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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
3.兗州平定
33/64

33:<郭嘉編>束の間の休息(後編)

郭嘉はようやく正式に曹操に仕官することになり、荀彧の導きで曹操の面前へ

 早朝の大通りは、すでに人が大勢行きかっていた。

 といっても、民の姿は少なく、ほとんどが官吏か兵だ。市も開かれていないとあって、商店も扉が閉められているばかりでさみしいものだ。

 荀彧の邸は比較的(やくしょ)に近いところにあり、一刻(十五分)ほど歩けば府に着くという。濮陽に比べて狭いという鄄城の城市の中は、確かに通りも濮陽に比べれば狭く、そのせいか馬車もほとんど通らない。

「官吏って、馬車で出仕してたような気がするんですけど……」

「そうですね、大きな街では普通そうですよ。でも、ここは狭いですし、邸も近いですからね。それでも、足腰の弱い方は馬車で来られていたりもしますよ」

 年寄りの幕僚、ということだろうか。

「府に着いたら、まず殿にご挨拶します。殿には今日奉孝殿を連れて行くと言ってありますので、皆待っていると思います」

「皆? って」

「新参の幕僚候補が来たら、まず皆の前で殿に引見するのが習わしのようになっているんです。まずは自己紹介、その後、おそらく殿から二・三お言葉があって、その後どこの所属になるか決まると思いますよ」

「それって、要するに試されてる、みたいな?」

「そういう面もあるかもしれませんね。ただ、人によっては委縮してしまってうまくしゃべれない方もいましたが、殿はあまりその辺は気にされないようで。口が回らずとも仕事ができればよい、とお考えのようです。むしろ幕僚たちへの顔見せという側面の方が強いかもしれませんね。まあ奉孝殿は大丈夫でしょう。あなたが物おじするところなど想像つきませんし」

「まあ、それはそうだけど。そんなのいちいちやるんですね。その引見の場で不採用になっちゃった人がいたりしないんですか?」

「殿にお目通りする時点で幕僚の誰かの推挙があるので、今のところはそのような方はいませんね。ただ、殿は結果を出せない者には厳しいですよ。結果を出せば重用し、出せない者はどんどん閑職に追いやられていく。おもねる臣下はまず真っ先に遠ざける、殿はそういうお方です」

 話しているうちに、府の門が見えてきた。門衛たちが荀彧を見て挨拶をしてくる。それに荀彧が微笑みながら挨拶を返すのを見、郭嘉もそれに倣った。それ以降もすれ違う官吏たちのほぼすべてが荀彧に挨拶をする。彼らは一様に郭嘉にも目を向け、ひとまずの挨拶はしたが、それ以上話しかけてくることはなかった。

 府に入って最初に通されたのは、荀彧の執務室だった。なんでも、朝議に全員がそろったら呼びに来ることになっているという。

「なんか、仰々しいですね」

「主役は遅れてくるものと決まっていますから。奉孝殿なら問題ありませんよ。さ、待っている間に、少し現状を説明しましょう。殿からご下問があるかもしれませんから」

 そう言って、荀彧は現状の説明を始めた。

 濮陽を取り返した後、呂布は東の山陽方面へ向かったらしい。いくつかの城市は既に呂布側の将が抑えているが、中には呂布に逆らって呂布を跳ね返した城市もあったようだ。

 一方、曹操は部下に各地の鎮撫を命じたそうで、そちらは順調に抵抗の少ない城市を落としているらしい。少なくとも東郡、東平は勢力下に置くことができた、ということだった。

 曹操自身は今鄄城で兵の再編を行っていて、ひと月以内には再び呂布と対峙すべく、準備を整えているという。

「殿はおそらく、再出陣の際にあなたを連れて行きたいのだと思います。戯志才殿が亡くなって、作戦を相談できる相手がいないとぼやいておられましたので」

「え、戯志才殿、亡くなったんだ?」

「ええ。濮陽での初戦で、呂布に。あっという間だったという話です」

 初戦と言えば、呂布が曹操軍をいともたやすく蹴散らしたあの戦いだ。最初の突撃か、あるいは門が焼け落ちた後の攻撃か、いずれかで巻き込まれたのだろう。

「そっか、それで……」

「それで、とは?」

「いや、濮陽にいた時、戯志才殿がいるっていうから、なんか奇策でも返されるんじゃとか思ってた時があったんだ。でも結局、何もなかったから」

「ああ、そういうことですか。でも、わたしの印象では、志才殿は奇策を用いるような策士というよりは、膨大な記録と知識を積み重ね、緻密な分析で殿に助言するというのを主にしていたと思いますよ。彼の蔵書はすごいものがありますから、後で殿に見せていただくといいでしょう」

