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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
2.濮陽争奪戦
29/64

29:<郭嘉編>濮陽争奪11

混乱のさなか、郭嘉は自宅へ向かう。母の無事を願っていたが、そこでは……

「ったく、こんな、遠かったっけ……」

 郭嘉はなんとかという体で歩きながら、邸のある方を目指していた。

 府から出た直後くらいは、気が昂っていたこともあって走れたのだが、すぐに体力は限界に達した。転びそうになり、あきらめて歩くことにしたのだが、それにしたって足が痛くて、重い。

 体力が欲しい。しみじみ思う。それでなかったら、馬だ。邸についたら馬、乗れるかな、などと思っていたが、その考えは甘いということにすぐに気づいた。

 大通り沿いの商店という商店が荒らされている。めちゃくちゃに荒らされた商店の軒先では、呆然としている者、怪我を負っている者はまだましな方で、血まみれになって倒れている者までいた。

 脳裏にかつて潁川で見た光景がよみがえる。荒らされた街。殺された人々。慌てて家に駆けこむと血だまりがいくつかあって、家僕が何人も殺されていた。

 血の気が引いていくのがわかる。

 郭嘉は力を振り絞って再び走り始めた。

 呂布にしてみれば、濮陽はもう放棄するのだから、その前に略奪して物資を奪って逃げてしまおうというのは理にかなった行動なのだろう。

 だが、奪われては困る人がいる。

 士大夫の居住区まで来ると、そこは既に荒らされている形跡があった。ただ、兵士たちは邸を荒らすのに夢中で、郭嘉には気づかない。

 無事であってくれ、と願って中へ駆けていくと、その途中、兵を率いる馬上の陳宮と出くわした。

「ほう」

 陳宮は一瞬驚きを見せたものの、すぐににやりと笑みを刻んだ。

「牢獄にいるはずの男が、どうやってここまで来た? 手引きしてくれる者でもいたか」

 答えずにいると、陳宮が奥をちらと見、実に愉快そうに目を細めた。

「大方、母親を助け出しに来たのだろう。だが、遅かったな。お前の母親は既にこと切れているだろうな」

「な」

「当然だろう。母親が人質になっているから、貴様を使ってやったのだ。それを、貴様は我らを裏切った。当然の報いではないか」

 確かに、そうだ。可能性として、それも考えないではなかった。でも、張邈に話をつけて母を城下に下ろした時点で、もう大丈夫のような気になっていた。

 すぐに駆けだし、道をふさぐ兵を押しのけて通りの奥へと走った。奥にいくと兵の姿はない。

 陳宮の言ったことは嘘なんじゃないか。そう思って母がいるはずの邸に入ると、そこは一転、踏み荒らされた跡があり、邸の中はめちゃくちゃに物が散乱していた。

「母上! ははう、えっ」

 玄関を抜け、回廊を抜けて母が居室にしていた部屋にたどり着くと、蹴破られて外れた扉が目に飛び込んでくる。そして室の中に、血だまり。

 恐る恐る近づいて、横たわる体に触れる。纏っている臙脂色の着物は母が好んでよく着ていたものだった。体を起こそうとして、ぬるりと手が滑った。体をあおむけにさせようとすると、斬られた着物の隙間にたまっていた血がどろりとこぼれ落ちる。

 確かめるように首筋に手を当てるが、脈の感触はない。ただ、肌にはまだ温かさが残っていた。ぎゅっと抱きすくめても、血の匂いしかしない。

「母上……っ!」

 どうしてこんなことに。

 様々なことが脳裏を駆け巡った。城下に逃がした時点で城壁の外に逃がすようにしていれば、あるいは静を自分ではなく母につけていれば、いや、そもそもさっさと潁川に帰っていれば。

