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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
2.濮陽争奪戦
20/64

20:<荀彧/郭嘉編>濮陽争奪2

濮陽争奪戦、続きです。

鄄城を確保する荀彧たち。一方濮陽で捕らえられた郭嘉は、乱を内から崩せないかと考え始める。

 荀彧が城門でのやり取りの後(やくしょ)に戻ると、そこは戦場になっていた。

 鄄城の中にも反旗を翻したものがいたらしい。それを、程立が守兵を指揮して戦っているところだった。

 なすすべもなく、荀彧は曹操への早馬を指示した後、ひたすら夏侯惇が早くやってきてくれることを願った。

 しかし、一時(二時間)経っても二時経っても夏侯惇は来ない。

 夜が明けてもなお、まだ戦いは続いていた。ただ、戦況は程立側が優位だ。反乱側は数が少ないこともあって、城の一角に押し込められつつあった。

「夏侯惇将軍、到着です!」

 待ちわびた報せが来て間もなく、兵を率いた夏侯惇がやってきて、反乱に加担した者たちと戦い始めた。

 さすが夏侯惇だ。反乱側の兵士たちが次々と倒れていく。奥に隠れていた文官たちが逃げ出そうとすると、それも容赦なく、夏侯惇が斬っていた。

 なにも殺さなくても。

 言いかけて、荀彧はきつく目をつむり、口をつぐんだ。

 曹操ならば、きっと謀反人は許さないだろう。そして厳しい処断は背いた者たちを怖じ気づかせる役にも立つ。

 終わってみれば、加担したと思しきは文官、武官合わせて総勢二十数名。実に城内の高級官吏の半分以上だった。

「まさかこれほど多いとは」

 片が付くと、あたりの惨状を見回して程立が嘆息交じりに言った。

 戦いが繰り広げられた府の一角では、死体の山と共に鼻をつく血の匂いが充満している。

 武官が少なく、反乱側についた兵士が少なかったことが勝因だったようだ。もしこれで兵士まで半分以上が反乱側についていたら、と考えるとぞっとする。

「他の城市の様子が目に見えるようです」

 荀彧は吐き気と戦いながら、なんとか言った。

 鄄城ですら、こうなのだ。各地の城市には曹操の直臣ではない者が県令の場合もある。他の城市は推して知るべし、だ。

「首謀者は誰かのう? 張邈殿ではここまで周到にはできんのではないかな。あの御仁は仁はあるが、狡猾さがない。やはり陳宮だろう」

 荀彧とは対照的に、程立は顔色一つ変えていない。夏侯惇はともかく、程立も慣れているのだろうか。

 うなずきながら、荀彧は今の今まで全く気付かなかった己のうかつさを悔いた。つい昨日郭嘉に反乱などありえないと言っていたのが情けない。今頃その郭嘉もまた、濮陽で反乱に巻き込まれている可能性があった。こんなことなら曹操が帰ってくるまで鄄城に、と言えばよかったと思ったがもう遅い。

「どうする。孟徳に早馬は出したのだろう? しかし、早馬が徐州に着くのに早くて数日、孟徳が兵を率いて帰ってくるのにまた数日かかるだろうから、早くても半月はかかる。それまで、持ちこたえねばならん。兵を出して各地の城を鎮撫するか?」

 荀彧は袖で口元を抑え、首を振った。

「いえ、それは。現状では兗州全域を鎮撫するなど不可能でしょう。もし濮陽にいる人質を陳宮殿がそのまま抑えてしまったとしたら、ほとんどの城市が向こうにつくと思います。こちらに残る可能性があるのは、棗祇殿の治める東阿くらいでは」

「二城だけか……」

 夏侯惇が低くうなる。

「城市ではないが、黄巾の民の作った集落は陳宮にはつくまい。連中は殿に心酔しておるゆえ。あそこが抑えられれば、兵もある程度目途がつくぞ」

 黄巾の民の集落は、鄄城と東阿の間にある。しかし城壁があるわけではないので、攻められると危うい。北東には東武陽、東には范や寿張がある。

「東武陽は今、袁紹から東郡太守に任じられた臧洪殿がいますから、おそらく反乱側にはつかないでしょう。袁紹は兗州全土が反乱側についたとしても、傍観を決め込むのではないでしょうか? 仮に反乱の旗印が張邈殿ならば、尚更。うまくすればこちらに味方してくるかもしれない」

