2<郭嘉編>乱世の始まり
洛陽から戻ってみると、潁川が略奪に遭い、惨状が広がっていた。一行はひとまず冀州へ避難することに。
郭嘉初めての計略と、夏侯惇との出会い。
「な……んだよ、これ」
潁川に帰ってみると、そこは先だって見てきた洛陽とさして変わらない惨状が広がっていた。明らかに略奪があったとわかる。家という家は暴かれ、物が散乱している。死体こそ散乱していなかったが、残った人々は皆ぼろぼろになって、傷を負っている者も少なくない。
郭嘉が慌てて自宅に向かうと、そこは焼けた跡こそなかったものの、やはり略奪の跡があった。床には所々血の跡がある。
「父上! 母上! どこです!」
さすがに体から血の気が引くのが分かった。軽いめまいを感じながら廊下を足早にかけていく。道々に時々血だまりがあるが、死体は見なかった。
「は、母上?」
屋敷の裏手まで来たところで、郭嘉は母の姿を見つけた。さすがに無事では済まなかったのだろう。母は粗末な、男のような動きやすい服を着て、庭で何かをしていた。そのそばには見慣れた家僕が何人かいたが、皆一様にどこかをけがしていた。
「ああ、奉孝殿。無事で」
母は相好を崩すと、郭嘉に駆け寄りその体をきつく抱きしめた。わずかに母から感じる血の香りに一瞬ぞっとしたが、どうもそれは出血ではなく返り血のようだった。
「一体何があったのですか」
「お前が旅に出てからすぐ、どこかから軍がやってきて、金を差し出せと略奪を……。ここもやり玉に挙げられて、旦那様は……」
母は袖で口元を覆うと、悔しそうに目をつむった。
「やってきた兵士たちに殺され、広場に首を晒されて……!」
母の頬に涙が伝う。呆然と彼女を抱いて立ちすくしていると、そばにいた家僕が状況を説明してくれた。
なんでも、父は家財を供出するのを拒んだらしい。街にそういった者は何人かいたらしく、そろって広場で首をはねられたという。すくみ上った住民からは、さぞかし簡単に略奪ができたはずだ。兵士たちはひとしきり略奪を繰り返した後どこかへ去っていったという。
「あの時の軍勢か」
山間の街道ですれ違った軍のことを思い出した。あの時は補給だろうくらいに思ったが、よく考えてみれば都を焼いて捨てるような軍が、まともに金を払って補給などするはずがなかったのだ。
「物資がなければ略奪で、なんて兵家の常。……けど、それがまさか自分の家で。いや」
潁川は洛陽からも近い。戦乱の世となれば多くの人が行き交う分、こういったことが起こることもありうる話だった。それに気づかず、乱世など遠くの話だと思って呑気に洛陽に向かった自分が情けなかった。もっとも、あの時戻ったところで自分は何の役にも立たなかっただろうが。
ちなみに、二人の兄は当時遊びに出ていて消息不明、兄たちの母である張夫人は目の前で惨状が繰り広げられたことに耐えられなかったのか、怪我こそなかったが今は寝込んでいるという。
「ひとまず、母上だけでも無事でよかった。静、兄上たちを探してもらえるか」
静は一瞬うなずくようなしぐさを見せた後、すぐに首を横に振った。
「いえ、そんなことをしても無駄でしょう。あの放蕩息子たちのために御身を危険にさらすくらいなら、皆でどこかへ逃げましょう」
「おいおい、お前何言って」
「ここに戦える者が何人いますか。賊は去ったとはいえまたやってこないとも限りません。それよりは、あなたを郭家の主としてお守りすることのほうが重要です」
「待て待て。兄上たちが生きてたら家を継ぐのは兄上だぞ」
「このありさまでは生きている可能性のほうが低いでしょう。まして、こんなことになってあの能無したちに家が守れるとは――」
「静、落ち着きなさい。兄君二人は探させたのですが、見つかっておりません。遺体もです。生きていたら戻ってくる可能性もありますが……」
「どこかで殺されてる可能性が高いってことですか?」
「あるいは、どこかへ逃げているか。父君が殺されたことを知ったなら戻ってこないかもしれません。家財すべて略奪され、母君も殺されたと思うのが普通でしょうから」
確かに、それはあるかもしれなかった。兄二人はあえて火中の栗を拾うような男でもない。誰か助けてくれる人がいたならそちらに行く可能性が高い。
「ひとまず、ここを離れましょう。このような有様では屋敷一つ守ることすら困難です」
言ったのは静だった。
「だけど、どこへ行くってんだよ。一族の誰かを頼るか? でもほとんどが潁川の人間だぞ。他の街だって似たようなもんじゃないのか?」
「確か、郭図殿は袁紹殿に付き従っているとか」
「袁紹って、あの反董卓連合の盟主を任されながらな~んもせずに撤退した奴だろ? そんな奴」
「それでも四世三公の名門です。人は集まるでしょう。ある程度の人数がいればそう簡単に潰れることもない、と思いますが」
「そりゃ袁紹がまともな奴ならって限定付きだぞ」
「そ、そういえば」
