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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
1.乱世の始まり
6/64

6:<荀彧/郭嘉編>青州黄巾賊(前編)

対青洲黄巾賊編、前編です。

立ち向かう曹操・荀彧と、袁紹に目を付けられ始める郭嘉編。

 鮑信の話では、賊徒は今東平国を荒らしまわっているという。

 程立のいる東阿はちょうど道程にあり、そこに寄ってから東平へ向かうことになった。

 荀彧にとって、行軍についていくのは考えていたよりずっと大変だった。

 曹操は荀彧のためにかなりいい馬を選んでくれたらしい。加えて、東武陽から東阿は歩兵と足並みをそろえても二時ほどあればついてしまうような距離だ。それでも、着いた時荀彧は息を切らしていた。周囲の武将たちが涼しい顔をしているのを見ると、己の体力のなさを痛感せざるを得ない。

「まだまだ修行が足りぬな」

 馬から降りると、先に着いていた曹操が笑って言った。

「お恥ずかしい限りです」

「よい。陳宮も最初はそんなものだった。それより、程立とやらは来るかな? 知らせを出したのであろう?」

「おそらくは。東阿で殿が会いたがっていると、先に早馬を飛ばしてあったのですが」

 馬を預け、東阿の街へと入っていく。城壁をくぐったところで県令が出迎え、その傍に見上げるような大男が立っていた。

 大男と言っても、ひょろりと長いという感じだ。文官の冠をかぶり、きちんと着物を着込んだ姿は一目見て文官とわかる。

「初めてお目にかかります。程立と申します」

 程立は曹操に向かって深々と拝礼した。彼は五十前後だが、見た目には若々しく見えた。五十ともなればそろそろ老年に差し掛かろうという年齢だが、まったくそうは感じさせない生気が彼にはある。

 程立は荀彧を認めると軽く会釈し、再び曹操に視線を戻した。

 小柄な曹操から見れば、頭一つ程見上げることになる。しかし曹操はそれを気にしたふうもなく、微笑んで程立を見上げていた。

「程立殿か。荀彧より、並々ならぬ御仁と伺っておる。ぜひ我が幕下に加わり、その力をお貸し願いたいが、いかがか?」

「ご過分なお言葉痛み入ります。無論そのつもりでございますが、しかし、文若殿の言葉は鵜呑みにされぬがよろしいですぞ」

 程立はいたずらっぽく笑うと、一瞬荀彧に目を向けてきた。

「文若殿は何せ、人をほめることしかいたしませぬからな」

「そのようなことは。わたしはいたって本当のことしか申し上げていないつもりですが」

「では言い方を変えましょう。文若殿はついつい人のいいところばかり見てしまうのですな。稀有な才と言えましょう。儂なぞはついつい人の粗にばかり目が向いてしまいますゆえ」

 声を出して笑うと、程立は曹操の前に膝をつき、拱手した。

「文若殿はまさしく王佐の才でありましょう。曇りなき目で泰平の世を見据える文若殿が主と認めたお方なれば、儂もまた、(こうべ)を垂れるに足るお方と見ました。かくなる上は身命を賭してお仕えする所存です。しかし」

 そこまで言うと、程昱は顔を挙げ、まるで挑むように曹操を見上げた。

「儂は能無しにおもねるのは大嫌いでしてな。もし万が一文若殿の目が曇っておると思えば、前言は撤回させていただく。それでもよろしゅうございますかな?」

 程立を見下ろしていた曹操は、程立の挑発にむしろ楽しそうに目を細めた。

「よかろう。無論、私もそなたが使うに足らぬと思えばその首刎ねるやもしれぬがな」

「もちろんでございます。ぜひご自身の目にて儂をご覧になり、評価されますよう。いかな優れた臣があろうとも、己が目で判断できぬような主には仕えたくございませぬでな」

 程立は立ち上がり、軽く膝を払った。

「さて、差し当たっては東平で暴れる青州黄巾賊でございましょう。曹操殿が動かれたとあれば、劉岱殿は負けたのですな」

「そうだ。聞いたのか?」

「いえ。ですが、早晩こうなるだろうとは思っておりました。賊徒とはいえ百万もの人間相手に打って出るなど、愚かとしか言いようがありません。」

「そなたは、劉岱殿の相談に乗っていたこともあると聞いた。なぜ仕官しなかったのだ?」

「なぜ? お分かりになりませぬか? 儂は愚か者に仕えるのは嫌だったのです。もし儂がうっかりあんな男に仕えておったら、今頃わずか数万の兵を率いて黄巾賊を殲滅せよと命じられ、絶望しておったところでございましょう。よもや、曹操殿も同じお考えではないでしょうな?」

