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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
2.濮陽争奪戦
26/64

26:<郭嘉/荀彧編>濮陽争奪8

決戦を前に、郭嘉は着々と呂布の信頼を得ていた。あとは、呂布を陥れるだけ。郭嘉はそのための布石を一つ一つ打っていく。

 翌日からまた、呂布はしばしば私室に籠るようになった。城の防衛は彼の好みではないらしい。

 呂布は私室に籠る前に、郭嘉を部下たちに会わせ、こいつをうまく使え、とだけ言い残していった。おそらく、それなりに呂布の信頼は得たということだろう。

 呂布の部下はいずれも辺境育ちの筋骨隆々たる武将たちだ。昨夜の夜襲の作戦を立てたのが郭嘉だということは彼らも知っているが、およそ人の話なんて聞きそうにない雰囲気だ。

 さてどうしたもんかな、と武将たちを見上げていると、そのうちの一人が言った。

「昨夜も思ったのだが、お前、何者だ? どうして急に軍師の真似事をする」

「俺はかわいそーな人質の一人だよ。あんたらの大将に、この攻囲が解けたら解放してやるって言われてる。俺だって、好きでこんなことやってんじゃない」

 でも昨夜はちょっと楽しかったけど、と胸の中で思ったが、それは口に出す必要はないだろう。

「昨夜の夜襲、結構うまくいったろ? あんたらの大将が馬鹿じゃなかったら、もうちょっとうまくいったと思うんだけどな」

「貴様!」

「へえ、呂布のことちゃんと尊敬してるんだ。あんな、仕事部下に押し付けて部屋に籠って女抱いてるような男を」

 くってかかってきた男を見てにやりと笑うと、その隣にいた若い武将が止めに入ってきた。

「高順殿、落ち着いて」

「止めるな、張遼! 俺は、こういう口先で殿を陥れようという奴が許せんのだ!」

「しかし、昨夜の策は確かなものでした。あそこでうまく回り込んで攻めていれば、確かに曹操を討てていたかもしれません。策を我らが生かしきれなかったのは確かです。高順殿も常におっしゃっておられるではないですか。智者を用いる者こそが勝つ、と」

 高順と呼ばれた男は忌々し気に嘆息すると、郭嘉を睨みながら言った。

「お前、そんな態度でやる気はあるのか!? 我らは殿の浮沈をかけて戦っておるのだ!」

「当然だろ。こっちだって攻囲が解けなきゃ母親共々殺すって言われてるんだ。あんなどーでもいい主のために戦ってるあんたらよりよっぽど覚悟はあるつもりだけど?」

「貴様!」

「高順殿、落ち着かれよ!」

 張遼と呼ばれた若い男がまた止めに入る。彼はすぐに郭嘉に向き直り、厳しい口調で言った。

「お前もお前だ。捕虜なら捕虜らしく、それ相応の態度を取れ。攻囲が解ける前に我らに殺されたくはないだろう」

「はいはい」

「減らず口を叩く余裕があるなら、この攻囲を解く策とやら、披露してみろ。その策、生半可なものだったらたたっ斬るぞ」

 若い武将はそうは言ったが、別に剣を突き付けるでもない。むしろ真摯に睨んでくる眼差しのまっすぐさに、郭嘉はなんとなく好感を持った。

「じゃあまず、曹操軍は攻城兵器を作るための材木を調達しに行くと思うから、それを奇襲する。ここから一番近い森は?」

「北に、森とまでは行かないが、まとまって木のある林がある。ここから十里ほどだから、調達するならそこだろう」

「じゃあ、まずはその辺に狙いをつけて、林に潜んで木を伐りに来た曹操軍を襲ってみるといい」

「そこで大軍に囲まれたらどうする」

「城を目の前に、木を伐り出すのに大軍は出さない。一万くらいなら、あんたらの騎兵だったら軽く撹乱できるだろ? まあ、一万も出さないとは思うけど。別に敵を殲滅する必要はないんだ。木材を調達しようと思ったら妨害された。それだけで敵の士気は落ちる。相手は大軍だ。一気に殲滅なんてできない。陳宮が援軍を率いてくるまで早くても半月はかかるだろう。それまでにできるだけ連中の嫌がることをやって、敵の士気を落とす。これが勝利への一番の近道だ」

