30:<郭嘉/荀彧編>孤をして大業を成さしむ者は
曹操の陣営で治療を受けた後、郭嘉は悲しみと悔しさにさいなまれていた。そこに、曹操が帰ってきて対面することに。
曹操の陣営に着くと、すぐに軍医のところへ連れて行かれた。
床に敷かれた布の上に横たえられ、頭上で先導してきた兵と医師らしき男、そして静が言葉を交わしている。それも、郭嘉にはどこか遠い世界のことのように聞こえていた。
いつの間にか先導した兵が去っていき、静が郭嘉の側に座った。医師が手早く静が巻いた即席の包帯を外していく。すべて外し終わると、医師は傷口を見ながら言った。
「胸の傷はそこまででもありませんね。肩の傷はかなり深いので、もしかすると多少影響が残るかもしれません。ひとまず、洗います」
医師が桶の水に綿を浸している。しかし、それが肌に触れると痛みと共に温かさが伝わってくる。どうやら湯のようだ。
「若」
「ん?」
痛みに耐えながら医師の手つきを見ていると、静がそっと郭嘉の手を握ってきた。
「大丈夫ですか? ぼうっとしています。血が流れすぎて意識が遠のいているのでは」
「いや、大丈夫だよ。ぼーっとはしてるけど」
「ですからそれが心配だと」
「まだ大丈夫ですよ。死ぬ人はもっと青白い顔をしています」
医者が傷口を洗いながら平然と言った。静がほっとした様子でうなずいている。
「お前、過保護なんだよ」
「そんなことは」
「奉孝殿!」
次いでやってきたのは荀彧だった。戦場だからだろうか、彼はいつもより動きやすい軽装をしていた。
「奉孝殿、大丈夫ですか!? なんという、ひどい……!」
治療中の傷を見て、荀彧が口許を覆う。戦場ではこのくらいの怪我、よくあることなんじゃないだろうか、と思いつつぼんやり見上げると、荀彧はますます心配そうにして郭嘉の側に膝をついた。
「大丈夫なのですか?」
彼は、今度は医師に聞いている。医師はいささか辟易気味に大丈夫ですよ、と言っていた。
「文若殿、そんな大騒ぎしなくても大丈夫だよ。医者が呆れてる」
「すみません、つい。それにしても、何があったのです? これはいったい誰に」
「これは、まあ、色々あって……」
あれは、張邈なりに郭嘉を守ろうとしての行為だったのだろうか。あるいは、陳宮の手前、彼自身が曹操に与していない、と証明するために郭嘉を斬ったのだろうか。
「まあ、生きてるだけましだよ。生きてれば、やれることもある」
陳宮を殺すことだって、できる。
胸の中でつぶやき、目をつむる。荀彧の沈痛そうなため息が聞こえた後、淡々とした医師の声が聞こえてきた。
「縫います。いいですか。痛いですよ。口を開けて」
口? と問う間もなく、医者は遠慮なく郭嘉の口に布の塊を突っ込んできた。戸惑って目を開けると、医師は既に糸と針を用意していた。
「若」
手を握って傍に座っていた静が心配そうに顔を覗き込んでくる。何? と言おうとして、口の中に布があって、音にはならなかった。
「多分経験がないと思うので先に言うんですけど、傷口を縫うのは、斬られるより何倍も痛いですから」
え、と問い返す暇もない。
静が言い終わった直後、医師が行きますよ、とひとこと言って、針が体に刺さる。その痛みに、郭嘉は思わずうめき声をあげた。
ひどい悪夢を見た。
略奪でめちゃくちゃになった街を駆けて邸に戻ると、そこは血の海で、何人もが倒れている。奥へ駆け込むと血まみれの母が振り返り、泣くのだ。
お前が余計なことさえしなければ、こんなことには、と。
崩れ落ちる母の死体を必死に抱きしめ、とんでもない後悔で胸がつぶれそうになる。
いっそ、俺を代わりに殺してくれ!
