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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
1.乱世の始まり
5/64

5<荀彧/夏侯惇編>我が子房

曹操と荀彧の出会い編~青州黄巾賊編のさわりまで。


しばらく荀彧視点が続きます(たまに夏侯惇視点)




 冀州を出て東郡に到着した荀彧は、街の入り口で誰何(すいか)され、名と、冀州からやってきたこと、ここに住みたいと思っていることを告げ、宿を取った。

 さてどうやって曹操の下へ行くか。可能なら一度会って話がしたいところだが、伝手はない。それなりに名が売れている自信はあるが、まだ何の実績もないこともまた事実。力もないのに驕っていると思われるのも得策ではない。

 ここは正面切って門扉を叩いてみるべきか、と思っていたところ、到着して翌日の朝、迎えの使者がやってきた。

「荀彧殿ですね。太守がお呼びです」

 驚きはしたが、迷いはなかった。

 そのまま遣いの兵士に導かれ、(やくしょ)へと向かった。

 街は雑多ではあるが活気に満ちていて、人々の表情も悪くない。(やくしょ)に入ればきちんと統率された兵士と、きびきび動く文官の姿が見られ、これも悪くないと思った。

 荀彧が曹操のことで知っているのは、今までの簡単な経歴と、袁紹とは親しいらしいこと。そして、宦官の孫であること。このくらいだ。

 この時代、宦官に連なるものは何かとそれだけで批判を受けることが多い。荀彧もまた、宦官の娘を娶ったがために色々と言われることが多かった。となれば、曹操の苦労もそれなりのものだろうと想像された。

 それなのに、腐ることなく武功を立てて、こうして群雄の一人として立っている。

 悪くはない、と思う。あとは、彼の野心がどこにあるか、だ。

 謁見用の広間に通された時、荀彧はあえて軽く目を伏せ、入り口で一度膝をついた。

「荀彧と申します。お召しに預かり、光栄に存じます」

 拱手し、瞳を閉じて首を垂れる。ほどなくして、奥から笑い声が聞こえてきた。

「光栄とはこちらの台詞だな、荀彧殿。わざわざ冀州からこちらに来られるとは、今頃袁紹殿は(ほぞ)を噛んでおるのではないか?」

「まさか、そのようなことは。袁紹殿の旗下には多くの知将がいらっしゃいますゆえ、わたしなぞ、いてもいなくても気づかれはしないでしょう」

 今度は哄笑が聞こえてくる。頭を挙げないままそれを聞いていると、続いて曹操の声が聞こえてきた。

「荀彧殿、そのような端近ではなく、もそっとこちらへ来られよ。いささか畏まりすぎだ。私はせいぜい東郡の太守にすぎぬ」

 顔を挙げると、磨き抜かれた床の向こうに、椅子に座る曹操の姿が見えた。

 目が合った瞬間、どくりと心臓が跳ねる。

 曹操は終始上機嫌で、怒っているわけでは決してない。それなのに、よくわからない感覚を覚え、荀彧は暫時戸惑った。まるで炎でも間近にしたかのような恐怖とでも言えばいいのか。

 彼が武将だからか、それとも自分が単に緊張しているのか。戸惑っていると、曹操は不思議そうに小首をかしげた。

「どうした?」

「い、いえ。申し訳ありません」

 荀彧は軽く目を伏せ、そのまま前へと進み出た。

 曹操の周囲には何人か幕僚らしい者たちが立っていた。武将が四人、それと、文官らしき男が一人。文官らしき男はあからさまに荀彧を探るような目で見ていた。袁紹のところでもそうだったが、どこでも権力争いというものはあるものだ。おそらくこの男は曹操の軍師なのだろう。

「して、何ゆえ冀州からこちらに来られたのだ? 私のところに仕官しに来てくださったと思ってよいのかな?」

「はい。お仕えすべき主を求めてやって参りました」

「は、それは袁紹では主に足らぬということか?」

「はい。あの方では天下を治めることはできないでしょう」

 曹操がまた哄笑した。愉快でたまらないとばかり膝をたたき、椅子に片肘をついてもたれかかっている。

「面白いことを言うではないか! 世の連中は皆四世三公のいずれかが乱を治めるのではないかなどと言っておるというのに」

「家柄だけで天下を治めることができるならばそれもあるかもしれません。しかし、この乱世は、家名だけで治められるほど甘いものではありません。人を集めるくらいの役には立つでしょうが、その集まった賢才を用いるだけの器がなければ、人がいくら集まったところで大業は成せません。確かに、袁紹殿の下には多くの名士が集まっておりましたが、彼はそれを遊ばせておくだけ。あの智者の方々を世のために働かせることができるならば、それこそ天下を獲ることなど赤子の手をひねるがごとくでありましょうに」

 曹操が嬉しそうに目を細めるのが見える。

「反董卓の連合の時もそうでしょう。あれだけの将兵を集めたのです。やろうと思えば董卓を討てたはず。しかし、他の諸侯と並んで保身に走り、連合は無為に終わりました。彼が真に天下を治めうる器であれば、諸侯をうまく使って事を成せたはず。しかも、連合が瓦解したのは袁家の二人が下らぬことで喧嘩を始めたから。話にもなりません。わたしは、真に天下を思い、この乱世を安んじようという意思をお持ちの方を主と選びたいと思います」

 半ば睨むように曹操を見ていたかもしれない。それでも、曹操は嬉しそうに目を細めたまま見つめ返してくる。

 御身はいかが、などとあえて問うことはしなかった。これはもう、賭けだ。最初にこれだけ言ったのだ。もし曹操にその意思なしと見れば、見捨てればいい。

 ただ、願わくは彼が真に天下を思う男であってほしい。

 じっと見つめあったのがどれほどの時だったのか。荀彧は、強い光を宿した曹操の瞳を一心に見つめ続けた。

「俺はな、常々思っておったのよ。世の智者だの賢者だのと自称する連中が山にこもり、好き勝手に天下を論じておることがいかに無駄か」

 ふん、と曹操が鼻を鳴らす。いよいよ椅子にふんぞり返り、睥睨するように彼は虚空を睨んでいた。

「智は何のためにある? 学問のために学問することに何の意味ある。一歩外に出れば大勢が死に、必死で乱をかいくぐろうとしておると言うのに、己だけ安穏と庵にこもって他人が乱を治めてくれるのを待っておるなぞ、許されるわけがない!」

