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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
2.濮陽争奪戦
27/64

27:<荀彧/郭嘉編>濮陽争奪9

これできっと決着が着く。そう思っていたのに、戦が始まった途端蝗の大群がやってきて、戦は中断することに。

 郭嘉からの二通目の書簡は、届いてすぐ、曹操に見せた。

 幕舎の中で、曹操がその手紙を読むのを、荀彧は静かに待っていた。

 手紙に書かれていた郭嘉の策は、なかなか見事なものだ、と荀彧には思えた。多少大雑把な気もするが、それだけに遊びの余地も大きい。曹操ならば、逆にやりやすいと感じるのではないかと思う。

 あとはそれを、曹操が受け容れられるかどうか、だ。

 郭嘉を信用できないから内通はしない。曹操はそう言っていた。泳がせておけ、とも。そして、郭嘉の方から策を持ちかけてきた。

 曹操がそれを採用するかどうかは、微妙だ。

 ふ、と手紙に目を落とす曹操が笑みを刻む。それを見ていた夏侯惇が小さくつぶやいた。

「調子が戻ってきたようだな」

 隣にいた荀彧にだけ聞こえるような小声だった。夏侯惇の声音にも、安堵が強くにじんでいる。思わず彼を見ると、夏侯惇は荀彧に耳打ちした。

「戦に没頭しているときの孟徳は、いつもああなのだ。戦を楽しむというか」

 小さくうなずいて、ふと思い出す。先日の曹操も、敵陣を見て微笑んでいた。

 手紙を読み終えると、曹操の顔には愉快でたまらないとばかり、満面の笑顔が浮かんでいた。

「面白い奴だ。『唯一の不安材料は、陳宮が私の言うことを聞かないかもしれない、ということだ』などと」

「無理もありません。陳宮の性格では、人質の男の策など聞く耳をもたないかと」

 ただ、郭嘉はそれにもきちんと対策を記してある。陳宮も馬鹿ではないので、曹操軍の動きくらい掴もうとするだろう。実際に曹操軍が南からの援軍を牽制する動きを見せていれば、間違いなく東から来る、と。

