44:<郭嘉編>嗣子ふたり
定陶で陣容を整えている間に、夏侯惇が妻子を連れて合流した。
定陶に拠点を移すと決めて、半月ほどしたころだった。その日、郭嘉はいつもと同じように曹操の執務室にいた。
「これで陳留は確保、か。が、雍丘とは厄介な」
地図を見ながら曹操がひげをさする。
張超が陳留を追い出されたという情報を得て、曹操も一軍動かして張超の捕獲に動いていた。しかし軍が張超を捕らえる前に、彼は陳留の傍にある雍丘という小さな城市を確保してしまった。元々そこに妻子も移していたというから、最初から戦になったらそこに籠るつもりだったのかもしれない。そうなると、備蓄もそれなりにあると考えざるを得ないだろう。攻城となれば厄介だ。しかも――。
「陳留は漢王朝が成立してからできた城市でな、交通の要衝ということで発展した街だが、その分戦向きではない。孟卓には以前、周囲で戦が激しくなったら雍丘に拠れと言ったことがあった。おそらく、張超は兄の指示に従ったのだろう」
「てことは、雍丘は戦向きなんですね」
「そうだ。元々は古都開封を守るための砦として築かれた城市だからな。規模は小さいが、城壁は高く、防備には文句のつけようのない地形だ。これは手間がかかりそうだ」
陳留は、別動隊として動いた曹仁が確保していた。曹洪が開封までの城市を確保できれば、兗州はほぼ制圧できたことになる。
「陳留は確保したわけですし、雍丘は潁川へ向かう方向とは反対側ですから、いっそ予州先に行きますか? 潁川だけならそんな抵抗はないと思いますね。文若殿も手を回してるみたいだし」
「そうだな。雍丘を攻めつつ、潁川に手を伸ばすか」
その時、室の外から声がかかった。
「殿、鄄城より夏侯惇様が到着なさいました。奥方様お子様方皆そろってお待ちです」
「ああ、到着したんですね」
今日あたり鄄城から夏侯惇が到着するだろう、という報せは来ていた。当然曹操は広間へ向かうだろうと、郭嘉は広げていた竹簡をしまいかけたのだが、曹操がそっけなく言った。
「そうか。夜に宴席を設けるから、それまで休んでおけと伝えろ」
「は、あの……皆様、広間でお待ちでございますが」
「勝手に待つなと言っておけ。私は忙しい。挨拶は夜の宴席でよい」
「は、は……。か、かしこまりました。そのように」
伝えに来た従者は慌てた様子で走っていった。
「行かなくていいんですか? 久々なのに」
「よい。どうせぐだぐだ言われて終わるだけだ。それより、雍丘攻略のための編成を考えるぞ。今開封に子廉の二万、陳留に子孝が一万、俺の直属で青州兵五万。今元譲が一万率いてここに来たことになる。これを――」
言いかけたところで、足早に近づいてくる足音が聞こえ、曹操が言葉を切った。彼が入り口を振り返ったころには、そこにはあきれ顔で腕を組む夏侯惇が立っていた。
「孟徳。来たぞ」
「ああ、元譲。ご苦労だったな。ちょうどいい、お前も加われ。今奉孝と今後の方針を」
「そんなことより、広間へ来い。お前の妻子だけでなく、重臣の妻子も勢ぞろいしてお前に挨拶するのを待っているのだぞ」
「誰がそんなことをしろと言った。夜の宴席でいいと言ったろうが」
「丁氏が、はるばるやってきたのだから重臣の妻子にもお前がねぎらいの言葉をかけるのが当然だろうと」
丁氏というのは、確か曹操の正夫人の名前だったはずだ。しかし、曹操は丁氏という単語を聞いた途端あからさまに顔をしかめた。
「あいつはまた、要らぬことを」
「俺もそうしたほうがいいと思うぞ。皆わけもわからぬまま移動させられ、不安がっている」
「文若はどうした。あいつは妻子を受け入れるために邸の手配などしていただろうが。あいつに説明させればよい」
「とっくにそれは終わっている。それでも皆、お前の顔を見れば安心する。そんなものだ」
それでも気が向かないのか、曹操はむっつり黙り込んだままだ。
夏侯惇と曹操の間に、郭嘉が口を挟めるはずもない。重苦しい沈黙の中、竹簡を手に彼らの会話が終わるのを待つしか郭嘉にはできなかった。
「孟徳。なにをそんな――」
「わたくしと顔を合わせるのがお嫌なのでしょう」