 どうやら、戯志才は郭嘉が思っていたのとは少し違った謀士だったようだ。彼がいるから自分の出番はないのでは、と構えていたので少し拍子抜けする。もっとも、曹操には荀彧もいれば、他にも謀士はいるだろう。仕官すれば誰かと比べられるのは避けようもないが。

「殿からご下問があるとすれば、呂布をどう攻めるかというようなことか、あるいは穀の確保をどうするか、というようなことでしょうか。あとは、各地の情勢に絡め、今後の展望を、というようなことを聞かれる可能性もありますね。考えておくといいですよ」

「答え、教えてくれるわけじゃないんだ」

 おどけて言うと、荀彧が微笑んだ。ただ、目が笑っていない。

「わたしの考えをそのまま言ったら、殿にばれてしまいますよ。わたしの考えは既に毎日のように殿と議論を交わし、お伝えしていますからね」

「はは、なるほど」

 ほどなく官吏が呼びに来て、郭嘉は荀彧の後ろについて広間へと向かった。

 先程とは違い、府の回廊に人の影はほとんどない。しんと静まり返った辺りに、自分たちの歩く足音だけが聞こえていた。

 広間にたどり着くと、室に入る前に荀彧が足を止め、拱手する。

「殿、荀彧です。郭奉孝殿をお連れしました」

 荀彧に倣って郭嘉も拱手し、顔を挙げる。居並ぶ武官・文官の奥の一段高いところで、曹操が一人座っていた。

 ――幕僚、少ないな。

 武官は五人だけ、文官は十人はいるだろうが、二十人はいない。反乱の際に多くがいなくなった、ということか、それとも主だった幕僚だけということなのか。

 前へ、と促されて進み出る。荀彧は途中で郭嘉から離れ、文官たちの列の一番前に並んだ。

「奉孝殿、ご挨拶を」

 荀彧が言う。それにうなずき、郭嘉は改めて拱手した。

「潁川郡陽翟県出身、郭嘉、字を奉孝と申します」

 しばらく待っても、言葉はない。顔を挙げて曹操を見ると、彼が一つうなずくのが見えた。

「もう怪我はいいのか? ひと月前は腕が上がらないと言っていたように思うが」

「はい、もう問題ありません。時々、痛みますけど」

「ならばよい。もう少し、自己紹介せよ。今まで何をしていた?」

「えっと、あえて言うほどのことは、何も……」

 袁紹のところにいたとか、呂布に入れ知恵したというのは、あまり言わない方がいいのではないか。困って荀彧を見ると、彼は苦笑して言った。

「奉孝殿、素直に言えばよろしい。袁紹のところでしばらく軍師をしていたものの、袁紹では天下を獲れないと思い、こちらへやってきたのですよね?」

「軍師って程のことはしてないですけど。適当に軍議に顔出してただけで」

 言いすぎじゃないか、とつぶやくと、すかさず荀彧が続けた。

「わたしが冀州の知人から聞いた限りでは、その軍議での些細な一言がいちいち的を射ていて、袁紹に目をかけられ、かの地で権力争いに巻き込まれたのだとか。おのが陣営に取り込もうとした者に、まじめに働く気がないなら殺すと脅されて、潁川へ帰ったのですよね」

「それは、まあ、そんな感じかな。袁紹は多くの謀臣を抱えながら、それをまともに使うこともできていません。臣下はそれぞれ派閥を作って、自分の勢力をいかに拡大するしか考えてない。お互いに足の引っ張り合いにばかり熱心です。俺は親族の郭図を通して献策したりもしましたけど、結局袁紹はなるべく犠牲を少なく、他者を利用して己だけが利を得るような方法しか取ろうとしません。あれでは天下は望めないでしょう。袁紹は一度も負けずに天下を獲るつもりでしょうけど、効率が悪すぎる」