 曹操は少し考え、ならば、と程立に言った。

「先にそなたの意見を聞こうか。策があるのか?」

「策と言うほどのものではございませんが。しかし、ここで立ち話と言うのもなんでしょう。(やくしょ)にでも入ってお話させてくだされ」

 それならば、と近くにいた県令が皆を(やくしょ)の中へと先導した。




 府の奥まった一室に、程立と曹操、荀彧と共に主だった武将たちも集められた。机の上には地図が広げられ、さながら軍議だ。

「まず、ご存じかとは思いますが、青州黄巾賊百万と言えど、実質戦っておるのはせいぜい三十万と言うところでございましょう。しかし、されど三十万。数に任せてこられてはまず勝てません。そこで、儂が提案したいのは連中との講和です」

 程昱はじっと曹操を見つめていた。曹操は机を囲んで立つ一同の中で、唯一椅子に座って机の上の地図に目を落としていた。

「青州黄巾賊の中には、乱世に愛想が尽きて賊徒に身を落とした人士が少なからず紛れ込んでおります。かくいう儂も知り合いが何人か紛れ込んでおりましてな。何度かくだらないことはやめよと手紙を出しはしたのですが、返事はつれないものです。しかし、最初の内は天下を覆すと言っておった者が、最近は弱気になってきましてな。賊徒を辞めるとは言わないものの、相当食料に困窮しておるようで」

「だろうな。百万の口を満たすのは簡単なことではない。安住の地が得られぬ以上、永遠に略奪を繰り返さねば生きていけぬ。生半可な覚悟では続けられまい」

「さようです。儂は、返ってくる手紙を見るにつけ、講和はさほど難しくないのではないかと見ております。連中も、いい加減戦に倦んでおりましょう」

「どうやって講和を促す? 食を与えるか? しかし、現時点でそこまでの余裕はないぞ。そうだな、文若」

「はい。わが軍は兵糧が足りていないわけではありませんが、さすがにいきなり百万の民に十分な食を与えられるかと言うと……」

「食より、おそらく連中が求めておるのは心の安住。すなわち、信仰の保証と見ます」

「信仰、だと?」

「はい。連中が他の賊徒と違うところはそこでございましょう。心の拠りどころとなるものがあるゆえに、多少飢えても、戦いの連続で仲間が死んでも結束できるのでございます。また、容易く降ってこぬのも、降れば信仰を失うと恐れているところもあるはず。そこを認めると言えば、大きく心が動きましょう」

「信仰か」

 曹操が苦虫をかみつぶしたような顔をした。彼はもともと、邪教の類は大嫌いな男だ。それを見た程昱が違う、と首を振った。

「曹操殿、信仰そのものは悪ではないのです。太平道のそもそもの教義は比較的現実的なもの。己がしたことが己に返ってくる。ゆえに善行を積むべし。あとは子孫繁栄くらいのものです。元々は、乱を成すべきという教義は持っていないのです」

「では、なぜ連中はここまで暴れるのだ?」

「それは、世が乱れ、党錮の禁などがあり、知識人が太平道に加わってからにございます。彼らは、世の乱れを太平道を通して糺そうとしました。それが張角を生み、各地の黄巾賊につながっておるのです」

 ふむ、と曹操が何度かうなずいていた。

「そう言った連中が賊徒を煽っておると?」

「というより、賊徒に志を与えようとしたのでしょうな。太平道の教えに従えば、暴政を行う為政者には天罰が下るというのも理にかなっていることになります。彼らは乱世に対する怒りと救いを、太平道に求めたのでございましょう」

 とはいえ、それはそう簡単な話ではなかったはずだ。賊徒は結局どこまで行っても賊でしかない。街を落としても住民からは支持を得られず、食を得ようと思っても略奪するしかなく、常に官軍に追い回される日々。そんな中で高い志を保ち続けられる者がどれだけいるだろうか。

「ですから、乱を起こさぬというのを条件に、信仰はお認めになることです。それをもとに静かな生活を送る分には、世に害成すものではございません。そして、鬱屈した思いをためている知識人たちには仕官を勧められるがよろしいでしょう。曹操殿が真に天下の安寧を願っていると知れば、かの者たちも考えが変わるはずでございます」

