32:<郭嘉編>束の間の休息(中編)
傷がいえるのを待つ間、郭嘉は荀彧の子供たちと語らう
食事が終わった後、話があるというので郭嘉は荀彧と二人、向き合っていた。子供たちは皆すでにそれぞれ自分の部屋へと戻っていた。
「詵のあなたへのなつき方はすごいものがありますね」
荀詵が去り際、郭嘉と一緒にいる、と泣きわめていていたのを思い出し、郭嘉は苦笑した。最後は母親に抱えられて室を出て行ったが、あれを抑えないといけないとなると、母親というのは大変だ、と思う。
「俺もびっくりですよ。俺の何がいいのかな。案外、文若殿が忙しくて側にいてくれないから、さみしがってたりするんじゃないですか?」
「それはあるかもしれませんね。ひと月戻らないんてことも、珍しくありませんし」
「の割に、子供多いよね。一体いつそんな暇あるんです?」
どんな反応をするか興味があって言ってみたのだが、荀彧はわずかな動揺さえ見せない。
「夫婦仲睦まじいのに何か問題でも?」
にっこり笑って返されて、かえって郭嘉が閉口することになった。
「いえ、まったく問題ありません。で、何ですか、話って?」
「ひとつ、確認したいことがあるのですよ。奉孝殿、確か以前言っていましたよね? 荊州で、何伯求という男に会った、と」
「あー……言いました、ね」
反乱が起こる前、鄄城で確かにそんな話をしたのを、郭嘉は覚えていた。あの頃は自分と一緒にいた伯求が誰かよくわからず、荀彧に思わず言ってしまったのだが、今となってはうかつだったかもしれない、と思う。
今ならわかる。伯求がなぜ郭嘉に名を明かそうとしなかったのか。それだけ、荀彧に居場所を知られたくないと思っていたということだろう。
「でも、別人でしょ、多分? 何顒って人はとっくに死んでるはずだって言ってませんでしたっけ?」
こんなことでごまかすのは難しいだろうなと思いつつ言ってみると、案の定荀彧はすぐさま切り返してきた。
「ええ、本物の伯求殿は。では偽物だとして、その偽物はなぜ伯求殿の名を使ったのでしょう? 少し考えてみたのですけど、もしかしたら誰かが偽名を使うのに、とっさに彼の名前を使ってしまったのではないか、と思ったのですよ。多分、その者は少し前まで伯求殿と牢獄で共に囚われていて、おそらく彼が死ぬところも見たのでしょう。それで印象に残っていて、伯求殿の名を使ってしまったのではないかと」
探るような荀彧の眼差しが痛い。
郭嘉も実際、そう思ってはいた。ただ、荀彧に見つけられたくなさそうだった彼のことを思うと、素直に言ってもいいものかどうか。
「その偽伯求殿はどういう男でしたか? 低い声で、四十前の、暗い顔をした男ではありませんでしたか?」
「暗い顔、って」
「身長はわたしより少し低いくらいだったと思います。聞いた話だと、彼は本物の伯求殿の形見の剣を持って旅立ったという話なのですけど、立派な宝剣を持っていませんでしたか?」
ここまで具体的に言われると、もう目星をつけているとしか思えない。
ごまかすのは無理だろう。
郭嘉はわずかに嘆息して言った。
「そうですね、低い声は低い声だったな。背も俺よりは高くて、高そうな剣、持ってましたね」
「わたしのこと、何か言っていたのでしょう? だから隠しているのではないのですか?」
「そういうわけじゃ……」
じっとみつめてくる荀彧の眼差しは厳しい。やはりごまかすのは難しそうだ。
「別に、文若殿の悪口とか言ってたわけじゃないですよ」
「当たり前じゃないですか。そうではなくて、わたしが探しているとかそういう」
「んー、はっきりとは言ってなかったけど、しばらく静かにしていたいから、知り合いに会いたくないとかは、言ってたかな。文若殿のことは洛陽一の才子だとか言ってほめてましたよ。ああ、文若殿の知り合いなんだなとは思いましたけど」
郭嘉としては荀彧を「生意気だ」と言っていたことの方が印象に深いのだが、それは言わない方がいいだろう。と、思っていたのだが。
「大方わたしのことは生意気だとか、理想主義が過ぎるとか言っていたでしょう?」
驚いて、郭嘉は思わず目を丸くしてしまった。その反応を見て、荀彧がにこりと微笑む。
