42:<満寵/郭嘉編>志あらば
兗州平定のため昌邑を囲む曹操軍。一方、ここで曹操軍と事を構えるのは得策ではないと考えた満寵は、知り合いの官吏たちを説得するも、うまくいかない。しようがなく、満寵は一人、城門を開くことを決意した。
「太守を殺してしまえばいい」
満寵の言葉に、その場にいた全員が顔をしかめた。
「伯寧、お前はまたそういう極端なことを」
「そうだ。殺さずとも牢にでも押し込めておけばよい」
「まあ、それならそれでもいいですけど」
集まっていたのは山陽郡の郡治・昌邑の若い官吏たちだった。
ここ最近の昌邑の立ち位置は微妙だ。
数年前、青州黄巾賊を降した曹操がその勢いのまま、兗州全域を己の支配下とした。戦をしかけられたわけではなかったが、ほとんど実力行使だったと言っていいだろう。賊軍とはいえ、百万の軍を降しうる精強な軍に敵う者などそうはいない。昌邑の太守も、長いものには巻かれろとばかり曹操にしっぽを振った。
その後、曹操を出し抜いて呂布と陳宮が兗州を乗っ取った。陳宮は兗州東郡の名士で、兗州内での声望は高い。曹操が徐州で大虐殺をしたこともあって、他の太守たちと同様、昌邑太守はあっさりと陳宮に乗り換えた。
いや、太守はそもそもが長いものには巻かれろ、時流には乗れという男なのだ。そこに義などという考え方はなく、己の利のみを考えて動く。
だから今、太守は困っている。
反乱を起こした呂布は結局曹操に負け、じきに兗州から追い払われるだろう。もはや呂布の支配地は東の小さな街である東緡のみ。定陶も曹操に逆らってはいるが、落ちるのは時間の問題だろう。昌邑はと言えば、ひとまず呂布の侵攻は阻んだものの、この先、曹操を受け入れるかどうかでもめていた。
そもそも、曹操が呂布から濮陽を取り返した時点で、呂布に付くべきではない、と言ったのは満寵だった。
「呂布に兗州を治める器量などあるはずがない。濮陽でも略奪をしたというし、じきこちらにもやってくるでしょう。支配と銘打って、我らから略奪するためにです。そんなもの、民の支持を得られるわけがないし、曹操がやってきてしまえばあっさり負けること必定。だったら、呂布が救援を求めてきても受け入れるべきではないでしょう」
当時官を辞して故郷で無頼をかこっていた満寵がそう伝えたのは、知り合いの若い官吏だった。彼は仲間内の官吏たちにその言葉を伝え、数人でもって太守を説得した。太守も呂布について、後で痛い目を見るのは嫌だったのだろう。
まもなく呂布が攻め寄せたが、それも皆で力を合わせなんとか乗り切った。その際、戦の経験のある者が街にはほとんどなく、それなら、と満寵が指揮を買って出た。
といっても、満寵にも兵を指揮した経験などない。せいぜいで小役人をしていた時に兵を数十人動かしたことがあるくらいだ。それでも、誰もが呂布相手の戦をためらう中、指揮を執ってなんとか呂布を跳ね返した。
そのことで、満寵は官位こそないものの、街を守ろうとする若手の官吏たちの輪に加わることになった。本来ならありえることではない。それでも、今は非常事態だ。表立って満寵を除けなどという者はほとんどいなかった。
「太守は、迷っておられるのだ。呂布に付かないとは決めたものの、曹操に降伏することもためらっておられる。なんせあの曹操だ。一度叛いた城市を許すかどうか……」
曹操は苛烈な男だという。裏切りなど到底許さないだろう、というのが、太守のみならず、この場にいる官吏たちにも共通する認識だった。
「ですから、太守を使えばいいのです。そもそも太守は、己の権限をいいことに好き勝手やっていたでしょう。たたけば埃などいくらでも出てくるはず。それにかこつけて、悪行の限りを尽くしていたので我らもほとほと困り果てていたのだ、と曹操に差し出してしまえばいい」
満寵の言葉に、その場にいた者たちがまた顔をしかめる。
「しかしな、我らだって太守に従っていたのは同じことだぞ。反逆者として殺されるのではないか。なにせ曹操は徐州で十城丸ごと殺しつくしたというし」
