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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
1.乱世の始まり
3/64

3:<郭嘉編> 炎の瞳

曹操との出会い編。


今回一部夏侯惇視点です。

 意識が戻ったのは、五日経った頃だったらしい。

 しかし起き上がる気力もなく、そのままだらだらと寝込んで更に五日。それでようやく寝台から起き上がれる状態になった。

 寝台に座り、久々に温かな粥を口にする。視線を挙げれば整った室の先にまた整った庭が見え、わずかな街の喧騒が聞こえてくる。

 数日前まで必死になって大移動をしていたことがまるで夢のような状況だった。

 ここは道中懇意になった李家から借りた離れだという。李家はなかなかの家だったようで、母が家を探しているというと気前よく貸してくれたということだった。

 現状、母は連れてきた家僕数名を使い、荘園の状況と、行方不明の兄の捜索を行わせているという。

 そして郭嘉が寝込んでいる間に、見舞いと書簡が届いていた。

 郭嘉は粥を食べながら、室の机に置かれた竹簡と、見舞いの品だという箱に目を向けた。

「何これ?」

「倒れられてから二日目だったでしょうか。件の夏侯惇殿がいらっしゃいまして」

 そばに控えていた静が言う。

「見舞いをとおっしゃられたのですが、若は寝込んでおられましたので丁重にお断り申し上げました。その日はそのままお帰りになられたのですが、その三日後にまた来られまして。なんでも、若の言った焼き討ちの作戦がかなりうまくいったようで、賊を一網打尽にできたと。見舞いの品はその時に持ってこられました。ですがその頃若はまだ意識を取り戻された直後、やはりお会いすることははばかられましたので帰っていただきました。で、更にその二日後ですか。また来られて、若はまだまだ起き上がれる状態ではありませんでしたので、回復したら挨拶に伺いますと申し上げたところ、今度はこの竹簡を置いて行かれました」

「ふーん」

 粥を脇に置き、机に置かれていた書簡を指さすと、静がそれを郭嘉に手渡してくれた。

 紐をほどき、開く。ふわりと薫る墨の香りに続いて、目に飛び込んできた文字に郭嘉はしばし言葉を失った。

 きれいな、と一言で片づけるにはあまりに立派な文字だった。文字で人が表されるというのなら、武人然として力強く、かつ美しく整った文字。一方で、言葉の選び方、文字の運び方にはかなりの教養を感じさせる。

「なんだ、これ……!」

 手紙のやり取りは何人かとしたことはあるが、多かれ少なかれ、手紙には人柄が出る。高名な人物はやはり手紙もそれなりに格式高い美しさのようなものがあるものだ。しかしこれは、今まで受け取ったどの手紙よりすごい。

 文章の内容としては見舞いから始まり、夏侯惇へ策を授けてくれた礼があり、相当な智者と見受けられるので是非一度話がしたい、とあった。回復次第遣いを寄こすので連絡が欲しいとも。

 最後の署名の欄には「東郡太守 曹操」とある。これまた達筆な、美しい署名だった。

「そ、曹操って、何者? なんかすごいぞ、これ」

 郭嘉の記憶にある曹操と言えば、反董卓の連合で唯一打って出たが無残に負けて帰ってきた奴、という印象しかない。負けるとわかっていて挑む戦など下の下。てっきり頭の弱い猪武者のように思っていたが、この手紙を見る限りどうも違うようだ。あるいは、勝手に武将だと思っていたが実は文人なのだろうか。

「曹操、字は孟徳。名門曹家の生まれですが、父君は宦官の養子だとか」

 何者、というのをそのままとったらしい静が曹操のことを話してくれた。

 若いころは放蕩三昧だったらしいが、仕官してからの評判は悪くない。洛陽の部尉で貴賤の差なく仕事をこなしたこと、(しょう)(地方の長官)となった地では邪教を禁じ、賄賂を断ってなかなかの治政を行ったこと。黄巾討伐で名を挙げ、そこからわずかな兵で反董卓軍に盟主袁紹の参謀のような形で参戦するも、煮え切らない袁紹に腹を立てて出陣、そして惨敗。その後は賊徒討伐のため兗州へやってきて、その功を認められ、東郡太守に上奏されたという。

