38:<荀彧編>天下への道
陶謙が死んだことで徐州に攻め込むという曹操を、荀彧は郭嘉と共に説得。
その夜、荀彧は曹操に彼が天下を獲るための道を示す。
もうじき夏になろうかというころ、荀彧の下に曹操から鉅野を落とした、と書簡が届いた。
乗氏に滞在して内政を整えていた荀彧は、その知らせに頬を緩めた。これで、呂布の勢力はかなり削げたことになる。定陶は相変わらず落ちてはいないが、曹洪たちが囲んでいて、敵はほとんど外には出られない状況だ。当然周辺の田畑の収穫も難しいだろうから、じきに決着が着くだろう。鉅野に転戦した曹操たちは、打って出てきた呂布の将に対し、鮮やかに会戦で勝ったという。ついでに援軍に来た呂布も罠にはめ、かなりの損害を与えたようだ。ただ、呂布の首そのものは討ち漏らしている。
あとは、定陶と陳留を落とすばかりだ。定陶は時間の問題だろうと思えるが、陳留の陣容はよくわからない。少なくとも、苦戦する呂布に援軍を出してはいないが、曹操が攻め寄せてあっさり城を明け渡すかというと、それはないだろう。
鉅野で一段落したら一度乗氏に戻り、次は東緡攻略を目指す。
徐州から厄介な報が届いたのは、ちょうどそんな書簡が曹操から届いた頃だった。
「殿、殿! お待ちくださいって」
その日、予定より早い曹操の到着を聞いて出迎えに行くと、ちょうど府の入り口で、すたすた歩く曹操を必死になって追いかける郭嘉と出くわした。
「殿、お忘れですか。勝兵はまず勝ちて然る後に戦いを求め、敗兵はまず戦いて然る後に勝ちを求む。よくわかっておられるでしょう!」
「わかっておるわ!」
「ならば、もう一度お考え直しを! 今行っても勝てません!」
「その方法を考えるのがお前の仕事だろうと言ったではないか、奉孝」
「だから無茶言わないでくださいって! あ、文若殿」
郭嘉と一瞬目を合わせてから、荀彧はあえてふわりと微笑んで、曹操の前で拱手した。
「殿、おかえりなさいませ。ご無事でなによりでございます。予定より随分早いお帰りですね」
「うむ」
一瞥して、曹操が横をすり抜けていく。面倒だな、とその目が言っているのを荀彧は見逃さなかった。
「奉孝殿と言い争いながらお帰りになるなど、穏便ではございませんね。何かありましたか? この後は東緡を攻められると書簡には書いてありましたが、何か問題でも」
「殿が徐州に行くって言っ――」
「もう決めたことだ、文若。すぐに徐州侵攻に必要なだけの穀を集め、準備をせよ」
郭嘉の言葉を遮るように曹操が言う。しかし、曹操は荀彧とは目を合わせなかった。彼もまた、反対されるのを見越しているのだ。
――ああ、やはり。
荀彧は胸の中だけで嘆息した。陶謙が死んで劉備が徐州牧になったという報に接してから、ある程度想定していたことではあった。今、乗氏に自分がいたことが幸いだとさえ思ったものだ。
「先ごろの書簡には東緡を攻められると」
「気が変わったのだ」
「しかし殿、それは不可能です」
「容易く言うな。なんとかせよ」
「そもそも、どうやって徐州に行かれるおつもりでしょう? 今鉅野を陥とし、その将を討たれたとはいえ、呂布はまだ東緡に幅を利かせております。東の徐州に向かうにはどうあってもその呂布を抜かねば話になりませぬが」
「それは奉孝がどうにかする」
殿、と郭嘉が困ったようにつぶやいたのが耳に届いたが、荀彧はそれを顧みることはしなかった。
「では殿、穀の話をいたしますが、季節的に、そろそろ麦は刈り入れの季節です。仮に呂布の威を考えぬとしても、こちらから行軍して徐州につくのは早くて一月後。当然徐州では先年の殿の厳しい処罰に懲りておりますから、早めに麦をすべて刈り取り、門という門を固く閉ざして我が軍を阻もうとするでしょう。となれば、攻城には相当な時間と労力がかかります。仮に大急ぎでこちらの若い麦を刈り入れたところで、ひと月・ふた月と攻城が続いて、万余の軍を支え切れるだけの穀があるかどうか。略奪しようにも畑に麦はなく、持参の麦もせいぜいで徐州に到着するまででございましょう。城壁を破れば徐州の麦は手に入るかもしれませんが、その城壁が容易く破れることはないでしょう。何せ徐州の民は殿に恨み骨髄でございます。率先して守りにつき、たとえ身が尽き果てようとも降伏などいたしますまい。それこそ総力戦となり、城内の穀が尽き果て、互いに食らいあうところまで行ってもなお、我が軍と戦おうとするでしょう」
