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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
2.濮陽争奪戦
28/64

28:<郭嘉/荀彧編>濮陽争奪10

呂布と陳宮が帰ってきた。曹操との内通を疑われ、郭嘉は牢獄に入ることに。一方陳宮たちは濮陽放棄の算段を始める。

 蝗のおかげというべきか、蝗のせいでというべきか、呂布も陳宮も、死なずに帰ってきた。

 ――あとちょっとで、策が成るはずだったのに。

 郭嘉は胸の中でぼやいていた。

「絶対におかしい! どうして曹操軍が我らが東から来るとわかっていたのか!? さては貴様、曹操に通じているのだろう!!」

 どうも、陳宮が率いてきた援軍はほとんどが曹操軍の伏兵に蹴散らされたらしい。自身も怪我を負った陳宮は、命からがら蝗に紛れて逃げてきたようだった。

「んなわけないだろ。おっさんの進軍の仕方が悪いんじゃないの? 曹操殿だって斥候くらい出してるだろうしさ、それで気づいたんだろ。さすがだね、曹操軍は」

「そんな訳があるか! 曹操軍は街道沿いに伏兵まで置いていた。いったい誰が、事前の情報もなしに伏兵などおけるものか! 蝗が来なければ死んでいたかもしれん! それをよくもぬけぬけと」

「自分の失敗人のせいにすんなよ。俺は必勝の策を授けたってのに、それを実行できなかったのはあんただろ」

「まあ、落ち着け」

 意外にも言い争う郭嘉と陳宮に割って入ったのは呂布だった。

「蝗が来たのだからしようがない。オレもあと少しで曹操を殺せそうだったのに残念は残念だが、しようがないじゃないか」

 呂布がねぎらうように陳宮の肩を叩き、腕を組んで斜に構える郭嘉の肩もまた、叩く。

 こいつこんな態度もとれたのか、と驚いていると、陳宮が愕然と固まっているのが見えた。陳宮にすれば、この半月ほどで郭嘉が信じられないほど呂布から信頼を得ているようにも見えただろう。

「策が失敗することだってあるさ。曹操の方が一枚上手だったと」

「殿、お待ちください。こればかりは陳宮殿が正しい」

 横から口を挟んだのは張遼だった。まっすぐなまなざしが、厳しく郭嘉を睨んでくる。

「殿、覚えておいでですか。いざ曹操に迫った時、無数の矢が飛んできました。曹操のそばに弩兵が控えていたのです」

「あ、ああ、覚えている」

「あんな本陣近くに弩兵がいるのはおかしい。しかもその前の歩兵を断ち切るのも、驚くほど簡単でした。初戦と同じように進んでいるのかと思いましたが、今思えばあれは敵の罠だったのではありませんか。おそらく、曹操は殿が背後から一直線に狙ってくることをわかって、備えていたのです。あわよくば弩兵で殿を討ち取ろうとしていたのでは」

 持つべきものは、優秀な部下のようだ。

 郭嘉は心底感心した。呂布などより、張遼の方がよほどわかっている。

 さすがに呂布はおかしいと思ったのだろう。郭嘉を見つめてくる。しかしその顔にはまだ、信じられない、という色が浮かんでいた。

「それ、本当に? てことは、曹操殿に読まれてたのかな。それとも、初戦みたいに呂布は一直線に突っ込んでくるしかできないって思われてたとか? ちょっと詰め甘かったかな」

 まだいけるか、と思い、そ知らぬふりを決め込む。すかさず顔を真っ赤にした陳宮が襟首を掴んできた。

「しらじらしい! 将軍、このような男、母親共々即刻首を刎ねてしまうべきだ!」

「待てよ! 俺が内通したって証拠でもあるのか!? 俺がどうやって曹操殿に内通できたってんだよ。俺が間者と会ってたとこ見た奴でもいるのか!?」

「ふん、曹操も荀彧も間諜は使っている。名門の間諜だ。人目を盗んでお前に会いに行くくらい、造作もなかろう」

「勝手に決めつけるな! 会ってもいないのにどうやって内通するってんだよ!」

「奉先殿」

 言い争う二人に、今度口を挟んだのは張邈だった。

「作戦を知るのは幕僚のみ。そして、その中でもっとも疑わしいのは確かに郭嘉だ。だが、証拠がない。その言い分ももっともだ。そして彼の智謀は無下に捨てるにはあまりに惜しいものではある。どうだろう、しばらく牢に入れておいて、確証が得られたら処罰を決めるというのは」