 曹操は今度は椅子から降り、荀彧の方に駆け寄ってきた。間近に彼の顔が迫り、驚いて一歩引くが、曹操は構わず荀彧の肩をばしばしとたたいた。

「そなたが世の智者どもと同じようにご高説を垂れるだけの男でなくてよかった! そなたこそ、俺が待ち望んでいた者だ! 我らで天下を安んじようではないか!」

 ひとしきりたたいた後荀彧の両肩を掴み、間近でじっと見つめてくる。

 相変わらずの威圧感に荀彧は口もきけなかった。また心臓は恐怖とも喜びともつかない感情に支配され、荒ぶっている。

「頼むぞ、荀彧。お前こそ、我が子房だ!」

 曹操はまたばしばしと荀彧の肩を叩くと、嬉しそうに哄笑しながら椅子へ戻っていった。

 彼が椅子に座りなおして、ようやく笑うだけの余裕が荀彧に戻ってくる。

 ふっと息を吐き、曹操と共にひとしきり笑う。何やらご大層なことを言われた気がするが、この時は動揺していて意味が頭に入ってきていなかった。




 曹操は荀彧をすぐさま司馬に任命した。

 役職から言えば、将軍の下について兵をつかさどるのが仕事だ。しかし、そこはあまり厳密に考えていないらしく、曹操はまず、荀彧に兵糧の管理を任せた。

 元々は陳宮が部下にやらせていたことだったらしい。雑用といえば雑用だが、ある意味では全軍の要と言えなくもない。

 地道に作業を続ける中、夕方以降に曹操に呼ばれることが多かった。時にはともに食事をとりながら、話は各地の情勢から書物まで、多岐にわたった。

 仕事で疲れていても曹操との話は楽しく、荀彧にとってはそれがいい気分転換にもなっていた。今まで多くの人士と交わってきたが、曹操と話していると話の展開が心地よく、時間を忘れてしまうほどだ。それはどうも曹操もそう感じてくれているようで、お前と話していると時を忘れると嬉しそうに言ってくれる。

 話の最中、曹操は気になることがあれば、荀彧に新しい仕事を命じることがあった。徐々に仕事は増えていき、手に負えなくなってくると曹操はすぐに荀彧の部下を増やしてくれた。

 数か月経ったころ、気づけば、陳宮よりも多くの仕事を抱え、多くの部下を使う立場になっていた。

 曹操はしばしば賊討伐の戦に出かけるので、城を留守にすることも少なくない。必然的に武将たちよりは陳宮と顔を合わせることが多く、仕事が多岐にわたると彼と打ち合わせせねばならないことも増えた。

 荀彧にとって唯一の頭痛の種が、その陳宮だった。

 陳宮は曹操が東郡に来る少し前から軍師として侍っているという。軍略にも通じ、曹操の頭脳として幕僚たちには一目置かれていた。それだけに、陳宮にも矜持があるのだろう。やってきたばかりの荀彧が重用されていることに、相当な不満があるようだった。

 毎日、仕事上のやり取りの最中にもちくちくと嫌味が飛んでくる。皮肉めいた言い回しに辟易することも少なくなかった。

「――以上です。よろしいでしょうか?」

 一日の終わり、いつものように必要な報告を陳宮に上げる。これが、荀彧にとって一番気の重い瞬間だったが、顔には出さないよう努めていた。

「ご苦労ですな。多くの仕事を抱え、お疲れではないかな? もし手に余るようなら手伝いますぞ」

「お気遣いありがとうございます。今のところ、下の者がうまくやってくれておりますので大丈夫です」

「殿は頓丘。今日からはゆっくり休めますな。心中お察ししますぞ。寵愛甚だしすぎて、寝る暇もないご様子でしたからな」

 曹操は今朝から黒山の賊を討伐しに向かっている。しばらくは帰らないだろう。

 仕官してからこの方、曹操と話し込んで帰る時間を逸し、そのまま執務室で夜を明かすことも少なくなかった。今まで曹操がそのように扱った部下はいなかったらしく、度が過ぎているのではないかと言う噂が立っていることも知っている。夏侯惇が珍しく、曹操に自重しろと言っていたことも。陳宮は、それをあてこすっているのだ。

 いっそ皮肉を返してやりたいと思ったことも一度や二度ではない。だが、そうしたところで得にはならない。曹操が陳宮もまた重用している以上、うまくやっていく必要がある。勢力争い、主の寵争いなど、どこの君主に仕えても絶対に避けては通れないことだ。

 そしてこういう相手には、嫌味を言われても何も返さないのが、一番効く。

「恐れ入ります。ですが、殿が出陣され、武官の方もほとんどが出払っています。ここは誰か府に残ったほうがいいのではないでしょうか? 何もないとは思うのですが」

 む、と陳宮がわずかに眉を動かす。

「そ、そうだな、確かに」

「僭越ながら、わたしが残ってもよろしいでしょうか? まだ少しやりたい仕事も残っておりますので」

「わかった。もし何かあったら連絡を寄こすのだぞ」

「かしこまりました」

 拱手すると、陳宮はすたすたと踵を返して去っていった。

 知らず、ため息が漏れる。

 せめて今日は府でゆっくり眠ろう、と思った。




「じゅ、荀軍師! 荀軍師! 大変です!」

 異変が起こったのは夜の明けないうちだった。

 寝床で横になっていた荀彧はがばと起き上がると、慌てて室の扉を開けた。伝令としてやってきた兵の顔はすっかり青ざめていた。

「し、城が……城が囲まれています! 黒山の賊と思われます!」

「何!?」

 急いで府を出て城壁へと登った。

 夜明け前の薄闇の中、城壁を遠巻きにする一群が見える。数はいかほどか、従軍の経験のない荀彧にはわからなかったが、千や二千ではなさそうだった。下手をしたら万単位かもしれない。一方で城の守兵は千。攻城戦は守備側が有利とはいえ、数の差は歴然としていた。

「陳軍師へ連絡を。門を固く閉ざし、決して開けぬように。あと、殿へも伝令を。東武陽が賊軍に囲まれていると」

「は、はっ!」

「……いや、待て」

「は?」

 伝令が目を丸くしていた。それをよそに、荀彧は拳を口許にあて、考えた。

 曹操は黒山の賊を攻めに行ったはずだというのに、これはどういうことだ。賊が裏をかいて曹操の本拠を攻めてきたということだろうか。ならば、普通に考えれば賊軍は曹操が引き返してくることを期待しているだろう。

 すなわち、罠の可能性が高い。

「あ、あの、荀彧殿?」

「殿へは手紙を書く。そなたはひとまず陳軍師の下へ向かえ」

「は、はっ!」

 荀彧は城壁から降りると、門衛たちに固く門を閉ざすように言った。次に軍の伝達用に使う紙に手早く曹操への手紙を書き、細かく折りたたんで伝令に託した。

「よいか、これを殿へお届けしろ。今はまだ、攻囲は完全ではない。そう苦労せず行けるはずだ」

「かしこまりました」

 おそらく、伝令が捕まる心配はないだろう。賊にしてみれば、東武陽が囲まれているという報が曹操に届かねば逆に困るのだから。主力が出ていて本拠を攻められれば困るのはどちらも同じだ。