言い争う郭嘉と静を横で見ていた別の家僕が口をはさんだ。
「賊がやってくる数日前だったでしょうか。冀州から韓……韓なにがしという者の遣いが来ておりました。ここはじきに戦乱に巻き込まれる危険性があるから、冀州まで逃げたほうが良いと」
「へえ」
「騎兵の一団でした。その韓なんとかは潁川の出身だとかで、あちこちの街で移民を募っていたようなのですが、結局誰も相手にしなかったとか。亡くなられた旦那様も全く取り合っておられませんでした」
「結果この有様、か。けど、これを予見してた奴がいるってことか」
会ったことはないが、あの洛陽の惨状が印象に強い郭嘉には袁紹よりそっちのほうがましなのではないかと思えた。ただ、韓なんとかという名前は全くぴんとこない。
「呼びに来たからには冀州はまだ戦乱にまきこまれてないってことかもな」
「冀州へ行かれますか?」
郭嘉は少し考え、うなずいた。
「ほかに当てもないし、行ってみるか」
言うは簡単だったが、実行はそう簡単ではなかった。単独で動けばそれこそ野党の餌食だし、荷を運ぼうにも馬は郭嘉と静が乗っていた二頭しかない。
周囲の人々と話し合い、結局生き残った数十人でまとまって移動することになった。移動できないほどの重傷を負っている者も少なくない。できれば全員連れて行きたいところだったがそんな余裕はなかった。
潁川から冀州へ向かうには、街道を行くとなると二つの道がある。
片方は一度洛陽に近いところまで向かって北上する道、もう一つは遠回りになるが東へ向かい、兗州経由で北へ向かう道。洛陽に近いほうに向かえばまた董卓の軍にぶつかるかもしれないということで、一行は兗州経由で北へと向かうことになった。
途中、潁陰や許を経ると人数は徐々に増えていった。途中には被害の少ない村もあり、食料や数少ない馬も得て、一行は潁川郡を出るころには百人を超す集団になっていた。
「乱世ってやつだな」
移動を始めて三日後の夜、郭嘉は闇の中に揺れる焚火の炎を見ながらつぶやいた。
焚火はいくつか炊かれ、そこにそれぞれ数人の男が座り、他の者たちは眠っている。比較的身なりのいい人間が多く、略奪に遭ったといっても皆多少は荷物を持っている。こんなことがなければ野宿などするはずもなかった者が多かった。
「信じられないよな。黄巾が流行りだしてから乱世だ乱世だって言ってたけどさ、俺は洛陽を見て、あの潁川の有様を見て、こうやって逃げ出して……ようやくなんか、実感したな」
「長らく部屋に閉じこもっておられましたから」
「……そういう問題か?」
隣に座る静を軽くにらむ。彼はそんなことは意にも介さず、じっと焚火を見つめていた。
「私は、更に若が乱世を実感するようなことが起きないことを祈っているのですが」
「更に? ってなんだよ、戦にでも巻き込まれるってのか?」
「どうでしょう。統率の取れた兵士ならばこんな流民の群れには目もくれないでしょうが……」
静がちらと視線を動かす。その先から、小走りに近づいてくる人間がいた。一瞬身構えたが、静は動じない。どうやら家僕の一人のようだ。やってきた男は静の少し後ろに膝をつくと、郭嘉に軽く一礼してから静に向かって小声で言った。
「二里(約八百メートル)先に、野党と思しき者たちが。五十人ほどかと」
思わず静と顔を見合わせた。
「寝静まるのを待って、襲ってくるつもりってか?」
「おそらくは。すでに斥候らしきものが林の影から見ています」
「え?」
「若」
思わず探しそうになり、静に止められた。気づいていないと思わせていたほうがいいということだろう。
「どうする? 五十は多いな」
健康な男もいないではないが、武術の心得がある男となるとそうはいないだろう。
「静。お前と、家僕で戦える奴は?」
「私と三人の部下はそれなりには。ですが、四人で五十は無理がありますね。せめて少し分散などさせられなければ」
「連中の目的が何かってのもあるよな。目的が荷か、女子供か……」
郭嘉は顔を挙げ、周囲を見回した。いくつもの焚火のそばでは、それぞれ子を抱えた女たちが何人も眠っている。女子供は略奪の最中相当さらわれたらしいが、なんとか生き残った者たちだった。そしてその周囲には荷車がいくつかある。手で引いてきたものと、途中手に入れた馬に曳かせているもの数台だ。
「おそらく両方でしょうね。どちらかといえば荷台のほうには目が向いていると思いますが」
「だよなあ。荷をやっておとなしく引き下がってくれればいいけど、それだとこの先また襲われたらどうするって話になるしな」
郭嘉は口許に手を当て、考える。自分と静だけなら、敵わないと思えば逃げて隠れてしまえばなんとかなるだろう。しかし今回は人数も多く、満足に走れない者も少なくない。
逃げるのは厳しい。となれば、盗賊を殺すか、襲う気をなくさせて追い払うかしかない。
「弓とかあればいいんだけどな。あー、俺ももうちょっと真面目に剣術やっとくんだったかな。もうちょっと人手があれば」
