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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
4.潁川平定
53/64

53:<郭嘉編>潁川平定7

何儀一派の討伐を終え、一行は陽翟へ戻ることに。

しかし祝宴の夜、城内に侵入者が現れる。

 案の定、曹昂のところに戻ると、彼は移動用の小さな檻に入れられた女を見て頬を赤らめていた。

 女は女で、大勢の前に引っ立てられた途端泣き出したらしい。しかも、さりげなくまた着物の裾をはだけて真っ白な脚がのぞいている。

 あきれ顔で檻の前に立つと、女は悪びれもせず泣くふりをした。

「ひどい。私はただ操られていただけですのに……」

「……お前、いい根性してんな」

「あの、郭軍師。彼女が、本当に?」

 曹昂も女の涙に騙されかかっている。素直な彼だから無理もないとは思うのだが。

「本当ですよ。さっきの大立ち回り見せてやりたかったな。子修殿みたいな人が見たら、女って怖いって二度と女を信じられなくなるかもしれないですね」

 また尻尾を出すかもしれないと思ったが、女は泣き真似をやめるつもりはないらしい。

「ま、いいや。それよりさっさと帰りましょう。とりあえず、この里はこのまま置いておいて、住人をどうするかは一回文若殿に連絡とってからですね」

「ですが、大丈夫でしょうか? 我らが帰ってから、また賊徒がここに集まってくるということも」

「そこは心配ないですよ。それに、連中の中心にいた何儀・何曼兄弟と自称西王母はこっちの手の中ですからね。お、狼煙だ」

 先行している于禁には、森の出口まで着いたら狼煙を上げるように指示してあった。

 狼煙は二本。本数が何を意味するかも指示してある。

「行きましょう、子修殿。もたもたしてたら山道で戦になりかねない」

「え? あの狼煙の意味は」

「一本なら平原に敵なし。二本なら森の出口に敵兵あり。三本ならそれが一万以上、って于都尉に指示しました。だから、少なくとも数千は森を出た平原に陣取ってるってことでしょう」

「な、なんでそんな。伏兵なら、ここに来る前にすればよかったのに。賊徒から見れば、里を落とされてから戦うことに意味など」

「まあ、色々理由はあるでしょ。勝った後の帰る気になってる兵は弱いと思ったのかもしれないし、元々俺たちが住人には手を掛けないことを見越して、俺たちに痛撃を与えることだけを目的としたのかもしれない。数万とはいえ賊徒ごときに負けたとあっては、いくら寡兵でも曹操軍としては面子がつぶれますし。ま、相変わらず詰めが甘いけど」

 郭嘉は檻に視線を戻し、まだ怯えているふりをする女に言った。

「お前がしたのかお前の部下がしたのか知らないけど、今一つ足りないな。ま、相手が俺だったのが悪かったかもしれないけど」

 にやりと笑ってやると、女がわずかに口の端を持ち上げる。

 まだ、何かあるのか。

 多少気にはなったが、迷っている暇はない。

「先陣弓兵、次に騎兵。子修殿は騎兵と一緒に先行してください。殿(しんがり)は俺が歩兵を率います」

「先頭が弓兵、ですか?」

「そうです」

 郭嘉は曹昂に歩み寄り、彼の耳元で小声で言った。

「いいですか、森の入り口に着いて于都尉と合流したら、于都尉の歩兵を盾にして、まずは弓兵に斉射を。それで賊徒はひるむと思うので、騎兵で賊徒のど真ん中つっきってください。賊徒の群れを抜けたら取って返して、後詰の歩兵と騎兵で挟み撃ちにします。歩兵は後ろを取られないように森の入り口から離れないように戦うので、そのつもりで」

