41:<郭嘉/張邈編>乱世に力なき者は
呂布を兗州から追い払い、着々と勢力を取り戻す曹操。一方兗州を追われた張邈は呂布に与したことを後悔していた。
翌朝、間諜の言ったとおり、呂布は再び乗氏を囲んだ。夏侯淵の兵たちは既に城市のすぐ側にある堤に控えている。
呂布は昨日騙されたことを怒りながら、今度こそ落としてやると攻めたててきたが、逆に堤の伏兵に撹乱され、あっという間に蹴散らされていた。
しかし、それでも――
「呂布って、やっぱすごく強いんだな」
城壁の縁に寄りかかり、眼下の戦いを眺める。
もう呂布軍は完全に算を乱していて、統率の取れた動きで突撃する曹操軍に蹴散らされる一方だ。それでも、赤い馬に乗った呂布と、彼の傍にいる騎兵たちだけは別だった。これまでの度重なる伏兵も潜り抜けてきた精兵ばかりなのだろう。曹操軍の攻撃をものともせず、兵の中を突っ切っていく。その度に兵の体が人形みたいに跳ね飛ぶのがまるで絵空事のようで、もう感心するしかなかった。
「どうやったらあんな化け物になれるんだろ」
思わずつぶやいてため息をつく。眼下では、なんとか呂布を捕らえようと夏侯淵が騎兵を率いて呂布に突進していたが、やはりうまくいなされている。
「辺境の連中は馬の扱いがうまく、鍛錬も尋常ではない。丸太を軽々持ったりするという話も聞くからな」
「丸太ぁ?」
曹操相手だというのに、つい素っ頓狂な声を挙げてしまった。それに、曹操が笑顔を見せる。
「我らが戦っているのはそういう、化け物のような男だと言うことだ。見よ、逃げられたな。まあ、しようがないか。あとは、東緡の子孝がどこまでやれるか……」
呂布を先頭にして、わずかな兵が離脱していく。夏侯淵も途中まで追ってあきらめたようだ。
「兵をまとめ、妙才はそのまま東緡へ向かわせるか。子孝が東緡を落とすとは思うが、念のためな」
翌日、曹仁から東緡を落としたという報があった。
東緡に残っていたのは、張邈とわずかな兵だけだったそうだ。張邈は曹仁が到着する前に城を放棄し、逃げて行ったそうだ。呂布は一旦は東緡まで向かったが、すでに城が曹仁によって落とされたと知ると、東へ逃げて行ったという。
情報を持ってきた伝令から張邈の名が出た時、わずかに曹操の顔がこわばるのを郭嘉は横で見ていた。
「で、連中はどこへ?」
平静を装って、曹操が問う。それに、伝令が平伏しながら答えた。
「夏侯淵様が途中まで追撃しましたが、ご命令に沿って、州境あたりで追撃は中断しておられました。現在つかめているのは、呂布、陳宮、張邈、いずれも生きていること。また張邈が呂布の一軍と合流後、呂布は東へ進路を取りましたが、張邈は南へ進路を取ったと」
「南? 弟のいる陳留へ向かったのか」
「そちらは現在追跡中です。張邈についている兵は十人にも満たない数で、戦力になるとも思えません。おそらくは、どこかへ逃げたか援軍を要請に行ったものと思われますが、行き先はわかり次第またお伝えいたします」
曹操がうなずくと、伝令は脇に置いていたいくつかの竹簡を曹操に差し出した。
「あと、曹仁様よりこちらを。東緡の城内に残されていたものだとか」
曹操が受け取り、開く。
「これは……」
見た途端、曹操は眉をひそめた。覗き込むと、どうやら誰かの書簡のようだ。
「張超から、張邈宛の書簡のようだ」
「え」
一つ一つ開き、読んでいく。内容的には、張超が臧洪を呼応させようとしたが叶わなかったことや、どんどん呂布が勢力を削られていく中、このままでは敗色濃厚なので陳留に戻ってはどうか、と張邈にすすめる内容だ。それに対する張邈の返事はないが、張超の返書から読むに、もう曹操に勝つことは不可能だろうから、張超に妻子を連れてどこかへ逃げろと言っていると思しい。また、張超には逃げろと言っているのに、張邈は乱の盟主を受けてしまった責があるから最後まで呂布と命運を共にすると考えているようで、張超はそれを止めていた。
陳留では張超が対曹操の兵を集めようとしているが、うまくいっていないと書簡にはあった。だがそれでも陳留ではまだ張邈の声望が高く、陳留に戻ってくれば兵を集め、曹操を跳ね返すことも不可能ではない、曹操のような悪辣な男を生かしておくのは天下のためではない、と書かれている。
