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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
4.潁川平定
49/64

49:<郭嘉編>潁川平定3

潁川平定続き。許周辺の鎮撫を終え、郭嘉は陽翟へ。その晩、賊徒から夜襲を受ける。

 陽翟へ向かう道中にある潁陰はすんなりと曹操の支配を受け入れた。こちらも荀家の故地だそうで、元々荀彧がそれとなく手を回していたようだ。

 潁陰で一泊し、翌日陽翟に到着した。道中何度か賊徒に襲われたが、問題なくやり過ごした。ただ、装備が貧弱な割に、戦い方はそれなりに統率がとれている。やはり上で指揮する者がいるのだろうと思えた。

「あー、すごい久しぶり」

 陽翟の門を前にして、郭嘉は思わずつぶやいていた。

 戻ってきたのは何年ぶりだろう。最後にここを出た時は、すぐに帰ってくるつもりだったのに。

 ふと、母親の影が脳裏をよぎって、郭嘉は慌てて頭を振り、それを振り払った。

「お待ちしておりました」

 先ぶれを出してあったからか、城門近くでは今陽翟を治めている数人が出迎えた。夏侯惇と曹昂が彼らと話し合い、中へと進んでいく。おそらく、ここも許や潁陰と同じようにすんなり曹操軍を受け入れるだろう。

「大丈夫そうだから、俺、実家の様子見てくるよ」

「えっ」

 郭嘉は府に入る前に曹昂に断りを入れると、静を連れて実家へと向かった。

 街並みは最後に見たものとさほど変わらない。かつて王都だったことのあるこの街は、今も昔も古い建物が入り乱れている。略奪で多少破壊されたとはいえ、入り組んだ道も、古ぼけた建物も簡単に変わるものでもない。ただし、許に比べれば人通りも多く、商店も開いているところが多い。まだ都市らしい活気は感じられた。

 実家にたどり着くと、そこもまた以前とほとんど変わりない様子だった。

「若!」

 門をくぐると、番頭が飛んできた。

「若、ご無事で! いや、日に焼けて、随分健康そうに……!」

 泣き出さんばかりの勢いで言われ、郭嘉は苦笑した。

「いやいいよ、そういうのは。手紙でも言ったけど、俺今、曹操軍で軍師してるんだ。蔵に穀があるって言ってたよな? それ、出してほしいんだけど」

「わかりました。しかし、タダでというのは……」

「ああ、それは大丈夫。きちんと買い取ってくれるってさ。後で計量の官吏と兵士連れてくるから、運び出す算段で」

「かしこまりました。にしても、ご立派になられて。静も、若のお役に立てておりますか」

 番頭に目を向けられ、静はつまらなそうにうなずいていた。番頭は静の父で、郭嘉からすると母の兄だ。

「まあ、それはいつも通り。濮陽ではこいつのおかげで生き延びたようなもんだし」

 郭嘉が目を向けると、静が恥じたように目をそらす。番頭はそれにしみじみとうなずいていた。

「それはようございました。こいつが無駄に剣術ばかりやっていたことも役に立ちましたな。多少、事情は聞きました。杏のことは残念ですが、若が生きていてくださってなにより。いや、というよりもう若ではございませんね。元々は我が燕家を継いで家僕をまとめてもらおうと『若』とお呼びしておりましたが、主家の嫡流の二人が亡くなった以上、もはや郭家の跡取りがあなたなのですから。これからは、旦那様と」

「いや、俺後継ぐつもりは」

「何をおっしゃいます! 主家が途絶えてしまっては、我らはどうしたらいいというのですか! このお邸! 広大な荘園にある田畑! その小作とてあなたなしでは立ち行かないのですよ!」

「いや、そう言われても」

「かくなる上は早々に花嫁を迎え入れ、跡継ぎを」

「あー、もう、だからそういのが嫌なんだって!」

「嫌と言われても、旦那様。これは」

「いや、もういい! そこはまた今度! 俺は用事あってここに来たんだよ。なあ、隠密できる奴、何人かいる? 静だけじゃ足りなくてさ」

 番頭はまだ言い足りないようだったが、しようがないとばかり嘆息した。

「まあ、いいでしょう。跡継ぎの件は追々。手足が足りないというのは、手紙でもおっしゃっておいででしたね。しかし、我が家の隠密の半分は杏が濮陽へ連れて行っていたのですよ。元々の数が多くないので、せいぜいで今呼び出せるのはほんの数人ですが、それでもよろしければ」

