43:<郭嘉編>選ぶべき道
兗州平定にめどがつき、残すところは陳留のみとなった。
そんな中、張邈が呂布の部下に殺されたと報が届く。
結局、郭嘉と曹操は東緡に向かうことはなかった。代わりに遅れて合流した荀彧が曹仁と共に赴き、一帯の支配を確立することになった。
旬日経つまでの間、曹操は度々満寵を呼び出して話をしたようだ。軍内では新しい軍師になるんじゃないか、と噂されたが、結局彼は募兵に応じてきた二千の兵を率いる将となった。
彼の募兵に応じた兵のほとんどは、対呂布の時に兵として従軍していた者たちだという。満寵が街を守ろうとして戦ったことで、兵たちも動かされたのだろう。
その後定陶へ取って返し、攻囲した。周囲の城市が曹操の勢力圏になったことで内部から呼応があり、二度目の攻囲は半月しないうちに決着した。
「残るは陳留だが、ここで一度編成しなおし、戦略を整える」
軍議の席で曹操が言った。
「一時、本営を定陶とする。今鄄城周辺にいる元譲を呼び寄せ、済陰・陳留太守として、陳留攻略及び周辺の鎮撫に当たらせる。元譲がこちらに来るついでに妻子を連れてくる算段になっている」
「北が手薄になりますが……」
「北面するのは袁紹だ。こちらに攻め寄せることはあるまい。長い目で見て、我らは許に拠点を移すことを目指す。よって、いつまでも鄄城に妻子を置いておくのでは北に寄りすぎている。東武陽の件もあるし、一度定陶に居を定めるのが無難だろう。子廉、お前は十日後には出立し、開封までの城市を把握しろ。二万預ける。そうそう抵抗はないと思うが、気を付けて行け」
「かしこまりました」
「子孝は楽進、李典らと共に兵の再編。妙才は子修と満寵と共に――」
一人一人に指示が出され、最後、曹操は隣に立っていた郭嘉に目を向けて行った。
「で、奉孝は私と文若と共に定陶で政務を手伝え。よいな」
「えっ? は、はい」
「ひと月以内には私も陳留へ向かう。各々、そのつもりで行動せよ。城市を把握したなど、何かあれば逐一報告を。以上だ」
は、と全員が返事をし、それで軍議は散会になった。
軍議が終わるとすぐに曹操と荀彧は政務の話を始めた。
執務室には竹簡が山積みだ。定陶だけでなく、各地の城市のものも決済しなければならないという。
「まずは糧食の件ですが、今年の麦の収穫は――」
荀彧の話では、今年も収穫は十分とは言い難いようだ。といっても、去年の大飢饉よりはかなりましだろう。もっとも、結局戦の連続だ。どの道収穫した麦はあっという間に戦のために消えていくだろうが。
話し込む曹操と荀彧と同じ卓に座りながら、郭嘉はどうしたらいいか困っていた。
今まで政務の手伝いはあまりしたことがなかった。荀彧がいれば彼がするので席を外すことが多かったし、荀彧がいなければ竹簡の整理くらいはしていたが、本格的に政務に口を出したことはない。
曹操と荀彧はすっかり二人で話し込んでいて、半分素人の郭嘉が口を挟む余地などなさそうだ。
――それなら、竹簡の整理でもしてた方がいいかな。
背後に山となった竹簡を振り返ると、曹操が言った。
「奉孝、手持無沙汰なら、お前は竹簡の整理を頼む。どういう内容で、どんな決済が必要か、整理して後で俺に説明しろ」
「わかりました」
立ち上がり、床に山積みになった竹簡に向かう。軽く百はありそうだ。
――さすがに全部覚えられるかな。ま、やるだけやるか。
一番上の竹簡を取り、中を開いてざっと中身に目を通し、卓の上に置く。内容ごとに分け、優先度の高そうなものはよける。それを繰り返していると、ふと途中で荀彧の視線を感じた。見つめ返すと、彼は微笑んで曹操との会話に戻っていった。
一つ曹操と荀彧の話し合いが着くたび、郭嘉は読んだものの内、優先度の高そうなものを二人に渡していく。夕方までそれを繰り返したところで、今日は終わりになった。
「奉孝殿、随分手馴れていますね」
「え?」
夕方、一緒に食事をしていると、荀彧が感心した様子で言った。