「ありえないでしょう、そんなの。徐州で虐殺を行ったのは父の仇討ち、いわば孝の表れです。ここで反逆したからと昌邑の民を皆殺しにしたとして、誰が得をするのです。曹操とて無駄に声望を落とすことを良しとはしないはず。現に、彼は濮陽の官吏などはかなり寛容に赦したという話ではありませんか」
「それは、そうなのだが……」
「ですから、ここはまず太守を締め上げて、曹操がやってきたら差し出すことです。最初に呂布に付いたのはあの能無しの太守がしたことで、我らはしぶしぶ従っただけだった、と。そうすれば、曹操もあなたがたを殺しはしません」
言葉を尽くして説得を試みたが、結局官吏たちがうなずくことなかった。理由は何となくわかる。彼らもまた、太守と共に多少の賄賂などを受け取っていたのだ。一時期曹操の支配を受け入れた時期は、そういったことが厳格に禁止されたので不満を持っていた者も少なくなかった。結局若い官吏たちもまた、曹操の支配を受け入れて己の利権がなくなるのは困ると思ったのだろう。
結局、間もなく呂布が敗れて逃亡し、曹操が攻め寄せると報があっても、とりあえず曹操に門を閉ざし、やりすごす、ということになってしまった。
――門を閉ざすということは、すなわち敵対する意思があるとみなされたとて文句は言えないというのに。曹操が見逃してくれるとでも思ってるのか?
そんな甘い相手の訳がない。
最初は城の防備に加わる気はなかったが、兵の指揮を執りたがるものはほとんどいなかったらしい。結局再び満寵に白羽の矢が立てられ、しぶしぶといった格好で、満寵は今度こそ正式な官位を与えられ、再び兵の一部を指揮することになった。
――さて、どうするかな。
官吏たちからは、曹操軍を無駄に刺激するなと言われている。攻城がうまくいかなければ曹操も去っていくだろう、というのが連中の目論見だ。昌邑の城壁は高く、そう簡単には落ちないだろうと高をくくっているのだ。長期間の攻城戦をするほど、曹操軍には余力がないだろうと。
だからといって、曹操の勢力圏の中にぽつねんと一城だけのこったところで、長い目で見れば曹操の支配は免れないだろうに。
曹操軍が攻め寄せたときにはもう、満寵は己がどうすべきなのか、決めていた。
「昌邑は面会を断ってきた」
昌邑の太守にとりあえず会って話がしたい、と使者を送ったところ、使者はにべもなく追い返されたのだという。
「呂布に付くってわけじゃないですよね? 呂布は昌邑素通りして、徐州の方へ向かったって話ですし。てことは、独力で勢力を保つつもり、とか?」
郭嘉が腕組みして言うと、曹操はわからん、とばかり首をかしげた。
「昌邑太守は一度会ったが、そんな骨のありそうな男ではなかったがな。どちらかというと、古式ゆかしい、財貨の大好きなろくでなしという感じだったが……」
「敵対するとも言ってないんですよね?」
「だが、使者を城内に入れない時点で味方ではなかろう。ひとまず内を探らせるが、囲むだけ、囲んでみるか。怖気付いて門を開くという可能性もある」
話をした翌日にはもう、曹操軍は昌邑を囲んでいた。
それで門を開くならよし、と思っていたが、やはり門が開く気配はない。かといって、こちらに対して敵対するような気配もない。城壁の上には落ち着きのない兵がわずかにうろちょろするだけで、矢を番えてもいないのだ。もちろん、こちらが本格的に攻めていないから、ということもあるだろうが。
「面倒ですね。戦うか戦わないか、はっきりすればいいのに」
曹操軍としても消耗は避けたいところだ。戦わないで済むのなら、それに越したことはない。城内の官吏たちが有利な条件での降伏を狙っているのならそういう使者が来てもよさそうだが、それもない。
「今、内を探らせている。一日待て」
「わかりました」
そう言って曹操の幕舎を後にしたものの、郭嘉は前線まで出て行って城壁を見上げ続けた。