「何人残ってるんだ?」

「正直申し上げて、隠密の能力のある者というと、私を含めても十人もおりません。しかも皆別の仕事もしておりますゆえ。荘園の方では賊徒になめられぬよう部曲と協力して警備もせねばなりませんし、そのためには賊徒への諜報も欠かせません。なんとかやりくりしてもせいぜいで二・三人というところでしょう」

「数を増やすのは?」

「そう簡単にはできません。心身ともに壮健な者を選び、仕込むのに最低五年。しかも全員が物になるとは限りません。よそから雇ってくるにしても大金がかかる上、どこまで信頼できるかという話にもなりますので。まあ、あの倉の一万石、すべて金に換えていただければ多少の元手にはなりますが」

「ふーん、まあ、そうだよな」

「あと、覚えておいていただきたいのは、我らはあくまで商家の隠密です。情報収集などはある程度実績がありますが、政治的、軍事的にも役立つような隠密と言うともっと別のことも必要になるでしょう? 暗殺だとか、計略を成すために誰かを陥れるだとか。そういったことには慣れておりませんので、どこまでお役に立てるか。まあ、それはこれから静に仕込ませるというのも手段としてはありですが」

「なんで私が」

 静が言うと、番頭はすぐに切り返した。

「いい機会だ。お前も少しは学べ。後で三人お前のところにやるから好きに使え。一通りのことは仕込んであるが、それほど腕は立たない。剣を仕込むなりなんなりして、若のご希望通りの隠密になるように仕立て上げろ」

「な、そんな暇」

「暇とは作るものだぞ、静。では、旦那様。私は穀をお渡しする準備をしてまいります。もし後日時間があれば、帳簿の確認などしていたければとも思いますが」

「帳簿の、確認?」

「この間の収支の報告です。前は杏に見せておりましたが、今主家でお願いできるとなると、旦那様しか」

「いや、俺そんなのさっぱりわかんないけど」

 郭嘉がそう言うと、番頭はにこりと笑った。

「では、早々に賢い花嫁か側妾をお迎えになられることです。亡きあなたのお父君も、そうやって杏に任せていたわけですからね」

 言うだけ言うと、番頭はにっこりと笑ったまま行ってしまった。

 残された郭嘉は腕を組む。自然とため息が漏れた。

「めんどくさ。いっそ戻って来ない方がよかったかな」

「同感です」

 静と二人で目を合わせると、図らずももう一度、ため息がこぼれた。




 ぱちり、と盤に駒を置く音が響く。

 郭嘉は頭の隅で今曹昂が置いた駒は失着だと思いながら、同時に今後のことを考えていた。

 昼聞いた限りでは、陽翟の周辺には二つの賊徒の集団がせめぎあっているらしい。どちらをどう攻めるか。それを考えるにも情報が少なすぎる。

 今手元にある情報で確かなものは、家僕が穀のやり取りをしていた際に手に入れている情報だけだ。潁川に来る時、曹昂が曹操から預けられたという間諜が十人いて、今彼らも情報収集に向かわせていた。

 盤面を睨んだまま思索にふけっていると、曹昂に見つめられていることに気づいた。苦笑して、郭嘉も駒を盤の上に置く。

「すみません、ぼうっとしてて」

「いえ、気にしないでください」

 曹昂は、郭嘉が半分上の空なこともわかっている。それでいて、怒りもしなければ誘うのをやめたりもしない。おおらかといっていいのか、曹昂はそういうところがあった。

 潁川の部隊に加わって以来、郭嘉は曹昂と過ごすことが増えていた。

 最初は彼が軍略を教えてほしいと言ってきたのがきっかけだった。その延長でたまに彼と将棋をするようになった。将棋の駒は戦を模して作られていて、いい勉強になるのだ。

 曹昂は正直将棋も碁も強くない。ただ、それだけに郭嘉は考え事をしながら相手をしても十分で、郭嘉にとってはいい気分転換の場になっていた。曹操と盤面に向き合っていると気が抜けないので疲れることもあるが、曹昂相手ならそんなこともない。