 こうして聞くと、やはり武将だというという感じがする。経歴も悪くない。むしろ峻厳とした武人という感じがして好感が持てる。しかもこの書。かなり頭もよさそうだ。

「人相見の大家には『治世の能臣、乱世の姦雄』と言われたそうですよ」

「へえ、そりゃまた御大層な。姦雄……姦雄、ねえ」

 姦雄をどう解釈するべきか。ろくでもないことをやらかすと思えばいいのか、それともとんでもなくすごいことをやるかもしれないという評価なのか。もちろん、あくまで人相見が勝手に言ったことだ。それがそのまま本人を表しているとは限らないが。

「ひとまず、これって返事書かなきゃいけないやつだな」

「ええ」

「ついでに、これってやっぱ仕官のお誘いだよな」

「そうですね」

「……どうすっかな」




「曹操と申します。郭嘉殿にお会いしたいのだが」

 夏侯惇は曹操について、陳留の大きな商家の門をたたいていた。といっても、商家そのものには用がない。用があるのは、その家にとどまっている郭家の息子だ。

 潁川から逃げてきたというその郭家の息子は、道中奇策で盗賊を打ち負かし、百人を超える流民の民をここまで導いたという。更には夏侯惇に策を授けてくれ、おかげで森に潜む賊徒はほぼ殲滅できた。それをそのまま主である曹操に伝えたところ、彼は東郡からすっとんできた。

 軍師が欲しい、は最近の曹操の口癖のようなものだ。陳軍師がいるのになんでもう一人、と夏侯惇などは思わないでもないのだが、曹操にとってはどうやらそうではないらしい。

 せいぜい二十歳そこそこの若造に、わざわざ自分が足を運んでまで勧誘しなくてもいいんじゃないか。せっかくの東郡太守の格が落ちるぞ、と言ったが、曹操は聞きもしなかった。

 訪いを入れて、ほどなくして中年の女性が出てきた。地味な格好はしているが目鼻立ちは整っていて、その眼差しにはしっかりとした意志の強さが見える。どことなく、郭嘉と似ていた。

 彼女は深々と曹操の前で拝礼し、申し訳なさそうに言った。

「申し訳ありません。息子は今朝方出かけてしまいました」

「出かけた? では待たせていただこう」

「いえ、それが冀州に会いたい方がいるとかで、旅立ちましたので。おそらく、しばらく戻っては来ないかと」

 せっかく来ていただいたのに申し訳ありません、と彼女は深々と首を垂れた。

 曹操の頬がひきつっているのが、夏侯惇には見えていた。本当に中にいるのか検めさせろと暴れだすのではとはらはらしたが、曹操は何度か夫人に「本当に旅立ったのですね?」としつこく確認だけして、引き下がった。

 そのまま踵を返し、通りを歩く。

 曹操の半歩後ろを歩く夏侯惇には、彼の背中から怒気が立ち上っているのが目に見えるようだった。

「そもそも、お前が悪い!!」

 曹操ががなり散らし始めたのは、商家から随分離れ、市のある通りに来てからだった。この小柄だが気の極めて強い男は、一度怒り出すと時々手が付けられない。

「それほどの男ぞ! 一目見てわが軍に何が何でも引き込まねばならぬことくらいわかろうが! それを貴様と来たら、呑気に見舞いなぞに行っては追い返され、本気で寝込んでおるとまんまと騙され逃げられるとは!」

