきっと結婚したらすぐ掌返すでしょ。かといって、俺のこと本気で好きになってくれる娘なんて想像もつかないし、そもそも俺も、そういう好きとか、全然ピンと来てないし」
郭嘉の言葉に、荀彧は怪訝そうに眉をひそめた。
「ピンとこない?」
「はい」
「あれほど女官に手を出しながら何を言っているのです。少なからず好意を抱いたから口説いているのでしょう? それが好きという感情では」
「いや、俺、手を出してるんじゃなくて言い寄ってくる娘を適当に相手してるだけですから」
即座に荀彧が眉をひそめた。
「適当に、って手を出しておきながら」
「いや、だから向こうの方が積極的なんですって。下手したら俺を押し倒してきますよ」
「断ればいいじゃないですか、そんなもの」
「女の子って結構陰険なんですよ。一回断ったらあることないこと噂されたりして面倒だったんですよね。それなら適当に相手してれば、今度は女の子同士が喧嘩するんで、俺としてはそっちのが楽なんです」
言い切ると、荀彧は目を丸くして随分長く固まったあと、深々とため息をついた。
「……殿の方がまだ健全に思えてきますね」
「なんですかそれ」
「殿は少なくとも好意を持った相手にしか手を出しませんよ」
「あー、そうですね。殿って毎回全員好きだって思ってる、みたいなこと言ってたような」
落ちそうにない相手でも、これだ! と思うと口説き落とすことに夢中になるという話を一度聞いたことがあった。曹操はどうも女を落とす過程に快感を覚えている節があるように思う。郭嘉にはさっぱり理解できない境地だ、と言うと、曹操は笑っていたが。
「わたしは結構本気で娘の婿にはあなたを、と思っていたのですが、駄目ですね、これは」
「いや、それ冗談ですよね? 勘弁してくださいよ」
「とりあえず、そんな半端な気持ちなら女官に手を出すのはおやめなさい。相手もそれなりの家柄の娘さんですよ。将来に傷がつく」
「傷がつくなんて考えてる女は俺に手なんか出してきませんよ。多分他の男にも同じことしてると思――」
「そういう問題ではありません。もめ事の元だと言っているのです」
「いや、だから断ったらそれはそれでもめ事が」
「次、誰かに手を出したらその子を妻になさい」
「は!?」
「無責任にあちこち手を出すのは望ましいことではありません。あなたもいい加減身を固めなければならない年頃ですよ。丁度いいでしょう」
「よくないですよ!」
「ならば、あちこち手を出すのはおやめなさい。少なくとも殿は、手を出した相手は責任を取って室に入れていますよ」
「う……」
確かに、曹操は手を出せば大抵側室にしている。
「嫌なら慎みなさい」
呆れたように見つめられ、郭嘉としてはそこから目をそらすしかなかった。
二カ月経つ頃には曹操から汝南で劉辟を降した、という報があった。汝南周辺に拠点を作るのはやめにしたようで、潁川との境に近い場所にいくつか砦を築いたらしい。曹操はその後、今度は黄邵の討伐へと向かっていた。こちらは劉辟より規模が小さいので、じきに決着が着くだろう。
その日、郭嘉は執務室に一人でいた。荀彧は屯田関係の確認をするため、他の城市へと視察に出かけている。留守を頼むと言われたものの、郭嘉は進んで言われた以上のことをするつもりもない。荀彧の部下に適当に仕事を任せて、執務室でのんびりと報告書を読んで振り分けをする程度だった。
最初の頃は遠慮がちだった荀彧も、最近はちょこちょこ郭嘉に面倒な仕事を押し付けてくるようになった。彼が出かけた時も、きっと郭嘉にすべて任せるくらいのつもりで出て行ったのだろうが、落ち着いた状況の今なら適当にやっていても問題はないはずだ。だから、数日はゆっくりできる。
荀悦が執務室にやってきたのはそんな時だった。
「文若は?」
一応府の奥まった執務室なので、普通は客人が来る前に訪いの先ぶれがくるものだが、彼は先ぶれなど完全に無視してやってきたようだ。荀悦に遅れてやってきた下男が部屋の外で恐縮していた。
何かと常識の通じない相手なのだろう。学者肌の人間にはよくある話だ。
