34:<郭嘉編>胸の内
出陣の準備を進める中、袁紹から使者がやってきた。
「まだ読んでたんですか。日が沈んだら来いと曹操様に言われていたのでしょう?」
静がそう声をかけてきたのは、もうほとんど日の暮れかかったころだった。
郭嘉は結局日中、ほぼずっと戯志才の房に籠って書物を読んでいた。やってきた静が夕方ごろ一度声をかけてきたが、日が沈んでからと言われたからもう少し、と言って燭に火を灯し、読みふけってつい、時間を忘れてしまったらしい。
「そうだった! っつか、お前なんでもっと早く来なかったんだよ!」
「何をおっしゃるのです。さっき燭を点けた時言ったじゃありませんか。片付けで忙しいからすぐに呼びに来られないので、いい加減にした方がいいですよ、と」
「あれ、そうだったっけ」
郭嘉は読んでいた竹簡をわかるように側にあった机の上に置くと、すぐに房を出た。
「じゃ、行ってくる」
足早に回廊を渡り、府に向かう。途中府から戻ってきたらしい者たちとすれ違い、何度か挨拶を交わしたが、郭嘉が曹操に呼ばれている、と言うと、皆一様にすぐに行った方がいい、と解放してくれた。
どうも、曹操が幕僚の誰かを夜呼ぶことはよくあることのようだ。誰しもが一度は呼び出しを受ける、と言っていた人もいた。
「すみません、遅れました」
結局途中で下男に先導してもらって曹操の居室にたどり着いた。室に入ると、曹操ともう一人、夏侯惇が座って盃を傾けていた。
「来たな。忘れているのかと思ったぞ」
「すみません、戯志才殿のところの竹簡を読んでたら、つい夢中になっちゃって」
郭嘉が言いながら座ると、曹操が楽しげに目を細めた。
「なかなか面白かったろう。どれを読んだのだ? 書棚の方か?」
「いえ、そっちは推定が多くて、史書引っ張り出さないとわかりづらいかなって。それより、殿に仕官してからの記録の方が面白くて。すごく詳細だし、地形とか、どう戦ったとかすごく細々書いてあって、まるで目に浮かぶようでした。特に、青州黄巾賊だったころ、殿と戦った記録がすごくて」
「ああ、あれな」
うんうん、とうなずく曹操の隣で、夏侯惇が呆れたように眉をひそめた。
「信じられんな。俺は志才の記録を読むと頭が痛くなる。詳細に過ぎるのだ、あれは」
「確かにな。だが、毎日どうやって勝つかを考えている人間にとっては、過去の戦もあれくらいの詳細な記録が残っていればと思わずにはいられん。戦っている最中は必死だが、改めてあの記録を見返すと反省すべき点も見えてくる」
夏侯惇が物言いたげにあきれ顔で曹操を見ている。しかし彼は曹操に見つめ返されると、ふいと顔を背け、郭嘉に目を向けてきた。
「それにしてもあの時の小僧がようやくやってきたとは、感慨深いな。いや、正直、孟徳に言われるまではお前のことはすっかり忘れていたのだが、陳留で策を授けられたことだけはよく覚えていた。あの時は、青白い顔をした弱そうなやつのくせに、妙に肚が据わっていると思ったものだが、いや、お前はなかなかだな」
どういう意味でなかなか、と言われているのだろう。そう思いつつ郭嘉も渡された盃に口をつけた。途端に口に芳醇な風味が広がり、郭嘉は驚いて声を挙げた。
「あ、これうまい」
「そうだろう。変わった醸造法をしている奴がいてな。作らせていたのだが、これもしばらくお預けだな」
曹操がさみしそうに盃を見つめた。
「どういう意味ですか?」
「来月から禁酒だと布令を出すつもりだ。今は穀が乏しい。まさか食うに困るような状況でわざわざ酒を造ろうとするやつがいるとも思えんが」
酒の材料はおおむね穀物だ。しかも、穀を大量に消費する。この穀が少ない状況で酒を醸造するのは、確かに自殺行為だ。
「穀一石一万銭とからしいですね」
「ああ。信じられん価格だ。今に本当に人を喰らい始めかねん。かといって、調達の見込みはなかなかな……。何か妙案はあるか?」
「文若殿とも話してたんですけど、一番現実的なとこで呂布に略奪させて、それを奪うとかじゃないですかね。呂布、あっちこっち荒らしまわってないですか?」