 張邈が戸惑う呂布を見、陳宮を見、最後に郭嘉を見つめてきた。

 助けられているのか、それとも追い込まれているのか、相変わらずわからない。だが、ここでそのまま殺されるよりはましだと思えた。

「ふん、そこまで疑うなら好きにしろよ。牢でもどこでも入ってやる」

「ぬけぬけと……! おい! 連れていけ!」

 陳宮が言うと、控えていた兵士がやってきて、郭嘉の腕をつかんだ。とっさに静が体を動かそうとしたが、それは目くばせでとどめる。ここで入れ替わりがバレれば、ただでは済まないだろう。なにせそばには天下無双と名高い呂布と、その部下の猛将たちがそろっている。

 久々に戻された牢獄では、再び前と同じ檻に入れられた。はっきりとやつれた毛玠が、まだ檻の中にいる。

「お久しぶり、毛玠殿。生きててよかった」

 おどけて言うと、毛玠は上から下まで郭嘉を眺めまわし、眉をひそめた。やせ細ってはいるが、気力はまだあるらしい。

「そなた、どうしたのだ、また戻ってきて。母親が金を積んで解放されたのではないのか。しかも、なんだそのぼろぼろの格好は」

「はは、まあ色々あって」

「それはそうと、外はどうなっている。戦の決着はつかんのか?」

「決着……そうですね。今のところ引き分けじゃないかな。蝗が飛んできて、それどころじゃなくなった感じだし」

「蝗?」

「空が真っ暗になるくらい大群の蝗が飛んできたんですよ。もう、気持ち悪いのなんのって。着物も、蝗にかじられてこの有様だし」

「なんと、蝗だと!? 漢王朝も、もう終わりと言うことか……!?」

 毛玠が大仰に天を仰ぐ。

「いや、そこなのかよ、問題は」

「古来より蝗害は帝が天意を失った証と」

「そんなもん腐れ儒者が勝手に言ったことでしょ。つーか、そもそももうとっく漢王朝に天意なんてないと思うけど」

「そなた……」

 信じられない、とばかり毛玠が睨んでくる。どうやら毛玠は漢王朝を大切に思っている類の男のようだ。肩をすくめて返すと、毛玠はため息をついた。

「最近の若い者は、まったく」

「それもそういう問題かな」

「しかし、蝗害となれば、大変なことになるぞ。今、備蓄はさして多くないはず。今年は干ばつで作柄は悪いだろうとは言っていたが、少ないのと全くないのとでは訳が違う。いずれ、食の奪い合いが始まろう。そうなれば、兵が多い方が不利だ」

 郭嘉はうなずき、腕を組んで牢獄の壁によりかかった。ひやりと冷たい感触が背中に触れる。

「蝗ってどのくらいの範囲、影響あるんですかね? 兗州全域くらい?」

「わからぬが、過去には州をまたいで草という草を食らいつくしたという記録もあったような気がするな。もし兗州だけで済まぬなら、周囲の諸侯も巻き込んでの争いになろう。せめて、被害が少なければいいのだが……」

 食に困るのは呂布も同じだろう。ただ、広範囲を抑えている分、呂布の方が備蓄は手に入れやすいかもしれない。

「袁紹が曹操殿に手助け……するわけないか。呂布側が手を結ぶとしたら陶謙か袁術かな」

 こちらもまた、呂布の方が味方が多そうだ。となると、曹操が不利ということになる。

 何かできることはないか、と少し考えたが、すぐにやめた。穀の調達ということになれば郭嘉にできることなどほとんどないし、奇策でどうにかなるものではないだろう。それより、今は自分の心配だった。誰かが助けに来てくれない限り、いつ殺されてもおかしくはない。もちろん、静をあてにはしているのだが。