曹操が陣営を築いたのは城から五里の場所だ。城壁から少し離れた位置に兵をずらりと並べ、城内を圧迫はしているが、これといった動きはない。
じきに日が暮れ、兵の半数が休憩に入った。昌邑側はどうだろうと見ていたが、あちらもまばらな兵がうろうろするだけで、特に変わった様子はない。
「郭軍師? どちらへ」
「ちょっと、様子見」
日が暮れ、食事も終わった後、郭嘉はわずかな護衛を連れて城壁の周囲をぐるりと一周見て回ることにした。護衛の兵の進言に従って弓のぎりぎり届かない距離で、間近から城壁を見上げ、周囲の地形を見て回った。
地形としては、特に変わったところもない。攻城兵器を展開するだけの平原もあるし、何か気をつけねばならないような地形は何もない。城壁も高いとはいえ、濮陽ほどではない。城壁の上の兵がなんとなくやる気がなさそうなのを見れば、落とすこと自体は難しくないだろう、と思えるのだが。
「郭軍師、そろそろ戻られた方が」
「ん? ああ、そうだな」
一周回り終える頃に、護衛の兵が言った。彼らとしては、これ以上うろうろして不測の事態があっては、くらいのつもりだったのだろう。なにせ、最後に回った東門の兵がじっと、こちらを見下ろしているのが視界に入っていたのだ。弓は届かないとはいえ、門が開いて兵が出てくればどうしようもない。連れている兵は十人しかいないのだ。
「一周回ったら戻るよ」
やはり、見られている。
城壁を見上げながらそう思った瞬間だった。ふと、城壁の上でこちらを覗き込む敵兵の松明が揺れた。まるで何か合図でもするかのような動きだ。次いで、ひゅ、と風を切る音。しばらくして、とす、と地面に矢が刺さる音がした。
すぐさま兵が郭嘉をかばうように立ち、一瞬緊張が走る。しかし城壁の上の松明はそれきり見えなくなり、それ以上の動きはなかった。
「なんだ?」
兵が飛んできた矢を地面から引き抜いている。彼はそのままそれを郭嘉に差し出してきた。
「郭軍師。手紙らしきものが」
矢に結び付けられていたのは折りたたまれた紙だった。開くが、月明りでは読みづらい。郭嘉はそれを懐にしまい、陣営へと戻った。
「殿、これ、城壁の上から矢に結ばれて送られてきたんですけど」
城壁の上から送られてきた手紙を曹操に渡すと、彼はそれを目にして眉をひそめた。
手紙の内容はこうだ。
『明朝卯の時(午前五時)に東門を開く。太守を捕らえ給え。願わくは市井の民に手をかけることだけは無きように。無駄な血は流れるべきではない』
署名すらない、それだけが書かれた紙だった。ただ、文字からするに、送ってきた相手はそれなりの教養のある士人だろうと思えた。
「送った相手は見たか?」
「いえ、暗かったので。城壁の上で松明振ってて変だなとは思ったんですけど。結局矢が降ってきた後すぐにいなくなっちゃって」
「その周囲の兵はどうしていた」
「よく見えなかったけど、特別動きはなかったですよ。もしかしたら、東門の兵はもう戦う気ないんじゃないですかね? まあ全体的にやる気はなさそうな感じですけど」
ふむ、とうなずいて、曹操が手紙を見ている。
「どうします? 乗ります?」
「乗ろう。無論、備えはしておけ。兵から精兵二千を選り、東門の外にはもう五千控えさせよ」
「かしこまりました。正面の南門には梯子を持たせた残りの兵を並べて、攻城戦の構えを見せましょう。それで、内の連中も少しは浮足立つでしょうから、もし本当に門が開けば中を把握するのはたやすい」
翌朝、夜明け前のまさしく卯の時に東門は静かに開いた。突入隊の夏侯淵と共にそれを見守っていた郭嘉は、夏侯淵が城内に入っていった後、五千の兵と共に東門を抑えにかかった。
しかし特に抵抗もなく、東門を守る兵たちは武器を捨て、あっさりと膝をついて降伏した。
「門を開いたのは? 誰が決めた?」
「あっちの……」
膝をついた一人に問うと、その男はすぐ傍にいた若い男を指さした。呼ばれたと思ったのか、男が顔を上げる。
