55:<郭嘉編>潁川平定9
潁川で荀彧と共に政務をしている最中、何儀を操っていた女が忍び込んできた。彼女は話を聞いてもらうために郭嘉が言ったとおり、丸腰で乗り込んできたという。
それからしばらく、郭嘉は荀彧の手伝いという名目でこき使われる羽目になった。
――殿の手伝いしてた時だってここまでしてなかったぞ。
何とか曹昂に掛け合って軍務に戻れるよう言い訳を探そうとしたのだが、生真面目な曹昂はこちらは人手が足りているからいいですよ、と言うばかりだ。それなら夏侯惇にと思ったら、そちらはそちらで人手の足りない方に行けという。
結局半月ほど、昼間は荀彧の手伝い、夕食は大体荀彧と一緒で、夜はそのまま荀彧の手伝いをした後たまに曹昂相手に軍務の助言、という日が続いた。
日が経つにつれ、郭嘉は郭嘉なりにいかにして効率よく仕事を進め、休む時間を確保するか、に心を砕いたつもりだ。結果として政務が頭に入り、軍や県がどのように動いていて、荀彧がどうそれを回しているのか、動きも見えてきた。それを感じた荀彧が喜んでいるのもわかる。さすが奉孝殿、と褒められたのも悪い気はしない。
だが、やはり郭嘉は軍務に戻りたかった。
その日も日が沈んで仕事が終わってから、荀彧と共に夜食の膳が届くのを待っていた。これももうほとんど日課だ。早く解放されたい、と床に体を横たえていると、荀彧がため息交じりに言った。
「政務の何がそんなに嫌なのでしょうね」
「なんかまどろっこしいんですよ。ちまちま同じことやって、その繰り返し。新しいことやっても結果もすぐに出ないし、敵もいないから勝った喜びもないし」
「敵ですか。今のところはいませんけど、場合によっては政敵という敵がいることも」
「余計めんどくさいよそんなの」
「ですから、今はまだましな方だと――」
話しているうち、下女が膳を運んできた。女が二人入ってきて、いつもならそれぞれ荀彧と郭嘉の前に膳を置き、帰っていく。そんな当たり前の光景だったが、女たちが入ってきたところで荀彧は不意に言葉を切った。
こんなことは珍しい。いつも彼が下女だろうが女官だろうがまじまじ見つめることなんてそうそうない。ただでさえ荀彧と目が合ったと騒ぎ立てる女がいるくらいだ。じっと見つめることで要らぬ誤解を招き、余計うるさくなる。荀彧はいつもそうぼやいていたのに。
よっぽどの美人か。そう思って見てみても、女たちは特別美しくも醜くもない。
ただ、自分の前に膳を置いた娘が妙に意味ありげに見つめてきたので、郭嘉は眉をひそめた。どこか見覚えがあるような気もするが、実を言うと適当に声をかけた相手の顔なんて覚えてもいない。誰だっただろうか、とじっと見ていると、また不意に荀彧が口を開いた。
「待ちなさい」
ちょうど女たちが膳を置いて去ろうとした瞬間だった。珍しく硬い荀彧の声が響く。
「そなた、何者です。見覚えのない顔ですね。新しい下女を雇ったとは聞いていませんよ」
「え?」
下女なんて掃いて捨てるほどいるのに、いちいち顔を覚えているのだろうか。いくらなんでも乱暴じゃないか、と郭嘉は思ったのだが、そうでもなかった。片方は確かにうろたえていたが、荀彧が目を向けている郭嘉に膳を置いた方の女は、むしろ楽しげに目を細めている。
その、微笑み。
――あ、こいつ、どっかで……
「あ、あのっ、私はっ」
真っ青になってうろたえている方の下女が言うと、荀彧は彼女に目を向け、出て行くように言った。
「そなたは下がってよい。衛兵!」
「お待ちください」
荀彧が声を挙げると同時に、残った方の女は手を合わせ、膝をついて深々と拝礼した。
「さすが、曹操様の右腕と呼ばれるお方は違いますね。そこの、冷たい殿方とは大違い」
「は?」
流し目を向けられ、郭嘉はまた微妙な既視感が沸き起こるのを感じた。挑むようなまなざし、真っ赤な唇。そして、その声。