「わかりました」

「ここで一回、徹底的に叩いておいた方がいいと思うんで、なるべく逃がさないように。歩兵にもそう徹底させます」

「わかりました! 出立準備!」

 うなずき、曹昂が走っていく。それを見つめていると、ふと、視線を感じた。檻の中の女を見ると、もう演技はやめたのか、女は楽しそうに目を細め、郭嘉を見ていた。

「曹操の息子じゃなかったのね」

 肩をすくめて見せると、女は檻に体を寄せ、じっと郭嘉を見つめてきた。

「ねえ、さっきの話、忘れないで。私、役に立つわよ」

「賊徒の言葉を真に受けるほど、俺はバカじゃない」

 目も合わさず言ったのだが、女はめげない。

「じゃあ、何をしたら信じてくれる? 有能な仲間が二十人はいるわ。調略、暗殺、情報収集、大抵のことはできるわよ。軍師なんでしょ? 手足は多い方がいいんじゃない?」

 ささやくように言う女を一瞥して、郭嘉は傍にいた兵に言った。

「ろくでもない女だから、絶対に逃がさないように気をつけろ。猫かぶってんのに騙されるなよ」

「は!」

「もうっ!」

 檻から離れるとき、女の呆れたような声が背中越しに聞こえていた。




 郭嘉が歩兵を率いて山道の出口に着いた時にはもう戦いは始まっていた。斉射を終えた弓兵は山道の入り口に控えていて、曹昂は統率の取れていない賊徒の中を見事につっきっている。それを、于禁が援護していた。

 郭嘉の率いる歩兵が到着すると、勝負はすぐに決まった。算を乱して逃げ惑う賊徒たちを、陣を組んだ歩兵で追い立てる。あっという間に山道前の平原は死体で埋まった。

 荀彧からは、賊徒はなるべく帰順させろ、と言われている。おそらく、逃げられた者は四分の一もいなかっただろう。

 ――少しやりすぎたかな。

 足元には死屍累々だ。ただ、ここで下手に逃がせばもう一度山中の里を落とすのに苦労することになる。ある程度の掃討は必要だったはずた。

 最初に何曼を捕らえた時、もう少し別の方法を探るべきだっただろうか。自分は夜襲を受けた時点ですっかり戦をする気になってしまって、もしかしたらうまく和睦できたかもしれない機会を逃した、ということもあるかもしれない。

 ――難しいな、この辺の判断って。

 曹操と一緒にいた時は考えなくていいことだった。そういったことは曹操が考えてくれたからだ。戦に勝つだけではない、指揮を執る、ということの難しさを感じる。

 帰ったら荀彧に怒られるかもしれない、と思いながら戦後の報告を聞いていると、一つ、聞き逃せないものがあった。

「逃げられた?」

「は、はい。申し訳ありません!」

 捕らえていた自称西王母がどさくさに紛れて逃げていた。

 会戦が始まったころに女を閉じ込めていた檻に何人か男が近づいてきて、あっという間に連れ去られてしまったらしい。

 確かめに行くと、檻の傍に見張りだった兵たちが数人倒れていた。いずれも的確に急所を突かれ、殺されている。檻は壊さずに開けたものらしく、きちんと再び鍵が閉められていた。檻の中に残っているのは、女を縛っていたものと思しき縄と、一緒に檻に入れられていた何儀だけだ。何儀はまるで魂でも抜けたかのように茫然としていた。どうやら何儀は連中にとって、もはや助けるに値しないということらしい。

「どう思う?」

 隣にいた静に問うと、彼は死体の傷を確かめて、言った。

「おそらく隠密の仲間のような者がいたのでしょう。会戦が始まって注意が逸れるのを狙って、連れ戻しに来たのではないかと思いますが」

「兵士五人もいたんだぞ」

「不意を突けば、ある程度の腕があれば不可能ではないと思います。賊が一人とは限りませんし」

「そりゃそうだけど。ったく。まあいいか。少なくとも何儀はまだいるし。あの女が里を取り戻そうとかしたら厄介だけど、これだけ殺せばもう、集められても五千もいかないだろうからな」