 真っ当なことを言っているつもりだ。

 胡散臭げに睨んでいた武将たちも、納得したようにうなずいていた。

「あとは、地道に攻城を跳ね返すことかな。俺、本当あんたらには頭下がるよ。よくあんなやる気ない主に付き従って、きちんと仕事しようって思うもんだ」

 武将たちがちょっと嫌そうに顔をしかめる。しかし、彼らは郭嘉に反論せず、高順の指示で持ち場に向かった。どうやら、この高順という男が呂布の部下でも一番偉そうだ。

「小僧、お前の策、一応は聞いてやるが」

 残った高順が睨んでくる。

「覚えておけ、姦計があると思ったらその首、即刻切り落とすぞ」

 呂布ほどではないが、その迫力に少し背筋が震える。強いて平静を装って微笑み返すと、武将はふん、と鼻を鳴らし、彼もまた、持ち場へと向かった。




 郭嘉は昼間の間は城壁の上にいて、その攻防を見ていた。

 実際城壁近辺の攻防となると、郭嘉が指示を出す余地などほとんどない。それくらい、呂布の部下たちはきちんと仕事をしていた。

 夜になると武将たちが城内に戻っていく。一人残ったのは張遼と呼ばれていた若い武将だった。

 昼間の動きを見ているとわかる。この男が一番まじめに仕事をしていた。腕も立ちそうだし、兵への指揮も的確だ。しゃべっているのを聞いていると、さほど生まれが悪いわけでもなさそうな気もする。

 呂布よりよっぽどできそうな武将だ。別の陣営に行けばそれこそ将軍位をもらってもおかしくないだろう。なんでこんなきちんとした奴が呂布の部下になんて。

 じっと見ていると視線に気づいたのか、彼が近づいてきた。

「今夜は夜襲はしないのか?」

「しない。昨夜呂布には言ったけど、毎晩やってると敵も慣れる。夜襲は不定期に、散発的にやったほうがいい」

 そうか、と張遼がうなずいた。

「お前、口は悪いが頭は切れるようだな。言うこと言うこと、いちいち理にかなっている」

「そりゃどうも。そういうあんたこそ、こんなとこに置いとくのもったいないくらいの武将だな。多分、呂布よりあんたの方がよっぽど諸侯の受けはいいと思うけど。あんた、なんで呂布に仕えてんの? あんな、不義ばっかする頭すっからかんにさぁ」

 張遼は嫌そうに眉をひそめ、郭嘉を睨んできた。

「口を慎め。殿は確かに浅慮なところはおありだが、その武では当世並ぶもののない武将だ。それに、我らにはとてもよくしてくださる。私の武術は、殿から教わったものだ。かつて并州で初めて兵となった時、殿は直々に私に戦い方を教えてくださった。殿は主でもあり、師でもある。そのお方を悪く言うことは許せん」

 なるほど、師弟関係があって呂布に付き従っているということか。いくら師弟関係でも師があれでは、という気もしないではないが、武人には武人の価値判断もあるのだろう。何より、この男はいかにも生真面目そうなので、恩のある主を裏切れないとか、いかにも言い出しそうだ。

 呂布を陥れるには、こういう男が障害になるかもしれない。じっと見つめていると、張遼もまたじっと郭嘉を見つめてきた。

「お前、まだ誰にも仕えていないと言っていたな。どうだ、このまま殿に仕える気はないか」

「何の冗談だよ。俺の言ったこと聞いてた? 俺はむしろあんたに呂布から離れることお勧めしたいけど」

「それこそ何の冗談だ。殿以上の武人などこの世にない」

「武人としては一流でも、人間としてはどうなんだよ。最初はなんだっけ? 董卓にそそのかされて主を斬って、その次はその董卓の侍女に手ぇ出して董卓殺して、次に袁術のところに行っても袁紹のところに行っても厄介者扱いされて、今は陳宮に利用されて反乱の旗印だ。ある意味すごいな」

