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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
3.兗州平定
31/64

31<荀彧編/郭嘉編>束の間の休息(前編)

心と傷に深い傷を負った郭嘉は、荀彧の勧めでしばらく彼の邸に滞在することに。

「皆様、ご無事で本当に幸いでした」

 鄄城に戻ってすぐ、荀彧は救出された人質たちと対面した。

 広間にそれぞれ座る豪族の父母や妻子を前に、荀彧は一度深々と頭を下げた。

「この度は、我々の不手際で散々な目に遭わせてしまい、申し訳ありませんでした。わたしはまさか陳宮が反逆を起こすなどと想像もせず……。己の脇の甘さに慙愧の念が堪えません」

 しおらしく言って見せる。

 もちろん、郭嘉から彼らが色々と言っていたことは聞いている。勝つ方につけばいいとか、曹操陣営のやり方が気に食わない様子であったとか。

 所詮彼らは風が吹けばなびく草のようなものだ。それにいちいち腹を立てていても始まらない。利用できるものは利用する。そう割り切るしかないのだ。

 頭を下げながら、荀彧は曹操に彼らを殺すことも厭うべきではないと進言したことも思い出していた。

 数年前の自分ならありえない発言だっただろう。人の命の重さを、その死の責を負うだけの覚悟もなかった。

 ただ、今は違う。

「今後は、二度とあのようなことにならぬよう、内にもしっかりと目配せをするつもりです。もちろん、あなたがたを危険な目に遭わせないようにも最大限の配慮をいたします。今後は、鄄城でゆっくりとお休みいただければ。ただ、状況が状況です。あなた方にもご協力願いたいのです。あなた方がここにいること、そして我が主に守られているということを、(ふみ)に書いてご家族にお伝えいただきたい。誤ってあなた方の一族が、呂布なぞに与することにならないように。万が一そのようなことになってしまったら、またあなた方を傷つけることになってしまいますから。もちろん、ご協力いただけますよね?」

 微笑んで言ったが、豪族たちはどこか不安げな顔をしていた。彼らもまた、荀彧がただ親切心だけでそう言ったわけではないことくらい察しているのだろう。

 曹操が乱世を治めるために戦場で剣をふるうように、自分にとっては政治の場(ここ)が戦場なのだ。

 聖人君子の仮面をかぶりつつ、裏ではできる限りのことをする。

 それが、乱世を平らげるために己のできることなのだから。




 子供の声が聞こえる。

 郭嘉は横になりながら、その声をぼんやりと聞いていた。子供がはしゃぐ声がすると、平和だな、と思う。

 曹操に臣従を約束してすぐ、郭嘉は曹操たちと一緒に鄄城に戻った。

 郭嘉は荀彧の半ば強引な勧めで、傷が治るまで彼の邸に滞在することになった。荀彧曰く、一人きりで室にこもるより、人がいたほうが気もまぎれ、傷も早く治るだろう、と。静以外の家僕がいなくなったことも、彼は心配したようだ。

 日の光の差し込む室は、平和そのものだ。外で戦が繰り広げられているなんて信じられないほどに。

 郭嘉はまだ熱が下がらず、ほとんど一日中寝て過ごしていた。起き上がれないこともないのだが、どことなく気力がわかない。食欲もなく、寝る前の薬湯だけ、かろうじて飲んでいるような状況だった。静は気を遣っているのか、必要のある時以外はほとんど室にいない。食事をしないことだけは文句を言うが、それだけだった。

 静は、わかっているのかもしれない。郭嘉が落ち込んでいて、他人に近寄られたくないと思っていることを。

 人生初だ。こんなふうに、ふさぎ込んで気力がわかないなんて。原因は、なんとなく自分でもわかっている。陳宮を殺せばこの後悔の渦からも逃げ出せるだろうか、と考えたりもし、その度に呪いのように人を殺すことばかり考えている自分が嫌だと思ったりもした。