ぴくり、と曹操が眉を顰める。怒りを抑えている証拠だ。荀彧は言葉を選びながら続けた。
「そもそも、過去を鑑みますに、高祖は関中を、光武帝は河内を根拠とし、そこに深く根を下ろすことで天下を平らげることに成功しました。勝敗は兵家の常。負ける時もあれば勝つ時もあります。負けても逃げ戻り、身を守る強固な根拠地があったことで、そこに息をひそめ、力を蓄えて再び勝利を得ることができたのです。今、殿は兗州を根拠として兵を起こされましたが、それを呂布に奪われ、取り戻そうとしている最中です。その半ばまで取り返したとはいえ、未だ呂布の脅威はぬぐい切れておりません。徐州を落とさんと多くの兵を東に割けば、守りが薄くなり再び兗州を呂布に奪われること必至です。徐州の民が硬く門を閉ざし、仮に城を落とせなかった場合、殿はどちらへお戻りになるおつもりですか? 徐州は落とせず、戻るところもないとなれば、これはもう天下を安んじる道を失うことに他なりません」
ぎり、と曹操が歯ぎしりするのが見えた。それでも振り返らずにすたすたと歩く曹操を追いながら、荀彧は続ける。
「殿が報仇を念じられるお気持ちはわかります。しかしそのために全軍を危地に陥れることはまかりなりません。どうか、今一度お考えを」
曹操が足を止めた。しかし彼はまだ歯噛みして、じっと前を睨んだままだ。
もう一息。
そう思って声を挙げかけたところで、誰かが荀彧の腕をつかんだ。郭嘉だ。彼は曹操の腕もまた、掴んでいた。
「殿も文若殿も落ち着いて。そんなかっかしてたら冷静な判断なんてできませんよ。ここは室でゆっくり話し合いましょう」
「奉孝? 何を」
「はい、こっちこっち! 文若殿も」
郭嘉が曹操と荀彧の手を引き、強引に室に押し込めた。室にいた者たちを人払いすると、郭嘉が声を潜めて言う。
「殿、俺いいこと思いつきました」
「いいこと?」
眉を顰める曹操と荀彧を前に、郭嘉は実に楽しそうににやりと笑った。
「徐州を攻めるふりをして、呂布を殺る方法」
「俺と殿があんだけ派手に陣中で言い争って、今も文若殿が廊下であれだけ言い募って、多分、間諜にも殿が徐州を攻めようとしているってことはすぐに漏れるでしょう」
策を語る郭嘉は実に嬉々としていた。
何がそんなに楽しいのか、と荀彧は思わずにはいられなかった。ここで曹操を説得できるかどうかの瀬戸際だというのに。しかし、郭嘉は荀彧のそんな思惑など知るよしもなく、嬉々として続ける。
「これは呂布から見れば好機です。すっからかんになった乗氏を奪い返しにきっとやってくるはず! この機を逃す手はありません」
ちらと見ると、曹操もさっきのいらだちはどこかへ消え、半分あきれ顔だ。曹操の気勢をそいだのなら、これも悪いことではないかもしれないが。
「奉孝殿、ちょっと」
「多分、東緡あたりはそんな収穫ないんじゃないかと思うんですよね。鉅野もそうだったでしょう、殿? 連中、多分春にちゃんと種をまいてないんだ。おそらく、飢餓で種まで食い詰めてしまったんでしょう。だから、呂布は相当穀に窮しているはず。そんな中、殿が徐州へ出陣するなんて噂が来れば食いつかないはずがない。絶対に東緡から兵を出します」
「……で、こちらに攻め寄せるというのか? 徐州に向かう軍の方を狙うのではないか?」
勢い込んで話す郭嘉に、曹操がややひきぎみに言った。しかしそれに気づいているのかいないのか、郭嘉の勢いは止まらない。
「そこはさすがに呂布も考えるでしょう。徐州に向かう大軍相手に、腹を空かした兵で勝てるわけがない。これまでの戦いからして、多分呂布の軍はせいぜいで一万でしょう。それなら、徐州に向かう軍をやり過ごし、手薄になった乗氏を狙うはずです。だから、呂布をここにおびき寄せて討ち、そして徐州に向かうと見せかけた兵で、手薄になった東緡を奪います」