「よかろう。それが本当に、世に害成すものないのならば、な」

 そこからは、鮑信を中心に具体的な軍の進め方の話になった。今賊徒がどのあたりにいて、どのように立ち向かっていくか。こうなると、実戦経験のある武将たちの方がすぐれた意見を出す。

 最後に、曹操は荀彧を振り返って言った。

「あとは、終わった後のことだな、文若」

「はい、そちらは、わたしに策がございます。兗州・予州など、近辺には戦のせいで耕作放棄された田畑が多くあります。それを彼らに分け与え、定住を促すのです。土地を与え、対価として兵を供出することを義務とします。これならば、差し当たっては飢えに苦しんでも、来年には食を得られる目途も立つ。しばらくならば我慢しようという気にもなるのではないでしょうか? しかもそれを大々的に喧伝すれば、曹操軍は賊徒を赦し、むしろ土地を与えているとして、各地から流民が流入することも考えられます。となれば、ますます人手は増え、わが軍にとって大きな力となりましょう」

 言い終え、曹操を見る。彼は一つうなずいて、その場にいた全員を見回した。

「まずは、各個撃破で勝ちをおさめ、連中を講和の席に引きずりだす。よいな!」

「は!」

 全員が勢いよく返事をした。

「程立。お前はこのあたりの地理に詳しかろう。前線までついてこられるか?」

「お任せください」

「では、諸将に従って準備をせよ」

「は」

 武将たちと程昱が去っていき、室には曹操と荀彧だけが残った。曹操は座ったまま地図を見つめていたが、しばらくして傍らに立つ荀彧を見上げてきた。

「お前はどうする、文若? 前線に行きたいか?」

「可能であれば、講和の席には同席したく存じます。ですが、正直最前線では足手まといにしかなれないかと……」

 ためらいがちに言うと、曹操が笑った。

「そんなことはわかっておる。まあ、今回は戻ったほうがいいな。数日で終わるような賊徒討伐ならばともかく、今回はそうそうすぐには終わるまい。お前は東武陽に戻り、兵糧を集めよ。これから収穫の時期だ」

「かしこまりました。それにしても……」

 荀彧は地図に目を落とし、先ほどの武将たちのやり取りを思い返す。鮑信が今まで賊徒とどうやって戦ったかというような話をかなりしていたが、計略にはめられたというような話題はほぼなかった。

「賊徒はどうも、力任せな攻め方しかしていないように感じたのですが」

「そうだな。大抵は数に任せた攻撃のようだ」

「となると、戯志才殿がいるかもしれないと思ったのは、誤りかもしれません。知人から、彼が青州黄巾賊に身を投じたと聞いたのですが……」

 もし彼が賊徒の指揮を執っていたら、そんな戦い方はしないのではないか。そう思っていると、じっと自分を見上げてくる曹操に気づいた。

「殿?」

「文若、その戯志才とやらはどんな男なのだ?」

「古今の兵法書を読み漁り、かなり精通していらっしゃいました。わたしなどは孫子など読んでもつい通り一遍のことと考えてしまいがちなのですが、彼はそれをどう実践に生かすかに大変腐心しておられ、一度でいいから試してみたいと」

「で、そいつは実践したのか?」

「いいえ。わたしの知っている限りでは。乱世とはいえ、仕官もしない一文人が兵を操る機会などあるはずがありません。それに、戯志才殿はわたしと同じく完全な文人肌で、自ら剣をふるって将兵を指揮できるとも思えませんし」

「では、典型的な机上の空論だな」

「ですが、その彼が賊徒に身を投じたとなれば、きっと嬉々として兵法書を実践しようとすると思うのです。しかし賊徒にその気配がないとなれば、やはり彼はいないのではないかと」

「いや、そうとも限らんぞ」

 曹操はいよいよ楽しくてたまらないとばかり目を細めた。

「文若、そもそも兵法書とはなんだと思うか?」

「なに、と申されましても……」

「兵法とは、兵を動かす法。すなわち、賊徒を動かす方法ではない、ということだ」

 目を丸くする荀彧に、曹操はまた楽しそうに笑う。

「統率の取れない兵を動かすということほど難しいことはない。ましてや賊徒だ。そうそう言うことなど聞くはずがない。俺も募兵で散々苦労したからな。言うことを聞かん兵を動かすことがいかに難しいかよくわかっている。もし賊徒に飛び込んだ文人が、兵法書を実践できるくらい自在に賊徒を操れたとしたら、そいつは間違いなく天才だ。歴史に名を残すだろうし、天下も易々手に入れられるだろう。だが、現実にはそうそうあり得ん話だ」