そう叫んだところで、夢から醒めた。
「奉孝殿」
目を開いて初めに視界に飛び込んできたのは心配そうにのぞき込んでくる荀彧の顔だった。
何で、彼が。
ぼんやりとしていると、彼は持っていた布で郭嘉の顔をぬぐった。汗でもかいていたらしい。
「目が覚めましたか?」
次いで、彼は郭嘉の額に触れてきた。ひやりと冷たい手の感触が心地いい。
「傷口は縫合しました。医師の話では、肩の傷は深いので、しばらくは安静にしているように、と。熱も出るかもしれないと言っていましたが、やはりそのようですね」
言われてみると、頭はぼうっとしていて、倦怠感がある。
状況が思い出せず、郭嘉はぼんやりとしたまま周囲を見回した。夜なのか、灯りはわずかなろうそくの灯火だけ。見慣れない部屋の天井は天幕のようだ。簡素な牀の上に横たわっていて、その横に荀彧が座っていた。
「えっと……ここ……?」
「覚えていますか? 濮陽で傷を負って、傷口を縫いました。途中で奉孝殿は気を失ってしまったのですよ。それで、こうして私の幕舎で休んでもらっていたのです。ああ、あなたの従者は、燕杏殿の遺体を取りに行くと言って、一度濮陽へと戻りました」
「……そう、ですか」
一息に現実が戻ってくる。
現実に起こったことが矢継ぎ早に脳裏によみがえってきて、郭嘉はきつく目をつむった。両手で顔を覆おうとして、左肩の痛みでまた現実を思い知る。
己のうかつさで、母を失った。
そのどうしようもない後悔で押しつぶされてしまいそうだ。不意に涙があふれてきて、右手で目許を覆う。
「奉孝殿。……すみませんでした」
聞こえてきた荀彧の声は、かすかにふるえていた。見れば、彼の目元にも光るものがある。
「わたしが、強引に母君を濮陽に連れてきたばかりに、このような……。せめてあの日、あなたと燕杏殿に鄄城に残ってほしいと言っていれば、こんなことには」
きゅっと荀彧が目をつむると、彼の頬を涙が伝った。彼はすぐに恥じたように頬をぬぐうと、改めて頭を下げた。
「あの晩、あなたがおっしゃった話で、反乱は予見できたかもしれなかった、と思うのです。陳宮が不満をためていたことも、呂布や張邈と妙に近づいていることにも気づいていました。それなのに、わたしはまさか謀反などありえないと決めつけて」
荀彧が床に手をつき、平伏する。
「え、文若殿?」
「このようなことで許していただけるようなことではないことはわかっています。それでも」
「や、やめてくださいよ、そんなっ、っつ!」
体を起こそうとして、痛みに襲われた。結局また牀にあおむけになると、荀彧が慌てた様子で手を差し伸べてくる。
「大丈夫ですか?」
「文若殿が変なことするからですよ。やめてくださいよ。別に、母上が死んだのは文若殿せいじゃない」
「ですが」
「母上が死んだのは、……俺の、せいだから」
言葉にすると、また脳裏に母の遺体を抱いた瞬間がよみがえってくる。それを振り払うように首を振り、郭嘉は強いて笑みを作って見せた。
「こんなこと言ってても不毛だよ。母上が生き返るわけじゃない。やめましょう、もう」
「そう、ですね」
言いながら、荀彧は沈痛そうに目を伏せた。
沈黙が降りてしまうと、それ以上郭嘉はどう言ったらいいのかわからなくなってしまった。瞼を閉じればまた後悔の念が襲ってくるし、かといって、荀彧の前で取り乱すのも気が引ける。
「文若殿、少し、休ませてくれない? なんか、だるくってさ」
「そうですね。殿が来られるまで休むといいでしょう。そばにわたしの従僕を控えさせますから、何かあったら彼に」
「殿が来られるまで、って」
「殿は、濮陽の制圧が完了したらここに戻ってくることになっています。その際に、あなたの話を聞きたいと、先程伝令がありました。おそらく夜が明けたら帰ってこられるのではないかと思います」
