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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
2.濮陽争奪戦
19/64

19:<郭嘉/荀彧編>濮陽争奪1

郭嘉が母を連れて濮陽に帰った夜、陳宮が兵を連れてやってきた。一方鄄城の荀彧は知人が張邈の使者としてやってきたことで反乱に気づく。

ここからしばらく濮陽争奪編です。

 翌朝鄄城を出発し、濮陽に戻ったのが昼過ぎだった。

 城門の誰何(すいか)で母が名を告げるのを後ろで見て、郭嘉はそのまま城門を抜けるつもりでいた。のだが。

「郭嘉殿ですね。陳軍師がお呼びです。(やくしょ)にご同行願います」

「は?」

 衛兵に声をかけられ、郭嘉は足を止めた。

「なんだって?」

「いえ、ですから、その……陳軍師が、郭嘉殿が戻られたら府にお呼びするようにと」

「なんで?」

「そ、そこまでは。ただ、郭嘉という男が入城したら、連れてこいとだけ」

 郭嘉が睨むので、衛兵はすっかり恐縮していた。少なくとも罪人に対する態度ではないから、陳宮は丁重に客人として連れてこいとでも言ったのかもしれない。

 ただ、気に入らない。

「お断りします」

「奉孝殿!?」

 隣にいた母がまた悲鳴を上げた。

「俺、出頭命令受けるような覚えはないし、そもそもまだ曹操殿に仕官もしてないのに、その部下のおっさんに呼び立てられて行ってやる義務なんてないね。陳軍師サマとやらには、用があるならそっちからどーぞって言っといて」

「ほ、奉孝殿!」

「行きますよ、母上」

 母の腕を引っ張って歩き出してもなお、母は悲鳴のような高い声で言い募った。

「お前は、またそんなことを言って! 陳宮様のご機嫌を損ねたら――」

「大丈夫だよ、こんなことくらいで首飛ばないって」

「そんなわけが」

「母上は心配しすぎなんだよ。大した理由もなしにちょっと逆らったからって首刎ねたりしたら、それこそ名士の名折れだ。どこの董卓だよ」

「で、ですけどお前の仕官に影響が」

「ないない。俺を仕官させようとしてるのは文若殿だし、昨夜曹操殿が帰ってきたら呼びに行くって言われたし、何も問題ないよ」

 だけど、とまだ言い募る母を引っ張りながら、邸へと戻る。途中、官吏の居住区に入る門を通ったところで、ふと、郭嘉は違和感を覚えた。

 いつもより、兵が多い。呼び止められるということはなかったが、門をくぐっても、そこここに、いつもはいない兵士が立っていた。

 ――なんだ、一体?

「何やら、物騒ですね」

 母が心配そうに言った。彼女は、郭嘉が陳宮に逆らったせいなのではと勘違いしているのか、じっと郭嘉を見つめてくる。

「俺のせいじゃないですよ。そんな、城門でさっき言ってすぐに兵士配置できるわけないじゃないですか。大体俺、府に行かないっつっただけで、あのおっさんに反旗翻したわけでもないし」

「奉孝殿、その呼び方はおやめなさい」

「曹操殿が出陣したから警備を強化しただけって気もするけど、なんでですかね。そもそもここ、そんな人住んでんのかな? 曹操殿の本拠地って鄄城でしょ? 濮陽にはそんな幕僚もいないんじゃないかと思うんですけど」

 居住区の中を歩くだけでは、建ち並ぶ邸の中にそれぞれ人が住んでいるのかどうかは区別がつかない。なにせ、それぞれ塀に囲われていて、中が見えないのだ。

「鄄城には幕僚の方が住んでいて、濮陽には兗州の豪族の父母や妻子などが住んでいると聞きましたよ。鄄城は濮陽より街の規模が小さくて、あまり余裕がないから濮陽に住んでいるのですって。もちろん、濮陽で働いている官吏のお邸もあるでしょうけど」

 それはつまり、曹操にとっては人質、ということだ。なるほど、いくら兗州牧と言っても、皆が皆曹操に臣従しているというわけではないだろう。離反を防ぐために人質を取るのが無難だ。曹操は結構手堅く兗州を治めているようだ。