「いや、本当に体調が悪そうだったのだぞ」

「しかも行き先が冀州だと!? また袁紹にとられること必定ではないか!!」

「またって、おい、孟徳」

「いいか、何が何でも探し出せ! 意地でも冀州になぞ行かせるな!」

「だから落ち着け孟徳。仕官するしないは向こうにも意向があるだろう。そんな無理やり仕官させたところで……あ」

 夏侯惇はふとすれ違った男の顔に見覚えがあることに気づいた。とっさに手を伸ばし、その腕をつかむ。

 男にしては細いその腕の持ち主は、振り返るなり気まずそうに笑顔を見せた。

「こ、こんにちは、夏侯惇殿」

「郭嘉殿。いや、これはよかった」

「郭嘉だと!?」

「少し、茶でも飲まないか?」

 夏侯惇が微笑んで言っても、郭嘉の笑顔はまだひきつったままだった。




 仕官はせず、冀州へ行く。

 郭嘉がそう決めたのは昨日のことだ。曹操には「病弱なので仕官はできない」と断りの手紙を送った。その日のうちに母には冀州に行って会いたい人がいるからと伝え、許可を得た。そして今朝、必要なものを市場で買ってから出発、と思っていたら夏侯惇と鉢合わせしてしまったのだ。

 夏侯惇は夏侯惇で郭嘉を探していたらしい。なんでも、主たる曹操と一緒に訪れたら、郭嘉が今朝冀州に向かったと聞いて引き留めようとしていたらしい。

 結局近くの店に入ることになり、今卓には曹操と夏侯惇が並んで座り、その向かいに郭嘉が座っていて、静は郭嘉の脇に立っていた。それなりの店らしく、席はさりげなく紗幕で間仕切りされていて、静が立っていても傍目にはあまり目立たない。

 ――これってついてんのかな、ついてないのかな?

 妙な気分だ。

 正直、健康だったら曹操に仕官したいと思っただろう。それだけのものを感じさせる手紙だったし、何より今までほとんど評価されなかった自分を買ってくれたのも嬉しかった。

 それに、この、曹操と言う男だ。

「あの、一応言いますけど、俺、決して仮病を使ったわけでは」

 ちらと曹操を見る。最初に会った時は怒髪天といった雰囲気だった彼だが、今は落ち着いていて怒っているふうではない。

 それでも、目が合うとよくわからない動悸が起こるのを感じる。

 曹操その人と目が合った瞬間、一瞬心臓が止まるかと思った。それはこうして座って向き合っていてもあまり変わらない。

 威圧感というのだろうか。今までそんなものを感じたことは一度もなかったのに、妙に圧倒される。恐怖ではない。圧倒されるような、でも心惹かれるような、何か。

 ただ者でない、ということだけは感じた。武人らしい雰囲気も持っているし、切れ長の瞳からはあの手紙から感じた知性も感じられる。ただ、それが手紙や世評から想像していたよりずっと強烈だ、というだけだ。

「何、気にするな。智者だ隠者だと言われる連中が、もったいぶって仕官を断るなどよくある話だ。そんなものにいちいち怒っていたのでは埒が明かん」

 言いながら、曹操は茶を口許へ運んだ。武人然としているくせに、そんな仕草は妙に上品で、育ちの良さを感じさせた。

「いや、さっき怒ってましたよね?」

「あれはこいつが間抜けなことをしでかしたからだ。少し考えればわかりそうなものを、まんまと騙されおって」

「いや、ですから騙してないですって。俺、三日前まで本当に寝込んでたんですから」

 本当か、と言わんばかりに曹操がじっと見つめてくる。それにまたどきりとして目をそらしそうになったが、ここで目をそらしては嘘をついたと言うようなものだ。郭嘉は強いて彼を見つめ返した。

「子供のころは二十歳まで生きられないだろうと言われてたくらいです。五年前に腕のいい医者に会って、そこから薬とか運動とかで多少改善はしましたけど、潁川からここまで来るたった半月足らず、薬なしでちょっと無理をしただけなのにぶっ倒れたんです。そんな人間が、とても仕官なんて無理でしょう」