 当たり障りのないことを言ったつもりだったが、周囲からは感心したような声が上がった。

「では、天下を獲るには何が必要か?」

 曹操が問うてくる。その眼差しには試すような色もある。どこか楽しげに細められたその瞳の強さに吞まれそうになりながら、郭嘉は答えた。

「一言で表すことはできません。乱を治めうる武、時には失敗を恐れず挑む果敢さ、これらは既にお持ちのように思えます。また、国を治めるには人も必要ですから、才ある者を集めることも必要でしょう。現状、これは袁紹には劣ると言わざるを得ません。まずは兗州を取り返し、徳政を施すことで徐々に名声を高めていかれることです。特に今、呂布は兗州内で略奪を働いているはず。それと対比して、曹操軍は軍紀もしっかりしていて略奪せず、むしろ民を守ってくれる、となれば兗州の民はおのずと曹操殿に味方しましょう。またその積み重ねが各地に噂となって広まれば、曹操殿の器を見込んで仕官しようとする者も増えるのではないかと」

 曹操がうなずく。しかしこの話には周囲の臣下たちはあまりいい顔をしなかった。徐州の影響が大きく、その程度では覆せないと誰もが思っているのだろう。おそらくは、曹操もだ。

「では、目下その呂布を屠る策を献じてもらいたい。お前は志才の代わりだ。しばらく私の傍で軍略について献策せよ。その後のことは、そなたの働きを見て決める」

「かしこまりました」

「下がっていいぞ。そうだな、お前はあちらだ」

 曹操は居並ぶ臣下の内、武官たちが並ぶ列を示した。どうやら郭嘉は軍務担当、ということになるらしい。拱手して武官の最後尾に並ぶと、居並ぶ臣下たちが報告を始めた。

 穀の調達状況、新しい士卒の募集を一時中断したこと、武官からは軍の再編の状況の説明があった。どうやら曹操軍の兵は主に曹操の親族らしい曹姓の二人と、夏侯姓の二人が率いているらしい。

 現在、曹仁は一万を率いて濮陽に駐屯中で、曹洪は二万を率いて東平を鎮撫中。夏侯惇と夏侯淵は鄄城で兵の再編と、調練を担当しているようだ。その下に数人武将がいて、彼らは夏侯惇たちの下で、それぞれ数千の兵を率いているらしい。

 ――思ったより、数、少ないな。

 兵は十万くらいいるのかと思ったが、計算すると五・六万程度ということになる。減ったのか、減らしたのか。

 一通り報告が終わると散会になった。文官たちがぞろぞろと出ていく中、荀彧だけが残って曹操に拱手する。

「殿、奉孝殿の引見も終わったことですし、わたしはまた数日、濮陽と東平のあたりを周って状況を見てまいります」

「ああ、頼んだぞ。衛兵は必ず連れて行け」

「心得ております。奉孝殿、殿に申し上げた通り、わたしはしばらく留守にします。おそらく官舎に房が与えられるとは思いますけど、休みの日はわたしの邸で休んでくださいね。息子たちもあなたが帰ってくるのを待っているでしょうから」

「そりゃどうも、ありがとうございます」

「それでは、殿、行ってまいります。諸将もどうか奉孝殿をよろしくお願いいたします。彼の智謀は、きっと志才殿とはまた違ったものと思いますが、必ずや殿の天下を切り拓くものと確信しております」

 荀彧は武将たちにもそう言って、広間から去っていった。

「では、場所を移すぞ。軍議だ」

 そう言って曹操が立ち上がる。郭嘉も武将たちと一緒にその背を追った。




「現在、呂布がいるのがおそらくここ」

 曹操が地図に赤い駒を置く。鄄城から見て南東にある湖近くにある鉅野という城市だ。次いで曹操はその近辺とその西隣のあたりに駒を置いた。

「鉅野のある山陽郡の太守と、その隣、定陶のある済陰郡の太守は呂布に積極的に加担している。そう簡単には降るまいな。城攻めになるだろう。あとは、陳留に張邈の弟、張超。山陽、済陰、陳留は呂布が抑えていると思っていいだろう」