 ――蝗さえこなけりゃ……。でも、どうかな、詰め甘かったかなー。

 脳裏で戦の様子を反芻する。もし蝗が来なかったとして、勝てていたかどうかは今となってはわからないことだった。




 戦が終わった後、陳宮は兵たちに蝗を始末するように言ったが、それはなかなか終わらなかった。

 まともにしていれば、蝗を片付けるだけでも数日かかる。しかも、城の周りは蝗に食い尽くされてまるで焼け野原だ。これ以上苦労して濮陽を保ったところで、意味はなかった。

「濮陽を、放棄する?」

「そうです」

 日が傾いてきたころ陳宮が言うと、呂布は軽く眉をひそめた。

 この男は、とにかく順序だてて物事を考えることのできない男だ。ここまで愚かだとわかっていれば、手を組んだかどうか。

 胸の中でぼやきつつ、陳宮は噛んで含めるように呂布に説明した。

 馬鹿も、考えようによっては役に立つ。うまく操りさえすれば、こちらの意のままだ。

「もはやこの周辺に残る利はありません。収穫が望めないばかりか、備蓄も少ない。済陰に参りましょう。あちらの方がまだ多少はましなはず」

「そ、そうだな。そうしよう。ならば逃げる準備を」

「その前に」

 陳宮は出て行こうとする呂布の手を掴み、にやりと笑った。

「城下にはまだ物資を隠している者もありましょう。商人たちはもちろんですが、人質たちがいた士大夫の居住区にはそれなりの蓄えもあるはず。それらを奪ってから逃げましょう」

「そうだな。それはいい。兵たちに恩賞も渡せず困っていたのだ」

「ならば、略奪の一部を兵に分ければよろしいでしょう。ついでに、残っている味方の妻子も外へと逃がしましょう。幸い今曹操は兵を退きました。妻子を連れて逃げても追手がかかることはありますまい」

「それは……」

 張邈が眉をひそめ、もの言いたげに陳宮を睨んでいた。

 この男は徳高いのが美点だが、同時に臆病でもある。

「なに、心配は要りません。戦場で略奪など日常茶飯事。どの道ここに残していっても曹操に奪われるだけならば、我らが持って逃げねば。これから先は穀の奪い合いになる」

「し、しかし」

「孟卓殿には府内の人質の移送をお願いしてもよろしいか? 彼らもまた、大事な切り札だ。私は城下の邸にいる幕僚の家族たちを外へ誘導しましょう」

「その人質の家から略奪して、人質たちは言うことを聞くのか」

「聞くしかありません。聞かねば、死ぬだけですからな」

 にやりと笑って見せると、張邈はまた顔をしかめた。

「さ、そうと決まればさっさと始めましょう。もたもたしていたら曹操が戻ってこないとも限らない」

 呂布とその部下が出ていく。陳宮はその後を追おうとして、張邈がまだ突っ立っているのに気づいた。

「孟卓殿、濮陽を放棄するのには反対ですか?」

「そういう、わけではない。ここを離れるのは理にかなっているとは思うが」

 それでも、何か気が進まないようだ。おそらくは、略奪に、だろう。乱世なのだ。きれいごとだけでは軍など支えられない。おそらく曹操とて、今頃略奪の算段くらいしているだろう。

「わかりました。気が向かないとおっしゃるなら残るなり逃げるなり、好きにされよ。おい、人質の移送を」

 そばにいた部下に指示すると、すぐに彼は走っていった。張邈がそれを目で追い、顔をしかめ、黙り込む。

 この男は、当初からこんな様子だった。曹操への想いが断ち切れないのか。その割には、反乱そのものに表立って反対はしない。

「孟卓殿、あなたに迷いがあるのはわかる。だが、いつまでもそのようでは困りますぞ。あなたは我らの旗印なのだ。あなたに天下を、と声高に叫んだあなたの弟君が泣きますぞ。それとも、まだ、曹操に未練がおありか?」

「そういう、わけでは」

「そういえば、呂将軍に郭嘉を引き合わせたのもあなたでしたな。もしや、実は曹操と内通を」

「そんなわけがない! だったら私はとうにここから逃げている!」

 必死になって怒鳴るその顔に、嘘はないように見える。

 ただ、腰が定まっていないのも確かだ。ここ半月、呂布が妙に郭嘉に入れ込んでいるのも気になる。あるいは、張邈が仲立ちしたのかもしれない。

「ならば、協力していただきたい。事を起こした以上、もはや逃げ道はないのです。曹操と内通していないというのなら、ここから逃げて曹操のところに行ったところで八つ裂きにされて終わりでしょう。あの男は、裏切った者を許すほど優しくはない」