 一通りやることを終えると、荀彧は再び賊軍の見える城壁の上へと向かった。

 ほどなくして慌てた様子の陳宮がやってくる。

 彼は荀彧を一瞥すると、すぐに城壁の外に陣取る賊軍に視線を落とした。賊軍はまだ攻め寄せてはいないが、徐々に近づいてきてはいる。

「……なんということだ」

「陳軍師」

 荀彧は恭しく陳宮の前に膝をついて言った。

「守兵には固く門を閉め、打って出るなと言ってあります。殿には急ぎ伝令を出しました。しかし、わたしにはこれ以上のことはできません。貴兄は殿に従って従軍の経験がおありと聞きます。どうか、守備兵の指揮を執っていただけないでしょうか?」

 しおらしく、深々と首を垂れる。ふん、と忌々し気な嘆息が聞こえた。

「当然だ。しかし、なぜこのような……殿は黒山の賊を討伐に向かわれたのではなかったのか」

「入れ違いになったということでしょうか」

「かも、知れぬ。殿が早く引き返してくださることを祈ろう」

 陳宮が言った言葉に、荀彧はあえて返事はしなかった。

 曹操に引き返すななどという書簡を送ったことは、黙っておいた方がいいだろう。




 荀彧が来てからというもの、曹操軍の雰囲気はがらりと変わりつつあった。

 今までは曹操を頂点に、次が軍師の陳宮、その次に親族である夏侯惇ら武将、という序列がなんとなく成り立っていた。

 陳宮は自分こそが曹操の右腕であり、武将は頭が回らないのだから軍師の言うことを聞いて当たり前、というような態度だった。彼に意見できるのは曹操だけであり、陳宮はその他の人間の異論などまず認めなかった。

 ところが、荀彧が来てこれが変わった。

 荀彧はおとなしそうな顔をして、相手が曹操であろうと陳宮であろうと平然と反論した。しかもそれが理路整然としているので、陳宮が言い負かされることも少なくなかった。

 加えて、序列二位、と陳宮が思っていたであろう地位も崩れつつあった。荀彧が来てからというもの、曹操は連日連夜荀彧を呼びつけては、夜遅くまで議論を交わしているという。荀彧がそのまま(やくしょ)に泊っていくことも多く、一時は妙な噂さえ飛び交った。荀彧は眉目秀麗で物腰柔らかく、女官たちがはやし立てたのもあるだろう。夏侯惇が見かねて口をはさんでも、曹操は荀彧を呼ぶことをやめなかった。後ろめたいことなど何もないから気にするな、と。

 そして、そうやって夜中の談義が続くにつれ、どんどん荀彧の仕事と部下が増えて行った。しかも、そのすべてを荀彧はそつなくこなしていた。今までなんとなくで成り立っていた仕事が徐々に整っていき、今まで雑務もこなしていた武官たちは、武官としての仕事だけに専念できるようになった。

 加えて、荀彧は決して武将を低く扱うことはなかった。前線で戦う武将を尊重し、決して居丈高な物言いはしない。むしろ自らへりくだり、武将の意見にもよく耳を傾け、曹操と相談して何かあれば改善してくれることも少なくなかった。

 となると当然、武官の多くが荀彧になびくことになる。

 問題は、陳宮がそれに腹を立てていることだ。結果だけ見れば悪くないのだが、ここままではへそを曲げた陳宮がどんな行動を起こすかわからず、夏侯惇は心配だった。

 今回、黒山の討伐にあたって陳宮と荀彧を同時に城に残してきたことになる。

 主だった武将は全員ついてきているので、ほとんどをあの二人で取り仕切ることになるだろう。

 ――大丈夫だろうか。

 心底心配して、曹操にはどちらかを軍師として前線に連れて行くべきだと言ったのだが、曹操は賊を討つのに軍師などいらぬ、といってあっさりと却下された。

「まだ心配しておるのか」

 不意に曹操から声をかけられ、夏侯惇は顔をしかめた。

「当然だろう」

「心配あるまい。連中も子供ではない。それに、今後こういうことは増えていくはずだ。この程度の遠征にさえ耐えられぬようであれば、あの二人には城を任せられん」

「それはそうだろうが……」

「個人的には一度荀彧を戦場に連れて行きたい気もあるのだがな。しかし、あれは(やくしょ)で仕事をさせると実にいい仕事をする。しばらくは(やくしょ)に置いておくのがいいだろう」

 そこは夏侯惇も否定しない。今までいた文官の誰より、荀彧は仕事ができる。それだけは間違いなかった。

「ん? なんだ?」

 早馬が駆けてくる。伝令は曹操のところまで駆け寄ってくると馬から降り、うやうやしく書状を差し出した。

「申し上げます! 現在、東武陽が黒山の賊に囲まれております! 荀彧殿より、至急殿にこれをお届けするようにと」

 ざわ、と周囲がざわめいた。

 黒山の賊を攻めに来ているはずだというのに、東武陽が囲まれているというのはどういうことなのか。さすがに曹操も顔色が変わっている。

 曹操はひったくるように書状を手にすると、細かく折りたたまれた紙をもどかしげに開いていく。しかし、素早く書状に目を走らせると、それが終わったところでなぜか曹操はにやりと笑った。

「戻るか?」

 夏侯惇が問うても、顔を挙げもしない。ついに曹操はたまらないとばかり声を挙げて笑った。

「おい、俺は本当に張良を手に入れたのかもしれんぞ」

「は? 何を訳の分からんことを」

「進軍はこのまま続ける」

「何!?」

「伝令!」

「は、はいっ」

 呼ばれた伝令が慌てて返事をしている。その周囲で、武将たちは一体どういうことだとざわめいていた。

「攻囲の兵はいかほどだったか」

「お、おそらく二万程度ではないかと」

「好機だな」

「おい、孟徳!!」

 夏侯惇はたまりかね、曹操の腕をつかんだ。振り返ってなお、曹操は笑顔だ。

「何を考えている!? 戻らんだと!? 二人を見殺しにするつもりか!?」

「見殺しにはせぬ。考えてもみろ。連中からしてみれば俺の裏をかいたつもりなのだ。ここでまんまと戻ってみよ。東武陽は陥ち、下手をすれば我らまで伏兵の罠にはまって全滅だ。普通、本拠が攻められていると聞けば戻らんわけがない」

「それは……」

「しかし、ここで黒山を攻めたらどうだ。連中の罠は不意になり、しかも連中の本拠は兵が少ないことになる。こちらが黒山を攻めれば、むしろ慌てて引き返してくるのは連中の方だ。そこに、兵を伏せて討つ」