 邸に連れてこられて三日ほど過ぎている。初日に荀彧と共に夫人が挨拶に来て、それ以来誰もやってこない。荀彧は相当忙しいのだろう。本人もしばらく帰れないだろうと言っていた。ただそれも、今はありがたかった。

 すでに朝なのはわかっていた。室の扉の格子から、まばゆいばかりの光が室に差し込んでいる。それでも、やはり起き上がる気力は、わかない。かといって、四六時中寝ていて眠れるかと言うと、そうでもない。むしろ嫌な光景が脳裏によみがえってきて、煩悶に悩まされたりする。

 ――嫌んなるな……。

 なんとかしたい、と願う。しかし、体を起こすことさえ億劫だ。結局、横になって目をつむっているしかない。

 そんな時、それはやってきた。

 最初に聞こえたのは、そっと扉が開けられる音だった。静が食事でも持ってきたのかもしれない、と思っていると、ぱたぱたと軽い足音が聞こえてくる。それはいよいよ郭嘉の牀のすぐそばまでやってきて、止まった。

 ――なんだ?

 誰か来たのか、と思って目を開けて見上げても、誰もいない。気のせいか、と思い目を閉じようとすると、かわいらしい声が脇のすぐ下あたりで聞こえた。

「ぽんぽんいたい?」

 思わず腕の向こうを見ると、牀に両手をついて覗き込んでくるものがある。よく見ると、子供だった。男か女かわからない。ただ、ひとつはっきり思ったのは、荀彧によく似ている、ということだ。目許がそっくりだった。

「ちーうえが、おきゃくさまはいたいいたいだから、ちかよったらめって」

 二歳か三歳くらいだろうか。一生懸命言葉をつむぐ様子がかわいい、と思ってしまった。

 手を伸ばし、そっとその頭に触れる。大人とは比べ物にならないやわな髪の毛の感触に郭嘉はまた驚いた。

「えっと、君は?」

 意味が分からなかったのか、大きな目をぱちぱちさせて子供が小首をかしげる。

「名前は?」

 わかるかな、と思って聞いてみると、子供はにこっと笑って言った。

「シンだよ」

 発音があいまいでどの字のシンなのかよくわからないが、多分男だろう、と察した。

「そっか。いくつ?」

「みっつ!」

「父上に近寄っちゃダメって、言われたんだろ?」

 シンは小首をかしげて、んー、と言った。

「いたいいたいなら、シンがなおしてあげるっ」

 小さな手が無遠慮に郭嘉の腹に触れた。大した力ではないし、かろうじて傷口からは外れたところだったが、驚いて体を引こうとしてかえって痛い、と顔をしかめることになってしまった。

「いたいのいたいのとんでけー」

 子供がぽんぽんと郭嘉の体をたたきながら言う、それはかわいいのだが、やめてほしい。

「ちょ、ちょっと待った。痛い、痛いからっ」

 何度か叩かれるうちに傷口に触れられて、慌てて体を翻す、それにもまた痛みが走って、うめく羽目になった。

「っ――!」

「いたいの? なんで?」

 子供は自分のせいだとかけらとも思わないのか、実に残念そうにのぞき込んでくる。かといって、子供相手に怒鳴りつけるわけにもいかない。

「ちょ、わ、わるいけど、あっち行って」

「なおらない?」

「治らない、治らないからっ、もういいって!」

(しん)!」

 今度聞こえてきたのは、明らかな少女の声だった。彼女は駆け寄ってくると、郭嘉の枕元にいる子供を強引に引きはがした。

「詵! お客様のところに行っちゃだめって言ったじゃない!」

 分別らしいことを言っているが、少女もまだまだ子供だった。十歳くらいだろうが、まだ胸も膨らんでいない。見ていると、ふと少女と目が合った。彼女はぱっと頬を染め、弟を引きずって数歩下がる。