「それを読んだ上で、俺を動かそうとは」

「孟徳、俺にも説明しろ。笑っているだけではわからん」

 夏侯惇に言われ、曹操は持っていた手紙を夏侯惇に渡した。さっと目を通した夏侯惇が手紙を持ったまま低くうなる。

「大したものだ。これを、どこにも仕官していない奴が書いたと?」

「味方とすれば大変頼もしい。が、敵とすれば、厄介だ」

 言いながら、曹操の頬にはまだ笑みが刻まれていた。

「どう見る、元譲?」

「どうもこうも、上策だろう。だが、呂布を罠にはめて、その後どうやって呂布を殺すのかが書いていない」

「当たり前だろう。そこは我らで考えろ、と言いたいのだろう。ここまでお膳立てしたのだからできるだろう、と言わんばかりの文面ではないか」

「しかし、これでは下手をすれば呂布にやられかねん。初戦で青州兵が蹴散らされたのを忘れたのか」

 曹操が何度かうなずいて髭をさすった。言い返せない、というところなのだろう。

「奉孝殿は、あえて浮足立っているように見せかけ、呂布を討てと言っているのでは?」

 荀彧が横から口を挟むと、曹操と夏侯惇の二人が同時にじっと荀彧を見つめ、首を振った。

「そうだ。だが、それだけで勝てるかと言うと、わからんな。罠にはめるにしても、伏兵を置けるような場所もない。今からあれこれ用意する暇もない。が……」

 曹操がまた考える様子を見せる。しかし、曹操の表情は決して暗いものではない。勝算があるのだろう。

「明日の朝までには結論を出す。しばらく一人にしてくれ」

「かしこまりました」

 夏侯惇と共に拱手して幕舎を出る。幕舎を出た途端、夏侯惇がにやりと笑った。

「勝てそうだな」

 確信に満ちたつぶやきだ。

「なぜ、そう思われるのですか?」

「ああいう顔をしているときの孟徳は必ず勝つ。青州黄巾賊の時もそうだった。まあ、半分はお前のおかげだろうが」

「わたしの、ですか」

「お前が微笑んでいるのを見ると、負ける気がしない、と孟徳が」

「そのような……」

 以前にもそんなことを言われたことがあった。青州黄巾賊を前に、曹操が笑っていたことも。

「それにしても、天下には人が多い。戯志才も大したものだと思ったが、まだそんな男がいたとは。しかも、呂布と陳宮を――」

「元譲殿」

 周囲には兵が行きかっている。敵方の間諜が耳を澄ましていないとも限らない。荀彧は夏侯惇の言葉を遮ると、物見櫓を指さした。

「続きは、上でいかがです?」

 そうだな、と恥じた様子を見せ夏侯惇が櫓を登る。荀彧もそれに続いた。下に声が聞こえないということはないだろうが、下で話し込むよりはましだろう。

「先程おっしゃっていた件ですけど、わたしはそこが少し気になっているのです」

 夏侯惇の側で声を潜める。聞こえにくかったのか、夏侯惇が耳を寄せてきた。

「気になる、とは?」

「奉孝殿は口の回る御仁ではありますけど、あの陳宮がそうそう言うことを聞くなどということはないと思うのです。呂布はまあ、単純そうな男でしたから、操るのはたやすいかもしれませんが、仮に呂布だけそそのかそうとしても陳宮が邪魔をするでしょう。それが、今陳宮は呂布を濮陽に置いて一人援軍を集めに行っている。もし、陳宮が奉孝殿と対立していたらありえないことです」

「まあ、そうだな」

「ですけど、わたしは性格的に奉孝殿が陳宮のご機嫌を取れるとは思えません。となれば、誰かが仲立ちしたのではないかと。おそらくは、濮陽に残っていて殿に心を寄せる誰かが、陳宮に従ったふりをして、奉孝殿を手引きした、のではないかと」

 夏侯惇の顔色が変わる。

「それは、孟卓――」

「それが誰なのかは、わかりません。ただ、張邈殿は盟主に担がれたとはいっても、実際には指揮を呂布や陳宮に任せ、自身は比較的おとなしくしているとか。間諜の報告によれば彼が奉孝殿と共にいることが多いのも、事実のようではあります」

「それは、孟徳には言ったのか」

「いいえ。確信が持てないので、申し上げてはいません。まだ仲立ちしたのが張邈殿と決まったわけではありませんし、仮にそうだったとしても、張邈殿としては現状を打開するために純粋に奉孝殿の軍略をあてにしたという可能性もあります。奉孝殿は母君を人質に捕らえられているわけですから、母君の命と引き換えに、殿を負かす策を献策せよと迫った可能性だって否定しきれない」

「だが、もしかすると内から反乱を止めようとしている可能性もあるということではないか」

「それは、なんとも」

 しばらく考え込んだ後、夏侯惇は嘆息して首を振った。

「孟徳には、言えぬな」

「はい。ようやく落ち着いてこられたのに。こうなった上は、張邈殿を捕らえて、直接殿とお話ししていただくしかないでしょう」

「だが、希望はあると言うことか。だが、そうだ。確か孟卓殿の弟御も加担しているという話だったろう。そいつは、反董卓の時も気炎を上げていたものだ。孟徳なぞよりずっと目立ってもいた。いずれは自分が、あるいは兄が諸侯として名乗りを上げると思っていたのかもしれん。それを、兄が勝手に孟徳に入れ込んで兵を預けてしまい、不満もあったのだろう。そこへ、徐州でのことがあって、広陵太守だった張超の耳にもその報が飛び込んできた」

「だから、殿を追い落とす好機だと思った。そして乗り気でない兄を巻き込んで謀反を起こした。……それは、ありうる話だとは思いますが」

「そうであってほしいものだ」

 だが、仮にそうだったとして、曹操は張邈を許せるのだろうか。すでに、張邈の手紙に騙されて、初戦でかなりの大きな損害を出している。担がれただけだったとしても、張邈は反乱の中心人物の一人だ。

 張邈だけではない。仮にここで勝てたとして、日和見を決め込んでいた官吏のいくらかは曹操の下に戻りたいと言い出すだろう。その時、曹操がそれを許すことができるのかどうか。

 許せない、全員殺すなどということになれば、それはそれでまた厄介なことになりかねない。曹操には激しさだけではなく、寛容さも示してもらわなければ、この先立ち行かないだろう。