郭嘉が言い切った瞬間、曹操の目の色が変わった。
「これで、呂布を追いつめられる」
自信満々言い切った郭嘉の目は、らんらんと楽しそうに輝いていた。
確かに、東緡を落としてしまえば呂布は拠点を失うことになる。定陶にはまだ呂布側の将がいるにはいるが、どこまで連携を取れているか。定陶はずっと曹洪が囲んでいるのだ。
「もし、連中が拠点を失えば……」
「おそらく、どこかへ逃げるでしょう。連中、俺たちと張り合って城を奪い合うような体力はないはずだから、東に逃げて徐州辺りの手薄な城を狙うか、劉備ってのに泣きつくか。袁術はないかな、一回もめてるんでしょ? いずれにせよ、いい契機に」
「なりません!」
曹操と郭嘉が話を進めていくのに、荀彧は慌てて口を挟んだ。
「今もし呂布を東に退けられたなら、それでよしとすべきです。とても我が軍に徐州を落とせるだけの力はありません。仮に勢いをかって落とせたとしても、それを保つことなど不可能。穀と兵を無駄にするだけです」
振り返った曹操の目には、はっきりといらだちが浮かんでいた。しかし、負ける戦と判っていて行かせるわけにはいかない。
「徐州を落とすなら、最低限兗州全域を落とし、潁川と道をつけて穀を蓄えることを前提としてください。そうでなければ軍が持ちません。確実を期すなら、兗州・予州の全域を抑え、袁術を討ち、江東の勢力と盟を結んで、共に徐州へ攻め込む。そこまでしても、徐州をどこまで保てるか……」
舌打ちせんばかりの曹操をじっと見つめ、荀彧は郭嘉にも目を向けた。曹操とは対照的に、さっきまでらんらんと輝いていた郭嘉の瞳は、今はすっかり落ち着いて冷静な色をたたえている。
「奉孝殿も、わかるでしょう。今呂布を降せたとしても、余勢を駆って徐州に攻め込むことがどれほど危険なことか。そもそも彼らがなぜ劉備に徐州牧を任せたのか。陶謙が死ねば、殿が怒りに任せて徐州に攻め寄せることを見越して、その矛先を無関係の劉備に押し付け、うまくいなしてしまおうという考えなのです。もし仮に陶謙の息子が徐州牧を継いでいれば、殿の怒りの矛先はそのままその息子に向いたでしょう。しかし、劉備は全くの他人、しかも、殿とのは多少の縁もある。徐州側としては殿の怒りを逸らしたいのです。そしてまた、劉備という男も何も考えずに徐州牧を継いだはずがありません。先年、徐州に攻め込んだ際、殿は彼と干戈を交えられたのでしょう? 殿の強さも、その報仇の念の強さも、劉備はよくわかっているはず。そして、劉備は公孫瓚と深いつながりがある」
「今、公孫瓚に援軍出すだけの余力はないと思うがな。袁紹と向き合っていよう」
「公孫瓚と袁術は結んでいますから、袁術に声をかけるかもしれません。あるいは、近頃袁術の配下で孫家の息子が大変戦に長けているという話も聞こえております。若くして戦に長けた男なら、声をかけられれば、これ幸いと飛んでこないとも限りません。袁術にとっては揚州に逼塞しているのは不本意なはず。徐州が手に入るかもしれないとなれば、黙ってはおりますまい。いずれにせよ、徐州侵攻はそう簡単ではないのです」
荀彧は拱手し、その場に膝をついてじっと曹操を見上げた。
「殿、どうかお考え直しください。呂布を陥れ、東緡を獲る。そこまでは問題ありません。しかしその先は、まず定陶、陳留攻略を優先していただきたい。わたしも全力を挙げて、穀の確保と城市の安定に努め、殿をお支えいたします。どうか」
平伏してしばらくすると、曹操の嘆息が聞こえた。
「……奉孝、お前はどう思う」
「そうですね、やっぱいきなり徐州はちょっときついかな。文若殿の言う通り、呂布を討って、兗州全域を抑えて、穀の確保。そこまでやって、次ですかね」
顔を上げると、渋い顔をした曹操とにっこり笑った郭嘉が見えた。