 ――いや、そうじゃない。そうじゃなくて……

 考えれば考えるほど、母を救えた瞬間はあったとしか思えなかった。

「若」

 いつの間にやってきたのか、静が室の入り口に立っていた。その姿がぼやけてよく見えないので、自分が泣いていたことに郭嘉は初めて気づいた。

「俺が……」

 気づくと、涙が余計止まらなくなった。

「俺が、調子乗ってこんなことしなければ……!」

「違う」

 母を抱きすくめたままの郭嘉の前に、静が膝をつく。彼はそのまま郭嘉の頭を抱えこんだ。

「違います。それは、違う。これは、殺した者が悪いのです。あなたじゃない」

 頭のすぐ上で静の声が聞こえる。そう言われても納得できるわけがなかったし、涙は止まるはずもなかった。

 しばらくそうしていた。無数の考えが浮かんでは消え、後悔ばかりが募っていく。

「若、行きましょう」

 静がそう言った時にどれほどの時間が経っていたのか。静が郭嘉から離れ、その頬を指の背でぬぐう。

「逃げなければ」

 言われたことは、わかっていた。

 けれど、今更逃げてどうなるというのか。そうとしか考えられず、体に力が入らない。

「若」

 言い募る静に目を向け、次いで周囲を見回した。そこで初めて、家僕たちが母を守ろうと戦ったのだろうことに気づいた。武器を手にした家僕と、隠密らしき黒い服を着た男たちが何人か倒れている。

 目を閉じると、潁川で実家が荒らされていた時のことがよみがえってきた。あの時も、家僕が何人も倒れていた。でも、母は生きていて、何人かは生き残った。

 だが、今回は――

「……もう、こりごりだ」

「若?」

「こんなの……!」

 母を再び床に横たえ、立ち上がる。膝ががくついて一瞬よろめいたが、それを支えた静を振り払って立ち上がり、入り口へと向かった。

 若、と慌てた様子で静が追いかけてくる。それも無視して外に出ると、邸の前、通りに出たところに陳宮がいた。

 待っていたのか、陳宮は郭嘉の血まみれの姿を見て、また嬉しそうに笑う。

「最期の別れは済んだか? 我ながら実に慈悲深いだろう? 貴様のような裏切り者に、母親と過ごす最期の時間をくれてやったのだからな」

「お前が、やったのか」

 怒りを抑えながら言ったせいか、自分でも驚くほど声は低かった。馬上の陳宮を睨みつけると、彼は肩をすくめる。

「私ではない。あれは呂将軍がやったのだ。もちろん、私が殺せと言ったのではないぞ。呂将軍はお前にたいそう心の残りがあるようでな。どうやったら臣下になるかなどと言っていたので、お前の母親がいる限りは心服することはないだろう、と言ったのだ。母親は曹操に傾倒していて、荀彧と通じておるからと。そうしたら、呂将軍は、では母親を殺せば貴様が曹操に与する理由もなくなるだろうと」

「……んだよ、それはっ」

 母親を殺せば敵に回るという発想ができないのか。あの男の頭の悪さは想像を絶する。

「呂将軍の考え方は私にも理解できぬ」

 にやにや笑いながら言うその言葉に、自分でも驚くほどどす黒い感情が沸き起こってくるのを感じた。

「止めなかったんだろうがっ」

「当然だろう。貴様は我らを裏切った。当然の報いではないか」

 陳宮の哄笑に、胸の中のどす黒い感情はまた膨れ上がった。今手の中に剣がなく、彼を殺せないのが心底悔しかった。自分が暴れたところで周囲の兵たちに殺されて終わるだけだろうとわかっていても。