何通かあるが、やりとりは、終始すっかりあきらめて死ぬ気らしい張邈と、なんとか盛り返したいので兄を呼び寄せたい張超のやりとりで終始していた。
――やっぱり、張邈殿はあんまり乗り気じゃなかったんだな。
ちらと見ると、曹操は最後の竹簡を手にして固まっていた。その手が震えているのは、怒りゆえか。
「殿、どう、しますか?」
問うてから、郭嘉は後悔した。曹操が明らかないらだちを見せたからだ。
「どう、とは?」
「多分、このままだと張邈殿、どこかで殺されると思いますけど」
「なに?」
「おそらく、連中は濮陽で敗れた時点で殿を包囲しようとしたんでしょう。定陶、鉅野、陳留と、あとは北の東武陽から殿を囲むつもりだったんだ。あわよくば袁紹まで巻き込むつもりだったのかもしれません。でも、まず定陶が動かなかった。東武陽の臧洪も袁紹に足止めされて動けなかった。陳留では兵を集めるのもうまくいかない。呂布はなんとか拠点を作って殿に対抗しようとしたけど、周りの連中が計画通りいかなかったんで、どんどん追いやられていく。多分、図を描いたのは陳宮だと思いますけど、もうここまできたら張邈殿にも張超にも利用価値はない。張超は陳留にいるからどうこうってことはないでしょうけど、張邈殿は呂布と同行してる。旗印としても、兵を集めるにも役に立たない奴を、陳宮がいつまでも呂布の傍に置いておくとは思えないですよ。呂布は陳宮より張邈殿の言うこと優先する可能性がある。となれば、陳宮には邪魔です」
「放逐する可能性もあろう。あるいは、孟卓が逃げるという可能性も」
「なくはないですけど、仮にここで張邈殿が殿の下に戻ったらどうです? 陳宮も呂布も面目丸つぶれですよ。張邈殿を利用して殿を追い落とそうとした裏切者、っていう世評を避けられない。絶対に殿の下へは行かせないと思っているはず」
「伝令は、張邈だけが南に進路を取ったと」
「逃げたのか、どこかに援軍を呼びに行ったのかわかりませんけど、陳宮がそれを許したということは、陳宮は張邈殿が一人になった隙を狙って殺そうとしてる可能性があると思うんです。呂布はなんだかんだ張邈殿を気に入ってたんで、表立って張邈殿を殺そうとしたら、もめるでしょうから」
郭嘉の言葉に、曹操はしばらく竹簡を握りしめ、虚空を睨んで押し黙った。
「保護するなら、早くしないと――」
「だめだ」
曹操は首を振った。
「でも」
「書簡にも書いてある。孟卓は、自ら俺を殺すための旗印となることを受け入れたのだ。たとえそれが一時の気の迷いであろうと、それは紛れもない事実。その男を、俺が救おうなどとしたらそれこそ示しがつかん。この間、どれだけの犠牲が出たと思う。俺が徐州に攻め込んで声望を落としたうえ、危うく兗州を失いかけ、取り戻すのにこうして一年かかっておる。その乱を招いた張本人を、私情で助けに行くなど、許されるわけがない。それに俺も――」
言いかけ、曹操が言葉を飲み込む。彼は嘆息して竹簡を机の上に置いた。
「それより、次だ。定陶を攻める前に東緡の様子を把握しておく必要があるだろう。あと、東緡までの途中に、昌邑がある。あそこは確か一度呂布を跳ね返したと言っていただろう。念のため恭順の意があるかないか確認しておかねばなるまい。東緡より、昌邑の方がよほど城市としては大きい。場合によっては統治をどうするかも考えねばならん」
「わかりました。じゃあ昌邑に使者を出しましょう。次どこに行くかは使者の返答を見てから」
曹操がうなずく。
まだその表情には割り切れない感情がありありと見て取れる。
これ以上張邈のことを言うのはやめよう、と郭嘉は思った。
「徐州へ向かいましょう」
陳宮が言っても、呂布は不満げに鼻を鳴らすだけだった。
曹操に負けてから、呂布は不機嫌そのものだった。
濮陽を失ってから、まず陳宮が考えたのは曹操を包囲することだった。陳留の張超、東武陽の臧洪、更に各地の太守とは盟約ができていたから、共に濮陽を包囲すれば、曹操とてそう簡単には跳ね返せないはずだった。
誤算はまず、臧洪が動けなかったことだった。思いがけず袁紹が曹操に味方した。陳宮の読みでは、袁紹は旗色の悪い曹操をあっさり切り捨てるはずだった。ところが袁紹は曹操に兵糧まで送って、しかも臧洪を攻囲さえしてその道を阻んだ。