「殿がどうしても徐州に行くっていうならとりあえず行くだけ行って、陶謙の墓暴いて帰ってくればいいかなって思ったりもしましたけど、やっぱ無謀だし、損害が大きすぎますよね。それに、さっきも言いましたけど、勝兵はまず勝ちて然る後に戦いを求め、敗兵はまず戦いて然る後に勝ちを求む。ここで徐州を攻めたら、間違いなく後者です、殿。攻め込んで帰ってこられなかったら意味ないですよ」
「……うむ」
曹操が腕を組み、ひげをさする。しばらくそうした後、曹操はあきらめたように大きく嘆息して見せた。
「わかった。どの道、もう陶謙は死んだのだ。墓を暴くなら多少遅くとも良い。まずは、呂布を蹴散らすぞ。奉孝、策を申せ」
「はい。では――」
嬉しそうに策を述べる郭嘉を見て、荀彧はほっと胸をなでおろしていた。
「昼間は奉孝に毒気を抜かれたわ」
ぼやくような曹操の言葉に、荀彧は苦笑していた。
夜、久々に曹操に呼ばれ、荀彧は曹操の居室で碁盤を挟み向かい合っていた。いつもなら郭嘉の役目だったのだろうが、つい最近、郭嘉は睡眠不足で一度倒れたらしい。曹操は絶対に寝ろ、といって郭嘉を部屋に帰していた。
「あいつは時として、まるで子供が玩具でも見つけたかのように嬉しそうに戦を語りおる。そして、あいつが笑っていると大抵策が当たるのだ。兵たちにもすっかり浸透しつつある。『郭軍師が笑っていれば絶対勝つ』などとな」
まだ大した大戦もしてないというのに。
ぼやきとも取れない言葉だが、曹操の声はどこか楽しげだった。
「順調に奉孝殿が活躍していて、喜ばしい限りです」
「勝ち続けられればだ。一度負けらどうなるか。そこが分かれ目だろう」
「そこで、つぶれることもありうると?」
荀彧の問いに、曹操は持っていた碁石をもてあそぶように手のひらの上で転がした。
「どうだろうな。そこはやってみねばわからんだろう。おそらくは、本人もそのあたりを気にしておるのだろう。いつも深更まで地図と睨みあい、寝不足で倒れたというのだからな。奉孝も案外、かわいいところのある」
「かわいい、ですか」
「諸将の前では『負ける策など献じない』だの『負けると思ってるから勝てない』だの、強気なことを言っていながら、実は人知れず必死に策を練っておったなど。妙才あたりが聞いたら大喜びで奉孝をからかうだろうな」
くつくつ笑う曹操を見ていると、彼がいかに郭嘉を気に入っているかがよくわかる。つられるように、荀彧もまた笑顔になっていた。
「勝利は努力に裏打ちされたもの、ということですね」
「努力だけではない。やはりあれは才のある男だ。しかし、惜しいものだ。あいつは武将にはなれない。故に、前線で兵を率いて駆け、戦うことはできぬ。軍略のみで戦を勝利に持ち込むことはもちろんできるが、前線で剣をふるう将にしか見えないものというものもある。それを、奉孝は理解できまい」
「それは、将として不完全ということでしょうか」
戦の話になると、どうしても荀彧には知識だけのものになる。問いかけると、曹操は違うと首を振ってから、迷うように首をかしげた。
「あいつは将ではなく、軍師としてやっていけばよい。だから、さほど大きなことではないのだ。ただ、身内に奉孝ほどの軍才のある将があればとは思うがな」
曹操は今のところ一万以上の兵は身内以外には預けようとしない。身内の将が最も最初から従軍していて経験があるということもあるだろうが、離反を恐れているという面もあるだろう。それは、荀彧も賛成だ。城市を任せる、軍を預ける。これは大きな力を他人に任せるということだ。信頼のおける相手を、というのは当然のことだろう。
「まあ、奉孝ならば数万預けてもうまく使うだろうが。奉孝は奉孝なりに、己に武がないことはよくわかっていて、武将の勘のようなものは尊重せねばならないと思っているようではあるしな。そこを補おうと思えば、身内の誰かと組ませればいい。どいつもこいつも少々頭が足りておらんからな」
辛辣な言葉に、荀彧は苦笑するしかなかった。そこまでひどいとは思わないが、兵法書すべて頭に入っているような曹操から見れば、諸将は物足りなく思えるのだろう。