ゆっくり休んでくださいね、ともう一度ひんやりとした手が額に触れる。彼はそのまま幕舎を出て行って、代わりに若い男が入ってきて部屋の隅に控えた。多分荀彧の従僕だろう。
曹操が戻ってきたら何を聞かれるのか。しばらくはそれを考えていたが、すぐにそれはまた強烈な悲しみと後悔の念に取って代わられた。ともすれば涙が流れそうになり、悔しさに身が焦がれるようだ。
せめて、曹操に会うまでには少しは落ち着かなければ。
そう思うのに、どれだけ念じても身の内で暴れまわる感情は落ち着きそうもなかった。
曹操が戻ってきたのは、夜が明け、昼も近くなった頃だった。
出迎えた荀彧に、曹操は言った。
「思いがけない収穫があった。陳宮の母親だ。独り、邸に残っていた。火が回っているのに、逃げもせずにな。火傷は負っていたが、命に別状はない。消火活動に当たっていた兵士が連れてきてな。どうして逃げなかったと聞いたら、息子が俺に叛くのが許せないと言って、平伏した。殺してくれと」
「それは……」
「息子が不忠なことをするのが許せなかったのかもしれん。捕らえてあるから、鄄城に連れて行く」
陳宮が母親を気にして曹操に降る、などということはないだろう。ただ、切り札の一つにはなるかもしれない。
「かしこまりました。ひとまずは、城の奥で生活してもらいましょう」
「そうだな。獄に入れる必要はあるまい。ただ、暗殺などされると面倒だ。護衛兼見張りはつけろ」
「はい」
「濮陽はひとまず子孝に任せることにした。毛玠が牢獄の中にいてな、多少弱っていたが、政務関係はあいつに任せておけばよかろう。ひとまずは兵たちを使って、蝗の掃除と街の立て直しだ」
「人質の方々は」
「おおむね確保できた。このまま鄄城まで連れて行くつもりだ。だが、連中、妙なことを言ってな」
「妙なこと?」
「火が回る前、一度陳宮の兵が移動するので外へ出よと言ったらしいのだが、その後張邈が来て、部屋にとどまれ、と言ったのだそうだ」
「張邈殿が?」
「外で略奪が始まるから、危ないからしばらく留まれと。その内出口に火が回り、出られなくなったと言っていた。お前と俺の手の者たちは、うまく外周にだけ火をつけて、府の建物自体はさほど焼けていない。街の方は風下だったので延焼もあったが、人質は府の中に残っていたのでほぼ無傷だ。多少逃げた者もいたがな」
結果として、張邈の言葉があったから人質を確保できたことになる。しかし、間者たちには計画を張邈に告げろ、とは言っていない。となれば、張邈が自身で曹操が来ることを見越して、人質を城に残そうとしたのか。それとも純粋に人質を守ろうとして留まれと言ったのか。
曹操は気のないふうを装っているが、内心はどうなのか。やはり張邈は担がれただけで、反乱には加担していない、ということだろうか。しかしその割に、張邈は呂布と共に逃げたという。
何というべきか。迷っていると、曹操が言った。
「郭嘉と話がしたい。呼べるか?」
「はい、ただいま呼んでまいります」
兵に郭嘉を呼びに行かせると、しばらくして彼はやってきた。
包帯を巻いた体に、単衣を着ただけの姿だ。ただ、足取りはしっかりしている。彼は幕舎に入ってくるなり、片腕だけ掲げ、軽く頭を下げた。
「郭嘉です。すみません、怪我で左腕が上がらなくて」
「よい。そこに座れ」
「はい」
郭嘉は勧められるまま、曹操の前の敷物に座った。まっすぐに曹操を見つめる瞳には、わずかに緊張が見える。
「傷を縫ったそうだな。怪我はひどいのか? 左腕が上がらぬと言っていたが」
「え? いえ、そこまでは。痛いので今は上げられないですけど、治れば多分」