 郭嘉の言葉に、張遼はむっと顔をしかめた。

「皆、殿の武を持て余しただけだ。殿は袁紹のために、黒山の賊をわずか二千足らずで殲滅したというのに、袁紹はその武を恐れて殿を殺そうとした」

「殲滅って、黒山の賊って何人いたんだ?」

「二万と聞いている」

 二万を、二千で。郭嘉は耳を疑った。

「二千て? あんたらの元々の兵って呂布の五百だけだろ?」

「その他に高順殿の部曲が七百ほどいる。今城を守っているのもその兵が主力だ」

「それって、騎兵、じゃないよな」

「ほとんどが歩兵だ」

「そいつら、最初のぶつかり合いで何してたんだ?」

「城内にいた。あの時は、陳宮殿が濮陽の兵を率いるというので、高順殿は遠慮したのだ。むしろ策を聞いて、城内で曹操を討つ方を選ぶ、と」

「あー、なるほど……」

「私もそうだが、高順殿もあの陳宮という男は今一つ信用していない。あからさまに殿を利用している。場合によってはあの男が何かするかもしれないというので、我らは打って出なかったのだ」

「へえ……」

 反乱軍といっても、一枚岩ではないようだ。呂布の部下からすれば、元曹操の部下に呂布がいいように利用されていて面白くない、というところだろう。

「その高順の歩兵と、呂布は連携できるのか?」

 郭嘉の言葉に、文遠は小首をかしげた。

「連携、ということをあまり考えたことがない。それぞれ皆、高い能力を持っているから、大体の目標を決めて戦っていた」

 なるほど、個々の能力が高すぎると、連携してどうこうとか考えなくなるらしい。今まであまり必要もなかったのだろう。董卓に付き従っていたころはともかく、長安を出てからはおそらく賊徒しか相手にしていないはずだ。袁術や袁紹のところで、彼らの軍にきちんと混ぜてもらえたとも思えない。独立して戦う分には、それで事足りたのだろう。

「歩兵と騎兵が連携したら、もっと強くなれると思うけど」

 郭嘉がぽつりと言った言葉に、張遼が反応する。

「連携?」

「曹操殿の戦い方、見てて何も思わなかった? 見てるとすごくよくわかる。あの人はそういうの、すごく上手だ。だから、呂布の騎兵も止められてる。今度呂布が打って出た時に、あんたこの上から眺めてみたらどうだ? そしたらきっと、俺の言ってることわかるよ」

 戸惑ったような顔をする張遼に背を向け、郭嘉はそのまま城壁の上にある城楼の中へと入っていった。その後に見張りの兵がついてくる。

 居室として与えられた城楼の一室は、元は見張りの兵のための休憩室のようなものだったらしい。牀があり、机がある。郭嘉が部屋に入ると、見張りの兵は扉の外に立ち、扉を閉めた。部屋の中だけでも監視がないのはありがたかった。

 窓はあるが、ここは二階で、屋根伝いに逃げることは難しいだろう。仮に部屋から屋根に出られても、その下の城壁に降りる際に大けがをするのは間違いない。

 郭嘉は牀に横になると、頭の後ろで腕を組み、目を閉じた。

 この先どうやって組み立てていくか。

 目をつむって思考しようとした瞬間、ふと違和感を覚えて目を開ける。

 気づけば、牀のすぐそばに黒い服を着た男が膝をついていた。

「な――っ」

 声を挙げようとすると、口を手で押さえられる。抵抗しようと手を挙げると、それもあっさり抑えつけられ、のしかかられた。さっと背筋が冷たくなる。

 誰だ。

 せめてと睨みつけると、半分布で顔を隠した男は、落ち着いて、と低くつぶやいた。

「害意はありません。大声は出さないで。いいですね」

 ひそやかに言うと、男がゆっくりと郭嘉から離れる。彼が再び床に膝をついた瞬間、郭嘉は体がばと起こし、後ずさって牀の上で壁を背にして座った。

「こちらを」

 男が小さく折りたたんだ紙を差し出してくる。手を伸ばしてそれを受け取り、読んだ。

 見慣れた流麗な文字が目に飛び込んでくる。

 ――心配しています。大丈夫ですか?