怯えるでもなく、かといって敵意もなくじっと見上てくる。彼に感情があったとすれば、その双眸にわずかな驚きがあったくらいだろうか。
「昨夜、俺に矢を投げかけたのはあんた?」
郭嘉が問うと、男は膝をついたままこくりとうなずいた。
「そうです」
「あんた何者? 名前も書いてなかったろ。あんた、太守と喧嘩でもしてたのか?」
「喧嘩……というほどのことは。ただ、時流を読めぬ愚か者に従って、皆が殺されるのは忍びないと思っただけです」
男は淡々と告げると拱手して軽く頭を下げてきた。
「それでも我らは、一時的とはいえ貴軍に逆らったことは違いありません。太守以下、郡の幹部たちは処罰を免れぬものと覚悟はしています。ただ、どうか住人には手を出さないでいただきたい。皆、必死になって飢饉を乗り越えたところなのです。そちらとしても、無駄に住人を殺していいことなどないでしょう」
「そりゃ元々そんな気はないから、そこは大丈夫だよ。で、あんたは? 名前も言わずに終わるつもりはないんだろ?」
立てよ、と郭嘉が言うと、男はわずかな迷いを見せ立ち上がった。
見上げるような長身に、今度驚いたのは郭嘉の方だった。荀彧も背が高いと思っていたが、それ以上かもしれない。しかも、男は自分とさして歳の変わらない若い男で、瞳には落ち着いた理知の色があった。
「満寵、字を伯寧と申します。この昌邑の出身です。成り行きで兵を指揮することになって、つい最近校尉に任じられはしましたが……」
男は肩をすくめた。
「もしかすると、太守は私の顔も覚えてないかもしれないな」
皮肉そうに微笑む満寵の目は、遠く府のあたりを見つめていた。
「ふーん。じゃ、あんた以外の奴らは皆、殿に帰順するのを良しとはしなかったんだな」
ひょうひょうと話す男は、郭嘉と名乗った。おそらくは曹操軍の中でもそれなりの地位にあるのだろう。兵卒たちは彼を郭軍師と呼び、明らかに敬っていた。
満寵は背が高く、表情も硬いらしいので、顔を合わせると怖がられることがままあるのだが、この小柄な男は満寵を見て驚きはしたものの、怯えはしなかった。城壁近くで会話していた時も、投降兵と話すというよりは、まるで知人と世間話でもするかのような雰囲気で、警戒心などかけらほども見当たらない。
そして今、府へと向かって共に歩いていても、その様子は変わらない。まるで知人とでも歩くかのように、郭嘉は気安い雰囲気を出していた。もっとも、斜め後ろに控える彼の護衛は、今にも刺し殺さんばかりに満寵を厳しくねめつけているようだったが。
「なんでだろ? 呂布に付いた方が得だと思ったとか?」
「理由は二つでしょう。一つは、曹操は苛烈だ、という噂です。一度裏切った以上、決して赦すことはないだろうから、曹操に降伏したら首を刎ねられるのではないかと思っているのです。そしてもう一つは、以前曹操が兗州を支配していた際、一切の賄賂や口利きを禁止しました。それを覚えていて、再びそうなるのは困ると思っているのでしょう」
そういうと、郭嘉はあきれたように満寵に目を向けてきた。
「あのさ、色々思うところはあるだろうから別に俺を敬えとは言わないけど、殿を呼び捨てはまずいだろ。せめて曹操殿って言えよ」
「どうせ今から首を刎ねられるのに、いちいち敬意を払う必要が?」
「そうと決まったわけじゃないだろ。つーか、多分……」
郭嘉は意味ありげに見つめると、そこで言葉を切った。
「まあいいや。で、あんたはそういう連中に迎合しなかったわけだ。殿に殺されるとは思わなかった……わけじゃなさそうだな。さっきの口ぶりだと、殺されてもいいって?」
「最初に、太守をつるし上げて曹操に差し出し、街と己を守れ、と知人には進言しました。しかし、誰もそれにはうなずかなかった。誰もが門を閉めて少し粘れば曹操は去るだろうなどと、甘い考えで。仮にそうなったとして、四方が曹操の勢力圏になってここだけが独立していられるわけがないというのに」