 完璧だ、と曹操は笑った。

「し、しかし、もし東武陽が陥ちたら」

「陥ちはせぬ。連中の狙いはこちらを伏兵で仕留めることだ。それまではゆるゆると攻囲を締め付けるだけだろう。それに、荀彧も戻るなと」

「なに?!」

 曹操は荀彧からの書状を夏侯惇に差し出してくる。さっと目を走らせると、確かに「攻囲されているが、おおかた罠なので戻ってはなりません。そのまま黒山の本拠を攻められるが上策です」とある。ご丁寧に故事の引き合いまであり、とてもこれが二万の兵に攻囲された文官の文とは思えないような、まったく動揺の感じられない文章だった。

「し、信じられん、こんな……」

「肚が据わっておるのか、あるいは戦を知らぬがゆえに籠城の辛さが想像できぬのか、いずれにせよ大したものだ」

 曹操はひとしきり笑った後、すぐさま全軍に指示を出した。

「かくなる上は急ぐぞ! 今度こそ黒山の賊を殲滅してくれる!」

 将兵たちは、戸惑いながらも従うしかなかった。こうなった以上は、一刻も早く黒山を落として帰ることだ。

 そして、驚くべきことに、その策は見事に当たった。

 黒山に到着した時、賊はあきらかに動揺していた。曹操軍が攻め寄せると想像していなかったのだろう。加えて、ほどなく引き返してきた軍も伏兵で散々に打ち破った。

 賊徒から降ってくるものは受け入れ、抵抗するものは殺し、見せしめのため、黒山は焼き払われた。

 結局すべて終わって東武陽に帰ったのは十日は過ぎた後だった。

「殿……」

 城門で真っ先に出迎えたのは、疲労困憊した様子の陳宮だった。その少し後ろに荀彧が控えているのも見える。

「殿、なぜお戻りにならなかったのですか。たまたま賊の攻囲が解けたとはいえ」

 どうやら、荀彧は陳宮には事情を説明していなかったようだ。恨みがましく言う陳宮に曹操は肩をすくめた。

「気づかなかったのか? 我らの不意をついてここを攻めたのは賊の罠。もし引き返しておれば今頃お前も俺も命はないぞ」

「で、ですが」

 曹操は陳宮のそばをすり抜け、数歩後ろに控えていた荀彧に向かって歩いて行った。さすがの荀彧も疲れきった顔をしている。彼は曹操が近寄ってくるのを見ると、ふわりと笑って拱手した。

「ご無事のご帰還、なによりです」

「固いことを言うな」

 曹操は荀彧をねぎらうように何度か肩を叩いた。そのままその肩に腕を回し、荀彧の顔を覗き込む。

「よく耐えたな。籠城は堪えたろう。二万に対しわずか千だからな」

「はい、さすがに。これほどのものとは思いませんでした」

 弱々しく笑う荀彧に、曹操はまたねぎらうように肩を叩きながら笑った。

「そうだろう、そうだろう! 初陣がこんな籠城戦とはなかなかないぞ。手紙をもらった時は、お前の肚の据わり方は鬼神か何かかと思ったが、いや、よかった。我が子房殿はちゃんと人間だったようだ」

「そのような、大げさな」

「此度の戦功第一はお前だ、荀彧。よくやった!」

「とんでもございません。大軍に対しわずか千の兵で城を守られた陳軍師にこそその言葉は与えられるべきものです。わたしは何もしておりません」

 謙遜するのも、相変わらずの荀彧だ。これが陳宮だったら、自分の策が当たって勝てたのだと得意満面だっただろう。

 荀彧の肩を抱きながら上機嫌で中へ入っていく曹操を見てから、夏侯惇はふと、立ちすくしている陳宮に気づいた。

 疲れのにじんでいた先程までとは打って変わって、屈辱からか怒りからか、頬が紅潮している。

「陳軍師、文若殿から我らに手紙が届いたのだ。賊が攻め寄せたのは罠だから、引き返さずに黒山を攻めよ、と。あなたはご存じないようだが」

「あの男は、そのようなことは、一言も……! ただ、いずれ攻囲は解けるはずとだけ……っ!」

 なんと言葉をかけるべきか、夏侯惇は迷った。お前に気を遣ったのだろうと言ったら言ったで、陳宮は怒るだけだろう。荀彧も荀彧だ。策ならば陳宮に言っておけばいいものを。いや、それも言えばあらぬ争いを生むだけだと思ったのかもしれない。軍議でも、荀彧の出した案に陳宮はしばしばつっかかって、曹操にたしなめられていた。籠城戦でまでいさかいたくないと思ったのかもしれない。籠城の最中、指揮を執る二人が仲たがいをしているとなれば、士気はがた落ち間違いなしだ。

「妙に落ち着いているからおかしいと思ったのだ! 策があったならそう言えばいいものを、私を馬鹿にしているとしか思えぬ!!」

 どかどかと怒りを全身から発して歩いていく陳宮に、夏侯惇はもう嘆息するしかできなかった。




 その夜、祝宴が開かれた。主だった将は広間に集められ、兵にも酒がふるまわれている。城内の民にもわずかだが施しが行われた。

 しかし、広間に陳宮の姿はない。

 無理もないとは思ったが、今後どうなるのか。夏侯惇は人知れず嘆息した。

 上座では、曹操と、彼に引っ張られて上座に座らされた荀彧がいた。それを囲むように、自分と夏侯淵、曹仁、曹洪らがいる。

「それにしても、黒山の連中が罠を張るなど、意外でしたな」

「まったく。いや、しかもそれを見抜いた文若殿はさすがだ! 俺らだったらまんまと騙されただろう、なあ、惇兄」

 ご機嫌でしゃべる能天気な従弟たちが恨めしい。そうだな、と適当に返事をして、夏侯惇は盃に口を付けた。

「策と言っても、それほど大げさなものでもありません。殿は、わたしの報せなどなくとも罠を見抜かれたのではないでしょうか? 差し出がましいことをしてしまいました。そのために、陳軍師も怒らせてしまいましたし」

 飲んでいるからか、それとも疲れているか、荀彧はどことなくいつもの切れがない。時々眠そうに瞼を閉じていることもあった。

「まあ、そうだな。言われずとも気づきはしたかもしれんが、迷いはしただろう。城にはそなたたちがいたわけだからな」

「それでも、最後は同じ選択をなされたでしょう。殿は勝利を捨てて小義を重んじられるような方ではございません」

 文字だけ見ていると(おもね)っているようなのだが、荀彧が言っているとそう聞こえないから不思議だ。そして、こうした甘言をよしとしない曹操も、荀彧が言うとまんざらでもなさそうにしているからわからない。

