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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
1.乱世の始まり
4/64

4<荀彧編/郭嘉編>再会

冀州で郭嘉と荀彧が再会。

荀彧は曹操の下へ旅立ち、郭嘉はひとまず冀州に腰を落ち着けることに。


荀諶が弟か兄かで悩んだのですが弟と言うことで。

 乱世だ。

 冀州に着いた時、荀彧はしみじみそう思った。

 冀州牧だった韓馥を頼って冀州に来てみれば、すでに韓馥は袁紹に冀州牧の地位を譲ったという。譲ったとは体のいい言い方で、実際は地位を譲るよう脅されたのだろう、と荀彧は思った。

 韓馥は治世には良き領主だったかもしれないが、戦に長けるたちではなく、どちらかというと臆病だという評判だった。元々袁紹が渤海太守だったこともあって、袁紹は冀州なら簡単に獲れるとでも思ったのだろう。

 そして実際、韓馥はあっさりと袁紹に地位を譲った。

 更に荀彧を嘆息させたのは、弟の荀諶がその冀州譲渡の際に、袁紹の片棒を担いで韓馥を説得した、ということだった。

「兄上は何がご不満なのですか」

 弟は、冀州に着いて以来我が物顔で荀彧の面倒を見たがった。

 一族で冀州に逃げてきた荀彧にとって、弟がすでに袁紹の重臣になっていること自体は悪いことではなかった。おかげで住む場所の確保も簡単だったし、彼は無職の荀彧を袁紹に推挙し、いきなり上賓の礼でもてなされもした。

 そう、これだけならば問題はなかったのだ。

 袁紹が、仕えるに値する主であれば。

「殿の何がご不満なのか、自分にはわかりかねますね、兄上。名門袁家の出身、ご自身も聡明で兵を率いる胆力もお持ちだ。それに、現に殿を慕って多くの名士が冀州にやってきている。それが、殿が天下を獲り得るいい証左ではありませんか」

 荀諶の言葉にはいくらかあざけるような色がにじんでいる。

 無理もない。兄弟中最も出来がいいと言われ続けた荀彧だったが、荀諶はどちらかというといつも荀彧と比べられ、今一つと言われることの多い弟だった。いつも荀彧の下風に見られ、思うところもあったのだろう。

 それがここにきて、一躍荀諶は袁紹が冀州を獲る立役者となった。まだ若いのに主の寵甚だしく、袁紹幕下の他の智者たちにも一目置かれ、さすがは荀家の者よと荀家の代表のように称賛されている。

 一方の荀彧はと言えば、官位を捨ててほうほうの体で潁川から冀州に逃げてきて、弟の口添えで間借りしている居候のような立場だ。いくら上賓の礼で遇されているとはいえ、実績のない荀彧より、すでに実績のある荀諶の方が優れていると見られるのは当たり前だった。荀諶はそれが得意でたまらないのだ。そして、兄を見下せるこの状況が嬉しくてたまらないのだろう。

「それが、殿が天下を獲るに足らないから出ていくなど……。正直におっしゃったらどうですか。私がいるからやりにくいとでも思っていらっしゃるのでしょう」

 この小生意気な弟がいるからやりにくいのは事実だ。だが、それだけならわざわざ仕えるべき主を見限ったりはしなかっただろう。

「賢才を保護し重用するのは確かにいいことだ。しかし、その多くの才を使いこなすにはまた主の側にも才がいる。失礼だが袁紹殿にはその器はない、と見た。それだけのことだ。わたしは、お前が袁紹殿に重用していただいていること自体はとても嬉しく思っているよ」

 負け惜しみを、と言わんばかりに荀諶が顔をゆがめる。荀彧はそこから目をそらした。

「兄弟のよしみで、私が出ていくことは袁紹殿に秘してくれないか。あの方にとっては私なぞいてもいなくてもさして変わりのないことだろうが、引き止められでもしたら面倒だ」

「無論、そのようなことはいたしませんよ、兄上。荀家の者が弟が気に入らなくて出ていくなぞ、恥ずかしくて口に出せませぬ。兄上は病を得たことにして、郷里に帰ったとでも申し上げておきましょう」

