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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
4.潁川平定
58/64

58:<郭嘉編>子の心親知らず(前編)

妻子を定陶から許へ送る道中、曹丕が行方不明に。

「母上、お久しぶりです」

 嬉しそうに拝礼する曹昂に従って、郭嘉も彼の少し後ろで膝をついて拱手した。

 丁夫人の美しさはいつも通りだ。溺愛していると噂の曹昂がいるせいか、その美しい顔には穏やかな微笑みが浮かんでいた。

「お久しぶりですね、子修殿。ずいぶん活躍できているようで、母は嬉しいですよ」

「そんな、自分なんてまだまだです」

 丁夫人の他に曹操の夫人が数人とその子息たち、他にも荀彧などの重臣の妻子たちに、兗州各地の豪族からの人質などもいて、馬車の列はかなりのものになりそうだ。いくら目立った敵がいないとはいえ、兵二千は少なかったかもしれない。とはいえ潁川の守りをおろそかにもできない。二千はぎりぎりの数だった。

 大勢を引き連れて野営はできないので、夜はその都度どこかの城市に泊ることになる。無理のない速度で進んで、許まで十日余りというところだ。しかも、荀彧に各城市が問題ないかさりげなく様子を見てきてほしいとまで頼まれてしまった。

「俺も馬車乗って移動したいくらいなのに」

 最初の城市に着いた時、郭嘉は馬から降りた後、その鞍にしがみついてぐったりと息を吐いた。

「なんで文若殿ってあんな人遣い荒いんだよ。俺の体力殿と同じくらいあるとか思ってんじゃないかな。この後城市見て回れってんだよ?」

 正直馬に乗っての移動だけでもかなり疲れる。これでも従軍するようになって随分ましになったとは思うが、曹操のように仕事をして戦をして女も抱いてそれでもなお体力が有り余るような絶倫ではない。

「私もお付き合いしますよ、郭軍師。私はさほど疲れていませんから」

「じゃあ、子修殿、俺の代わりに」

「さすがにそれはちょっと。ばれたら荀軍師に怒られてしまいそうですし」

「大丈夫。俺が子修殿の話聞いて報告書書けばわからないって」

「ですが、私だけではとても――あ、これは」

 曹昂が近づいてきた親子に気づいて拱手した。それに郭嘉も気づいて同じように手を合わせる。

 穏やかに微笑む女性と、子供たち。しかも、夫人はお腹が大きい。

「これは唐夫人。お久しぶりです」

「お久しぶりでございます、郭様。そして、曹子修様。初めてお目にかかります。荀文若の妻、唐玥と申します。こちらは息子たちと娘、そちらの子は族孫でございます」

 夫人は深々と拝礼すると、困ったようにちらと笑みをこぼした。

「此度はお役目ご苦労様でございます。ぶしつけとは思ったのですが、実は、今回護衛に郭様が付いてくださると知ってから、子供たちが郭様にどうしても会いたいと言って」

 申し訳ありません、と言いつつも、遠慮する気はないようだ。苦笑する夫人を押しのけるようにして、子供たちがすぐに郭嘉にまとわりついてきた。

「はは、久しぶり」

 久々に荀詵を抱き上げようとして、郭嘉はその重さに驚いた。子供の成長は早いのだと痛感する。

「でかくなったな。もう抱っこは厳しいな」

 抱き上げてすぐに下ろすと、荀詵が嬉しそうに笑った。その後軽く息子たちと挨拶を交わした後、最後に荀玲がやってくる。その姿を見て、郭嘉は一瞬息をのんだ。

「奉孝様、お久しぶりです」

 きれいに拝礼して、顔を上げてすぐほころぶその笑顔の可憐さといったらない。夫人に化粧でもしてもらったのか、微笑むその姿は、女の子と言ってしまうにはあまりに大人びていて、美しかった。

「ああ、荀玲殿か。びっくりした、どこのきれいなお嬢さんかと」

 郭嘉が言うと、荀玲は頬を染め、また嬉しそうに微笑んだ。それに郭嘉も目を細め、末恐ろしい、と思う。この調子では多分、じきに彼女の争奪戦が始まるだろう。

「そ、そんなふうに言ってもらえるなんて、嬉しいです。覚えていてくださったんですね」

「そりゃそうだろ。こんなきれいな子、絶対忘れないよ」

「そ、そんなっ」

 荀玲が頬を染め、両手で頬を覆う。郭嘉は軽口をたたきながら、恥じらう様子もかわいいな、としみじみ思った。ちらと見れば、そばにいた曹昂も言葉を失って見とれている。それにもう一つ笑って、郭嘉は夫人に視線を戻した。