 どうすればいい。どうすればこの男を殺せる。

 きつく拳を握り、必死に頭を回す。しかし、どう考えても妙案など出てこない。

「連れていけ」

 陳宮の声が聞こえる。ここは一度捕らえられてしまった方が、まだ見込みはあるか。そう思ったが、体が後ろに引かれる。静だ。すれ違いざま、彼は耳元で小さく言った。

「下がっていてください。奴一人くらいなら、殺れるかもしれません」

「え」

 静は半ば力ずくで郭嘉を邸の門まで追いやると、剣を構え、陳宮の前に立った。

「お前」

「誰だ貴様。邪魔立てするというのか。この数を相手に?」

 陳宮があざ笑うように目を細める。静は返事をせずに、素早く隠し持っていた苦無を投げた。

 それは眼前の兵士の間をすり抜け、そのすぐ後ろにいた陳宮の乗っていた馬に当たった。驚いた馬がいななき、陳宮を振り落とす。

「なっ」

 皆が驚いて陳宮を見た一瞬に、静は気を取られている面前の兵を斬り、陳宮の体を地面に抑えこんでいた。

 ほんの一瞬の出来事だ。陳宮を抑えられた兵士たちは、それでもう静には手出しできなくなった。

「下がれ! さもないとこいつを殺す!」

 うつぶせになった陳宮の喉元に、静が剣を突き付けている。兵たちは顔を見合わせ、一歩、二歩と下がっていく。

「もっとだ。早くしろ!」

 十歩ほど兵士が下がったところで、静は陳宮の腕をつかみ、強引に立たせた。その体を抱え、相変わらず白刃を首に突き付けた状態で、静が振り返る。

「若」

 こちらへ、と目配せしてくる。それにうなずきかけ、郭嘉は二人に近づいて行った。

 静に片腕をひねり上げられ、抱え込まれるようにして剣を首筋に突き付けられた陳宮はすっかり青ざめ、体は震えていた。

 無様だ、と思う。

 今なら、殺そうと思えば殺してしまえるだろう。

「殺しますか?」

 静の声は、その内容にそぐわないほど穏やかだった。静が軽く首に剣を触れさせると、陳宮の首に赤い筋が走る。

 ――殺してしまいたい。八つ裂きにしても足りない。

 心底そう思ったが、今ここで陳宮を殺せば逃げ場を失うこともわかっていた。

「……曹操殿のところへ、連れて行こう。殺すのは、後でもできる」

 きつく握った拳が痛い。何とか絞り出した声は、抑えがたい怒りで震えていた。

「わかりました」

 通りに向かって歩いていくと、陳宮の兵たちは郭嘉たちを遠巻きにするようにぞろぞろと下がっていった。そのまま通りまで出て、足を止める。

 このまま城壁の外まで歩いていけるだろうか。大勢の兵に囲まれれば、危ういかもしれない。

「馬、くれる? このおっさん、殺されたくないだろ?」

 郭嘉が言うと、陳宮の兵たちは顔を見合わせた。皆歩兵で、馬と言えばさっき静が苦無を当てた馬しかない。隊長らしき男が兵の一人に指示すると、兵士が一人走っていった。

 郭嘉のいる場所だけ別世界のようだった。郭嘉を中心に、十歩ほど離れた位置で兵士たちが戸惑った顔をして取り囲んでいる。静が陳宮を抑えている以上は手出しはできないだろうが、永遠にこのままというわけにもいかないだろう。数に任せれば、あるいは陳宮一人犠牲にすれば、簡単に決着はつく。陳宮を殺してもいい、という誰かが来れば、終わりだ。

 ――でももう、それでも、いいかな。

 陳宮さえ殺せるなら、もうそれでもいいかもしれない。

 またどす黒い感情が沸き起こってくる。耐えがたいそれに、どうにもできない悔しさに、また視界がぼやけてくるのがわかった。

「若」

 しかし、静の声で現実に戻った。はっとして顔を挙げると、静がうなずく。

「落ち着いて。何とかしますから」

「……いや、大丈夫だよ、落ち着いてる」

「ふ、ふん、間の、抜けたことを」

 突然陳宮が言った。拘束される状態にも慣れてきたのか、彼は青ざめた顔はしているが、震えてはいなかった。

「皆、何をしている。たった二人だぞ、それを」

「殺されたいらしいな」

 静がまた喉に刃をつけると、その瞬間、陳宮の言葉は止まった。兵士たちも身構えはしたが、飛び出しては来ない。

 だが、確かに陳宮の言うとおりかもしれない。確実に逃げられる保証なんてない。それならいっそ、ここで陳宮を殺してしまった方が……。

「な、なんだ、その目は」

 じっと見つめる郭嘉の視線に殺気でもあったのだろうか。陳宮が怯えたように身をすくめる。それが妙に楽しくて、郭嘉は目を細めた。

「あんたを八つ裂きにしたら、このどす黒い感情、少しは消えるかな? 試してもいい?」

「なっ」

「自分でも信じらんないよ。こんな、攻撃的な衝動が自分の中にあるなんて」

 戸惑ったように静が見つめてくるのがわかる。殺せと言えば、彼は陳宮を殺すだろう。だがそれでは逃げ場を失って、次に死ぬのは郭嘉だ。彼はそれを恐れている。

 手を伸ばし、陳宮の首に伝った血に触れる。ぬるりと滑る感触に、ついさっき、抱いた母の亡骸を思い出してしまった。また、どす黒い感情が膨らむ。それを抑えようと、郭嘉はきつく目をつむった。