「そのようだ。だが、限度はあるだろう。あまりやりすぎて民から反感を買えばやりにくくなるのは奴らも同じだ。故に、我らもあまり露骨に呂布から奪ってばかりいれば、いずれそれを見抜く者も現れるかもしれん」
「そんなの、呂布から奪ったもののいくらか、民に返せばいいんですよ。そうすれば、曹操殿の名声は高まります。あ、じゃなかった、殿の、名声」
慌てて言い直すと、曹操が笑った。
「まだ慣れぬか」
「はい、なんかこう、変な感じで」
「変な感じ?」
何と表現したらわかってもらえるのだろう。郭嘉は考え、照れ隠しに笑みを浮かべた。
「なんていうか、今まで誰もそう呼ばなかったから、むずがゆいみたいな」
今度は曹操と一緒に夏侯惇まで笑った。
「袁紹を殿とは呼ばなかったのか?」
「そりゃそうですよ。俺、袁紹には臣従してませんからね」
「だが、奴のところで軍師をしていたのだろう?」
「正直言うと、そこまでのことは。親戚の郭図って奴が袁紹のところにいるんですけど、そいつが派閥争いに勝ちたがってて、後ろで入れ知恵とかはしてました。でも、俺自身はほとんど発言してなかったんです。けど、なんでかわからないけど袁紹に目をつけられて。俺がはっきりと自分の意見として献策したのは、劉表と結べっていうのだけですよ。それも、俺はそれを口実に荊州に逃げるつもりだったってだけだし、大したことは……」
「袁術が北上してきた時の話だな。あれをけしかけたのはお前だったというわけだ」
「そうです。俺は、劉表と曹操殿のはさみうちで袁術を討てれば曹操殿にも利があるんじゃないかと思ってたんですけど、文若殿とか、荊州で一緒にいた人にもそれは違うだろうって言われました。文若殿の話だと実際そうだったみたいですね。俺ってまだまだだなって思いましたよ」
「荊州で一緒だった人、とは?」
曹操が興味を惹かれたらしい。どう言ったものか、郭嘉は迷った。まだはっきりと彼が荀彧の従子だと確かめたわけではない。ただ、曹操の眼差しはあいまいな言葉を許しそうにはなかった。有能な士人には目がないと噂では聞いていたが、どうやら本当らしい。
「一緒にいた時は偽名しか教えてもらえなかったんですけど、多分、文若殿の親戚の人じゃないかと。江陵で一緒だったって言ったら、文若殿が文を出すと言っていたので、いずれ文若殿のところに来るかもしれませんね」
「そうか。それは楽しみだな」
「で、その後はどうしていたのだ?」
夏侯惇が言う。それに、郭嘉は答えた。
「潁川に戻ってのんびりしてました。一年くらいですかね。その後色々徐州の噂とか聞こえてきて、ちょっと濮陽にいる母のことが心配になってこっちに来たんです。最初はさっさと母を連れて潁川に帰るつもりだったんですけど、母はすっかり曹操殿に入れ込んでるし、文若殿は文若殿ですっかり曹操殿にほれ込んでて、殿が帰ってきたらぜひ会ってほしいなんて言うし、まあ、それなら曹操殿が帰ってくるまで待つかなって思ってたんですけど、そしたら、陳宮が反乱を」
もう母のことを言葉にしても、大きく動揺することはない。ただそれでもあの瞬間ああしていれば、という気持ちがなくなるかというとまた別の話だ。
わずかに沸き起こった後悔の念に、郭嘉は自然と皮肉めいた笑みを浮かべていた。
「後は、大体こないだお話しした通りです。調子に乗って呂布をそそのかして殺すつもりが、結局詰めが甘くて、母を殺されて、俺も死にかけました」
殊更明るく、笑ってごまかすような雰囲気で言ったつもりだった。しかし、それでも曹操と夏侯惇の反応は沈痛なものだ。しまったかな、と思っていると、曹操が言った。
「お前のあの傷は、呂布が? 母親も呂布に殺されたのか?」
「母を殺したのは、多分呂布です。その場で見たわけじゃないけど、陳宮がそう言ってたんで。でも呂布にそうさせたのは多分陳宮だと。俺は、母を人質に取られてる体で連中に献策してたんで、裏切れば母が殺されることは想定できたはずでした。それなのに俺はもうすっかり母は大丈夫みたいな気になって、策が失敗して陳宮が生きて戻ってきたらどうなるかとか、全然考えてなかったんですよね。陳宮からしてみれば、母を殺したのは、俺が裏切ったから当然くらいのもんでしょう」