「弓ならあるぞ」
近づいて声をかけてきたのは、離れたところで焚火に座っていた若い男だった。
「武器も、多少なら使える。おい」
男が手を挙げると、他に三人が近寄ってきた。
皆血の付いた服を着て、所々包帯を巻いているが、体躯はいい。目つきもしっかりとしていて、盗賊を恐れるふうではなかった。
「あんたらは?」
「俺たちは許の李家のもんだ。旦那様は守れなかったが、これでも護衛が仕事だ。多少は力になれる。ただ、怪我があるから本調子じゃないがな。武器もいくつか持ってきてるぞ。弓なら五張はあったはずだ」
「そりゃありがたい。これだけいれば、なんとかなるかもな」
郭嘉はまた口許に手を当てた後、にっと笑った。
「じゃ、こういうのはどうだ?」
郭嘉は地面に図を書いていった。
家僕から先の街道の形状を聞き、現在地、そして盗賊がいると思しき場所に丸をつける。
「二里ある。街道の脇はどっちも林。加えて月明りだけで程よく暗い。まず、俺が馬車を駆って盗賊のほうへ行く」
「若!?」
「お前少し黙ってろ」
郭嘉は静を睨みつけ、口許に指を当てて見せた。大声で策が漏れてしまったら困る。
「俺だけ怖くなって逃げたふりをする。すると、盗賊はここぞとばかり襲ってくるだろう。俺はびっくりして逃げる。つまり戻ってくるわけだ。こう……」
郭嘉は街道の図を指さしながら、一度指を街道沿いに盗賊側へ動かし、そして現在地のほうへ戻した。
「この間、あんたたちはこの街道の脇に控えててくれ。俺が逃げ戻ってきたら、きっと盗賊が追いかけてきてるはずだ。まずは弓。連中は驚くだろう。流民の群れが罠張るなんて考えてもいないはずだからな。浮足立ったところをその次は剣でやる。どうだ?」
「若」
「作戦としては悪くないと思う。だが、いいのかあんた? いかにも腕っぷし弱そうだぞ。うまく馬車扱って逃げてこらえるのか?」
「あー、それは~」
正直自信がない。よく考えたら馬に乗ることはできるが、馬車を駆ったことなどあっただろうか。いや、ない。
「ま、なんとか」
「なりません。だめです。御者は私がやります」
「静」
「そもそも、いかにも貴族のボンボンなあなたが一人で馬車を駆って逃げること自体が不自然でしょう。こんなひょろひょろの育ちのいい男は逃げ出すなら絶対下僕を連れて逃げます」
「お、お前何気にひどいことを」
「事実です。あなたが御者をされれば絶対に失敗します。ですから、私が」
「……まあ、そうだな。お前も貴重な戦力なんだけど」
「引き返してきてから剣をふるうことだってできますよ。それより、街道の幅は? 馬車を素早く切り返すのは相当な至難です。ある程度街道の幅がなければ」
「大丈夫です。この辺は物流も多く、道幅は十分です。ただ……敵を前に馬車を返すのは相当な至難かと」
斥候に行った家僕が心配そうに言った。言われてみるとそうかもしれない。馬だけならすぐに引き返せるだろうが、かといって荷車を置いて逃げたのでは盗賊は追いかけては来ないだろう。
「んー、詰めが甘いかな。それなら逆方向に逃げるってのも……」
ただ、逆方向に逃げるとなると盗賊が追ってくるかわからない。下手をするとこの場に残す女子供にも矛先が向きかねないから、これはダメだ。
「そうだ。それなら俺だけ馬乗って逃げるってのはどうだ? 俺の馬、少し荷物も乗せてるし、うまくすれば連中も襲ってくるんじゃないかな。で、賊に会ったらそこで引き返して、罠にかける」
一同、顔を見合わせた。さっきの策には結構な自信があったが、今度は馬一頭とわずかな荷を狙って、どのくらいの賊が動くかわからない。
「若一人でも、追いかけてくる可能性は高いかと思います。ただ、全員では追いかけてこないのでは」
「俺が『盗賊だ』、って叫びながらこっちに戻ってきたらさすがに追ってくるんじゃないか? 元々狙ってたわけだし、俺の声に気づいて皆逃げられると思ったら、慌てて追ってくるだろ」
「なるほど」
「最悪全員で追ってこなくても、ある程度分散したらなんとかならないかな? 五十を一気に相手は無理でも、この人数で十とか二十なら、なんとかなるよな?」
郭嘉は数に入れないとして、他に若い男が七人いるし、弓もある。
なんとかなるだろう。静を見つめると、彼はしぶしぶと言った様子でうなずいた。
「そう、ですね。いい策だと思います。若の命が危険にさらされる以外は」
軽いため息とともに静が言うと、他の者たちも納得したようだった。
「では、どうしますか? いつ始めますか?」
「今すぐでいいだろ。不意はついたほうがいい。連中、まだこっちが気づいてないと思ってるんなら、俺たちが仲間割れして俺が一人逃げだすってのが自然だ。どう?」
郭嘉が聞くと、その場にいた全員がうなずいた。
「じゃ、やるぞ」
郭嘉はおもむろに立ち上がると、可能な限りの大声を上げた。
「ふざけんじゃねえぞ! 俺はな、もういい加減うんざりなんだよっ!」
