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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
2.濮陽争奪戦
21/64

21:<荀彧/郭嘉編>濮陽争奪3

ひとまず呂布の攻囲を跳ね返した鄄城に、郭貢が兵を率いてやってくる。

一方郭嘉は母が金をつんだおかげで牢獄から出されることに。その際、なぜ張邈が曹操に叛いたのかを知ることになる。

 すぐに帰る。

 その曹操からの早馬が飛んできたのが、謀反が起こってから八日後だった。

 この間、鄄城は一度呂布に攻囲されたが、一日ほどで呂布は退いて行った。明らかに兵が少なかったので、勝てないと判断したのだろう。

 東阿と范は、程立の機転で確保することができた。今、呂布たちは濮陽に兵を集めているという。

 もし本当に陳宮が兗州全域を把握したなら、援軍を率いて再び攻め寄せる可能性がある。となれば、うかつに夏侯惇を他の城市へ動かすこともできない。

 これから、どうやって兗州を取り返せば。

 荀彧はぎゅっと目をつむった。

「怖いのなら部屋に戻っておればいいぞ、文若殿」

 ふいに声をかけられ、荀彧は振り返った。いつも通り感情の見えない顔をして、程立が立っている。

「怖いというわけでは」

「恐ろしい、と顔に書いてあるように見えたのだがな」

「気のせいでしょう。わたしが恐れるのは、戦で負けることではありません。殿が寄る辺を失い、天下を安んじる道を失うことです」

 荀彧が言うと、ふ、と程立が笑った。

「それはあるまい。あのお方は、天命を享けたお方ゆえ」

 程立がこんなことを言うのは珍しい。現実主義者の彼から、天命などという言葉が出てくるとは思わなかった。

「儂はな、殿にお仕えする直前、泰山の頂で太陽を戴く夢を見たのだ。こう……」

 程立が両手を挙げ、天を仰ぐ。

「熱く、重い、と思った。だが、同時に胸が沸き立ち、儂はこの無為に過ごしてきた残りの人生、このお天道様に捧げるのだ、と思って目が覚めた。そしてその数日後、殿に会った。夢で戴いた太陽そのもののような、熱さを感じるお方であった。ああこれこそが、儂が戴くべき太陽なのだと、そう思ったのよ。そしてまた、このお人が天命を享けたお人なのだ、ともな」

 曹操の眼差しに焼かれるようだ、と感じるのは自分だけではないらしい。

 確かに曹操の眼差しは、そういった天命めいたものを感じさせる。荀彧さえ、もしかしたら彼が天命を享けた人間なのではないか、と思ったこともある。

 だが、「天命を享ける」という表現は本来あまり望ましいものではない。

「仲徳殿、あまり、そういった言い方は」

「何が悪い。天命を失った帝は退き、天命を享けた帝が立つ。当然のことではないか」

 古来、皇帝は天から命を享け帝になる、とされる。すなわち、劉家以外の者が天命を享けるということは、漢王朝の滅びと結びつくということだ。

 だから、荀彧は曹操に運命めいたものを感じる度、打ち消してきた。彼が覇業を為しうるだけの人物だからそう感じるだけで、彼が帝になるわけではないと。実際、曹操もそんな野心は見せていない。

 漢王朝が風前の灯火だと言うことはわかっていたが、荀彧はまだ漢王朝は滅びるべきではないと考えていた。帝の血は存在すればそれだけで天下を支えうる尊いものだと思うからだ。

 知らず、眉をひそめていたらしい。程立が肩をすくめた。

「そう顔をしかめるでない」

「仲徳(程立)殿、めったなことはおっしゃるべきではない」

「そうか? これほど天下が乱れ、劉家にまだ天命があると思っておる者が果たしてどれだけおるかな?」

「仲徳殿。もし今殿が漢王朝を滅ぼそうなどと言っていると噂がたったら、完全に大義を失いますよ」

 咎めるように言っても、程立はどこ吹く風だ。

「まあ、見ておれ。殿に天命があるか否かはいずれ歴史が証明しよう。あのお方が真に天に愛されたお方なら、あるいは真に覇業を為しうる男ならば、此度の反乱など、後の史書にこんなことがあった、と書かれるくらいで終わる些細なことであろうよ」