「どういう意味だ? 『人質に取られている体で』とは。実際にはそうではなかったのか」
「それは……」
張邈が自分の味方をしていると勝手に思い込んでいた。それは確かだ。だが、あの時案外張邈の方も半分以上は郭嘉に味方していた部分もあるのではないかと思う。ただ、今となっては彼の真意はわからない。
「俺の思い込みだったのかもしれないですけど、張邈殿が、結構俺をかばってくれたり、呂布に会わせてくれたり、逃げろと言ってみたり、してました。だから張邈殿に頼んで母を府の座敷牢から城下の邸に移した時点で、もう大丈夫だろうみたいな気になっちゃったんですよね」
張邈の名に、曹操は過敏に反応した。みるみる顔色が変わっていくが、郭嘉はそのまま淡々と言葉を続ける。
「でも、何度聞いても曹操殿とはもう袂を別ったのだから、って言ってましたけどね。俺のこの傷も、張邈殿に斬られたものだし」
「何? 孟卓が、だと?」
「はい。最後の最後に兵に囲まれて、家僕がうまく陳宮人質に取ってくれてなんとか逃げられそうだったんですけど、その時に張邈殿が来て。俺、油断してたんですよね。あの人文人っぽいし、まさか俺を攻撃するなんて考えてもなくて。気を抜いた一瞬にこう、斬られて」
肩から胸まですっと指を動かして見せる。
「びっくりしましたよ。でも、斬った瞬間、あの人、俺に『死んだふりをしていろ』って言ったんです。もしかしたら、俺を逃がすために、俺を殺すふりしたのかも。実際、陳宮は俺を放置して逃げて行きましたし」
曹操の顔にはありありと驚愕の色が浮かんでいた。割り切れていないのは、どうやら彼も同じようだ。
「ただ、張邈殿の真意はわかりません。俺は一緒に曹操殿のところに行こうって言ったのに、結局あの人は陳宮と一緒に逃げて行きました。張邈殿は張邈殿で、態度が煮え切らないから陳宮から疑われたりもしてたのかもしれないし、陳宮の手前、俺を使ってその疑念を晴らそうとした可能性もあるとは思います。そうそう、そういえば俺、陳宮の目の前で『一緒に曹操殿のところ行こう』って言っちゃったしな」
曹操の目はもう郭嘉を見てはいなかった。何かを考え込んでいるらしく、口許を手で覆って床を睨んでいる。
「孟卓殿は、やはり反乱には本意ではないのではないか?」
代わりに言ったのは夏侯惇だった。それに、郭嘉は首を傾げる。
「そこが、俺もよくは……。ただ、そこまで積極的には加担してなかったですよ。迷いはあったんじゃないかと思うけど、でもはっきりと殿に味方しようって感じではなかったと思うんで、こればっかりは本人に聞いてみないと何とも」
「やはり、妻子を抑えられているからではないか。孟卓殿の妻子は陳留で弟御と一緒だという話だが。だったら孟卓殿の妻子を解放すれば」
「うーん、でも場所的に済陰すっとばしていきなり陳留っていうのはちょっと。それなら鉅野の呂布と一緒にいる張邈殿捕らえる方が早いんじゃ」
「お前は本当にそういうことを簡単に言う。呂布を降すのも一苦労なのだぞ」
「夏侯殿こそ、またそういうこと言う。そんなこと言ってるから勝てないんですよ」
「お前は呂布に相対したことがないからそう軽く言えるのだ。そもそも、お前とて、母親を殺されたことで恨みに思い、早く陳宮を殺したいと思って、先に呂布を攻めろと言っているのではないのか」
「んなバカなこと言いませんよ。そもそも呂布すっとばして陳留攻めようとしたら、戦線が伸びすぎてだめですよ。どっかで補給線切られたら終わりです。下手したら陳留攻めに行った方は孤立して、全滅でしょう」
む、と夏侯惇が押し黙る。彼にも無茶さがわかったのだろう。
「お前、冷静だな」
「そうですか? このくらい当然だと思いますけど」
「早く仇を討ちたいとは思わんのか? 母を殺されたのだろう。もう少し目の色を変えてもいいと思うのだがな」
そこでようやく、夏侯惇が誰と比べて物を言っているのかに気づいた。曹操は父を殺されて怒り狂っていたと聞いたから、おそらくそれと比べているのだ。
冷たい奴だと言われているのだろうか。あるいは孝が足りないとでも。