 里に逃げていないか様子を探るように兵に言い、郭嘉たちはそのまま陽翟へと戻った。




「雍丘の決着が着いたそうだ」

 陽翟に戻ると、報告の後、留守を預かっていた夏侯惇が曹操からだという竹簡を見せてくれた。

「張超は自決。その後、奴の一族の首を刎ねて城門に曝したそうだ。孟卓(張邈)殿の妻子も含めて、な」

 まあそのくらいにはなるだろう、という結果だ。郭嘉はそうですか、とうなずいたものの、夏侯惇の表情は妙に晴れない。彼はこの結果に不満だったのだろうか。

「どうしたんです? ようやくって感じですけど、遅すぎだとか?」

「いや、そうではない。あれだけ手こずったのだ。年内に終わってよかったと、そこはそう思っているのだが……」

「が?」

 郭嘉が首をかしげると、夏侯惇は短く嘆息して言った。

「いや、簡単な報告しかないのでな。本当にこれだけだったのだろうか、と」

「これだけ、って」

「……また、孟徳がやらかしたのではないかと、不安でな」

「ああ」

 確かに、渡された竹簡に詳細はない。張超が自決したことと一族の首を晒したことだけが書いてあるだけだ。戦に勝った際大虐殺があったとしても、曹操がわざわざそんなことを書簡に書く訳もない。

「ま、大丈夫でしょ」

 あり得ないですよ、と郭嘉が言うと、夏侯惇は胡散臭げに郭嘉を見つめてきた。

「そんな簡単に」

「殿もさすがに懲りてますよ。まずありえないです。仮にあったとしても、そんな大した影響はないですよ」

「大したことがないだと?」

「雍丘に残ってたのはほとんどが兵でしょう。徐州の時みたいに、兗州の十城空にしたってんならまた色々と言われるかもしれないけど、攻城戦のあった城で兵士皆殺しにしたっつったって、たいして珍しくもない」

「それは、そうだが」

 夏侯惇はまだ不安げだ。それが不思議で、郭嘉は首をかしげた。

「元譲殿、気にしすぎじゃないですか? 意外だな。一番殿のことわかってそうな元譲殿が、一番要らない心配してる。俺は、雍丘は皆殺しにするくらいでいいと思ってましたけど」

 郭嘉が言うと、夏侯惇は眉をひそめた。

「なぜだ。また孟徳が汚名を着ることになるではないか」

「この場合、殿の採るべき選択は、張超を赦して寛大な君主像を演出するか、そうでないなら徹底的に叩いて殿に逆らうとただでは済まない、と世に知らしめるか、そのどちらかです。当然殿としては後者でしょうから、少しくらい派手にやってちょうどいいくらいですよ。張超はそれだけのことをやったんだ。見せしめに八つ裂きにしたってそんなもんだと思うけどな」

「し、しかし」

「それに、毒抜きも時には必要ですよ」

「毒抜き?」

「殿、結構張邈殿のこと気にしてましたよね? 相当辛い思いをしたんじゃないかと思いますよ。信じ切ってた親友に裏切られて、しかも幾度も機会はあったはずなのに張邈殿は最後まで敵対して殿のところに戻ってこなかった上に、最後は惨めな死に方をした。やり場のない憤りみたいのは、あって当然じゃないかな? そのきっかけを作ったのが張超なんだから、殿が張超を八つ裂きにしてその煩悶が少しは楽になるなら、俺はそれでいいと思いますけど。俺はむしろ、張超が自殺したって方が心配かな。殿が自身で殺せなかったわけですから、また殿、イライラしてないといいですけど」