 短くそう書かれた文字を見て、郭嘉は顔を挙げた。

「文若殿、が?」

「はい。郭様をお助けするようにとの仰せです。しかし……」

 男は探るようなまなざしで郭嘉を見つめてきた。

「先程の様子を拝見していると、呂布に手を貸しておられるようですが」

 ――まあ、そうなるわな。

 どこから見ていたか知らないが、呂布の部下と親しげに話していればそうも見えるだろう。

「少し、考えがあるんだ。呂布には曹操軍の攻囲が解けたら解放するって言われてる。逆に、攻囲を解けなかったら母親共々殺す、って」

 ここは素直に言った方がいいだろう。そう思って伝えた言葉を、間諜は顔色一つ変えずに聞いていた。

「もし力を貸してもらえるなら、俺より母上、なんとかしてもらえないか? 城下の邸に閉じ込められてるんだ。母上が外にさえ逃げられれば、俺、すごく楽になるんだけど」

 じっと見つめながら、ひそやかに告げる。やはり間諜は顔色一つ変えず、伺うように見つめてくるだけだった。

「文若様に、伝えます」

 それだけ言って帰ろうとする間諜の腕を、郭嘉は慌ててつかんだ。

「待った」

 郭嘉は机の上にあった紙と筆を使い、手早く荀彧に手紙を書いた。

「これ、文若殿に。あとさ、十日後くらいに、もう一回来れるか? 濮陽を献上する策、教えるから」

 間諜はやはり顔色一つ変えず小さくうなずくと、手紙を受け取って当たり前のように窓から出て行った。

 郭嘉のいる城楼は城壁の上にある。城壁にはまだ張遼も残っているはずだし、兵士だって警戒している。郭嘉は大丈夫だろうかと窓から身を乗り出して様子を確かめたが、騒ぎになるどころか、物音ひとつ聞こえず、去っていった間諜の姿さえ捉えられなかった。

「すごいな、文若殿の隠密。まるで伯求殿のとこにいた奴みたいだ」

 あれなら、問題なく城壁を越えて行き来できるだろう。

 これならうまく、曹操と渡りがつけられるかもしれない。また、策を為すのに取れる手段がひとつ増えたということだ。

 郭嘉は牀に横になると、目をつむって思索を始めた。

 陳宮が来るまでにどうするか。来たらどうするか。そして、曹操にどうやって濮陽を明け渡すか。考えは、とめどなくめぐり続ける。しかしそれも、郭嘉には楽しくてしようのないことだった。




 最初の夜襲があって以降、濮陽の守兵の様子が変わったらしい。

 なんとなくで曹操の攻撃を撃退していた濮陽側の動きに統率が取れてきた兆しがあるという。

 曹操と共に物見櫓で濮陽を見ている荀彧にも、それは感じられた。

 まず、木材を調達に行った兵が伏兵に襲われ、林で火計に遭った。ならばとある程度まとまった兵を出せば、呂布の騎兵が繰り出してくる。馬止めの柵でそれを抑えようとすると、今まで一度も騎兵を援護しなかった歩兵が横から騎兵を援護したりする。

「指揮する者が変わったか、誰かが入れ知恵したか。でなければ説明がつかん」

 物見櫓の上で曹操が言うのを、荀彧は聞いていた。

 数日前、濮陽に忍ばせた隠密は、郭嘉からの手紙を預かって帰ってきていた。曰く、母を人質に取られて呂布の軍師をさせられている、ということだった。必ず呂布をはめて濮陽を曹操に献上するから待ってほしい、とも、

 荀彧はそれを曹操にも見せた。小さな紙にびっしりと文字の書かれたその手紙には、他にもいくつか情報が書かれていたからだ。

 陳宮が援軍を集めに外に出たこと。濮陽の府の中には官吏や豪族の家族が閉じ込められていることと、城内の兵糧は持ってあと三月程度らしい、ということも。

「陳宮が外に出ているらしいことは、わたしの間諜も掴んでいます。今、兗州各地の城市で兵を集めているとか」

「それは、俺も掴んでいる」

 だがな、とつぶやいて、曹操は手紙をひらひらと振った。

「ここ最近の敵の動きを見ていると、とても呂布を陥れて我らに濮陽を献上しよう、という態度には見えぬぞ」

 そうなのだ。

 ここ数日の敵の変化は目をみはるものがある。戦に関してはほとんど素人の荀彧にすらはっきりとわかるほど、呂布側の動きは統率が取れてきている。火計などの、今までなかった策も用いてくるようになった。用兵は素人だ、と呂布を侮っていた曹操は考えを改めざるを得なくなっただろう。