「なら納得、かな。これは曹操殿が出征したんで、豪族が変な気起こさないように、人質が逃げないようにするための警備強化かもしれないですね」

 荀彧がやらせたのか、あるいは陳宮なのか。昨夜は大した影響はないと言いながら、ちゃんと手は打っているらしい。

 ――ぬかりはないってことね。

 兗州が荒れるかもしれないと思った自分は甘かったのかもしれない。その時の郭嘉はそう思っていた。




 陳宮が訪ねてきたのはその日の夕方だった。まだぎりぎり日は沈んでいない。それでも、また旅装を解いてくつろいでいた郭嘉は、呼び出されて不機嫌だった。

 さすがに今度は単衣(はだぎ)とは行かず、玄関に出る前に強制的に静に袍を着せられた。もう暑くなってきたってのに、とぼやきながら、郭嘉は玄関まで出て行った。

「まさか、本当に来ると思ってませんでしたよ。なんか用事でもおありで?」

 玄関で腕を組み、立って戸口の陳宮を見下ろす。母は郭嘉の側で膝をつき、顔を両手で覆っていた。

 陳宮はと言えば、今回は顔を引きつらせることもしない。むしろ余裕のある表情で楽しげに郭嘉を見上げていた。

「少し調べさせてもらったが、袁紹のところで軍師をしていたそうだな」

「それ俺じゃないんじゃないかな。多分、親戚の郭図のことですよ。よく間違えられるんですよね」

「先だって、劉表の下へ使者として出向き、袁術をこちらへけしかけたそうだな。しかしそこまでしながら袁紹に天命はないと言って潁川に戻り、賊徒の討伐をしていたとか。なかなかではないか」

 一体どこの誰が言った話だろうか。大筋では合っているが、それほど人の口に上るような話でもないはずだ。特に、賊徒討伐なんてした覚えはない。せいぜいで郭嘉がしたのは討伐ごっこくらいのものだ。

「それも多分別人――」

「どうだ小僧、私と共に天下を目指してみぬか」

 ――私と、共に?

 郭嘉は眉を顰めた。言っている意味を取りかねた。

「文若殿には、曹操殿が帰ってきたら会わせるって言われてるんだけど」

「曹操に天命はない。あんな男に天下など獲れるものか」

「あんた、何言って――」

「罪のない民を殺す男に、天下など獲れるわけがない。それを、あの荀文若はとがめもせず再び徐州へ行かせおった。身の内に獅子が潜んでいると考えもしないでな!」

 次々に兵士が入ってきて、白刃を突き付けられる。短く悲鳴を上げた母を見て、郭嘉はとっさに彼女の前に立った。

「どういうつもりだ!?」

「さあ、郭奉孝、答えを聞かせてもらおうか。お前が我らと共に天下を目指すと言うのなら、それ相応の地位をやろう。しかしお前が曹操に仕えると言うのなら……わかるな?」




 その夜、荀彧はなんとなく落ち着かない気分でいた。

 仕事が一段落してもなんとなく眠る気になれず、執務室の窓から月を眺めていた。

 昨夜、郭嘉が言っていた言葉がなんとなくひっかかっていた。

 陳宮が、郭嘉に張邈に仕官するよう薦めた。そして、最近妙に近しいように見える、陳宮と張邈の関係。濮陽に穀を蓄えようとしていたことも、気にはなる。

 何か、たくらんでいるのか。

 しかし陳宮が曹操に不満を抱くのはわかるが、張邈が曹操と対立するとは思えない。仮に陳宮が張邈をそそのかしたとしても、そもそもあの二人で曹操に勝てるはずもない。大した兵もないし、寡兵で曹操に勝てるだけの軍略もないはずだ。そもそも、陳宮とて張邈が曹操と親しくしていることを知っているはずだから、反旗を翻すとしても張邈を巻き込むとは思えない。

 どう考えても彼らが反旗を翻すなどあるはずのないことだった。

 それなのに、どうも落ち着かない。

 いっそ、隠密に陳宮と張邈を調べさせてみるか。しかしそれも、もし彼らに露見すれば厄介なことになりかねない。

 悶々と考え込んでいると、足音が近づいてくるのが聞こえた。それも、駆け足だ。

「申し上げます! 陳留の張邈様より使者でございます。呂布将軍が曹使君(曹操)に援軍として赴くため、まもなくこちらに来られるとのこと。遠征のための兵糧を提供してほしいので、城門を開けて補給をさせてほしいと申し出ております。どうなさいますか?」

 なぜ、ここで呂布の名が出てくる。

 そう自問した瞬間、脳裏に呂布と話しながら廊下を歩いていた陳宮の姿が浮かんだ。さっと血の気が引く。

「それは偽報だ! 決して門を開けるな!」

 荀彧が突然怒鳴ったので、伝令が目を丸くしている。

「急ぎ元譲殿に伝令を。呂布が兗州内をうろついて、鄄城を狙っている可能性がある。あと――」

 濮陽の様子を確認しろ。そう言いかけて、荀彧は口をつぐんだ。陳宮が一枚かんでいるかもしれないと思うのは荀彧の勝手な想像だ。ただ、あそこまで言ったのに張邈が呂布を援軍に寄こすとは考えられない。