 夏侯惇は、郭嘉の言葉に愕然としていた。曹操を心配するあまり、曹操の内心まで考えていなかったのだろうか。少し意外だ。

「で、殿は予定通り梁国と陳国を落としてから来るつもりなんですね。なら、こっちはまだ周辺の鎮撫に当たる余裕、ありますよね」

 郭嘉が今後の話をする間も、夏侯惇はどこか上の空だった。おそらく曹操が相当心配なのだろう。

 こんなことも、やはり曹操がいないからだ。ここで郭嘉がどれだけ言っても、実際に見るか曹操に会うかしなければ、夏侯惇の心配は消えない。

 早く殿がやってこないかな、と郭嘉は思い始めていた。




 その夜、とりあえずの戦勝を祝して兵に酒がふるまわれた。

 郭嘉は、今夜は陣営に残りたいと言ったのだが、それは夏侯惇に却下された。もし夜襲などあった場合、指揮を執るのは夏侯惇の方がいいし、城に泊る曹昂の傍には郭嘉がいたほうがいいという。それで結局また、陽翟の府の一室で寝ることになってしまった。

 しばらく陣営で兵たちと酒を飲み、曹昂と一緒に府に戻ることになった。府の入り口で馬を降り、二人並んで歩いていると、曹昂がじっと見つめてきた。

「どうしたんですか? 何か、不満そうですけど」

「不満ってほどじゃないんですけど、こっちだと俺、よく眠れないんじゃないかって気がして」

「そうですか? こちらの方が静かだし、安心ですよね」

「静かすぎてどうも……。ここ最近ずっと殿と一緒に先陣だったせいか、府の中みたいにしーんとしてるところだとちょっと落ち着かないっていうか。いや、気にしすぎかもしれないんですけど」

 郭嘉が頭を掻くと、曹昂がふっと笑った。

「それは難儀ですね。でも、今日はさすがに向こうでは安眠出来ないと思いますから、こちらでよかったのでは? 兵にも酒はふるまわれていますし、きっとすごくうるさいと思いますよ」

「まあ、それはね」

 兵士に酒がふるまわれることは稀だ。大抵は戦勝の祝いで、そういう時、陣営は大騒ぎになる。実際、府に向かう前も大騒ぎだった。

「子修殿、結構飲んでたみたいですけど、あんまり酔ってませんね。さっき、騎兵の連中と大騒ぎしてたでしょ? よかったんですか、一緒にいなくて」

「大騒ぎだなんて。それは私ではなくて、騎兵たちの方ですよ。本当騒がしい連中で。私ももう少し一緒にいたいとは思ったんですけど、大将は兵たちと馴れすぎては駄目だ、と叔父上に言われているので」

「ああ、そういうのはあるかもしれないですね」

 指揮官である以上、兵に死にに行けと言わなければいけないこともある。そう思えば、いくら自分の隊だからといって友人のように馴れ合うというわけにはいかないだろう。郭嘉自身も、自分の隊はないものの、曹操に兵と親しくしすぎるな、と言われたことがあった。

「昼間、大活躍でしたね。見ててうらやましくなりましたよ。俺も、子修殿みたいに前線で戦えればなあ」

「そんな、私なんて大したことありませんよ。郭軍師の作戦あってこそですから」

 たわいもない会話を交わしながら、穏やかに微笑む曹昂と回廊を歩いた。相変わらずお互いの護衛以外に、城の衛兵はほとんどいない。静かな府の中を歩き、与えられた部屋の近くまでやってきた。

「じゃ、子修殿、俺あっちだから。おやすみなさい」

「はい、ゆっくり休んでくださいね」

 去り際も酔っている気配など全くなく、曹昂はさわやかに微笑んで歩いていく。その後ろを護衛の兵が五人ほどついていくのを見送ってから、郭嘉は自身の部屋へと歩いた。その後ろに静がついてくる。