 となると、兗州の半分以上は呂布が抑えていることになる。対して曹操の勢力圏は、東郡と東平国のみで、しかも蝗の被害が大きい。各地は干ばつで作柄はよくないというが、物資の面では呂布に有利というところだろう。

「先日乗氏を落とそうとした呂布が跳ね返された、という噂があるな。ここだ」

 そう言って、曹操は鄄城の南東にある城市にまた駒を置いた。

「我らに味方するということですか?」

「いや、当地の豪族という話だから、純粋に街を荒らされるのを嫌ったのだろう。呂布が濮陽で略奪を行ったことはもう広まっているだろうからな」

「でも、俺らが行けば歓迎してくれるんじゃないですかね?」

「可能性はなくはないが、なんとも言えぬな。行けばなびくほど、今の我らに力はない。勢力圏だけ見れば、呂布の方が優勢と思う者もいるだろう。豪族だの商人だのは負ける方にはつかんからな。さあ、どこから攻める?」

 曹操が問うと武将たちが次々に声を挙げる。それを、郭嘉は黙って聞いていた。

 武将たちは比較的抵抗の薄そうな任城を落とし、徐州を睨みつつ山陽を攻めればいいのではないか、という意見が大勢だった。どうやら武将たちにとっては、あるいは曹操にとっても、一段落したら徐州に攻め戻ろう、という気持ちが強いようだ。

 次第に、話はどうやって呂布に勝つか、に切り替わっていった。武将たちは、城市を攻める順番よりも、実際に戦場でどうやって呂布を打ち負かすかの方が問題だ、と思っているらしい。

「どっから攻めるかより、あの騎兵をどう抑えるかの方が問題ですよ。どこを選んだって平原だし、呂布を泰山にでも追い込まない限り、そう簡単に勝てないでしょ」

「おい、泰山にって、そんなもの無理に決まっているだろう」

「だから、どうやって平原で呂布に勝つかどうかを考える方が大事だって――」

 武将たち議論は続く。

 どうも、武将たちは随分呂布の騎兵を恐れているようだ。

 ――まあ、無理もないかな。濮陽の初戦、すごかったし。

 騎兵に対して有利な地形を選ぶなら、狭路がいい。それは確かだが、それが無理ならそれに近い状況を作り出すことだってできる。大事なのは、やはり城市をどう攻めるかだろう、と郭嘉は考えていた。

「郭嘉」

 黙って地図を睨んでいると声をかけられ、郭嘉は顔を挙げた。じっと自分を見つめる曹操と目が合う。

「何を黙っておる。まさか気後れしておるのではあるまいな? お前の意見は?」

 挑むようなまなざしにどきりと心臓が鳴る。相変わらず、曹操の眼差しは炎のような強さだ。

「俺は済陰からの方がいいと思います。長い目で見て、徐州側を先に抑えることに利点はないと思います。文若殿から聞いた話だと徐州も飢饉だそうですし、そもそも先年の徐州討伐の影響は大きい。徐州はそう簡単にはなびきません。獲りにくく、獲ったところで利もない地方よりは、獲ったら利のある方を優先すべきでしょう。特に、この物資のない状況ですから」

 郭嘉は地図に手を伸ばし、指を濮陽から南に動かし、済陰をかすめて陳留、潁川へと動かした。

「現状、兗州内では殿と呂布の勢力はよくて拮抗、傍から見れば呂布の方が優勢に見られているかもしれません。となると、兗州の商人たちも呂布の方に付く可能性が高い」

 殿、と自分が口にしたことになんとなくこそばゆいような感覚がある。それは押し隠し、郭嘉は続けた。

「潁川には俺の家の荘園があります。あっちも春先は干ばつが、とか言ってたからどこまで穀が穫れてるかわからないんですけど、それなりに収穫はあったんじゃないかと思います。文若殿も、潁川には荘園があったり、商人にあてがあったりして、潁川との行き来ができれば穀の補給も目途がつく可能性が高い。けど、それには最低でも済陰と陳留を抑えないと。下手に潁川からここまで運ぼうとすれば、呂布に獲られかねません。それに、先々を考えると、やはり西から抑えたほうがいいと思いますね」