次に陳留の張超が動かなかった。動けなかった、という方が正しいかもしれない。陳留の士人たちは張邈には心酔していたが、張超には従わなかったようだ。募兵が思うように進まず、ついには陳留から追い出されまでしたという。各地の盟約していた太守はやる気があるのかないのか、濮陽を落としてすぐ、連絡がつかなくなった。日和見を決めたのだろう。
加えて呂布自身も、攻城がうまくいかず、負け続きだった。しかも、定陶と鉅野、いずれでも曹操の伏兵に遭い、呂布は腹心の騎兵をかなり減らしていた。兵そのものが死んだのもあるが、馬が殺されたり奪われたりしたのも痛い。辺境の精強な馬は簡単には手に入らないからだ。
いらだつ呂布に、今度こそと陳宮が策を献上し、ほとんど東緡を放棄するような形で乗氏に攻め込んだ。曹操は麦の刈り入れに兵をほとんど出してしまっていて、乗氏にはほとんど兵が残っていなかったはずだった。
しかし結局再び負けて、逃げるしかなくなった。
不満げな呂布の視線は、「お前の言うことなんて聞くべきじゃなかった」と言わんばかりだ。
お前なんかを担いだのが間違いだった。陳宮とてそう言ってやりたい気分だったが、そんなことを言ったところで何も変わらない。
「徐州は先だって主が変わったばかり。支配は盤石とはいえず、奪うのは簡単でしょう」
「はっ、何を寝ぼけたことを。お前のせいでこっちの兵はもうわずか二千だぞ!? しかも徐州へ向かう兵糧だってほとんどない!」
「ですから、まずは徐州を治める劉備に泣きつくのです。劉備は情に篤い男と有名なのだとか。おそらく、将軍が泣きつけば保護してくれるでしょう。その恩返しに、と州境の城市で曹操に対する防衛を担うとでも言えば、うまくすれば城市の一つも任せてくれるかも知れません」
「城の一つとったところで」
「将軍、申し上げたでしょう。劉備はまだ徐州牧になったばかり。南には袁術があり、西には曹操、北には袁紹。もめる種はどれだけでもあります。どこかをけしかけて徐州に戦を呼び込めば、我らが隙を見て徐州を奪うことも可能です」
「……ふん。なるほど」
「加えて、徐州は曹操に恨み骨髄です。曹操にとっては攻めにくい土地ですから、曹操はそう簡単には攻められない。我らはその間に力を蓄え、曹操を打倒し、天下を獲る道筋をつけることもできるのです」
陳宮の言葉に、呂布はまだ面白くなさそうにうなずくだけだった。
「私は、袁術に救援を求めてもいいと思うがな」
口を挟んだのは張邈だった。
「袁術に?」
「そうだ。腐っても名門。仮に劉備に保護してもらったところで、矢面に立たされて戦わされるだけだろう。ならば、袁術に援軍を頼んでみてもいいのではないか?」
「なるほど! 確かにそうだな。劉備なんぞより、よっぽどいい」
「将軍、袁術は吝嗇な男で有名ですぞ。名門とはいえ、近頃は落ち目。袁術に救援をもとめれば、それこそ矢面に立たされ、捨て駒にされるのは目に見ています!」
陳宮の剣幕に、張邈は怯えたようにさっと目をそらした。
「だ、だが、劉備が我らを受け入れるという保証はあるまい。それに、味方は多い方がいい。将軍と陳軍師は徐州へ向かい、私は袁術の下へ向かおう。両方味方にできればそれに越したことはない」
「そうだな! それがいい。そうだろう、陳宮?」
呂布が陳宮を振り返る。その顔には笑顔があったが、有無を言わさぬ雰囲気が感じられた。断れば、ますます呂布からの信はなくなるかもしれない。それは避けたい。
「……よろしいでしょう。では、我らは劉備に泣きつき、徐州の州境あたりに駐屯できるよう掛け合いましょう。孟卓殿は袁術から兵や兵糧など融通してもらえないか、または我らが軍を立て直した場合連合できないか、聞いていただきたい。どの道距離的に、あなたが寿春に到着するのは相当先になるでしょうから。おそらくそれまでには劉備との話はまとまっておりましょう」
「わかった。袁術とは面識もあるゆえ、きっとうまくいくだろうと思う」
ほっとしたように張邈が微笑む。
張邈は本気で袁術と結べるとでも思っているのだろうか。呂布は一度袁術ともめているというのに。
そこまで考えて、ふと気づいた。
袁術の下へ向かうとなれば、相当な距離だ。途中で行き先を変えたところで気づかないとでも思っているのではないか。連れて行くのが元々の張邈の臣下だけなら、文句は言わないだろう。たとえその行き先が弟のいる陳留だろうと、曹操の下へだろうと。
――そういうことか!