少し考えたが、さっきまで考え込んで黙っていた曹操まで自分を見ているのに気づき、郭嘉は素直に言うことにした。別に、隠すようなことでもない。
「そりゃ、可能ならすぐにでも陳宮を八つ裂きにしたいって思いますよ。だけど、そんなの無理でしょ。本当は毎晩毎晩考えてますよ。こんなヤな感情、とっととおさらばしたいって。毎晩悪夢にうなされるんですよね。陳宮を殺す夢だったり、逆に母にお前のせいで死んだってなじられる夢だったりして、寝汗びっしょりかいて目が覚めて、思うんです。これって陳宮八つ裂きにしたらおさまるのかなーとか」
じっと見つめてくる曹操のもの言いたげな視線が痛い。郭嘉はごまかすように笑って見せた。
「変ですよね、こんなの。戦場で当たり前に命のやり取りをしているお二人にとってみれば、何くだらないことって感じでしょうけど、俺、そういうの慣れてないから」
「いや、そんなことはない」
言ったのは曹操だった。意外に思って見つめると、彼はわずかな逡巡を見せ、郭嘉から目をそらした。
「俺も、毎晩考えている。この抑えがたい感情は陶謙を八つ裂きにすればおさまるのだろうか、と」
え、という郭嘉のつぶやきに応えることはせず、曹操は盃を煽った。それを、夏侯惇がじっと見つめている。痛ましげな、気づかわしげなまなざしで。
曹操もまた、苦しんでいるのだろうか。父を殺され、抑えがたい怒りと後悔で押しつぶされそうになっていると。それが郭嘉には少し意外だった。彼はもっと、怒りに駆られるばかりで、苦しんだりなどしないものとばかり思っていたのだ。
「そのためにはさっさと兗州を取り返すことだ。徐州は遠い。遠征の費用や穀を捻出できん限りは仇も討てんぞ」
「わかっておるわ」
夏侯惇が妙に軽い調子で言い、それにふてくされた曹操が返す。そのやりとりに、なんとなく二人の付き合いの深さが垣間見えた気がした。
翌朝、眠い目をこすりながら早朝から曹操の閲兵に付き添い、武官たちの紹介を受けた。昨日の朝議に出ていた武官は、それこそ曹操直属の高位の武官だけだったようだ。現場に来てみると、朝議に出ていた武官の下にそれぞれ何人もの部下がいた。郭嘉が紹介を受けたのは夏侯惇や夏侯淵といった朝議に出ていた武官の直属の部下までだが、それでも名前を覚えるのは大変だ。
軍の編成などの説明を受けたり、軍律の話を聞いたりして、曹操と一緒に昼頃府に戻ってくると、そこでは程昱という曹操の幕僚が待っていた。
「殿、袁紹から遣いが」
「袁紹から?」
曹操が首をかしげながら謁見の広間の一段高いところに座る。程昱がその面前に立って話し始めたので、郭嘉は脇に控えた。
程昱は五十過ぎの頭に白いものの混じった文官だった。時には兵を率いることもできる、曹操の気に入りの側近の一人だ、と荀彧が言っていた。ただ、直言をはばからず、極端な現実主義者で時々眉を顰めるようなことを平然と言ったりもするので、彼を苦手とする者も多いのだという。おそらくは、儒者から少し外れているのではないか、と郭嘉は荀彧の話を聞いて思っていた。
例えば、夢で太陽を戴く夢を見て、その直後曹操に出会ったので、曹操は天命を享けた人――すなわち次の天子なのではないか、などと平然と言っているという。曹操は笑ってそれを流したという話だが、程昱は程立という名から、立の字に日を加え、程昱と名乗ってはどうか、と曹操に言われたのだという。日を戴くという意味を込めて、だ。以来程立は程昱と名乗り、曹操は曹操で程昱が見た夢は縁起がいい、と言いふらしているという。
日を戴く、すなわち曹操を天子へと押し上げる、ということを狙っているのではないか、という噂もある。
困ったことだ、と荀彧が眉をひそめていたのを郭嘉は思い出していた。儒を重んじる彼にしてみれば、快いことではないだろう。ただ、それでも荀彧は程昱が有能だ、という評価は変えていないようだから、仕事ができる人物なのは間違いない。
「すでに客間で待たせてあります。連れて参りますか?」
「そうしろ」
