25:<郭嘉/荀彧編>濮陽争奪7
すべては呂布を陥れるため。まずは呂布の信頼を得るため、郭嘉は曹操軍への夜襲を献策する。一方荀彧はちょうどその時、今後のことを話し合うため曹操の陣営へとやってきていた。
その夜、郭嘉は濮陽の城壁の上にいた。
献策をしたことで、人質扱いからはひとまず解放された。郭嘉は城楼の小部屋を居室として与えられ、見張りの兵がつく以外は自由になった。明日には母も城下の邸に戻されることになるだろう。
張邈が何を望んでいるのかは、いまだにわからない。
郭嘉の策に乗っているようでも、本当に策に窮して郭嘉を利用しているようにも見える。ただ、好機がめぐってきたことだけは、確かだ。あとはこれを利用して、いかに呂布と陳宮を陥れるか。
策を実行するなら、と毎日外の様子を眺めながら考えていた。ある程度、勝算はある。
呂布は今頃密かに城を出て、敵陣へと向かっているだろう。陳宮もそれに乗じて城を出ているはずだ。昼間言ったとおりの策が、実行に移されている。
まずは、呂布の信頼を得るために、一度は勝つ必要がある。呂布にも郭嘉が使える男だ、と思わせないことには利用もできない。曹操軍に多少の損害は出るだろうが、そこは目をつむるしかないと思っていた。戦の最中のことだ。郭嘉のしたことだとばれなければいくらでもごまかしは効くだろう。
夏とはいえ、夜だと少し風が冷たい。郭嘉は相変わらず単衣の上に夏用の袍を羽織っただけだ。袍の襟を抑え、遠くに見える曹操軍のかがり火をじっと見つめていた。
月は細く、今夜は灯りに乏しい。そんな中曹操軍のかがり火は煌々と輝いて、ひときわ盛大なものに見えた。それだけの大軍なのだ。
それなのに、曹操は呂布に勝てていない。
呂布がもう少しましな用兵をしたら、本当に呂布は曹操に勝てたのかもしれない。最初に呂布が追撃しなかったことといい、曹操は呂布のうかつさに助けられている気がする。百万の賊徒をわずか数万で降した男というから、もっと曹操は鬼神のような強さを持った男だとばかり、思っていたのだが。
「そういえば、戯志才がついてるんだっけ」
曹操に気に入られている、という噂は聞いているが、その後彼が活躍しているかどうかは噂が届いてこない。軍師だから目立たないだけかもしれないが、呂布との対峙を見ていると、実はさほど大したこともないのだろうか。あるいは、最初は不意をつかれて負けただけで、その後持ち直したのは彼の策、という可能性もある。誰だって、大軍で寡兵に当たれば多少のおごりは出るものだ。油断くらいしてもおかしくはない。
かくいう郭嘉だって、万単位の兵を動かした経験なんてない。
ただ、最初のこの策だけは、自信があった。
城壁に寄りかかり、じっと曹操軍のかがり火を見つめる。
虫の鳴き声だけだった周囲の音に、遠く人の喚声が入り混じり始めた。
「さあ、呂布の、お手並み拝見」
楽しんではいけないと思っているのに、背筋が震える。策が当たるかもしれないと思うと、どうしても楽しいと思う気持ちは止められなかった。
対峙してひと月を過ぎたあたりから、荀彧は何度か曹操に書簡を送っていた。だが、書簡だとどうしても伝わりにくいこともある。
その夜、荀彧は鄄城から濮陽の陣までやってきて、曹操と話し込んでいた。
「――各地の情勢は以上です。兗州各地が呂布側になびいたといっても、そこまで積極的に加担しようという城市ばかりではないように思われます。もちろん中には反乱の中核となる者たちが牛耳っていて、本格的な攻城になりそうな城市もありますが、おそらく、兵を進めればあっさりと掌を反す城市も少なくないかと」
「うむ」