 明らかに、誰かの入れ知恵としか思えなかった。そして、郭嘉からの手紙。どう考えても、その影響は郭嘉のものだろう。

「陳宮が外に出ているから、誰かが軍師の真似事をできた、と考えることはできると思います。呂布とて、攻城が始まってふた月、なすすべなく城に籠るのは苦しいものでしょう。そこに軍略に明るい者が現れれば、あるいは、藁にも縋る思いで協力させようとする可能性も、ないとは。呂布の信頼を得るため、ある程度勝ちを収めなければ、という気持ちもあったのかもしれません、が……」

 言いながら、自分でもいくらか無理がある、と思った。

 敵意はないと言いつつ呂布に入れ知恵して、一体どう呂布を陥れるというのか。そもそも、いくら人質を取ったと言って、軍の要ともいえる作戦立案を、果たして部外者に任せたりするものか。

 それこそ、郭嘉と結託して呂布を口車に乗せるような誰かがいたなら、可能性は高くなるかもしれないが。

 もしかしたら張邈が、あるいは濮陽に残っている幕僚の誰かが、ひそかに反旗を翻したふりをして城内で曹操の味方である可能性もないとは言えない。

 ただ、これこそ確信がない以上曹操には言えない話だった。

「これは俺の手の者が掴んできた情報だが、ここ数日、城壁の上で具足もつけずに張り付いている文人がいるのだそうだ。そいつは城楼と城壁の上を行き来していて、護衛の兵がついているという話だ」

「手の者の情報によれば、それはおそらく奉孝殿だと思います。護衛の兵ではなく、見張りの兵だと。ですが、彼は呂布の部下たちとも親しげに話したりしているそうで……」

 やはり、郭嘉の意図がはっきりとつかめない。曹操と視線を合わせ、結局わからないという結論を出すしかなかった。

「そいつと連絡はできるのか?」

「可能です」

「こちらの情報は与えず、向こうがどう出てくるか見極めさせろ。知人だと言って、予断を交えるな」

「無論です」

「あとは、濮陽の囲みをもう少し狭めるか。木材を伐り出しに行っていちいち撹乱されたのでは面倒だ。四方を近距離で囲むとこちらも消耗が激しい。できればしたくはなかったが……」

「殿は、陳宮のことはどうなさるおつもりですか? 今、彼は定陶あたりで兵を集めているという話です。数は二万はくだらないかと。もう数日以内にはこちらに向かってくるでしょう」

「それだ。最初は、連中の用兵は大したこともないから、いっそまとめて援軍を討てばいいと思っていたが、こうなってくると、呂布の騎兵とうまく連携しかねん。となれば、それも厄介だ。いくらこちらの方が数が多いとはいえ、別に迎え撃った方がいいかもしれん」

 曹操がひげをさすりながら言う。しかし、その目はどこか楽しげだった。

 不思議に思って見つめると、曹操が荀彧を見て口許を緩めた。

「いや、形勢不利になりつつあるというのはわかっているのだがな。だが、不思議なものだ。策を練っていると、不思議と胸が躍る」

「胸が躍る、ですか」

「そうだ。呂布相手ならば大抵のことは読める。だが、その郭嘉とやらがどうでてくるかは読めん。読めんが、愉快ではないか。それだけの男が、自分と向き合っているということがな。しかも、城を陥とせばそいつが手に入るかもしれないのだ」

 曹操は目を細め、遠く濮陽の城壁を見つめた。

「俄然、楽しくなってきおったわ」




 ほんの一言だ。

 歩兵と騎兵が連携すればもっとうまくいく。

 あまりにも用兵がなっていないから言った一言だったのに、張遼は郭嘉の言葉を聞いて、すぐに用兵の何たるかを考えたようだ。

 この十日余り、幾度か曹操とのぶつかり合いがあり、その度に彼は打って出ていたが、みるみる兵の動きが変わっていった。騎兵を操る張遼と、歩兵を率いる高順がうまく連携して戦っている。今まで攻城兵器を壊すのがやっとだったのが、押し寄せる曹操軍を蹴散らすことさえするようになった。それも、向こうより圧倒的に少ない数でだ。