「そんなものでしょうか?」

「間違いない。大方そいつは賊徒相手に兵法でもって指揮しようとしたのではないか。だが、結局うまくいかず、早々に諦めたのに違いない。気性の荒い奴ほど文人を馬鹿にするのはお前もわかるだろう? 偉そうに、軍師だから言うことを聞けなどと言っても、お行儀のいい武将すら言うことを聞かん。ましてや賊徒を率いておるような連中は、そうそう言うことを聞くまいな」

 くつくつと曹操は肩を震わせて笑った。

「お前の慧眼も、まだ経験不足な部分があるな」

「恐れ入ります」

「構わん。そのくらいのかわいげがなければ俺の立つ瀬がない。戦のことくらい、俺に任せておけ」

 百万と言う大群相手に、曹操は随分落ち着ているように見える。彼はまた地図に目を落とし、腕を組んで考え込み始めた。

 きっと、曹操には勝算があるのだろう。

 となれば、荀彧が考えるべきはその後だ。

 先程は土地を与え定住させればいいと言ったが、百万人全員に十分な土地を与えられるかと言えば、難しいだろう。仮にそれが成ったとしても、差し当たって一年、彼らを食わせねばならない。

「……徐州が欲しいところですね」

 荀彧がぽつりとつぶやくと、曹操が笑った。

「今目の前で百万の賊徒を平らげねばならんと言っているのに、気の早い奴だ」

「そちらは殿が何とかしてくださるとおっしゃいましたので」

 にこりと笑って切り返す。

 これも、何度か曹操と話し合ったことだった。

 百万の民を降伏させたとして、どうしても現状の領土では彼らを養えない。となれば、どこかから兵糧を確保するしかないが、それにはもう略奪しか手はないだろうと思えた。

 しかし、表立って略奪などすれば曹操の評判が落ちる。かといって、金で賄うと言っても各地の群雄が売ってくれるわけもない。ならば、どこかに攻め入る口実を見つけ、そこの兵糧を奪うのが上策だが、攻め入るにはそれはそれで理由が必要だ。

 北の袁紹を攻めるわけにはいかず、南の袁術も兵が多いので避けたい。西は洛陽で、そもそも食など残っていないだろう。となれば、必然的に戦に巻き込まれていない徐州ということになる。それなりに兵はいるだろうが、陶謙はさして戦上手という噂も聞かないので、勝つこと自体は難しくないだろうと思えた。

 ただ、攻め入る口実がない。

 むやみに攻め入れば、陶謙は袁術・公孫瓚と結んでいるので挟み撃ちになるのは目に見えている。できれば、陶謙に明らかに非があるような理由が望ましい。もしくは陶謙・公孫瓚・袁術が仲たがいをして、陶謙がどこかから攻められる、という状況でもいい。そうなれば、救援のふりをして徐州に攻め入ることもできる。どさくさに領土を奪うなど、昨今珍しいことでもなくなった。

 だが、そのどれも現時点では難しい。調略などできればいいのだが、それだけの組織も金も、現時点の曹操軍にはなかった。

「百万の民を、食わせられるかどうか、か。百万の軍勢を前に、お前以外の誰も、そんなことは考えていまいな」

「こればかりは、やってみないとわからないところがあります。ただ、殿が天下を制するには、兵を蓄えることは必要なこと。しかも、青州黄巾賊百万を平らげたとなれば、殿の声望は高まります。ここを乗り越えれば袁紹と並び立つことも不可能ではなくなるでしょう。ですから、講和は、絶対必要なのです」

 じっと見つめながら言うと、曹操もまた、まっすぐに荀彧を見つめてきた。

 彼の圧倒的な威圧感にもずいぶん慣れたが、こうして見つめられるとまだ時々落ち着かなくなる。それに気づいているのかいないのか、曹操はしばらくしてふ、と息を吐き、まぶしいものでも見るような目で荀彧を見つめてきた。

「お前の言葉を聞いていると、百万の賊など軽く蹴散らして、俺が本当に天下を獲るのだと思えるから不思議だ」

「不思議だなどと、そのようにおっしゃられては困ります」

「そうだな。不思議ではない。何年か後に、お前と同じ話をしようではないか。あの時、青州黄巾賊を前に、お前とこんな話をしたことがあったと、いずれ笑える日が来るだろう」




 曹操が、わずか五万足らずで青州黄巾賊百万に戦いを挑むらしい。

 そう言った時の袁紹の声には明らかに侮蔑の色が浮かんでいた。まるで、どうせじきに死ぬだろうとでも言わんばかりだ。

 軍議でその言葉を聞いた時、郭嘉はさっと血の気が引くのがわかった。郭図の後ろに控え、いつも面白半分で各地の情勢を聞いていたが、この時ばかりは一瞬、周囲の音が消えた。

 百万の賊徒にわずか数万で挑むなんて無謀に過ぎる。曹操はそんな人だったのか? 彼は死ぬのか?