郭嘉が左手の指先を動かしてみせる。指先は問題ないようだ。ただ、腕を上げようとしたところで彼は顔をしかめた。
「ならばよい。では、話を聞かせてもらいたい。そなた、謀反の当初から濮陽にいたのだろう。そして、呂布や陳宮たちとも言葉を交わしたはずだ。何があった? 順を追って話してくれ」
「はい。そうですね、最初からって言うと……文若殿に会うために鄄城に行って、一晩泊って、濮陽に戻った夜に陳宮が来たんです。俺が袁紹のとこで軍師やってたと思ってたみたいで、共に天下を目指す気はないか、曹操にはもはや天命はないとかなんとか言ってて、断ったらそのまま府に連れて行かれました」
連れて行かれた先では人質が集められていて、そこで陳宮が人質たちに手紙を書くよう言っていたとか、毛玠が背いた文官たちを面罵していたが、誰も態度を変えることはなかった、とも郭嘉は言った。
「やる気満々なのは陳宮と呂布だけって感じでしたね。まあ、呂布はバカだから、陳宮に担がれただけでしょうけど。張邈殿は、その時はただじっと立ってるだけでした。俺、あの時やる気のない文官たち見て、ちょっと悪戯心でつっついたんですよね。曹操殿が徐州で虐殺したのは、最初おとなしく門を開いた城市に裏切られたかららしいから、あんたらもその内殺されるんじゃないかって」
郭嘉の言葉に荀彧は思わず背筋が冷たくなるのを感じた。かといって、郭嘉に言葉の遣い方を考えろ、などと言うわけにはいかない。ちらと曹操を見ると、彼は顔色を変えることもなく、ただじっと郭嘉の言葉に耳を傾けていた。
「張邈殿には、あんた曹操殿が帰ってきたら八つ裂きだろうな、とか、まあ、結構好きなこと言いましたよ。けど、あの人、どんだけ挑発しても全然乗ってこなくて。まるでこの世の終わりみたいな、暗い顔してました」
その後、郭嘉は幕僚たちと共に獄に落とされたが、母親が陳宮に金を積んで、獄からは出されたのだという。
「初戦の前に、俺、呂布が勝つなんて夢にも思ってなかったんで、あんたらが勝つならそっちに与してやってもいい、みたいなことを言ったんですよ。そしたら、本当に呂布が勝っちゃって。その後、軍師やらないかみたいなことを、張邈殿に言われました。しばらくはぐらかしてたんですけど、長い間閉じ込められて母はどんどん弱っていくし、ちょっと張邈殿に同情してたのもあって、つい、口出しちゃったんですよね。陳宮を追い出せば、呂布をうまく操って、殺せると思うって」
「それは、どういう」
「張邈殿は、初戦で曹操殿が死にかけた時、真っ青になってました。その前にも、俺と二人で話してるときに、すごく後悔してるみたいなこと言ってて。『乱世で力がないがゆえに、こんなことになる』って。俺、つい思っちゃったんですよね。この人を救ってあげたい、って。うまくやれば呂布を殺して張邈殿を曹操殿のところへ戻せるんじゃないか、とか」
そこまで言うと、郭嘉は自嘲気味に口許をゆがめた。
「甘かったですね。本人は、一度だってそうしてくれなんて言わなかったのに」
「ほ、奉孝殿。どういう意味ですか? 張邈殿は反乱には本意ではないと?」
荀彧が思わず口を挟むと、郭嘉はうーん、と首をかしげた。
「いや、それはわからない。最後まで、本人はそうは言わなかったから。でも、迷いはあったと思います。時々態度がはっきりしなくて、この人の本心どっちにあるんだろう、ってずっと思ってたから」
郭嘉は曹操に視線を戻すと、言葉を続けた。
「張邈殿は、俺が最初にどうしてこんな反乱に加担したんだ、って聞いた時はこう言ってました。曹操殿の徐州での虐殺を諫めたら、曹操殿が許さないって怒り出して、剣さえ抜いた、って。曹操殿を諫められると思ってたけど、幕僚の一人が同じことを言って処断されたって聞いて、もうだめだと思った。曹操殿はなまじ軍略に長けるだけに、放っておいたらまた同じことを繰り返すかもしれない。だから、誰かが止めなきゃいけない、って」