荀彧は濮陽の攻囲が長引きそうであれば、兵を割いて各地の鎮撫を先にしたらどうか、という話を曹操に持ち掛けていた。兵や物資の問題もあるが、何よりもう収穫の時期だ。兗州の狭い範囲に閉じこもっていたのでは、せっかく進めていた入植や開墾の成果も手に入れられないことになる。
「どなたか、一族の方に各地の平定に向かわせてはいかがでしょう?」
「そうだな。俺もそれは考えていたのだが――。なんだ?」
突然、周囲が騒がしくなった。曹操が剣を掴み、幕舎から飛び出していく。それを追って荀彧も外に出ると、兵があわただしく行きかい、夜襲を知らせる鉦が鳴り響いていた。
「夜襲だと!?」
曹操が武将たちに指示を出しながら駆けていく。それを追い、荀彧は曹操が登った物見櫓に一緒に登った。
「北だ! 馬止めの柵を用意せよ! 騎兵を入れさせるな!」
曹操が言った方角を見ると、陣営の端でぶつかり合いが起きているのが見えた。どうやら騎兵が攻め込んできたらしい。すぐさま馬止めの柵が用意されると、騎兵はそれを迂回するように西側に回った。
西側は濮陽側で、攻城兵器の多くが組み立てられて置かれている。敵の騎兵がそちらへ回ったかと思うと、ぽつ、ぽつと火の手が上がり、攻城兵器が燃え始めた。
風は西から東。本陣は風下だ。
「何をしている! 火を消せ! 騎兵を追い出すのだ!」
歩兵たちが燃えた兵器を倒そうとしている。それに、敵の騎兵が次々と襲い掛かっていた。
火が大きくなる。火の粉が舞い上がるのが、荀彧の目にもはっきりと見えた。
「お前はここにいろ」
「殿」
危ないから行かない方がいいのでは、という暇もなく、曹操は櫓を降り、自ら兵を指揮し始めた。
曹操が先陣に立つとさすがに兵たちの緊張感が違う。歩兵たちが大盾と大掛かりな柵を用意し、陣の中を暴れまわる騎兵を抑え込み始めた。身動きが取れなくなると、火の危険にさらされるのは敵も同じだ。
敵の騎兵はじりじりと下がっていき、最後は燃え盛る攻城兵器の隙間を抜けるようにして濮陽に逃げて行った。
敵がいなくなった後も、陣内の混乱はしばらく続いた。攻城兵器を鎮火するのに時間がかかり、危うく燃え広がりそうになっている。
優に半時(一時間)ほどかかって火は落ち着いたが、兵たちは皆疲れた顔をしていた。
「今まで、夜襲などなかったのだがな」
物見櫓に戻ってくると、曹操はじっと濮陽の方角を見つめた。闇夜の中に、かがり火に照らされた濮陽の城壁がぼんやりと見える。目を凝らすと、ちらほら人が動いているような影が見えた。ただ、決してあわただしいものではない。
「陳宮が、やり方を変えてきたということでしょうか?」
荀彧が言うと、曹操はわからん、と首を傾げた。
「呂布と陳宮は言い争いをしている、と間諜が言っていたがな。あるいは呂布が籠城に焦れて夜襲を仕掛けてきたか……その割には、呂布らしくない、という気もするが」
「呂布らしくない、ですか」
「ああ。今までならあいつはこんな離れたところにある兵器には興味を示さなかった。それが、きちんと兵器だけ燃やして、不利と見れば早々に去っていった。今までの奴らしくない、という気はする」
最初に向き合った時、呂布の騎兵の威力がいかにすさまじかったかは聞いていた。その際に、戯志才が命を失ったことも。
「志才がいないのが痛いな。あいつのあの冷静で的確な分析はかなりあてにしていたのだが……」
曹操の声にはさほどの悲しみは感じられない。惜しいと思ってはいるようだが、曹操ほどの立場になればいちいち悲しんでもいられないのだろうとも思う。ただ、荀彧は戯志才が死んだのだと思うといまだに胸が痛んだ。
「志才殿の遺体を鄄城に引き取ってもいいでしょうか? いずれ、潁川に埋葬してあげたいと思うのですが」