 にやりと笑って、程立はまた兵の指揮に戻っていった。

 郭貢が鄄城にやってきたと報告が来たのは、その翌日だった。しかも、兵二万を率いて、である。

「郭貢は、確か袁紹の派遣した予州刺史ではなかったか? なぜわざわざここまで」

 程立は、明らかに彼が攻めてきた、と思っているようだ。夏侯惇も早々と攻城に備えるよう兵に通達を出している。

 しかし、城壁の前まで来た郭貢は、攻め寄せるでもなく、荀彧との面会を求めてきた。

「いいでしょう。すぐに伺いますとお伝えを」

 使者にそう返した荀彧を、夏侯惇と程立が必死になって止めた。

「文若殿、行くべきではない。罠にかけてお前を殺すつもりだ。孟徳が徐州に行っている今、お前がこの兗州の抑えだぞ。それを」

「大丈夫ですよ。この状況で、ここまで来られたのです。もし陳宮側がすでに兗州全域を抑えているのであれば、よしみを通じている可能性は確かにある。ですが、ここで事を構えてしまえば彼は敵にしかなりません。しかも、彼は袁紹の部将。その先どうなるかなど、火を見るより明らかでしょう」

「それは、そうだが」

 荀彧は夏侯惇にうなずきかけ、そばにいた程立にもまた、うなずきかけた。

「この状況で我らに付けというのは酷な話。ですが、うまく丸め込めば中立の立場にはいてくれるかもしれません。今は少しでも敵は少ない方がいい。行ってきます」

 荀彧は門まで歩き、あえて城楼ではなく、門を開いて郭貢に会いに行った。

 具足もつけず、悠然と褠の裾を揺らして荀彧が歩いてきたことに、郭貢は明らかに驚いていた。馬上の彼のすぐそばまで来ると、ふわりと微笑む。

「お久しぶりです、郭予州殿。兵二万を率いてこられたとか。ずいぶんとうまく城市を治めておられるようですね。勢力圏はどこまで広げられたのです? わたしの手の者の話では、寧陵周辺だけに留まっていると聞きましたが」

 あくまで穏やかに、微笑みながら問う。郭貢はわずかにためらいを見せてから馬から降り、歩み寄ってきて拱手した。

「お久しぶりですな、荀軍師。かつてあなたに助けてもらったおかげで、寧陵の治政はかなりうまくいっておりました。……しかし、兗州が定まらぬこの状況では、我らは冀州と隔絶され、孤立したも同然」

 袁紹からしてみれば、曹操は自分の部将くらいのものだろう。冀州から予州へは飛び地と言っても、間にあるのが曹操の勢力圏ならば郭貢が孤立しているとは扱わなかったのだろう。荀彧もまた、数か月前に援助して以来、それとなく気にはしていた。

「袁紹殿は、なんと?」

 荀彧が問うと、郭貢はためらいがちに口を開いた。

「獲れるものなら、呂布に獲られる前に鄄城を獲れと。今、兗州で拠点を失うわけにはいかぬと」

「なるほど、いかにも袁紹殿のおっしゃりそうなことですね。で、どうやってここまで? 呂布とよしみを通じたのですか? 当然途中には呂布側の手の者がいたでしょう」

「陳宮という男からは、すでにこちらに文が来ている。協力してくれるなら、予州に手を出すことはしない、と。実際、ここまで来る間、敵とみなされることはなかった。おそらく、殿の下へも書簡が行っているのではないか」

 それはどうだろう。陳宮は、張邈が袁紹に忌み嫌われていることを知らないのだろうか。張邈を担いだ以上、陳宮が袁紹と結ぼうとすることは不可能なはずだ。だがそれも、利害が絡めば、あり得ない話でもないのか。

「協力とは、鄄城(ここ)を落とすことですか?」

 にっこり笑って言ったのだが、郭貢はなぜか顔をしかめ、一歩後ずさった。

「わ、私はそうするつもりはない。貴殿には、恩がある。ただ、悪いがそちらの味方もできぬ。私はさして戦には優れん。とても呂布には勝てないだろう」

 荀彧はうなずいた。そもそもそんなことは期待していない。

「では、なぜこちらへ?」

「情報は、ないよりはあったほうがいいだろう。貴殿への借りはこれでなしだ。私は、これから東武陽へ行くつもりだ。殿は、曹操殿が兗州に拠点を確保できるなら、無理はしなくていいと。それと、寧陵の兵はこの通り連れてきた。貴殿が兵を置いている潁川、陳留が取られたらなら孤立するだろう。もう、助けてやることはできぬ」