「助かる。旬日中には出ていくつもりだ。私は明日から、体調が悪くなる。そのつもりでいてくれ」

「承知しました」

 喜色を含んだ、あざけるような声音に嫌気がさす。

 これもまた、乱世のせいだ。平和な世ならこんなふうに兄弟でいがみ合うこともなかっただろうに。

 そう思ったが、すぐに考え直す。自分が何も成せていないがゆえに侮られる。しようがないことだ。

 早く天下を治めるに足る主を見つけるしかない。そして、その人を扶けることによって世を救うことだ。それが己のなすべきことで、その途中どのようなことがあってもこの目的は変えてはならない。

 自分が侮られるとか認められるとか、そういうところに重きを置くべきではないと承知している。それでも、弟にああも反目されることは堪えた。

 冀州を出ることはすぐに妻に告げ、次いで共に潁川から逃げてきた父にも告げた。

 父は最初、いい顔をしなかった。弟の荀諶が袁紹に仕えている以上、荀彧が別の諸侯に仕えることにひっかかりを覚えたようだ。場合によっては敵対し、殺しあうことにもなりかねない。そして、父もまた袁紹がいずれは天下を獲るだろうと思っている節があった。

「私のことは何かあった時のお守りくらいに思っておいてください、父上。万が一袁紹殿が敗れることがあっても、私が別の勢力に仕えていれば、一族が生き延びる道もあるかもしれない」

「お前は、あくまで袁紹殿は天下を獲れぬというのだな」

「はい」

 すぐさま答えると、父は嘆息してから、しようがないとばかりうなずいた。

「わかった。お前がそう決めたというのならば止めはすまい。兄弟反目しあうことは喜ばしいことではないが、確かに誰がどう覇権を握るかはわからぬ世の中だ。あるいはということもあるかもしれん」

「父上たちはこちらに残られるのがよろしいかと思います。目下、袁紹殿は確かに最も勝ちそうな勢力ではあります。しばらく戦乱に巻き込まれることもないでしょう。東の公孫瓚といがみ合っているようですが、さすがに公孫瓚には敗れますまい」

「では誰になら敗れうるというのだ?」

 父の半ば呆れたような声に、荀彧は少し考えてから言った。

「東郡の、曹操殿のもとへ行こうかと思っております」

「曹操? 会ったことがあるのか?」

「いえ。ですが、なかなかの人物ではないかと思っています」

 父はわずかに眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。

「わかった。気を付けるのだぞ。必要なものは持っていくといい」

「ありがとうございます」

 すぐに旅立ちの準備を始めた。

 四人目の子を産んでまだ半年もたたない妻は、文句の一つも言わず、黙々とその準備を手伝ってくれる。それもまた、荀彧の胸を締め付けた。世が世なら、下女にかしずかれ、こんなことなど一切しなくてもいい生活を送っていたはずだ。それなのに、荀彧が官位を捨てて逃げてきても、妻は文句の一つも言わず、穏やかに微笑んで支えてくれる。心底頭の下がる思いだった。宦官の娘だの、政略結婚だのと周囲は色々と言ってきたが、妻が荀彧の心の支えになっているのは紛れもない事実だ。

 ――次こそは、彼女のためにもきちんと仕官したいものだが。

 曹操が望むような男であってほしいと願う。彼がだめなら本気で誰に仕えるか頭を抱えることになりかねない。

「いつ、旅立たれますか?」

 妻が聞いてくる。

「旬日の内にはと思っている。私は病を発したことになっているから、明日すぐというのも不自然だろう。しばらくは来客があっても寝込んでいると言って断ってくれないか」

「かしこまりました」

 こんなことを言っても、妻は嫌な顔一つしない。胸の痛みに耐えられなくなって、荀彧は彼女を抱き寄せた。

「情けない男ですまない」

「そんな。わたくしはそのようなこと、思っておりませんわ」

 妻が小さく笑ったのがわかる。彼女はそっと荀彧の背に腕を回し、胸にその頬を預けた。

「あなたがよき主に巡り合えることを祈っております。あなたは王をお支えする定めを持った方。今にきっと、あなたが太平の世を導かれましょう」

 答える言葉を見つけられず、荀彧はただ強く彼女を抱きしめた。




 荀彧の邸を見つけること自体は簡単だった。

 静が邸を見つけたその足で面会を申し入れたらしいのだが、病気で臥せっているからと断られてしまった。郭嘉は慌てて見舞いの品を用意し、書簡をしたためた。見舞いの言葉と、五年前に比べて健康になった礼がしたいので、元気になったら会いたいと書いて送ると、すぐに返事が来て、邸に招かれた。