 そして、もちろんこちらを裏切るというのであれば、それはそれで、生かしてはおけない。

 言外に伝えると、張邈はさっと目をそらし、府の奥に走っていった。

「人質を、逃がす。略奪はほどほどにせよ。声望を失っては、成せるものも成せなくなるぞ」

 声が震えている。張邈は、どちらにつくのを選んでも逃げ道はないくらいのつもりでいるのかもしれない。ただそれでも、旗印には役に立つ。やはり、呂布では外聞が悪すぎるのだ。

 どんなことも、ふたを開けてみなければわからないものだ。

 呂布はふたを開けてみれば思っていた以上に馬鹿だったし、張邈はいざ追い詰めてみれば単に死ぬことを恐れる腰抜けだった。

 計画通りに事が運んでいれば、自分は天下を狙えるはずだと思っていたのに。

 陳宮は唇を噛み、府の外へと向かった。

 まずは、幕僚の妻子を逃がすついでに郭嘉の母を殺す。あの男はちゃっかり自分の母親だけ城下へ逃がしていたという。いかに彼がうまく呂布に取り入っていたかの証左のようなものだ。

 郭嘉をこのままにはしておけない。母親を殺せば、郭嘉も冷静でなどいられないだろう。牢獄でのうのうと生きるあの男が母親の死を知ったらどんな顔をするか、楽しみだった。




「頼んだぞ、子廉」

「はっ」

 曹洪が拱手し、軍を率いて東へ向かう。それを見送ると、今度は本隊を率いる夏侯惇が近寄ってきた。

「本当にいいのだな、孟徳。残るのは一万だぞ。わかっているな」

「わかっておる。無理はせぬ。お前こそ、気を付けて帰れ」

「大きなお世話だ。いいか、濮陽のけりがついたら必ず一度戻るのだぞ」

「ああ」

 噛んで含めるように言ってから、夏侯惇は荀彧にも声をかけてきた。

「文若殿。もう一度言うが、無理はしないでくれ」

「承知しております。殿のお命が何よりも優先することは、よくわかっておりますから」

 荀彧がにこりと微笑みかけると、夏侯惇は不安そうにうなずき、出立した。

 濮陽から東に八里。曹操軍はそこに拠点を移した。

 濮陽そばの陣営を引き払って、本隊の兵は夏侯惇が指揮して鄄城へ戻る。曹洪は兵二万を率い東平の鎮撫へ向かい、食料の確保を目指す。そして曹操と荀彧は、残した一万の兵と、他の諸将と共に濮陽を狙うということになった。

 濮陽から東に向かって移動してきたが、先日までの緑にあふれた風景が嘘のように、今は草一本生えない、土色の景色が広がっていた。木も葉という葉を食らいつくされてしまったらしく、さながら焼け野原だ。

 兵を隠すことなど不可能に近い。どこに兵を待機させるかを考えるのも一苦労だ。曹操はせめてと切り立った崖の脇に陣をおいた。

「半時ほどしたら、ひそかに兵を動かしましょう。私の手の者と、殿の間者にはすでに伝達が行っているはず。呂布が濮陽で略奪を始めたら、府の外周に火をつけ、人質を外に出しにくい状況にします。呂布は人質の救出をあきらめるでしょうから、彼が城市を出たのを確認して、殿と子孝殿は城中に入って、救援活動を。妙才殿は呂布の様子をうかがってください。もし火がついても呂布が人質を連れ出そうとしたなら、彼らを取り戻してほしいのです。おそらく老人や妻子は呂布に比べて移動が遅くなるはず。護衛もさして多くはないでしょうから、呂布と離れたところでうまく引き離してください。くれぐれも、呂布とは正面切って戦われないように。人質がいなければ、城内に入って殿の援護を」

 荀彧の言葉に、夏侯淵が眉を顰める。

「しかしもし引き離せたとしても、呂布が追ってきたら難しいぞ。呂布の騎兵は精強だ」

「その時は――」

「その時は、人質は殺してよい」

 荀彧が言おうとするのを、曹操が遮って言った。

「え、でも、殿」

「ここで人質が死んだとて、呂布が動乱の中で殺したといくらでも理由はつく。噂などいかようにも作れるから気にするな。お前は人質を救出しようとしたが、呂布の妨害にあって殺されてしまった。それでよい」