郭嘉の言葉を聞くうちに、曹操の表情に驚きの色が浮かび、そして次に彼は苦虫をかみつぶしたような顔になっていった。
「主導したのは弟みたいですよ。張邈殿が曹操殿に剣つきつけられて逃げ帰ったら、広陵太守の弟が陳宮とか呂布を巻き込んで反乱を始めてしまった、って言ってましたからね」
曹操は顔をしかめたまま、きつくこぶしを握っていた。それを、郭嘉は臆することなく、まっすぐに見つめている。傍で見ている荀彧の方が、はらはらとして両者を見比べてしまうような空気だった。
「……初戦で、張邈が俺に書簡を寄こした。知っているか」
「知ってます。偽装投降の書簡ですよね? あれは陳宮の策で、使者に立った豪族には本気で張邈殿が逃げ出したがっているようにみせかけた、って言ってました」
「孟卓は、その時」
「自嘲気味に笑ってました。俺が、曹操殿がそんな見え透いた罠にはまるんだったら、それはまだあんたを大事に思ってることだろうって言ったら、『もう、始まってしまったのだ』って。でも、その割に、さっきも言いましたけど、あなたが死にかけたところ見て、真っ青になってましたけどね」
曹操がこぶしを握ったまま、視線を揺らす。そこに、郭嘉は言葉を重ねた。
「曹操殿、あなたにお伺いしたい。この反乱、なぜ起こったと思いますか?」
問われ、曹操が郭嘉を見る。
「この反乱、単に陳宮のくっだらない権勢欲から起こったものだと思いますか?」
郭嘉の問いに、曹操は答えない。ただ言葉に詰まって眉をひそめている。
「奉孝殿」
「文若殿は黙ってて。これ、大事なところですよ。ご自覚はおありですか? この反乱が起こった原因の一つに、あなたの徐州での虐殺があります。もちろん、陳宮は不満をためてたんでしょう。でも、それだけだったらこれだけ大掛かりな反乱はできなかったはずだ。あなたの兗州の統治は実に素晴らしいものでした。徐州のことさえなければ、あなたは青州黄巾賊を降したその声望で、中原にさぞや大きな勢力を築けたでしょう。天下だって十分狙えた。けど、あなたが犯したたった一度の過ちで、多くの士大夫があなたに背を向けました」
「ほ――」
「文若殿は黙ってろって! いいか、あんたもあんただ。主がばかなことやったら諫めるのが当然だろう。それなのに、曹操殿にほれ込みすぎて現実が見えてない!」
ぴしゃりと言い返され、荀彧は思わずその勢いに飲まれてしまった。
郭嘉は再び曹操に向き直り、続ける。
「あなたが儒者なのかどうか知りませんけど、いくら孝を重んじるのだとしても親の仇だっつって徐州の人間殺し尽くすようなのはやりすぎだ。そんなことをすればどんな影響があるのか、考えなかったんですか? 天下を安んじようって言うんだ。犠牲はつきものでしょう。だけど、ただの虐殺者に天下は従いません。やり方は考えなければ。あなたのその激情に駆られたがゆえの行動で、多くの士大夫があなたを見限った。こうして大事に治めてた兗州も失った。それも、あんな陳宮とか呂布とか、到底天下を獲れそうにないくっだらない奴らに出し抜かれて。これ、どう思われますか? それでもなお、徐州のことを諫めた臣を斬りますか?」
曹操は顔を真っ赤にして、それでもなお胡床から腰を浮かすこともなく、ただじっと郭嘉を睨んでいた。
「張邈殿と話してて、あの人がどれだけあなたに入れ込んでいたのか、よくわかりました。そこまであなたを見込んだ人を、あなたは裏切ったんだ。もちろん、だからって反乱を起こしていい理由にはなりません。ただ、こんなこと繰り返してたら、絶対に天下は獲れない!」