「驚くほど手際がいいですよ。竹簡を開いてざっと見ただけで内容を把握して、殿にどのようなものか説明できる。あれだけの数をこんな短時間でこなしてしまう人を初めて見ました」
「いや、そんな大げさな」
「俺も感心したぞ、奉孝。お前は政務をやらせてもいいな」
「殿までそんな。俺は戦術考えてる方が性に合ってますから」
「欲を言えば、内容を説明するだけでなく、お前の意見もつけてくれるとなおいいがな」
「それは……まあ、次から善処します」
郭嘉が苦笑すると、荀彧がかすかに嘆息した。
「本当に人手が足りませんね。武将ももちろんでしょうが、安心して仕事を任せられる文官も本当に足りない、と思います。各城市、余裕を持って仕事をこなそうと思えば、それぞれもう数十人ずつは文官が必要かと」
「そんなに? 今って……」
「各城市で信頼のおける文官と言うとほんの数人ですよ。後は当地の官吏ですが、どこまで仕事をして、どこまで信頼できることか。彼らをうまく使うことのできる能吏もまた、そうそういません。権力を握った途端不正を働こうとする人もいますしね。とりあえずはまめに見て回って、釘を刺して体制を整えていくしかないと思いますが」
「皆、なんでそんな金に汲々とするんですかね。皆そこそこの生まれなんだから、金ないわけじゃないと思うんですけど」
郭嘉の言葉に、曹操と荀彧が目を合わせ、ふ、と笑った。
「お前は幸せ者なのだ、奉孝。確かにそれなりの生まれならおとなしくしていれば金には困らん。しかし、なかなかそうはいかんのが実情だ」
「人間、欲には際限がありません。それに一時期は、官位を得るには賄賂がなければ不可能、みたいな時期もありましたからね。何せ霊帝の時代には、売官が当たり前でしたし。皆出世するために金を集める、そのために下から賄賂を集めたり、民から搾取したりする。そのために税金が規定より多い、なんてこともざらですから」
「それは知ってますけど、でも能力があれば出世できるでしょ?」
「そうとも限りませんよ。それこそ霊帝の時代は、どれほど有能な人物でも、高官になろうとすれば宦官に高額な賄賂を渡さなければ出世できず、しぶしぶ賄賂を払って官位を得た、なんて人もいたくらいです」
「まあ、能力だけで官吏を登用するなどということは、ほとんどない時代だったな。武官はともかく文官は、功績も実力もはっきりと表に出にくいから余計にな」
ばかばかしい、と曹操が首を振った。
世間では、賄賂や口利きは当たり前だ。もちろん建前としては禁止だが、ほとんどの人間がそれを守っていない。それくらいは郭嘉も知っていたが、実情はもっとひどかったようだ。廃墟になる前の洛陽で働いていた二人は、それこそ郭嘉よりずっと、朝廷が腐りきっていたことを肌で感じていたのだろう。
こうして単純に能力を認められ、曹操のそば近く仕えられている自分は恵まれているのかもしれない、と郭嘉は思った。
食事が終わるころ、荀彧の下に報せがやってきたようだ。従僕が小さく折りたたまれた紙を渡し、荀彧の耳元でささやいて、去っていった。
「どうした?」
曹操が問うと、荀彧はお待ちください、と言って受け取った手紙を開いた。すぐに、彼の秀麗な眉が顰められる。
「何の報せだ?」
「いい報せと、もう一つは……悪い報せ、かもしれません」
「申せ」
「では、いい方から。陳留で民衆が張超に反発し、暴動が起こったようです。張超はわずかな近習の兵たちと共に城を追い出され、近くの城市に逃れたとか」
「何?」
「詳しいことはまだわかりませんが、どうも主導したのは張邈殿の部下だった文官たちのようです。張超はかなり強引に兵を徴発しようとしていたのかもしれませんね。先だって、徴兵がうまくいっていないというような話も聞こえておりましたし。もう一つは……」
荀彧はわずかにためらう様子を見せた。そのまま曹操の傍まで歩いていくと、手紙を曹操に差し出す。
「張邈殿が、死んだと」
曹操が愕然と目をみはった。