「それにしても、賊があんな罠を張るとか、意外でしたよね。連中にそんな頭があったとは」

「いや、今までも時々思うことはあったぞ。伏兵をしかけられたこともあったしな」

「いや、そりゃ森に伏兵がいたとかそんなだろ? 今回のことはそんなもんじゃない。立派な軍略だぜ。なあ、殿」

 夏侯淵と曹洪が言った。確かに、黒山の賊に手を焼いたのは、何かと連中がこざかしい手を使ってくることがあったせいもある。

 曹操はふむ、と何度かあごひげを撫でた。

「俺も、時々そうは思っておったのよ。連中、意外に頭が回るのではないかと。案外、学を修めたことのある者が紛れておるのやもな」

「党錮の禁以来、官位を追われたり、身内を殺されたりした文人の中には、朝廷を見限り、賊の軍に身を投じたものもあると聞きます。黄巾の乱もまた、そのような者たちが裏で指揮していたがために、あそこまで広がったのではないかと」

 荀彧が痛ましげに目を伏せながら言った。

「嘆かわしいことです」

「黒山の賊にもそういう者がいたというのか?」

「おそらくは。でなければ、あんな罠は張れますまい。あれはある程度軍略を学んだものでなければ思いつかないのではないでしょうか? 貧しさにただあえいで暴れているだけの者が、城を獲るために官軍を陥れようなどと、まず考えないと思います。もちろん、賊徒のほとんどは貧しさにあえいでいる無辜(むこ)の民でしょうが」

 荀彧は手にした盃を両手で支えながら、軽くうつむいていた。秀麗な眉をひそめ、軽くかぶりを振る。

「本来世が平和でさえあれば、彼らは日々田を耕し、心穏やかに生きることができたはず。しかしそれができなくなったから、戦いに身を投じる。あるいは、朝廷が腐敗しきり、もはや剣を取ることでしか世を正せないと思った文人たちが賊に身を落とす。悲しいことです」

 酒席での、小さなつぶやきだった。それでも、それを荀彧が言っていると違うように聞こえるのは彼の人柄によるものか。夏侯惇は胸を突かれたような思いがした。それは周囲にいた者たちも同じらしく、皆神妙な顔をしている。

「蒼天已に死す、か。賊徒がうまく言ったものだと思ってはいたが。まあ、そういうこともあるだろう。党錮の禁では多くの者が殺されたからな。そうでなくとも、外戚や宦官が朝政を牛耳り、愛想を尽かしている者も少なくあるまい」

 曹操もまた、神妙な顔をして言った。それに、荀彧がうなずく。

「ですから、考えようによっては賊徒は敵とばかりも言えないのです。説得することができれば、同じ目的を抱くものとして同じ天を目指すこともできるはずなのです。我らもまた、天下を安んじることを目的としているのですから」

「確かにな。だが、言うほど容易いことではない」

「それでも、百万とも言われる賊を無辜の民に戻すことができれば、兵も増え、農民も増える。したがって糧食も増え、間違いなく殿が天下を目指すに大きな力となりましょう」

 まっすぐに曹操を見つめる荀彧に、曹操は淡く笑って盃を口につけていた。

 沈黙が降りる。決して気まずいものではない。なんとなく曹操と荀彧の間には通じるものがあるのか、周囲の人間が口を出せない穏やかな沈黙があった。

 しばらくして、口火を切ったのは荀彧だった。

「殿、そろそろ失礼してもよろしいでしょうか? ここしばらくほとんど眠れていなくて、眠くて」

「ああ、そうだろうな。ゆっくり休め。明日は出仕せずともいいぞ。奥方に顔を見せ、安心させてやれ」

「お心遣い痛み入ります。それでは」

 荀彧はゆっくりと立ち上がり、少しおぼつかない足取りで歩いて行った。

「聞いたか。俺が文若を重用するのは、あれだ」

 曹操が満足げに笑い、すでに見えなくなった荀彧の背を見やった。

「あれの視点はまるで善良な君子そのものだ。この誰しもが私欲に走っている状況で、すべての民は愛し守るべきもので、天下は人々が平和に暮らすためだけにあると信じて疑っておらん。この乱世に、あんな視点を持つことはそうそうできん」

「しかし、一方ではきれいごとと言えんこともないぞ。お前も言っていたではないか、賊を改心させるなぞ、そうそうできることではない」

「無論、そうだ。だが、あれがいなければそういう道があるということも知ることはなかっただろう。俺は文若と話しているといつも、視界が広がっていくのを感じる。まさしく、王佐の才とはこういうものを言うのだろう」

 満足げな曹操に、夏侯惇はまた知らず嘆息が漏れるのを感じた。

「なんだ、言いたいことでもあるのか、元譲」

 能天気に問われると、またため息をつきたくなる。隣から口を出したのは夏侯淵だった。

「惇兄は陳軍師のことを考えて頭を痛めておるのですよ、殿」

「陳宮か」

 ふん、と曹操が肩をすくめる。

「あれは、明日から荒れるぞ」

 夏侯惇が言うと、曹操はさらりと「そうだろうな」と言った。

「ただでさえ文若殿を目の敵にしておったのに、お前のさっきのあれは明らかにやりすぎだ。へそを曲げるどころではすまんぞ。下手をすれば出ていきかねん」

「元譲、陳宮はなぜ俺に仕えたと思う?」

「何?」

「最初、あれが俺のところに来たのは、俺が御しやすい武将だとでも思ったからだろう。世上の評判では、俺は武官の道を歩き、反董卓では後先顧みずに打って出た猪武者というところだろう。陳宮からすれば、やる気はあるが頭はなく、うまく操れるはずだと思っていたに違いない」

「それは……」

 言われて、思い当たる節がないでもなかった。最初に陳宮がやってきた時、自分が曹操に天下を取らせてみせると大口をたたいていたが、彼は明らかに曹操を単なる武将と見ていた。その後、曹操が策謀に長け、しかもすこぶる気が強く、簡単には他人の意のままにならない男だと気づいたのだろう。曹操に意見を採用されず、忌々し気にしていることがしばしばあった。

「あの男は、要は主を意のままに操りたいのだ。全権を握って、自分が天下を動かすくらいのことをしたいと思っておるのかもしれん。だから、軍師のいない俺が適任だったというわけだ。袁紹などはすでに智者を多く抱えておるし、袁術にしても家柄のこともあって陳宮の言うことなぞそうそう聞きはすまい。となれば、群雄の中でそこそこ将来の芽があり、操れそうな男と言うと、俺しかいなかったわけだ。だから、陳宮が出ていくなどと言うことはありえん。あいつには、俺以上に操れそうな主は見つけられまい」

「お前とて、操られておらぬではないか」

「無論、そうだ。だが、天下を獲りそうな男で意のままに操れる男などいると思うか? 結局、あれは出ていくところなどない。考え直し、功を立てるしかなくなるはずだ。俺は少なくとも、袁紹や袁術よりましだぞ」