「こちらに来たのは西から賊徒を抑えようという意図なんですよね?」

 駒を打ち返しながら、曹昂が言う。またその位置がよくないことに郭嘉は気づいていたが、指摘はしない。

「そうです。許は汝南との境界にも近くて、あっちの賊は汝南から来てるらしいことも掴めました。ただ、汝南は袁家の影響が強い。下手に手を出すと袁術と正面衝突になるんで、ちょっと。その点、西ならそういうのはないかなって」

「でも、こちらの賊も他の勢力と結んでいるという可能性もあるんじゃないですか? ここだったら南陽も近いですし、劉表とか。あと、洛陽近辺には白波という賊徒がたむろっているとか。そういう連中も一枚かんでいるとすると、西から抑えるのも大変では」

「うーん、まあ、なくはないですよね。ただ、劉表はそこまで積極的に攻めてこないと思うんですよね。劉表は袁紹と結んでるし、今のところ、殿は袁紹とは対立してません。兗州のごたごたの時袁紹が殿に味方したところからしても、多分、今はそんな手を出してこないんじゃないかな。洛陽の白波は、それこそこっちまで手を出しては来ないと思いますよ。賊徒が洛陽からここまで手を伸ばそうなんてなかなか。よっぽど食うに困ってたらわかりませんけど」

「なるほど」

「なんにせよ、今は情報が少なすぎる。ただ、ウチの家僕が何儀っていう賊徒の連中と取引して畑を守ってたみたいで、毎月一日に穀を取りにくるって話ですから、そこに付け入る隙はあるかなって思ってるんですけど」

「待ち伏せて討つってことですか?」

「うーん。それか、交渉するか」

 穀を取りに来るとしても下っ端だろうから、それを端緒に賊徒を殲滅というのは難しいだろう。ただ、賊徒も賊徒でいずれ曹操軍に気づいて身の振り方を考えるはずだ。家僕が言うには、何儀の集団はそこまで荒っぽくはないそうなので、もしかしたら交渉の余地はあるかもしれない。

「月が替わるまで、あと数日あります。だから、それまでに賊徒を攻めるってのも、手は手かな。何儀がどの辺にいるかは、家僕が掴んでたんで」

「えっ、じゃあ」

「で、子修殿」

 勢い込んで顔を上げた曹昂に、郭嘉はにこりと笑って盤面を指した。

「二手前からやり直しましょうか。このまま続けても、俺あと二十手くらいで勝っちゃうから」

「えっ!?」




 戌の時の前に、曹昂との対局は終わった。というより、曹昂が終わりだ、と言った。彼はいつもそうで、おそらく郭嘉を寝させろと曹操に言われているのだろう。

 なんとなく流れで府の中に部屋を与えられてしまったのでそのまま寝るつもりだったが、どうも郭嘉は落ち着かなかった。

 思考がまとまらないせいもある。情報が少ないので、想定するべきことも多い。しかし何より、静かな府の客間が落ち着かなかった。

 ここしばらくずっと軍の陣営にいたせいだろうか。陣中では夜でも哨戒の足音がしたり交代の声が聞こえたりと、完全な静寂は長くは続かない。それなのに、今ここで聞こえてくるのは風の音だけだ。