しびれをきらした夏侯惇が言うのと同時に、すっと女性が一人、執務室に入ってきた。
年齢的には四十歳前後というところだろう。ただ、その姿は郭嘉が見てもはっとするほど美しかった。すらりと背が高く、凛とした面差し。白い肌に赤い唇が彩を添える。身に着けている物は決して派手ではないのに、彼女の美しさを引き立たせるようだ。
郭嘉は思わず女性に見とれていた。しかしすぐに女性が郭嘉を見咎め視線を向けてくるのに気づいて、はっと我に返り、顔を伏せた。女性はおそらく、曹操の妻だろうと思ったからだ。
「お久しぶりでございますね、殿。お元気そうで何よりでございます」
「ああ。お前もな。道中つつがなく来られたか」
あれほど行くのを嫌がっていた割に、曹操の声音は落ち着いていた。ただ、なんとなく嫌そうな雰囲気は伝わってくる。
「それはもう、元譲殿が大軍で守ってくださいましたし、道中重臣の方々のご婦人や子息方と交流もできて、全く問題なくこちらまで参りましたわ。ですけれど、中には疲れている方もいらっしゃいます。一言あなたがそれをねぎらうのが、道理というものではございませぬか?」
「夜の宴席でよかろう。俺は今、忙しい」
「偉そうに。重臣の奥方を夜の宴席に侍らすなど、許されるわけがないでしょう。皆、あなたに奥方を取られるのではないかとはらはらして宴どころではなくなると思いますけれど」
「何をふざけたことを。俺がいつ重臣の妻に手を出した」
「あら、気に入った女と見れば見境なしに口説くあなたですもの。十分あり得る話ですわ。道中でも、大変器量のいいご息女をお持ちのお方が、さりげなく娘は疲れているので挨拶の場には遠慮願いたいと仰せでしたわ。あなたの目にでも留まれば困るとお思いなのでしょう」
どこのご令嬢だろう、と郭嘉は思った。ふと脳裏に荀玲の姿が浮かんだが、いくらなんでもあの歳ではあり得ないとは思うのだが。
「たった一言ねぎらいの言葉をかけるだけではありませんか。重臣の奥方たちにあなたが気を遣っていたと思わせることは、重臣の方々の信を得るにも役立つはず。なぜそれがそんなにお嫌なのです」
女性にしては低く落ち着いた声で滔々と言われ、曹操は大きく嘆息してから立ち上がり、そのまま彼女の横をすり抜けてすたすたと広間へと歩いて行った。女性がその後を追う。
顔を伏せたまま二人の足音が遠ざかっていくのを確認して、ようやく郭嘉は顔を上げた。
「びっくりしたー。ちょっときつい感じですけど、すっごい美人ですね。あれが、殿の?」
「そうだ。正夫人の丁娥。まあ、確かに美人は美人だがな。それより、郭軍師。久しぶりだな。大活躍だそうじゃないか」
夏侯惇がにこにこ笑って言ってくる。それに郭嘉は苦笑を返した。
「そんな、大活躍だなんてことは」
「お前が笑っていれば必ず勝つと噂になっていると聞いたぞ。言うこと言うことすべて当たる、と」
「そんなことないですよ。確かに負けてはないですけど、結局呂布は三回も討ち漏らしてますし」
「それは呂布が化け物だというだけのことだ。それでも、お前はかなり呂布の気勢をそぎ、兵に呂布に立ち向かうだけのきっかけを作ったと聞いた。立派なものだ。頼もしいな、郭軍師」
夏侯惇が何度か郭嘉の肩を軽くたたいてくる。それが結構痛いので、郭嘉は思わず身を退いた。
「ちょ、手加減してくださいよ、元譲殿。俺武将の人たちみたいに頑丈じゃないんで」
「ああ、すまんな」
夏侯惇はにこにこ笑って手をひっこめた。
夏侯惇は誰に対してもこんな感じで、厳しいと評判の曹操と対比して、曹操軍の良心と揶揄されているという。兵からも幕僚からも、もちろん曹操からも信頼は厚い。特に苛烈な曹操を抑えられるのは夏侯惇だけとも言われ、その彼が先陣に戻ってきたことは兵の安心感にもつながるだろうと思えた。
「元譲殿、そういえば、どうです? 殿は、あなたの目の調子が戻るまでは元譲殿を前線に出す気はないって言ってたんですけど」
夏侯惇の左目には今、黒い眼帯があった。呂布戦の最中に左目を失った彼を心配して、曹操は彼を後方の守備にあてたのだ。夏侯惇がそう願い出た、とも聞いた。片目で前線で剣を振れるか自信がないと言ったのだという。