「どうか、お話しする時間をください。危害を加える気はございません。必要なら、ここですべて着物を脱いで危険がないこと、証明して差し上げてもよろしくてよ」
にこりと笑ったその艶めかしさに、ようやくどこで見たのかを郭嘉は思い出した。
「あっ、お前あの時の?!」
「郭様も落ち着いて。ほんっと冷たい人。あんなにたくさんお話ししたのに私のこと覚えてないだなんて」
「お前、全然顔違う!」
「化粧で印象くらい変わるわよ。このくらい化けられなきゃ仕事になりませんって」
「な……っ」
「奉孝様!」
衛兵に続いて駆け込んできた静が女を見て顔色を変えた。すぐに剣に手をかけたが、それを見て女がすぐに両手を挙げる。
「物騒なもの振り回すのやめてよ。郭様も、お忘れ? あなたが言ったんじゃない。話があるなら丸腰で一人で来いって。だからわざわざこうしてやって来たのに」
それは確かにそうだが。
「誰です?」
一人落ち着いて経緯を見ていた荀彧が言った。その声で、郭嘉も少し落ち着きを取り戻す。
「何儀を操ってた女がいたって言ったでしょ? そいつです。巫術を使うとかで、俺も一回襲われて、その時確かに一人で出直して来いとは言いましたけど」
戸惑う郭嘉とは裏腹に、荀彧は至極落ち着いていた。彼はじっと女を見つめると、しばらくして衛兵に手を振った。
「冬影と燕静は中に控えなさい。他の者は皆、扉を閉めて外に」
部屋の端に控えていた荀彧の従僕と、飛び込んできた静が言われるまま、女を挟むような位置でそれぞれの主の傍に控えた。衛兵たちは粛々と外に出て、扉を閉める。
落ち着き払った荀彧主従とは裏腹に、すぐ後ろに控えた静の怒気が背中にぴりぴりと伝わってくる。女は静に目を向けると実に楽しそうに笑った。
「ぜんっぜん気づかなかったでしょ? 索敵能力低くて助かったわ。敵意がないと気づけないんでしょ」
ぎり、と静の歯ぎしりが聞こえてきそうだ。郭嘉はため息交じりに言った。
「おい、お前。喧嘩売りに来たのかよ」
「違うわよ。ちゃんとお言いつけ通りにして、話を聞いてもらおうと思って来ただけ」
女は一歩引くと、再びきちんと両手を合わせて深々と拝礼した。宮廷女官顔負けの優雅な所作だ。
「私は桃華と申します。かつては洛陽・長安で、さるお方の隠密として働いていました。長安では、董卓を篭絡、もしくは暗殺すべく送り込まれました。ですが、主は捕らえられてしまって、そのまま牢獄でお亡くなりに。結果として、皆で路頭に迷うことになってしまったのです。故に、我らは新しい主を探しているのです」
女が顔を上げ、郭嘉に微笑みかけてきた。郭嘉が応えずにいると、荀彧が口を開く。
「隠密たちからは、手練れがうろついているようだから気を付けるようにとは聞いています。仮にそれがそなたたちだとして、誰にも気付かれず奉孝殿の寝込みを襲い、今またこうしてここまでやってこられるだけの腕があるなら、どうして主を助けなかったのです?」
「試みはしました。ですが、董卓は臆病な分大変周到な男で、牢獄に忍び込むことさえできませんでした。その辺は、失礼ながら荀家の方々も同じでは? 確か荀家の方も謀反の罪で捕らえられておられましたよね? 荀家の隠密の方々は助け出せたのですか? まあ、その人は生き延びたとは聞いていますけど」
「よく知っていますね」
「仲間は、荀家の方と協力して牢に忍び込めないかと話をしたこともあったと言っていました。結局駄目だったらしいですけど」
荀彧が目を丸くし、後ろの従僕を振り返った。見つめられた従僕は戸惑ったように眉をひそめ、言う。
「自分はその時参加しておりませんので、詳しくは。ただ、公達様を救い出すために何顒様の隠密が接触してきたという話は聞いたことがあります。協力して牢を破ろうとしたが駄目だったと。董卓が周到だというのは確かにそうです。自身の周辺はもちろん、牢の警護も厳重で、そこから誰かを助け出すのはおろか、忍び込むことさえとてもできるような警備ではありませんでした」
「ということは、そなたは」