「それは承知の上です。ご助言、感謝します。兵二万を連れて戻ったとあれば、袁紹殿も喜ばれるでしょう」

 やはり、袁紹は袁紹だ。もし自分が袁紹だったなら、この隙をついて兗州を取りにかかれとでも言うだろう。もちろん、彼はこの話が曹操側に漏れることなど想定していないだろうが。

 郭貢はそのまま兵を連れ、北へと走っていった。

 袁紹と陳宮が結託することはないと思うが、警戒は必要かもしれない。

 袁紹にやる気さえあれば、兗州を助けると言って兵を出し、呂布を討ってそのまま兗州を支配下におさめてしまうこととて不可能ではない。そうなってしまうと、曹操はもう未来を断たれたも同然だ。それなら、まだ呂布が兗州を制したほうがまだましだ。対呂布であれば、反乱を鎮圧すると理由もつけられる。

 袁紹が公孫瓚と対峙しながら兗州にまで兵を出す可能性は低い。ただ、袁紹がぐずぐずしている間しか、兗州を取り戻せる時間はない、ということだ。

 せいぜい公孫瓚が頑張ってくれることを祈るしかない。

 曹操が早く帰ってきてくれることを、荀彧は心底願った。




 牢に入れられて数日、郭嘉の周囲で動きはなかった。誰もやってこないので、陳宮たちを罵ることもできない。毛玠(もうかい)は最初檻越しに色々なことをわめきたてていたのだが、それも五日ほどしてやめたようだ。さすがに疲れてきたのだろう。

 かくいう郭嘉も、閉じ込められて平然としていられるかと言えばそうでもなかった。冷たい床に、鼻を衝く異臭。牢獄は心地いい場所ではない。加えて、十日を過ぎたあたりから、明らかに体調がおかしかった。倦怠感がひどく、熱っぽい。

 久しく忘れていた病の気配に、郭嘉は心底己の弱い体が嫌になった。結構体力もついて、もう病なんて関係ないと思っていたのに。

 ふと、荊州で会った伯求のことを思い出していた。彼は獄に落とされて拷問さえ受けたと言っていた。この状況に、更にまだ体をさいなまれたということだ。

 考えてみると、感心するしかなかった。多少頭がおかしくなったとしても無理はないとしか思えない。それを、彼はあれほどまでにこともなげに口にしていた。どれほどの精神力だろう。

 ――俺、いつまでもつかな。

 体のこともあるが、忍耐はあまり得意ではない。

 ため息をついて牢獄の床に横になると、床の冷たさに体が震えた。かといって、立っていることもできない。ぎゅっと袍を掴み、己の腕で体を抱くくらいしかできることはなかった。

 久々に張邈がやってきたころ、郭嘉はもう床から起き上がる気力もなくしていた。

「孟卓殿!」

 気づいたのは、毛玠の声がしたからだった。ぼんやりと目を開けると、薄闇の中で毛玠が檻に向かって歩いていくのが目に入った。

 彼は格子にかじりつくと、すがるような目で張邈を見上げていた。

「孟卓殿、どうか考え直されよ! あなたは陳宮に利用されておるだけなのだ。それとも、誰か人質に取られておられるのか」

 やはり張邈は毛玠の言葉には反応せず、横たわる郭嘉に目を向けてきた。

「若いの。生きているか?」

 声をかけられても、起き上がるのも億劫だった。視線だけ返すと、張邈が檻に寄りかかり、覗き込んでくる。

「そなたの母親から申し出があった。そなた、体が弱いそうだな。薬を飲まねば数日も持たぬと泣いていたが……」

 何の話だ、と郭嘉が眉をひそめている間に、張邈は連れていた兵に檻を開けさせていた。

 もしかしたら、外に出してくれるのだろうか。

 鉛のように重い体に力を入れ、なんとか立ち上がると、兵士が腕を引く。均衡を崩して倒れそうになるのを、兵士が慌てて支えた。

「どうやら嘘ではなさそうだ。連れていけ。それと、畢諶(ひっしん)の家族の者も出てよいぞ」

 郭嘉が連れ出されると、それに続いて畢軌たちが檻から出た。しかし、毛玠はそのままだ。

「孟卓殿」

「お前は、だめだ」

 一言だけ残すと、張邈は歩き出した。畢諶の家族と、郭嘉の肩を抱えた兵士がそれに続く。

「……あんた、さっきなんて言った。母上が、って」

 歩きながら郭嘉が問うと、張邈がちらとだけ振り返った。

「そうだ。お前の母から申し出が」

「申し出、って」

「昨日、城下の人質をまとめて(やくしょ)に移したのだ。その際、お前の母親が泣いて公台殿にすがってな。息子を助けるためなら何でもすると。お前は体が弱く、薬湯を飲まねば死んでしまう、と言って」