 さまざまな自問を繰り返していると、ふと気づくと軍議は曹操に援軍を送るか否かの議論になっていた。

「百万ですぞ、援軍を出しても焼け石に水。あたら兵を減らしに行くようなものです」

「いやいや、しかしここで曹操が倒れたら、その百万の賊軍が冀州になだれ込むかもしれないのですぞ! それならば今のうちに兵を出して」

「しかし、その背後を公孫瓚につかれたらどうするのです?」

「いやいや、今公孫瓚は劉虞と向き合っておる。少しの兵なら――」

 袁紹の軍師たちが喧々囂々(けんけんがくがく)議論を始めた。

 その後ろで、郭嘉は口許に拳を当て、考え続けていた。

 百万に五万足らずで挑むなど、無謀の極みだ。逃げ場を失い、破れかぶれになったと考えるのが普通だろうが、あのいかにも賢そうな曹操がそんなことをするとは思えなかった。

 となれば、彼には何か勝算があるのだろうか。

 五万で百万を討つ方法が? さすがに無理だろう。いや、そもそも、賊徒をすべて打ち取る必要などないのかもしれない。彼らが暴れるのを止めさせられればそれでいいわけで――

「郭嘉」

 考え込むうち、周囲の声は聞こえなくなっていた。郭嘉は袁紹に呼ばれたことに気づかないまま、ずっと考え込んでいた。

「郭嘉、聞こえないのか?」

 二度目に袁紹が言った時、あれほどうるさかった周囲はしんと静まり返った。しかしそれでも、郭嘉は思索にふけったままだ。

「郭嘉! 聞こえんのか!」

 三度目は半ば怒鳴り声だった。それでも気づかない郭嘉に、すぐ前に座っていた郭図が顔色を変え、慌てて郭嘉の肩を揺さぶる。

「おい、奉孝! 奉孝! 殿がお呼びだぞ!」

「え?」

 ようやく気付いて顔を挙げた時には、広間にいた全員が郭嘉を凝視していた。

「え……っと……?」

 訳が分からず周囲を見回していると、じっとこちらを見下ろしている袁紹と目が合う。

「呼んだのに、気づかなかったか?」

「あ、すみません。ぼうっとしていて」

「ぼうっとしておるような顔ではなかったな。いつも薄笑いで周囲を睥睨(へいげい)しておるような男が、今日は随分と深刻な顔をして考え込んでおったではないか。顔色が蒼白になっておったわ」

「まさか、そんな。俺は元々病弱なので、こんなものですよ」

 言いながら、郭嘉は少なからず驚いていた。いつも郭図の後ろにいて、一度も発言したことなどない。それなのに、案外袁紹に見られていたらしい。

「そこまで深刻に考え込むのだ。お前にも案があろう。申してみよ」

「いや、俺なんかがそんな」

「噂は聞いておるぞ。多くの智者相手に、論戦で一度も負けなかったそうではないか。郭図についてきて軍議に加わったので何を言うのかとずっと思っておったが、お前は一度も発言したことがない。何故だ?」

 咎めるような声ではなかった。ただ、淡々と問う袁紹とは対照的に、周囲の軍師たちの視線はすこぶる鋭い。

 ――注目されたくなかったからに決まってんだろ。

 胸の中でぼやきながら、郭嘉は拱手して、しおらしく首を垂れて見せた。

「申し訳ありません。私は若輩の身で、しかもここに居並ぶ名士の方々とは比べるべくもない傍流の男にすぎません。公則殿が誘ってくださったので同席させてはいただいておりましたが、並み居る方々を目の前にすると気後れが」

「嘘だな。お前のいつもの態度はとてもそうは見えなかったぞ」

 ――よく見てんなあ。

 しみじみ感心した。確かに、郭嘉はいつも軍議では、喧々諤々論戦を交わす軍師たちを(はす)に構えて見ていただけだ。それこそ、さっき袁紹が言ったように、薄笑いで睥睨していたと言われたら、そう見えたことだろう。