 そこに、馬蹄の音が聞こえてくる。馬が来たのか、と顔を挙げると、そこにいたのは馬だけではなく、馬に乗った張邈だった。

「公台殿! それに、郭嘉!? なぜ、ここに……」

 張邈が戸惑ったように見つめ、馬から降りる。彼は馬を曳いてあと五歩というところまで近づいてくると、呆然と言った。

「公台殿が人質に捕らえられているというから、来てみれば……」

 遠巻きにしている兵士からは、なぜ呂将軍を呼んでこなかった! という叱責の声が聞こえた。それに、張邈が振り返る。

「奉先殿は既に城壁の外だ。略奪を行い、兵も満足したから妻子を連れて次の城市に行くと。公台殿を探しておられたが……」

 陳宮が返事をしようとすると、静が陳宮をひねり上げ、見せつけるように刃を喉に突き付ける。ひゅっと、陳宮が息をのむのがわかった。

「取引しよう、張邈殿。俺たちをここで解放して、城壁の外に出すこと。そしたら、陳宮は生きて返す。その馬、貸してもらえるとありがたいんだけど」

 張邈は唇を噛み、見極めようとするかのように郭嘉を見、陳宮を見た。

 しばらく膠着が続く。にらみ合っているうち、誰かが火だ、と騒ぎ始めた。

 見れば、府から燃え広がったらしい火が、もう近くまで迫っていた。士大夫の居住区に燃え移るのも時間の問題だろう。そうなれば、居住区の門前にいるのも危ない。

 浮足立つ兵たちを前に、張邈は嘆息して言った。

「……しようがない。条件を飲もう」

 張邈が手に持った手綱を差し出す。しかし、彼は郭嘉に近寄ってくることはしない。郭嘉は彼に歩み寄り、手綱を受け取った。

「……曹操軍が来たようだ」

「え?」

 遠く、喧騒が聞こえた。よく見ると、大通りのかなり向こう、城壁の門あたりに兵がいるのが見える。だた、日が暮れ始めていて、旗の文字まではよく見えない。それがどこの軍なのかは郭嘉にはわからなかった。