「申し訳ありません。本来なら客間にお通しすべきなのですが、今はそういうわけにもいかなくて」

 人目につかないようにと裏口から通されたのは、客間ではなく荀彧の私室のようだった。しかし、病人の部屋でないことはすぐに分かった。代わりに、まるで明日にでも旅立てそうな荷がいくつかある。

 戸惑う郭嘉をよそに、荀彧は嬉しそうにじっと郭嘉を見つめていた。

「お久しぶりですね、奉孝殿。すっかり大人になられて、顔色もいい。華佗殿の処方がうまく効いたようで私も嬉しいですよ」

 久々に見た荀彧は相変わらずほれぼれとするような微笑みをたたえていた。ただ、少し疲れて見えるのは病のせいだろうか。

「文若殿のおかげです。一言、お礼が言いたくて。俺のこと、覚えてくださっててよかった」

「もちろんです。いろいろな智者の方と交わりましたが、あなたの見識の深さ、鋭さは今でも忘れられません」

「そんな、大げさな」

「大げさなどではありませんよ」

「はは。ありがとうございます。で、ええと……病気だって聞きましたけど」

 ちらと周囲を見ながら言うと、荀彧は苦笑して見せた。

「内緒にしておいてくださいね。実は仮病なんです。そろそろここをお暇しようかと思っていまして」

「え?」

「袁紹殿は天下を獲るに足らないと思いましたので」

 まるで天気の話でもするみたいに、にこにこしながら荀彧は言った。

「えっと……袁紹に仕えてる、んですよね?」

「わたしとしてはそのつもりはなかったのですが、こちらに逃げてきた時、すでに弟は袁紹殿にお仕えしていて、その関係で、弟が半ば強引にわたしを袁紹殿に推挙したのです。あれよあれよという間に賓客として迎えられ……。そうですね、傍から見ると臣従したようにも見えていたかもしれません。献策を求められ、意見申し上げたことも何度かありましたし」

 荀彧は小首をかしげ、かすかに苦笑した。

「正直、最初はこのまま袁紹殿にお仕えすることも悪くないと思ってはいたのです。ですが、話せば話すほど、どうも、今一つ、と思ってしまって。それで、ここを出て行こうかと」

「そう、なんですか」

「そういう奉孝殿はどうしてここに? 袁紹殿にお仕えするつもりなのですか?」

「まさか、違いますよ」

「では、なぜ冀州に?」

「最初は、ただ逃げてきたんです。潁川は今、ひどいことになってて」

 郭嘉は簡単にこれまでの事情を説明した。元気になったので洛陽を見てきたこと。帰ってきたら潁川がひどいことになっていたこと、そして、陳留に家族を置いて、荀彧に会うためにここへやってきたことも。

「そうですか。あなたがこうして会いに来てくれたことはとても嬉しいのですが、潁川のことは……」

 荀彧の秀麗な眉が痛ましげにひそめられる。

「間に合いませんでしたね。残念です」

「間に合わない? って」

「実は、袁紹殿に兵を出してもらえないかと思っていたのです。潁川は都に近く、いずれ騒乱に巻き込まれることは必定。特に洛陽以西に物資がなくなれば、董卓軍が略奪に来るのは目に見えていました。それで、袁紹殿に提案したのです。予州に兵を出していただけないのかと。袁紹殿に野心があれば、悪い話ではないと思っていました。領土を広げる足掛かりにもなりますし」

 なるほど、勢力圏を広げようにもむやみに兵を動かすわけにもいかない。それでも救援のためとなれば、兵を動かし、強引に勢力圏に入れることも不可能ではないだろう。

「でも、袁紹は乗ってこなかったんですね」

「ええ、冀州から予州に向かうには兗州を通らねばならないのが一つ。もう一つは、仮に予州を制したところで保つのは難しいと思われたようです。確かに、予州を制すればぐっと洛陽に近いところを獲ることになる。となれば、董卓とぶつかる可能性も高くなります。袁紹殿にとっては、勢力拡大より損害の可能性が大きいと思ったのでしょう」

「うーん、確かに、策としてはあまり得はないかな。今の状態のままなら董卓との間に予州・兗州があるし、矢面には立たされない。でも逆に考えれば、うまく董卓軍を打ち払えば声望も高まるし、そこまで損ばっかりでもない気もしますけど」