「ああ、そうしろ。それにしても、志才がいないのが痛い。誰か、代わりになるような者のあてはないか、文若?」
戯志才の代わりとなると、そうあてがあるわけではなかった。軍略に長けた男というのは、そう多くはない。
ただ、一人だけ思い当たる節はある。
「あるにはあるのですが、その方は今、おそらく濮陽に」
荀彧が言うと、曹操が怪訝そうに眉をひそめた。
「誰の話だ? 裏切った男の名を挙げよと言っているのではない」
「もちろん違います。まだどなたにも仕官しておりません。実は、殿に推挙しようと思ってずっと口説いていたのですが、なかなか色のいい返事をいただけず、それならばと母君を濮陽に招いたのです。そうすれば、本人も来てくれるのではないかと。実際、母君の方はかなり乗り気だったのですが、何分本人が、今一つ乗り気になってくれず……」
ほう、と曹操が興味を示した。
「どんな男だ? お前がそこまでする男か」
「知識があるのはもちろんですが、常識にとらわれない、変わった考え方をします。初めて会った時は十五の少年だったのですが、なかなか面白い考え方をしていて覚えていました。その後、わたしがこちらに来る直前に冀州で会ったのですが、その時には軍師になりたいと言っていましたから、おそらく軍略にも明るいのではないかと思うのですが」
「おそらく、か」
「冀州では、その気はなかったようですが、袁紹にかなり目をかけられていたようです。ただ、本人は袁紹に仕官するのが嫌で、荊州に逃げ、その後しばらく実家のある潁川に戻っていたとか。そこで、部曲を率いて賊徒の討伐ごっこをしていた、と」
「ごっこ?」
怪訝そうに眉を顰める曹操に、荀彧は苦笑を返した。実際郭嘉がそう言っていたのだからしようがない。
「本人がそう表現していました。部曲の長に頼み込んで、兵法を色々試してみたと。うまく行ったことも、行かなかったこともあったが、結果結構うまくいって、楽しかった、と」
「ほう、それは、なかなか見どころがありそうな男だな」
「ですが、つい先日、殿が出陣した直後にわたしを訪れてきたのです。仕官する気になってくれたのかと思えば、『兗州が荒れそうだから母を連れ帰りに来た』と」
興味深げに笑みを刻んでいた曹操の顔が、途端に曇る。
「徐州でのことがあって、士大夫が殿に背を向けるだろうから、きっと兗州で乱が起こるだろうと思う、と彼は言っていました。わたしはそれを否定しましたが、今思えば、まるで未来が見えていたかのような言葉です。しかも、陳宮がおかしいから気を付けたほうがいい、とも。陳宮が、彼に張邈殿への仕官を勧めたそうです。『曹操に仕えるのをためらっているのなら、張邈殿はどうだ。彼は君子だぞ』と」
「それは、いつの話だ?」
「ちょうど、陳宮が乱を起こす前日です。結局その晩は他愛もない話をして、殿が帰ってきたら面会の機会を作るのでぜひ殿と会ってほしいと約束して、濮陽に帰したのですが……。まさか、こんなことになるなんて」
ふむ、とうなって、曹操はあごひげをさすった。
「なるほど、そのまま濮陽に残っていた可能性が高い、というわけだ」
「はい」
「なかなか、切れる男のようだな。名は?」
「郭嘉、字を奉孝殿と言います。わたしより六つか七つほど年下ですが、物おじしない、気の強い方です。きっと殿も気に入られると思うのですが」
「郭嘉? どこかで、聞いた名のような気がするが……」
曹操が考え込み始める。しかし思い出せなかったのか、彼はしばらくして言った。
「まあいい。つまり、お前の話を総合するとその郭嘉とやらは母親と共に濮陽にいるわけだ。そして、陳宮とも面識がある。陳宮は俺に仕官する予定だったと知っているのか?」