 曹操が幕僚に招集をかけたのはその日の夜だった。

「作戦を説明する」

 曹操は地図を広げ、ざっと作戦の概要を説明した。

 陳宮の援軍が南から来ると思っていると見せかけ、南の街道沿いに一軍を置く。実際には陳宮は東からくるはずなので、明日の夜から少しずつ密かに兵を動かし、東の街道沿いの草むらに兵を伏せる。いざ陳宮がやってきたら、本隊は不意を突かれたふりをして東に向かい、伏兵と共に陳宮を撃退。そこに呂布が突っ込んでくるだろうから、本隊と、南に控えていた一軍で呂布を挟み撃つ。

「うまくはまれば、勝ちは間違いなかろう」

 曹操がそう言い終えると、武将たちはうなずきつつも、納得いかない様子で低くうなったり首を傾げたりしていた。

「はまれば、でしょ? それって信用できるんですか? いくら荀軍師の知り合いだからって、本当に味方かどうかは」

「殿は、どうお考えなんです? 信じられると?」

「信に足る男かどうかはわからぬ。俺は手紙の主をよく知らぬ。文若は裏切るような男ではないと言ったが、母親が質に取られているから、わからんといえば、わからん。ただ」

 曹操は郭嘉が書いた手紙を取り出し、それを卓の上に広げて見せた。

「この手紙は、一切情には訴えてなどおらん。いかにすれば勝てるか、そしてそのために策でできるのは何で、どういう不測の事態が起こりうるか、すべて書いてある。信じてくれと情に訴えるのではない。理を尽くし、こちらを説得しようという意図しかない。そして、放った手の者の集めてきた情報は確かにこの書簡に書いてある通りだ。故に、この策は採用するに足る、と判断した」

 曹操がそう言い切ると、皆納得したようだ。すぐに誰がどこに向かうか、というような具体的な話になっていく。

 それを、荀彧は見ていた。誰もが意見を言い、曹操がそれを取りまとめる。それが妙に好ましい。

 策がうまくいけば、郭嘉が曹操に仕えることも問題ないだろう。少しずつ、事態は好転している。荀彧にはそう見えていた。




「あんたが目標にするべきは、あれ」

 城壁の上で、郭嘉が遠くはためく「曹」の文字の旗を指す。それを、呂布がじっと見つめた。

「あの旗の下にいる曹操殿を討てたら、あんたの勝ち。わかりやすくていいだろ?」

 決戦当日、夜明けとともに整然と並んだ曹操軍を前に、郭嘉は呂布にそう伝えた。

 呂布の軍もまた、数は少ないがすでに外に整列している。陳宮の軍は、知らせによれば献策通り、東から来るという。南の街道沿いに曹操軍が展開しているのを見てそう判断したのだろう。

 今のところ、曹操軍は濮陽に対して正対し、会戦の構えだ。後は、曹操がうまくやることを祈るしかない。さすがに呂布に手を抜けなんて言えるわけもないし、言ったところで聞くような男でもないだろう。呂布からは戦に臨むのだという高揚感がひしひしと伝わってきていた。この男は心底戦が好きなのだろう。とてつもなく楽しそうだ。

「任せておけ。曹操の首、持って帰って来てやる」

 来なくていいよ、と胸の中で返す。しかし上機嫌の呂布はそう言っただけでは足らなかったらしい。身をかがめ、郭嘉の顔を覗き込んできた。

「俺は心底お前が気に入ったぞ。今後、軍略は全部お前に聞く。陳宮には内政だけやらせればいい」

「そりゃ無理だろ。あのおっさんが黙ってるわけない。ついでに言うと、俺、勝ったら出てくから。そういう約束だろ?」

「出ていく? お前はそれで満足できるのか? これだけの策を立て、その喜びに頬が緩みっぱなしのお前が、戦を捨てられるとでも?」

 思わず頬がひきつった。それほど自分はにやついていただろうか。

「余計なお世話だよ。俺は、母上の方が大事なんだ」

「ふん、そんなもの。戦に勝ったらお前も、お前の母親も人質扱いなどやめてやるさ」

「へー、そりゃありがたい。期待してるよ」

「理解できんな。女なんぞのために戦を捨てるなど」

 吐き捨てるような嫌悪のこもった言葉に、郭嘉は眉をひそめた。この男は、確か女絡みで董卓を斬ったのだったと思うのだが。

「あんた、そういえば絶世の美女に入れ込んで董卓殺したとかじゃなかったっけ? その絶世の美女どうしたんだ?」

 私室でちらっと見た呂布の妻らしき女はそこまで美人でもなかった気がするし、若くもなかった。

 郭嘉の言葉に、呂布はあからさまに顔をしかめた。

「逃げられた。オレはもう、絶対に女など信用せん。あれほど愛していると言っていたくせに……!」

 どういういきさつで逃げられたのかは多少気になったが、聞きはしなかった。董卓を殺すための間者だった可能性だってあるだろう。呂布も結局はうまく操られた、ということなのかもしれない。そういう意味では、多少同情した。