「お前が、手引きしたのか?」

 問うた張邈は、まるで帰れない故郷を見るかのような目で、遠く、曹操軍らしき兵たちを見つめていた。

「違うよ。けど……あんたも、一緒に曹操殿のところ、行こう」

 思わず口をついてでた言葉に、張邈の表情は瞬時に凍り付いた。

「何を、言うのだ。言っただろう。私はもう、孟徳とは袂を分かったのだ」

 そう言った声は震えていた。

「本意じゃないんだろ、陳宮に使われるのは? だったら、こんな奴捨てて、曹操殿のところに戻ればいい」

「ふざけるな! そのような戯言、惑わされはせぬぞ!」

 睨んでくる張邈の目は必死だ。

「……なら、わかった」

 これ以上、説得している暇はない。そう判断し、郭嘉は手綱を掴み、馬の鼻面を撫でた。馬は緊張はしているが、暴れたりはしなさそうだ。

「せ――」

「危ない!」

 静に呼びかけようと振り返った瞬間、彼の叫びが耳に届く。それと同時に、肩から胸にかけて、熱い感触が走るのも。

「え……っ」

 目の前には、短剣を振り下ろした張邈がいた。愕然とする間もなく、そのまま押し倒され、強かに背を打つ。眼前には逆手に持たれた短剣が迫っていた。

 もう駄目だ、と目をつむると、肩に激しい痛みが走る。

「若!」

 慌てた静の声が遠く聞こえる。恐る恐る目を開くと、なぜか鼻先に張邈の顔があった。

「死んだふりをしていろ。私がお前を守ってやれるのは、ここまでだ」

 密やかな呟きを残して、張邈が体を起こす。そのすぐ後ろでは、斬りかかった静と、別の兵士がその剣を受けているのが目に入った。おそらく、張邈の護衛か何かだろう。

 薄闇の中で剣がぶつかり合うたびに火花が散っている。郭嘉にはもう、何がなんだかよくわからなかった。

「孟卓殿! 大丈夫か!?」

 陳宮が近寄ってきたようだ。その前に張邈が立つ。まるで、その背に郭嘉を隠すように。

「わ、私は大丈夫だ。早く逃げよう。あれは曹操軍だろう。見つかると厄介だ」

「そう、ですな。ここにいたってはしようがない。それより、郭嘉は」

「死んでいる、と思う。首を切ったのだ、無事ではすむまい。どこまでも鼻持ちならぬ男だ。この男だけは片づけておかねば、後々厄介だろう。ただ、この非常時に、死体まで持っていく必要はなかろう。さ、早く行こう」

 張邈と陳宮のやり取りを、郭嘉はわけもわからないまま地面に横になったまま聞いていた。首を斬られた覚えはないが、そのすぐ近くの肩のあたりは斬られて、血が流れる感覚がある。血だまりくらいできているかもしれない。

 そこまで考えて、もしかしたら張邈にかばわれたのかもしれない、と気づいた。死んだことにでもすれば、捕らえられることもないと思ったのかもしれない。張邈の影になって、少し離れた陳宮の位置からは郭嘉が死んで倒れているようにも見えただろう。

 しかしそれにしたって、これは。

 混乱しているうちに、張邈と陳宮は兵と共に去っていった。

「待て!」

 追おうとする静は、まだ張邈の部下らしき男と刃を交えている。

 起き上がろうとして、左肩が恐ろしく痛いことに気づいた。右側に重心を移し、なんとか上体を起こす。

「若!?」

 静が走り寄ってくる。静と戦っていた男はそれでいいと思ったのか、静を追うことはせず、すぐに張邈を追って走って行った。

「ご無事で……!」

「お前の目は節穴かよ。これのどこが無事だよ」

「す、すみません」

 肩から腹にかけて斬られたところがひりひりと痛んだ。だが、傷口に触れてみるとそこまで深い感じはしない。ひどいのは、左の肩だろうか。とめどなく血が流れているのが自分でもわかる。

 静はすぐに郭嘉の着物を破ると、傷口を抑えにかかっていた。痛みに慣れてしまったのか、不思議と怖いとか、死ぬかもしれない、という感情は薄い。どこか何もかもが浮世離れしていて、まるで夢でも見ているような感覚だった。

「陳宮、殺し損ねたな」

「申し訳ありません。若が斬りつけられて、驚いて手が緩んだすきに逃げられてしまって」

 こんなことなら殺しておけばよかった、と静が言う。その声が悔しそうで、それが郭嘉には少し、嬉しかった。彼もまた、母や家僕が殺されたことで思うところもあるだろう。

「いいさ。あそこであんだけの兵相手に逃げられただけでも上等だ。生きてれば、また殺す機会はある」

 はい、とうなずきながら、静が郭嘉の袍の端をまた千切っていた。どうやら包帯代わりにしようというつもりらしい。

「あの男が、若を斬るとは思いませんでした」

「俺も。剣、持ってることさえ知らなかった」

 文官でも、竹簡を削ったりするのに小刀は持ち歩くものだ。だから、腰に短刀を下げていても特別気には留めなかった。

 地面に突き刺さったままの短剣に目を落とす。名士らしい、きれいな装飾の施されたそれは、おそらく護身用のものだろう。書刀にしてはやや大きく、刃先も鋭い。

 しばらくすると曹操軍がやってきて、消火活動を始めた。残っていた呂布軍の連中も掃討しようとしているのか、指揮官の命で方々に兵が散っていくのが見える。

 大通りの端で腰を下ろしたままそれを見ていた郭嘉は、少し離れた位置でできびきびと指示を出す小柄な男が司令官らしい、と気づいた。

 すっかり日は暮れて、顔はよく見えない。ただそのよく通る声に、なんとなく聞き覚えがあった。それに、護衛だろうか、筋骨隆々とした大男を従えている。わざわざそんな護衛を従える必要のある男など、そうそういないだろう。