「潁川には智者が多く、獲れば人的な意味でも得るものは大きいと申し上げたのですが、すげなく却下されました。己の故郷を守るがために兵を出せとは、と」

 荀彧は苦笑を浮かべ、首を横に振った。

「そう取られてもしようのないことです。袁紹殿としては、背後に公孫瓚がいる以上、新たな火種を抱えたくないという思惑もあったでしょう。わたしとしては、袁紹殿が天下平定を考えておられるならば、洛陽へのいい足掛かりになると思ったのですが。それをきっかけに……」

 荀彧が不意に口をつぐむ。怪訝に思って見つめると、彼はまたかぶりを振った。

「いえ、お恥ずかしい限りです。私もまだまだだということです。これ以上言うのはやめましょう。あなたが袁紹殿を見る目に予断が入ってしまうかもしれない。私の言葉ではなく、奉孝殿は奉孝殿の目で袁紹殿を見られるといいでしょう。その上で、仕官するかしないかお決めになるべきです」

「いや、俺はもともと仕官するつもりはないですよ。あんな、反董卓の盟主を任されたくせにな~んもせずに撤退した奴なんて」

 くす、と荀彧が笑った。

「では、どうなさるのです? 陳留に戻られるのですか?」

「いえ。しばらく遊学したいと思っています。俺、ちゃんとした先生について学問したこともなくて。それに、どこかに仕官しようにもまだ体力が足りないし。旅しながら、従軍に耐えられるくらい体力をつけたいと思っています」

「従軍?」

「え、ええと……なんとなく戦に興味があるっていうか、軍師とか、いいなって」

 荀彧は意外そうに小首をかしげた後、嬉しそうに目を細めた。

「この乱世、戦とは無関係ではいられないでしょう。そのように思われるのは素晴らしいことですね。私など、戦場に立つかもしれないと思うと恐ろしいとさえ思ってしまいます。ですが、仕官する以上そうも言っていられないでしょうが」

「仕官、ってもう、どこへ行くか決めてるんですか?」

 荀彧はうなずき、言った。

「東郡太守の曹操殿の下へ行こうかと思っています」

「ああ、曹操殿」

「ご存じなのですか?」

「そこまでじゃないんですけど、ここに来るまでに一度、お会いして」

 言いながら、胸に曹操と会った時の感情がよみがえってきた。炎のような瞳、圧倒的な威圧感、見事な書。そして、彼が言っていた言葉も。

「なんていうか、すごい人、でしたよ。多分、文若殿にぴったりだ」

 それなりの家に生まれた以上、天下を安んじる義務がある。

 二人が同じようなことを言っていたのは偶然かもしれない。でも、きっと気が合うだろうと思った。

「そうであってほしいと願っています。そして、なんとしても自分が主の役に立てるような人間にならなくては。天下を、安んじるために」

 荀彧でもそんなふうに思うのだと、郭嘉は不思議に思った。人相見とて、何も彼の見た目だけで王佐の才などと言ったわけでもないだろうに。

「それはそうと、学問をしたいとおっしゃっていましたね。それでしたら、しばらく冀州に留まられるのがいいでしょう。袁紹殿の下には、都の騒乱を嫌って逃げてきた文人の方々が結構います。皆さん、あなたのような才子から請われれば、喜んで教えてくれるでしょう」

「さ、才子って、俺そんな大したものじゃないですけど。でも、それだと袁紹に臣従するってことになりますよね?」

「そこは、深く考えないことです。逃げてきた文人の方々も、一見袁紹殿に臣従しているようで、半分は客人のようなもの。皆さん気ままに学問を論じ、特別袁紹殿のために何かをしているというわけでもありませんでしたよ。まあ、たまに袁紹殿に意見を求められるくらいはあるかもしれませんが」

 荀彧はいたずらっぽく笑って続けた。

「なに、袁紹殿に仕官を求められたら、自分は病がちなので仕官は難しいとでもいえばいいのです。潁川が戦乱に巻き込まれ、逃げてきたと言えば邪険にもされないでしょう。おそらく、出ていく際も病だと言ってしまえば止められもしません。なんなら弟を紹介しましょう。弟は袁紹殿の寵を得ているので、うまく潜り込めると思いますよ」