「先々、というと?」

「兗州内で呂布を討てればいいですけど、仮に戦に勝っても呂布が生き残った場合、拠点を失った呂布はどこかへ逃げるでしょう。東から攻めれば、呂布は西へ逃げることになる。西――洛陽や潁川のあたりは今目立った勢力はないので、連中が拠点にするのは結構簡単です。となると、せっかく兗州から呂布を追い払っても、東に陶謙、西に呂布、北には袁紹、南には袁術。もう完全に四方を敵に囲まれることになる。ま、袁紹は今は敵って程敵でもないですけど、公孫瓚を倒したら多分南下してくると思いますし」

 曹操をはじめとして、周囲の武将たちも郭嘉の説明にどんどん引き込まれているようだ。自分の言葉に会わせて顔色が変わっていくのが、少し楽しい。

「それなら、西を抑えて最悪東に逃げるようにすれば、呂布は仮に逃げるとしても徐州。殿にとっては、陶謙と呂布を一緒に討ててちょうどいいと思うんですけど」

 武将たちが感心した様子でうなずく。その中で、曹操だけが渋い顔をしていた。

「問題ありますか? 俺、何か見落としてたりとか」

「いや、そうではない。ただ……」

 曹操が腕を組み、傍らにいた夏侯惇に目を向けた。

「どう思う、元譲。徐州には劉備がいる。陶謙はともかく、呂布と劉備が手を結ぶことになれば」

 劉備、という名を郭嘉は聞いたことがなかった。

「そんなことありうるのか? 俺はその前に呂布が陶謙に助けを求めて、果たして陶謙がそれを受け入れるかどうかが疑問だと思うが。案外呂布と陶謙で戦いを始めるかもしれんぞ?」

「呂布の余力にもよるだろうが……」

 曹操がまた考え込み始めた。

「劉備って誰ですか? どっかの群雄?」

「群雄ではないな。黄巾討伐の時から兵を率いてあちこち出張っている、まあ、傭兵のようなものだ。率いているのはわずか数千だろうが、なかなか骨のある連中でな。目を見張るような豪傑もいる。手ごわいと言えば、手ごわいかもしれんが」

「呂布と仲いいとか?」

 郭嘉の問いに、曹操と夏侯惇が顔を見合わせた。

「仲がいいとは思えんな。接触すらないのではないか。ただ、劉備は骨のある男だ。呂布が劉備を気に入る可能性はあるだろう」

 曹操が言うと、隣の夏侯惇があきれ顔で言った。

「お前はあいつを買いかぶりすぎだ。あの無駄に正義感の強い男が、呂布を許容できるとは思えんな。呂布は女のために主を斬るわ、物資がなくなれば略奪するわ、まともな感覚を持った奴なら相手はしないだろう。その点、陶謙なら呂布を抱き込むのはあるかもな。あいつは賊徒を利用したり、ろくでもないことをやる男だ」

「だが、その陶謙に、すでに劉備がついているのだぞ」

「ふん、兵を数千与えられたというから、大方その辺に目がくらんだのだろう。陶謙はお前に殺されたくなくて、必死になって劉備に貢いだのだ。領地もないのに兵を養うのがどれだけ大変だと思う。お前の家の有り余る財産すべてはたいてもわずか数千しか兵が集まらなかったこと、もう忘れたのか。陶謙に付けば兵は増え、しかもそれを養ってももらえる。その上うまくすればもっと大きな兵を扱う機会あるかもしれない、と思えば、戦場で生きる男が飛びつかんわけがない」

「時として利で動くこともありうるか」

「傭兵にとっては部下の兵を養うことが一番重要なことだろう。動くに決まっている」

 ふむ、と曹操がうなった。

「いいだろう。ひとまず劉備の件は置くとして、済陰から攻めよう。確かに呂布に潁川あたりに居座られては厄介だ。どこから攻める、郭嘉?」

「まずは比較的近くの離狐、句陽あたりから行きましょう。済陰の北半分を抑えたら、その呂布を跳ね返したっていう乗氏の豪族に会いに行って、敵か味方か見極める。少なくとも中立でいてくれるなら、そこから次は定陶。ここまで抑えられれば、鉅野を攻める感じで」