「まあ、そりゃそうだ。けど、あんたの話だと、上の連中はあんたが曹操軍に降伏しろって言ったのに、あんたに兵を預けたってことか?」
郭嘉はありえない、とばかりに顔をしかめている。
「それだけ、皆矢面に立ちたくないということなのでしょう。最初に呂布が攻めてきた時も、呂布を受け入れるなと言ったのは私だからと、兵の指揮を任されましたしね。誰も責任を負いたくないのでしょう」
「ちなみに経験があったとか?」
「いえ。兵を数十人くらい率いたことはありましたが」
「で、きちんと呂布、跳ね返したんだ。すごいな。にしても、降伏しろって言ったやつを指揮官にするってのも、よくわかんないけど」
「自分も迷いましたが、街を守るために。太守が門を閉ざすと決めた時点で、戦になる前に曹操に城を明け渡すくらいでなければ、と。そのためには、兵を任された方が何かとやりやすい。だから、降伏を勧めはしたものの、街を守るために兵を指揮すると言ったのです」
「へえ、なるほどな」
しばらく歩いていると、前から兵士が走ってきた。具足からするに、曹操軍の兵のようだ。
「郭軍師! こちらでしたか」
兵は郭嘉の前で足を止めると、さっと拱手して膝をついた。
「夏侯淵様から伝令です。太守及びその配下、全員捕らえ、府を確保したとのこと」
「了解。抵抗はあったのか? 犠牲者は?」
「いえ、ほとんどありません。連中、剣すら抜きませんでした。まったく戦い慣れていないようで」
「ふーん、逆によかったのかな。とりあえず、俺も府に行くよ。俺も捕虜連れてるしね」
「は?」
郭嘉が満寵を見上げたので、伝令も満寵を見上げてくる。しかしその手は縛られてもいなければ、まるで郭嘉の同輩かのように並んで立っていることに面食らったのだろう。目を白黒させている。
郭嘉は戸惑う伝令にご苦労、と言って解放していた。
「どうやら、本当にあんた以外戦える奴、いないみたいだな」
「情けない話です。いざとなれば兵を指揮して街を守るくらい、できないこともないでしょうに」
「まあ、余計な死人がなくていいけどね」
にこりと郭嘉が笑う。その笑顔はまた、とても捕虜に向けるようなものではなかった。
府に向かう道中、何度か伝令が郭嘉の下へとやってきた。
南門は府が制圧されたとわかるとすぐに開かれたとか、市民は略奪せず入城する曹操を黙って受け入れたとか。
ひとまず、曹操が街を荒らすことだけはなさそうで、満寵は胸をなでおろした。
とはいえ、自分一人、皆を出し抜いて曹操を招き入れたことには違いない。
府に到着し、奥の広間へとたどり着くと、広間にずらりと並べられた官吏たちが見えた。彼らは一様に後ろ手に縛られ、座らされている。
満寵が広間に足を踏み入れると、顔を上げた彼らは一様に満寵に向かって怒鳴ってきた。
「伯寧! お前……!」
「お前か、曹操に通じたのは!」
「裏切者がっ!!」
返す言葉もない。ふいとそこから目をそらすと、隣に立っていた郭嘉が呆れたように肩をすくめた。
「見苦しいなあ。そんな文句言うくらいなら、あんたらが指揮執って戦えばよかったんじゃないのか? 降伏しろって言ったやつに兵を任せたバカはどっちなんだよ」
「っ!!」
捕虜となった知人たちが一様に言葉に詰まる。
「奉孝、誰だ、それ?」
広間の入り口に立つ若い男が声をかけてくる。具足からして、名のある武将だろうと思えた。
「捕虜です、妙才殿」
「捕虜!? ってお前、何呑気に一緒に歩いてんだよ! 縄かけろ、縄! 危ないだろ、おい!」
慌てた様子の兵士が縄を持って走ってきたが、郭嘉がそれを止めた。
「大丈夫ですよ、この人、逆らう気なんかなさそうだし、それに、門を開けたの、この人だから」
「何?」
「聞いてたでしょ、そこにはいつくばってる頭足りない人たちが、『裏切者!』って言ってんの。この人、皆が曹操軍に門を開くなって言う中で、一人だけ街を守るために曹操軍に降伏しろって言ったけど、無視されたんで自主的に門を開いたみたいですよ」