「やはり、公達ですね。あなたが会ったのは、わたしの従子、荀攸、字を公達という者だと思います。ずっと探していたのですよ。何を血迷ったのか蜀郡太守など願い出て、益州に行ったのかどうかもわからないし、隠密に探らせようとすれば、彼らは公達に言うなと言われたから、と白状しないし」
荀彧が顔をしかめて嘆息する。荀家の隠密は案外荀彧に従順でもないのだろうか。
「教えてください。公達は、どこにいましたか?」
言ってもいいのだろうか。迷っていると、荀彧は深々と頭を下げてきた。
「ちょ、文若殿!?」
「お願いします。もちろん殿に推挙したいという気持ちもありますが、それ以上に緝に父親が生きていること、教えてやりたいのです。それに公達の方も息子が生きているかどうか気にしているはず。どうか」
「わ、わかりましたよ! って言っても、俺がその人と一緒だったのもう一年以上も前だよ」
荀彧が頭を挙げたのを確認して、郭嘉は嘆息しながら言った。
「伯求殿――じゃなかった、公達殿、だっけ。彼と最後に一緒だったのは江陵です。別れるときは、長屋の部屋を借りて抄本の仕事しながらしばらくのんびりするって言ってましたよ」
「抄本?」
荀彧がすぐさま眉をひそめた。無理もない。荀家ほどの名門の者が、そんなことをするなんて、とでも言いたいのだろう。
「色々あって疲れてたみたいで、黙々と文字を書いてると気がまぎれるって言ってました。でも俺、それ以来全然連絡とってないから、移動してる可能性もありますよ」
「でも、手掛かりには違いありません。早速家僕を向かわせましょう。緝が生きていると知れば、公達も喜ぶはず」
「あの、余計なことかもしれないけど、息子がいるってことは夫人もいるはずですよね? 夫人は?」
荀彧が痛ましげ首を振る。
「董卓の支配下では、反逆者の子が男の場合は殺されるか、幼ければ売られるかで、妻もしくは娘は董卓に召し出されることになっていたのだそうです。緝の母君は恥辱を受けるくらいなら、と自ら命を絶ったと」
「それは……。え、でもどういうこと? じゃあ荀緝殿は」
「緝は、扶風の商人のところに売られていたのです。かわいそうに、以前会った時は闊達なかわいらしい子だったのに、再会して以来、あの子は全く笑わなくなりました。どんなひどい目に遭わされていたのか……」
言われてみると、郭嘉も荀緝が笑ったところは見たことがない気がした。もっとも、彼を見たことなどほんの数回だが。
「せめて、父親と再会すれば少しは気も安らぐでしょう。まったく、公達は息子があんな目に遭っているのに、何をのんびりしたいなどと」
「それは、公達殿も色々あったんじゃないかと思うよ。妻子が死んでるかもしれないって思ってたみたいでさ、会った時、すごかったからさあ」
「すごかった?」
首をかしげる荀彧に、郭嘉はどこまで言っていいか迷った。髪を切ったなどと言ったら、礼儀正しい荀彧のことだ、気が狂ったとでも言い出しかねない。
「いや、ほら、そのー、俺が荊州で公達殿に声をかけたのも、公達殿の様子がちょっとおかしかったからなんだ。もう死んでもいいみたいなこと言ったりしてさ、ほっといたら何しでかすかわからないと思ってしばらく一緒にいたんだ。別れた時は随分ましにはなってたけど、まだ本調子じゃなかったんじゃないかな? しばらく喪に服したらいいんじゃないって言ったのは、俺なんだよ。そのくらい落ち込んでたから」
郭嘉の言葉がぴんとこなかったのか、荀彧は怪訝そうに首をかしげた。
「公達は、ほとんど情動を見せない男だと思っていたのですけど……。ちょっと本人なのか心配になってきました」
「俺は多分、その公達殿じゃないかと思うけど。文若殿とかなり親しそうだったし、董卓の暗殺に失敗して長安の牢獄の中にいたとか、そこで友が死んだとか、言ってたしさ」
「それならやはり公達でしょうか。しかし、公達が落ち込むなんて」
荀彧はまだ怪訝そうだ。
落ち込むのがありえないと思われているなんて、普段の荀攸は一体どんな男なのだろう、と郭嘉は思った。
