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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
4.潁川平定
57/64

57:<郭嘉編>桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す(後編)

閑話休題続き。花街の様子を見に行った先で、郭嘉は桃華と青藍に出くわす。

 久々に見る許の街は以前に比べれば随分と活気が戻っていた。大通りには結構人通りが多い。曹操軍が許に着いてからわずか二月足らずだ。ずいぶん順調じゃないか、と思ったが、花街の区画に着いてみるとその印象はがらりと変わった。

 人通りが少ないのはもちろん、夕暮れ時だというのに道に並ぶ建物には灯など全くない。たまに見かける人間はいかにもガラの悪そうな男とくたびれた女ばかりだ。ざっと花街を一周回っただけでも、もめている男女や転がっている死体が見つかったほどだ。

「こんなとこで女の子に商売始めろってさぁ。文若殿は現状解ってんのかね」

「布令を出された時は、おそらく女たちに妓楼を買う金はないだろうから、商人が金を出してうまくまとめるだろうとの仰せでしたが」

 荀彧の目論見は甘かった、というところだろう。

「建物結構あるけど、安く払い下げるっつって、結構売れたのかな?」

「把握している限りでは、十数件ある大きめの建物で売れたものが数件。ただ、もちろんそこで働く女がいなければ商売になりません。物陰で体を売るような女をただ連れてきて体を売らせたところでさした金にはならないでしょうから、どこの商人も今その辺をどうするかで困っているのではないでしょうか?」

「まあ、そうだよな。まともな妓女なんかほとんどいなかっただろうからな」

 高級妓楼なら、高い金を取るような人気の妓女は美貌や芸事、閨房術だけではなく、教養や所作も貴族のお嬢様並みで、上品さと美貌を兼ね備えているのが普通だ。そうでなければ金持ちもなかなか金を出さない。

 食うに困って道端で体を売っているような女は妓女とは到底呼べず、当然教養もなければ所作も洗練されていない。そういう女だけを集めた売春宿もあるが、当然女の単価は低くなる。客層もそれに応じて身分が低くなるので、もめ事が起こることも多いだろう。商人にとっては面倒だけ増えてもうけも少ないというわけだ。

「まあ、安い売春宿作っても金にならないってことはないだろうけどな。普通の男なんかはそうそう高い金払えるわけじゃないだろうし。でもそれにしたって新しく始めるのは金がかかる、ってことか」

 大通りから一本入ったような裏通りで、いくつか安い売春宿が細々と経営されているようだ。ただ、あまり流行っている感じはしない。何せ花街に人通り自体がほとんどない。

 どうしたものか。まずは治安回復だろうが、それにしても人手が足りない。

 歩いているうちに日が暮れてきた。薄闇の中、灯りのない通りを歩いているとますます不気味だ。

 そろそろ帰ろうか、と区画の入り口に向かう途中、ふと大通りで人影を見つけた。

 若い女二人だ。まるで何かを探すように、建物の前で足を止めては何かを話している。

 こんな治安の悪いところで女だけで。

 声をかけて帰るように言った方がいいかと思い足を向けると、ついて来ていた静が耳打ちしてきた。

「奉孝様、あの女、こないだの自称西王母ですよ」

「え?」

「放っておいたほうが」

「あ、ちょうどいいところに!」

 静が帰ろうというのと、女の声が聞こえたのはほぼ同時だった。

 桃華と言っただろうか。彼女は一緒にいた女の手を引いて、郭嘉へと近寄ってきた。郭嘉が逃げる気がないと気づいたのか、耳元で静のため息が聞こえたが、無視する。

 近寄ってきた桃華とかいう女は、先日荀彧と会った時とはまた違った印象の顔をしていた。どちらかというと最初に会った時の印象に近い。ただ、今は毒々しい印象が薄く、ただ美人だと思える。