「ご、ごめんなさいっ。遊んでいたら、いつの間にかいなくなってしまって」

 目をそらしながら言うその顔は、やはりどこか荀彧の面影があった。それ以上に、長ずれば相当な美女になりそうな、とんでもない美少女だ。

 ――さっすが文若殿の娘。

 思わずまじまじと見つめていると、彼女は戸惑ったのか、きゅっと口を引き結び、顔を背けてしまった。それに気づいて、郭嘉もあわてて目をそらす。

「あ、いや、いいんだ。ゆっくり寝かせてもらえれば、それで。ごめんな」

 深窓の令嬢の顔をまじまじ見るというのは、普通は許されない。いくら相手が子供とはいえ、荀彧が知ったら目くじらを立てそうだ。

「し、失礼します」

 彼女はぺこりと頭を下げると、弟を引っ張って室を出て行った。

 結局その日は一日何も食べず、ごろごろとしていた。

 目をつむれば、浮かぶのは母の死の光景、そしてかけめぐるのは自分がいかに情けない男か、ということだけだ。うんざりとした気持ちで日暮れを迎えたころ、静が薬湯を持って包帯を替えにやってきた。

 単衣の上半身を脱ぐと、いつものように静が手際よく包帯を外していく。包帯を外し終わると、彼は傷口に張り付けられた布をはがした。あらわになった傷はまだ回復には程遠い。静は濡らした綿で傷口に残った薬をふき取っていく。

 わずかにしみる感覚に眉をひそめながら、郭嘉は早くそれが終わってくれるのを待っていた。毎日やっているので慣れてはきたが、早くこんなこととはおさらばしたいのが本音だ。

「治りが遅いですね」

 ふき取りながら静が言う。

「膿んではいないので、それだけは幸いですけど」

「膿んだらどうなるんだ?」

「刃物で膿を削り取ることになりますね」

 想像するだけでぞっとする。郭嘉が顔をしかめたのを見て、静は淡く口許を緩めていた。

「それはもう、痛いですよ」

「経験、あるんだな」

「ええ、それは何度も。今回は傷を負ってわりとすぐに縫ってもらえたのが幸いしましたね」

「もう二度と、あんなのごめんだよ。死ぬかと思ったよ。斬られた時より、縫った時の方がさ」

「私も、二度と若をあんな目に遭わせないよう、尽力します」

 軽い調子だったが、その言葉が郭嘉には重いもののように感じられた。今思えば、よくあんな状況で生きて帰ってこられたものだ。兵士数十人に囲まれて、あの場で死んでいたって少しもおかしくはなかった。もし静を母の側に置いていれば、と思ったこともあったが、それはそれで静は呂布の餌食になったかもしれない。生き残ったのは巡り合わせと言えないこともない。