「待てよ、それじゃ定陶を攻めるときに陳留と鉅野で挟み撃ちになるんじゃないか?」

 夏侯淵が声を挙げた。確かに、位置だけ見れば定陶は鉅野と陳留のちょうど間にある。

「大丈夫ですよ。むしろ敵が勝てると思って勢い込んで攻めてくるから、陥れる余地も出る。特に呂布はバカだから、勝てると思ったら後先考えず突っ込んでくるでしょう。うまくそれを罠にはめられれば殺せるかもしれない。簡単に勝てそうに敵に見せかけるというのも、策としてはありです」

 郭嘉がすっぱりと言い切ったのに、夏侯淵はあからさまに顔をしかめた。

「簡単に言いやがって。そんなひょろひょろしたなりで、どうせ戦場で戦ったことなんてないんだろ? 戦は机上の空論だけじゃ勝てないんだ。あの呂布がどんだけ強いか、よーく考えてから意見しろよ、おぼっちゃんよ」

「おい、妙才、落ち着け」

 夏侯惇が止めに入ったが、夏侯淵は止まらない。郭嘉の鼻先に詰め寄って、睨んでくる。ただそれも、呂布に睨まれたことを思えばかわいいものだ。郭嘉は夏侯淵を見上げ、目を細めた。

「あんな頭すっからかんの猪、やり方次第でいくらでも殺せるって言ってるだけなのに、なんでそんな怒ってんの? そんな、やる前から負けるって決めつけてるから勝てないんじゃないですか?」

「なんだと!?」

「よせ、妙才!」

 夏侯淵が郭嘉の襟首をつかもうとしたのを、夏侯惇が慌てて止めた。夏侯淵が悔しそうに郭嘉を睨んでくるが、それをまっすぐに睨み返すと、彼は乱暴に夏侯惇に掴まれた手を振り払った。

「大口叩きやがって! お前が無茶苦茶な策立てて、死ぬのはこっちなんだぞ!」

「無茶苦茶な策かどうかは、俺じゃなくて殿が決めることでしょ。どう思われますか、殿? 俺の策、そんな無謀ですか?」

 曹操に問うと、彼は楽しそうに目を細め、いや、と首を振った。

「郭嘉の言うことはもっともだ。負けると思っていたら永遠に勝てんぞ。郭嘉の案で行こう。妙才、良いな」

「……殿が、そうおっしゃるなら」

「ただ、郭嘉、覚えておけ。妙才の言う通り、策の成否如何で多くの兵や、時には将までもが死ぬか生きるか決まる。もちろん、あまりにも犠牲の大きい失策だった場合は、お前の首が飛ぶこともありうる。それは、重々心得ておくことだ」

「当然でしょう。俺は、負ける策なんて献策しません」

 きっぱりと言い切ると、曹操がまた愉快そうに目を細めた。

「大した自信だな。期待しているぞ。では、元譲、妙才。兵の再編を急げ。五日後に出立する」

「は!」

 夏侯惇と夏侯淵が室を出て行く。

 残された郭嘉は、どうしたらいいか迷って曹操を見た。曹操はじっと地図を見つめ、何か考え込んでいるようだ。

「俺は、どうしたらいいですか?」

 問うと、曹操は初めて郭嘉の存在を思い出したように顔を挙げた。

「そうだな。俺はこれから多少執務があるから手伝ってくれてもいいが……」

 そこまで言うと、彼は何かを思い出したように立ち上がった。

「ついてこい」

 歩き出した曹操の背を追う。彼はすたすたと回廊を渡り、一旦府を出てすぐそばの官舎までやってきた。

「戯志才は知っているか? お前と同じ潁川出身だが」

 歩きながら、顔だけ振り返って曹操が言う。郭嘉はそれにうなずいた。

「知ってます。一度だけですけど、会ったことが」

「その戯志才は濮陽で死んだが、それまでは、短い間だったがよく尽くしてくれた。奴は俺に臣従した時に、潁川でため込んでいた書物をあらかた持ってきたらしくてな」

 官舎のかなり奥まで来ると、曹操はある房の前で足を止めた。扉を開くと、竹簡が床に山になっているのが見え、その奥に机。見回せば牀と書棚があり、書棚の前にも今にも崩れそうなほど竹簡が山になっていた。