 ――俺が陣営に残るって言えばよかったな。

 今城外の陣営に残っているのは夏侯惇だった。

 結局起き出して回廊に出た。ただでさえ寒かったのに、部屋を一歩出ると空気が肌を刺すようだ。思わず体を両手で抱くと、背中に上着をかけてくる者がいた。静だ。

「なんだよ、お前も起きてたのか」

「旦那様が起き出したか――」

「だーかーらっ! その旦那様はやめろっつったろ」

 このやり取りももう何度目かだ。昼から散々言っているが、静はかたくなに「旦那様」をやめようとはしなかった。

 睨みつけると、静がさっと目をそらす。彼もまた、本意ではないのかもしれない。

「……ですけど、父がうるさいですし」

「今はいないだろ」

「まあ、それは」

「つーか、お前に『旦那様』とか呼ばれるの気持ち悪いよ」

「じゃあ殿とでも呼びますか? 奴婢が主を呼ぶならそれでも」

「やだよ」

「…………では、どうしろと。いつまでも若というわけにもいきませんよ。今はまだいいですけど、三十路を過ぎても『若』はないでしょう」

「んー、俺そこまで長生きするかな?」

「縁起でもないことを言うのはやめてください」

 不満げに、じっとり睨んでくる。本気で心配しているのがわかるので、こう言われてしまうと郭嘉も弱い。

「じゃあ、奉孝でいいよ。別に問題ないよな? 字で」

「……かしこまりました。では、奉孝様。風邪をひく前にお部屋に戻られますように」

 肩にかけられた袍の上から、静がなだめるように郭嘉の肩に手を置く。それを肩を振って振り払い、郭嘉は回廊を歩き始めた。

「寝られないんだからしようがないだろ。少し散歩したら戻るよ」

「風邪ひきますよ」

「しないしない。最近ぶっ倒れてないし」

「そんなことを言ってるとまた倒れそうなのでやめてください」

 静の言葉に笑って返し、郭嘉はそのまま回廊を歩いた。

 守兵が少ないせいか、城内では見回りの兵ともすれ違うことはなかった。城内に泊ったのは郭嘉と曹昂だけだが、一応護衛の兵が百人ほどいるからさほどのことはないだろう。ただ、長い目で見れば衛兵がほとんどいないというのも問題だ。

 ――この辺もきちんとしなきゃかなぁ。

 本来ならそういうことは荀彧あたりにお願いしたいところだが。

 そのまま回廊を渡り、なんとなく高楼に上った。静まり返った街の向こうに、ぽつぽつと篝火のともった陣営が見える。

「なんか、殿の言ってたの、わかる気がするな」

「何を、ですか?」

「殿が、眠れないって言ってた時に、『戦場に行くと案外寝られたりする』って言ってたんだ。あの時はそんなもんかなって思ったけど、なんか、わかるなって。ここ、なんか静かすぎてさ」

「仕事中毒ですか」

 呆れたような声が帰ってきて、郭嘉は思わず笑った。

「そうかもな。戦が楽しくて……。不思議だよな。戦始まる前は色々考えてイライラしたりすることもあるってのに――って、あれ」

 遠く見えていた陣営の端で、突然何かが光った。夜の闇の中に赤い光の点が、ひとつ、ふたつと徐々に広がっていく。暗くてよく見えないが、これは失火ではないだろう。

「まさか、夜襲か? おい、戻るぞ」

 走り出すと、かしこまりました、と言って静がついてくる。

 賊徒が先手を打って攻めてくるかもしれない。

 それは考えてはいた。ただ、今日ではないだろうと高をくくっていた。

 ――今日着いて、その夜襲撃ってことは、それだけの情報網があるってことか。あと、アジトはそう遠くないってことにもなる。

 どうすべきか、また頭の中で与えられた情報と手札が飛び回る。頭が回り始めるのと同時に、郭嘉の心はまた、不安と妙な高揚感が入り乱れていた。

 脳裏に曹操の言葉が浮かぶ。そして彼が、笑っていたことも。

「やる気満々だな。ここは殿を見習って、面白いって言っとくべきか?」

 動揺しそうな己を感じ、郭嘉はあえて声に出して己を叱咤した。

 曹昂を起こすように護衛の兵に指示を出し、一度部屋に戻って着替えた。

 準備を終えて府の入り口に着いた頃には、すでに城外の陣営にいる夏侯惇から伝令がやってきていた。

「郭軍師! 夏侯惇様から伝令です。外の陣営が襲撃を受けております」

「それは見えた。状況は? あと、敵の数」

「状況はそこまで深刻ではありません。見張りの兵が夜襲直前に気づいて、火をかけられましたが延焼はさほどではありません。敵兵の数もそう多くなく、おそらく半時もあれば落ち着くだろうと」

「敵兵の数が大したことない? って、どのくらいだ?」

「暗くてはっきりとは見えませんが、千いるかいないかくらいではないかと」

「千?」

 曹操軍は一万率いてきている。そこに千人程度で夜襲をかけて勝てるはずがないことくらい、賊徒だってわかっているはずだ。まして彼らは総勢数万だという。たった千で成功するはずのない夜襲をかけることに意味があるのか。

 郭嘉が腕を組んで考え込み始めると、次いで静が近づいてきて耳打ちした。

「奉孝様、府にいた曹操様の隠密から、気を付けるようにと言ってきました。どうやら通りの物陰や屋根の上に敵方の隠密らしき者が潜んでいると」

「隠密? 何人だ?」

「十人は下らないと」

 それは気をつけろと言いたくもなる。もしそれが刺客だったら一人二人なら暗殺だって可能かもしれない。

「ふーん、なるほどね」

 郭嘉はにやりと笑うと、城内にいた護衛の兵に指示を出した。


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