「……わかりました、白状します。各地の情勢に興味があって、来てました。ここにくれば情報がわかるし、軍師の方々がどう考えるのかもわかる。そういうの、楽しかったんで」

 突然砕けた口調になったせいか、郭図を含め、軍師たちの視線がますます鋭くなる。郭嘉はおどけたように両手を挙げて見せ、苦い笑みを袁紹に向けた。

「楽しいだと?」

「ええ。次に何が起こるのか、どう群雄が動くのか。考えるの、楽しくないですか?」

 ぞんざいな口の利き方に、周囲の視線はまた一段と鋭くなった。袁紹も少し眉をひそめているが、とがめはしない。

「では、そなたはどう思う。曹操に、援軍を出すべきか否か?」

 どう答えるべきか。

 郭嘉自身は、いつまでもここにいるつもりではない。では、曹操に利になるよう袁紹を誘導するべきか。それとも、ここは純粋に袁紹に利になるほうを言うべきか。もっとも、現時点で二人は対立していない。そこまで大きな差はないだろうが。

「されば、申し上げます」

 郭嘉は背筋を正し、まっすぐに袁紹を見据えた。

「援軍は出した方がいいでしょう」

「何故だ? そなたも賊軍が冀州になだれ込んでくると見るか」

「いえ、そうではありません。俺は、曹操殿が勝つと思うので、そう言っています」

 ざわ、と周囲にどよめきが起こった。袁紹も不愉快そうに片目をすがめる。

「孟徳が、勝つだと?」

「はい」

「百万を五万足らずで破ると言うのか。五万は、劉岱の兵をうまく糾合出来たらという話であって、現時点で確実なのは三万程度だぞ」

「この際、五万だろうが三万だろうがさしたる差はないでしょう。俺が思いますに、曹孟徳というお方は勝てないとわかって破れかぶれで戦を挑むほど愚かな方ではないのではありませんか。となれば勝算があるはず。それを、考えていました。そもそも、賊徒と言っても戦い続けることを目的とするわけじゃないでしょう。彼らは純粋に、生きるために食を求め、暴れまわっているだけだ。ならば、彼らが安心して生きていける場所を、あるいは食を与えることができれば、賊徒は暴れる理由を失います」

「賊徒を、懐柔すると?」

「懐柔なのかはわかりませんが、おそらく何度か戦って勝ちをおさめた後、講和に持っていくつもりなのではないでしょうか? 決してあり得ない話ではないと思います。賊徒は賊徒で、遠く青州から流れてきて、そろそろ戦にも嫌気がさしてるんじゃないですかね? 食を求めて戦い続ける日々。周りではどんどん人が死んでいく。そんな状況で、人はどれほど平静を保てるでしょう? 落ち着いて寝たい。食さえあれば。そんな風に思わない方が不思議です」

 静まり返った広間では、郭嘉に反論するものは一人もいなかった。あるいは、袁紹と向き合って話していることで、遠慮しているのかもしれない。

「俺だったら、百万の賊徒をなんとかしなければならないと考えた時、殲滅するのは無理だと考えます。だったら、連中が暴れるのをやめさせるしかない。そして、それには講和しかありません。曹操殿もそう考えるのではないでしょうか?」

「ふむ……」

「そして、もし仮に講和が成ったとしましょう。賊徒百万と言いますが、女子供も混ざってると言いますし、戦えるのは二十から三十万というところでしょう。少なく見積もって兵士二十万。曹操軍との戦いで仮にその半分が死んだとしても、十万。講和が成れば、曹操殿はその十万、そのまま兵士に加えることも可能です。この間黒山の賊を討った時も、確か十万だかの賊の本拠を落として、一万くらい兵を増やしたと言ってましたよね? ならば百万の賊を下せば、十万はありえない話じゃない。少なくとも五万は兵が増えるのは確実でしょう。となれば、曹操軍は十万近くに膨れ上がることになる」

 ざわ、とまたざわめき。それを遮るように郭嘉は声を挙げた。

「御身は今何万の兵を擁しておられるんでしたっけ? 十五万? 二十万? 公孫瓚を破らないうちはそちらに十万くらいは割かねばならないでしょう。ではもし、今後曹操殿と対立することになったら? 曹操殿が百万の民を受け入れて食料不足になり、食を求めてどこかに攻め入るということもあり得ない話じゃない。もし彼が冀州に攻めてきたら、ほぼ同数の戦いになりますね。しかも相手は百万の賊を下して相当士気は上がっているはず。片やこちらは公孫瓚相手に散々てこずって、どちらかというと士気は落ち気味でしょう。さあ、戦ったらどっちが勝ちますかね?」