「はい。何顒様の影です。でした、というべきでしょうか」
にこりと微笑む女と、困惑気味な荀彧が見つめあっている。
何顒と言えば、確か荀彧を王佐の才と言った人物だったはずだ。そして、荀攸と共に牢獄に入ったという男でもある。ともに董卓暗殺を狙ったというから、隠密を使っていても不思議ではないが。
「その話、作り話じゃないって証明できないだろ」
「そうね、残念ながら。私は荀家の隠密たちと顔を合わせてもいないし。だから、これを」
女は襟元へ手を差し入れると、そこから折りたたんだ紙を取り出し、それを郭嘉へと渡した。
数枚まとめて折られた紙には、地図にいくつかの数字が書き記されているものと、びっしり文字が並んだものとがあった。
「これ……」
地図の地形には見覚えがある。何儀一派の根拠地もその中に含まれていた。ただ、郭嘉の知らない位置に、いくつか里があることになっている。
「その様子だと、知らなかったみたいね。あなたたちが陥とした里以外にも里はあるのよ。何曼はそんなこと、一言も言わなかったでしょ? 実は別のところに穀が隠してあるなんてことも」
ざっと地図に目を走らせただけでも倉があると書き込まれた場所は三か所あった。いずれも郭嘉の知らない場所だ。何曼は根拠地が複数あるとは言わなかった。確かに、噂の規模に比べて、里の人数も少なく、たくわえも少ないとは思ったのだが。
「何曼はどうしてます? 大人しくしてるかしら?」
「ああ、今は監視をつけてる。大人しくしてるはずだけど」
「じゃあ、ほとぼりが冷めたころに、隠しておいた穀を売ってもう一回事を起こすつもりかもね」
「そりゃ無理だな。商人には賊徒との取引は禁止したし、こないだの戦いで相当な犠牲が出た。あんだけ派手に負けて、それでも兵が集まるほどの求心力はないだろ。物理的に人数も減ってるし」
「そうかしら。商人なんて、いかにお上の目をかいくぐって儲けるかって考えてるんじゃない? 曹操様の前ではしおらしくして見せて、賊徒の前では足元見て、安く買い叩いて儲けようとしてるかも」
「んなこと」
「ありえない話ではありませんね」
文若殿、と郭嘉が言うと、荀彧はため息交じりに言った。
「強権を振りかざし、商人に言うことを聞かせることはできます。でも、彼らは強かで、我らの目の届かないところで賊徒と取引することはありえる。それは否定しません。金に糸目をつけなければ兵もある程度は集められるでしょう。ですが、足元を見た商人に買い叩かれた金で、我らを潰せるほどの人数の兵を集められるかと言うと、それは疑問ですが」
「今はそうでしょう。けど、今後曹操様の旗色が悪くなったら? 四方八方に敵がいる曹操様が、今度どこかと干戈を交えた時、許のすぐ近くに反乱の火種が――なんて、一番厄介だと思いますけど」
にこりと笑って言い返す女の言葉に、郭嘉は感心していた。言っている内容は別に目をみはるような内容ではない。ただ、たかが隠密の女が、自分たちがするような分析をしていることが意外だった。
同じことを荀彧も感じているようだ。彼は秀麗な眉をひそめ、じっと女を見つめていた。
「では、どうしろと?」
「ここに地図があるのです。穀をすべて曹操軍が接収すればよろしいのでは?」
「確かにそうですね。それが罠でなければ、の話ですが」
「こればかりは、信じてくださいとしか申し上げられません。試してごらんになればよろしいのでは? それで、私が嘘を言っていないと解ったら、雇ってくださる?」
女が小首をかしげ、郭嘉を上目遣いで見つめてきた。
「殿に仕えようって?」
「違うわよ。私はあなたに、仕えたいの」
「なんでだよ」
「その賢さに一目ぼれしたのよ」
ふふ、と笑うその眼差しは、言葉とは裏腹に冷静なものだ。とりあえずそれが恋愛感情を含んだものではなさそうなことに郭嘉はほっとしていた。
「殿は俺よりずっと頭いいぞ」