「あ、そういえば文若殿、一つ頼みたいことあるんだった。俺、今着替えなくてさ。これは、貸してもらってるけど」
今来ている着物は荀彧に借りたものだ。といっても、荀彧の方が頭半分は背が高いので、はっきり言って郭嘉には大きすぎる。
「潁川まで取りに行くわけにいかないし、市で適当に見繕ってこいって従僕に行ったら、市が開いてないって言ってて」
「ええ、そうなのですよ。今は穀の値が暴騰していて、それに付随して色々なものが値上がりしていましてね。あまりにも値が上がりすぎて、市で騒ぎが起きたりして物騒なので、しばらく自由に店を開くことを禁じたのです」
「あまりにも、って、一石一千銭くらい?」
郭嘉の言葉に、荀彧は首を振った。
「一石一万銭くらいが相場ですね。ひどいところでは、一石五万銭を吹っ掛けてきた商人もいました」
「一万銭!? いつもの百倍ってこと!?」
「ええ、信じられないでしょう。もはや市井の民が買える値段を越えています。今は、備蓄を切り崩して配給しているのですけど、それも戦況次第ではどこまで可能なことか……」
「呂布側はどうしてんの? あっちも困ってるはずだよな?」
「呂布は先日、乗氏を陥とそうとして撃退されたという話です。済陰と山陽の太守が呂布側についているので、おそらくそのあたりを根城にしているものと」
「てことは、そっち側はそんな蝗の影響ないんだ?」
「そのようですね。蝗はどうやら、西からきて、泰山の方へ行ったと思われます。さすがに山は越えられなかったのではと思いますが、徐州でも飢饉だといううわさもありますから、ちょっとわかりませんけど。河内の方でも蝗の被害はあったそうですし、長安でも飢饉がひどく、陛下が民に施しをしたという話です」
もうほぼ全土飢饉だと思ってよさそうだ、と考えたところで、ふと冀州のことは話題に上がらないのに気づいた。
「冀州は? 北はそんなでもない感じ?」
「そのようですよ。さすがに魏郡の南や東武陽は被害を受けたようですが、それも鄴の備蓄からの補給で補われるでしょう。袁紹が、我らにも兵糧を分けてくれたらかなり助かるのですけどね」
「まあ、ないだろうな」
「ええ。仮にそんなことがあったとしても、ろくな条件は出してこないでしょう。何せ市場では一石一万銭ですから。ただで渡すわけがありません」
穀は兵士への報酬としても使われるし、貨幣がないときは貨幣がわりに用いられることもある。穀の値が吊り上がるということは、即物価の混乱につながる。
「潁川に行けば、もしかしたら今年の収穫があがってるかも。蝗の被害がないなら、そこそこ獲れてるんじゃないかな? でも、陳留って呂布側が抑えてるよな? 元々張邈殿は陳留太守だし」
「ええ。今は張邈殿の弟が陳留を抑えているということです。わたしも、潁川に足を延ばせるなら我が家の荘園であがった穀を持ってくることもできると思うのですが、いかんせん陳留を敵側に抑えられていては……。下手をしたら運んでいるときに呂布に襲われかねません。そこで奪われてしまったら、元も子もない」
今曹操が勢力圏にしている東郡は、兗州でも北に位置する。呂布が根城にしているらしいという済陰や山陽はその南東にあり、陳留はその西、潁川は更にそこから南だ。潁川から鄄城・濮陽まで来ようと思えば、必然的に陳留は通る。大掛かりに穀を運ぶのは呂布に奪ってくれと言うようなものだ。
「うーん、現実的なところで言うと、呂布にどっかを略奪させて、それを奪うとかかなあ」
「殿も、そのようにおっしゃっていました。ここに至っては背に腹は代えられません。我らが表立って略奪するわけには行きませんしね……。ただ、本当はどちらも同じこと。民には、辛いことになりますが」
こういうことを荀彧が言うと、本当に真がこもって聞こえるから不思議だ。本気でそう思っているからだろうが、士大夫でここまで親身に民のことを考えられる人間がいるということが驚きだ。もちろん、だからこそ彼はこの乱世に必要な存在なのだろうけれども。
「着替えのことは、付き合いのある仕立て屋を呼びましょう。懇意にしていますから、そこまでふっかけられることもないでしょう」