陳留ならばまだしも、曹操の下へなど行かれては事だ。結局張邈は呂布に無理やり担がれただけで、元々本意ではなかったということになり、呂布と陳宮が謀反を起こしたことがますます悪し様に言われることになる。
案の定、翌朝張邈は己の臣下だけを連れて行くと言い出したので、陳宮はそこに己の部下を数人潜り込ませた。理由などいくらでもついた。最初張邈が連れて行くと言ったのはわずか五人だったので、それでは少なすぎるともう数人押し付けたのだ。
部下には、張邈がおかしな様子を見せれば殺せと命じてある。
同行を嫌がられれば問い詰めてその場で殺してしまうつもりだったが、意外にも張邈はあっさりと受け入れ、礼まで言って見せた。
「では、行ってくる。将軍も道中気を付けてな。悋気を起こして陳軍師と喧嘩することのないように。陳軍師はあなたの大切な頭脳ですぞ。今や並み居る猛将たちと同じく、あなたの大切な股肱なのだ」
出がけにまるで子供に諭すように呂布にそう言って、張邈は出て行った。
本気でそう思っているのか。あるいは逃げようとしているのか。最後までよくわからない男だった。ただ、悪意のない男ではある。それだけに、呂布は張邈によくなついていた。
しかし、当初彼に期待したような大義の旗印としてはほとんど役に立たない男だった。正直もう、いてもいなくても大した影響はないだろう。もちろん、本当に袁術との同盟をまとめられるというのならそれに越したことはないが。
張邈の一行を見送ってから、陳宮はどうやって劉備を抱き込むかを考え始めた。
呂布たちと別れて南に進路を取って二日目、張邈は目の前ではぜる焚火をただ無心で見つめていた。
目をつむれば、不思議と思い浮かぶのは若いころの曹操の顔ばかりだった。
初めて曹操に会ったのは袁紹のところだった。袁紹は多くの食客や士人と交流していて、曹操はその中の一人だった。
袁紹の周りの名士たちは張邈を含め、ほとんどが袁紹と同年代だったが、曹操だけが、そこから一世代下だった。しかし彼は年下だからとへりくだることもせず、相手が名門だろうがなんだろうが、気にせず対等な態度を取った。それを不遜と言う者も多かったが、その不遜な態度に見合うだけの教養と胆力を持ち合わせる曹操を、目をかけてかわいがる者も多かった。張邈もその一人だった。
腐った世を今に糺してみせる。
曹操はよくそう言っていた。宦官の孫がよく言ったものだ、と周囲に笑われながら、それをものともせず清廉な官吏の道を歩く彼を、最初はただ好ましく見ていただけだった。
しかし黄巾の乱が起こり、董卓の乱が起こり、苦難に遭うたびにそれを乗り越える彼を見て、いつしかこの男こそ、と思うようになった。
だが同時に、彼を敵視する者も多くなった。大きな力を持てば、出る釘は打たれるものだろう。あれほど曹操を買っていた袁紹さえ、いつしか曹操にいらだちを見せるようになった。
彼を守りたかった。天下を糺してみせると言った彼を、せめて少しでも助けてやりたかった。
――だというのに、どこで間違えたのか。
徐州で汚名を着た曹操は、しかしその後順調に兗州を取り戻している。彼の器がそうさせるのか、それとも周囲の臣下たちがうまくやっているのか、兗州は再び曹操の手に戻りつつあった。もちろん、呂布の略奪と対比して、軍紀のしっかりした曹操軍が好意的に受け入れられたこともあるだろう。
曹操の台頭を快く思わなかった筆頭が、おそらく弟の張超だろう。張超は、反董卓に旗を挙げた時点で、張邈を旗印に、自分が戦をして天下を狙うくらいの野心があったのかもしれない。しかし、董卓との戦いの最中部下を死なせたことで、張超は完全に曹操に反感を抱いてしまった。