ぎょっとして周囲の男たちが目を丸くしている。それが楽しくて、郭嘉は一層声をはりあげた。
「ちんたらちんたら、ここまで来るのにもう三日だぞ!? この調子じゃ冀州に着くまでに一年はかかる。そもそも最初っからこんな女子供引き連れてなんて、俺は反対だったんだ!」
「若!」
静が慌てた様子で声をかけてくる。林の影にいるという盗賊の斥候にうまく聞こえていればいいのだが。
「女子供がいれば盗賊どもに目をつけられたときいい目くらましになるかと思ったが、これじゃ役に立たんどころかただのお荷物だ。静! 行くぞ。ったく。こんなことなら最初っから誰かと一緒になんて言わなきゃよかったんだ」
郭嘉はぶちぶちと大声で文句を言いながら、自分の馬に乗った。静がやってきて、その轡を取る。
周囲の人々はざわめいていた。特に何も知らされていない女たちは呆然としている。街道に出る前、李家の護衛たちと目が合う。軽く目配せすると、連中も大声を上げた。
「おい、ふざけんじゃねえぞ若造! ここまで守ってやったってのに、てめぇらだけ逃げやがる気か!?」
「守ってやっただ? 盗賊の一人も出なかったんだ。守ってもらった覚えなんかないね!」
「ふざけやがって! てめぇらだけで逃げて、虎にでも食われちまいやがれ!」
ノリのいい連中だ。声音に作った色はなく、野盗が聞いたならそのまま信じ込むだろう。
街道に出ると、静は小走りになって馬を曳き始めた。
「若、大丈夫ですか? 敵が見えたら私も馬に乗ります。人間二人くらいは問題ないとは思いますが、どうしても速度は落ちます。野盗がもし馬に乗っていた場合、追いつかれて馬上で戦うことになるやも」
「ああ、そっか。とうとう剣の出番か?」
郭嘉が拳を握って見せると、静は首を振った。
「下手に使わないでください。私がなんとかしますから」
「んだよ、じゃあ何のために俺にこんな重いもん持たせてんの、お前」
肩をすくめると、静がじっと見つめてくるのに気づいた。首をかしげると、静もまた、怪訝そうに頭を揺らす。
「若は本当に、肚が据わっておられる」
「なに?」
「普通、武術の心得のない貴族の若君は、盗賊に襲われれば腰を抜かし、下手をすれば泣きわめいて逃げ惑うでしょう。しかし若は洛陽で初めて盗賊に遭った時すら平然としておられた。今とて、一歩間違えば死んでもおかしくない状況です。しかし、泰然自若としていらっしゃる。怖くはないのですか?」
「そう言われてもな」
怖いとはどういう感覚だろうか。死ぬかもしれないことが怖いのだろうか。二十歳まで死ぬと言われていたのが死なないでいるからか、自分のその辺の感覚は希薄なんだろうか。
「なんかさ、俺結構楽しんでるよ、この状況。さっき演技に皆びっくりしてざわめいてたろ? ああいうのもそうだし、これから策が当たって盗賊やっつけられたらもっと楽しいだろうなくらいには思ってる。わくわくするっていうか。俺、おかしいのか?」
「……楽観的なのか、大物なのか……」
「泣きわめいて逃げ惑うよりいいだろ」
「それは、そうですが」
静のため息が聞こえ、彼はそれ以上何も言わなくなった。
「お、見えてきたぞ、静。あれだろ、野盗って」
月明りに照らされた街道に、人混みが見える。暗くてよく見えないが、馬はいないようだ。
「若、慎重に。あと、少しおびえて見せないと。あまりに落ち着いているとますます罠だと見抜かれます」
「りょーかい。じゃ、お前の言う、ビビって逃げ惑う若様ってやつ、がんばってみるか」
また、静のため息が聞こえた。
始まってからは、一瞬のように感じられた。
賊を煽り、逃げ、罠にはめる。
思いのほか策は当たって、ほとんどの野盗を殺すことができた。
郭嘉自身は馬に乗って戦う者たちを遠目に見ていただけだ。それでも、自分の策が当たって、勝った。目の前で血しぶきの飛ぶ戦いが繰り広げられていても、背筋を這うような強い快楽が心を支配するだけだ。
薄ら笑いでも浮かべていたのだろうか。
野盗との戦いを終え、近寄ってきた李家の人間が眉をひそめた。
「あんた、ちょっと不気味だぞ」
「え?」
どうやら、やはり自分はおかしいらしい。郭嘉はもう笑うしかなかった。
「まあ、ともあれ助かった。あんたがいなきゃだめだったかもな」
「まさか。あんたたちがいたからさ。静だけだと、あの数は相手にできなかった。かといって逃げられるわけでもないし。皆無事に旅を続けられて御の字だよ」
もっとも、あれが策だと知らない女たちは郭嘉を遠巻きにしている。今のところ大した実害はないので放っておいているし、そうやって不審者のように見られることも、郭嘉には別に不快ではなかった。むしろ、策が当たったことがうれしくて、その余韻がまだ胸を満たしている。
「あんたたち、どこまで行くつもりなんだ?」
「今のところは冀州だな。略奪が起こる前、韓なんとかって奴が冀州へ来ないかって募っていたらしい。ってことは、行けばかくまってもらえるかもしれないと思ってさ」