「ありがと、助かります。さすがにこのまんま仕官っていうのもちょっと、って思ってたから」
「何がいいかなー」
翌朝、郭嘉は荀彧の邸の書庫にいた。
さほど大きいものではないが、個人の所蔵としてはなかなかの量だ。きちんと一つ一つ布の袋に入れられて、何の竹簡なのか札が付けられている。その札を一つ一つ見ながら、郭嘉は傍らにいた荀彧の子供たちに聞いた。
「皆、何教えてほしいんだ?」
「なんでも構いません。奉孝殿お得意なものを」
長男の荀惲は、荀彧をそのまま小さくしたような闊達な少年だった。いかにも頭がよさそうで、見た目にも荀彧によく似ている。
それより下の子たちは、まだ幼いからかそこまで学問に興味はないらしく、この場にはついてこなかった。ただし荀詵だけはどうしてもついていくと駄々をこねたので、その付き添いで荀玲もやってきている。ただ、彼女が学問に興味があるのかどうかはわからない。
「俺の得意なのっていうと孫子とか呉子とかになっちゃうよ。兵法はまだ早いだろ。君くらいの年齢だと、今やってるのは孟子とか? それとももう五経は全部やってる?」
「一通りは習いました。でも、まだすべて理解したとはいかなくて。父上は十五になるまでには五経はすべて修めよとおっしゃっておられるのですが」
「何それ、厳しすぎだろ」
出来すぎる父親というのは恐ろしいものだ。多分荀彧がそのくらいの歳で儒学をあらかた学んでしまっていたのだろうが。
「俺儒学はあんまり……。まじめにやってなかったら結構うろ覚えなんだよな。儒学の系統だったら、荀子とかならまだ結構好きかなー。つっても、荀子の子孫に俺が荀子を教えるのはさすがにちょっとなぁ。韓非子とかでもいいけど、法家の思想はどうなのかな、文若殿がいい顔しないかも。法家の思想とか、学んだことある?」
「いえ、父上はまずは儒学を修めなさいと」
「だよな」
だったら、生半可な知識しかない自分がいきなり子供に教えるというわけにもいかないだろう。もっとも、書棚にはちゃんと韓非子も老子も荘子もある。荀彧は確かに儒だけを重んじているわけではなさそうだ。
「荀緝殿は? 希望はある?」
数歩後ろで遠巻きに見ていた荀緝に声をかけると、彼は戸惑ったように視線を揺らした。人と目を合わせるのが怖いのか、彼は郭嘉が声をかけても大抵目は合わせない。やはり荀彧の言っていた通り、売られた先でいろいろとあったのだろう。
「わ、私は、特に……」
「今は何やってんの?」
「今は、荀惲殿と一緒に学ばせていただいています。私はこんな歳ですがまだ儒学をしっかりと修めたとは言い難く、その点では叔父上の子たちの聡明さには驚かされます」
「気にしすぎだよ、普通はそんなもんだ。俺が君くらいの歳にはもう、学問は好きなことしかやってなかったよ、儒学なんて無視してさ。もうすぐ冠礼なんだし、気にせずに自分でなにやるか選んだっていいんだ。儒家になりたきゃ儒を学べばいいけど、他のことしたいと思うなら、別のことしたっていい。荀緝殿は、何したいとか、ある?」
子供には難しい質問だったかな、と思ったが、荀緝は意外にも即答した。
「天下を、まともにしたいです」
どこか父を思わせる熱のこもった一言に、郭嘉は目を細めた。荀緝は顔立ちはそこまで荀攸に似ていないが、そうしていると彼を思い出す。
「お、いいね、それ。さすが荀家の息子だ。父君が聞いたらきっと喜ぶ」
途端に荀緝の表情が曇る。父君は生きていると教えてやりたいが、郭嘉が知っている荀攸らしき男がはっきりと荀攸だと確信が持てるまでは、安易に教えることも気が引けた。
「天下をまともにするために、何が必要だと思う?」
重ねて問うと、荀緝はしばらく考え、言った。
「学問も必要ですが、今最も必要なのは乱を治めうる武ではないかと思います。学問だけでは、乱を収められません」
意外な言葉が帰ってきて、郭嘉は思わず目を丸くしてしまった。それに、すぐそばにいた荀惲が声を挙げる。
「緝殿は剣術を学んでおられるのです。結構強いですよ」
「へえ、そりゃ」
「と、とんでもありません。私なんて、全然」