 わずか五百の騎兵と千足らずの歩兵に蹴散らされて、曹操軍は認識を改めただろう。もう、油断はできないと。

「俺、ここまで変わると思ってなかったんだけどなー」

 呂布の部下たちから信頼を得るきっかけになれば、くらいのつもりだった。それが、想像以上に結果が出てしまった。呂布の部下もまた、それぞれが名だたる武将になりうるだけの才を持っているということかもしれない。

 陳宮が帰ってくるまであとほんの数日だろう。

 彼が援軍を率いて戻ってくれば、再び城の外で会戦になる。その時に、どうするか。大体の形は描けている。あとは細かいところを詰めるだけだ。

 城壁に寄りかかり敵陣を眺めていると、張邈が声をかけてきた。

「今日は、攻撃がないな」

「そうだな。向こうも、そろそろ陳宮が来るってんで構えてるんじゃないかな。あと数日じゃ城を陥としきれないなら、いっそ陳宮を待って会戦で決着つけようって思ってもおかしくない」

 問題は、それをどうやるか。そして、どう曹操を動かして、呂布を陥れるか、だ。

「何を考えている?」

 突然張邈に問われ、郭嘉は彼を振り返った。探るようなまなざし。だがそれは、郭嘉も同じだった。いまだに、この男が何を望んでいるのかはよくわからない。

「戦のことだよ。なんせ成否の半分以上は俺の策にかかってるからね」

 おどけて言って見せ、ごまかす。張邈はひとまずは納得したのか、うなずいていた。

 この男が味方になるのならすべて打ち明けてもいいところだが、正直わからない。となれば、うまく利用するしかない。

「なあ、陳宮って今どの辺にいるんだっけ? 確か、定陶あたりから来るって話だったと思うんだけど」

「そうだ。確か、昨日濮水を越えたという話だから、もうあと二日か三日というところだろう」

「てことは、多分南の方からだよな?」

「街道沿いに来れば、そうだ」

「それ、経路変えられないかな?」

「何?」

「南から来ることは曹操殿だって読んでると思うんだ。呂布の部下が、ここしばらくすこぶる動きが良くなったことは向こうも警戒してると思う。多分、曹操殿が馬鹿じゃなければ陳宮が呂布に合流する前に援軍を討とうとするだろう。だから、その裏を突く。南からじゃなくて、例えば東から、曹操殿の本陣を後ろから突くような感じで」

 張邈が愕然と目を見張った。それが楽しくて、郭嘉は頬を緩める。

「曹操殿もまさか遠回りしてくるとは思ってないだろう。ましてや東は鄄城へつながる道もあるから、ある意味補給路だ。そっちから敵が来るなんて考えてもないだろ。絶対不意つけると思うんだけど」

「そ、れは……」

「俺、陳宮宛に書簡書くよ。誰か、伝令出せる? いや、俺じゃない方がいいかな」

「伝令はだせるだろうが、そのようなことは私ではなく、奉先殿に言うべきだ。(やくしょ)に行くぞ」

 張邈が慌てた様子で言う。引っ張られるようにして、すぐに呂布の元へと連れて行かれた。

「陳宮に、東からまわりこめと?」

「そう」

 相変わらず呂布は私室で飲んだくれていた。先日林で曹操軍を不意打ちするのには出て行ったようだが、地味な防衛戦にはやる気が起こらないらしい。

「曹操軍は、当然援軍は南からくると思ってる。多分、援軍を先に討つために、じきそっちに兵を動かすだろう。その裏をついて、陳宮が東から攻める。不意打ちになるから、曹操軍は浮足立って東に兵を向けるだろう。その背後を、あんたが突く」