「ああ、片目にも随分慣れてな。最初は距離感がつかめず苦労したが、最近はかなり気配も感じられるようになった。兵の指揮ならばそう困ることもないだろう。ただ、呂布のような猛将と矛を交えるとなれば、どうしても不利にはなるだろうが」
「じゃあ、最前線にでなければいいんじゃないですか? 元譲殿がいるだけで兵士の安心感が全然違うって殿が言ってましたよ。最近、殿のすぐ近くの将って妙才殿と子孝殿が中心で、若すぎて重みがないって、殿が。別動隊を預けるのはどうしてもためらってしまうって言ってました」
「あいつらはな、腕は立つのだが……」
夏侯惇がしみじみと嘆息する。
「しばらく後ろにいた分、これからは俺も孟徳の覇道を切り拓くことに尽力するつもりだ。俺も遠慮なく使ってくれよ、郭軍師」
その夜は城内で宴会になった。
といっても、丁夫人の言ったとおり、重臣の妻は宴席には出席していない。普通は宴席に夫人を同席するなど滅多にしないものだ。ただ、代わりにというわけでもないだろうが、幕僚たちは鄄城からやってきた息子を連れて参加している者が多かった。堅苦しくない宴席に息子を連れてくるというのは割によくある話で、男ならそうやって父親の同僚に会うことで品定めされたりすることも多い。士大夫の息子に生まれると、子供のころからそうやって比べられることは避けられないことだ。
――そういや俺も、たまに宴席に連れて行かれたっけなあ。
落ち着きのない兄二人をよそに、どうしたらいいかわからなくてとりあえず父の隣に座っていた記憶だけがある。別にそれで父にほめられることはなかった。ただ、学問の話にうまく答えて、客がほめてくれたのが嬉しかったことだけ、覚えている。
子連れの幕僚たちは、皆傍に子供を置いて話に興じている。子のいない郭嘉は、特に混ざりたいとも思わず末席に座っていた。
ぐるりと座を見回すと、人が多く集まっているのはやはり荀彧の周囲だ。上二人の息子を連れてきたらしい荀彧は、同じように子連れの幕僚たちと楽しそうに話し込んでいた。多分、話題は子育てだ。郭嘉の入る余地なんてない。
ちらと視線を動かすと、曹操のいる上座には満寵以下、新参の幕僚たちがそれぞれ息子を連れて挨拶に行っているようだった。その隣に視線を移すと、おそらく曹操の夫人が二人、子連れで座っている。曹昂の隣に座っている丁夫人はわかるが、小さい子数人を連れた優しげな夫人は誰なのか、郭嘉には分らなかった。
上座にはおそらく曹操の娘だろう少女もいて、曹操としては、夫人や娘を宴席に出席させることに抵抗はないようだ。
ぼんやりと上座を見ていると、ふとそこに座る曹昂と目が合った。彼はにこりと笑うと、盃を持って郭嘉のところまでやってきた。
「郭軍師、よろしければ一献」
「ありがとうございます」
盃を差し出し、酒に口をつける。ようやく先日禁酒令が解除になったばかりで、郭嘉も酒を飲むのは久しぶりだった。
「皆さん子連れだと、独り身としては肩身が狭いですね」
「はは、そうですね。てことは、若君もまだ?」
問うと、曹昂はちょっと困ったように微笑んだ。
「ええ。母上が、相手の家柄にかなりこだわっていまして。然るべき家の娘でなければだめだ、と言い張って、父もそれなら母に任せると。当時は洛陽にいましたし、侍中をしていた母方の伯父が、適当な相手を探してくるという話だったんですけどね」
「洛陽に、って、え? それいつの話です?」
曹操が洛陽にいたころというと、相当前じゃないのか。驚いて問うと、曹昂はまた困ったように微笑んだ。
「十年近く前ですよ。董卓が洛陽に来る前ですから」
「それは……」
曹家の嫡男の縁談が十年放置されているというのは、さすがにどうなのか。
「驚かれるのも無理はありませんが、結局あれから色々ありましたから。父上は董卓に逆らってお尋ね者のようになってしまって、我らも何とか洛陽を逃げ出したはいいものの、父上はその後転戦に次ぐ転戦、伯父上は帝に従って長安に。どちらもかなり大変そうでしたから、私の縁談どころではないのは無理もありません」
「だからって、もう若君も結構な年齢でしょ? そろそろ決めてもいいんじゃ」