 曹操が胡散臭げに目をすがめ、見つめてくる。

「今いくつだ?」

「二十歳です」

「生きておるではないか」

「結果としてですよ。五年前にあの医者に会ってなかったら、本当に死んでたかもしれない。前はちょっと出歩いてはすぐ熱出して寝込んでましたからね」

「今はどうなのだ?」

「そう、ですね。ここ数年はほとんど寝込むこともなかったですよ。旅も、数日なら、別に……」

 洛陽に行った時は、疲労はしていたが寝込んだりはしなかった。もっとも、帰ってきてあの惨状を見て、気持ちが高揚してしまってそれどころではなかったというのもあるかもしれない。考えてみれば、最初に潁川を出てから半月くらいは平気だったことになる。

「でも、やっぱ半月くらいが限界なのかな」

「ならば問題あるまい。張良は謀を帷幄(いあく)の中に(めぐ)らし勝ちを千里の外に決すという。半月従軍できれば充分だ」

「いきなり張良になれって言われてもなあ」

 もう笑うしかない。

「なんで、そんなに俺を評価してくれるんですか? 初対面なのに」

「そなたのことは調べさせてもらった。潁川から来るまでの間に、何度か賊を計略にはめてやり過ごしたそうだな」

「そんなご大層なもんじゃ」

「お前と共に潁川から来た者たちは皆お前をほめていたそうだ。賊を恐れず、冷静に対処し、いつの間にかお前が一行の中心になっていたと」

「そんなことは……」

 郭嘉は首をかしげた。厄介ごとが起これば首を突っ込んでいたのは事実だが、郭嘉としてはそんなことをしていたつもりはないし、頼りにされていたとも思えない。むしろ、戦えない自分は周りの戦える男たちをかなりあてにしていた。

「人より少し悪知恵が働くというだけですよ。それに、楽しかったし」

「楽しかった?」

「ああいう、罠にはめて賊をやっつけるみたいなの、楽しいですよね。うまくいくとスカッとするっていうか」

 正直な感想だ。思い出すだけでも快感がよみがえってくるようで心地いい。自然と口元が緩んでいたのか、曹操がそれを見て嬉しそうに目を細めた。

「わかるぞ。策が当たって勝利を得た時の快感は何物にも代えがたいものだ。どうだ、わが軍に加わればそれが味わい放題だぞ」

「はは。でも、書簡でも言いましたけど、俺本当体が弱くて、多分従軍には耐えられません。しばらく旅して体力をつけたいと思ってます。ここ数年結構ましになったんで、もう少し鍛えればもっとまともになるかもしれない。俺、五年前までは本気で室からほとんど出られない体でしたから」

 ふむ、と曹操が目を細めた。今度は楽しそうではなく、むしろ疑うように。

「そう言いつつ、冀州へ行って袁紹にでも仕えるつもりなのではないのか? そなたの母君は冀州に人に会いに行くと言っていたが」

「別に袁紹なんかに仕えようなんて思ってないですよ」

「袁紹なんか?」

「反董卓連合の盟主になったくせに、な~んにもできずに撤退しただけの奴じゃないですか。何のために旗を挙げたんだか。あそこできちんと董卓を討ててれば、潁川だってあんなことにはならなかったかもしれないのに」

 言いながら、郭嘉はじっと曹操を見ていた。言外に、お前だってその仲間だろうと言いたいのは伝わったはずだ。

「俺は、仕官できるかどうかは別として、仕官するならダメな奴、やる気ない奴には仕える気ないですね。別に、必死になって仕官しなきゃいけないほど金にも困ってないし、ぜいたくにも興味ない。一生能無しのご機嫌取るだけの人生なんて御免ですから」

 曹操のやたらと威圧感のある瞳をじっと見つめ続けるのは、なかなかに勇気が言った。だが、言い切った後にやりと笑って見せると、曹操もまた嬉しそうに目を細める。それが、郭嘉には嬉しかった。