そして、徐州の虐殺。弟はきっと機会を狙っていたのだろう。曹操を追い落とす機会を。
「孟卓様」
呼びかけられ、張邈の意識は現実へと戻った。見れば、すぐそばに連れてきた部下の一人が膝をついていた。
「どうした?」
問うと、部下はさっと周囲を見回した。
他にも数人起きて焚火を囲んでいる者がいるが、全員張邈の元からの部下だった。陳宮がつけた護衛の兵は周囲を探るために今はいない。一時ほどしたら偵察を終えて戻ってくるはずだった。
「逃げましょう、孟卓様」
予想していた言葉に、張邈は返事をしなかった。ただふっと息を吐き、また焚火に視線を戻す。
「このまま袁術のところに行ったところで、呂布の命運など目に見えています。いくら乱世とはいえ、あのように略奪をして民を蹂躙する男が天下を獲るはずもありません。それよりは、陳留の張超様なり、曹操様なりの元へ身を寄せられた方が」
「だめだ。そんなことはできぬ。私はこの乱を招いたものとして、己だけ逃げるなどということはできない」
それに、今更逃げてどうなるというのだ。張超のところに逃げれば、彼はきっと張邈を旗印に兵を集め、曹操に敵対しようとするだろう。勝てるはずもない戦に挑んで、弟も兵も皆死ぬことになる。無駄な血を流すだけだ。
仮に曹操のところへ行けばどうか。死ぬのは自分だけで済むかもしれないが、そこには何の意味もない。反乱を起こした腰抜けが曹操に泣きついて殺された。史書に記録が残るとすればその程度のことで、不名誉極まりない。
そこまで考え、今更史書に汚名を残すなどということを気にしている自分がおかしかった。
「逃げたければそなたたちだけ逃げるがよい。奉先殿に先がないというのは、確かにそうであろう。陳軍師も、頭はいいがいささか視野が狭い。孟徳のあの器には敵うまいて」
「孟卓様」
「少し考えればわかったことだった。それを、弟の剣幕に押されて、私は――」
徐州での虐殺のことを聞いた時、張邈はぞっとしたものだ。そんなことをする者が天下を獲れるわけがないのに、なぜあの頭のいい曹操がそんなことを、と。
だがどうだ。結局曹操はその悪評を跳ね返し、兗州を獲り返しつつある。呂布を担いだ弟は、無駄な血を流してまで曹操に対抗しようとしているが、そこに大義など感じられない。呂布は呂布で、己の欲のまま罪のない者たちから略奪するだけだ。
自分がすべきは、弟をなだめ、曹操を諫めて彼を扶けることではなかったのか。
しかしいくらそんなことを考えても今更だった。
ため息をついて、顔を手で覆う。この期に及んで、脳裏に浮かぶのは若いころの曹操の笑顔だった。
「孟卓様、しっかりなさってください。今からでも遅くありません。曹操様に泣きつけば、きっと許してくださいます。あの方は情のない方ではない」
「裏切りの算段ですか?」
不意に聞こえた声に、部下はすぐさま立ち上がり、剣を構えていた。
いつの間に戻っていたのか、陳宮が付けた兵たちがそろって剣を抜き、闇の中に立っていた。
「も、孟卓様、お逃げを!」
「違う。逃げるのはそなただ」
部下の腕を引っ張って後ろに追いやると、張邈は彼の前に出た。驚いた陳宮の部下たちが目を丸くしている。
「陳軍師はこういったところは実に抜け目のないお方だな。だが、必要なのは私の首だけだろう? 他の者たちは見逃してやってくれ」
「孟卓様!」
「私は、疲れた。遅かれ早かれこうなる運命だったのだ。この乱世に力なきものは、道を誤ればもう」
死ぬしかない。
張邈は薄く笑って胸の中で独り言ちた。
自分が願っていたのは、天下の泰平か、あるいは曹操が天下を獲るところだったのか。
剣を振りかぶる兵を前に、張邈はそっと目を閉じた。その瞬間、頬を涙が伝うのを感じていた。