 ――でも、こいつ、多分一生そういう感じで終わるだろうな。

 今は郭嘉にいいように使われているし、ここで仮に生き残っても、また陳宮に利用されるだけだろう。独力でこの乱世を生きるには、この男には知恵が足りなさすぎる。

「まあ、いいんじゃない? 別に顔がいいだけの女なんていくらでもいるだろ。でもあんたの部下は、ちゃんとついて来てくれてるじゃないか。俺、あれは何物にも代えがたいもんだと思うけど」

 城壁の下で控える武将たちを指さすと、呂布は大きくうなずいて、郭嘉の肩をばしばしと叩いた。

「まさしくそうだ! そこにお前も加えてやるからな!」

「痛いって! 誰がだよ!」

 ばしばしと叩くだけ叩いて、呂布は哄笑しながら城壁を降りて行った。

「ったく、手加減できないのかよ」

 絶対に加わらないからな、と胸の中でぼやいて、叩かれた肩をさする。

 呂布も、世間で言われているほどあくどい男ではないのかもしれない。ただ、あまりに直情に過ぎ、忍耐ができず、かっとなるとすぐに手が出る、というだけで。ついでに言えば、ちょっと手が出た、で人を殺してしまえるだけの力の持ち主なのが厄介だ。

 いずれにせよ、乱世を独力で生き残れる男ではないだろう。

「どこに行っても勇将知将にもてて困りますね。さすが我が主」

 隣にいた静が小さく言った。具足をつけた姿は、どこからどうみても見張りの兵だ。

「お前、いい加減にしないと蹴るぞ」

「いつまでも主君を決めないからですよ。これが終わったら、さすがにひとところに腰を据えられるのでしょう?」

「その、予定」

 曹操が許してくれれば、だが。

「まずはここで、勝たなきゃ何も始まらないからな」

 城壁に寄りかかり、視界を埋め尽くす兵を眺める。

 策が成ったらどうするか。郭嘉の頭にはもうすでに、それしかなかった。

「そういや、張邈殿はどうした? いつも戦が始まったら来るのに」

「私に聞かれても。……いや、来たようですよ」

 静がそう言って随分経ってから、郭嘉にも城壁に上ってくる足音が聞こえてきた。

 いつも通り、昏い表情だ。ただ、どこかいつもの落ち着きがない。

「どうしたんだ? まるでもう負け決まったみたいな顔だ」

「お前は、勝つつもりなのか?」

「負けるための策なんて、立てたつもりはないよ」

 にこりと微笑みながら言うと、張邈は眉をひそめた。

「……それは、どちらにとっての、なのだ?」

 案外、鋭い。それとも、以前そんな話をしたからか。

「どっちって、あんたが言ったんじゃないか。曹操殿を討て、って。俺だって、失敗したら殺されるんだ。必死に頭絞るさ」

 その言葉を信じたのかどうか、張邈は目を細め、じっと郭嘉を見つめてきた。それに、笑みを返す。

「約束通り、勝ったら解放してくれよ」

「よかろう。だが……」

 張邈が言いよどむ。郭嘉が小首をかしげて見つめると、彼はずいぶん経ってから、ぽつりとつぶやいた。

「いっそ、今から逃げてもいいのではないか」

「え?」

「どちらが勝つにせよ、公台殿が戻ってきては、そなたも好きにはできまい。あの御仁は鋭いぞ。そなたの胸の内も、見抜くやもしれん。逃げるなら今の内だ」

 じっと見つめて言われ、郭嘉はとっさにどう返すか迷ってしまった。

 こちらの意図を見抜いているのか、いないのか。確かに、もし呂布や陳宮が生きて戻ってくれば厄介なことになる可能性がないとは言えない。

 かといって、意図が見えない以上、張邈が曹操に未練を残している前提で話すのは危険だ。何と言っても、戦は今から始まるのだ。それを台無しにされては困る。

「何の話だよ。俺は、解放されたくて、呂布を勝たせようとしてる。それだけだ」

 探るようにじっと張邈が見つめてくる。しかし、彼はそれ以上言い募ることはしなかった。

 そのうち、眼下でぶつかり合いが始まった。