「おそらくは。母君を濮陽の奥まった邸に住まわせる際、いずれ子息が殿に仕官する予定だ、ということで了承をもらいましたので」
「陳宮は今、その郭嘉をどう扱っているだろうな?」
曹操はまた、濮陽の方を見ながら言った。ひげをさすっているあたり、何かを考えているのだろう。
「わかりません。まだ殿の幕僚というわけではありませんし。わたしの友人だとは思っているかもしれませんが、もし奉孝殿を人質として利用するつもりなら、各地の豪族に手紙を出したように、奉孝殿からわたしへ書簡の一つも来てもいいと思うのですが、それもありません。ただ、奉孝殿の性格を考えると……」
荀彧が眉を顰めると、曹操が首をかしげる。言うか迷ってから、荀彧は続けた。
「奉孝殿は、ちょっと癇の強いところがあるのです。気に入った相手には従順ですが、気に入らない相手には平然と歯に衣着せぬ物言いをするようなところがあるので、もしかすると、陳宮に罵詈雑言浴びせて、牢に入れられているような可能性も、なくはないかと」
荀彧の言葉に、曹操は笑った。
「それはなかなかだな」
「ただ、その可能性は低いかと。もし彼がある程度自由になる状況にあるなら、接触を試みれば味方になってくれるかと思います。陳宮が気に入らない様子でしたから、我らの濮陽奪還に力を貸してくれるかもしれません」
「それだけのことができる男なのか? 腕は立つのか」
「武術はできませんが、頭は切れます。家僕には腕の立つ者もいるかと」
ふむ、と曹操は腕を組み、じっと濮陽の方を見つめた。言葉を待ったが、なかなか返事がない。
「何でしたら、わたしの手の者に――」
「いや、やめておく」
曹操ははっきりと首を横に振った。
「呂布の騎兵は確かに脅威だが、内通者がなければ勝てぬというものでもないはずだ」
「殿、ですが、攻城はどうしても犠牲の多いもの。内から城門が開けば――」
「最初に、その策にはまって志才を失った」
曹操が濮陽を見つめながら言う。はっとして、荀彧は口をつぐんだ。
「お前の言っていることは、わかる。戦わずして勝つのが上策なのは百も承知だ。だが、俺はその郭嘉という者を知らん。確信を持てぬまま内通に賭けることは、今はできん。そいつの母親も城内にいるのだろう? ということは、母親を人質に取られ、我らに敵対する可能性がないとは言えまい」
曹操は言いながら、まだ濮陽を見つめていた。荀彧は確かに、と返事をしながら、失言だったかもしれない、と思っていた。城門を開くという罠に曹操がひっかかったのは、張邈の書簡があったからだ、と夏侯惇が言っていた。曹操は張邈に裏切られたことをきっとまだ気に病んでいるだろう。ようやくふたをした傷口を、今の荀彧の言葉がえぐってしまったのかもしれないのだ。
曹操がいかに張邈を慕っていたかは、なんとなく想像がつく。そしてその張邈に裏切られた曹操がどんな心境でいるか。父を殺されたとあれほどの激しさを見せた彼が、今こうして表面上だけでも冷静さを保つのに、どれだけの精神力を必要としていることか。
この話題は出すべきではなかった。荀彧は胸の中で思った。
「殿がそうおっしゃるならば」
荀彧はうなずいて、しばらく待ったがそれ以上曹操からの言葉はなかった。しかし、挨拶をして物見台から降りようとすると、曹操が呼び止めてきた。
「文若」
「はい」
返事をすると、曹操がわずかな迷いを見せ、口をつぐむ。
「どうかなさいましたか?」
「いや。お前、しばらくここに残れるか」
滞陣中の軍営に残れと言われたのは初めてだ。驚いて見つめると、曹操はきまり悪げに言った。
「自分の判断に不安があるわけではないのだが、ここしばらくは志才の冷静な判断に随分助けられていた。正直なところ、俺は今いささか冷静さを欠いているような気がしないでもない。お前が志才の代わりに、俺の判断を補佐してくれると助かるのだが」