多少違う、と思ったが、あえて訂正するほどのことはない。困惑気味に睨んでくる具足の男を見つめ返すと、男はますます困ったように顔をしかめた。
「だからってお前……」
「それに、やる気があればとっくにやられてますよ。俺丸腰だし」
「お前なあ……」
武将が盛大にため息をつき、睨んでくる。それをまたじっと見つめ返すと、彼は忌々し気にあごをしゃくった。
「じゃあせめて、お前もそこ並べよ。捕虜なんだろ?」
「いや、だから妙才殿」
「わかりました」
「えっ」
満寵はいきり立って睨みつけてくる知人の集団の端に膝をついて座った。隣から怨嗟の視線が飛んでくるが、それは気にしないことにする。
「私も本来こちらに並ぶ側の者ですから、お気遣いは無用です」
郭嘉に言うと、彼もまた眉をひそめてため息をついた。
しばらくすると、広間に曹操がやってきた。具足こそ立派だが、かなり小柄な男だ。
これが、徐州で大虐殺をした男。
意外と迫力のない、と眺めていたら、曹操が振り返った瞬間、射すくめられたように動けなくなった。
曹操の眼差しには、妙な威圧感があった。睨まれているわけでもないのに、まるで炎に呑まれたかのような錯覚に陥る。
「殿」
若い武将と郭嘉が拱手し、他の兵たちは膝をついて曹操を出迎えた。
「ご苦労。大した犠牲もなく終わって何よりだ」
曹操は悠然と広間の中央まで進み出ると、並べられた捕虜の前に立った。
後ろ手に縛られた連中は皆気まずげに目を逸らしたりうつむいたりしているが、満寵は最初に曹操の威圧感に食われてしまったまま、茫然と彼を見ていた。それに気づいたのだろう。曹操がわずかに片目をすがめ、見つめてくる。それではっと気づいて、満寵は顔を伏せた。
「で? 昨夜の手紙の主は見つかったのか、奉孝?」
「はい。あの、若い大男です」
郭嘉の声がしたあと、満寵はちらとだけ視線を上げ、曹操を見た。
やはり、すくみ上るような威圧感。
人相見が乱世の姦雄だと言ったというが、それもわかるような気がした。小柄で、普通なら誰もに侮られそうだというのに、この雰囲気では彼を軽んじられるものなどそうそういないだろう。
「なんでも、太守以下、官吏たちは皆、門閉ざして殿をやり過ごせ、って言ったのに、あの人だけは太守つるし上げて、殿に降伏して街を守れって言ったらしいですよ」
「ほお」
「にもかかわらず、そこで縛られてる官吏の皆々様はそんな男に東門を守らせたらしいです。彼もまた、街を守るためと買って出て、犠牲が出る前にと門を開いた、と」
郭嘉の声に曹操が感心したようにうなずいていた。
「そなたらはなぜ私に逆らおうと思ったのだ?」
「さ、逆らおうと思ったわけでは!」
声を挙げたのは太守だった。
「た、ただ、我らは陳宮に脅されて付き従ったにすぎません。しかし、そのような言い訳など曹使君(曹操)に通じるわけがないと、そ、そう思ったのです。一度でも反逆したならば殺されるに違いないとっ」
太守は半分泣きながら、後ろ手に縛られたまま、頭を床にぶつける勢いで平伏して見せた。
「どうかお許しを!」
「陳宮がお前をな。それは初耳だ。濮陽にいたそなたの妻子は既に我らの保護下にあるはずだが」
「そ、それだけではございません! 見張りをつけるから、もし裏切ったらす、すぐに殺すと……!」
太守の言葉に、その場にいた全員が眉をひそめた。捕らえられている官吏たちも初めて聞いた話のようだ。もちろん満寵も、初めて聞いた。
曹操と郭嘉が顔を見合わせ、郭嘉が大仰に肩をすくめる。
「仮にそうだとしたら、最初に呂布跳ね返した時点であんた死んでんじゃないの? あんたらが最初に呂布跳ね返してから何日経ってんだよ。えらい悠長な暗殺者だな」
郭嘉の呆れたような声に、突っ伏した太守の肩がびくりと震える。それと同時に、曹操軍の兵士たちからは失笑が漏れた。
「嘘をつくならもう少しましな嘘をつけばいいものを」