 しかし、丸く収まるだろうか。明日から陳宮が荀彧に当たり散らすのがもうすでに目に見えるかのようだ。陳宮は荒れるだけでも、今度は荀彧の方が嫌気がさして出ていくのではないか。

 夏侯惇が顔をしかめたのを見たのか、曹操は安心しろ、と言った。

「お前の憂えていることは俺が何とかする。気にするな」

「……そう、だな」

 人が多くなれば、軋轢も起こる。しようのないことだ。主たる曹操がなんとかすると言っているのだから、これ以上は自分の領分ではない。

「俺は俺で、戦のことだけ考えていよう」

「それは困るぞ。お前はわが軍の数少ない良心だからな」

 曹操がおどけて言う。それに、夏侯惇もふざけて大仰にあきれて見せた。

「なんだそれは、俺はそんなもの請け負った気はないからな!」

 それを見て、周囲の従弟たちが笑う。同じように笑いながら、夏侯惇はそれでも明日からのことを考えられずにはいられなかった。




 翌日、荀彧は久々にちゃんとした寝床で目が覚めた。

 あまりに寝心地がよかったせいか、気づけばもう日は高い。慌てて起き出すと、ほどなくして妻がやってきた。

「あなた、お目覚めになりましたのね」

「なぜ起こしてくれなかったのだ」

「まあ、昨夜、今日は出仕せずともよいからとおっしゃっておられましたのに」

「それはそうだが」

 彼女の手を借りて着替え、髪を結ってもらおうと荀彧は座った。冷たい妻の指が時折首筋に触れるのが、なんとも懐かしい。ここしばらくは自分でやっていたので、久々に帰ってきたという実感が沸く。

 荀彧はその後何通か手紙を書いてから、独り街へとでかけた。東武陽にやってきてこの方、働き詰めで街を見て回ったことなど一度もなかった。

 街を見ていると、また思いつくことがある。機会があれば曹操に話して、試してみたい。

 ごく自然にそう感じ、荀彧は苦笑した。

 恵まれていることだと思う。思ったことをすぐに主君に伝えることができ、しかも多くの場合すぐに試してみてもよいと言われる。曹操の鷹揚さ、行動力があってこそだ。

 男として、主君の信頼を得て思う存分仕事ができる。これ以上の喜びはないと思う。

 荀彧が来るまでは、陳宮もまた同じような喜びを味わっていたのに違いない。そう思えば彼が荒れるのもわからないではないのだが、明日からを思うと暗い気持ちになった。

「文若殿」

 なんとはなしに城壁の近くまで歩いてくると、上から聞こえてくる声があった。見上げると、初夏のまばゆい日差しを背に、誰かがこちらを見下ろしているのが見えた。

「文若殿だろう? どうした、今日は休みではなかったのか?」

 声から、夏侯惇とわかる。荀彧は手をかざしながら見上げ、返事をした。

「はい。せっかくお休みをいただいたので街を隅々まで歩いてみようと思いまして」

 半ば怒鳴るかのように大声を張り上げたつもりだったが、うまく声が届かなかったようだ。そちらにいく、という夏侯惇の声が聞こえ、ほどなくして彼は城壁の下へとやってきた。

「すみません、お仕事中ですのに」

「いや、いい。俺も今日は休みのようなものだ。孟徳が、今日は一日兵を休ませてやれというので、暇だから見回りをしていた」

「そうだったのですね」

「で? 文若殿はどうしたのだ?」

「私もせっかくお休みをいただいたので、これを機に街を歩いてみようと思いまして。今まで、府にこもりきりでゆっくり見て回る暇などありませんでしたので」

「ああ、なるほど」

 夏侯惇は少し考え、上を指さした。

「登ってみるか?」




 城壁の上は燦々と日が降り注ぎ、軽く頬を撫でる風が心地よい。夏侯惇と並んで城壁を歩きながら、荀彧はしみじみと眼下に広がる景色を眺めた。

「籠城していた時、何度か城壁には登ったのですが、当時は気が気ではなくて」

 苦笑して、城壁の端に腕をつく。城壁の端には人の胸の高さほどの壁があった。そこにもたれかかり、城壁の外を見る。今はもう、悠然とした景色が広がるだけだ。

「こんなに美しい景色だったとは」

 しみじみ荀彧が言うと、夏侯惇が笑った。

「さすがの文若殿も、籠城の最中は景色を楽しむ余裕などなかったようだな」

 あまりにおかしそうに笑われ、荀彧は決まりが悪くなった。どう答えていいかわからず苦笑を返す。

「いや、すまん。普段の落ち着き払った様子から、慌てるところがどうも想像できなくてな」

「わたしはそんなに普段顔色を変えないのでしょうか?」

「そうだな。微笑んだりはするが、怒ったり、動揺したりというのはあまりせんだろう?」

 本人には自覚がない。荀彧が眉をひそめ拳を口許にあてると、夏侯惇はまたたまらないとばかりに笑い出した。

「いや、別にそれが悪いわけではない。やたら喚き散らすよりはずっといいだろう」

「そんなことをしていたら周囲から信頼をいただけないと思いますが」

「そうだ。……だから、陳軍師は苦労している」

 先ほどまで笑いながら話していたのに、夏侯惇の声は急に低くなった。驚いて見上げると、夏侯惇は軽くため息をつく。

「陳軍師はやってきてから、割に怒っていることが多くてな。彼が来るまでは我ら親族が軍を取りまとめることが多かったのだが、陳軍師は我らも下風に見る。俺はそんなものかと思ったが、他の奴らは陳軍師の態度が気に入らんという奴もいてな。まあ、もめたもめた。陳軍師が実績を出すまで、それはもう、俺は毎日あっちを立て、こっちを立て、頭の痛い日々を過ごしたものだ」

「大変だったのですね」

 荀彧はそう武将たちと親しいわけではないのだが、曹操の親族の武将たちとは何度か話すことがあった。夏侯淵も曹仁も曹洪も、程度の差はあれ気の強い男で、むやみに人に命令されるのは好まないだろう。ましてそれがやってきたばかりの頭でっかちの軍師ならなおさらだ。武将のように、剣でもって戦えればまた違うのかもしれないが。

「ですが、今はそうではない。となれば、陳軍師は皆さんをちゃんと納得させたのですね」

「半分は、そうだ。もう半分は孟徳がそうさせた。武将だけで勝つには難しいことも増えてくる。軍師は重要だ、とな。実際、陳軍師は戦場でもなかなかうまくやった。だが、いくら頭ではわかっても、心まではそう簡単にはいかん」