それなりの家柄の子息は、大体が十代のうちに親の決めた相手と結婚するものだ。二十歳を過ぎて妻が一人もいない嫡男なんて、曹操くらいの家だったらありえない。
呆れ半分で見つめると、曹昂は小首をかしげ、じっと郭嘉を見つめてきた。
「それは、郭軍師も同じでは? 私より年上ですよね?」
「俺はいいんですよ。別に大した家でもないし」
「でも、跡継ぎなんでしょう? 父上がこのあいだ嘆いていましたよ。『奉孝にやれそうな歳の娘を一人くらい残しておくんだった』って」
「え」
「妙齢の娘が残っていたら、父上は多分、郭軍師に嫁がせたかったんだと思いますよ。残念ながら、今婚約が決まっていない妹は十歳以下ばかりで、あきらめたみたいですけど」
ふふ、と笑う曹昂に、郭嘉は頬がひきつるのを覚えた。
そういえば、少し前に曹操に妻帯はしないのか、と聞かれたことがあったような気がする。面倒だから慌ててするつもりはないと答えたが、まさか曹操がそんなことを考えていたとは思わなかった。
曹操から娘を貰う約束をしている幕僚というと、荀彧と夏侯惇だ。どちらも曹操陣営の中では重鎮中の重鎮だから、曹操が娘を嫁がせようとしても全く不思議はない。しかし新参の郭嘉が曹操から娘をもらうなんて、とんでもない話だ。ただの幕僚と娘婿では立場も違ってくる。
「いや、仮にいたとしても、ありえないですよ」
「父上はそれだけ郭軍師を気に入っているのです。うらやましいですよ。私にも郭軍師のような才があれば、父上の力になれるのに、と」
「そんなこと。俺も、剣持って戦えるだけの体だったらよかったのにって毎日思ってるのに。若君は将として前線で兵を指揮することができる。うらやましい限りです」
「どうでしょう。いくら剣技に長けていても、将として役に立てるかどうかは」
曹昂が自嘲気味に微笑む。
「実際前線に出てみて、思ったほどうまくいかなかったとか、そういうことですか?」
「それは……いえ。もちろん、私は元々自分が父上のような優れた将なのだ、なんてうぬぼれてはいません。自分はいたって凡庸な男ですし、少しずつ将として役に立てればとは思っているのです。ただ、なかなか思うように前線に出してもらえなくて。父上は特別扱いはしないとおっしゃっていましたけど、幕僚の方々はそうではありません。叔父上たちは皆、私を前に出すのを嫌がって、あまり戦う機会がなかったんです。たまに出してもらえたと思ったら、もう絶対に負けないような優勢の状況ばかりで」
「ああ……」
なるほど、曹操がいくら手加減しないと言ったところで、その周囲はなかなかそうも思えないものだろう。曹操の跡継ぎに何かあってはと後ろに下げるというのもわかる気はした。郭嘉だって、実際編成に曹昂が入っていたら最前線で使うのはためらうだろう。
「だからといって、父上に願い出てまで勝てる自信があるかというと……。私は、ちゃんと将としてやっていけるのだろうかと、焦る気持ちが強いんです。その点、郭軍師は私とさして歳も変わらないのにすばらしい知略で、もう充分に活躍しておられる。尊敬です」
「そんな」
てらいのないまっすぐな瞳でそう褒められると、郭嘉はどう返していいかわからなくなってしまった。慌てて否定しても、曹昂はまだ食い下がってくる。
「よろしければ、私に軍略を教えていただけませんか? もちろん、郭軍師もお忙しいとは思うんですけど」
「え、俺でいいんですか? 俺なんかより殿とかの方が」
「父上はそれこそ忙しくて絶対に教えてなんてくれませんよ。それに、郭軍師だと年も近いので、私も構えずにお側にいられると言うか……。駄目でしょうか?」
「いや、駄目では、ないですけど」
「では、ぜひ。あと、一つお願いが。父上の息子はたくさんいるので、若君はやめていただきたいのです。私のことはぜひ子修と呼んでください」
きちんと手を合わせて頭を下げられ、郭嘉は慌ててその手を離させた。
「わかりました。わかりましたからそういうのやめてくださいよ! 俺はあなたの父上の臣下なんだから、子修殿の方がずっと偉いんだし」
「そんなの関係ないですよ。父上は完全な実力主義。父から見れば、役に立たない私より、功著しい郭軍師の方がよほど上です」