「わかりました。そういうことでしたら、微力を尽くします」
拱手して微笑むと、曹操が一瞬ほっとしたような表情を見せた。しかしすぐに峻厳な将帥の顔に戻る。
「ここで、負けるわけにはいかんのだ」
「もちろんです、殿。志才殿を失ったことは残念ではありますが、殿の歩まれるべき道はまだ道半ば。ここで、その道を閉ざされなどしません」
曹操がうなずいて櫓の端にもたれかかった。彼はちらちらと火の揺れる濮陽を見ていた。
「策にはまって、焼け落ちた門の下敷きになった時、もうここまでか、と一瞬思ったのだがな」
曹操が左手を握る。火傷した部分を確かめるように何度か手を握っては広げ、ふ、と曹操は微笑んだ。
「だが、気づけば馬にしがみついて門の外に出ていた。呂布が追ってくるかとも思ったが、それもなかった。代わりに、志才は犠牲になったが」
「それが、志才殿の天命だったのでしょう。致し方ないことかと思います」
「天命、か」
曹操がうなずき、握った左手に視線を落とす。まるでそこに何かあるかのように、曹操はじっとその左手を見つめていた。
「俺には、どんな天命があるのだろうな。帝でなくとも、一人の男にも、天は命を降すか? どう思う、文若?」
曹操がこういったことを言うのは珍しい。やはりまだどこか動揺が残って弱気になっているのか。それにしては、曹操の眼差しにはいつもの炎のような強さが戻りつつある気もするのだが。
「殿には、この乱世を平らげるという天命がございましょう。わたしは、そう確信しております。燃え盛る柱の下敷きになってもなおこうして生きておられるのは、それが天命である証かと」
「そうか」
予想通りだったのかもしれない、曹操が苦笑した。
「天命と言えば、仲徳(程立の字)殿も、変わったことをおっしゃっていました。殿に初めて会う直前に夢を見たそうです。泰山の上で、太陽を戴く夢を。そのすぐ後に殿に会うことになり、この人こそ、自分が戴くべき太陽だと思ったとか」
「程立がか。あいつがそんなことを言うとはな」
「わたしもそう思い、驚きました。仲徳殿もまた、夢など全く信じないようなお方だと思っていたのですが。それで仲徳殿は、殿には天命があるので、此度のことは史書にこんなことがあったと書かれるくらいのことで終わるだろう、と笑っておられました」
「どいつもこいつも」
曹操が笑う。彼は櫓にもたれかかったまま首を振ると、嘆息して姿勢を正した。そのまま荀彧の横をすり抜け、櫓を降りようとする。その間際、彼は言った。
「いつの間にか、俺が俺ではなくなった気分だ」
曹操の言いたいことは、なんとなくわかった。噂が独り歩きし、実物以上に大きく見られている、とでも思っているのだろう。
曹操に続いて櫓を降りてから、荀彧はすでに歩き出していた曹操の背に言った。
「臣から見れば、そうでもございません」
曹操が顔だけ振り返る。それに微笑みかけ、荀彧はうなずいて見せた。
「それもまた、殿の一面かと。お認めになられませ。あなたは天に愛された将帥なのです。皆がそう思っているのが、いい証左でしょう」
曹操は怪訝そうに眉をひそめ、ふいとまた前を向き、荀彧から顔をそむけた。
「また随分と大きく出たな」
「事実でございますから」
「ならば、呂布くらい軽く屠らねばならんな。いくらあれがとんでもない騎兵だといって、これだけの大軍でもって寡兵に勝てんようでは、そのありがたい世評もいつか消えようぞ」
「まさしく」
幕舎に着くと、曹操が中の胡床に座る。少し迷ってから、他に誰もいないのを確かめ、荀彧は言った。