「韓馥だな」
「知ってるのか?」
「知ってるというか、許にも来ていたんだ。韓馥は冀州牧で、いずれ潁川は戦乱に巻き込まれ、賊徒がここを荒らしに来るから逃げろと言っていたという話だ。荀家の子息が古老たちを説得したんだが、結局皆故郷を離れることを良しとせず、従わなかった。皆後悔していたという話だ。あそこで荀彧殿の話を聞いていれば、と」
「荀彧殿?」
「知り合いか?」
そうだ、と言いかけてやめた。一度会っただけの男が果たして知り合いになるのかどうか怪しい。自分にとって彼は、人生を変えるきっかけをくれた人物ではあるが。
「いや、一度会ったことがあるだけだ。でも、いい人だった」
「荀家は名門だし、あそこは才子ぞろいと評判らしいな。荀家の人たちは今頃冀州だろう」
ということは、冀州に行けば荀彧に会える可能性が高いということだ。一つ楽しみが増えたことになる。郭嘉は自然と頬が緩むのを感じた。
「俺たちは、陳留まで行くつもりだ。奥様の実家が陳留にあるのでな」
「そっか。てことは、陳留まで着いたらどうやって冀州に行くか考えないといけないかもしれないな。助けてもらってばっかりでこんなこと言うの、図々しいけど」
「いや、こっちこそ。奥様も感謝しておられた。陳留についたら礼がしたいとも。場合によっては冀州まで護衛してやれるかもしれない」
「そりゃありがたいね。じゃあまずは、陳留まで無事にたどり着かないとな」
幸か不幸か、郭嘉の母は意外に健脚で余裕をもって集団についてきている。兄たちの母は途中で歩けなくなり、今はけが人たちと共に馬車の中だ。場合によっては、陳留で少し休むなり、母たちを置いていくなりしなければならないかもしれない。もっとも、それも陳留が無事ならば、という話だったが。
出発から十日経った頃、陳留までもう一日ほどというところまで来た。道中時々盗賊にでくわしたりもしたが、大きな問題もなかった。遅れる者、病で群れを外れる者もいたが、道中増えたり減ったりしながらもまだ集団は百人を超す数を保っていた。
疲労も蓄積していて食料も残り少ない。誰しもが早く陳留に着いて休みたいと思っていることだろう。
郭嘉も、例外ではなかった。
八日目を過ぎたあたりからだろうか。久しく忘れていた嫌な感覚が体を蝕んでいた。そういえば、と気づく。二度目に潁川を出てからはほとんど薬を飲んでいなかった。
薬の補給など簡単にはできない。しかも、食糧事情もいいわけがない。完全に気の休まる瞬間はなく、睡眠も短い。
――悪いこと尽くしだからな。
すっかりよくなって、もう薬なんて要らないんじゃないかと思っていたが、案外効いていたらしい。
気持ちだけは高揚していたが、体はだるく、うっすら熱っぽいような気もしていた。歩けないほどではないが、また厄介ごとが起こらないことを祈るしかない。今全力疾走しろと言われたら無理だ。
隣を歩く静はどうも気づいているらしいが、何も言わない。代わりに気遣わしげな視線を向けてくるが、郭嘉はそれに気づかないふりをした。弱音を吐くと歩く気力がなくなってしまいそうだ。
陳留を前に、河の支流だろうか。比較的大きな川が見えてきた。街道は川を右手に見ながらそれに沿って進む。左手は森が広がっていて、数里先には切り立った崖が連なるのも見えた。
そして、森の脇に人の群れが見える。
また盗賊かと思ったが、よく見るとそろいの具足を身に着け、きちんと整列している。どうやら野盗ではなく、どこかの兵士のようだ。
先頭を歩いていた者たちが足を止め、兵士を率いているらしい騎兵と話しているのが見える。郭嘉が近寄っていくと、話していた男たちが振り返った。
「あ、郭嘉殿」
「どうかしたのか?」
「それが、この人たちが――」
その様子を見た騎乗の男が郭嘉を見て言った。
「お前がこの集団の頭か?」
「は? いやいや、まさか! しがない流浪の民の一人ですよ」
郭嘉がじっと見上げると、ふむ、と騎乗の男が言った。
男は品定めでもするようにじろじろと郭嘉を見下ろしてから、その背後にいる流民の群れを見回し、馬を降りた。郭嘉に向き直ると、拱手してくる。郭嘉は驚いて拱手を返した。
「俺は、夏侯惇という。東郡太守曹操の手の者だ」
夏侯惇と名乗った男は見上げるような立派な体躯をしていた。三十半ばくらいだろうか。身に着けている具足もしっかりしていて、いかにもひとかどの将という雰囲気を放っている。だが、見つめてくる眼差しは穏やかで、言葉も威圧するような音はなかった。
「東郡? って、ここ陳留の近くですよね」
「陳留太守の張邈は我が主曹操と親しくてな。それで、我らの主に陳留の警護と盗賊討伐を頼んだというわけだ。最近、予州から逃げてくる者が多いな。予州は相当ひどい状況なのだろう」
「ひどいも何も、董卓の兵士が来て、めちゃくちゃですよ。しばらくは住めたもんじゃないでしょうね」
「お前たちも予州からか。大変だったろうな」