 陳宮がそんなことでやすやすと郭嘉を檻から出すだろうか。そう考えれば、どんな取引があったかは大体想像がついた。

「代償は? 金? それとも穀?」

「両方のようだな」

「なるほどね」

 いくら積んだのだろう。穀だって、おそらくは元々は曹操に売るためのものだったはずだ。

 牢から出られたのはありがたいが、素直に喜んでいいのかどうか。

 しばらくすると、牢獄の入り口にたどり着いた。畢軌たち家族は兵士に連れられて上階へ上がっていったようだが、郭嘉だけは張邈と共に、そのわきにあった小部屋へと連れて行かれた。

 目に入ってくるのは、人を固定するための台や棒。それに燃え盛る釜、そこに突っ込まれた赤く燃える鉄の棒と、様々な武器。

 思わず体がこわばった。どこからどう見ても拷問のための部屋だ。

 張邈が部屋の奥で振り返る。それを睨みつけ、郭嘉は己を支えていた兵士を振り払った。反動でふらつくが、なんとか近くの台に手を置いて、倒れるのは避けられた。

「どういうことだ? 金積んで、挙句に俺は拷問されるわけ?」

 強がって睨んで見せても、張邈は顔色一つ変えない。彼が兵士に下がれ、と言うと、室には郭嘉と張邈の二人だけになった。

「そなた、孟徳に仕官を勧められながら一年ほど断っていたそうだな。母君は、言えばお前が我らに協力するのではないかと言っていたが」

 母は母なりに、必死に頭を絞ったのだろう。あれほど曹操への仕官を勧めながら、そう言わねば殺されるとでも思ったのに違いない。もちろん、一年近く荀彧の誘いを断り続けていたのは事実だ。現に今だって、曹操と会う約束こそしたが、仕えるとは言っていない。

「孟徳の徐州での所業を見て、仕官をためらった、と」

「まあ、そうだな。それは間違ってない」

 郭嘉は手を置いていた台に腰かけた。もしかしたらこれからここに固定されてひどい目に遭わされるのかもしれないが、立っているのも辛い。

「あんなことすれば士大夫敵に回すのはわかってたはずだ。盛大な孝と言えなくもないけど、それにしたってやりすぎだ。俺は、文若殿が平然としてる方が不思議だよ」

「孟徳のしたことが許せないと?」

「違う。後先考えず行動して、己の行動の結果どんな悪弊が出るのかも理解できないような主には仕えたくない、ってことだ。俺はバカの尻拭いなんてしたいわけじゃない」

 郭嘉の言葉に、張邈は感心したようにうなずいていた。

「……惜しいことだ。もっと早く出会っていれば」

 ぽつりと張邈がつぶやく。しかしそれは、郭嘉にははっきりと聞こえなかった。

「何? 今、なんて」

「そなた、我らに与する気はないか」

「ないね。言っただろ。俺は、あんたらが気に入らないんだ。実際の曹操殿がどんな御仁なのか俺は知らない。でも、前会った時、あの人は明確に天下を安んじることを目標にしてた。こんな人になら仕えたいって、心底思ったくらいだ。もしかしたら徐州のことがあって、もう曹操殿の天下なんてないのかもしれない。それでも、命かけて天下を安んじようとしてる人の邪魔を、あんたたちはしたんだ。あんたたちにはそのくらいの志、あんの? あんたが曹操殿の代わりに天下を平定して平和にするとでも? それとも陳宮とか呂布がか? 無理だろ。私怨でくだらない反乱起こす奴に仕えるなんて、死んでもごめんだね」

 郭嘉が鼻先で笑っても、張邈は反論しない。沈痛そうにきつく目をつむり、拳を握っているだけだ。

「そもそも、何であんたこんなことしたんだよ。君子と評判の男なんだろ? それが、あんなくだらないおっさんに担がれて曹操殿に反旗翻すとか」

「そなたには、わからん」

 張邈は昏い瞳で言った後、一つ、重苦しいため息をついた。

「私は、長く孟徳に懸けてきた。あれほど才に恵まれた男もあるまい。天下を安んじたいと願いながら、それを為すだけの力がない私には、あれこそが天命を享けた男だろうと思ったものだ。だから、時には兵を与え、時には本初からの盾となり、全身全霊かけて支えてきたつもりだ。そして、順調に事は運んでいるかのように思えていた。しかし……徐州のことで、情勢は変わった」