「明日の朝にはまた出発です。どうぞゆっくり休んでください」

「はい。郭様も、なるべく休んでくださいね」

「はは……。できれば許に着いたらご主人に言ってください。郭嘉が道中激務で死にそうになってた、って」

「え?」

「じゃ、行こう、子修殿。さっさと終わらせて早く寝たいしさ」

 呼びかけたものの、曹昂はまだぼうっと荀玲を見ている。それに気づいたのか、荀玲も戸惑った表情だ。

「子修殿! 聞いてる?」

「あ、す、すみません」

「付き合ってくれるんじゃなかったんですか? ま、久々に母君に会ったんだし、妻子の皆さんとゆっくりしたいってんなら止めないけど」

「い、いえ、行きます! すみません」

 二人で再び馬に乗り、城内を進む。しばらくして、曹昂はちらと振り返って言った。

「あ、あれって荀軍師のご令嬢ですよね?」

「ええ。さすがの美人ですよね。前会った時は女の子って感じだったのに、女の子は成長早いよな。今日はすっかりきれいなお嬢さんって感じで」

「はい。驚きました。さすがというかなんというか……」

「気に入った?」

 からかうように言ってみると、曹昂は滅相もない、と慌てて手を振った。

「そ、そんなっ。ただ、あまりにきれいな子だったので」

「殿に言えば、縁談組んでくれるんじゃないかな。相手が文若殿の娘なら申し分ないだろうし」

「とんでもないですよ! それに、荀軍師の娘ならなおさらあり得ません。荀軍師の長子と妹の縁談がすでに決まっています。同じ幕僚に二人縁づくというのは多分ないかと」

「あー、それもそうか。残念でしたね」

「ざ、残念って。そんなことないですから」




 そこから道中さして大きな問題もなく数日が過ぎた。幸い賊徒に襲われることもなく、道程は順調だった。

 陳留に、到着するまでは。

 陳留は道程の半分を過ぎたところだ。大きい城市ということもあって、ここで一日休息を、ということになり、妻子たちは皆府で休んでいた。

 とはいえ、郭嘉と曹昂は休む暇もない。城市の内外を見て回り、最後に近辺の政務を任されている程昱に話を聞いていた。

「陳留近辺についてはさしたる問題もない。戦が終わったばかりで多少荒れてはいるが、元々の官吏も残っているし、じきに落ち着くだろう。賊徒もこの辺ではそう多くない。問題があるとすれば、北と西だな。北の袁紹との境――濮陽あたりだが、にわかに賊徒が騒がしい。おそらく、袁紹が賊徒を南へと追いやっているのだろう。今はまだ公孫瓚とやりあっておるが、落ち着いたら南下するために、こちらに火の粉をかけてきておるというところか。西は、洛陽へ向かった曹子廉殿の軍が苦戦しているようだ。補給はこちらから(おこな)っているが、あまり長引くと厳しいな」

「東はどうなんですか? 徐州は」

「ひとまず、呂布は劉備に小沛の城を与えられて落ち着いたようだ。今のところ大きな動きはないが、近々袁術が劉備を攻めるらしいという情報がある。おそらく、呂布の次の狙いは劉備から徐州を乗っ取ることであろう。劉備と袁術が戦を始めたら呂布が徐州を乗っ取りにかかるかるのではないか。となれば、しばらくはこちらに向かってくることはあるまい。仮に徐州を乗っ取ったとしても、すぐさまこちらに切って返せるわけもないしな」

「なるほど」

「全体的に南に力がかかりすぎているな。兵が少なく全体に充分な兵を、とはいかんだろうが、北と西へも備えは必要だ。隙を突かれんために、東にも備えがないというわけにもいかん」

「定陶には今一万いるから、状況的に東はまだ大丈夫でしょう。北もほっといて大丈夫じゃないかな。袁紹は公孫瓚を潰すまで南下はしてこないだろうし、濮陽近辺でも統治が整ってくれば募兵もできるでしょう。問題は西ですね。殿と合流したら、援軍の話もしないと」

「今、陳留でも募兵をかけている。おそらく五千ほどは集まるだろう。潁川はどうだ? 賊徒を降したと聞いたが、そこからいくらか兵にできそうか。合わせて援軍として、そなたらが率いて行けばいいのではないか?」