郭嘉はそこまで言うと、床に手をついた。
「あなたは文若殿が見込んだお方だ。きっと天下を獲るだけの器があるはず。どうか、天下を安んじてください。俺はもう、こんな世の中はまっぴらだ! 潁川では略奪に遭って父が死にました。そして今度は、母が……。俺のような思いをしている人間は掃いて捨てるほどいるでしょう。でも、この天下を安んじることのできる人間は、そうそういない。あなたはそれができるはずだ。だからこそ、一時の感情に流されて暴走したらどうなるか、よくよく考えていただきたいのです。たった一つの過ちで、天下万民が望む平和を導けるはずの人がつぶれたら、話にならない!」
最後の方、郭嘉の声は震えていた。泣いているのかもしれない。彼はそのまま床に額をつけ、続ける。
「首を刎ねられる覚悟はできています。俺の策は、あなたの軍に少なくない犠牲を出しました。当然責任を問う声もあるでしょう。罰は、甘んじて受け入れます。だけど、どうか、最後に俺の、この言葉だけは衷心から出たものとして、お聞き入れください」
郭嘉は言い切ってしまうと、平伏したまま動かなくなった。曹操はと言えば、顔を真っ赤にしたまま、動かない。
荀彧はあまりの張り詰めた空気に、身じろぎさえできずにいた。
せめて郭嘉はかばってやりたいが、とてもそんなことを言い出せる空気ではない。
永遠にも感じる長い沈黙の後、口火を切ったのは曹操のかすれた声だった。
「……郭嘉」
はい、と郭嘉が平伏したまま応える。曹操は己を落ち着かせようとするかのように大きく何度か息をして、続けた。
「そなたの言ったことは、私も重々わかっている。わかってはいるが、己を止めることができなかった。だから……今後、そのようなことがあれば、お前が私を、止めろ」
「……え?」
郭嘉が顔を挙げようとして、痛、と小さくよろめく。なんとか右腕で体を支えて曹操を見上げた彼は、呆然としていた。
「私に仕えよ。お前のその気概こそが、私を天下へと導くものであろう」
曹操の声はまだ抑えきれない憤りでどこか震えていた。その顔にも、怒りの片鱗は見え隠れする。それでも、彼は荒い息をしながら、じっと郭嘉を見つめていた。必死に怒りを収めようとしているのだろう。郭嘉もまた、目を丸くしてじっと曹操を見つめていた。
「聞こえなかったのか。返事は」
「殺さない、んですか?」
「命を懸けて直言できる、それだけの男を殺すほど、私は愚かではない。ましてやお前の智謀はこれまでのやりとりでよくわかっている。その才を、己のくだらない感情で捨てるわけにはいかん。私は、お前のその才を買う。私のものとなれ、郭嘉」
「……は、はいっ、――痛っ」
再び首を垂れようとして、また体が痛んだらしい。彼は体勢を崩し、片腕を床についた。それを見た曹操が、わずかに頬を緩める。それで、荀彧もようやく、呪縛から解き放たれた。
「奉孝殿、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫。ありがと」
郭嘉を支えて立たせると、郭嘉はまだ信じられない、とばかり曹操を見つめた。曹操の方はどうやら落ち着いたらしく、片肘をついて穏やかに郭嘉を見つめている。
「どうした?」
「いえ。これだけ言えば絶対に殺されるだろうって思ってたんで、何か……」
「殺されたくて言ったのか」
「そういう、訳じゃないんですけど……」
郭嘉が決まり悪げに目をそらす。
「よくわからん奴だ。途端にしおらしくなりおって。まあいい。もう行け。しばらくは傷を癒すことだ。治ったら、出仕せよ。こき使ってやるから覚悟しておけ」
曹操の言葉に、郭嘉はちょっと嫌そうに顔をしかめ、苦笑した。
「それはちょっと、困るなあ」