「殿は、確か孫子に注釈をつけておられるとおっしゃっていませんでしたか? それを、もう少しわかりやすくかみ砕いて、写したものを諸将に配ってみてはいかがでしょう? 諸将も戦に役に立つと思えば、まじめに読むのではないでしょうか?」
「ふむ、それも手か。まあ、奴らがきちんと読むかどうかはわからんが……」
「それはそうと、殿、この先の話ですが」
荀彧が言うと、曹操はじっと見つめていた盤面から荀彧に視線を移した。
その眼差しが不満げなのを見て、荀彧はあえて微笑む。
「東緡を落とし、呂布を追い払うところまでは問題ないでしょう。その先、定陶、陳留と落とす。それもよろしゅうございますか?」
「お前がそうしろと言ったのではないか」
「はい。そして、その先です」
その先? と曹操が眉をひそめた。
「徐州に行くのではないのか」
「殿、戦には大義が必要です。それがなくば、戦はただの殺戮に成り下がってしまう」
「親の敵を討つに大義がないと申すか」
叩きつけるような声にも、荀彧は微笑みを崩さなかった。
「もちろん、それも義です。ですが、徐州の民にとってそれは、殿を討つのもまた義ということになってしまいます。我らは、これを覆さねばなりません。我らが徐州に攻め入った時に、我らが徐州の民をも納得させるだけの大義のある軍である、と徐州の民に思わせるくらいでなくては」
曹操が片目をすがめる。
「そんなことは」
「仮にそれを為し得なければ、徐州を得ても得るものより失うものが多い。先年の戦で徐州は相当に人口を減らしております。殿が蹴散らした各地の城市にほとんど人の姿はなく、当然田畑も放置されていて、ろくな収穫は見込めません。仮に呂布を屠った後すぐに徐州に攻め込めば、抵抗は強く、落としても収穫は少なく、それこそ陶謙の墓を暴いて終わりでしょう。すなわち徐州を落とす意味などないに等しい。天下を安んじることを目指すならば、最低でも徐州の民は生かし、彼らが殿の民として生きることを肯じるようにしなくては」
「……可能なのか、それが」
「可能です」
「どうやって」
「帝です」
荀彧が言い切ると、また曹操は怪訝そうに眉をひそめた。
「帝、だと?」
「はい。陛下に付き従っている友人からの報せですと、陛下の周辺は今混乱を極めているようです。元董卓の残党たちが周辺の群雄と廷臣を巻き込み、醜い権力争いに明け暮れているとか。しかし図抜けた者はなく、混乱は深くなるばかり。しかも、帝は長安から洛陽へ戻りたいと仰せだとか」
「廃墟となった洛陽へか。帝は、道理がわかっておられぬのか」
「それは、お会いしてみないことには。ただ、それでも帝は帝です。この国を照らす、一条の光には違いありません。長安にいるそれぞれの勢力が、その一筋の光を頼りになんとか己の力を強めようと相争っている。しかし図抜けた力を持つ者はない。となれば、彼らは外に力を求めるでしょう。都の周辺にある、力のある群雄を」
荀彧は盤面の上に並んだ石の一つを指さし、言った。
「ここを洛陽といたしますと、冀州の袁紹、荊州の劉表、益州の劉焉、そして揚州の袁術。おそらくこのあたりが、今帝の周りで相争っている連中の力の求め先でしょう」
盤面の上で次々に指を動かし、最後に荀彧は洛陽にぐっと近い当たりで指を止めた。
「しかし、いずれも遠い。そこに、殿がぐっと都に近いこのあたりに拠点を作ると、連中の目は必ずや殿に向きます。おそらく、救援を求めてきます。それを利用します」
ふむ、と曹操がうなってひげをさすった。
「権力争いに巻き込まれた帝を助けに行く、ということか。しかしそれも、利用されることになりはせぬか」
「もちろん、その危険はあります。しかし、そこで殿が朝廷を牛耳ることができれば、帝の名で天下に号令することができる。真に天下を平定して安寧をもたらすため、と大義を掲げて戦をすることができるのです。これに逆らえる者は誰もおりません」
もちろん、徐州の民もだ。曹操軍にひれ伏すことには抵抗が強いだろうが、帝の軍となれば少しは風当たりも違うだろう。もちろん、完全に恨みをなくすことなどできるはずもないが。