 明らかに、袁紹の顔に怒りが浮かんだ。それが楽しくて、つい頬が緩む。

「そうならないために、援軍を出されてはいかがです? 賊徒を討つのに協力してやったのだから、と言えば曹操殿も邪険にはできないはず。講和が成った時、いくらか兵を分けてもらえるかもしれませんよ。兵を出さないことには、その権利を主張することはできません」

「儂が孟徳に負けると言いたいのか!?」

「そうではありません。可能性の話です。俺だったら、わざわざ冀州には攻め込みませんよ。自分より多くの兵がいるところに攻め込んだって、犠牲ばっかり多くて兵糧があるかどうかも怪しい。それなら、徐州あたりに攻め込んだ方がよほど建設的だ。ただそうなったとしても、曹操殿が兵を増やし、徐州まで制したとしたら、もはや世間は曹操殿が閣下の下風についているなどとは思わなくなるでしょう。そこまで大きくなられて困るのはで閣下はありませんか? 俺は、そうなる前に手を打たれては、という話をしているつもりですが」

 明らかに袁紹の頬はひきつっていた。見ていて楽しいことこの上ないが、薄笑いを浮かべた郭嘉はこの場の全員から敵視されること必至だろう。もうちょっとしおらしくするべきだったかな、と思っていると、横から年嵩の男が口を挟んだ。

「殿、このような男の佞言を真に受けられることなぞございません! この男、曹操配下の者と頻繁に手紙を交わしておるとか。曹操を救うために殿に軍を出させたいだけに相違ありません!」

「曹操の配下の者、って荀文若殿のことですかね? そんな、文若殿と文通してる奴なんて掃いて捨てるほどいると思いますけど?」

 手紙のことまで知られているとは思っていなかった。さほど頻繁でもなければ、大したことも書いていないので読まれて困るわけではないが、今後は見られている前提で返事を書くべきかもしれない。

「俺、そんなおかしなこと言ってますかね? 閣下と曹操殿は友軍だと思っていましたけど、違うんですか? 友軍が危地に曝されていたら、援軍を出すのが普通でしょう。しかしさっきの閣下の口ぶりでは、曹操殿が死ぬのが楽しみなように聞こえましたけど」 

 わざと大仰に首をかしげて言ってみる。無論、群雄同士の関係だ。いかに昔友人関係だったと言っても、それが永遠に続くわけでもないだろう。わかっていたが、あえて郭嘉は口にした。

「御身は曹操殿が滅ぶのを望んでおられるので?」

 直截すぎる言葉に、また広間は静まり返った。

 まっすぐに見据えれば、袁紹は頬を引きつらせながら睨み返してくる。

 しばらくすると、彼は一つ息を吐き、椅子の上から見下すような視線を向けてきた。

「そなた、孟徳を知っておるのか?」

「知ってるっていうのは会ったことがあるかって意味ですか? まあ、そうですね。一回きりですけど」

「どこでだ」

「潁川からここに逃げてくるときに、陳留の近くで彼の部下に助けてもらったんです。その時に一度、お会いして話しました」

「仕官しろと言われなかったのか」

「んー、そうですね。それっぽいことは言われましたけど、仕官するつもりはなかったので」

 こういえば、袁紹は「曹操に仕官を誘われたが袁紹に仕えるつもりだったので断った」とでも解釈するに違いないと思った。案の定、険しかった袁紹の頬から険が抜ける。

「ふん、なるほどな。そなた、孟徳をどう見た? あの男ならば賊徒を平らげるように見えたのか」

「平らげられはしないだろうと先ほども申し上げました。ただ、ものすごく頭のいい人だということはひしひしと感じました。加えて、武将らしい雰囲気もあるし、部下の兵士たちもかなりしっかりしているように見えたので、あの方ならそんな勝ち目もなく破れかぶれで賊徒に向かっていくなどしないだろうと思っただけです」

「ふん。郭嘉よ、そなたは知らんようだから教えてやるがな、孟徳は反董卓の連合の際、勝てもせぬのに寡兵で出陣し、董卓配下の徐栄に散々に破られて兵を失ったのだ。あの男はその程度の男よ」