 程昱に言われ、郭嘉と曹昂は互いに顔を見合わせた。

「それは、俺たちに決定権はないので」

「何のための軍師だ。献策すればよいではないか。どうせ妻子を許まで送れば手が空くのであろう」

 おそらく程昱に他意はないのだろうが、なんとなく見下すような雰囲気を感じる。最初に印象が悪かったせいだろうか。とはいえ、程昱の言うことはもっともだ。郭嘉としても、許に残って荀彧にこき使われるよりはずっといい。

「そうですね。戻ったら殿に献策してみます」

「それがいい」

 子に言い含めるような言い方に、また郭嘉はわずかないらだちを感じたが、うなずいておいた。

 異変が起こったのはその夜だった。

「丕がいない?」

「は、はい。今日一日時間があるならと、昼すぎに街を見たいと出かけられたのですが、そのまま戻られておりません」

「護衛は?」

 曹昂の声に珍しく険がこもっている。その声に、兵士は恐縮して身を縮こまらせた。

「ご、護衛の兵は曹丕様に撒かれてしまい……」

 報告に来た兵の後ろには、申し訳なさそうに平伏する兵士がいた。三人もいる。

「十歳にもならない子供が、城下見物に行って、護衛撒いて一人で遊びまわるなんて、そんなこと可能なのか?」

 郭嘉が感心半分呆れ半分で言うと、曹昂はため息をつきながら言った。

「丕はたまに城を抜け出す癖があるんです。それに、剣も弓も馬に乗るのも長けている。その上悪知恵も働くので、あり得ない話ではないかと。ただ、慣れない街なのに、どうして……」

「すごいな」

「感心してる場合ではないですよ! 早く探さないと。もう日も暮れたというのに」

 曹昂が兵に声をかけ、外へと走っていく。府の入り口までそれを追って、郭嘉はそこで足を止めた。

 体力のない自分が追いかけるよりは、ここで待っていた方がいいだろう。探しに出た兵士は優に十人はいた。

 府の入り口では、同じように曹昂を追ってきた(べん)夫人が、幼子を抱いて立ちすくしていた。薄闇の中でもその顔色が優れないのがわかる。

「卞夫人、お寒いでしょう。部屋へお戻りください。きっと見つかりますから」

 郭嘉が声をかけると、卞氏ははっと顔を上げ、頭を振った。

「いいえ、いいえっ! あの子は、本当にいつも、このような……!」

 夫人は明らかに怒っていた。それをついてきた侍女がなだめている。しばらくして、侍女に促されるように夫人は部屋へと戻っていった。

「第二夫人の立場は微妙だな。息子は心配、でも息子がやったことで責められるかもしれなくて息子が憎たらしい、ってところか。弟が何人かいるなら、あの子、あんまりかわいがられてないのかもな」

 曹丕のあのひねくれぶりはその辺に原因があるのかもしれない。子供が親の気を惹こうとしていたずらをするなんてよくある話だ。

「誰かさんと同じですね。無理をすればすぐに熱が出るとわかっているのに無茶をして寝込んだり、つまらないいたずらして怒られたり」

 後ろに控えていた静が言った。むっとして言い返そうとして、やめる。

 郭嘉も昔そんなことをしていた時期があった。父はほとんどかまってくれず、母は商売の手伝いをしていてべったりというわけにもいかなかった。さみしくてわざと怒られるようなことをしたこともあった。

「あの子もいつかわかるさ。そんなことやってたって意味ないってな」

 郭嘉がそんなことをしても無駄だと悟ったのは十歳くらいの頃だった。そんなことをしても父は振り向いてくれないし、いたずらをするたびに母が正妻に責められるだけだ。

 そこから書に没頭するようになったが、今度は兄よりも出来がよすぎるというので、正妻から睨まれることになった。結局郭嘉は不出来な兄に取り入ることでなんとかやっていたが、それでも最後まで正妻には睨まれていた。

 妾の子の立ち位置というのは難しいのだ。それを悟らなければ生きにくいことこの上ない。

「俺は母上にとっては一人きりの子だったけど、弟とかいるとどうしても母親からみたら厄介な息子みたいになっちゃうのかもな。あいつにしてみればちょっと抜け出してひょこっと帰ってくれば、多少は怒られるけど母君が心配してくれるはずってところか。変なことに巻き込まれてなきゃいいけど」

 一時ほど探索は続いたが、見つからない、と曹昂が一度戻ってきた。

「丕が護衛を撒いたのは(いち)のあたりらしいので、そこを中心にかなり探したのですが、見つかりませんでした。これは、誰かに連れ去られたとしか。城外に探索を広めるべきでしょうか。あるいは、城壁内のすべての家を(あらた)めるか……」