「このまま休まれますか?」

「そうだな。少し喉乾いたから、水飲みたいかな」

「では、水をもらってきます」

「ん」

 静の足音が遠ざかると、本格的に辺りはしんと静まり返った。

 今日は眠れるだろうか。そんなことを考えながら部屋の扉を開けた瞬間、郭嘉は足を止めた。

 鼻をつく甘い香り。

 むせかえるような煙の匂いに、一瞬火事でも起こったのではと思って郭嘉は慌てて部屋に入り、中を確認した。

 とりあえず、火事ではないようだ。ただ、誰もいないはずの部屋には燭が灯っていて、寝台の上には薄絹を纏った女が一人、座っている。

 その顔に見覚えがあって、郭嘉はすぐに踵を返した。

「静! 静、戻ってこ――」

「やだ、無粋なことしないでよ」

 叫ぼうとしたが、すぐに後ろから白い手が伸びてきて口をふさがれた。背に触れるやわらかな感触とは裏腹に、女の力は案外強い。振り払おうとしたのに、女は後ろからきつく郭嘉にしがみついてきて離れなかった。

「頭はよくても腕っぷしは全然みたいね。ほっそい腕。私一人でもよかったかしら」

 首元でくすくす笑う声が聞こえる。女の言葉にはっとして見回すと、さっき自分が入ってきた部屋の戸の前に立つ男がいた。知らない男だ。

 男は細身だが、いかにも腕が立ちそうだった。ただ、殺気は感じない。むしろ男はあきれ顔で郭嘉と女を見ていた。

「何の真似だ。お前、昼間の自称西王母だな」

「ご名答。覚えててくれて嬉しいわ」

 女は郭嘉の耳朶でささやくと、すっと離れて行った。郭嘉は慌てて距離を置こうとしたが、軽いめまいに襲われ、ふらつく。すると、再び女が郭嘉の腕を支えた。

「あらあら、大丈夫? 結構効きやすい体質みたいね」

 効きやすい? どういうことだ、と考えて、思い当たった。何儀は自称西王母の巫術でおかしくなったこと。そして、この甘い香り。

 さっと袖で口を覆う。この甘い香が、静の言っていた巫術で用いる毒なのかもしれない。しかしすでに遅いのか、軽いめまいと妙な高揚感が沸き起こってくる。

 何をした、と睨みつけると、女は嬉しそうに目を細め、笑った。

「そんな怖い顔しなくても大丈夫よ。別に殺そうってんじゃないから」

 振り払おうとしたが、一層強くなっためまいでふらつき、結局床に倒れこんだ。そこに、女がのしかかってくる。

「ねえ、取引しましょ。私たち、本当に役に立つわよ。こうしてここに来られたのがいい証拠でしょ?」

「こんな、すかすかの府に忍び込んだくらいでデカい顔すんな! そもそも、取引するっつー態度じゃないだろ」

 鼻先でささやく女に、郭嘉は冷たく吐き捨てた。しかし女はめげることなく続ける。

「そう? こうやって肌を合わせてお話ししたほうがお互い理解できるでしょ?」

「だったら変な香なんか使わず、そこの男も追っ払って出直して来いよ」

「なあに? 怖いの? かぁわいい」

 冷たい指が郭嘉の頬を撫でると、ぞわりと背が震えた。しかし、逃げようにも二人も相手に戦えるような力は、郭嘉にはない。できることと言えば時間稼ぎくらいだろう。

「何が目的だ」

「さっきも言ったでしょ? 取引しにきたのよ。あなたは何がお望み? 曹操軍はこの辺の鎮撫を目指してるんでしょ? とりあえず何儀一派は片づけたと考えて、次は黄邵かしら? それとも劉辟? おすすめは黄邵ね。連中は荊州との境あたりに陣取ってるから、劉辟よりやりやすいと思うわよ。劉辟は汝南側で、袁術の息がかかってる。数万じゃ勝てっこないわ」

 女の分析は意外なほど的確だった。賊徒を率いる以上そうならざるを得なかったのかもしれないが、女がここまで筋道通った話をするのが、郭嘉には意外だった。

「俺の望みを聞いて、どうする」

「ご要望に沿ってあげようってのよ。ただし最初の一回だけね。それで私たちが使えるとわかったら、雇ってほしいのよ。これでも元は洛陽で高名なお方に仕えてたの。でも、長安でご主人様が殺されちゃって、皆で困ってるのよ。お給料くれる人はいないし、代わりにお荷物は増えるしで」