「ならば、どのような男にならば仕えるのだ」

「天下を正す気のある人、そしてそれを実行に移せる人、そして、勝てる人、ですかね」

「俺のことだな」

 即答だったので、郭嘉は思わず笑ってしまった。後で失礼だったかなと思ったが、曹操も心地よさげに笑うだけだ。

「すごい自信ですね」

「今、この国で真剣に天下のことを考えておるのは俺だけであろう。俺は、酸棗でそれを思い知った。他の諸侯どもは保身のことしか考えてはおるまい。孫堅だけはやる気のある男かと思ったが、今は荊州だ。あいつもわからんな」

「孫堅、って、あの洛陽の墓だけ修復して南に帰ったとかいう?」

 曹操は意外そうに小首をかしげてからうなずいた。

「そうだ。洛陽に入城した後、董卓が荒らしたという帝の陵墓を修復し、荊州へ向かったらしいな」

「そんな奴が天下を思ってるってことはないでしょう。洛陽のあんな惨状をほっぽりだして、陵墓だけ修復して帰るなんて」

 曹操はまた意外そうに郭嘉を見つめてきた。

「そなたは、どうも諸侯に対して点が辛いな」

「そうですか? でも、洛陽はひどいものでしたよ。帝の陵墓を修復するより先にやることがあったと思いますけど」

「見てきたのか?」

「ええ。ちょうど半月くらい前です。宮城(きゅうじょう)はぼろぼろ、盗賊と棄民がうろうろしてて、とても都とは思えない有様でした。こんな状況を見て陵墓だけ修復するなんてどういう神経だろうと思いましたよ」

 ふむ、と曹操があごひげをさすった。

「なるほど、世間から見るとそう見えるのかもしれんが、それはそれでしようのない面もある。董卓は洛陽を捨てて逃げた時、街を焼き払うと同時に領民もそのまま長安へ強制移住させたという話だ。人のいない都を復興してもしようがあるまい。そもそも、いくらがれきの山とはいえ、都を修復することは一諸侯には不可能だな。金もない、人手もない、おまけに宮城をどこまで手を付けていいかもわからん。陵墓だけ修復して見せたのは孫堅のせめてもの誠意だろう。漢室に対する、な」

 最後の一言にかすかにあざけるような色がある。曹操は曹操で思うところがあるのだろう。

「都を守れない帝に、帝たる資格なんてないと思いますけどね」

 郭嘉の一言に、他の三人は一様に目を見張った。皮肉めいた笑みを浮かべていた曹操でさえも、愕然と郭嘉を見つめてくる。それをまっすぐに見つめ返すと、曹操はまた楽し気に目を細めた。

「いずれ、お前のようなことを言い出すものが出てくるかもしれんな。袁紹なぞは帝をすげ替えようとしておるし。あれもよくわからん奴だ」

「帝をすげ替えれば済む話ですかね?」

 曹操は暫時考える様子を見せ、どうだろう、と肩をすくめた。

「帝を替えれば話が済むと思っておるのならば袁紹はただの馬鹿だ。別の狙いがあるならば、少し見直してもよいかもしれぬな」

 別の狙いとは何か。自分が帝を擁して実権を握る以外の何かがあるのだろうか。

 興味はあったが、正直郭嘉にはどうでもいいことだった。誰がどんな権力を握ろうと、結果平和になるならそれでいい。そして、差し当たってこの場から逃げることが、郭嘉にとっては重大事だ。曹操と話すのがなんとなく楽しくてつい乗ってしまったが、こんなことをしている場合ではない。

「えっと、それじゃ俺、そろそろ行かないと。日が暮れたら今日出発できなくなるし」

「まだ冀州に行くというのか。それほど袁紹に仕えたいのか?」

「ですから、そうじゃないですって。冀州に会いたい人がいるんです。荀彧殿っていう、俺の恩人なんですけど」

「荀彧か」

「ご存じで?」

「名前だけな。王佐の才などと呼ばれておるそうではないか。奴ならばどこに行っても上賓の礼を以って迎えられよう。冀州に行ったというのなら、今頃袁紹に膝を屈しておるやもな。まったくどいつもこいつも袁紹袁紹と」