「お久しぶりです、郭様。こんなところでお会いするなんて運命ね」

「誰がだよ」

「桃華、誰? 知り合い?」

 連れ立っていた女がじっと見つめてくる。薄闇のせいでよく見えないからか、女は顔をしかめて郭嘉を見ていた。まるで不審者扱いだ。

「知り合いどころか、私の新しいご主人様よ」

「えっ」

「勝手に決めるな! そもそもお前、よくもこんな堂々と街歩いてるな。立場わかってるのかよ」

 郭嘉が言うと、桃華はふふ、と笑った。

「あら、あんなに貢いだのにまだ罪人扱いなさるの? 私は何儀に囚われていた憐れな女ですのに」

「ぬけぬけと……」

「私の言葉に嘘はなかったでしょ? 懐かなりあったかくなったんじゃない? あのお美しい方のおっしゃる通り、私を召し抱えられた方がいいんじゃなくて?」

「それとこれとは話が別だ。とにかく、女だけでよくもこんなとこ。さっさと帰れよ。お前はともかく、そっちの()は武術なんかできないんだろ」

「あら、心配してくださるのね。でも大丈夫。たまたま下見に出てきた時間が遅かったからこんな時間になっちゃっただけで、すぐに帰るわ。ねえ、それより、郭様」

 女が詰め寄ってくる。思わず一歩引いても女はめげず、郭嘉の鼻先まで詰め寄って、上目遣いでじっと見つめてきた。

「ねえ、郭様ってお金持ちよね? 一つ、投資しない?」

「は? お前な、自分のしたことわかって言ってんのかよ。誰がお前に金なんか」

「私にじゃないわ。こっちの、このまじめな女の子に投資してって言ってんの。どう?」

 そういうと、女は連れていた娘を郭嘉の前に押しやった。

「えっ、ちょっと、桃華?」

「この子、このままじゃ路頭に迷っちゃうの。かわいいし賢いし、商人たちには妾になれって言われてるんだけど、ジジイの相手は嫌だって困ってるのよ。ねえ、郭様、この子のために妓楼一つ、買ってくれない?」

「はぁ?」




「――と言うわけで、妓楼を買おうと思うんだけど、お金なくて困ってるの」

 とりあえず場所を変えようということで、郭嘉たちは女たちの店へとついていくことにした。

 賎民が住むような区画には珍しく、建物はしっかりとしている。とりあえずと通された客間は質素だがきちんと整えられていて、卓に座ると茶さえ出てきた。あまり貧しい暮らしをしているようには見えない。

「まあ、事情は分かった。金十枚くらいなら出せないことはないと思うけど……」

 にこにこ微笑む桃華から、その横に座る女へと目を向ける。彼女は名を名乗りもしなければ、終始むっつりと口をつぐんで、ただおとなしく郭嘉と桃華の話を聞いていた。

「別に無理して体売らなくてもいいんじゃないか? 元々は洛陽にいたお嬢様ばっかりなんだろ?」

 桃華の話では、この店にいるのは長安で董卓に囚われていた娘たちだという。いくら董卓に踏みにじられたとはいえ、元の生まれが悪くないなら、そんなことをさせるのも忍びない。

「読み書きができる者は官吏・女官として召し出すって布告が出てたろ? それなりの生まれで読み書きできるなら皆働けばいい。遊んでは暮らせないだろうけど、体売るよりずっといいし、うまくすれば旦那も見つかるかもしれない」

「仕官するには身元の保証が必要なはずです。それに、私たちのような女は出仕すれば後ろ指さされるでしょう。董卓にいいようにされていた女、あるいは許で機織りの傍ら体を売っていた女、と。そんなことには耐えられません」

 ようやく口を開いたもう片方の娘の声は凛としていて、心地よく耳に届いた。口ぶりからしてこの娘は結構賢そうだ。しかし、相変わらず郭嘉とは目も合わせず、言うだけ言うとまた口をつぐんでしまった。

「まあ、そういうのはあるかもしれないけど、身元なら俺が上にかけあってやるよ」

 郭嘉が言うと、次に桃華が口を開いた。

「妓楼だって、うまくやれば好きでもない男相手にしなくて済むと思うの。郭様もご存じでしょ? 高級な妓楼になればなるほど、妓女は簡単には肌を許さない。茶飲みだけで銀一枚なんて当たり前の世界だもの」

「まあ、そりゃ」

「皆、教養も美貌もあるわ。閨房術は私が教えるし、踊りなんかは今から覚えればいい。許にはまだそういう高級妓楼ないでしょ? だから、私はみんなのやる気さえあればきっと結構うまくいくと思ってるんだけど」

「全員の合意ができてるって?」

 郭嘉が問うと、女二人はこくりとうなずいた。

 桃華は言うに及ばず、その隣に座る娘もかなりの美人だ。始めれば妓楼としてはもうかるだろうが。

「人助けだと思って、お願い、郭様」

 桃華が両手を組み、上目遣いで見つめてくる。無駄に開いた襟元の谷間に一瞬気を取られ、郭嘉はさっとそこから目をそらした。

「まあ、そこまで言うなら……」

「郭軍師。お言葉ながら、賊徒との取引は禁じられております」

 うなずきかけたところで口を挟んだのは満寵だった。

「この店は賊徒とのつながりがある可能性がある、と荀軍師から聞いております。もし彼女たちが賊徒の一員だった場合、郭軍師みずから禁令を破ることになる。許されることではありません」