いたわるような声に少し心が動く。話していて、不思議と心落ち着く相手だった。
「ところで、大変なところ申し訳ないんだが、少し手伝ってほしいのだ。俺たちはここらにはびこっている賊を討伐しているのだが、どうもうまくいかなくてな。連中、分が悪いとなるとすぐに森に逃げ込んでしまって」
夏侯惇は背後に広がる森へと目を向けた。ゆるく傾斜のついた森は、ぱっと見たところ数里は続いている。うっそうとしていて、確かに森の中へ逃げ込まれれば見つけるのは至難だろうと思われた。
「なんとかアジトを突き止めようと森に兵士を送り込んでみたのだが、道に迷うわ罠にはまるわで兵に損害が出ただけだった。それならと、罠を張っておびき寄せようとしたのだが、どうも兵士が流民に化けてもわかってしまうらしくてな、連中、一つも乗ってこない」
一応流民らしい恰好をさせて徒歩で移動させたらしいのだが、兵士らしい雰囲気を隠し切れなかったのか賊は襲っては来なかったという。ちらと夏侯惇の後ろにいる兵士たちを見ると、なるほど目つき体つきはしっかりしていて、いかにも精兵という感じだ。くたびれた雰囲気まではなかなか演出できなかったのかもしれない。
「それで、囮になってくれる者を待っていたのだ。どうだ、若いの。頼まれてくれないか? お前ならぴったりだ。生まれはよさそうだが、さして強そうではない。お前がもう何人かと一緒に馬車にでも乗って通りかかれば、連中はいいカモが来たと思って襲ってくるのではないかと思うのだが」
「へえ、面白そうですね」
「若!」
郭嘉が言ったそのすぐ後に静が声を挙げた。思わず顔をしかめ、静を振り返る。
「お前うるさいよ」
「またそんな厄介ごとに首を突っ込むのはやめてください! もし何かあったら」
「無論、危険のないように配慮はする。心配はいらん。何なら馬車に兵士をひそませてもいい。それと、礼は弾む。食料とわずかだが金も提供するし、終わった後陳留まで護衛を付けて送り届けよう。どうだ?」
夏侯惇の声はどこまでも落ち着いていて、静も気勢をそがれている。郭嘉はにこりと笑って夏侯惇を見上げた。
「それはありがたい。面白いもん見られて護衛もついて、礼までもらえるならいうことないですね。喜んでやりますよ」
若! と静が叫んだが、それを全く無視して夏侯惇はうなずいた。
「では頼む。いや、助かった。このまま誰も受けてくれなかったらどうしようかと思っていたのだ」
にこにこと向かい合って話す二人を見て、静は盛大なため息をついていた。
夏侯惇が指示を出し、兵士の半分ほどが走っていく。ただしそれは、陳留とは逆方向だった。
「兵を伏せるので少し待ってもらえるか。迂回してこの先の街道に向かうので半時ほどかかるかと思う。その間、何か食べて休んでいるといい」
夏侯惇がまた指示を出すと、兵士たちが食事の用意を始めた。ちょうど昼下がりで、満足に食事をしていなかった一行は、わずかとはいえ温かな食事にありついて沸き上がった。
兵士たちがてきぱきと食事の用意をし、鍋に一人一人並んで食事を与えられる光景を見ながら、郭嘉もまた久々に温かな食事を口にした。粥に野菜と肉がわずかに入っただけの質素なものだったが、ここしばらく料理らしい料理なんて食べていないだけに、身に染みる。
しかし、温かなものを食べてほっとしたせいだろうか。身の内にくすぶっていただるさが強くなってくる。
――もう少し。あと少しで、陳留だから。
郭嘉は己にそう言い聞かせた。
「そろそろだ。いけるか?」
「え? ああ、大丈夫です」
夏侯惇に声をかけられ、立ち上がろうとする。途端にめまいを感じ、体がふらついた。
「おい、大丈夫か?」
「すみません、いや、平気平気」
郭嘉は強いて笑顔を作り、なんとか立ち上がった。だるさは体にくすぶっているが、まだ倒れるほどではない。
「顔色が悪いような気もするが……」
「こういう顔なんで、お気遣いなく。俺、病弱なんで。それに馬車に乗ってるだけでしょう。問題ないですよ」
「ならばいいのだが」
気づかわしげに覗き込んでくる夏侯惇の眼差しは本気で心配しているのが見て取れた。策がどうこうというより、単に人が好いのかもしれない。いかにも屈強そうな武人のようでいて、案外優しい人間なのかもしれないなと思った。
郭嘉が馬車に乗り込むと、すぐにため息交じりの静が隣に乗ってきて手綱を取った。夏侯惇がもう何人か同行してほしいというと、遠巻きに見ていた母と年老いた家僕が一人馬車に乗り込んできた。
「母上」
意外に思って見つめると、母は苦笑した。
「女もいたほうがそれらしいでしょう。それに大丈夫ですよ、他の婦人方よりは慣れていますから」
「慣れてる? って」
問うても、母はふふ、と笑うだけで答えようとはしない。代わりに、またため息をついた静が言った。
「奥様、もはや若くないのですから無茶はなさらないように」