 ――盟主でありながら、何もせずに終わったお前よりましだろ。

 喉まで出かかった言葉を、郭嘉はかろうじて飲み込んだ。

 すぐに、袁紹の言葉につられるように周囲の軍師たちが曹操を侮るようなことを言い始めた。

 あきれ顔で周囲を見ていると、しばらくして袁紹が手を挙げた。

「まあよい。今回は援軍は送らぬ。公孫瓚のこともあるからな。ただ、州境の兵には万が一に備えさせておけ。賊徒がなだれ込んでくる可能性もある」

 軍議が散会すると、いつもは郭図について部屋に戻るのだが、もの言いたげに睨んでくる郭図を無視して自室に引きこもった。

 そのまま寝台に横になり、ため息をつく。天井を見ながら、郭嘉は額に手を当て、目をつむった。

 今後、今までのようにはのんびりしていられないかもしれない。よその派閥の連中には睨まれただろうし、郭図には出しゃばったと文句を言われること必至だ。

「そろそろ潮時かね」

 部屋に控えていた静が気づかわし気に見ていることに気づく。郭嘉は彼を一瞥すると、また目をつむった。

「静、俺しばらく寝込むから」

「承知しました。どのくらいまでです?」

「さあ。皆が俺のこと忘れるくらいまで?」

「それは難しいでしょうね」

「難しかないさ。数日部屋にこもってれば俺なんて忘れられるって」

 その後は、どうするか。

 ここでの生活が居心地好いのは確かだ。何も考えず好きなだけ学問に没頭できる。多くの文人と交わっていると時を忘れることも多い。書におぼれて、同じだけの知識を持った人たちと議論を交わし、学ぶ。それは今まで郭嘉が知ることのできなかった喜びだった。

 ただ、どうしても袁紹を見ていると斜に構えてしまう。名門と言うだけで、鷹揚さはあるがどうもやる気がない。それなのに、当の本人はおだてられて自分が天下を獲ると疑ってもいなさそうだ。見ていてうんざりする。

「なあ、なんで袁紹の臣下の連中はあんなこぞって袁紹のご機嫌取ろうとするんだろうな?」

「それが、臣下の務めだと思っているのではありませんか? 諫言すると遠ざけられると思っているのかもしれませんし。出世して権力を握ろうとすれば主君のご機嫌を取るのは必要なことなのでしょう」

「ふーん。ご機嫌取って乗せておだてて、じゃあ何すんのって感じだけどな。まともなこと言う奴いないのかよ」

「まともなことを言えそうな賢い方々は、その権力争いにうんざりして若と同じく学問に興じておられるのでは?」

 若干皮肉めいた音を感じて、郭嘉はちらと静に視線をやった。彼はひょうひょうとして、特に嫌味を言っている風でもない。となれば、自分がそういうふうに聞こえてしまっただけだろうか。

「いかに才があろうと、それを世の役に立てないならそれは罪、か……」

 目をつむると、今でもあの曹操の燃えるような瞳を思い出すことができる。

 もしかしたら、学問だの体力作りだの言わずに、最初に曹操のところに行くべきだったのかもしれない。

「……なあ、静」

「今兗州に行くのは賛成いたしかねます」

 曹操殿のところへ行こうか、と言いかけたら、先に静が言った。

「おま、俺まだ何も」

「若はどう思っておられるかわかりませんが、少なくとも今兗州は百万の青州黄巾賊と曹操殿が戦っておられます。もし、曹操殿が負ければ兗州全体が賊徒に荒らされかねず、予州に続いて兗州全体までもひどいことになるのは明らかです。そんなところに、若を連れて行けません」

「お前、忘れてない? 母上たちは陳留にいるんだぞ」

「仮に若が曹操殿の下へ行ったとしましょう。しかし、さしたる実績もない、とんでもない作戦があるわけでもない、従軍に耐えられるだけの体力もないそんな若造に、ぽんと軍師の座を預けるほど、曹操と言うお方は愚かではないでしょう」

「……まあ、そりゃそうだけど」

「今は行くだけ無駄というもの。せめて青州黄巾賊がどうなるか見極めてからにするべきです」

 至極真っ当すぎて、返す言葉もない。

 郭嘉はため息をついて、再び寝台の上で目をつむった。

 それからしばらく、郭嘉はおとなしく部屋にこもることにした。何度か軍議に参加するようにと呼ばれはしたが、病だと言い張って断った。

 部屋にこもっていると体力が落ちる。それだけが、郭嘉の心配だった。


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