「視察に行きましたよ。しばらくは戻らないんじゃないかな。五日ほどで戻るって言ってたので、多分あと三日くらいは帰ってこないと思いますよ。って、文若殿の邸に住んでるんじゃ……」
「文若と顔を合わせることなどほとんどない。あいつはほとんど邸には戻らん」
「ああ、なるほど、確かにそれは」
荀彧が府にこもって仕事漬けなのが当たり前すぎて忘れていた。
荀彧がいないなら帰るだろうと思っていたのだが、荀悦は考えるように腕を組んで、室を出て行こうとしない。どうしたものか、とつぶやいているのでさすがに無視するわけにもいかず、郭嘉はしばらくしてから彼に声をかけた。
「何か用事でも? 急ぎなら早馬でも飛ばします?」
「いや、そこまでではない。先日の戯志才殿の書をすべて読み終わったので、それを持ってこさせたのだ。ついでに代わりの書を何か借りられないかと思ったのだが」
「えっ、あれ全部!? もう読んだんですか? かなりの量だったと」
「大したことはない。いい暇つぶしにはなったが、戦の分析ばかりで辟易するな。しかも解釈の誤っている部分がある。筆者が生きていれば指摘してやるのに残念だ」
「はは……」
「書は置いて帰ってもいいか? 誰のものかは知らんが、文若が許の府の書庫から持ってきたと言っていたからには、ここにあるべきものなのだろう」
「あー、そうですね。誰のものっていうとよくわかりませんが、とりあえず俺が持ってきて、殿に許可もらって書庫に置いてたんで、書庫に戻してもらえれば。誰か、案内させますよ」
廊下で恐縮していた下男に声をかけると、彼はうなずいて荀悦について来ていた荷物持ちと共に書庫へと向かった。
「君が持ってこさせたもの、か」
下男の背中を見送っていると、荀悦にじっと見られていることに気づいた。
「興味があったのか?」
「ええ。これでも俺、軍務担当なので」
荀悦はあからさまに怪訝そうな顔をして首を傾げた。
「その割に武将とは思えぬ細さだな」
「よく言われますよ。武将じゃなくて、作戦参謀担当ですから」
「ますますわからんな。作戦参謀がなぜこんなところにいる。前線に行かずともよいのか?」
「行けるもんなら俺だって行きたいですけど、留守番しろって言われたんで」
荀悦が腕を組み、一人納得したようにうなずいた。
「なるほど、お払い箱なのだな」
「喧嘩売ってんのかよ! 人が親切にしてれば……。さっさと帰ってくれますかね!?」
「いいではないか。軍務に向かないからと文官仕事を任されたのだろう」
「いや、だからっ」
「そうやってすぐ激昂するあたり、とても軍師に向くとは思えんな」
「――っ!」
「不本意ならさっさと仕官などやめて、家に籠って書でも読めばいい。それとも不本意な仕事を続けざるを得ないような貧しい家の生まれなのか? 違うだろう? どう見ても生まれてこの方金に困ったことなどない、という顔だ」
一体何の意図があるのか。あるいは何も考えていないだけなのかもしれないが、いちいち癇に障る男だ。もっとも、彼の言っていることも分からないではない。郭嘉とて、ただ書に埋もれて生きていたら同じことを言っていた可能性もあるだろう。
「あいにく、俺はこのめちゃくちゃな世の中をまともにしたくてここにいるんで。そっちこそ、山に籠って書に埋もれてるのが心地いいのかもしれないけど、少しは表に出て人の役に立ってみたらどうですか? 文若殿が惜しいって言ってましたよ。あんたが手伝ってくれたら、って」
「ふん、ばかばかしい。政など所詮はきれいごとだ。世のため人のためと言いながら、実際そう考えている人間がどれほどいる。めちゃくちゃだった許を立て直すべく幾人にも声をかけたが、そのうちのほとんどが商人に抱き込まれ、賄賂で態度を変えた。学問で語らっていた頃は偉そうなことを言っていたくせに、結局己がわずかな権力を手にすれば簡単に不正に手を染める。城市がめちゃくちゃな状態だったから目を瞑って立て直しを優先したが、心底辟易だ。『人の性は悪なり、その善なるは偽なり。人の性生まれながらにして利を好む有り』。荀子はうまく言ったものだ」
深々とため息をついた荀悦の言葉にはいら立ちがにじんでいた。