 冷たく告げられ、郭嘉は一瞬目を丸くした。生真面目な男だとは思っていたが、なるほどこれは同僚から不評を買うというのもうなずける。そして荀彧が、満寵なら大丈夫と許の街の管理を任せたことも。

 個人的にはこういう男は嫌いではない。ただ、まっすぐ過ぎても今は困る。郭嘉は微笑んで言った。

「伯寧殿、彼女たちは長安から逃げてきた憐れな女だ。元は洛陽で悠々暮らしてたのに、董卓にひどい目に遭わされた上に長安から命からがら逃げてきて、身寄りがない。そんな中で必死に生きようとしてる」

「ですが、だからといって賊徒に加担することは」

「その賊徒はもういないだろ? こないだ潰したんだから。ま、確かにそっちの下品な女は元々何儀のところで()()()()()女だ。でも、何儀はもう捕らえたから、結託のしようがない。それにあっちのお嬢さんはここで機織りしながら、やりたくもないのに商人に体許してなんとか生きてた女の子だろ。どっちも、賊徒とはもう関係ない」

「しかし」

「ここで突っぱねてみろ。行き場を失った賢い娘さんだぞ。むしろ俺たちを恨みに思って別の賊徒引き込んだりして。特にあっちの性格悪い女はそういうの得意そうだからな」

 性格悪いだなんて失礼ね、と桃華がぼやくが、それに振り返ることもせず、郭嘉は満寵に言った。

「なんでも杓子定規にやればいいってもんじゃない」

「だからといって」

「なあ、伯寧殿。令ってのは何のためにあるんだ? 悪い奴を罰するため? 違うよな。天下をよくするためだ。上の連中の横暴を抑制し、下は庶民が心穏やかに暮らせるようにするためのものだろ。弱い人間を更なる苦境に追い込むためのものじゃない」

 そこまで言って、ようやく満寵は口をつぐんだ。わかってくれただろうかとじっと見つめると、いかにも不満げに目をそらす。とりあえずは黙っていてくれるということだろうと判断した。

「で、俺からも一つ、そっちに頼みがあるんだけど」

 女たちに向かって言うと、二人はそろって小首をかしげた。

「何?」

「道端で細々体を売ってた女たちが、令を犯したってんで結構な数牢獄に入ってる。このままじゃ牢屋からあふれる勢いだが、かといって外に出したってまた同じことやるだけだ。あんたたち、そこまでやる気があるなら、大きめの妓楼を買って、そういう連中、うまくまとめてくれないかな?」

 郭嘉の言葉に、女たちは顔を見合わせた。どちらもいい顔はしていない。

「郭様、わかっておられるのでしょ? 私たちは高級妓楼をやりたいのよ。道端で体売ってるような女とは違うわ」

「わかってる。だから、なんなら建物二つ三つ買ってそれぞれ管理するとかでもいい。一つは高級妓楼、一つは安い売春宿みたいにさ。それに、道端で体売ってるような連中でも、時間かけて教育すれば玉になるのもいるんじゃないか? 潁川は董卓に荒らされて以降、ひどいもんだったろ。潁川出身で、生きてくのにしようがなく体を売ってる元どっかのご令嬢みたいなのも、いてもおかしくない。それでなくても、磨けば玉になれると思えば、必死に学ぼうとする娘もいるだろう。うまくすれば、道端で体売って死んでくような女が減る。どうだ? お前、閨房術の知識があるってことは、ある程度そういう教育の仕方もわかってるんじゃないのか?」

「まあ、それは」

「そっちのお嬢さんも。商人と取引できるくらいの賢さがあれば、女の管理くらい訳ないよな? その代わり、建物代は俺が持とう。金二十枚三十枚くらいならどうにかなると思う」

「そんなに?」

 おとなしい方の娘が言った。裏があるのでは、とでも言いたげだ。

「妓楼の建物は荒れ放題だっていうから、手直しも必要だろうし、女の教育にも時間がかかるだろう。しばらくはそんな稼げないだろうから当面の生活資金も用意しよう。多分、年が明ければ殿が来て人が増えると思う。それに間に合わせるのはさすがに無理だと思うけど、半年後くらいに妓楼らしくなってればそれで」