 あまり大事にはしたくない、と曹昂の顔には書いてあった。確かにこんな夜に民家の一つ一つを検めるとなれば大事だ。ただ、もし命の危険があるなら放ってはおけない。

「なあ、子修殿。市で逃げ出したって言ったよな? 市までどうやって行ったんだ?」

「徒歩だそうです。割とここから近い区画にあるので」

「目撃者とかは?」

「市や市の近辺、あと府の近辺でも身なりのいい子供を見た、という者はいました。ただ、それが丕かどうかは」

「城壁の門番はなんて? 子供連れて逃げてく奴いたって言ってた?」

「いえ。今日は我らがいるということで警備も厳重で、出入りの時に名を申告し、荷物も検めることになっているので、丕らしき者も、身なりのいい子供を連れて出るような者もいなかったと。ただ、わからないように連れ出された可能性もなくはないかと」

「まあ、それはそうなんだけど……」

 郭嘉は少し考え、言った。

「なあ、子修殿。一回府の中しらみつぶしにしてみないか? 建物の中じゃなくて、庭とか植木とかさ」

「え? 府の中、ですか?」

「ああ。市はそこまで遠くないんだろ? あの子にとってもここは知らない街だ。遠くに行くのが危険だってのはわかってるはず。むやみに遠くに行くよりは、城市を少し見て府に戻ってきて、庭にでも隠れて夜まで待って、母君が心配して泣きついてくるのを期待してたとか、そんなじゃないかな? ところが、騒ぎが大きくなって、出るに出られなくなった、とか。どう?」

「いくら雪は降っていないとはいえ、この真冬にですか?」

「その辺は深く考えてなかったんじゃないかな。子供だから、長時間外にいたら凍えるとか考えられなかったか、もしかしたらどこか建物の中の可能性もあるかな。倉庫とか、人気の少ないとこ」

「そ、そうですね。もしかしたら、ありうるかもしれません。一度府内を探してみます」

 曹昂がすぐに兵に指示を出し、府の中の捜索が始まった。

 ほどなくして、府の中庭で曹丕が倒れているのが見つかった。中庭の植え込みの陰で、半ば気を失うように眠っていたのだという。季節は冬だ。おそらく隠れようと縮こまっているうちに、寒さで意識を失ったのだろう。呼びかければ意識を取り戻したものの、一晩過ぎていたら危うかったかもしれない。

 しかしそれでも、夫人は曹丕が許せないようだった。

「お前と言う子は!!」

 曹丕は見つかるなり、走ってきた卞夫人に猛烈な勢いで怒られていた。

 曹丕は体力を消耗しているせいか、ぐったりとして兵士に支えられながら、ぼんやりとしている。

「卞夫人。そのくらいにされてはいかがですか。多分体温下がりすぎて意識がもうろうとしているんでしょう。湯にでも入って体をあっためないと」

 郭嘉が見かねて声をかけると、夫人ははっとした顔ですみません、と言った。

 兵士が曹丕を運んでいく間も、夫人はまだくどくどと曹丕に小言を言っていた。曹丕の耳に届いているかは不明だが、気が収まらないというところだろう。

 卞夫人は普段は優しげで穏やかそうなのに、怒るとかなり怖いようだ。女って見かけでわからないよな、と思っていると、曹昂が近寄ってきて頭を下げた。

「郭軍師、ありがとうございます。ご助言いただけなかったら丕を見つけられず、大事になっていたかもしれません」

「そんな、今回のことはたまたまですよ。それに、俺も昔悪ガキだったんだ。似たようなことして、怒られたことあったから。もしかして、って」

「そうなんですか?」

 信じられない、という顔で見つめてくる。曹昂は郭嘉をどう思っているのだろう。

「俺も、妾の子でしたからね。親の気を惹きたくて馬鹿なことしてたころもありましたよ。ま、あれだけ賢ければ、その内どう立ち回るのが一番得かわかってくるでしょうから、いずれ馬鹿なことはやめるでしょ」