 静だけでもいてくれてよかった。

 ふとそう感じ、そう感じてしまった己にまた胸が痛んだ。

 その時、扉が開く音が聞こえてきた。見れば、扉の陰から覗く子供がいる。

「あ」

 静が短く声を挙げると同時に、荀詵はぱたぱたと小走りに牀に駆け寄ってきた。

 最初満面の笑顔だったのが、静を見て、一瞬固まる。ちらと見上げると、静は大人げなく荀詵を睨んでいた。

「どうした、詵殿?」

 郭嘉が声をかけると、荀詵はぱっとまた笑顔に戻り、静をちょっと気にしながら牀に駆け寄ってきた。

 牀に横たわって手当てを受ける郭嘉が珍しかったのか、傷口をまじまじと見てから両手を牀につき、伺うように郭嘉を見てくる。

「まだいたい?」

「まあね」

「なおる?」

「多分な。で、どうしたんだ、詵殿? 何か俺に用事?」

 荀詵はにこっと笑って手を差し出してきた。そこに郭嘉が手のひらを出すと、ぽとりと手に持っていたものを渡してくる。見ればそれは、干した桑の実だった。

「あげる」

 にっこり笑って言われたが、郭嘉は引きつった笑みを返すしかできなかった。桑の実は、好きではない。

「なんで、俺に?」

 んー、と小首をかしげてから、荀詵は言った。

「おいしいの」

「じゃあ、詵殿が食べればいいんじゃないかな」

 差し出すと、ちょっと物欲しそうに見つめてから、荀詵は首を振った。

「あげるの!」

「だ、だからなんで? どうして、俺にくれるんだ?」

「にーは、ごはん、たべないって。でも、これならたべられるよ」

 にこにこ言われ、また郭嘉は頬がひきつるのを覚えた。おそらく、郭嘉が食事を食べていないというのを聞いて持ってきてくれたのだろう。確かに、昼も食べなかった。

 ――誰だ、こんな子供にそんなことを教えた奴は。

 なんと返したものかと思っていると、荀詵は郭嘉をじっと見つめていた。

「はーうえがね、いまはごはんがないから、すききらいだめって。でも、きらいなのたべたくないよね。だからあげるの」

「あー……」

「言われてますよ、若」

「うるさい。お前かよ、そんなの言いふらしたの」

「言いふらしてはいません。ただ、厨房には若が食欲がないから食べられないと言っただけです」

 言われてみれば、蝗で食料事情は相当厳しいだろう。にもかかわらず、食欲がないと毎度毎度粥を食べなかったのは自分だ。荀家の家僕たちがぜいたくな客だと怒ったとしても、不思議はないかもしれない。

「いや?」

 桑の実を持ったまま困ったな、と思っていると、荀詵が心配そうに見つめてきた。そんな泣きそうな目で見つめられるとうっかり嫌いだなどと言うのもはばかられる。

「いや、そんなことないよ。詵殿は桑の実、好きなんだな。じゃあ半分こしよう」

 小さな実を二つに分けて、片方を荀詵に渡す。彼は満面の笑みを浮かべてそれをほおばった。

「ありがとな」

 頭をなでてやると、荀詵はまた嬉しそうに笑った。

 静が傷をぬぐい終わり、塗り薬の用意を始める。荀詵がそれを興味津々で見つめるので、静はまた彼を睨んだ。

「坊、さわってはだめだ」

「だめ?」

「そう。終わるまで、だめ。いや、終わってもだめだ」

 荀詵が静にびくびくしながら小首をかしげ、郭嘉をうかがう。郭嘉はなだめるように言った。

「ちょっと待っててな」

 何気なく荀諶の頭を撫でると、またその柔らかさに驚く。子供というのは大人とは全然違うようだ。

 荀詵がおとなしくなると、静はてきぱきと傷口に薬を塗り、布をあてがった。包帯を巻くために体を起こす。

 二人目の足音が聞こえたのは、静が包帯を郭嘉の体に巻き始めたころだった。

「ちょっと、詵! あれほど来ちゃダメって――きゃっ」

 扉を開けるなり怒鳴った彼女は、奥の牀に座る郭嘉が半裸だったのを見たのだろう。真っ赤になって背を向け、扉の向こうに隠れた。

「ご、ごめんなさいっ」

「いや、いいよ。気にしないから、入ったらいい」

 朝方来ていた荀彧の娘だ。十歳ほどとはいえ、知らない男の裸を見てはいけないということは理解しているらしい。入っていい、と言ったが、彼女は扉の裏に隠れたまま、でも、とつぶやいていた。

「君が、詵殿の面倒みてるのか? 今朝も探しに来てただろ?」

 郭嘉が包帯を巻き終わり、着物を着ると、そこでもう一度声をかけて、ようやく彼女は室に入ってきた。

「は、はい。三月前に一番下の弟が生まれて、それ以降は、私が詵の面倒を見るようにと、お母様に」

 牀から少し離れた位置に立ち、まだ郭嘉から目を背けながら言うその姿が、実に愛らしかった。

「君は何番目? 名前は?」

「荀玲と申します。私は二番目で、この子は五番目です」

「五番目? てことは、最近生まれた子を合わせて六人ってこと?」

 荀彧の年齢を考えると、一年おきくらいに子供が生まれていなければ成立しない数だ。夫人は一人のはずだから、大変仲睦まじいと言うべきか、お盛んだ、と言うべきか。荀彧の意外な一面を見た気がする。