「儂は、范もこちらにつく可能性があると思うがな。靳允は殿に臣従していないとはいえ、かなり殿に心酔している様子だった」

「ですが、靳允殿は濮陽に家族を預けていたと思いますよ。少々難しいのでは」

「ならば、儂が説得に行って来よう。范と東阿、そしてこの鄄城を保てれば、黄巾の連中の集落も守れよう。ひとまず殿が帰るところを失くすということもない。守兵を千ほど借りるぞ」

「お願いします。あなたは東郡に顔が利く。きっとうまくいくと信じています」

「任せよ」

 程立が去っていく。それを見送ってから、荀彧は夏侯惇に言った。

「元譲殿は鄄城を守ってくださいますか。おそらく、反旗を翻した者たちが真っ先に狙うのはここでしょう。物資が蓄えられているし、殿の妻子もいらっしゃる。じきに、誰か攻めてくるのではないかと」

「だろうな。鄄城は黄河流域で最も堅牢と呼ばれた城だ。絶対に奪わせはせん。しかし……陳軍師はともかく、孟卓(張邈)殿が……」

「陳宮殿はともかく、なのですか?」

「いや……奴はおそらく、不満をためていただろう。お前が、来てからな」

 それはそうだろうが。荀彧は返す言葉を見つけられなかった。

 陳宮はずっと機会を狙っていたのだろうか。不満をためながら、曹操に一矢報いることのできる機会を。

「張邈殿が一枚噛んでいるかどうかはまだ微妙ですね。名前が出てきただけですし、呂布も、そういう意味ではまだ姿を見たわけではありませんが」

「いや、呂布はさっき俺が城外でやりあった。いや、とんでもない騎兵だ。五百ほどだろうが、あれが二千三千といたら負けたかもしれん」

「そうだったのですか。それで、来るのが遅れたのですね」

「ああ。おそらく、奴がもう一度攻めてくるのではないか。もっとも、攻城戦となれば騎兵の出る幕はほとんどないがな。俺は城の守備を固める。城の中のことは任せるぞ。ああ、俺の腹心から護衛の兵をつけよう。もしかするとまだ場内に敵がいるかもしれない」

「ありがとうございます。元譲殿もお気をつけて」

 夏侯惇が行くのを見送って、荀彧は傍にいた兵たちに死体を片付けるよう指示を出した。

 おびただしい量の血だった。覇道には戦いはつきものといっても、これは避けられたものだったかもしれない。

 急ぎすぎていたのか。もっと徐州のことについて皆と話し合うべきだったのか。あるいは、人質を濮陽ではなく鄄城に置くべきだったのか。

 様々なことが頭を駆け巡っていた。




 一方濮陽では、郭嘉は相変わらず広間に人質たちと共に閉じ込められていた。

 明り取りの小さな窓からわずかな月明りのさす広間で、郭嘉は横になりながら周囲の人質たちのしゃべっているのをなんとなく聞いていた。

 戸惑いもあるようだが、落ち着いている者が多い。どうやら大半が兗州の豪族のようで、どっちにしろ勝つ方につけばいい、と思っている者が多そうだ。中には後で曹操が勝った時のために、積極的に陳宮に味方しない方がいい、強要されたのだと言い訳できるようにしないと、と言っている者さえいた。

 豪族は結構冷淡なんだな、と思う。強い者が来ればそちらになびき、志がどうとか、君主の人間性がどうとか、考えないのかもしれない。

「どいつもこいつも」

 同じように豪族たちが話すのを聞いていた男が、忌々しげにつぶやく。さっき、陳宮に食って掛かっていた男だ。

 彼は壁に寄りかかって、腕を組んで座っていた。

「なぜあんな私心だけの男に乗せられて平然と殿に反旗を翻すのか。理解できん」

 深いため息をついている。なんとなく見ていると、男と目が合った。

「そなた、見ない顔だな。こちら側にいるということは、豪族ではあるまい。何者だ?」

 問われ、郭嘉は体を起こした。

「潁川出身の郭嘉、字は奉孝と言います。文若殿から、曹操殿に仕官しないかって誘われてたんだ。陳宮にもそういうこと言われて、断ったけど」

「そうか、文若殿の推挙でな。惜しいことだ。もう少し早ければ、殿もさぞやそなたを気に入っただろうに。先程のお前の言葉、痛快だった。それだけの気骨があれば、すぐにも殿に認められよう。もっとも、孟卓殿には響かなかったようだが」