「だといいんですけど」

 曹昂がため息をつく。曹昂自身はあまり曹丕に対して嫌悪や敵愾心はないようだ。異腹とはいえ、良き兄なのだろう。

 翌朝、出立の前に卞夫人と曹昂に伴われて曹丕が直々に謝りに来た。

 ただし。

「ぼ、ぼくは母上と兄上がお前に謝りに行けって言うからしようがなく来たんだからなっ! 別にちょっと庭で昼寝してただけなのに、お前が大騒ぎするからこんな目に」

「こら!」

「はは……」

 反省しているのかいないのかよくわからない。卞夫人がすかさずしかりつけて、無理やり頭を下げさせている。

「なあ、クソガキ」

 意地悪く呼んでみると、曹丕はがばと顔を上げて睨んできた。

「今なんと言った!?」

「クソガキだからクソガキつったんだよ。なあ、お前、わかってる? お前が馬鹿やったら誰が一番困るのか」

「何言ってるんだ、僕はばかなことなんてやってない」

「丕!」

 卞夫人がぴしゃりと言うと、曹丕が一瞬肩をすくめる。その前にかがんで、郭嘉は曹丕の顔を正面から見つめた。

「いいか、お前は護衛を撒いてひっかきまわしたって別にどうでもいいと思ってるかもしれないけど、昨夜みたいなことあれば、下手すりゃ護衛は斬首だぞ。昨夜の連中も罰くらってお前の護衛から外された。多分許に着いたら正式に罰を受けることになる。わかるか? ぜ~んぶお前が馬鹿なことやったせい」

 かわいらしい鼻をつつくように指を突き付けると、曹丕はぐっと唇を引き結んだ。

「ふんっ! そんなの」

「護衛なんて死んでも知らないって顔してんな。もう一つ、ものすごく困るのがお前の大好きな母上だ」

「べっ、別に母上のことなんて好きじゃないっ!」

「嘘つけ。いいか、お前の母上はお父君の奥さんの中では二番目なの。そこはわかる? 二番目の奥さんって難しいんだよ。それでなくても殿の奥さんはいっぱいいるからさ、やれ一番殿に寵愛されてるのは誰だの、一番ちゃんと子育てしてるのは誰だの、比べられるわけ。お前がこんな馬鹿なことばっかやってると、お前の母君が駄目な女って決めつけられて、肩身の狭い思いをする。最悪殿の訪いがなくなって、お前みたいなクソカギ要らないって母子ともども放逐されるかもな。なんせもう殿の男子だけでも何人もいるし」

 さすがにそこまではないだろうが、とっさに曹丕はそこまでの判断はできなかったのだろう。郭嘉の言葉が効いたようで、曹丕は唇を引き結んだまま、心なしか青ざめている。

「だからさ、お前頭いいんだから、何が得かよ~く考えろ。馬鹿やって怒られるより、自分がいかにできる男か周りに見せつけたほうがよっぽど得するぞ。殿もお前に目を留めるだろうし、母君も褒められる。ついでに女の子にもモテるかも」

「ふんっ、そんなの……」

 かわいらしく頬を膨らませ、曹丕はぷいと顔を背け、そのまま郭嘉から離れて行った。代わりにではないだろうが、卞夫人がぺこりと頭を下げてそれを追う。

 二人の背を見送っていると、隣にいた曹昂が深々と頭を下げていた。

「ありがとうございます、郭軍師。でも、あの歳の子供にあの内容は難しいのでは……」

「そうかな? 子育てとかしたことないからよくわからなくて」

 そもそもあんなこと言ってよかったのだろうか。それも夫人の前で。少しそれは思ったが、今更だった。




 陳留を出て間もなく、曹操から曹昂宛に書簡が届いた。

「父上が武平を掌握されたそうです。街道に沿って汝南側から許に入ると」

「殿らしいな。汝南との境には賊徒がたむろしてるけど、あえてそこ突っ切って行くってことか」

 許に向かうついでに賊徒討伐は手っ取り早いと言えば手っ取り早い。曹操はおそらく賊徒の情報をある程度把握しているのだろう。

 確か、汝南側にいる劉辟は総勢十万を超えるという。女子供も含まれると仮定して、戦えるのが半分の五万ほど、しかもすべてが潁川との境にいるわけではないだろうから、数として負けるということはないだろう。今頃郡境あたりの賊徒はさぞかし浮足立っていることだろう。