「そんなことないですって。ほんと勘弁してくださいよ」
どこまでもへりくだる曹昂に、郭嘉は心底閉口した。どう言い募っても持ち上げてくる。かといって郭嘉は曹昂をよく知らないので、適当に褒めることもできない。
どうにかやめさせようと話し込んでいるうち、別の曹操の族子たちもやってきて座はまた違った盛り上がりを見せた。まだ十代で従軍していない者もいたが、皆戦には興味津々で、郭嘉から話を聞きたがった。群がるように矢継ぎ早に質問され、困る郭嘉を見た曹昂が皆をたしなめる。その様子を見ていると、曹昂が族子たちのよき兄の立場にいるのがよくわかった。
結局一時近く囲まれて飲むうち、郭嘉は飲みすぎてしまったらしい。
次に目が覚めた時はすっかり外は明るく、ついでに鈍い頭痛と吐き気が身の内にくすぶっていた。
「情けない奴だな」
「す、すみません」
朝起きて、なんとか曹操の執務室まで行ったものの、こんな状態では頭もいつもの半分も回らない。竹簡の仕分けは遅々として進まなかった。
「お前は体が弱いのがいかん。今度精の付くものをやるから、その体を何とかしろ」
「なんとかって言われても……」
それでなんとかなるならこんな苦労はしていないと思うのだが。
顔をしかめていると、曹操の面前にいた荀彧がくすくすと笑った。
「殿、仮に精の付くものを取り入れても、その効果が出るのは随分先でしょう。差し当たって奉孝殿への一番の妙薬は休息を充分に取らせることかと」
「そうだな。しようがない、奉孝。昼まで休んで来い」
「ありがとうございます。すみません」
執務室を辞して、まだ頭痛が収まらない頭を抑えながら歩く。とぼとぼと回廊と歩いていると、突然後ろから軽い足音が迫ってきた。それも、かなり早く。
「うぉっ!?」
なんとなく振り返ると、子供が木刀を振りかざしているのが見えた。思わず身構えるが、その木刀は郭嘉に届くより早く、すぐそばを歩いていた静の手に捕らえられた。
「ぐっ……!」
まだ十歳にもならないだろう子供は、両手に渾身の力を込めて木刀を振り落とそうとしている。しかし静は片手でつかんだまま、眉を顰めるだけだ。勝負にもなっていない。
「放せ、無礼者! ぼくが誰か知っての狼藉か!?」
子供の割に、口は達者のようだ。子供は、髪の結い方からして多分男だろうと思ったが、ぱっと見、男か女かと迷うような美少年だった。
なんで子供が、と思ったが、すぐに思い当たった。定陶はあくまで仮住まいなので、曹操の妻子は府の一室に間借りしているのだ。
つまり、この子は曹操の子供だろう。
「初めて見るお顔ですね。名前をお伺いしても?」
嫌味たらしく少し難しい言い回しで言ったのだが、子供はちゃんと理解できたらしい。ふん、と鼻を鳴らし、言った。
「貴様のような下賤の輩に名乗ってやる名などない!」
「お、すごいな。これはなかなか」
鼻っ柱の強さといい、言葉遣いといい、かなり利発だ。じっと見てみると、曹昂とは似ていないから異腹だろう。凛とし面差しの曹昂とは違って、目の前の少年は目もくりくりして、黙っていればさぞかし愛らしいだろうと思う。黙っていれば、だ。
「若」
困った静が見つめてくる。放してやれ、と手を振ると、静が手を離した瞬間、子供はまた木刀を振りかざして郭嘉に向かってきた。
「あっ」
舌打ちした静が再び木刀を掴む。今度、静はそれを力ずくで取り上げると、庭に向かって放り投げた。
「な、何するんだ、僕の木剣だぞ!!」
「……クソガキが」
珍しく静が悪態をつき、子供を蹴り飛ばさん勢いで睨んでいる。郭嘉は慌てて静の腕をつかんだ。
「ちょ、待て待て静、待てって!」
「止めないでください。私にとっては主に危害を加えようとしたただのクソガキですよ!」
「でもこの子、多分殿の子だから!」
「そんなこと――」
「お前ら、許さないからなっ! この僕に狼藉を働いたこと、父上に言いつけてやるっ!」
子供は子供で、まったくへこたれない。静が木刀を取り上げた時に手首でもひねったのか、手首をさすりながら涙目で彼は怒鳴った。
まだ毛を逆立てる静をむりやり自分の後ろに追いやると、郭嘉は少年の前に立ち、上からじっと見下ろした。