「でも、もうすでに有能な隠密たちがいるじゃない。ああいう連中が山ほどいるところに行くと、私たちみたいのは大抵捨て駒にされるのよね。そんなのごめんよ。仕えるのはいいけど、私の運命は私が決めたいの」
「隠密がいう台詞じゃないな。主に命懸けないって言ってるようなもんじゃないか」
「お仕えしてみて、あなたがそれに値すると思ったら、命を懸けるかもね」
話にならない。
郭嘉が肩をすくめても、女はめげなかった。
「あなたは人手が足りなくて困ってるんでしょう? 陽翟に遊びに行った仲間が声をかけられたって言ってたわよ。腕に自信があるなら、然るべき相手にお仕えする気はないか、って」
番頭あたりだろうか。確かに人数を増やせないかという話はしていた。大方町中で腕の立ちそうなのを見つけて声をかけたのだろうが。
郭嘉がため息をついていると、横から荀彧が口を挟んだ。
「奉孝殿。とりあえず使ってみてはいかがです?」
「文若殿」
「わたしも、我が家の隠密たちを使うに、最初信用していいのかどうか迷いました。まあ、一族に従属する者たちですから、この娘よりはましでしょうが。ひとまず使ってみて、信用できるかどうか試してみればいいのです。差し当たってその倉、さらえてきてはいかがです? もし本当に穀があれば、我が軍にとっては願ってもない戦果です」
「罠だったらどうするんですか」
「罠かもしれない。そう思っているあなたを罠にはめられるような者がいるとは、わたしには思えませんが」
にこりと笑って言われると、郭嘉としてはもう返す言葉はなかった。
顔をしかめて女に目を向けると、女が嬉しそうに目を細める。
「では、交渉成立ね。なんなら道案内しましょうか?」
「要らないよ。逆にはめられそうで怖い」
「やだ、意外と臆病なんだ」
むっと顔をしかめると、女はますます楽しそうに目を細めた。
「では、私はお暇します。倉を全部さらえて信用してもらえたら、許で貂蝉という女をお探しください。城壁近くの機織りの店にいますから」
「貂蝉? って、あの貂蝉?」
確か、呂布をたぶらかして董卓を殺させた女がそんな名前だったはずだ。しかし、郭嘉の言葉に女はまた嬉しそうに笑った。
「まさか。でも、長安から流れてきた女が貂蝉って名乗ってたら気を惹くでしょ? だから貂蝉って名乗っただけ。残念ながら本物は知らないわ。呂布と一緒なんじゃないの? すっごく入れ込んでたって話じゃない」
「なんだ、偽物か。呂布の傍にはそんな美女はいなかったな。呂布は、多分その貂蝉って女に逃げられたせいで、二度と女なんて信じないって言ってたぞ。お前みたいなヤな女がそうだってんなら納得だと思ったんだけど」
「やだ、ひどい言い草。ま、同業から見ればああいう腕っぷしの強い男操って天下一の大悪党を殺させるなんて、見事としかいいようがないけどね。私は、董卓を殺ろうとしてできなかった女ですから」
それでは、と言って、女は何事もなかったように優雅に拝礼して室を出て行った。
「追いかけて捕らえさせます?」
すっかり足音が聞こえなくなってから郭嘉が言うと、荀彧は首を振った。
「とりあえずは、好きにさせておけばいいのでは? 少なくとも本人は敵意はないと言っているのです。味方になるならそれに越したことはない。賊徒はなるべく帰順させるように。そう言ったでしょう?」
「それはそうなんですけど……。襲われたせいか、やな感じですよ。大体なんであんなしつこいんだか」
「余程あなたが気に入ったのでしょう」
「嬉しくないですよ」
郭嘉のぼやきに、荀彧がかすかに笑みをこぼした。
「暇さえあれば女官を口説いているのに」
「俺にも選ぶ権利ありますって」
「ああいう、『私は男を手玉に取ります』と顔に書いてあるような女は、わかりやすい分、まだましでしょう。本気であなたをだましにかかる女がいるとすれば、そんな顔はしていないでしょうからね」
「だますつもりはなくても、とって食われそうで」
「それもこれも妻がいないからですよ。さっさと妻帯すればいいのに」