 うまくはまれば、曹操軍は陳宮と呂布の挟み撃ちだ。うまくいきそうな策に見えるだろう。自分でも惜しいと思う。これが、本当に勝利を狙った策ならいいのに、と。

「初戦できちんと向き合って、あんだけやれたんだ。浮足立ってる曹操軍の背後をつけば、あんたの腕なら曹操殿の首、獲れるかもな。そうでなくても、損害はでかい。曹操軍はさすがに退かざるを得なくなるだろう」

 わかりやすい作戦でもある。陳宮が曹操と戦い始めたら、呂布は一直線に曹操を狙えばいいだけ。明確だ。

 そして、明確なだけ、曹操も呂布をはめやすくなる、はずだ。

 策が当たる瞬間が郭嘉の頭の中では繰り広げられていた。自然、またどうしようもなく楽しくて、頬が緩む。

 隣にいた張邈が眉をひそめ、じっと郭嘉を見ていた。しかし、呂布は違う。彼は愉快そうに目を細め、立ち上がって郭嘉のすぐ眼前に立った。

「いいだろう、その策、乗ってやる」

 大きな硬い指が郭嘉の頤を捕らえる。強引に上を向かせられると、にやりと笑う呂布が見えた。

「その顔。お前はオレと同じだな」

「同じ?」

 手を払い、一歩退いて睨みつける。それでもなお、呂布は上機嫌だった。

「ああ、同じだ。お前のその目、戦を楽しむ男の目だ。いかに殺し、いかに敵を陥れるか、考えるだけで楽しくてたまらないのだろう?」

 そう言われると、眉を顰めるしかなかった。そんなことはない、と思うが、かといって、策を考えて楽しいのも事実だ。ただ、殺すのが楽しいと思っているわけではない。

「戦場を駆け、実際に殺すのはもっと楽しいぞ。もっとも、お前のその細腕では無理だろうがな」

「余計なお世話だ」

「お前、気に入ったぞ。名は何というのだ?」

 聞かれて、郭嘉は軽く嘆息した。

「あんたなあ……」

「なんだ?」

「郭嘉だよ。よーく覚えとけ。そのうち、天才軍師だって名がとどろくことになるだろうからな」

 郭嘉が言うと、呂布は至極楽しげに哄笑した。




 その夜、荀彧の隠密は約束通り、再び郭嘉のいる城楼の部屋へとやってきた。しかも、もう一人、静を連れて。

「せ――」

 思わず静、と叫びそうになり、静が慌ててその口をふさぐ。お静かに、と言われて郭嘉がうなずくと、静はゆっくりと手を離した。

「びっくりした。まさか一緒に来るなんて」

「どうしてもと頼み込んだんですよ。奥様から多少の様子は聞いていましたが、どこにいるかまではわからなかったので。そうしたら、この、荀家の方が来て」

 静が小声で言い、荀家の隠密を振り返った。相変わらず全く表情の変わらない彼は、淡々と言う。

「母君を逃がしてほしいとの仰せでしたが、それは難しいかと存じます。邸の周りはいまだ兵が多く、穏便に抜け出すには、最低でも彼くらいの身のこなしができなければ。安全に逃がそうと思うなら、攻囲が解けるのを待つ方が無難かと」