「この子、じっとしていられなくて。お邪魔してしまってすみません」

 言葉だけは大人びて聞こえるが、言っている本人はやはりまだまだ子供だ。それがなにかおかしい。

「玲殿もまだ遊びたいくらいの歳なのに、大変だな。兄弟が多いとそんなもんかな? 乳母とか、いないの?」

「以前はいたこともあったのですけど、今回は……」

「ああ、そっか。三月前なら戦の真っ只中だもんな。むしろよく無事に生まれてきたくらいだ」

「は、はい。お父様も、そんなことを言っていました」

「そのまえにもね、あたらしいにーにができてね、こないだおとうともできてね、シンはうれしいの。にーもあたらしいにーに?」

 まだ牀の近くにいる荀詵がにこにこしながら言う。

「新しい、にーに?」

「多分、あなたも新しいお兄様なのか、って言いたいんだと。本当は、新しく来たのは兄じゃないんですけど」

「どういう意味?」

「えっと……少し前に来た人がいて。従兄(いとこ)じゃなくって、従子(おい)の子? とかってお父様が……」

 荀玲の何と言ったらいいのか困っているその姿が、初めて年相応の少女に見えてまたほほえましい。

「親戚の子が来たってこと?」

「は、はい。遠くにいたのを、お父様が見つけて連れてきたって言っていました。お父君が行方不明で、ひどい目にあっていたとか」

 戦にでも巻き込まれたということだろうか。ふうん、と郭嘉が返事をすると、荀玲はぺこりと頭を下げた。

「お騒がせしてすみません。ゆっくりお休みください。ほら詵、行くよ」

「うん。あたらしいにーに、おやすみ」

「はは、おやすみ」

 どうやら「にーに」は兄という意味らしい。

 二人が去ると、途端に部屋は静かになった。

「なんか、子供っていいな」

 かわいくて、やわらかい。

「子供、欲しくなりました?」

 意外そうに静が言う。それに首をかしげ、郭嘉は牀に横になった。

「それはまた別の話だろ」

 そこから、毎日のように荀詵がやってくるようになった。ついでのように荀玲も追いかけてやってくる。なんとなくほだされてしまって、数日経つ頃には一緒に遊ぶようになった。

 といっても、怪我があるので体を動かすような遊びはできない。庭を駆け回る荀詵をただ見ていたり、時には庭の土に図を描いて遊んだりもした。

 荀詵には上に三人兄がいて、もう一人、例の「あたらしくやってきた兄」もいるが、彼らは日中、学問に励んでいるらしい。ほとんど会うことはなかった。

 荀詵は郭嘉が来る前、日中遊び相手がいないのでさみしかったらしい。だから郭嘉のところにやってきていたというわけだ。遊び相手ができてうれしくてしようがないらしい荀詵は、ほとんど日中ずっと郭嘉と一緒にいるようになった。

 正直疲れはするが、気がまぎれもする。疲れれば一緒に昼寝したりもして、抜糸が終わるころにはすっかり荀詵は郭嘉になついていた。




 久々に荀彧が邸に戻ったのは、郭嘉が邸に来て半月ほど経った頃だった。

 濮陽の立て直し、穀の確保、そのための商人たちとの交渉。やらねばならないことは数知れない。

 この日自宅に戻ってこられたのも、曹操に「郭嘉の様子を見てこい」と言われたからだった。曹操としては、早く郭嘉を召し出したいのだろう。

 郭嘉の怪我は、そう簡単に治るとは思えない。何より、いつも飄々とした郭嘉が時に暗い表情を見せるのが、荀彧には心配だった。母を失って、傷ついている。本当なら喪に服すくらいの期間があってもいいのではないかと思うのだが、曹操はそれを許さないだろう。