「いや、それとこれとは話が別」
「妻がいると、違いますよ。気持ちも落ち着くし、ああいった、男を操ろうなどという女も見抜くことができる。その目に愛情があるか否か、すぐにわかりますから」
自信満々、さりげなくのろけていることに彼は気づいているのだろうか。それともわざとだろうか。少しげんなりして、郭嘉は首を振った。
「いや、それ文若殿だけでしょ。奥さんいても騙される男なんてごまんといるから」
「そうでしょうか。まあとりあえず、見張りはつけさせましょう。万が一のないように」
くすくす笑いながら、荀彧はすっかり冷めてしまった膳に手を伸ばし、箸を手に取った。
「食べるんですか? 毒見したほうがいいんじゃ」
「問題ないと思いますけど」
「じゃあ俺が先に」
「駄目ですよ」
静はそう言って郭嘉から箸を奪うと、膳を持って入り口へと向かい、代わりのものを用意するようにと頼んでいた。荀彧の従僕も一応荀彧に目配せして、それに続く。
「過保護な奴……」
「主に思いでうらやましい限りですよ。まあ、大丈夫だと思いますけどね。彼女は多分、本気で奉孝殿に仕えるつもりでしょう」
「そうかな?」
「ええ。危害を加えるつもりならとっくにそうしているのではないかと。ただ、賊徒の倉をさらえに行くのはぜひ慎重に行ってくださいね」
「そりゃもちろん」
「ああ、それと。先程の貂蝉とやらがいる店ですが、わたしに心当たりがあります」
「え?」
「賊徒に通じているらしい娘がいるというので、一度見に行きましたから。許に戻ったら一緒に行きましょう。ただ……戻るころには彼女たちはそこにいないかもしれませんけどね」
「え? なんでですか?」
「こちらに来る直前に布令を出したんですよ。売春行為、および妓楼に類する店は花街の区画以外での商売は認めない、と。今までは許の街が荒れていることもあったので、あちこちの路地に娼婦がいたり、陣営にやってくる女もいたりしましたが、規律や治安にも影響します。管理しやすいよう花街に集めようと思って」
なるほど、確かに言われてみれば城市近くに陣営を置くと、どこからともなく女がやってきて、兵士相手に金を稼いでいた。本来は許されることではないが、状況が切迫していなければ黙認しろ、と夏侯惇には言われていた。もちろん勤務中に女と遊べば厳罰だが、休みの時間に女に手を出す分には兵士のいい息抜きになる。ただ、その分規律が乱れるきっかけになるのも確かだった。
「件の貂蝉とやらがいる店は城壁近くの区画にありましたから、そのままの商売はできていないはずです。おそらく、先程の娘はそれを知らなかったのでしょう」
「え、待ってくださいよ。それって文若殿が妓楼行ったってこと!?」
妻一筋の彼が。驚いて声を挙げると、荀彧が即座に否定した。
「誤解を招く言い方をしないでください。賊徒と通じて商売をしているという娘に会いに行っただけです。その娘のほかに何人も女がいて、どうも体を売っていたらしいという話は聞きました。まあ、よくある話ですよ。商人が足元を見て、穀を高く買う代わりに若い女に体を差し出せとでも言ったのでしょう」
「ああ、そういう」
「かわいそうな話ですよ。言葉を交わした限りでは、結構賢そうなきちんとした娘でしたから、多分そこそこの生まれだったのでしょうに。長安から逃げてきたということは、おそらく董卓の手の者たちにいいようにされていたのでしょう。そんな娘が生きるために賊徒に加担し、商人たちを抱き込んで金を稼ぐ。文字通り体を差し出していたのだとしたら……」
荀彧は痛ましげに目をつむり、軽く頭を振った。
「早く、そんなことのない世にしたいものです」
「うん。……ですね」
その後、郭嘉は曹昂と共に地図にあった賊徒の倉に向かい、いずれも問題なくその中にあった穀を手に入れた。あの女には本当に騙す意図はなかった、ということだろうか。もちろん、まだ油断はできないが。