「そっか、それじゃしょうがないな」

 母に屋根を飛び移ったり、塀をよじ登れというのはかなり無理がある。じき決着がつくだろうから、それからでも遅くはないだろう、と郭嘉は思った。

「ひとまずこれ、文若殿へ。曹操殿に見せてほしいって言っておいて」

 小さく折りたたんだ紙の手紙を渡すと、隠密はまた顔色一つ変えずにそれを懐へ入れた。

「すぐ向こう戻れるよな?」

「はい。もう一仕事終えたら、ですが」

 荀家の隠密と、静が目くばせする。もう一仕事? と首をかしげる郭嘉に、静が言った。

「若の見張りの兵と、私が入れ替わります」

「は? どうやって」

「殺して、具足を奪ってしまえばわかりません」

 こともなげに言うので、郭嘉は一瞬言葉に詰まった。

「お、おま、そんな簡単に。死体どうすんだよ」

「私が外に出る際に始末します。幸い城壁の下は死体の山ですから、紛れてしまえばわかりません」

 今度は荀家の隠密が言った。

 二人は平然としている。すっかりやる気のようだ。

「ど、どうするんだ? 多分、見張りは部屋の外に」

「兵を、部屋の中に呼んでもらえませんか。俺が、扉の陰に隠れて、仕留めます」

「……わかった」

 郭嘉がうなずいてすぐ、荀家の隠密は窓の外に出ていき、静は扉のすぐそばに張り付いた。

 郭嘉は扉まで行くと、扉を叩いて外に声をかける。しばらくして扉が開いて、眠そうな兵士が顔を出した。

「夜中に悪いな。ちょっとさあ、あれ」

 郭嘉が部屋の奥の指さすと、なんだ、と身を乗り出した兵士を静が引き込む。短いうめきの後、兵士の体はそのまま崩れ落ちた。

 手早く扉を閉じると、静が兵士の具足をひっぺがしはじめる。兵の首筋には細い苦無が突き刺さっていた。

「……手際よすぎ」

「よくなかったら、失敗しています」

 まあそうなんだけど、という郭嘉をよそに、静は具足をはいだ兵を荀家の隠密に渡していた。

「私のほかにも数人、城内にいます。兵に紛れている者も数人。用があれば声をかけてください。彼なら、わかるでしょう」

 荀家の隠密が静を見ると、静がうなずく。隠密はそれを確認すると、手早く死体に縄をくくりつけ、抱えて窓から出て行った。

「大丈夫なのか、あれ? さすがに死体抱えて屋根飛び移るとか無理だろ」

「心配いりませんよ。さすがに、名門の隠密は違うとしみじみ思いました。私がついていくのがやっとでしたから」

「ふーん」

 一度静を振り返り、再び窓の外を見る。やはり、もう隠密の姿は見えなかった。

「これは多分ですけど、若、荊州で一緒だった何伯求殿、覚えていますか?」

「ん? ああ、覚えてるよ」

「どうも、あの方についていた隠密のような気がするのです。何殿の隠密とは少し話をしたこともあったので。ただ、そうなると、何殿は」

「多分、伯求殿は文若殿の親戚だと思う。名前も偽名だ。文若殿がそんな感じのこと言ってたから。まあ、なんで伯求殿の隠密がこっちきてるかまではわかんないけど」

「そうですか、それなら。一族で隠密を使っているなら、忙しい方に回ってくるということもあるでしょう。おそらく、荀家で一番手足を必要としているのは荀彧様でしょうから」

「そうだな」

 静はすでにすっかり具足を身に着けていた。兵の持っていた剣を抜き、品定めするように刃を眺め、鞘へと戻した。

「支給品だとしたら、その割にいい剣ですね。刀身は短く、しかも強度が高い。乱戦向きです」

「陳宮か呂布が……じゃ、ないよな。元々曹操軍の兵士だろうし、曹操殿が、ってことか」

 言いながら、ふと静が妙にじっと見つめてくることに気づいた。

「どうした?」

「ご無事でよかった。心配しました」

 珍しく、泣き出しそうな顔をしている。きまりが悪くて、郭嘉は苦笑を返した。

「大げさな奴だな。母上はなんて言ってたんだよ。俺がうまく立ち回ってるって言ってなかったのか?」

「おっしゃっておいででした。でも口の悪いあなたのことですから、呂布などの猛将に喧嘩を売って死にかけているのではと、心配で」

 実際そうなりかけたので、反論できない。さっと目をそらした郭嘉を見て、静が嘆息する。さすがに彼は主がどういう男かわかっているようだ。

「どうか、御身を大切にしてください。奥様も私も、若の命に代えられるものなどないのです」

 静は郭嘉の前に膝をつき、手を取って、まるで祈るように己の額をそこにつけた。

「わかったよ」

「ならば、今すぐ逃げましょう」

「それはだめだ。やりたいこと、あるから」

「やりたいこと?」

「救いたい人がいる」

 静が睨んでくる。こういうところは全く遠慮のない男だ。またろくでもないことを企んでいるのでは、とその目が言っていた。

「もうあと何日かの辛抱だ。そしたら、全部丸く収まる」

 郭嘉は掴まれていた手をひっぺがすと、窓の外に目を向け、にっと笑った。

「ここまでやったんだ。ちゃんと、最後まで見届けないと」

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