 男は嘆息すると、郭嘉に向かって軽く拱手した。

「私は治中従事の毛玠(もうかい)、字を孝先という。陳留の出身だ。だからこそ、孟卓殿の離反は信じられん。あのお方は、それこそ殿が旗揚げする前から庇護者となられ、殿に一心に力を貸してこられた。陳留太守でありながら、その兵は殿に預け、ただひたすらに殿の天下を夢見ておられた。……と、思ったのだが」

 毛玠は腕を組んだまま首をかしげ、嘆息した。

「孟卓って、張邈って人の字ですよね? 曹操殿の親友だとか聞いたけど」

「そうだ。そのはずだった。そしてとても義に篤いお方なのだ。それが、なぜここで陳宮なぞに担がれてこんなことをするのか、まったくわからぬ」

「徐州でのことではありませんか」

 そばにいた少年が言った。年齢的にまだ官吏ではないだろうから、おそらく官吏の子息だろう。

「泗水がせき止められるほどの虐殺、と皆驚いていましたし」

「そんなもの、覇業に犠牲はつきもの。少しやりすぎたくらいのものよ」

 毛玠の怒鳴るような声に、少年はすっかり恐縮してしまったようだ。彼は郭嘉と目が合うと、やはり拱手して言った。

「私は東平の畢軌(ひっき)と申します。父が、曹操様にお仕えしています」

 父は鄄城にいるのです、と少年は不安そうに言った。となれば、人質として利用される可能性があるということだ。

「この子の父の畢諶(ひっしん)殿は生真面目な御仁ゆえ、おそらく脅されれば抗うこともできんだろう。他にも、鄄城で働いているが、家族を濮陽に住まわせている者もぽつぽついる。形勢は悪いな」

「あなたは?」

「私の家族は鄄城だ。今日こちらにいたのはたまたまだ。たまたま書類を取りに来てな。陳宮から用事があるから留まれと言われて、まんまとこのざまだ」

 まんまとはめられてしまった、と毛玠は嘆息している。

 曹操は豪族だけではなく、幕僚の一部も人質に取られていることになる。陳宮は相当周到に策を進めていたのだろう。

 その後、うとうとしているうちに夜が明けた。翌朝また張邈がやってきて、郭嘉と曹操の幕僚たちに移動するように言った。

 連れて行かれた先は、案の定牢獄だった。外は夏の暑さだというのに、牢獄の床はひやりと冷たい。十人近くいた曹操の幕僚とその家族たちはいくつかに分かれて檻の中に押し込められた。

「孟卓殿、もう一度言いますぞ! あなたはこのようなことをなさる方ではないはず。なぜ陳宮なぞに加担するのです。もしや、家族を人質に取られておるのですか?」

 言い募る毛玠の言葉にはまったく反応せず、張邈は淡々と告げた。

「しばらく、ここで頭を冷やすといい。各々、この状況をよくよく考えてみることだ。孟徳につくことの不利はおのずとわかろうというもの。もし我らに協力するなら出してやれ、との公台殿の言葉だ」

 怒っているでも、悲しんでいるでもない。感情のない言葉でただそれだけを言うと、檻にかじりついて必死に言い募る毛玠を置いて、張邈は去っていった。

「孟卓殿……。一体、どうしてしまったのだ」

「義に篤いお方だ。殿の徐州でのことで愛想をつかされたのではないか」

「確かに。張邈殿は特に殿に懸けておられた故、失望も大きかったのだろう。これで殿の天下はないと思った者も、少なくあるまい」

 一緒に連れてこられた幕僚たちが口々に言う。これはこれで、やる気のない連中だ。毛玠のように積極的に逆らおうというのでもなさそうだ。

 翌日になると、牢獄の中にいた幕僚の内、ほとんど全員が牢から出て行った。陳宮に与することに決めたからだ。家族が濮陽にいたらしい。家族を人質にされては逆らえない、と彼らは言った。