 また、ため息。

「今朝から、陳軍師は荒れている」

「……でしょうね」

「それを、従弟どもは喜んでいる。これもまた、俺には頭の痛い話だ」

 そこまで言って、夏侯惇はじっと荀彧を見つめてきた。彼が何の意図をもってこんな話をしたのか、わからないわけではない。

「わたしは、陳軍師の地位にとって代わろうとは思っていません。籠城の最中、陳軍師の指揮を拝見しましたが、あれと同じことができるかと言われたら、難しかったと思います。わたしもまた、陳軍師が殿に重用されるのがなぜなのかわかっています。ですから」

「いや、お前を責めるつもりではないのだ。ただ、向こうはそうではない。そして、俺も、孟徳も、どちらにも欠けてもらっては困るのだ」

「無論です」

「ではなぜ、策のことを陳軍師に言わなかったのだ?」

 痛いところを突かれ、荀彧はすっと夏侯惇から目をそらした。

「……正直なところ、相当迷いました。わたしはあれを罠と見ましたが、陳軍師は全くそうは見ておられませんでした。となれば、殿も私の言を用いられるかわかりません。戦の経験に長けた方には罠と見えないのであれば、経験のないわたしの言など場を乱すだけ。仮に申し上げたとしても陳軍師に勝手なことをしたと怒られただけでしょう。籠城の最中、わたしたちがもめているのを見れば、兵たちはどう思うでしょうか? それに……」

 荀彧は言葉を切り、自嘲気味に笑って顔を伏せ、夏侯惇から目をそらした。

「いえ、これは見苦しい言い訳にすぎませんね。……わたしもまた、あの陳軍師の剣幕がどうしても好きになれない。それだけのことかもしれません」

 荀彧は拱手し、夏侯惇に深く頭を下げた。

「ご迷惑をおかけし、申し訳ありません。折を見て、陳軍師には謝って参ります。このままでは陳軍師からますます信を得られないのは自覚しています」

「気苦労をかけてすまんな」

「そんな。わたしのことは、身から出た錆です。元譲殿の心配事を増やしてしまい、申し訳ありません。あなたのそのようなお心遣いが、全軍を影で支えているのでしょうね」

「そんなわけがない。これはただの老婆心だ。悪かったな」

 そのまま夏侯惇と城壁を一周し、その途中、視界に入った施設について夏侯惇から色々と情報を得た。

「お忙しい中、ありがとうございました。歩いてみると新たに見えてくるものも多いですね。元譲殿に教えていただいたおかげで、また殿に新しいご提案ができそうです」

「それは何よりだ。こちらもお前のような頭の回転が速い奴と話していると妙に心地いい。孟徳がお前と話すと時を忘れると言っていたのがわかった気がする」

「そんな、恐れ多いことです。それでは」

 そう言って頭を下げた時、そういえば、と夏侯惇が言った。

「明日府に出れば聞くだろうが、先に言っておく。今、どうも劉岱が黄巾賊に手こずっているらしくてな」

 劉岱は兗州刺史だ。戦っているという黄巾賊とは、百万にも上るという青洲黄巾賊だろう。

「じき、援軍要請がくるかもしれん」

「好機ですね」

 荀彧の言葉に、夏侯惇は意外そうに目を丸くした。

「お前も、同じことを言うのだな。陳軍師も同じことを言ってな、今朝からばたばたと動き回っている。これを機に劉岱から兗州刺史の座を奪い取ろうと思っているらしい」

「わたしもそれがよろしいかと思います。援軍として黄巾賊を討伐できれば、劉岱殿も嫌な顔はいたしますまい」

「さらりと言うな。戦うこっちは賊徒百万と聞いてどうしたものかと思っておると言うのに」

 そう言いながら、夏侯惇は笑っている。黒山の賊もそうだが、曹操軍は常に寡兵の戦いだ。慣れているのかもしれない。

「百万と言っても、それは女子供も含んだ数、しかも多少誇張された数なのではないかと思います。兵士は多くて三十万というところでしょう」

「それでも、こちらの十倍だ」

「それは、そうなのですけど。殿は、なんとかするとおっしゃっておられましたが」

「文若殿、覚えておけ。あいつは大抵のことはそう言う」

 夏侯惇の言葉に、荀彧は思わず笑ってしまった。曹操はそうやって、無茶な戦いでも勝利を収めてきたのかもしれない。

「そのような方だから、私は主と仰ごうと決めたのですよ、元譲殿」

 荀彧が言うと、夏侯惇もまた、肩をすくめながら笑った。




 家に帰ると、長安から書簡が届いていた。さっとそれに目を通し、すぐに府へと向かう。

 幸い陳宮とすれ違うことなく曹操の下へと来ることができた。目通りを願い出ると、すぐに曹操の前に通された。

「どうした? 何かあったのか」

「長安より、報せが参りました。董卓が死んだそうです」

「何?」

 荀彧は進み出て、長安から送られてきた書簡を曹操に見せた。董卓は政権を握った際何人か清流派の人士を登用しており、その中でまだ長安に残っている一人からの書簡だった。

「呂布が王允殿と共謀して暗殺したそうです」

「そのようだな。しかし……」

 曹操はさっと竹簡に目を通した後、顔をしかめた。

「我が手の者は何をしておるのだ。こんなごく普通の手紙が届いておると言うのに、俺のところに連絡が来んとは」

「現地は混乱しているのではないでしょうか? そちらはわたしが親しくしている方からのもので、その方は帝の近くにお仕えしておられる方。外からでは混乱がよくわからなかったのかもしれません。じき殿の下にも連絡が届きましょう」

「そうでなくては困る」

 曹操は一つため息をつき、しばらく考える様子を見せた。

「しかしそうなると、王允が朝廷を抑え、呂布がうまく董卓軍を掌握し、王允と結ぶとなれば、状況が変わってくるな」

 荀彧は曹操の言葉に軽く首を振った。

「おそらく、そう事は簡単にはまいりますまい」

「そうか?」

「はい。長安の人士は董卓の横暴な所業に嫌気がさしておりましょう。仮に呂布が董卓配下をうまく掌握できたとしても、彼らが董卓の威を笠に着て略奪を働いていたのは紛れもない事実。王允殿は噂ではなかなかの硬骨漢と聞きますし、いくら董卓が死んだとはいえ、その将兵たちに罪がないと簡単に許せるものかどうか。また、許したところで兵士たちは略奪で散々甘い汁を吸ってきたはずで、それを突然やめられないのではないでしょうか。董卓軍の軍紀がいいとは聞いたことがありません」

「なるほど、確かにな」

「また、呂布は名だたる武将ではありますが、董卓には娘婿の牛輔などもいます。彼らが簡単に呂布に従うとも思えません。王允殿とすればなんとか軍を手に入れたいところでしょうが、気の荒い涼州兵が易々と朝廷に膝を屈するかも疑問です」