「え? 荀彧殿は韓馥っていう冀州牧を頼って冀州に行ったと聞きましたけど」

「その韓馥が袁紹に冀州牧を譲った。今の冀州牧は袁紹だ」

「えっ? そう、なんですか」

 まったくもって乱世だと言わざるを得ない。牧の地位を個人の意思で譲るなど、朝廷がしっかりしていればあり得ないことだ。

 そして、本当に譲られたのなら袁紹は戦わずして冀州を得たことになる。

「ふーん、じゃあ案外袁紹ってすごいのかな」

 ぽつりとつぶやくと、曹操が睨んでくる。郭嘉は慌てて笑ってごまかした。

「と、とにかく! 俺は今すぐ誰かに仕える気はありません。荀彧殿に会ったら、しばらく誰かについて学問したいんです。俺、まともな先生に教わったこともないし。仕官するにしても、それからじゃないと。自分が人の役に立てるかどうかもわからないし」

 曹操は片目をすがめ、じっと郭嘉をみつめてきた。また心臓に悪い威圧感に圧倒されそうになる。郭嘉が唇を引き結ぶと、曹操はふっと口許を緩めた。

「まあ、そなたはまだ若い。それもよかろう。だが、忘れるな。知識とは何のためにある? それは世に役立てるためだ」

 じっと見つめてくる曹操の眼差しは、また強いものになっていた。まるで炎に焼かれるような錯覚に体がすくむ。

「ゆめ、忘れるな。世の隠者どもは隠れてこそこそと為政者の悪口を言うのが立派なことのように言っているが、表に出てこぬ者には何を言う資格もない。いかに才があろうとそれを世の役に立てぬというのならそれは罪だ」

「罪、って」

「乱世の下、多くがその乱を治めようと抗っておると言うのに、自分だけ庵にこもってご高説を垂れるだけの隠者など、許されるわけがない。この世に生を受けた以上、その才を生かし、天下を安んじる義務がある。よく、肝に銘じておけ」

 まっすぐに見つめてくる炎のような瞳に焼かれる、とさえ思った。

 よく通る低い声が深く胸に響く。

 初めて彼の書簡を目にした時のような、強い衝撃に郭嘉はしばらく口もきけなかった。

「あと、覚えておけ。お前はなかなか軍略の才があるぞ。世に役立つかわからぬなどと言わず、早く仕官することだ。もちろん、我が下へだ。いいな」

 最後ににやりと笑って、曹操は立ち上がった。夏侯惇が「気をつけてな。また会えるのを楽しみにしているぞ」と言って立ち上がり、曹操を追う。

「はは……」

 郭嘉がようやく声を出すことができたのは、彼らの足音がもう聞こえなくなった後だった。

「すごいな、あの人。なんか、いかにも天下獲りそうな感じじゃないの」

 まだ胸の中に熱いものがくすぶっている。これもまた、今まで誰に会っても感じたことのない高揚感だった。




 すっかり落ち着いた曹操の半歩後ろを歩きながら、夏侯惇は小さく息を吐いていた。

 何が何でも郭嘉を連れて帰ると言うとばかり思っていたので、どうしたものかと思っていたのだ。夏侯惇にとっては曹操は無二の主だが、それが必ずしも万人には当てはまらないことも理解している。無理やり仕官さえたところでへそを曲げてしまう可能性もあるし、仮に逃げられてしまったらまた曹操が暴れるのではないかと危惧していたのだ。

「まあ、あの男は袁紹には仕えまい」

 夏侯惇の嘆息が聞こえたのか、見透かしたように曹操が言った。

「まだ若い。経験を積むのは悪いことではないだろう。早く世に出たほうがいいのも確かだが、あまりにも世間知らずのままでいるのも問題だろうからな。荒波にもまれて成長して帰ってくることを願おう」

「そうだな。というより、孟徳。お前、智者が欲しいとあまり連呼するとまた陳軍師がへそを曲げるぞ。陳軍師がいるのだから、そんなに智者智者と言わんでもいいんじゃないのか? そもそも、お前自身が陳軍師に引けを取らぬ智者ではないか。これ以上智者を増やしても頭が増えて混乱するだけのような気がするがな」