「殿、おこがましいことかもしれませんが、濮陽の城内に手の者を潜ませてもよろしいでしょうか? わたしとしては、いささか奉孝殿のことが心配で」
「構わんが、気をつけろ。戦が始まった後に間諜が持ってくる情報は、正しくないことも多い。偽の情報を掴まされることもあるのだ」
「心得ております。殿のおっしゃる通り、内通はよほどの確信がない限りもちかけはしません。ただ、城内の情報はあったほうがいいかと」
「ならば、好きにせよ」
「ありがとうございます」
退出すると、荀彧はすぐに隠密に濮陽城内を探るように命じた。
「こんな……」
敵陣で燃え盛る炎を見て、やってきた張邈は顔色を変えていた。
「大丈夫だよ。燃えてるのは攻城兵器だけのはず。さすがにそのまま曹操軍全軍焼くなんてありえないから」
郭嘉が横から言うと、張邈が決まり悪げに目をそらす。こんな反応を見ていると、やはり曹操と決別する決心はついていないのではないかという気がするのだが。
「奉先殿には、確か」
「まずは北から攻めて、馬止めの柵が来たら西に回って攻城兵器を焼く。火の手が上がったら敵陣は混乱するだろうから。その隙に運が良ければ曹操を殺せるかも、って言った。でも、そう実際はそう簡単じゃない」
攻城兵器が燃えて敵陣が混乱する、まではまず間違いなく成功するだろう。問題はその先だ。呂布のような単細胞なら、おそらく兵器に火をつけ、その勢いのまま敵陣へつっこんでいくだろう。しかしそうなれば、火を背に、風下で敵と戦うことになる。当然曹操軍は馬止めの柵を出してくるだろうから、背後の火と馬止めの柵に挟まれて、呂布は不利な立場になる。
並の騎兵なら普通はそこで死ぬだろう。だが、率いているのは呂布だ。おそらく敵陣を混乱させるだけさせて、戻ってこられるだろう。もし万が一、そこで呂布が死んだらそれこそ願ってもない幸運だ。ただ、それを張邈の前で言っていいものかどうか。
「ま、じき呂布は戻ってくるんじゃないかな」
それだけを言って、郭嘉は城壁に寄りかかって燃え盛る敵陣に目を細めた。
策が完全に当たった。その快感は、策を為す前の沸き立つような感覚よりさらに強いものだ。楽しんではいけないとわかっているのに、癖になりそうなほどに――。
「そなた、随分楽しそうだな」
「え?」
「人質を取られ、しぶしぶ従っている、ようにはとても見えぬ」
そう言われてしまうと、気まずい。郭嘉が目をそらすと、張邈がぽつりと小さく続けた。
「……孟徳も、そうだった」
「え?」
郭嘉が振り返ると、張邈は城壁に寄りかかり、燃え盛る敵陣に目を向けていた。
「策が当たり、戦に勝つのが楽しいと。人を殺すことにためらいも見せず、勝つことに快感を覚える。私には信じられない感覚だが、軍略に長ける者というのはそういうものなのかもしれんな。そして、乱世ではそういう男が勝つのだろう」
言われてみると、確かにあの炎の向こうで人が死んでいるのかもしれない。そう考えると恐ろしいことのようにも思えた。だが、そんなこと、いちいち気にしていられない、という気持ちもある。
「あんたは、戦場に出たことは?」
「ない。一度もな。だが、部下を戦場に送り、死なせたことは何度もある。それゆえに、人を殺したことがないとは、言えぬな。乱世を終わらせるために必要なこととはいえ、できればこのようなことは早く終わってほしいものだ。……そういう意味では、私のしていることは、確かに、孟徳の天下を妨げるだけの行為やもな」
張邈が皮肉そうに口許をゆがめる。
「あんた……」
その時、周囲が不意に騒がしくなった。蹄の音が聞こえてくる。どうやら、呂布が戻ってきたようだ。馬のいななきが聞こえ、すぐに荒々しく階を登ってくる足音が聞こえてくる。