 夏侯淵は驚きを見せた後、こくりと一つうなずいた。

「わ、わかりました」

「そうならないのが最善ではあります。うまく、人質が外に出る前に火が回って、諦めてくれるといいのですが」

「俺は、おそらく呂布はそれほど人質には固執せんだろう、と見る。陳宮は利害がわかっているだろうから守ろうとするだろうが、それも割に合わないと思えば捨てるだろう。もはや兗州は奴らの手に落ちているのだ。今更人質がいるということはさほど大きくはあるまい」

 これは、荀彧が曹操と二人きりの時に言ったことでもあった。曹操は作戦には賛成したが、一つだけ条件を出した。

 人質を殺していいなどと言ったのは、曹操だということにしておけ、と。

 荀彧は外では聖人君子の仮面をかぶっていろ、ということらしい。冷酷なことを平然とやる曹操と、それをたしなめる君子の荀彧。そういう関係性を外に見せたいらしい。

 ――本当は、人質が死んでも呂布のせいにしてしまえばいい、と言ったのはわたしなのに。

 細かいところを夏侯淵に説明する曹操を見ながら、荀彧は胸の中で独りごちた。

 天下を獲ろうというのだ。きれいごとだけで済むわけがない。幸い敵は悪名高き呂布だ。多少目に余ることをしても、天下の人々は「また呂布が」くらいで終わる。都合の悪いことはうまくなすりつけて、策に利用してしまえばいい。荀彧とてそのくらいの思考はできる。

 ただ、曹操は荀彧がそういう人間だということを認めつつも、外には知らせたくないようだ。世間の人々が勘違いしているように、聖人君子だと思わせておきたいのだろう。

 意図としては、わからなくもない。ただ、荀彧には少し罪悪感もあった。これだと、曹操が必要以上に残虐に見えてしまいかねない。ただでさえ徐州のことがあって、そう思われているというのに。

「兵たちは怯えていような。先程の蝗にしろ、呂布のあのとんでもない勢いにしろ」

「ええ、ですけど青州兵は別ですよ。皆、殿が行くところどこへでもってくらい、意気は高い。神の教えってのはある意味偉大ですね」

 夏侯淵があきれたように言った。

 信じるものがあれば、人は強くなれるのか。

 そうかもしれない、と荀彧は思った。自分もまた、曹操を主と戴いてから、変わったと思う。

 ふと、曹操と目が合う。彼はまた愉快そうに目を細め、微笑んでいた。

「どうだ、楽しみだろう、策が当たるのが」

「それは……」

 どうだろう。楽しみというよりは、不安の方が強い。失敗するとは思っていないが、うまくいくかどうかと考えると楽しいとは思えない。

 首を傾げた荀彧を曹操は笑った。

「まあ、お前はそういう男だろうな。さあ、出立の準備だ。今度こそ濮陽を取り返すぞ!」




 静は兵士のふりをしながら、時を待っていた。

 荀家の間諜たちからは、協力しろと言われている。彼らは彼らで、濮陽を取り戻すための策があるらしい。

 静としては、郭嘉を牢獄から出すことができればそれでいい。協力の見返りに、郭嘉の救出にも協力してほしいと言ったら、あっさりと了承された。

 本当ならすぐにでも牢獄に忍び込んで助け出したかったところを、もう少し待てと言ったのも荀家の間諜たちだった。どうやら、牢獄に行ったついでに捕らえられている他の者たちも獄の外に出してほしいのだという。そしてもう一つ、府の奥に囚われている人質たちが逃げないようにも、してほしい、と。

 人質が逃げないように。正確には「府の外に出ないように」だという。

 どういうことなのかは、深く聞かなかった。隠密としては、主の言葉に従うのみだろう。荀家の間諜たちとて、意図まで理解しているかどうかはわからない。

 日が傾き始めたころ、城内がにわかに騒がしくなった。どうやら呂布が濮陽を放棄するらしい。それに伴って、兵士たちもあわただしく行き来する。

 荀家の間諜から「そろそろ」と言われたのは、そんな時だった。混乱に乗じろ、ということだろう。案の定、兵士の格好をした静が牢獄に向かっても誰も顧みもしない。

 そ知らぬ顔で牢獄に入り込み、衛兵たちには「濮陽を放棄することになったから、囚人は置いて早く外に出ろ」といった。疑問さえ持たないのか、すぐに衛兵たちは出ていく。簡単なものだ。