「奉孝殿の様子はどうだ? 少しは落ち着かれただろうか?」

 帰るなりに妻にそう聞くと、彼女は淡く微笑んでうなずいた。

「ええ、抜糸も終えられて、近頃は笑顔を見せられることも多いようですよ。詵がすっかりなついてしまって」

「詵が?」

「ええ、あの子ったら新しい兄上が来たと言って大喜びで、入り浸っているうちに郭様も気に入ってくださったみたいで、最近はほとんど日中ご一緒しています。庭で遊んだり、一緒にお昼寝したり。お優しい方のようですね」

「そうか。それはよかった」

「あと、玲が……」

 妻が眉を顰める。どうした、と問うと、彼女はためらいがちに言った。

「玲も、郭様に随分なついているように、思うのですよ。ですけど、あの子は女子(おなご)ですし……どうしたものかと思っていて」

「別に構わないのではないか? もう五年後なら色々とあるかもしれないが、玲はまだ十歳だ」

「……あなたが、そうおっしゃるのでしたら」

 それでも妻はまだどこか心配顔だった。

 その日の夕食は、郭嘉を招いて全員でとることにした。

 早々とやってきて席に着いた年長の息子たちに遅れて、荀詵に手を引かれた郭嘉がやってくる。どうやら本当に荀詵はすっかりなついているようだ。

「文若殿、お久しぶり」

「ええ、お久しぶりですね、奉孝殿。どうです、体調は?」

「随分よくなりましたよ。熱も下がったし、抜糸も終わったし。でも、医者に言わせるとまだおとなしくしてろってことらしいです。表面はくっついても、中まできちんと治ってないから、激しく動くと傷が開くかもしれないとか」

 話す様子を見ていると、郭嘉の表情に影はない。いつもの彼らしい様子に、荀彧は胸をなでおろした。

「そうですか。では殿にはもうしばらく時間がかかりそうだとお伝えしておきましょう。殿は、熱が下がったらすぐにでも召し出せとの仰せでしたけど」

「え、本当に? なら俺、喜んで行きますけど」

「そう言わず、もう少し休んでいるといいですよ。出仕したが最後、安静になんて絶対させてもらえないでしょうからね」

「はは、そりゃ大変だ。じゃあ、もうちょっと休ませてもらおうかな」

「ほーこーどのはシンとあそぶの! どこもいかないの!」

 郭嘉の隣に座った荀詵が、まるで獲物を逃がすまいとするかのようにぎゅっと郭嘉の右腕にしがみつく。荀詵に咎めるような視線で見つめられ、荀彧は閉口した。

「詵、それは」

「詵殿、それはまた明日な。ご飯は母君の隣で食べたほうがいいんじゃないのか? ほら、母君が困った顔してる」

 まだ荀詵は郭嘉にしがみついていたが、妻が呼びかけると、しぶしぶと言った顔で妻の膝の上に移動した。それを見た郭嘉が苦笑している。

「すみません、奉孝殿。詵がすっかりなついてしまったようで」

「いや、そんな謝らなくても。俺も楽しいですよ。子供って相手したことなかったから、意外とかわいいなって」

「そういえば、まだ妻帯していないのでしたね」

「ええ。なんせ無位無官の男ですから」

「それは関係ないでしょうに。でもまあ、出仕すれば周りが放っておかないでしょう。潁川郭家の跡継ぎ、それでなくとも奉孝殿は見目もいいし、きっと殿の寵臣になるでしょうから」

「跡継ぎって、なんかぴんとこないな」

 郭嘉が苦笑する。たまたまだろうか、郭嘉の隣に座っていた荀玲が、妙にじっと郭嘉を見つめていることに荀彧は気づいた。しかし彼女は父に見られていることに気づくと、ぱっと視線を食卓へと戻す。