 張邈は思い出すように、ゆっくりとしゃべっていた。

「徐州で虐殺を行ったことで、孟徳の声望はもはや地に落ちたようなものだ。徐州では今揚州に逃げ出すものが続出しているのだそうだ。孟徳がまた徐州に攻め寄せるのを見込んで、皆殺戮を恐れて逃げているのだと。もはや孟徳に天下は望めない。広陵にいた弟が、わざわざやってきて、私にそう言った。孟徳とは早々に手を切れと。だが、それでも、私は孟徳を説得して、なんとかなるのではないかと思っていた。あいつは激すと手の付けられん男だが、またその自分の欠点をもよくわかっている男だ。いつもなら、やりすぎだと言えば人の話に耳も貸した。しかし、今回は……」

 張邈がだめだ、とばかり首を振る。

「徐州から帰ってきたあいつはすっかり冷静さを失っていた。自分でも怒りが抑えられないと言い、とんでもないことをしてしまったと口では言いながら、完全に憎しみに支配されていた。私がお前のしたことは間違っているというと、剣を抜き、許さんと言った。言い募るなら、殺すとさえ」

 張邈の声は震えていた。おそらく、本気で殺されると思ったのだろう。

「情けない話だ。脅されて、反論することすらできん。ほうほうの体で戻った私を見て、弟はさっさと公台殿たちを巻き込んで謀反の算段を始めてしまった。最初は、迷いもあった。しかし、徐州の件で孟徳に逆らって殺された幕僚がいたと聞いて、もはや、説得は無理だと思った」

 張邈がじっと見つめてくる。見つめ返すと、彼は自嘲気味に笑った。

「お前の言う通り、私には天下を獲るような才はない。それは、公台殿も奉先殿も同じだろう。公台殿はどちらかというと内治の男であり、奉先殿は抜群の武を持ちはするが、それだけだ。だが、誰かが孟徳を止めねばならん。なまじ軍略に長けるだけに、あいつをこのままのさばらせておいては、再び惨禍を招くだけだ」

 そう言いながら、張邈の眼差しにはまだどこか惑いの色が浮かんでいた。まだ、肚を決めかねているのかもしれない。

「曹操殿はそこまでばかなのか? ここで兗州が反旗を翻して、さすがに自分のしたことの影響くらい、気づくだろ。曹操殿に懸ける気持ちがまだあるなら、今ならまだ遅くない。陳宮に無理やり担ぎ上げられただけで、本意じゃなかったとか言ってここから逃げろよ。きっと曹操殿も――」

「いや、それは無理だ」

 張邈はすぐさま首を振った。

「孟徳は、怒ると手が付けられなくなるところがある。そして、一度敵とみなした相手を、まず許さない。あの夜、孟徳は確かに私を殺そうとしたのだ。ならば――」

「まだわからないだろ。曹操殿も言い過ぎたと思って後悔してるかもしれない。大体あんた、それでいいのか? 一度は曹操殿が天命を享けた男だと思ったんだろ? それを、あんな呂布みたいなろくでもない奴担いだって、どうせ天下は獲れない。それこそ殺されるだけだ。それなら――」

「もう、始まってしまったのだ!」

 張邈が郭嘉の言葉を断ち切るように言う。その口許には皮肉めいた笑みが浮かんでいた。

「若いの、覚えておけ。この乱世に、力なき者はこうなる運命なのだ。皮肉なものだろう。天下のためと思って、できるだけのことをしてきたつもりだ。しかしどれだけ志高かろうと、己に力がないがゆえに、こんな結末になる。私に、自分の手で天下を治めうるだけの力さえあれば……結末は、違っただろうに、な」

 笑みを刻んだ口許とは裏腹に、言葉は低く、暗い。声に深くにじんだ絶望の色に、郭嘉は胸を突かれた。

 張邈が室の入り口へと歩いていく。彼は郭嘉の横をすり抜けると、入り口で再び兵を呼んだ。

「今からお前も母親と共に座敷牢だ。いいか、よくよく考えるがいい。お前の身も、そして母親の命も、我らの手の内だということをな」

 連れて行け、と張邈が言うと、兵士が郭嘉を半ば抱えるようにして歩き出した。


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