 結局、残ったのは郭嘉と毛玠、そして畢軌とその家族だけだった。

「まったくどいつもこいつも!!」

 頭を抱える毛玠を、若い畢軌が心配そうに見ている。まだ十五・六くらいに見えた。

「お前は、父君が心配だな」

「は、はい。私がここにいるせいで父も曹操様に逆らうようなことになっては……」

 ぎゅっと、畢軌が手を握る。その肩を、郭嘉は軽くたたいた。

「思いつめるなよ。別にお前が悪いわけじゃない。悪いのは反乱起こした奴らだから」

「は、はい」

 一息に勢力を拡大し、一気に幕僚が増えた。すごいことだとばかり思っていたが、一方でそれは曹操のもろさでもあるのかもしれない。臣従したといっても、死んでも曹操についていこうというものでもないのだろう。

 果たして、何人が曹操の下に残るのか。本当に兗州全域敵に回したとしたら、曹操は勝てるのか。

 きっといずれ城の外でぶつかり合いが起こるだろう。当世きっての戦上手の曹操と、天下無双と名高い呂布の一戦だ。

 こんな牢獄にいては、せっかく同じ街にいるというのにそれを見られない。

 郭嘉もまた、胸の内では呑気なことを考えていた。自分に人質としての価値はないに等しいので、殺されることはないだろうと高をくくっていた。




 郯の城を囲む陣中で聞いた早馬の知らせは、曹操にとっては到底信じられるものではなかったらしい。

「…………なん、だと?」

 胡床に座って完全に固まった曹操を、戯志才は見ていた。相当な衝撃だったらしく、瞬き一つせず、彼は虚空を見つめている。

 使者が戸惑って曹操の顔を見、戯志才の顔を見てくる。何か言うべきかと思って戯志才が曹操に目を向けたところで、ようやく曹操が口を開いた。

「もう一度、報告を」

「は、はい。濮陽にて陳宮と張邈が呂布を担いで謀反を起こしました。荀軍師たちは鄄城を確保、夏侯惇将軍もそちらへ向かっていると言うことです。殿には至急、も、戻られるように、と……」

 使者が言葉を重ねるうち、曹操の表情が険しくなる。早馬で駆けてきた兵は終わりの方には青くなり、身を縮こまらせていた。

「孟卓、が……?」

 呆然とつぶやき、曹操がまた固まった。見かねて、戯志才は口を開いた。

「殿、戻りましょう。拠点を失ってしまったとあれば、兵の士気が持ちません。まずは、兗州を取り戻すが先かと」

「そ、そう、だな。陣を払い、至急鄄城へ戻るぞ!」

 指示を出しながら、曹操はまだどこか落ち着かない様子だった。




「母上、軌!」

 畢軌の父親が牢獄にやってきたのは、獄に落とされて三日後のことだった。

 しかし、彼は檻の中には入ってくるわけではない。柵越しに母親や息子と手を取り合うと、すまない、と彼はまず謝った。

「孝先(毛玠)殿、申し訳ない。私も、公台殿に、従うことに……」

「お前もか!」

「家族を人質に取られてはどうしようもない。文若殿に一応断って出てきたが……」

「それになんの意味があるというのだ! 一体どんな顔をして裏切りますなどと言って出てきたのか!?」

「文若殿は一切引き留めることはされなかった。孝に逆らうことはできまい、と。あの方は本当に君子だ」

 言いながら、畢軌の父は泣いていた。本当は曹操に叛きたくはなかったのだろう。

 儒者ならば、孝――すなわち親を大事にすることは何よりも重んじなければならない、という考えを持つのが普通だ。主への忠誠はその次なので、家族を人質に取られれば、まじめな儒者なら孝に従って曹操へ叛くだろう。

 郭嘉自身はそこまで儒を重んじる気はないが、もし母を人質に取られたら、と考えると、やはりためらいはあるだろう。裏切った者たちを責める気にはなれなかった。

「なんつーか、大丈夫なのかね、この反乱」

 郭嘉がぽつりとつぶやくと、その場にいた全員が郭嘉を振り返った。

「どういう意味だ?」

「いや、だってこの人みたいに不本意ながら従いました、って人多いんじゃないの? こないだ一緒にここ入ってた奴らだって同じでしょ? だったら、そんな無理やり従わされた連中が、やる気持って反乱すると思う? 士気あがらなくて逆に足引っ張りそうな気がするけど」