 濮陽で兵のふりをするようになってから思うことだが、ここの兵はどこか脇が甘い。曹操軍から強制的に呂布の軍ということになったせいか、命令系統もあいまいだ。付け入る隙があって助かると言えば、助かるのだが。

 壁にかけられたままの鍵を手に、奥へと入っていく。郭嘉は比較的手前の檻の中にいた。

「若」

 呼びかけると、郭嘉はすぐに振り返った。比較的落ち着いて待っていたようだ。遅いぞ、と軽口が飛んでくる。申し訳ありません、と答えながら錠に鍵を差し込んで、扉は開いた。

「入り口で待っていていください。他の檻も開けます」

「わかった」

 他の檻も開け、おそらく陳宮たちに逆らって牢に入れられたのだろう者たちはすべて解放した。しかし、捕らえられていた者たちは皆足取りが重い。おそらく、数か月牢獄に押し込められていたせいで、体が思うように動かないのだろう。

「下手に動くより、ここにいてもらった方がいいかもしれませんね」

「え?」

 やっとやっとという感じで人質たちが歩いてくるのを見ていると、連れて行けばかえって危険を招くし、郭嘉を逃がすにも足手まといだ。静は郭嘉の耳に口を寄せ、小声で言った。

「荀家の隠密から接触が。じきに曹操軍が来ます。外では混乱が始まると思われますので、下手に外に出るとかえって危険かと」

 はっと郭嘉が顔を挙げる。うなずき返すと、彼はすぐに囚われていた者たちに向き直った。

「皆歩きにくそうだし、ここでしばらく待っててくれます? 後で必ず助けに来るから」

 言われた人質たちは顔を見合わせていたが、特に反論はなかった。

「じゃ、行くか」

 郭嘉の言葉にうなずき、先導するように階を上がった。郭嘉がついてこられる速度で走りながら、周囲に気を配る。すでに兵士の姿はまばらで、郭嘉が走っていても誰も気にも留めない。

「呂布は? いないのか?」

「どうも濮陽を放棄することに決めたようです。府の中にはもういないようです。城市から出たかどうかまではわかりませんが」

「なるほど。確かに、蝗も起きて物資の少ない状況じゃ、人口の多い街は何かと面倒かもな」

「我らも早々に街を出ましょう。曹操軍がやってくるらしいですし、うまくいけば合流して拾ってもらえるはずです」

「曹操軍は? まだ囲んでるのか?」

「いえ、一度退いたと聞きました。戻ってくると言っていましたから、おそらく、何か策があるのでしょう」

「母上は?」

「わかりません。兵のふりをしていたので、府の外には出られませんでした」

「って、それやばいんじゃないのか。呂布がもし城下で略奪してから逃げようとか思ったら、巻き込まれるかも」

「いくら呂布でも、さすがに自分の領内で略奪なんて」

「お前な、辺境育ちの連中がそんなお行儀いいわけないだろ。呂布は袁紹のところでさえ略奪したって話だぞ。くそっ、せめて母上んとこ、狙わないでくれると助かるんだけど」

 それきり、しばらく郭嘉は口を開かなかった。正確には体力がなくて、口をきけなかったのかもしれない。入り口までやってきた時、彼はぜいぜいと肩で息をしてろくに会話もできない状態だった。