「荷物? 里の女たちか」

「あれはこっちに来てからのお荷物。元々のお荷物は別のところにいるわ。もっとも、お荷物なんて言ったらお優しいお嬢様たちに怒られちゃうけど」

「で、そのお荷物を養うために男集めて賊徒やってたってのか?」

「そう。女だけで生きていくなんて無理だし、男手もあるけど数十人じゃできることなんてたかが知れてるわ。だから、とりあえずの寄生先として何儀を選んだのよ。そこそこの勢力で、けどタルい男だったから、薬飲ませて一晩寝たらあっという間に私のいいなりだったわ」

「……で、俺もそうしようってのか」

 睨みつけると、女はにこりと笑って懐から小さく折りたたまれた薬包を取り出した。それを指先でつまんで、郭嘉の鼻先で振って見せる。妙な甘い香りが鼻をついた。

「香だけじゃ、相当時間かけなきゃおかしくなったりしないわよ。これ全部飲み干したら可能かもね。試してみる? ただし、そのご自慢の頭脳は二度と役に立たなくなるでしょうけど」

「死んでもごめんだ」

「だったら、取引しましょ。まずは一度、タダでお役に立ってあげるわ。その先の報酬は応相談。ついでに私とのとろけるような夜のオマケつき。とりあえず、それだけ先にお試ししてみる?」

 なめらかな指が郭嘉の唇をたどる。いつもなら据え膳はありがたくいただく方だが、今回ばかりはいただけない。

 女が唇を寄せてきたが、慌ててその口を手でふさぎ、押しのけた。

「もうっ、なんで嫌がるのよ!」

「俺にも選ぶ権利はあるっつーの!」

「頑固ね! 本当に女に興味ないの?」

 女が一旦体を起こす。そこで、入り口に控えていた男が声を挙げた。

「おい、桃華。あきらめろ。足音が聞こえる。戻って来たぞ」

「どういうこと? 足止めできなかったわけ?」

「だろう。あいつ、結構できそうだったからな」

 男が探るように扉の外を見ている。郭嘉にはまったく足音が聞こえなかったが、静が戻ってきたということか。

「静! 早く戻って来い!」

 力の限り叫ぶと、冷たい指がまた郭嘉の唇に触れた。しゃべるな、と言いたいらしい。

「殺さないって言ってるのに。まあいいわ。作戦失敗ね。出直すわよ」

「二度と来んな!」

 怒鳴りつけると、女は楽しそうに目を細めて微笑んでから、軽やかに立ち上がった。男と共に素早く入り口とは逆の窓から逃げていく。

 すぐに別の足音が近づいてきて、乱暴に扉が開いた。

「奉孝様?!」

 駆け込んできた静は、部屋に充満する香に気づいたのだろう。有無を言わさず郭嘉を抱え上げると、すぐに部屋の外へと移動した。部屋の外に出た途端、息を吸うと清新な夜の空気が胸を満たす。たったそれだけのことが今はとてつもなく心地いい。

 回廊まで出ると、静は郭嘉を下ろし、横から支えるように顔を覗き込んできた。

「奉孝様、大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃない。気持ち悪い」

「水を」

 静が差し出してきた水を飲む。それでも気持ち悪さは収まらず、郭嘉は乱暴に頭を掻いた。

「お前遅いよ。くそっ、水欲しいとか言うんじゃなかった」

「すみません。大丈夫ですか? 何か飲まされたりとか」

「してない。香だけ。でも、なんだよあれ。少し吸っただけでくらくらして」

「あれが巫術で使う術香でしょう。あれだけ充満していれば、そうなってもおかしくありません」

「俺、やばいのか?」

 脳裏に、訳の分からないことを言って喚いていた何儀の姿がよみがえり、ぞっとする。

「少し吸っただけなら、しばらくすれば落ち着くでしょう。あなたは体が弱いので、香も人より効きやすいのかも知れません」

「なら、いいんだけど」

 落ち着くと、周囲が妙にバタバタしていることに気づいた。賊は一人ではなかったのかもしれない。

「他にもいたのか?」

「はい。厨房で水をもらおうとしたら、下女が妙にしつこく話しかけてきて。無視して戻ろうとしたら、途中で曹子修様の護衛たちが戦っていたのです。それで、もしやと思って戻ってきたのですが」