呂布は城壁の上にあがるなり、そこにいた郭嘉に詰め寄ってきて、いきなり襟首をつかんだ。
「小僧、お前の策、外れたじゃないか!」
また持ち上げられそうになる。郭嘉はその手を払おうとしたが、悲しいくらいびくともしなかった。
「どこがだよ! うまくいっただろ。連中、夜襲には大した備えもしてなかったはずだ。現に見ろよ。攻城兵器はあんなに燃えて、まだ鎮火もしてない。結構な損害だぞ」
郭嘉が示した敵陣は、まだ煌々と炎が燃えていた。それだけ鎮火に手間取っているのだ。
「お前は、兵器を燃やして本陣をつけば曹操を殺せると」
「正確に言えよ。俺が言ったのは『騎兵で撹乱したすきに攻城兵器を燃やせば、風下の本陣は混乱するだろうから、うまくすれば曹操が討てる』って言ったんだ。あんた、まさか兵器燃やした後そのまんま敵陣突っ切って曹操のとこ行こうとしたんじゃないだろうな? そういう無茶するから止められるんだ。何のための機動力だよ。いったん退いて東側に回って風下から攻めるとかすれば、曹操軍は炎とあんたの挟み撃ちで混乱もしたはずなのに、その肝心のあんたが炎を背にして戦うとか、馬鹿か? どうせ馬止めの柵にでも止められて、炎に煽られて逃げてきたんだろ?」
もちろん、呂布が攻めあぐねて帰ってくるのも計算の内だが、呂布には言わない。
図星だったのだろう。郭嘉が早口でまくし立てると、呂布はきまり悪げに顔をゆがめ、乱暴に郭嘉を突き放した。
「あんた、よくそれで今まで生き残ってこられたよな。お粗末すぎてびっくりだよ。それとも俺は、天下無双と名高い御仁に対して、兵の動かし方を一から十まで全部ご教示しなきゃいけませんかね?」
腕を組んで見上げると、呂布がいかにも悔しそうに鼻を鳴らした。
「調子に乗るな! ちょっと兵法がわかるくらいで……! お前こそ、これで終わりじゃないだろうな? でなければ、母親共々八つ裂きにするぞ!」
「これだから蛮人は。すぐに暴力に訴えようとする」
「なんだと!?」
「ま、まあまあ、奉先殿。落ち着いて。口の減らぬ男ゆえ」
そばで見ていた張邈が割って入り、呂布をなだめた。張邈はすぐに郭嘉に向き直り、ため息交じりに睨んでくる。
「そなたもそなただ。立場がわかっておらんようだな」
「よーくわかってますよ。攻囲が解けなきゃ殺されるんだろ。命が懸かってんだから、こっちも必死だ。次、三日後にまた夜襲。その次は二日後、続けてその次の日、また何日か空けて夜襲。これをしばらく続ける」
郭嘉の言葉に、呂布は意味が分からないとばかり顔をしかめた。
「なんだそのまどろっこしいのは。明日またやればいいじゃないか」
「毎日やったんじゃ、向こうもそれなりに備えをする。そうじゃなくて、いつ来るかわからない程度にやるんだ。そうすれば連中は夜襲が来るかと毎晩はらはらすることになって、結果疲労が蓄積する。なんせ大軍だ。兵が疲弊すれば不満がたまって場合によっては逃亡したり反発したりする兵も出てくる。そうなれば士気が落ちてこっちに有利だ」
「そんなちまちまと」
「そのちまちまをしなかったから今まで苦戦してんだろうが。半月後、陳宮が援軍をまとめて戻ってくるだろうから、それまでに敵の士気を落とせるだけ落としておく。そうすれば、陳宮が援軍を率いてきた時点で外の援軍と、あんたの騎兵とがうまく連携できれば曹操に勝てるかもしれない」
「は、かもしれない? その程度か」
あざけるように呂布が笑う。それに、郭嘉はあきれ顔で返した。
「ご不満なら自分でやれば? あんだけお膳立てして勝てる状況作ってやったってのに、自ら不利な状況に陥って逃げ帰ってきたあんたが、そんなことできるんならな。見ろよ、あんたが突撃してどんだけ時間経ったと思ってんだ。まだ鎮火してない。敵陣は相当混乱してたはずだ。なのに、あんたがやり方を間違えて逃げ帰ったから失敗したんだ」