曹操は荀彧の言葉をずっと黙って聞いていた。まるで探るように見つめてくる炎の瞳に、心臓が昂る。しかしそれも、荀彧は表には出さなかった。
長い間、じっと見つめあっていた。
次の言葉を言うべきか。荀彧がそう考え始めたところで、曹操がふ、と息を吐いた。
「簡単に言いおるわ。仮に帝を助けに行ったとて、朝廷を牛耳るのがそう簡単なわけがない。数は少なかろうが、それでも廷臣のすべてを俺の威の下にひれ伏させねばならぬのだぞ」
「殿の器であれば十分可能かと。廷臣たちは、苦境の中でそれでもなお、帝のおそばにあることを選んだ者たちです。もちろん、生き残れば富貴の道がと思っている者もいるでしょうが、それだけで残れるほど、今の朝廷は甘いものではありません。聞けば白絹を争って殺し合いが起こるほど、帝の周囲は飢え、困窮していると聞きます」
「嘆かわしい話だ」
「それでもなお帝の傍に残る者たちは、きっと多くが天下の安寧を願っているはず。そこに殿が現れれば、天下を制するだけの力と才を持った者が現れたと殿に助力せぬわけがありません」
「それはお前の願望であろう」
「いいえ、確信です。殿は現にそれだけの器をお持ちです。殿にその意さえおありなら、あとはわたしがすべて、何とか致します」
曹操は軽く目をみはったあと、またじっと見つめてきた。
「なんとかすると? お前は今、朝廷を己のほしいままにすると言っているのだぞ」
「違います。殿の天下平定をお助けするために、殿が朝廷の臣の頂点に立たれることをお助けいたします、と申し上げています」
「俺に朝廷の頂点に立てというのか」
「はい」
「あっさり言いおるわ」
「状況さえ整えばそう難しいことではありません。殿は、天下の平安を願う人々を糾合し、それに号令すればすむだけのことでございますから」
そんな簡単なことか、と見つめてくる曹操の目が言っていた。しかし、荀彧はこれこそが曹操が天下を得るための道と信じて疑ったこともない。じっと見つめ返すと、曹操はまた小さく嘆息して言った。
「で? そうするためにどこに拠点を移す」
「許に」
また少し目をみはり、曹操は小首をかしげた。
「許は潁川の中心都市だな。都にほど近く、それなりの大都市だが」
「そして潁川は、先だっての董卓軍の略奪によって人口は激減、市中の家々にも空き家が多く、城外の田畑も耕す者がなく放棄されているものが多数と聞きます。しかし、それは逆に我らには好機でもあります。城市を抑えれば、空いている田畑に流民を定住させ耕させることも可能ですし、空き家が多ければ区画を整理して新たな建物を建てることも容易い。例えば、宮殿などもです」
もちろん、本格的にやるならば城壁の拡張なども必要になってくる。そう簡単なことではないだろうが。
「そして、お前の郷里だな、文若」
いくらか含みのある言葉に、荀彧はうなずいた。
「はい。ですから、荀家の力が及びやすいのは確かです。故に、土地の把握、穀の確保などやりやすいという面もあります。また、都までは二日の距離ですから、いずれ洛陽に戻りたいと仰せになる帝にもご納得いただけるかと」
「……どういう意味だ?」
「おそらく、数年のうちに帝は洛陽近くまで来られるのではないかと思います。しかし、ご存じの通り、洛陽は既に廃墟と化し、とても都と呼べるようなものではない。そこで、我らは帝からの救援を受ける形で、許への遷都を促します。許はそれなりの城市で城壁も高く、また、東西南北、どちらを攻めるにも程よい場所にあります。許に一度拠点を置いて、天下を平定しつつ洛陽を復興すると言えば、陛下にもご納得いただきやすいかと」
とんでもないことを、と曹操はいいたげだった。半ばあきれ顔で見つめてくる曹操に、荀彧は真顔で畳みかける。
「よって、少なくともあと二年、欲を言えばあと一年の間に、兗州を平定し、予州も制して許に拠点を移す。これができるかどうかで、我らの戦略は大きく変わります」
「それが、できれば?」
「天下を安んじる道への、大きな一歩になるかと」
きっぱりと言い切ると、曹操はじっと荀彧を見つめた後、大きくうなずいた。