 これは、夏侯惇にとっては偽らざる気持ちだった。曹操はそんじょそこらの智者を自称するものたちよりよほど頭も切れれば知識も、学もある。夏侯惇からしてみれば陳宮をそばに置いたことさえ驚きだった。陳宮は確かにそれなりの智者だと思えるが、気位が高く、しばしば曹操と対立している。それでも、曹操は陳宮を重用するのをやめようとはしなかった。

 この上更に軍師が増えたらどうなるのか。正直、夏侯惇は今から頭が痛い。

「陳宮は陳宮だ。俺は、あれを使いこなしたい」

「使い、こなす?」

「陳宮は、自分こそが正しいと思って譲らん。しかし、俺は献策を求めるのであって、陳宮に盲目に従ってやるつもりはない。陳宮には自分の立場をわかってほしいのだ。あくまで、俺の頭脳の一部にしかすぎぬのだ、と。もしもう一人二人軍師が増え、俺が時によって採用する人間を変えれば、陳宮もおのずと己の立場がわかって来よう。いくら軍師といえど己の策が絶対ではないのだとな」

 なるほど、そんな考えだったのか。

 夏侯惇は改めて誰よりも頭のいい主を見直した。むやみやたらに人を集めようというのでもなかったらしい。

「お前、本当すごいな」

「当たり前だろう。でなければ天下なぞ望むべくもないぞ」

 にやりと笑って曹操が振り返る。このどこまで本気かわからない強気な言葉が、また夏侯惇を惹きつけてやまないのだ。

「ふん、大口をたたくならまずどうにかして兗州くらいは獲ることだ。袁紹は冀州を手に入れたというのだからな」

「無論だ。俺も劉岱からあっさり譲ってもらえるといいのだがな」

 肩をすくめ、歩いていく。その背をまぶしいものでも見るように目を細めて見つめ、夏侯惇は胸の中でつぶやいた。いつか、この主を天下の主にしてみせるのだ、と。




 冀州へ向かう道程は、特に大きな問題は起きなかった。

 郭嘉と静の二人旅だったが、街道には案外人が多く、さして危ない目にも遭わずに済んだ。

「兗州から北はそんな荒れてない感じだな」

「そうですね。都から少し離れるからでしょうか。黄巾や黒山の賊はたまにでるという話ですが、幸いでしたね」

「ああ」

 幸い体調も悪くない。陳留で薬も確保した。馬に乗っての、さしたる危険もない二人旅は楽なものだ。

 剣術は苦手な郭嘉だが、馬に乗るのは嫌いではなかった。が、さすがに連日乗り続けるのは無理があったらしい。鄴に着いた頃には腿が限界ぎりぎりだった。

「俺、やっぱ色々鍛え足りないな」

「それはそうと、どうしますか? とりあえず鄴には着きましたが。荀彧殿をお探しになるのですよね?」

「ああ。曹操殿が言ってた感じだと、袁紹のところに行けば会えそうな気がするけど……どうかな、そんなほいほい入れてくれるもんかな? なんせ四世三公のお家柄だしな」

 仕官したいと嘘をつけば門を開けてくれるかもしれないが、万が一仕官しろなどと言われても面倒だ。仕官に値するかどうか見たいから話をさせろと言えるような有名人だったらそういう態度も取れるだろうが、郭嘉にはそんな評判もない。

「うーん、ムカつくけど郭図頼るかなあ。あいつが素直に協力してくれるかどうかも微妙だけど」

「それより、荀彧殿の邸を探しましょう。ひとまず宿を取って若はお休みを。私は荀彧殿のお邸を探してまいります」

「ああ、そうだな。それができるならそれが一番いい」

 静に任せて、郭嘉は宿で休むことにした。

 もう少しで荀彧に会える。それが楽しみで気持ちは沸き立っていた。

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