曹操が言うと、程昱が使者を呼びに行かせ、郭嘉とは逆の位置に控えた。位置的に一段高い曹操を頂点として、武官側と文官側で向かい合うような形になる。目が合うと、程昱は感情の読めない眼差しで、なめるように足先から頭のてっぺんまでじろじろと眺めまわしてきた。さすがにいい気がしない。睨みつけると、程昱は改めて郭嘉を見つめ、曹操に視線を移した。
「殿、いかがですかな、戯志才殿の代わりの男は?」
「なかなかだぞ、程昱。志才よりできるかもしれんな。郭嘉、そなたも覚えておけ、程昱はともに戦場に立つことはないかもしれんが、なかなかやるぞ」
「それは、文若殿から聞いてます。有能な人だって」
曹操は程昱を敬遠する人間がいることを知っているのか、いないのか。ただ、よろしくやれと言われたって、にっこり笑ってやる必要性も感じない。なんとなく程昱を見ると、彼もまた気のない様子で目を合わせ、すぐに目をそむけた。機嫌を取るつもりもなければ、そう対立するつもりもない、くらいのものだろうか。
しばらくすると、足音が聞こえてきた。落ち着いた足取りが広間の前で止まり、先導してきた官吏の声が響く。
「冀州牧袁紹様より使者にございます」
「通せ」
曹操の声に反応して扉が開く。入ってきた男を見て、郭嘉は思わず声を挙げた。
「え、友若(荀諶)殿?」
意外な人選だ。ただ、直後に曹操と程立の視線を受け、郭嘉は口を引き結んだ。
やってきた荀諶もまた、ちらと郭嘉を見て眉をひそめたが、彼は優雅な所作で曹操の前まで進み出ると、流れるように拱手した。
「曹兗州様にお目通りいたします。冀州牧袁紹様の名代として参りました、荀諶、字を友若と申します」
彼は深々と腰を折り、ゆっくりと頭を下げた。その優雅な身のこなしはどこか荀彧を彷彿とさせる。ただ、面差しはあまり似ていない。眉目秀麗なのは同じだが、優しげな印象を受ける荀彧とは違い、荀諶はどこか才気走ったものを感じさせる。
「遠路ご苦労。初めて見る顔だな。荀姓ということは、文若の?」
「弟でございます」
「その割には、ほとんど歳が違わないように見えるが」
「兄とは腹違いで、生まれた日もひと月ほどしか違いません。よくどちらが兄でどちらが弟か、と聞かれます」
「ああ、なるほどな。しかし惜しかったな。文若は今頃濮陽であろう。旬日もすれば戻ってくるとは思うが」
「わたくしは別に兄に会いに来たわけではございませんので、お気遣いは無用です。我が主袁紹様より、曹兗州様に申し上げます」
穏やかに雑談を差し向けた曹操の言葉を断ち切るようなはきはきとした声だ。荀諶は背筋を伸ばし、まっすぐに曹操を見据えていた。
「我が主袁紹様は、曹兗州様の窮状を大変心配しております。腹心の部下に裏切られ、兗州の大半を奪われておしまいになった。しかも蝗が沸き起こり、兗州は大変な状況とか。このままでは兗州が呂布の手に落ちるのも時間の問題では、と主は心を痛めております。曹兗州様におかれましても、このような追い詰められた状況で呂布の如き猛獣を蹴散らすにはいささか難儀しておられましょう。本来ならば援軍をお送りすべきところではございますが、現在我が主は公孫瓚と事を構えており、それも難しいこととて、代わりに穀二千石、持参いたしました」
二千石ともなれば、今の軍ならひと月は持つ。かなりの量だ。まさか、袁紹が穀を送ってくるとは。驚いたのは曹操も同じだったらしい。荀諶に応えた曹操の声には驚きがにじみ出ていた。
「それはありがたい。本初には重々礼を伝えてくれ」
「とはいえ、わずか二千石では焼け石に水でございましょう。いつ呂布が鄄城に矛先を向けてくるかもわからぬ状況とあらば、兗州様も落ち着いて戦に向かうこともできますまい。主は、よろしければ曹兗州様の妻子を一時冀州に避難させてはいかがか、と申しております。そうすれば、呂布を屠るための援助は惜しまぬ、と」
「なっ!?」
顔色を変えたのは程昱だった。彼がまだ何か言おうとするのを止め、曹操が言う。
「それはどういう意味だ? 物資と引き換えに妻子を寄こせと?」
「よもや、そのような意味では。ただ、曹兗州様の持ち味はその鋭い攻め手でございましょう。戦上手の兗州様が力を発揮されるには、後顧の憂いは断っておかれた方がいいのではないか、と。妻子が安全なところにいると思えば、御身も心置きなく大胆な策で呂布を屠ることも可能でしょう。それに――」