「うーん、つっても、俺は剣術からっきしなんだよね。じゃあ孫子とかやってみる? 項羽も言ってたって言うだろ? 『文字は自分の名を書ければ十分、剣は一人しか相手にできない、自分はもっと大勢を相手にするものを学びたいのだ』ってな。ま、文字は自分の名前だけってのは明らかに駄目だけど。馬鹿な武将は絶対痛い目見るぞ、呂布みたいにな」
「奉孝殿は、あまり儒を重んじておられないのですね」
「そうだな、俺、基本的に堅苦しいの嫌いだしね。それに、色々ばかばかしいっておもうところもあると思うんだよなー。親が死んだら三年喪に服せとかさ。喪に服すって、ほんっとなんもせずに小屋に引きこもるんだぞ。それでなんで親を尊んでることになるんだよ。しかも、そういう意味不明なことしたやつじゃないと、優秀だって推挙されないなんて、どう考えてもおかしいだろ。仕事ができるのと、親を尊ぶことは同じじゃないはずだ。そもそも儒教ってさ、時の皇帝が都合いいから国教に祭り上げただけなんだよ。最初に中華を統一した秦は、法家の思想で国を治めてたんだけど、それがあんまりこまごまと厳しいってんで民衆には不評だったんだ。あ、史記はもうやったかもしれないけど」
そこから郭嘉はしばらく歴史の話をした。
秦の厳しすぎる法令を反面教師にした漢の建国者・高祖は、建国当初、殺すこと、傷つけること、盗むことのみを罪として民衆に絶大な支持を得たという。高祖はどちらかというと道家の思想を重んじていたが、あまりにも臣下が礼を欠きうまくおさまらなかったため、儒の力を借りて朝廷に礼法を取り入れた。
「それも、結構適当なもんだ。淑孫通って奴が、都合よく儒を解釈して高祖に取り入ったんだ。そもそも高祖はそんないい家の生まれじゃないから、自分が礼法なんて全然学んでない。そこで淑孫通に『堅苦しいのは嫌いだし、俺にもできるか?』と言ったら『陛下でもできるように簡単にしますから』つって、都合のいい礼法を朝廷に浸透させたんだ。その後、武帝の時代になって、外征のためには何事も厳しく律する必要がある、ってんで、国民を律するのに都合のよかった儒が国教とされ、徐々に重臣は儒者が占めるようになり、その内儒者じゃないと出世できないなんてことになった、ってわけだ」
郭嘉の言葉に、荀惲も荀緝も戸惑ったような顔をしていた。
「だからさ、儒に限らず、大昔の偉い人の書いたことなんて、都合のいいところだけ覚えて使えばいいわけ。もし次の皇帝が法家の思想を重んじるって言ったら、がらっと変わる可能性だってあるんだ。大事なのはただ知識を蓄えて、それに従うことじゃない。何を為すか、何ができるか、だろ? だからそういう意味では、俺は荀緝殿が剣術を習ってるっていうのは、いいと思うよ。自分で何が役に立ちそうか見極めて、学んでるってことだ。そういうのは、絶対に役に立つ」
にこりと微笑みかけると、荀緝は恥じたように目を伏せた。
そこでふと、荀詵と手をつないで立っていた荀玲が、妙にじっと見つめてきていることに気づいた。
女性には興味のない話だろうから、くだらない長話をとでも思っているのかもしれない。
「ああ、ごめんな、荀玲殿には興味のない話かな」
「そっ、そんなこと! す、すごいと思います」
「え」
見つめ返すと、荀玲はほんのりと頬を染め、恥じらうように口元に拳をあてた。
「そういう難しいことを考えられるのが。お父様も、そんなことは言わないし」
「それは、俺と文若殿の考え方が違うってだけだよ。儒の教えは古いことを大切にして、守っていけっていうのが基本だからな。荀玲殿は学問はしてるの? 女の子だと、学問はしないのかな」
「い、いえ。お父様はせめて孟子だけでも勉強して、最低限文字は読めるようになりなさいと」
「へえ、そりゃさすが荀家の娘」
微笑みかけると、荀玲は一層頬を染め、目をそらす。褒められて恥ずかしがるその姿が、また愛らしい。
その後、結局孫子を一緒に学ぶことになった。その間も、荀惲、荀緝と共に荀玲も同席していた。荀詵も一緒だったが、彼はほとんど荀玲の膝の上で眠っているだけだった。
荀彧の呼んだ仕立て屋がやってきたのは、その日の日暮れ前だった。珍しく荀彧も早めに帰ってきて、室には反物がずらりと並んだ。