「ふむ、となれば、しばらく混乱は続くか」

「おそらくは。混乱の最中、陛下の御身に害が及ばねばいいのですが」

 荀彧はきゅっと口を曳き結び、瞑目した。帝を擁するにはまたとない好機だが、今の曹操軍にはそれは不可能だ。董卓が死ぬのが早すぎる。

「お前の言っていた通りになったな、文若」

 曹操の声に目を開く。彼は嬉しそうに荀彧を見上げていた。

「董卓は早晩自滅するだろうと言っていただろう?」

「はい。ですが、わたしが思っていたより随分早く死んでしまいました。もうあと数年遅ければ……」

「予州を制し、帝を助けに行けた、か?」

「はい」

 このことは、何度か曹操と話したことがあった。董卓は早晩自滅するだろうから、その隙に皇帝を助けに行き、曹操の庇護下に置く。そうすれば大義を手に入れることができ、天下に号令することができる、と。

「幸いにして、今長安まで行って帝を保護しようなどという群雄はないでしょう。誰しもが、帝に手を出すことは董卓のように逆賊のそしりを受けることになると考えるでしょうから。こうなれば、しばらくは董卓の残党たちにせいぜい相争ってもらわなければ。巻き込まれる陛下には大変申し訳なく思うのですが……」

 ふむ、とだけ言い、曹操はあごひげをさすっていた。

 この話をするとき、いつも曹操の反応は微妙だった。大義を手に入れることにはもちろん乗り気だが、やはり彼も董卓のように逆賊のそしりを受けるのではないかと思っているのかもしれない。

「袁紹は動くか?」

「動きますまい。かの方は、火中の栗を拾うだけの能がありません。ましてや劉虞殿を帝に立てようとなどなさっておられた方。今上陛下には興味もありますまい」

「痛烈だな」

「先も申し上げました。袁紹殿に天下を獲る能がないと思ったから、私は殿の下へと参ったのです。そもそも、勝手に帝を挿げ替えようなどと思うところが愚かです。董卓のようなとんでもない逆賊がしたことであれば、愚者のしたことよとあきれるだけで済みますが、四世三公を輩出した袁家がするとなれば話は全く違います。時の権力者の恣意によって簡単に帝を挿げ替えられるなどという前例を作ってしまったら、それこそ漢王室の権威は地に落ちようというもの。袁紹殿のしておられることは、漢王朝を滅ぼそうとしていることに相違ありません。しかも、それをわかってやるならともかく、あの方はそのようなことにはまったく考えが至っておられぬのでしょう。浅はかすぎます」

 荀彧が吐き捨てると、曹操もそうだな、と言いながら苦笑した。

「ひとまず、長安のことはしばらく様子を探らせよう。差し当たっては、劉岱だな。もう数日も持たんのではないかと言う話だ」

「そんなに、ですか?」

「うむ。部下がむやみに打って出るなと言ったのを無視して打って出たそうだ。相当旗色は悪いに違いない。お、噂をすれば」

 言い終わらないうちに、ばたばたと回廊を走って近づいてくる足音が聞こえてきた。しばらくすると室の外から声が響く。

「ご報告です!」

「入れ」

 伝令の兵が入ってきて曹操の前で膝をついた。

「兗州刺史劉岱殿、青洲黄巾賊との戦いで討ち死。また、配下の鮑信殿が来られ、面会を求めておられます」

「鮑信が、だと? 通せ」

 ばたばたと伝令が走っていく。すぐに荀彧は曹操の脇に控えた。

「済北国相自ら足を運ばれるとは……」

 鮑信は、済北国の相だ。それが、わざわざ曹操に救援を求めるために自らやってくるとは。荀彧がつぶやくと、曹操は椅子に座りながら言う。

「鮑信とは多少親交があってな。反董卓の時、俺が兵を出す時に共に兵を出してくれた。その後も、袁紹が河北を制しそうなのを見て、俺に河南を治めてほしいなどとよく言っていた」

「そうだったのですね。となれば……」

「大方、救援の要請と共に、兗州牧にでもなってくれと言ってくるだろう」

「では、諸郡に根回しを」

「それは陳宮に任せてある」

「すでに、ですか?」

 劉岱が死ぬ前から動いたと言うことか。荀彧が見つめると、曹操はうなずいて見せた。

「ああ。あいつは兗州では名の通った名士でな、顔が利く。まず、劉岱に援軍を申し出、その後各郡に根回しして俺を兗州牧に推挙させる、という予定だった。おそらく陳宮は鮑信と渡りをつけているのではないか。今頃他の太守に根回しをしているころだろう」

「では、救援はどうなさいますか? 根回しが済むまで待たれますか」

「いや、それでは遅かろう。明日にでも出立だ」

「殿、それでは、此度は途中までわたしも同行させていただけませんか。戦場でお役に立てるかはわかりませんが」

「いいぞ。俺も一度お前を戦場に連れて行ってみたいと思っていたところだ。しかし、お前から言い出すとは思わなかったな」

「実は、東阿に知り合いがいるのです。程立殿と言い、かつては軍を率い、賊徒と戦ったこともあるとおっしゃっていました。彼もまた兗州の名士。青州黄巾賊と戦うに有利になることもあるでしょう」

「ほう、それは。武将か?」

「いえ、文人です。でも兵を率いることはできるようで。劉岱殿の仕官の誘いを断ったと言っていたので、何度かこちらに来ないかと手紙を出したのですが、その度にはぐらかされてしまっていまして。これを機に、会って話ができればと」

「それは、ぜひ俺も会ってみたいものだ」

「あと、もう一人」

 もう一人はまだ可能性の域を出ない。荀彧は続けるか少し迷ってから、言葉を継いだ。

「潁川が襲撃された時、どうも何人かが賊徒に身を投じたようなのです。その中の一人が、どうやら青州黄巾賊にいるらしく……」

「知り合いなのか?」

「はい。もしその方が青州黄巾賊を率いているとなると、厄介です。彼は、私の知る限り、最も古今の兵法書に精通している方ですから」

「ほう、それはまた……。ぜひとも会ってみたいものよ。名は何というのだ? 武将か?」

 俺よりもか、と曹操は言いたいのかもしれない。曹操もまた、孫子にはかなり造詣が深い。

「彼もまた、文人です。陰者と言った方がいいかもしれません。どこにも仕官するつもりはないとおっしゃっていましたから。名は戯志才殿と言い、私と同じ潁川の出身です」

「そうか。潁川は実に智者が多い。俄然、楽しみになってきたな」

 すっと細められた曹操の目は、嬉しそうでもあり、どこか獣が獲物を見つけたような楽し気な色も浮かんでいた。


殿の名誉のためにひとつ懺悔しておきます。正史では黒山の賊の策を見抜いたのは殿の方です。わかっててやりました、申し訳ない。書いててこれは籠城側でも気づくんじゃ?と思ったんですけど、冷静に考えると籠城でてんぱったら気づかないかな。寛大な心でご覧ください。

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