「確かにな」

「こちらは?」

「文若殿が殿に推挙する予定だったのだそうだ」

 毛玠が畢軌の父に言う。お互いそこであいさつを交わした。畢軌の父は畢諶と言うらしい。

「で、話戻すけど。俺、やり方によってはこの反乱、内側から崩せそうな気がするんだけど」

「何?」

 毛玠と畢諶の声が重なる。

「嫌々陳宮たちに従ってる奴らをひそかにまとめて、呂布が城空けてるときに府を乗っ取っちゃうとかさ」

「だ、だがそこでもし呂布が戻ってきたら」

「曹操殿が帰ってきてからやればいいんじゃないか? 曹操殿が呂布とやりあってるときに城門、開けるとか」

 毛玠と畢諶が顔を見合わせた。だが、二人はあまり乗り気にはならないようだ。

「そう簡単にはいくまい」

「そうだ。どこまでが本気で陳宮に付いていて、どこまでが本意でないかなど見分けは難しい。それに、勝った方に付こうと考えている者も多いだろう。そういう連中は、どの道日和見(ひよりみ)だ。今順調に陳宮殿が兵を集めているのだそうだ。殿が帰られるまでに三万は集まるだろうというから……」

「でも、曹操殿十万くらい徐州に連れてったんだよな? だったらまだ充分数は多い」

「しかし、徐州から長躯して戻ってきた兵だぞ。疲労もあるだろうし」

「もし本当に兗州全域が陳宮に付いたとしたら、殿は補給もままならんことになる。最初に確か、陳宮が鄄城の城門を開かせるとか言っていなかったか。もし鄄城が落ちていたら、ここまで来るのも一苦労だぞ」

 毛玠の言葉に、畢諶が首を振る。

「いや、鄄城はまだ落ちてはおらぬ。確かに鄄城を落とそうとする策はあったようだが、それは文若殿が見破られたと聞いた」

「それならば。しかしそれにしても、内から更に反乱をと言ってもな。もっと重鎮の誰かがいれば別だが、私などではどうも重みが足らん。もし本当にやるなら、誰かもっと旗印になるような者がいなければ。……もし、孟卓殿がそうなってくれれば、可能だとは思うのだが」

 毛玠が沈痛な面持ちでため息をついた。

「孟卓って、あの張邈って奴ですよね? 曹操殿の親友だったとかいう」

「そうだ。いったいなぜ、このようなことに加担されたのか」

「ちょっと、つついてみたらいいんじゃないか?」

 目を丸くして見つめてくる二人に、郭嘉はにやりと笑って見せた。

「もしかしたら、嫌々担がれてるだけかもしれないだろ?」




 三日後、また新しい人質が牢獄へやってきた。老婆と女、子供たちだ。大方、逆らった誰かの家族だろう。郭嘉たちとは違う、奥の檻に入れられたようだ。

 その際、郭嘉たちの檻の前を陳宮と張邈が通った。

「おい、おっさん」

 陳宮が通るその瞬間、声をかける。郭嘉は檻に背中を預け、腕を組んで座っていた。

 呼ばれ、陳宮が檻の前で足を止めた。隣を歩いていた張邈もまた、足を止める。

「どうした、小僧。とうとう私に仕える気になったか?」

 にやりと見下ろしてくる陳宮を、わざとぞんざいな態度で見上げる。

「んなわけないだろ。あんたもしつこいな。いい加減気づけよ、俺はあんたが気に入らないんだ」

「ふん、どこまでも鼻持ちならぬ男よ。獄に落とされ、少しはおとなしくなればいいものを。用がないなら声をかけるな」

「ここから出せよ。俺に人質の価値ないってことくらい、あんたもわかってるだろ?」

「お前のような鼻持ちならぬ男を外に出したのでは厄介だからここに置いておるのだ」

「別に悪いことなんてしないさ。邸でおとなしくしてるよ。曹操殿が濮陽を取り戻すまで」

「ふん、まったく口の減らぬ男よ」

 陳宮が忌々しげに吐き捨てて歩き出す。そのすぐ後、後ろにいた張邈が檻を覗き込んできた。

「公台殿、この者は? 私は顔を見たことがないが」

「ああ、この男は荀彧が曹操に推挙しようとしていたという男です。母親が大々的に穀物を扱っておりましてな。その関係か、荀彧とも相当親しかったとか。息子はこの通り鼻持ちならん男ですが、一時期袁紹のところで軍師をやっていたとか。使えそうな男ではありますが……」