「おや、守ってくださるというのだから、私はここで奉孝殿と一緒に座っているだけで終わると思っていますよ」
「そう願っていますよ、本当に」
静がまた盛大にため息をついた。
夏侯惇が馬に乗って近づいてくる。彼は安心しろとばかりに大きくうなずいた。
「弓でも飛んでこない限りは危険が及ぶことはない。安心してくれ。いいか、ここから五里ほど先に進むと街道が森の中に入っていく。そこからしばらく行くと橋があり、橋を渡るとまた森の中に入り、更に進めば平原に出る。賊がよく出るのは橋を渡る前の、街道が森に入ったあたりだ」
夏侯惇は、賊が出たらなるべく突っ切って橋を渡れと言った。不可能ならば、逃げるふりをして戻ってこいとも。橋を渡った先に兵が伏してあるらしい。また、戻ってくる場合は、わからないように少し遅れて行軍しているので助けてくれるということだそうだ。
静は本当に守れるのかと言いたげな渋い顔をしていたが、夏侯惇が護衛に兵を一人馬車に乗せようと言ったらそれを断った。自分がいるからいい、ということらしい。
「ちなみに、賊が出なかったら?」
郭嘉が聞くと、夏侯惇は肩をすくめた。
「出てこなかったらお手上げだ。まだ別の策を考えるしかない。無論、出てこなくとも陳留までは送ってやる」
「わかりました。出てくるといいですけどね」
郭嘉が軽く言うと、静が顔をしかめた。静は出てこなくてもいいくらいに思っているのかもしれない。
夏侯惇と軽くあいさつを交わし、馬車は出発した。荷台に幌はなく、布をかけた荷物の脇に母と家僕が一人、御者台には郭嘉と静が座っている形だ。馬の進み方は正直徒歩とさして変わらない。
正直なところ、馬車に乗れるのがありがたかった。どうも食事をしたあたりから、あからさまに体が重い。そろそろ限界ということだろうか。まったく病弱な体が嫌になる。
郭嘉は御者台にもたれかかるようにして首を預け、天を仰いだ。晩秋の空は真っ青に澄んで実に清々しい。
――もう少しだ。
陳留に留まらなければならないのはもしかしたら自分かもしれない。そんな考えが頭をよぎる。
「あのさ、母上。陳留着いたら少し休んでもいいかな? もしかしたら半月くらいとか」
「構いませんよ。体がひどいのですか?」
さすが母親だ。気づいたのかもしれない。郭嘉は小さく笑って返事をした。
「ええ、まあ、久々に」
「元気になったとばかり思っていましたけど、まだまだ無理はできない体だということでしょう。私もできれば陳留にとどまりたいと思っていましたから、ちょうどいいかもしれませんね」
「え? 陳留にとどまりたいって」
郭嘉は体を起こし、母を振り返った。
「略奪に遭ったとはいえ、まだ荘園は残っているはずですから。あまり潁川から離れるのもどうかと思っていたのです。一段落すれば戻って、また商売を再開できるかもしれませんし。冀州は遠すぎますからね」
驚いて母を見ると、静が横から付け加えた。
「奥様は荘園の管理や作物の売買で旦那様の手伝いを」
「へえ、そうなんだ」
何か仕事らしきことをしているなとは思っていたが、そんな家の事情など全く知らなかった。どうやらお嬢様育ちの正妻にはその手の能力はなかったらしく、母が主に父の商売の手伝いをしていたということらしい。
「当面なんとかなる程度の資金はありますから、奉孝殿は安心して休んでいいのですよ。無理してどこかへ出仕せねばならないということもないのですから」
見透かしたように言われると、郭嘉としてはうなずくしかなかった。
あれだけの略奪に見舞われながら、母がちゃっかり財産の一部を隠して守りおおせたというのを聞いた時は意外だと思ったが、どうやらこの母は自分が思っているよりずっと強かであったらしい。
四半時ほど進むと、街道が森に入っていく場所に行きついた。
出てくるか、来ないか。
緊張とも期待とも取れない感情で心臓が高鳴る。すると、不思議と体のだるさもどこか軽くなった気がした。
「陳留に着いたらゆっくり休みたいですね、母上」
不自然にならない程度に大きく声を出した。隣で静が耳を澄ませているのがわかる。彼は手綱を持ったまま、まっすぐに前を見ていた。
「宿をとるくらいの金はあるんでしょう?」
「大丈夫ですよ。陳留についたら小さな家でも買おうかと思っていたところです。大きなお屋敷は難しいでしょうけれど、長く滞在するなら宿よりは小さな家のほうがいいでしょう」
母の声音は不自然さのないものだったが、その眼差しはじっと前を見つめ、彼女もまた、周囲に気を配っているように感じた。ただ、動揺は感じない。大したものだ。
「そうですね。長く宿に滞在するのもうるさそうだし。あ~、早くゆっくり寝たい」
御者台にもたれかかり、首を預けて天を仰ぐ。今度は木々の間から青い空が見えた。
わずかな風。そして、それに紛れるように枯草を踏む音が聞こえる。
来た。
次の瞬間、馬車の前には数十人の賊が躍り出ていた。
そこからは、早かった。