「どうぞどうぞご随意に。でも若君、狼藉狼藉って、意味をご存じの上で口にされてるんですよね? 御身のしたことがどのようなことか、ご自覚はおありで? あなたが善良なお方ならば、罪もない臣下に危害を加えるなどあってはならぬことと存じ上げますが」
「ふん、ぼくはお前が父上に気に入られてるのが気に入らないんだっ」
ということは、郭嘉を狙ってきたということだろうか。郭嘉の方には、彼を見かけた気はさっぱりしないのだが。
「おそれながら、ワタクシの名をご存じで?」
「ふん、知らぬとでも思ったか! お前だろうが、父上が毎晩毎晩呼びつけて、懇ろにしている郭嘉とかいうやつはっ!」
郭嘉は一瞬言葉に詰まった。
まあ確かに、しょっちゅう曹操に呼び出されて、作戦を練ったり碁を打ったり雑談したりしているのは確かなので、間違いではない。懇ろ、の意味を子供がどこまで理解し、どういう意味で使っているかも不明だが。
「まあ……間違ってない、かな」
「お前のせいで母上は悲しんでおられるんだぞっ! 絶対許さないからなっ!!」
「あー、なるほど」
どうやら、母親に曹操の訪いがなくなったのは郭嘉のせいだと思っているようだ。そういえば、曹操は最近徐州の豪族から迎えた若い夫人に夢中だと聞いた。多分、昨夜はその夫人と一緒だったのだろう。
――てことは、この子は第二夫人あたりの子供かな。
正夫人の丁氏は曹操と仲が悪く、目下曹操から一番寵を受けているのは第二夫人の卞氏だと聞いたことがある。すでに子供が数人いるのに、曹操はずっと彼女を気に入り続けていると。そこに新しい夫人が来て寵を奪われつつあり、その子が危機感を抱いた、ということだろうか。
それにしても、十歳になるかならないかの子供がそこまで考えられるのは立派なものだ。どこまで男女のことを理解しているのか、あるいは母親が説明しているのか、ちょっと興味がわいたが、もちろん子供にそんなこと聞くわけにもいかない。
「ま、いいや。とりあえず、殿があなたの母君のところにいかないのは俺のせいじゃないですよ」
「うそつくなっ!」
「嘘じゃないって。じゃ、誤解も解けたところで父君にいいつけに行きましょうか。静、その子、連れてきて」
「はい」
静は逃げようとする子供を捕まえると、そのままひょいと抱え上げた。
「はっ、放せ! 放せってば! ぼくが誰かわかってやって――」
「あなたが殿に言いつけてやるって言ったんじゃないですか。ちゃんと殿のところまでお連れしますからご安心を」
「いっ、嫌だっ! 嫌だぁ! 父上のところになんて行きたくないっ!!」
「な~に言ってんの。そこまで言うからにはあんたは殿が溺愛するお子様なんだろ? 嫌がる必要なんてないだろ。ほんとにそうなら、そんなふうに叫んでるあんたを殿のところに連れて行ったら、罰せられるのは俺なんだから心配いらないよな」
郭嘉が鼻先でにやりと笑うと、すぐさま子供の顔色は真っ青になった。
「やっ、いやだいやだいやだ!!」
子供が暴れるので、静が閉口して口を抑えようとしたが、指を噛まれたようだ。それでも振り落とさないだけ静は大したものだ。
「暴れると危ないですよ、若君。おとなしくしてな」
「いやだ! 絶対、絶対許さないからなっ!」
「どーぞどーぞ。ったくもー、こっちは頭痛と吐き気で忙しいってのに」
笑いながら回廊を歩く郭嘉と、暴れる子供を抱えた静を見て、すれ違う人たちがぎょっと目をむいている。それに構わずそのまま曹操の執務室まで行くと、郭嘉は曹操の前に子供を下ろさせた。不思議なことに、曹操の執務室が近づくと、子供はすっかり大人しくなっていた。
「丕? それに奉孝。どうした?」
「いえね、部屋に戻ろうと回廊歩いてたら、この子が木剣で襲い掛かって来たんですよ。なんでも、俺のせいで母君に殿の訪いがなくなったと思い込んでるみたいで。殿、誤解解いてくれません?」
郭嘉の言葉に、曹操は愕然と目をみはって子供に目を向けた。
子供の方とはと言えば、静に下ろされたきり、床にきちんと座ってむっつりと口をつぐんでいる。
ふと見ると、曹操と向かい合って執務に励んでいたはずの荀彧は、口許を抑えて笑っていた。