「もしかして、曹操殿?」

 言ってみたが、曹操は気づかない。代わりに、隣に控えていた大男が郭嘉を振り返った。目が合うと、大男は近寄ってきて馬を降り、郭嘉の前に膝をついた。

「ひどい怪我だ。手当を」

「それより、あの人、曹操殿だよな? 話、させてもらえる?」

 ぞんざいな言い方が引っ掛かったのか、それとも曹操と話させろと言ったことがひっかかったのか、大男は軽く眉をひそめた。ただ、郭嘉を咎めることはしない。

「俺、文若殿の知り合いなんだけど。郭嘉って言ってもらったら、曹操殿もわかるかもしれない」

 そこまで言うと、大男はうなずいて曹操のところへ戻っていった。言われたことをそのまま曹操に伝えたのだろう。今度は、馬上の曹操が振り返る。彼は馬に乗ったまま郭嘉に近寄ってきた。それを、慌てた様子で大男が追う。やはり護衛なのだろう。郭嘉の側には静がいて、具足をつけている。そちらを警戒したのかもしれない。

「郭嘉だと?」

「はい」

 拱手しようとして、左肩が痛くてそれどこではないことを思い出した。

「すみません、怪我してて、きちんとした挨拶もできないけど」

「いや、よい。しかし、本物か? 郭嘉とは、文若の言っていたあの郭嘉であろう?」

「本物って、っつ」

 思わず笑ってしまって、痛みでうめく。傷を抑えて、言葉を続けた。

「偽物なんているんですか? 何言ったら信じてもらえます? ここで文若殿の秘密でも暴露できたら面白いんだけど、残念ながらそんなネタはないしな」

 曹操がかすかに笑ったのがわかった。

「それは残念だ。あれに欠点の一つでもあれば面白いのだがな」

「実は俺、一回曹操殿にお会いしたこと、あるんですけど。覚えてない、ですよね?」

「会ったことがあるだと? いや、そういえば、聞き覚えのある名だとは思ったのだが」

「四年くらい経ったかな。潁川が荒らされて逃げてるとき、陳留で一度お会いしました。俺が夏侯惇殿に森に火をつけろって献策して、そのあと、仕官を勧めに来てくださったけど、俺は、それを断って」

 言いながら、懐かしさに目をつむった。瞼の裏に当時のことがよみがえってきて、胸が熱くなる。

 あの頃に戻れたなら。

 生まれて初めて生まれた感情に戸惑い、慌ててそれを振り切った。

「あの時、あのままお仕えしていればって、何度も思いましたよ。そしたら……母上だって、死なずに済んだのかもしれないのに。……馬鹿でしたね」

 こみ上げる感傷で声が震える。情けない、とせめて涙は流れないよう、口を引き結んだ。

「ああ、あの時の! 覚えているぞ。元譲に見事な策を献策しながら、学問がしたいとか言って冀州に行くと」

「そうです。その、郭嘉。思い出してくださってよかった」

 薄闇の中、曹操を見上げる。表情はよく見えないが、警戒は解いてくれたようだった。

「その怪我はどうした?」

「まあ、色々あって、痛っ」

 肩をすくめようとすると、それだけで激痛が走る。思わず肩を抑えると、曹操が言った。

「怪我があるようだな。軍医に見せるか?」

「ありがたいですね、それ。実はこの先どうしたらいいか困ってて。拾っていただけると助かるんですけど」

 曹操は、今度は声に出して笑った。

「いいだろう、拾ってやる。本営に行って、治療を受けるといい。そちらには文若もいる。おい、誰かこの者を本営へ」

 曹操が言うと、兵士が一人走っていき、空馬を曳いて戻ってきた。

「馬には乗れるか?」

「た、多分……」

 助けを求めるように静を見ると、彼はうなずく。多分、彼が乗せてくれるだろう。

「そっちは? それは我が軍の具足か、あるいは……」

「ああ、これは呂布の軍の兵から拝借したやつですよ。こいつは俺の家僕です。お前、いい加減それ脱げよ、紛らわしい」

 わかりました、と言って静が具足を外す。彼はすぐに郭嘉を抱えて馬に乗せると、その後ろに自分も乗った。

「曹操殿は、まだ残るんですね」

「そうだ。お前には、聞きたいことが山ほどある。傷を癒しながら待っていろ」

「わかりました」

 そのまま、郭嘉は先導の兵について曹操軍の陣営へと向かった。


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