 最初は、曹操軍が濮陽へと攻め込んできた。それを呂布が蹴散らそうとし、曹操軍が馬止めの柵でそれを止める。いつも通りのやりとりだ。

 そのうち東が騒がしくなり、曹操軍の半数程度が東へと駆けていく。陳宮の援軍が来たのだろう。曹操の旗もまた、それを追うように東へと移動していた。

 すると呂布が残った曹操軍を蹴散らし、曹操の旗を追う。また布を断ち切るように、呂布が曹操軍の大軍の中を駆けていく。ただ、今度はただ蹴散らしているというよりは、曹操軍が自ら道を開けているようにも見えた。

 あと少し。

 きっと曹操は策を用意しているはずだ。それが、何なのか。

 城壁にかじりついて身を乗り出す。城壁の上から見た感じでは、曹操のすぐそばに弩兵が大勢控えているのが見えるから、曹操は弩で呂布を殺す算段なのかもしれない。

 呂布が、弩兵のところにたどり着くまで、あと少し。

 そう思った瞬間に、ぽとりと目の前に茶色いものが降ってきた。

「え? なに……って、虫?!」

 振り返ろうとすると、立て続けにいくつも虫が落ちてくる。うるさいほどの羽音。振り返って空を見上げれば、バッタのようなものがとんでもない数、目の前に飛んできていて、西の空は真っ暗だった。

「なっ、んだこれ、うわっ」

 虫を払おうと暴れていると、突然誰かに体をさらわれた。そのまま城楼の中に連れ込まれ、乱暴に扉が閉められる。

「多分、(いなご)です」

「蝗!?」

 静が郭嘉の服にまとわりついた蝗を払いながら言った。

「これではもう、戦どころではないでしょう」

 あの、空を一面覆いつくした黒い影が蝗だというのか。だとすれば、戦場にあんなものがやってきたら混乱は必至だ。

 蝗は郭嘉の着物をかじっていた。夏用の上等な麻の袍が食いちぎられて所々穴が開いている。

「い、蝗って草食べるんじゃ」

「群れると植物由来のものは何でも食べると聞きましたよ。それこそ、布だろうが紙だろうが。蝗の群れが通った後は焼け野原のようになって、草という草が食い尽くされるとか」

 すぐに城楼の中に張邈や兵も駆け込んできた。その度に虫が紛れ込む。それを、皆が必死になってつぶしていた。

「まさか、蝗が……」

 張邈が呆然とつぶやく。

 古来、蝗害が起こるのは帝が天命を失った証だと言われる。

 天意だなんだという以前に、蝗害が起これば、作物をすべて食べてしまうので、その年の収穫は絶望的になるからだ。食がなければ世の中が混乱に陥るのは歴史の常だ。歴代の皇帝はそれを鎮められなかったので、蝗が起これば天意を失うなどと言われるようになったのだろう。

 戦は多分中断だろう。

 それ以上に、蝗害に襲われた地域は食の奪い合いになる。一層の混乱が起こるのは、もはや必定だった。




「殿! ご無事ですか?」

 曹操が混乱の最中幕舎へと戻ってきたのは、蝗が飛んできて半時程経った後だった。

「大事ない。くそっ、あと少しだったのに……!」

「いや、僥倖と言えんこともない。やはり弩だけでは呂布は殺せなかった」

 虫の大軍に襲われるような形になり、戦は中断になった。一緒に幕舎に戻ってきた夏侯惇が、虫を払いながら言う。

「あのまま続いていたら、こちらが殺されていたかもしれん」

 夏侯惇の言葉に、曹操が悔しそうに唇を噛んだ。

「そういう意味ではこちらに天意あり、か? しかし、蝗とはな」

 皮肉そうに笑って、曹操は胡床に座った。

「これはもう、一度退かざるを得んな。蝗に囲まれて、半分気が触れたような兵もいる。もちろん、呂布側も同じだろう。追撃はできまい」

 蝗の群れは一部東へ飛び去ったようだが、おびただしい数の蝗がまだ付近の木や草に取り付き、地面に這いつくばっていた。生きているもの、死んでいるもの両方いる。幕舎の布もかじられ、いくつか穴が開いていた。陣営では今、兵たちが蝗を始末しようとおおわらわだ。