「ありがとうございます。でもそれは、大丈夫かな。俺も、親戚が一人袁紹に仕えてるんで。郭公則(郭図)、いますよね?」

「ああ、公則殿。そうですね、その方がいいかもしれません」

 ひとしきり雑談した後、邸を辞すことになった。荀彧は入り口近くまで見送りに来て、最後、じっと郭嘉を見つめながら言った。

「ぜひ、またお会いしたいものです。願わくは、同じ主を戴くものとして」

「どうでしょう。曹操殿は、文若殿が部下になったらもう軍師なんて要らないって言いそうな気もしますけど」

「まさか、そんな」

 二人して笑いあい、別れの挨拶を交わした。




 荀彧が言っていた通り、袁紹のところに潜り込むのは簡単だった。

 郭図に連絡を取ると、実にあっさり袁紹のところへ招かれた。仕官するつもりはないぞと一応釘を刺したが、郭図もまた、深く気にすることはないとあっさり言った。

「お前はいればそれでいい」

 そう言われ、郭嘉は眉をひそめた。

 幼いころから馬鹿にされてきた郭嘉にしてみれば、それが好意から出てきた言葉でないことはわかる。では、なぜ? その疑問は、袁紹に会い、郭図がどういう立場なのかわかってくると見えてきた。

「殿、こちらは郭嘉と申します。一族の者で、体は弱いのですが、学問はそれなりに修めております。近頃潁川が董卓の略奪に遭い、命からがら逃げてきたとのことで、連れてまいりました」

 いつもの嫌味たらしい郭図とも思えない、通りのいい声で首を垂れるのを見て、郭嘉はこいつにも裏表があったのだな、と悟った。

「郭嘉と申します。他に頼るあてもなく、一族の公則殿を頼って参りました」

 郭嘉もまた猫をかぶり、おとなしそうな声で言った。臣従したいとか、置いてほしいなどとは、あえて口にはしない。

「おお、郭嘉殿と言われるか。よくぞ来られた」

 顔を挙げてみると、鷹揚そうな笑顔を浮かべ、袁紹は微笑んでいた。

 あの曹操の強烈な威圧感からすれば、取り立てて何も感じないと言いたくなるほど、いいところの御曹司、という雰囲気しかない。

「そうか、潁川がそのようなことにな。さぞやお疲れであろう。ゆっくり休まれるとよい。私は今、智者勇将のお力を求めておりましてな。郭嘉殿にも、ぜひ我が力になっていただきたいものだ」

「恐れ入ります。非才なる身の上、幼少より体も弱く臥せってばかりですが、お力になれますれば幸いです」

 心にもないことを、いかにも病弱そうに言って深々と首を垂れて見せる。

 顔を挙げた後、袁紹の周囲に何人か立っていることに気づいた。若いの、年配の者、様々だ。おそらく、袁紹の腹心なのだろう。それが、郭図と勢力争いをしている軍師たちだと知ったのは、その数日後だった。




 その日のうちに、袁紹の広大な邸に一室を与えられた。従者と一緒に住んでもさして困らない程度の室だ。食はそれなりに提供してくれるらしく、かといって仕事を強要されるでもない。郭図は時々呼び出すときについてくるのが条件だ、と言ったが、それ以外には本当に何もなかった。

 これ幸いと、郭嘉は周囲の文人たちを訪ねて回り、教えを乞うた。荀彧の言っていた通り、袁紹は多くの文人を保護していて、彼らは袁紹の相談役という名目で同じように室を与えられていた。ほとんどが気のいい人物で、郭嘉が今まで師もなく学問してきたのだと言うと、実に親切に教えてくれた。

 広大な邸に、これだけの人士を養うだけでも相当な金が必要になるだろう。これが四世三公の財力か、と感心するばかりだった。

 数日袁紹の下で過ごすうち、なんとなく袁紹旗下の勢力図も見えてきた。

 袁紹が特に恃みにしている軍師が数人いて、それぞれが派閥を作っている。派閥の人数はすなわち袁紹への影響力に比例でもするのか、それぞれ勢力拡大を図っているそうで、訪ねて回った文人の中にはしつこく誘われて閉口している、と言っている者もいた。