敵陣を示して言うと、呂布がぐっと言葉に詰まる。
「ついでに言うなら、あんたの言う大軍相手に寡兵で一発逆転がありえたなら、それは最初のぶつかり合いだったんだ。あれだけ曹操軍を混乱させられたんだ。曹操だって命からがら逃げたんだろ。あそこでうまく歩兵と連携して追撃できれば勝てたかもしれないのに、しなかったのはあんただ。つまり、あんたは機を見ることができてない。大将としては致命的だな。ま、あの陳宮っておっさんが何も言わなかったのも俺は不思議だけど」
思わせぶりに首をかしげて見せると、呂布が顔色を変える。
「あのおっさん、文若殿の話じゃ兵を率いることができるとか言ってたけど、最初のぶつかりあいの時何してたんだ? 遊んでたとしか思えないけどな。普通なら、あんたがあんだけ曹操軍を撹乱したら、歩兵をまとめて追撃とかすれば結構状況変わったと思うんだけど。あんたら、そういう話しなかったのか?」
問うと、呂布が視線を揺らす。彼はしばらく考えてから、首を振った。
「陳宮はあの時歩兵を率いていたはずだが、そんな話はなかった」
「ふーん。てことは、あのおっさんが兵を動かせるってのは単なる噂かな。まあいいや、ひとまず、あのおっさんが援軍連れてくればそれでいいわけだし。あとは、あのおっさんが援軍連れてくるふりして、そのまま逃げないことを祈るだけかな」
「な……」
「あれ、それ考えなかった? 場合によってはあのおっさんが援軍集めるっつってそのまんま逃げる可能性もあるとは思ったんだ。ただ、援軍集められるの、あいつしかいないから、頼んだけどさ」
さっと、呂布の顔色が変わった。それに、張邈が慌てて口を挟む。
「まさか、そのようなことあるわけがないではないか。奉先殿も、変な疑心を抱いてはならぬ。信じて待たねば、我らは滅びを待つだけになるぞ」
「し、しかし陳宮は」
「公台殿もまた、将軍なくしては勝てぬのだ。だからこそあなたを盟主としたのではないか。それを、今更あなたを裏切ったりなどするはずがない。公台殿とて、当代一の軍略家である孟徳の恐ろしさはわかっているはず」
「そ、それはそうだが」
「ひとまず今日は休まれるがよろしい。奉先殿は気が高ぶっておられるのだ。なに、心配はない、防備は奉先殿の優秀な部下が担っておられる故」
張邈は呂布の背を撫でながら、二人一緒に城壁から去っていった。その背を見送り、郭嘉は口許に笑みを刻んだ。
――ちょっとつつけばこれだからな。ちょろいちょろい。
呂布と陳宮を仲たがいさせられれば、かなり簡単にこの反乱が終わる可能性もある。もしそれがうまくいけば、あとは曹操をどう引き込むか、という話になるが……。
郭嘉は城壁に寄りかかり、ようやく火が小さくなり始めた敵陣を見つめた。
曹操と会ったことがあるとはいっても、曹操は郭嘉のことなど覚えていないだろう。荀彧が前線に出てきている可能性は低いし、そもそも彼が前線にいたところで、今は彼に渡りをつける手段もない。
勝負は陳宮が来るまで、だろう。陳宮が戻ってくれば、さすがに郭嘉に好き勝手させるはずがない。陳宮が戻ってくるまで、あと半月。それまでに呂布の信頼を得られれば陳宮をやり込めることも可能かもしれないが、そのためには戦局を有利にする必要がある。となればそれは、曹操が苦戦することを意味する。
自分がここにいて呂布に加担したことを荀彧や曹操が知ったらどうするだろう。
多少考えたが、すぐにやめた。
張邈を曹操の下へ戻すことができれば、多分それは解決するだろうと思っていた。