荀諶がふわりと微笑む。ただしそれは荀彧の微笑みとは違って、どこか神経を逆なでするような色を帯びたものだった。
「御身は兗州各地の豪族から人質を取っていたものの、その人質を呂布に奪われ、後手に回ったとか。我が殿はそれを聞き及び、色々と考えられたものと思われます。我が殿の兗州様への信頼は絶対のものではございますが、この先何があるとも知れぬ状況。穀に窮した兗州様が、公孫瓚と向かい合う我らの後背を突かぬとも限らぬとお考えなのやもしれません」
臆面のない言い方に、曹操ははっきりと眉をひそめた。しかし曹操が文句を言うより先に、荀諶が嫌な笑みを浮かべたまま、言う。
「もし妻子を冀州に避難させることに同意いただけるのであれば、もう二万石ほど、援助する用意がございます。それくらいあれば、来年の夏くらいまではもつのではありませんか?」
その言葉に、曹操は眉を顰めつつ、うなった。ひげをさすって腕を組んでいるところを見ると、迷っているのだろう。
ちらと視線を動かすと、程昱はあからさまにいらだちを露わにして荀諶を睨んでいた。もちろん、荀諶の言っていることはかなり無礼な話だ。もっとも、袁紹からすれば元々曹操など見下していて、曹操がここまで勢力を高めたこと自体が計算外なのだろうけれども。
「友若殿、お久しぶりですね。俺のこと、覚えてます?」
沈黙が降りた中で、あえて郭嘉は能天気に荀諶に声をかけた。荀諶はわずかに眉をひそめ、穏やかに返してくる。
「ええ、お久しぶりですね、郭奉孝殿。公則(郭図)殿の話では、あなたは潁川に戻って、もうどこにも仕官するつもりはなさそうだ、ということでしたが」
「春先まではそのつもりだったんですけどね。色々あって、ようやく命を懸けてお仕えするにふさわしい主に巡り合うことができました。これからは天下の乱を治めるために、身命を賭して曹操様にお仕えするつもりです」
「それはそれは、結構なことだ。それにしても、我が殿にあれほど目を掛けられていながら、あえて曹兗州様を選ばれるとは。兗州様のどこがよくて仕官することを決めらたのですか?」
「どこがって、そんなの全部言ってたら日が暮れちゃいますよ。友若殿こそ、これを機にこのまま兗州に留まられてはいかがです? 一度我が殿とゆっくり話されてみることです。あなたの兄君がこのお方こそ我が主、と見込んだ意味も解るでしょう。どうせ、向こうに戻ったって大した仕事、ないんでしょ?」
郭嘉の言葉に、荀諶はあからさまに頬を引きつらせた。しかし、さすがに怒鳴り返してきたりはしない。彼は忌々しげに郭嘉を一瞥すると、曹操に再び向き直った。
「兗州様、お返事は。いかがでございましょう?」
「……うむ」
「殿、ここは一晩考えられてはどうです? 重大なことですから、じっくり考えてからお返事しないと」
「そう、だな。そうしよう。使者殿、今晩は泊ってゆかれるがいい。明朝、返事を言い渡そう。もっとも、こんな時世だ、宴でもてなすこともできないが」
「構いません。それではまた、明朝」
荀諶はまた優雅に拱手すると、すたすたと広間から去っていった。
足音が聞こえなくなってすぐ、曹操が郭嘉に問う。
「郭嘉、さっきのはどういう意味だ? 戻っても大した仕事がない、と言われ、あの男は顔をひきつらせていたが」
「そのままの意味です。俺が冀州を出た時点で、もうすでにあの人は権力争いに負けて、すっかり端に追いやられてましたよ。袁紹の幕僚の中では影響力なんかないはずです」
「ではなぜ、使者に」
「単に文若殿の弟だからじゃないですかね? あと、本人からすれば、これをうまくまとめられれば再び権勢を盛り返せると思ったのかも。袁紹にとっては、殿は目の上のたんこぶみたいなもんでしょうから」
「殿! 何を呑気な!」
言葉を交わす郭嘉と曹操に、程昱が割って入った。彼は明らかに顔に怒りを浮かべ、曹操の前に膝をついた。
「殿、よもや先程の話、受けられるつもりではありますまいな!?」
「うむ。……なにせ二万石だからな」