もう演技などする余地もない。静が馬車を走らせなんとか賊を突っ切って橋を渡り、賊がそれを追いかけてくる。そして、伏兵。
駆け抜けた後、背後で喚声が挙がる。郭嘉が振り返って見ると、夏侯惇の兵たちが一斉に賊に襲い掛かっているところだった。
正規兵の戦いというのはすごい。
そう感心するほど鮮やかで、賊はあっという間に打ち倒されていた。その光景にまたどくりと心臓が鳴る。自分が計を立てたわけでもないのに、まるで自分が勝ったかのような高揚感。
「お前、なかなか肚が据わっているな」
また薄ら笑いでも浮かべていたのだろうか。遅れてやってきた夏侯惇が、妙に感心したように言った。
賊を捕らえると、一行は後ろに控えていた流民たちも含め、陳留へと向かうことになった。日が暮れ始めようとしていたが、兵士の護衛がいればさほどの問題は起こらないだろう。特に異論は出なかった。
郭嘉は計略が終わった後一度馬車から降りようとしたのだが、結局またひどい倦怠感に襲われ、そのまま馬車に乗せてもらうことにした。
そして、どうも郭嘉を気に入ったらしい夏侯惇は、前後を警護する兵士たちから離れ、騎馬でずっと郭嘉の隣を歩いていた。
「いや、おかげで助かった。礼を言うぞ」
「そんな。大した事してませんから。それに、おかげでこうして馬車で陳留まで行けるし」
笑って見せたつもりだったが、体を蝕む倦怠感はまた一層強くなっていた。
「それより、賊ってあれだけなんですか? 百人くらいしかいないみたいでしたけど」
「うむ」
夏侯惇は眉をひそめ、困った様子であごを撫でた。
「おそらく、賊は数百人はいるだろう。連中の家族も含めれば二・三千人近く、森の中に潜んでいるのではないかという話だ」
「二千? てことは、たったあれだけ捕まえても」
「地道に行くしかない。無論、捕まえた連中からアジトを聞き出すつもりではいるがな」
「そりゃまたなんて地道な」
「しかし、どうしようもない。連中も生きようと必死だ。平原にすべて追い出して討ち取るというわけにもいかん」
それはそうかもしれない。そしてだからこそ、賊の討伐というのは苦労するものなのだろう。
――けど、それじゃああんまりにもなあ。
「兵は拙速なるを聞くも、未だ功久なるを賭ず」
孫子の一説だ。郭嘉が言うと、夏侯惇が意外そうに目を向けてきた。
「それじゃ時間をかけすぎ、というか、殲滅なんて無理でしょう」
夏侯惇は小首をかしげ、お手上げとばかり肩をすくめた。
「……では、どうしたらいい? 何か策はあるか」
「うーん」
郭嘉は拳を口許にあて、しばらく考えた。要は、賊が逃げ込める場所をなくせばいいということだ。嫌でも打って出なければならない状況に陥らせるか、あるいは逃げ込む森を失くしてしまうか。それならば。
「焼き討ちなんて、どうです?」
「何?」
「森を焼いてしまえばいい。今は冬を前にして森の中には枯葉がたくさん落ちているでしょ。空気も乾燥しててよく燃えるはずだ。どこにアジトがあるかわからなくても、森を焼いてしまえば一網打尽です」
言いながら、通ってきた地形を思い出していた。賊が出ていたのは川向こうの森。森の前には川があり、後ろには断崖絶壁の山々がそびえたつ。
「ああいう断崖絶壁の谷間の地形はその合間を縫うように風が吹くとかって聞いたことあるんですけど、どうかな。風向きを選んで火を放てばあっという間に燃え広がるんじゃないかな。もし火勢が足らなければ油をまくなりすれば燃えやすくなるはず。仮にすべてを燃やし尽くせなくても、山火事が起これば賊は慌てるだろうし。火を消そうとするか、あるいは逃げるため森から出てくる。そうなれば、こっちのもんじゃないかな?」
うまくいきそうな気がする。
わくわくしながら夏侯惇に言った声は、もしかしたら上ずっていたかもしれない。そのくらい高揚していた。しかし、見れば夏侯惇は目を丸くして、呆然と郭嘉を見ている。
「えっと……やりすぎ? 森を焼き尽くしたりしたらまずいですかね? じゃあ……」
「いや、いい。いいぞ!」
夏侯惇は大きくかぶりを振ると、馬から落ちそうな勢いで郭嘉に向かって身を乗り出してきた。
「実にいい! それだ! 確かに森を焼いてしまえば連中は逃げるところがなくなる! なんで今まで気づかなかったんだ! お前すごいな!」
「そんな」
「礼を言うぞ。そうだ、何ならお前、わが軍に来ないか。先程の肚の据わりようといい、なかなかのものだ。きっと孟徳も喜ぶ。お前、名は?」
「えっと、俺は……」
褒められたのは単純に嬉しかった。しかし、仕官を求められたことと、夏侯惇の大きな声と勢いに、戸惑いも同時に強くなる。大きく心臓が鳴ったかと思うと、それをきっかけにしたように、忘れていた倦怠感が一気に体から沸き起こった。
「あ……っ」
どうした? と問う夏侯惇の声が遠く聞こえる。視界が回る。胸が苦しくて息ができない。
意識を失った瞬間、しっかりしろと叫ぶ夏侯惇の声が遠くに聞こえていた。