曹操が嘆息して、連れて行け、と兵に手を振る。真っ青になった太守は命だけはと叫びながら牢獄へと連行された。
「そなた、名は?」
曹操の声に振り返り、問いかけられたのは自分だと気づく。満寵は、妙な威圧感のある眼差しにいくらか動揺しながら、声だけは平静を装って言った。
「満寵、字を伯寧と申します」
「そなたが門を開いたのだそうだな。それも、独断で」
「はい」
「そなた、役職は?」
満寵はどう答えたものか迷い、ちらと横を見た。横に居並ぶ正真正銘の官吏たちは、一様に歯噛みしている。
「一応、つい三日前校尉に任じられましたが、自分は官途にはなじめず、長く無頼をかこっておりました」
「官途はなじめず? どういうことだ? 一度は仕官したということか」
「はい。十八で督郵になった後、高平の令の代行をしていたこともありました。しかし、官吏というのは面倒なもので。何かあればすぐに賄賂と目こぼしをと言われます。法が存在するのに、それに従うのは力なき下々の民だけで、偉ければ偉いほど、それには従わずともよくなるもののようで」
満寵は昔を思い出し、軽く嘆息した。何度賄賂を求められ、また何度罪人を許せと言われたことか。
「結局、法などあってなきようなもの。出世するのも賄賂をばらまける金持ちだけで、まじめに法を守ろうとすれば、やれ頭が固い、あいつは駄目だとそしられる。嫌気がさして、好き放題やっていたお偉方を捕らえ、尋問し、その場で然るべき罰を与えて官を辞しました」
「なるほど」
曹操が声に出して笑った。
「気持ちはわかるぞ。私も昔は賄賂の取り締まりをやりすぎて、腐った狸どもに睨まれたものよ。ならば、賄賂も目こぼしもない、法と実力に則った官途ならば、再びつく意志はあるか?」
興味深げに細められた瞳は、やはりそれでもどきりとするような威圧感があった。
答えずにじっと見つめ返すと、曹操がまた嬉しそうに微笑む。
「昨夜の書簡、簡潔な文章だったが、なかなか胸を打つものであった。街を、民を守るために抜け駆けする。大いに結構。もしそなたにこの城市だけでなく、天下すべてを守ろうという気概があるならば、我が麾下に加わり、天下のため、その力をふるうがいい。どうだ?」
天下を獲ったわけでもないのに大仰な。
そうは思ったが、曹操の言葉は不思議と不快には聞こえなかった。むしろ、天下を獲る男とはこうあるべきなのかもしれない、とさえ感じる。
ただ、素直にうなずくにはいささか気が重かった。
「お願いがございます」
「なんだ」
「横に並ぶ郷里の同胞たちは、おそらく今の言葉を聞いて、私があなたに仕官するために抜け駆けしたのだと思うでしょう。また、私は文人にしては知識に乏しく、武人というには武術に優れませんが、横に居並ぶ同胞たちは、それぞれが立派に文人としての知識を持つ者たちです。彼らもまた、太守に従ったにすぎません。どうか、私だけでなく彼らもあなたの麾下に加えてはいただけないでしょうか?」
伯寧、と驚いたような声が挙がる。それにも振り返らず、満寵はじっと曹操の燃えるような瞳を見つめ続けた。
曹操はふむ、とひげをさすり、しばらくしてからうなずいた。
「よかろう。ただ、私は才なき者は用いない。今後使えぬと思ったら誰あろうと居場所はない。それだけは覚悟しておけ」
「ありがとうございます」
満寵に続いて、縄を打たれた面々も、口々の礼を言っていた。
「では、さっそくだが満寵。そなた募兵はできるか? この城の内で、そなたと共に天下のために戦いたいという兵を募れ。集まった数だけ、今後そなたに任す」
いきなりか。
面食らったものの、ここで断ることなど到底できそうにない。
「かしこまりました。いつまでに、でしょうか?」
「差し当たって旬日ほどだな。その間に東緡まで把握して、定陶に発ちたい」
「わかりました、では、その間に」
無茶なことを言われた。それはわかっていた。それでも、満寵は平伏しながら、己の内に妙な高揚感に生まれていることを感じていた。