「一段落したら陣を払う。鄄城の様子を見に行かせろ。それと、文若。備蓄はどの程度ある?」

「正直なところ、現状の兵の数では鄄城の備蓄は持って半年です。今年の作柄があまりよくないということで、必死に集めてはいたのですが、蝗の被害が起こったとなれば、今年の収穫は絶望的でしょう。ますます市場の穀の値は吊り上がること必定です。蝗の被害がこの周辺だけであれば、城市を取り戻せば多少は補給できるかもしれませんが」

「濮陽には?」

 問われ、荀彧は首をかしげた。

「戦が始まる以前ならば、守兵五千に対して半年分の備蓄がありました。ただ、その後援軍が入ったりして兵は増えていますし、なにより現状城を抑えているのは呂布ですから、計画的に備蓄を切り崩しているかどうかもわかりません。ふたを開けてみなければ、なんとも。奉孝殿の書簡にはもって三カ月とありましたが、それもどこまで正確か」

「向こうも兵糧に窮している可能性があるということだな」

「あとは、蝗の被害がどの程度の範囲に及んでいて、兗州全域の城市がどの程度まじめに呂布に付くか、というところもあるでしょう」

「まず、蝗の被害の状況を探らせろ。鄄城に一度戻り、軍を立て直す。その後は兵を減らし、兗州各地の城市を取り返す。今後は穀の奪い合いだ」

 指示を出しに、夏侯惇が幕舎を出ていく。その背を見ながら、荀彧はじっと考え込んでいた。

「文若、どうした?」

「殿、確か、兵糧は陣中にも少し残っていますよね? 可能でしたら、一軍、残せませんか。いえ、鄄城に一旦退くのに反対ではないのです。撤退はそれとして、呂布にわからないように数千ほど、濮陽の近くに残せないかと」

「なに?」

「この惨状では、濮陽の城内も大変なことになっているでしょう。攻城戦が続き、民は不満をためているはず。備蓄も少なく、収穫も望めないとなれば、呂布は濮陽を放棄する可能性が高いと思います。人口の多い城市は、物資のない状況ではかえって足かせです。彼らの拠点は他にもあるのですから、殊更濮陽に残らねばならない理由はないはず」

 蝗は西から来て、東に飛んでいったように見えた。となれば、北か南は被害が小さい可能性もある。そうなれば、兗州のどこかに呂布が拠点を移す可能性もあるだろう。南東に隣接する済陰やその隣の山陽は呂布側についた太守が治めている。

「蝗が来て戦は中断、兵糧は枯渇。呂布はいらだちを深めているでしょう。彼の今までの行動から察するに、きっと濮陽城内で略奪をするだけして、濮陽を放棄するでしょう。となれば、城を取り返す好機。うまく人質を取り戻せれば、各地の豪族も呂布には付きにくくなる」

「しかし、そう簡単に事は運ぶか? 連中とて当然、家族や人質を連れて逃げようとするだろう」

「老人や女子供を連れて逃げるのは手間が大きい。呂布が彼らを地道に守って逃げられるような男なら、今頃ここにはおりません。何か小さな障害があれば、彼らは人質を置いて逃げると思います」

「小さな障害、とは?」

 荀彧は曹操の前で拱手した。

「簡単なことです。我が軍が逃亡を邪魔すればいいのです。城に火をつけるなりしてもいいですし、逃亡する呂布を追いかけて、戦いを挑んでもいい。呂布はきっと簡単に遅れている人質たちを捨てるでしょう。そこで人質を確保できるならよし、できなければ、殺してしまってもいい」

 言いながら、自分でも恐ろしいことを言っているな、と思った。見つめる曹操も驚いて目を丸くしている。

 だが、重要なことは曹操が天下を制する道を失わないことだ。

「幸い敵は悪名高き呂布です。呂布から人質を取り戻そうとしたが、いきりたった呂布が人質たちを殺してしまった。そう言えば信じない者はいません。そして呂布に家族を殺されたとなれば、兗州の豪族は間違いなく、呂布に背を向けます」

「お前……」

「もちろん、人質を確保できるのが上策ではあります。ひとまず、濮陽に火をつけて、呂布が人質を捨てて逃げるよう差し向けてみては」

 重ねて言うと、曹操の顔からはもう、驚きの色は消えていた。

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