「なんだったらわたしが縁談を探してきても――。ああ、でも今はよくありませんね。母君が亡くなったばかりですし、あまり慶事は」

 燕杏の話題を出すのはよくなかっただろうか、と思ったが、郭嘉はそれでも穏やかに微笑んだままだ。かなり心理面でも回復したらしい。

「それは関係ないけど、俺は妻帯とか全然ぴんとこないですよ。まあ、いずれ一緒にいたいなんて思う人ができたらするかもしれないけど、別に無理して探さなくても。それでなくても、出仕してきちんと仕事できるかもわからないし」

「それは心配ないでしょう」

「どうだろ。それより文若殿、俺、ちょっと気になってるんだけど。一人だけ年の離れた子がいるよね。あの子……」

 郭嘉が端に座る少年に目を向けた。視線を受けて、少年が軽く頭を下げる。

「ああ、彼はわたしの子ではないのですよ。緝、奉孝殿にご挨拶を」

「はい。荀(しゅう)と申します。私は従父上(おじうえ)従子(おい)の子にあたります」

 郭嘉は荀緝の顔をじっと見つめていた。戸惑った荀緝が視線を逸らす。

(あざな)は? もうそれくらいの歳だよな? 十五? 十六くらい?」

「十七です。でも字は、まだ。……父上に再会したら、つけていただきたいとは、思っています」

「その父上って、もしかして、例の董卓を暗殺しようとして失敗したっていう人、だよな?」

 郭嘉が荀彧に向かって問うてくる。

「よくわかりましたね。そうです。依然行方不明のままですよ。こうして緝が見つかったのだと、教えてあげたいのですけど」

 荀彧が言うと、郭嘉が困ったように笑い、緝に目を向ける。

「多分、そのうち見つかるよ、大丈夫。きっと元気だと思う」

 そう言って荀緝を見つめる郭嘉の眼差しは優しかった。

 その妙に親しみのこもった眼差しに、荀彧は違和感を覚えた。まるで、彼もまた荀攸の子が生きているかどうかわからなかった、と思っていたかのようだ。

 ――そういえば……

 彼は、以前荊州で何伯求と会った、と言っていなかったか。死んだはずの、何伯求に。そして、何顒が死ぬ直前牢獄の中で一緒にいたのは――。

 ――もしかして……!

「父上、郭様がもうしばらく滞在されるのでしたら、体調もよくなられたようですし、私たちも郭様とお話しする機会をいただきたいのですが、だめですか?」

 言ったのは長男だった。まだ十二歳だが、荀彧に連れられてあちこち行くことが多かったせいか、彼は文人と語らうのが好きだった。名高い文人だと子供を見ると一家言くれたりするので、それを期待しているのだろう。

「ああ、それはいいですね。このような状況では学問を師に学ぶこともできない。わたしとしても心苦しいと思っていたのです。どうです、奉孝殿?」

 郭嘉に目を向けると、郭嘉はとんでもない、とばかり両手を振った。

「いやそんな、俺、人に教えられるほど学ないよ」

「そんな、ご謙遜を。冀州では論戦で一度も負けなかったと聞きましたよ」

「誰から聞いたの、そんなの!? ていうかあんなのただの屁理屈で、別にたいしたことは」

「知識がなければ論戦に勝てませんよ」

「そんなことないって。大体俺、ろくなこと教えないよ。そのくらいの子だったら儒学をって感じでしょ? 俺がぜんっぜん真面目じゃないの、文若殿もわかってるでしょ!?」

「それもいい経験でしょう。儒者としか交わらなければ、思考が偏ってしまう。わたしだって、儒学がすべてだなんて思っていませんよ。広い視点を持つことは大切なことです」

 どこが、という視線で郭嘉が見つめてくる。それににこりと微笑みかけると、彼はあきらめたように嘆息した。

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