 ――てことは……

「許で会おう、と書いてあります」

 曹昂は曹操から書簡が届いて嬉しそうだ。郭嘉にそう言うと、曹昂はすぐに書簡を持ってきた伝令に向かって言った。

「ご苦労。父上には許でお会いましょうとお伝えしてくれ」

「はっ!」

「待った」

 そのまま伝令が去ろうとするのを、郭嘉はとっさに止めた。

「返書書くからちょっと待ってて」

 郭嘉は手早く紙に文字を書くと、それを折りたたんで袋に入れ、伝令に渡した。

「殿にお渡ししてくれ。できるだけ早く」

「かしこまりました」

 伝令が走っていくのを見ていると、曹昂が不思議そうに見つめてきた。

「何か、気になることでもあったのですか?」

「いや、一応念のためくらいのもんです。このまま何事もなければそれでいいんだけど。ほら、子修殿、覚えてる? ここから先、最初に潁川来た時に伏兵が連続していた場所だ。一応、警戒したほうがいいかなって。こっちは二千だし、しかも今回は守らなきゃいけない馬車もいる。もし二千・三千でも伏兵がいたら面倒なことになりますから」

「あ……! そうですね、確かに」

「索敵念入りにやりながら進みましょう。万が一のことがあったら困りますから」

 しかし案の定、郭嘉の嫌な予感は当たった。

 五里先で賊徒が道をふさいでいる、と斥候から連絡があったのは、許まであと一日ほど、という場所だった。

「道ふさいでるってどういう意味だ?」

「山間の道に賊徒があふれています。道の両脇は森です。馬車は森を抜けるのは困難ですので、賊徒を抜かない限りは通れないかと」

「向こうの数は?」

「およそ五千。しかも坂の上に陣取っています」

 敵はいい位置に陣取っているということだ。こちらは二千。賊徒相手とはいえまともにぶつかれば被害は免れない。

「馬車の車列下がらせろ。可能な限り後ろへ。あと、伝令! 許の元譲殿と汝南の殿に救援要請! 森を抜けていける奴に行かせろ。すぐだ!」

「かしこまりました!」

 伝令が返事をして駆けていく。それを見た後、今度は曹昂に言った。

「子修殿、無理はやめましょう。勝ちを狙って下手に討ち漏らすと後ろに被害が出かねない。かといって、ここでじっと待つのもよくない。押し込められる可能性がある」

「では、どうしますか?」

 曹昂からは既に戦の最中の武人らしい剣気のようなものが感じられる。彼はすっかり賊徒とやる気になっているようだが、さすがに状況が悪い。

「時間を稼ぎましょう。後ろにいかせないように、正対しながら徐々に下がるしかない。連中の狙いは馬車でしょうから、そっちに敵が流れないように注意して、援軍を待ちます」

「で、ですけど、許からも汝南からもここではどれだけ早くても半日以上は」

「実は先に一つ手は打ってあります。ただ、微妙なところですね。あとは間に合ってくれと祈るしかない」

 郭嘉は後ろを振り返った。馬車はまだ動き出すことさえできていない。馬車の車列はかなり長いので、すぐに下がるのは難しい。

「とりあえず三里ほど前に出ましょう。馬車と距離を取った方がいい。そこからは、援軍を待ちながら耐えるしかない」

 ちらと馬車を見遣り、曹昂がうなずく。言うのは簡単だが、手持ちの兵でどこまで耐えられるかは未知数だ。援軍が早く来てくれることを祈るしかない。

「我らは二千しかいません。馬車の護衛に歩兵五百、子修殿の騎兵が五百、残りの歩兵はわずか千だ。騎兵から百、後ろの馬車の護衛に回して、歩兵三百こっちに呼びます。子修殿は騎兵で賊徒の撹乱を。俺は歩兵の指揮を執ります。無茶はしないでくださいね。騎兵の強みが生かしにくい地形だし」

「わかりました。では、行きます!」

 前進の鼓が叩かれると。全軍がそろって前に進み始めた。曹昂は部下の騎兵たちに指示を出し、先に駆けていく。

 ぶつかり合いが始まれば、乱戦は避けられないだろう。歩兵を率いたことはあるが、まともに剣も使えない郭嘉はいつも後ろに控えていて、乱戦に巻き込まれることはほとんどなかった。

 おそらく同じことを予感したのだろう。近くにいた静が耳打ちしてきた。

「奉孝様、乱戦が始まったら後ろへお逃げください」

「お前な、ふざけんてんのかよ。指揮官が兵士ほっぽって逃げるってどういう了見だ。絶対下がらないから死ぬ気で俺を守れ! 俺が抜かれたら馬車に被害が及ぶ。つまり、ここが最終防衛線だからな!」

 郭嘉の言葉にため息をついたのは静だけではなかった。戦場ではいつも傍に控えている護衛兵たちが一様に顔をしかめている。

「いくぞ! もたもたするな!」

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