「張邈殿だけが呂布から離れ、南に進路を取ったという話でしたが、どうも袁術へ援軍の要請に向かっていたようです。ところが、その途中で部下に殺された、と」
「部下に?」
郭嘉がいうと、荀彧はうなずいた。
「こちらも詳細はもう少し調べてみなければ。ただ、その者たちは張邈殿を殺した後、首を呂布のところへ持っていったようです」
「なんで……」
「張邈殿が裏切ったので殺した、と主張したそうですが」
なんとく、違和感だった。
「元々、張邈殿を殺すつもりで、陳宮あたりがつけた兵だった、とか?」
「可能性はあります。あと、噂では、張邈殿は、呂布に付いたことで随分声望を落としていました。あんな男と一緒に兗州を乗っ取るなんて、と。その後呂布が略奪などしても、張邈殿はそれを止められてもいない。清廉潔白で有名な方でしたからね。部下が失望して張邈殿に手をかけた、という可能性もなくはないかもしれません」
「それにしたって……」
荀彧と話していて、ふと気づいた。曹操が手紙を手にしたまま、一言も発せずに凍り付いていることに。
殿、と言いかけて、郭嘉は口をつぐんだ。どうしようかと荀彧を見ると、彼も郭嘉を見つめ、うなずく。
「殿。夜も更けてまいりましたし、我らはこれで失礼いたします。明朝、また政務の続きを」
「……うむ。そうだな。ご苦労だった。ゆっくり休め」
「はい。それでは」
「おやすみなさい」
荀彧と共に拱手して室を出る。しばらく歩いてから、口火を切ったのは荀彧だった。
「張邈殿のことは、明日からは触れないようにしましょう。殿のお気持ちは、我らに推し量ることは難しいことですから」
「ですね。……でも、なんか」
目をつむると、今でも脳裏に思い浮かぶ光景がある。乱世に力なきゆえに、こうなったのだ、と嘆く張邈の姿が。
「俺、あの人は、本気で殿を見限ったようには見えなかったんですよね」
「悲しいことです。望む未来は同じだったのに、道をたがえてしまった。そして、誤解を解けぬまま……」
「乱世に、力なきゆえに、こうなる……か」
郭嘉のつぶやきに、荀彧が怪訝そうに見つめてくる。それに、郭嘉は苦笑を返した。
「張邈殿が言ってたんだ。自分に自ら乱世を治めうるような力があれば、こんなことにはならなかっただろうに、ってさ」
「そうですか、そんなことを。あの方は、平和な世であれば、名君として名をはせうる方だったかもしれませんね。しかし、このような乱世では、王道――戦なしに天下を治める、そんなことなど、不可能ですから」
ふと、荀彧はどうなのだろう、と思った。天下の平和を願いながら、自ら先陣に立って戦うことができないのは荀彧も同じだ。そして彼は、曹操を主とすることを選んだ。張邈と違うところがあるとすれば、主としていただくか、友として並び立つか、そのくらいの差だろう。
だがどうだろう。家柄から言えば、曹操より荀彧の方がよっぽど上だ。彼もまた、己で乱世を切り拓く力がないことを嘆いたことがあってもおかしくはなさそうだが。
見つめた荀彧の横顔には大した感情は見受けられない。でももしかしたら、戦のできない彼が、戦のうまい曹操をうまく担いで利用する、なんてこともあり得ない話ではないのでは……。そこまで考え、郭嘉は苦笑した。荀彧には他人を利用するなんてことは似合わない。まして、彼の忠誠が偽物だとも思えない。
「なんか、濮陽で見た張邈殿の顔が、忘れられないんだ。『力なきゆえに、こうなる』って言ってた時の顔が。ものすごく、無念そうでさ」
「それだけ、天下の平安を願っていたということでしょう。ですが、彼は結局誤った道を選びました。力がないなら、力ある方を扶けることで天下を安んじることとて可能だったはずです。しかし彼はそうせず、誤った者に力を貸した。ある意味、この結末は当然です。主を見誤れば、乱世では生きていけない。それだけのこと」
荀彧は郭嘉に向かってにこりと笑った。
「その点、わたしたちは正しい選択をしたのです。そのように嘆くことはきっと、ありえませんね」