「抱えましょうか?」

「ふっ、ざけんなっ、つーの!」

 差し伸べた手を冷たく払われる。郭嘉は膝に両手を置いて、激しく肩を上下させていた。

「す、少し、休ませて」

「だめです。せめて歩けますか? だめなら担ぎますけど」

 腕を掴んで言うと、郭嘉は恨めしげに睨んできて、その手を払った。

「お前、せめて、先に、行って、母上を」

「却下です。あなたを守るのが私にとっては最も大切なことですから」

「俺に、とっては、それ、ははうえっ」

「奥様はきっと、自分より若を守れというと思います」

 まだ肩で息をしている。奥から結構な距離があった。郭嘉の体力では無理もないと言えば無理もないのだが。

「けど」

「待て!」

 門まであとすこしというところで、後ろから怒声。とっさに剣を抜いて振り返ると、具足に身を包んだ男が女と少女を連れてこちらを睨んでいた。

「郭嘉殿!? なぜここに。あなたは牢にいるはずでは……」

 男がじっと睨んでくる。それだけで身のすくむような相手だ。おそらく名のある武将だろう。

「貴様、我が軍の兵ではないな」

 男は静を見て剣を抜いた。一層、威圧感が強くなる。肌を刺す殺気に、身がすくみそうだ。

「誰です?」

 郭嘉を背にかばいながら、郭嘉に問うと、彼は小声で返してきた。

「張遼っていう、呂布の部下。呂布よりできるかも。あ、頭含めてな。ついでにあの後ろ、多分呂布の奥さんと子供じゃないかな」

「……勝てませんね」

 多分、と郭嘉の声が聞こえる。

「なるほど、間諜を使って我らを騙していたというのは本当だったということだな、郭嘉殿。残念だ。貴殿の軍略が殿のものになればと思っていたが、貴様も殿をたぶらかそうという類の男だったとは!」

 言い返す体力もないのか、郭嘉は静の後ろでまだ荒く息をしているのがわかった。彼なりに、この局面をどう抜け出すかを考えているのだろう。

「逃げてください」

「な、だってお前」

「ここは私がなんとかします。あなただけでも早く!」

「けど」

「そんな甘さは捨てなさい!」

 言い募る郭嘉を一瞬だけ振り返り、すぐに静は張遼に向き直った。

「私にとってはあなたが生きることが第一義です。今はあなたを守って戦う余裕などありません。一人なら何とかなる。早く行きなさい!」

「っ……! 絶対死ぬなよ!」

 言い置いて、郭嘉が走っていくのがわかる。

 ほっと息をついたのも束の間、目の前に刃がひらめく。それを寸でのところで避けた。すぐさまに次の斬撃が襲ってきて、かわす。

 それを何度か続けるうち、張遼という男は感心したように目を細めた。

「ほう、なるほど。一人なら何とかなる、などと言い切るわけだ」

 避け続けるのは、一度でも受けてしまえば力で負けるとわかっているからだ。そして、今必要なことは郭嘉が逃げる時間を稼ぐこと。

 ちらと張遼の背後、少し離れた位置にいる女たちに目を向ける。少女はすっかり怯えて母親にしがみついているが、母親の方は意外に肚が据わっているのか、しっかりとした表情で静たちを見ていた。人質に取れれば、と思ったが、それも難しいかもしれない。

「いつから紛れ込んでいた?」

 答えてやる義理はない。黙っていると、またすぐ刃が襲ってくる。それをかわしていると、身を翻した瞬間に、足元にわずかに滑る感触があった。避けながらちらと確認すれば、屋根の上に荀家の隠密たちの姿が見える。

 かすかに鼻を突く油のにおいに、静は彼らが何をしようとしているのか悟った。案の定、張遼の剣をかわして間合いを広げた瞬間、何本もの火矢が飛んでくる。

「なっ!?」

 見事に矢は静には当たらず、その数歩先にいる張遼にだけ届くように飛んできていた。不意を突かれた格好の張遼は必死に矢を払っている。落ちたり地面に突き刺さったりした火矢から、まるで地をなめるように一気に火が燃え広がっていった。

 慌ててそこから身を翻し、すぐに木を伝って屋根に上る。すでにさっきまで立っていた草地では炎が燃え盛っていた。おそらく、何か仕込みでもしてあったのだろう。

「門を閉めろ! 誰も外に出すな!」

 隠密が指示すると、三人、屋根から降りて府の門へと向かう。張遼は燃え盛る炎の壁に遮られて前に進めずにいるようだ。

 驚いて荀家の間諜を見ると、行け、とばかり顎をしゃくられた。

「我らにはまだ任がある。これから街は火に包まれる予定だ。お前の主は邸のある方へ走っていったぞ。早く連れて外に出せ。我らはもう、手伝ってはやれない」

「わかった。恩に着る」

 静は府の塀の上を大通りへと向かって走りながら、張遼の様子を見ていた。どうやら彼は正門はあきらめたようで、妻子を担いで別の方向へと走っていく。おそらく、彼は彼で呂布の妻子を助けようとやってきたのだろう。

 ひとまず、正門の方に向かえば追いかけられることはなさそうだ。

 静は大通りの前で塀から降りると、そのまま邸のある方へと向かった。

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