「好きなのを選んでもらっていいですよ」
にこりと笑って荀彧に言われたが、郭嘉は簡単にうなずくことはできなかった。
ずらりと並んだ反物は荀彧が保管していたものだという。家族の衣服のためということもあるだろうが、絹の反物は場合によっては金と同じ価値を持つ。いざという時のたくわえのようなものだったのだろう。
ずらりと並んだ反物は、ぱっと見てすべて上等な絹だとわかるものだった。模様の凝ったものも多く、おそらく錦だろうと思えた。錦は、ただの白絹より更に値が張る。
普通の安物の着物を買うくらいの手持ちはあるが、上等の絹をいくつも買えるほどのたくわえはない。なにせ、濮陽の邸にあった母のたくわえは陳宮にすべて奪われたのだ。加えて、上等な絹の着物はそれだけで身分を表す。商人だったら絹を纏うことは許されないほどだ。
「えっと、これ、は……」
どうしたものかと部屋の端で控える静に目を向けると、彼はすぐにだめだ、とばかり首を振った。郭嘉の使える金は静に預けてある分だけだ。とても買えない、ということだろう。
「布も仕立て代もわたしが出しますから、気にしないでいいですよ」
「いや、いいですよ、って金額じゃないでしょ、そんな」
「安いものですよ。あなたがこの先殿の寵臣となって一緒に働いてくれることを思えば」
微笑む荀彧の目に嘘はないように思えた。彼のことだ、母が死んだことにまだ責任を感じていることも考えられる。気を遣ったのか、母の名は出さなかったが。
「で、ですけど、錦とか。俺、一応士大夫にはなるだろうけど、かなり傍系の男ですよ。家は半分商家みたいなもんだし、あんまりいい着物着るのも」
麻の着物は好んで来ていたが、絹の着物は正装用のものしかなかったはずだ。荀彧の言に従えば、普段着から正装まですべて絹で作ることになる。
「そこも、気にしては駄目です。いいですか、奉孝殿。あなたは潁川郭家の立派な跡継ぎなのです。傍系だろうが妾腹だろうが、そんなことは関係ない。この先殿の下で活躍するようになれば、高価な錦を身に着けていたって、誰も不思議とは思いません」
「けど」
「むしろ、この先、傍系だとか妾腹だということは言わなくてよろしい。殿はそういったことを全く気にされない方ですが、官吏の中には生まれを気にする者もいます。もちろん、商家を馬鹿にする者もです。確かにあなたの母君はたくさん穀を売っていましたが、それでもあなたは潁川郭家の息子。立派な士大夫なのですから、わざわざ自分の価値を貶めるようなことを言う必要はない。むしろ、立派な絹の着物を着て堂々と歩いている方が、官吏たちもあなたに一目置くでしょう。できそうな奴が来た、とね」
多くの人は見た目で判断しますから、と荀彧は淡く笑った。彼もまた、それを知っていて己の見目を利用しているのかもしれない。
「なので、遠慮せずに選んでください。そうですね、わたしのおすすめは――」
荀彧がすぐにいくつかの反物を選び始めた。あれもいいですね、これもいいですね、と次々渡された反物が十を超え、さすがに郭嘉は待って、と声を挙げた。
「多すぎでしょ!」
「では、その中から選んでください。もちろん、他の物でもいいですけど」
結局、郭嘉はその内からいくつかを選び、仕立て屋に体を測られて終わった。
「文若殿、時々強引だよね」
「そうですか? でも、そのくらいでなくては」
何が? と言いかけて、やめた。にこにこ笑って切り返してくるときの荀彧には到底勝てない気がする。
「俺、着物が仕上がったら曹操殿のところ、行きますよ。半月あればできますよね?」
「もうちょっと早いと思いますけど、その時に体調が問題なければそうしましょう」
結局、着物は十日を待たずに仕上がってきた。
上等な絹に袖を通すと気も引き締まるようだ。久々にきちんと髪を結い上げて冠をつけ、その日の朝、郭嘉は眠い目をこすりながら邸の玄関へと向かった。
「よく似合っています。どこからどうみても、立派な文人ですよ」
郭嘉が苦笑を返すと、荀彧はにこりと笑って門の外に手を差し伸べた。
「さあ、行きましょうか。殿が府でお待ちでしょうから」