「話がうますぎるわ。何か裏があるんじゃないの?」

 おとなしい方の娘が睨んでくる。落ち着けよ、と笑って、郭嘉は続けた。

「裏なんてないさ。こっちはこっちで牢屋溢れそうで困ってんだよ。あと、治安維持に割ける人数もそんななくて困ってたんだ。桃華つったっけ。お前、手下に腕の立つのが何人もいるんだろ? 当面、お前らがなんとかしろよ。自警団とかってさ。さっきも歩いてたら死体が転がったりしてて、尋常じゃない。せめて花街らしく、表通りは酔っても安心して道歩けるくらいにならないと」

「無茶おっしゃるわ」

「それが条件だ、ってこと。伯寧殿、こっちからも何人か出せるかな? できれば屯所みたいの作るほうがいいと思うけど」

 満寵に問うと、彼は低くうなって腕を組んだ。

「ひとまずは、出せて五人程度でしょう。屯所自体は作れるとは思いますが」

「じゃあ、それでお願いします。なるべく利害に動かされなさそうな奴選んでね」

「……かしこまりました」

 その後細かいところを話し合い、とりあえず陽翟から郭家の番頭を呼んで金を都合し、女たちはその金で建物を買って妓楼を始めることになった。

 話が終わったころにはすっかり日が暮れていた。帰り際、桃華が言った。

「ねえ、郭様。この貸しは大きいわよ」

 白い手が郭嘉の肩に触れてくる。

「貸し? 借りの間違いじゃないのか?」

「貸しでしょ? 金だけださせてハイ終わり、じゃないもの。向こう半年こき使おうってんだから」

 桃華はしなだれかかってきて、思わせぶりに耳元でささやいた。

「これは仕事だと受け取っておくわ、郭様。きちんと成し遂げられたら、ちゃんと私たちのこと考えてよね」

「まあ、気が向いたらな」

 桃華を押しのけ、郭嘉はひらひらと手を振ってその場を後にした。

「俺、このまま城外の陣営行くよ。あっちで再編考えたほうがいいと思うし。伯寧殿はどうする? どうせなら一緒に決めたほうがいいと思うけど。ああ、でももう遅いし明日の方がいいかな?」

「いえ、ご一緒します。決めるなら早い方がいいと思いますし、それに郭軍師を一人歩きさせるわけにも。いくら護衛がいるとはいえ、夜は物騒ですから」

 満寵が郭嘉の後ろの静に目を向ける。静はありがとうございますと頭を下げていた。

「そんな気を遣ってもらわなくてもいいのに。あ、ってことは伯寧殿は結構剣使えるんだな。うらやましい」

「そんなことは。自分も武将の方々に比べればそれほどでもありませんよ」

 共に馬を歩かせ、城外の陣営へ向かう。その途中、満寵が言葉を探すように、ぽつりぽつりと言った。

「郭軍師。自分には、先程のことはあまり望ましいこととは思われません。ただ……これが、女たちを救う手立てになればとも、思います」

 複雑そうな表情だ。それに、郭嘉は苦笑を返した。

「これ、皆には内緒にしといてよ。俺が個人的にやったことだから。それに、俺が妓楼の経営に手ぇつけたとか思われても面倒そうだし」

「……わかりました」

「別に悪いことやってるんじゃないんだから、いいだろ?」

 郭嘉の言葉に、満寵はまた迷いを見せた。ずいぶん長いこと迷って、彼は最後にようやく、そうですね、と小さくつぶやいていた。

 結局その後陽翟から郭家の番頭がやってきて、細かい話を詰めたようだ。郭嘉の言った通り建物代は郭嘉が持つことになったが、生活資金の工面は期限は半年、それも融資としたようで、半年後から少しずつ返すように、という話になったらしい。おとなしい方の娘が建物代も返すと言ったらしいが、それは断らせた。番頭は渋い顔をしていたが、結局は郭嘉の金だ。うなずかざるを得ない。

 番頭は、どちらかというと桃華の方に目が行ったようだ。隠密には隠密の勘でも働くのか、落ち着いたらぜひあの女を召し抱えられませ、とまで言った。ただそれも、郭嘉としてはまだ気が進まない。

 そうこうするうち年が明け、郭嘉は曹昂と共に定陶まで曹操の妻子を迎えに行くことになった。

 じきに曹操が来るので、それまでに妻子を許に迎えたい、と荀彧が言ったのだ。部隊の再編成が終わった後、相変わらず荀彧にこき使われていた郭嘉は、荀彧から離れるのにちょうどいいとその役を買って出た。

 最近は賊徒も比較的大人しく、道中目立った敵もないはずだ。留守は夏侯惇に預けて、郭嘉は曹昂と共に二千の兵を連れて定陶へと向かった。

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