「志才の房だ。死んだ後、片づけてもいないが」

「すごいですね」

 学者にありがちなのかもしれない。郭嘉も実家にいたころはこれに近い状況だった。片づけをしてくれる従者はいたが、積み重ねた竹簡を下手に動かされると場所がわからなくなるので、片づけるな、と文句を言ったことがある。おそらく戯志才も似たようなものだったのだろう。

「俺もすべてを把握しているわけではないが、少なくとも書棚に並んでいるのが、ここに来る前に志才が書いたもののはずだ。古今の史書に照らし、記録をたどって実際にその土地に行き、どのような戦があったと思われるか、奴なりの考察など、書かれている」

 曹操が書棚の竹簡を一つ取り、それを郭嘉に渡してきた。

 開いてみてみると、神経質そうな文字がびっしりと書かれているのが目に入ってくる。どうやら戦国時代の戦の記録に照らした分析のようだ。史書に残る端的な記述から分析した、実際の戦闘の想像や当地の地形の分析が書いてある。

「ここに、地図もある。奴はかなりの広範囲、己で足を運び、地形を見て、記録に残したと言っていた。さすがに全土とは行かんが」

 曹操が指さしたのは、書棚の横にある台の上に置かれた帛の束だった。一枚一枚めくると、それぞれ地図が描かれている。

「すごい、ですね。よくこんな」

「ついでに、あちらにあるのが、俺に仕官してからの戦の記録だ。志才は俺に仕官した際に腕を失ってな、以降は書記官にこまごまと書かせていたから筆跡が違う。読んでみると、うなるほど詳細だ」

 膨大な知識と緻密な分析で曹操に献策していた、と言っていた荀彧の言葉が不意によみがえってきた。なるほど、これがすべて彼の頭に入っていたのなら確かに膨大な知識だろうし、これだけの知識を蓄えるのに苦でない男なら、さぞかし緻密な分析ができたことだろう。

「軍略に興味があるなら読んでみるといい。俺も、よく志才から借りて読んでいたのだがな、時間がなくてまだすべては目を通していない。ここにあるすべて、覚えられれば新しい知見など得られるだろうとは思うのだが」

 もしかして全部覚えろと言われているのだろうか。郭嘉が困ったな、と思っていると、曹操が笑った。

「何、すべてを読めというのではない。あれはあれで特殊な男だった。志才の代わりにすると言ったからといって同じことをする必要はないし、俺もお前に志才そのものを求めるつもりもない。先程のやりとりといい、お前はなかなか使えそうだ。お前はお前のやり方で俺に仕えてくれればそれでよい。ただ、これがお前が己を高めることに役立つかもしれん、というだけだ」

 曹操は再び廊下に出ると、隣の房を指さした。

「あちらの房は使っていた奴がいなくなったから、空いているはずだ。片付けさせるから、そちらを使えばいい。邸がないのなら官舎に寝泊まりすればよかろう。おおむね五日に一度は休みがある。これは皆同じだ。休みの時は城下に出るなり、好きにすればいい。従者は?」

「いますけど、今は、文若殿の邸に」

「ならばそいつを連れてくるのだな。それぞれの房の隣には従者が過ごせる小部屋もある。あとの細かいことは他の連中に聞け。今日は色々準備もあるだろうから、好きに過ごせばいい。明日朝、俺と共に兵を見に行くこと。いや、その前に……」

 曹操が少し考える様子を見せる。

「今晩、お前と話がしたい。日が沈んだら俺の居室へ来い。府の中にある。場所は誰かに聞けばいいだろう」

「かしこまりました」

 郭嘉が拱手すると、曹操はすたすたとまた府の方へ戻っていった。

 まずは、静を呼びに行くとこからだろうか。

 自分で行こうとしたら、官舎にいた下男が遣いに出てくれることになった。それなら、と郭嘉は引き返し、戯志才の房で静が来るまで書を読むことにした。


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