 もしかすると、その下女も自称西王母の差し向けた者だったのかもしれない。しかし、それだと静を引き離すことを目的としていた、つまり狙いは郭嘉だったということになる。普通なら、曹昂を狙う方が自然だと思うのだが。

「郭軍師! 大丈夫ですか?」

 しばらくすると曹昂がやってきて、郭嘉の前に膝をついた。余程顔色でも悪かったのか、心配そうに顔を覗き込んでくる。

「もしかして、賊に何か……」

「いや、大丈夫だよ。それより子修殿は大丈夫か? 賊になんかされたりとか」

「いえ、私は大丈夫ですよ。父上の付けてくれた隠密たちが、城内の様子が妙だというので、部屋に戻ってすぐ外に出たんです。そしたら、賊らしきものがいたので追いかけていたんですけど……。すみません、郭軍師には護衛の彼もいるし、大丈夫だろうと思って気にもかけず。もしかして、賊の狙いは郭軍師だったのですか?」

「みたいです。でも、それでいいんだよ。俺より子修殿の方がよっぽど大事なんだから」

「そんなことは。では、やはり賊に襲われたのですね。見たところお怪我はなさそうですけど、なにか」

「ちょっとね。でも多分大丈夫だよ。もうちょっとで取って食わるところだったけど」

「食われる? って」

「で、賊は? 捕まえた?」

「いえ、逃げられてしまいました。どうも隠密か刺客のようなものだったらしくて、軽々塀を飛び越えて逃げてしまいました。父上の隠密が捕まえられないなんて、珍しいですよ。悔しそうでした」

「だろうな」

 最初に陽翟で襲ってきた時もそんな感じだったのだろう。腕は確かなのだろうが。

「これは、警備を考え直さなければいけませんね。私だけでなく、郭軍師にも十人ほど護衛の兵をつけるべきではと思うのですが。今までは戦中だけでしたけど、そうでない時も」

 曹昂が静に目を向けている。もちろんですとばかり静はうなずいていたが、郭嘉はその静の顔の前でひらひら手を振った。

「いや、いいよ、護衛なんて」

「え、ですけど」

「大丈夫大丈夫。こいつが十人分働くから」

「今回のように離れていては不可能ですが」

「それはしようがない。静、俺今立てないから部屋へ連れてけ」

 奉孝様、とまだ文句を言いたげな静の言葉を遮るようにして郭嘉は言った。じっと睨みつけると、しばらくしてあきらめたように静がため息をつき、郭嘉を抱え上げた。

「ごめん、子修殿。俺気分悪いから休むわ。申し訳ないけど、あとよろしくお願いします」

「もちろんです。お任せください。早く良くなってくださいね」

 静に抱えられて部屋に向かう。その途中、静がため息交じりに言った。

「護衛の件はまじめに考えるべきですよ、奉孝様」

「冗談じゃないよ。お前以外の奴がずっとそばにいるとか、絶対嫌だ」

「ですが」

「口答えすんな。俺はお前がいれば十分なの」

 ぴしゃりと言うと、しばらくして、彼の嘆息が聞こえた。

「しばらくこちらでお待ちを。香を外に出して、念のため危険がないか中を確認します」

「ああ」

 部屋の入り口で下ろされると、静が室の中へと入っていく。それを見遣ってから、郭嘉は戸口に寄りかかって天を仰いだ。

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