「たった二万石ごときで! 殿の神の如き勇武と聡明さがたった二万石でどうして贖えましょうや。なんと嘆かわしいことか! ここに文若殿がいたら卒倒しますぞ! わかっておられぬのですか。あの物言いは、あからさまに殿を臣下と見下す袁紹の驕慢の表れ! そもそも――」
故事を引き合いに出し、程昱の話――というより諫言は続く。言葉をきわめて曹操を説得するその姿は、臣下が主に諫言するという体をとってはいるが、どこか老爺が子供を叱っているかのような光景だ。曹操も慣れているのか、ちょっと嫌そうな顔をしながら程昱の話を聞いている。ただ、曹操の偉いところは決して話を逸らしたりはせず、きちんと相槌を打って程昱の話を聞いているところだ。
「殿、よくよくお考えいただきますように。袁紹は天下併呑の野心を抱くとはいえ、とてもそれを為しうるような器の持ち主ではございません。ひきかえ、殿はそれを為しうるだけの才知を、器をお持ちなのです。それを慕って集まった我らもおりますのに、なぜ袁紹ごときに膝を屈しようとなさるのか。殿は竜虎の如き勢威を持ちながら、今あえて韓信や彭越の道をたどられると言うのですか。どうか、考え直されますように」
うむ、と低くうなって曹操が嘆息する。そこに、郭嘉も声をかけた。
「殿、俺も反対です。妻子を渡したが最後、もう袁紹に臣従するしかなくなりますよ。そもそも、袁紹が殿のこと案じてるなんて嘘ですよ。袁紹は、殿がたった数万で青州黄巾賊百万を相手にすると言っていた時、まるで殿が死ぬのが嬉しいみたいに笑ってましたからね。今回のことだって、親切心から出た言葉ではなく、あわよくば漁夫の利で兗州を獲ってしまおうという考えでしょう。二万石は確かに大きいですが、なければやっていけないわけじゃない」
郭嘉の言葉にも曹操は何度かうなずいていた。だが、やはりまだ結論は出せないようだ。それを見た程立ががばと立ち上がる。
「わかりました。要は戦が立ちゆくだけの穀があればいいということですな」
「まあ、そうだが」
「私がそれを捻出してまいりましょう。数日お待ちを。袁紹の使者にはくれぐれも断りを入れられますように」
「わかった。わかったが、本気か? 一体どこから穀を捻出すると」
「穀なぞ、探せばあるところにはあるものです。必ずや目の前に並べてごらんに入れましょう。ですから、よろしいですな!?」
曹操がわかった、と言うと、程昱は足音も荒々しく出て行った。
「すごい剣幕ですね、一体どうすんだろ」
「まったくだ。まあ、したいようにさせておくが」
「それにしても、意外でしたね。俺、絶対に袁紹に穀を分けてくれって言っても分けてくれないだろうと思ってたんですけど。二千石も、向こうから持ってきてくれるなんて。しかも、もう二万石用意があるんでしょう? 冀州は相当備蓄があるんだな」
「そのようだ。連中も公孫瓚と向き合っていて、それなりに消費はしているだろうに」
「うーん、公孫瓚と戦ってる間は南から攻撃されたくないから、って感じですかね? 今兗州が完全に呂布の物になると、袁紹は南への備えもしなければいけなくなりますし」
「公孫瓚はそこまで強敵、ということなのだろうか。どう思う? 俺は公孫瓚は戦しか能のない男のように思える。戦は戦がうまいだけでは勝てん。最後は地力がものをいうことも多い。いずれ袁紹があっさりと公孫瓚を潰すとばかり思っていたのだが、もうすでにかなり時間が経っている」
「袁紹は、極力損害を少なく、犠牲を払わず勝とうとしますからね。やり方がまどろっこしいんですよ。そこに、公孫瓚がうまくやっている、ということじゃないでしょうか。もちろん時間の問題ではあるでしょうけど、まだもうちょっとかかるんじゃないかな。だから俺たちは、その間に兗州を取り戻さないと、ってことです」
郭嘉の言葉に、曹操はそうだな、とうなずいた。
翌朝、再び引見した荀諶に、曹操は妻子を冀州に送ることはしない、と明言した。
「せっかくの申し出だが、兗州を取り戻すにはそう手間はかかるまい。本初には公孫瓚と向き合って後背が心配なことはわかるが、我らがしっかり背後を固めるから安心してくれ、と言っておいてくれ。二千石の礼はくれぐれも伝えてくれ。それだけあれば、兗州を獲り返すことはたやすいことだとな」