 その点、郭嘉はもう郭図の派閥、と周囲が思っているのだろう。誰にも誘われはしなかった。

 ただし、代わりにかわるがわる各派閥の人間がやってきて、試すように議論をふっかけてくる。これが、郭嘉には案外楽しく、いい暇つぶしにもなり、自信にもなった。

 大抵の場合、議論で負けるのは相手の方だったのだ。

 やりすぎた、と思ったのは、半月が過ぎたころだ。

 訪ねて教えを乞うていた文人たちからは褒められるばかりで気づいていなかったのだが、それぞれ勢力を拡大しようと図っている郭図の敵対勢力たちから、やり手が来たと睨まれることになったのだ。

 そしてまた、郭図からも警戒されることになってしまった。

 郭図にとっては、郭嘉はあくまで引きこもって書におぼれているだけのただの本の虫、くらいのつもりだったのだろう。派閥の数合わせにちょうどいいと思っていたのが、いつの間にか郭図よりできるのではないかなどという噂が立っていたらしく、顔を合わせる度に嫌味を言われ、目立つようなことはするなと釘を刺された。

 郭図に睨まれること自体はどうでもよかったが、それによってここを追い出されたり、いらぬ軋轢を生んで居づらくなるのは面倒だ。今のところ、この文人に囲まれて生きる生活は大いに気に入っている。

 郭嘉はそれなら、と郭図に提案した。

「じゃあ、俺があんたに知恵を貸すよ。要はあんたが袁紹に認められればいいんだろ? 献策求められたりしたとき、俺も一緒に考える。俺の案でもあんたの考えと言うことにしてもらって構わない。俺、別に出世したいとか思ってないし」

 どうだ? と問うた時、郭嘉はこれもまた神経を逆なでするだけかもな、と薄々思ってはいた。郭図からすれば、格下から協力してやるぞ、と言われたに等しい。しかし、郭図は予想に反して、この話に乗ってきた。

 かくして、郭嘉は定期的に郭図と共に袁紹の下へ侍ることとなった。といっても、目立たずただ郭図の後ろに座って聞いているだけだ。袁紹に会う前日には大抵郭図がやってきて、郭嘉と意見を交わした。そこで出た意見は郭図が用いることもあれば、用いないこともあった。だが結果的に、袁紹はそれなりに郭図を重用したので、郭図も郭嘉につっかかってくることはなくなった。

 逆に、勢力を落としていく軍師もいた。主な一人が、荀彧の弟、荀諶だ。

 兄とは違い、割と前に出たがる押しの強い性格だが、話していれば相当に頭が切れることは郭嘉にも分かった。さすがと思ったが、彼は徐々に力を失ってしまったようだ。その原因の一つに、荀彧がいなくなったことがあった。

 荀彧は、袁紹の下にいた時は荀諶の良き助言者のような立ち位置にいつつ、幕下の文人たちと交わっていたらしい。智者たちの中で荀彧の人気は絶大で、荀彧の派閥なら、と荀諶についていた者も少なからずいたようだ。ところが、荀彧と荀諶の仲はあまりよくなかったらしい。荀彧が出て行ったのは荀諶が追い出したせいだとか、二人が喧嘩したせいだとか、まことしやかに噂が広がっていた。あれほどの兄を追い出した荀諶はろくな人物ではない、とはっきり嫌悪を示す者もいた。必然的に荀諶は求心力を失い、袁紹にもなかなか献策を取り上げられなくなってしまったようだ。

 更に、郭嘉が袁紹の下にやってきて数か月経ったころ、荀彧が曹操に仕え、我が子房とまで呼ばれて重用されている、という噂が伝わってきた。

 袁紹はそれを不快に思ったようだ。それに同調するように、荀諶にもまた、批判の矛先が向かった。荀彧は荀諶が出しゃばったせいで力を発揮できなかったのだ、と。

 荀彧を追い出した荀諶が悪い。

 そんな風潮ができてしまい、肩身が狭くなったのだろう。荀諶はしばらくすると、ほとんど表には出てこなくなった。

 ――あれほどの智者なのに。勢力争いってもんは怖いもんだな。

 荀諶が能力的に劣っていたとは郭嘉は思わなかった。彼に議論を吹っ掛けられたこともあったが、結構苦戦した記憶がある。知識も頭の回転も鋭く、こんなことにならなければ袁紹の腹心であり続けてもおかしくなかったはずだ。

 それとも、人柄だろうか。彼が荀彧のように周囲とうまくやる能力に長けていたなら、結果は違っていたのかもしれない。

 ――仕官てのも楽じゃないな。

 そう思うと、なんだかんだうまくやっている郭図もそれなりの人物なのかもしれないな、と思った。


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