 陳宮が檻越しに郭嘉を覗き込んでくる。相変わらず檻に背を預けたまま肩越しにそれを睨みつけると、陳宮はふん、とつまらなそうに言った。

「いささか、癇が強すぎますな」

 じっと張邈が見つめてくる。ここぞとばかり、郭嘉は声を挙げた。

「そもそもさあ、あんたらなんで反乱なんか起こしたんだ? そっちのおっさんは単に文若殿が憎かったんだろうけど、張邈殿、あんたは? 聞けば、すごく志高い人らしいじゃないか。董卓が暴れてたあたりからずっと、天下を安んじるためにって曹操殿の後ろ盾だったとか。それなのに、どういう心境の変化? 徐州のことがあって、曹操殿の天下が無理そうだから、自分がとか?」

「小僧」

 郭嘉が鼻先で笑うと、陳宮が口を挟もうとする。しかしそれを遮るように郭嘉は言葉を続けた。

「俺、ここ来るまであんたの名前なんて聞いたこともなかったな。そんなあんたが、どうやって天下獲んの? そこのおっさんとか呂布がいればできるとでも? 片や政争に負けた腹いせに反乱起こす男。片や己の私欲のために二度も主を斬った男。あんた、頭大丈夫か?」

 あからさまに激昂する陳宮とは裏腹に、張邈の表情はぴくりとも動かない。

「それとももう、天下はあきらめて、ちっさい世界で皇帝でも気取るつもり?」

 せせら笑うと、さすがに張邈がぴくりと頬を引きつらせる。もう一息。しかし声を挙げようと息を吸ったところで、陳宮が檻を蹴った。蹴りが直接体に当たったわけではなかったが、格子から伝わった衝撃で言葉は止まる。

「小僧、減らず口も大概にしろ! 死にたいのか」

「ちっさいなあ、おっさん。あんたが俺をここで殺してみろよ。あんたたち、こんな口の悪い青二才にちょっと悪口言われただけで首を刎ねた、器のちっさい連中ってことになるぞ。それこそ、そんな奴に誰が従うんだ? 本当にこないだ言ってた通り天下を狙おうってんなら、せめてあんたも君子面しろよ」

「貴様!」

「落ち着け、公台殿」

 いきり立つ陳宮の肩を、張邈が抑える。まだ怒りの収まらない陳宮をそっと横へよけ、張邈は檻に腕を預け、じっと郭嘉を覗き込んできた。

「惜しいことだな、若いの。お前、おそらくここに来る前に孟徳に会っていたら相当気に入られていただろうに」

 見つめてくる張邈の瞳には、やはり感情は見て取れなかった。その瞳はまるで闇夜の湖面のように静かにただ郭嘉を映している。

 どうやら、挑発は意味のない相手のようだ。郭嘉がじっと張邈を見上げるその奥で、毛玠が「孟卓殿」とつぶやいている。それにも目を止め、張邈はやはり淡々と言った。

「孝先(毛玠)、そなたも早々に考えを改めるがよい。孟徳にもはや天は微笑まぬ。罪のない無辜の民を殺しつくすような男を、主と戴くことはできぬだろう。気が変わったらいつでも言え」

 張邈が促し、陳宮と共に牢獄を出ていく。

 どうやら、張邈という男は一筋縄ではいかないようだ。

 腕を組んで嘆息すると、毛玠が妙に硬い表情なのに気づいた。

「どうしたんだ、毛殿?」

「いや……孟卓殿の様子が、どうも……」

 彼は口許に手を当て、わからない、とばかり首を振った。

「あんな目をしているのは初めて見た。いつもはもっと、明るく鷹揚な方なのだ。やはり、陳宮に従っているのは本意ではないのではないか」


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