無理もない。そして郭嘉もそういう官吏がほとんどだということはよく知っていた。ただ、そうでない者もいる。
「違う人もいますよ。文若殿は違うでしょう。殿もそうです」
「まあ、文若はそうかもしれぬな。君の主がそうであるかどうかは知らないが」
「一度殿と会って話してみればいいですよ。世の中にも、まじめにこのめちゃくちゃな世の中立て直そうっていう人がいるんだ、って感動しますから」
「ふん、どうだか。そもそも朝廷に任じられたわけでもないのにこうして己が制圧した城市を治め、税金と称して民から搾り取って軍備を増強し、敵とみなした別の群雄と相争う。それこそ欲の表れというもの。群雄を気取っている男など信用ならんな」
「じゃあ、もし俺たちがここ来なかったらどうなってたと思います? 朝廷から正式な太守とかが来て平和になってた? んなこたないでしょう。帝は今ここから遠く離れたところで権力争いに明け暮れる佞臣たちに取り囲まれて、な~んにもできずじまいだ。聞いた話だと、近頃は誰が帝を操るかで戦まで起こってるって話ですよ」
「それは帝がまだ幼いからで」
「いくら帝が子供だからって、もう十五かそこらでしょう。できる奴ならそろそろ頭角を現してもいいころだ。ところが帝は権力争いを止められさえしない。やる気あるんですかね? 己の部下すら抑えられない帝が、ましてやこんな遠く離れたところまで面倒見てくれるわけがない。俺たちが来なかったら、遠からず賊徒の連中がでかい顔してこの辺牛耳ってたんじゃないですかね?」
いらだちに任せてまくし立てると、荀悦は腕を組み、郭嘉を見定めようとするかのようにじっと見つめてきた。
「そうかもしれない。だが、いずれ帝が大きくなれば――」
「佞臣に囲まれてピーピー泣くだけの帝が何できるっつーんだよ。こんなめちゃくちゃな世の中で、よくもまあそんな能天気に朝廷なんぞ信じられるもんだ。その目は都合のいい事実しか映し出せない節穴ですかね? 董卓が都を焼いて以来、世の中は乱れる一方だってのに。あんたが悪し様に言うその『群雄』ってのがいなかったら、それこそもっとひどい状況だったはずだ。なんなら一回廃墟になった洛陽を見てきたらどうです? 己の都さえ守れないような帝を後生大事に戴いてるから、こんなめちゃくちゃな世の中になるんだ、ってしみじみ実感できますから」
「洛陽を焼いたのは董卓であろう。責があるとすればそれは董卓か、さもなくばそれを止められなかった朝臣たちだ」
「その朝臣ってやつらが、今、帝を政争の具にして殺しあってるって言ってんじゃないですか。そういうろくでもない連中を排除もできない、政争の具にされながら、そいつらを放逐して朝廷を立て直すこともできない、そんな帝なんて、存在意義ありますかね?」
ここまで言うと、荀悦は目を丸くして押し黙ってしまった。
儒を重んじる荀家の人間には常軌を逸した考えのように思えたのだろう。儒に忠実であればあるほど、朝廷と帝の存在は絶対だ。その存在意義を疑うなど、頭がおかしいくらいに思っているのかもしれない。
「山に籠って書に溺れてれば楽だってのはわかりますよ。俺だって何か一つ掛け違えればそうしてたかしれない。でも、もうこんなめちゃくちゃなのはごめんだと思ったから、こうしてやりたくもない文官仕事やってんですよ。あんたみたいに偉そうにご高説垂れるだけで何もしない奴見てると、その能天気さが心底うらやましいですね。せいぜい庵を焼き討ちされたくらいで、この乱世にさぞかし恵まれた環境で生きて来られたんでしょう。おめでたい限りだな」
睨みつけてせせら笑っても、荀悦は顔色も変えない。食えない男だ。
しばらくにらみ合ったが、荀悦は腕を組んだまま、微動だにしなかった。
「用が済んだならさっさと帰ってもらえます? これでも俺、忙しいんで」
吐き捨てるように言うと、荀悦はようやく組んでいた腕を解き、口を開いた。
「君は、庵を焼かれる以上のことがあったのか? のうのうと守られていそうに見えるがな」
「いちいちあんたに教えてやる義理なんてないね」
ぴしゃりと言い切ると、荀悦は何度かうなずき、ようやく踵を返した。
「意見が相容れぬ、それはわかった」