曹操の言葉を聞いた後、荀諶は淡々とうなずき、やはり優雅なしぐさで拱手した。
「かしこまりました。我が主にはそう伝えます。曹兗州様はたいそう自信たっぷりであった、とお伝えいたしましょう。また、殿の背後をつくことはしない、とおっしゃっていた、とも」
「当然であろう。我らは共に天下を安んじると誓った盟友なのだからな」
曹操が穏やかな口調で言うのを、郭嘉は意外な思いで聞いていた。どこまで本気なのだろう。袁紹はどちらかといえば、曹操を手駒の一つくらいにしか見ていないだろうに。
荀諶も似たようなことを思ったのかもしれない。彼はわずかに秀麗な眉をひそめていた。
「残念ですね。妻子が兗州に残られるのでは、兗州様もさして思い切った策は取れぬはず。一体どうやって鮮やかに兗州を取り戻されるおつもりなのか、御身の神の如き軍略、楽しみにしております」
嫌味、だろうか。郭嘉が顔をしかめたその横で、曹操は楽しげに目を細めて言い返していた。
「ああ、楽しみにしていてくれ。私自身の軍略もそうだが、当代一の軍師も手に入れた。もはや負ける気はせんな。それにしてもそなた、なかなかできそうだな」
曹操に眺めまわされ、荀諶が眉をひそめる。そこに、曹操はまた楽しげに言った。
「こちらには文若もいる。気が向いたらいつでも、本初から私に乗り換えてもらって構わんぞ。聞けば、冀州では冷遇されているという話ではないか。本初も全く見る目のない。私ならば、そなたをもっと有効に使ってやれると思うのだがな」
「ご冗談を。わたくしは兄のように主を見誤ったりなどいたしません。ああ、そういえば……」
荀諶はふと思い出したように付け加えた。
「一つ、言い忘れていました。東武陽の臧洪殿にいささか不穏な動きがあります。彼は、張邈の弟、張超とは浅からぬ縁があるようで、殿に陳留への出兵の許可を求めてきたそうです。殿の命で東武陽に至った郭貢殿を追い出した、という話も」
「何?」
「今のところ、殿の命に従い出兵はしておりません。兵もまた、彼の私兵ではなく殿の兵ではございますし、めったなことはないとは思いますが、あるいは、呂布側の旗色が悪いとなれば、東武陽から鄄城に攻めかからないとも限らないでしょう。どうぞ、お気を付けくださいますように」
東武陽から鄄城は近い。曹操が呂布を追って南下している間に鄄城を襲われでもすれば、事だ。
「それでもまだ、お気持ちは変わられませんね?」
畳みかけた荀諶に、曹操はわずかに考え、うなずいた。
「ああ、己が領土は己が手で守ってみせる。本初には助言をくれたこと、礼を言うと伝えてくれ。万が一臧洪が兵を挙げた場合に備え、東阿あたりにも兵を控えさせよう。ただ、もし臧洪が攻めてきた場合はこちらも手加減はできない」
「それは当然のことでございましょう。こちらとしても、臧洪殿にいざこざを起こされるのは困ります。手は講じることになるでしょうが。それでは、失礼いたします」
荀諶は優雅に拱手して室を去っていった。
「東武陽か。厄介だな」
「東武陽って、殿の城市じゃなかったんですか?」
郭嘉の問いに、うなっていた曹操は首を振った。
「最初はな。だがそれも、袁紹から借り受けて東郡太守に任じられた、という形だった。だから俺が拠点を移した時点で、袁紹に返したのだ。黙ってそのままにしていたら向こうからあれやこれやと言ってくる可能性があると思ったのでな。その後、臧洪が新たに東郡太守に任じられたとは聞いていたが。あの、生真面目な男がな」
「袁紹に逆らってまで、出兵するような男なんですか? 東武陽から陳留だったら、思いっきり殿の勢力圏、横切ることになりますけど」
「どうだろうな。まじめな男だから、袁紹への忠を重んじ、出兵の許可を、と言い出したのだろう。ただ、奴の張超への恩義がそれを上回れば、ありえん話でもない。東阿と、鄄城、濮陽にはある程度まとまった守兵が必要だな」
守兵の配置を変える必要がある。郭嘉はすぐに曹操と編成をどう変えるかの話を始めた。