「使者は誰だ? 単なる伝令か?」

「いえ、劉翊様です」

「子相(劉翊の字)殿……?」

 清廉の士として有名な人物だ。曹操に仕えているわけではないが、濮陽に滞在していると聞いていた。先だって、徐州の一件で荀彧に曹操とは袂を分かつよう薦めてきた人物でもある。曹操が徐州でしたことを、激しく批判する内容の書簡だった。

 それが、なぜ張邈から送られた呂布の使者なのか。

 劉翊が特別張邈や陳宮と親しくしていた、という記憶はない。ただ、徐州のことを批判していたのは確かだ。彼のように表立って荀彧に意見できた者など少ない方だろう。多くは、荀彧や曹操の耳に届かないところでそういった話をしていたはずだ。

 曹操に不満を持つ者、また徐州での虐殺に幻滅した者たちを、陳宮がうまく糾合したとしたら――

「城門は決して開けるな。それを徹底しろ。わたしが城楼まで行って使者殿と会う」

 返事をして伝令が走っていく。

 荀彧が城門へ向かおうと府の中を足早に歩いていると、途中、程立と出くわした。

「文若殿、どうした? 妙に騒がしいが」

「仲徳殿。もしかしたら……謀反かもしれません」

 荀彧は程立に体を寄せ、小声で言った。程立がぴくり、と眉を動かす。ここで叫ばないのは彼の年の功だろうか。

「呂布が殿の元へに援軍に赴くので兵糧を寄こせ、という使者が張邈殿から。ありえません。ただ、わたしには張邈殿が殿に反旗を翻すとは思えないのですが」

 程立がふむ、とうなり、腕を組んだ。

「わからんぞ。人の内心なぞ他人には見えぬものだ。先だっての徐州のことで、殿に反感を抱くものは多かろう。誰かがそれを糾合したとすれば――」

 お互い見つめあってうなずいた。

「わたしは、使者に会いに城門へ行ってきます。門は開けず、城壁の上から話すつもりです。もしかしたら城内にも反乱に加担したものがいるかもしれません。城の中の把握をお願いしてもいいですか?」

「任せよ。気をつけるのだぞ」

「仲徳殿も」

 府を出ると、夜だと言うのに兵たちは落ち着かない様子だった。そこにきちんと隊伍を組んで待機するように言い、通りに出る。こちらも、兵が多い。

 どこまでが味方で、どこに敵が紛れているのかわからないのが怖い。

 武官のほとんどは出払っているか夏侯惇のところだし、鄄城に残っている文官ではっきりと曹操に反感を持っている者は思いつかない。ただ、程立の言ったとおり、人の内心などわからない。程立だけは、曹操に背くことはないだろうと思えるのだが。

 城門に着くと階を登り、城門の上から門前に立つ使者を見下ろした。

「これは、子相殿。あなたが張邈殿の使者として来られるとは、夢にも思いませんでした」

 夜目でよくわからないが、かがり火に照らされた劉翊の顔は少し焦っているように見えた。

「これは、文若殿。わざわざお越しいただきかたじけない。しかし、これはどういうことか? なぜ城門を開けては下さらぬのか。じき呂将軍がいらっしゃるというのに」

「城を乗っ取ろうという鼠賊を前に、城門を開くような愚か者はいないと思いますが?」

 荀彧が静かに告げると、劉翊は目に見えて動揺した。

「な、何を言って」

「そもそも、あなたはあれほど殿が徐州で()()()()()をくだされたことを批判しておられた。にもかかわらず、今呂布をして、徐州に援軍に行かせようという。行動が矛盾しすぎですよ。徐州に攻め込むことにあなたが賛成していたとは、初めて知りました」

「そ、それは」

「あなたをここに遣わしたのは、同郷の士大夫を持ち出して、わたしを油断させようという考えでしょう。鄄城を落とせば、兵と物資が手に入るとでも思ったのでしょうね。どなたの策ですか? 張邈殿? それとも陳宮殿? 悪名高き呂布殿は、到底こんな策を弄せるような頭は持っていないでしょう。それとも、あなたが首謀者ですか?」

 眼下の劉翊はあからさまに舌打ちして、荀彧を見上げてきた。

「ふん、やはり一筋縄ではいかぬか。しかし、文若殿、覚悟しておくことだ。今に兗州全土が曹操に反旗を翻すことになるぞ。そなたもあのような男にはさっさと愛想を尽かしてこちらについた方が身のためだ」

「兗州全土? どういう意味です」

「そのままの意味よ。こちらには、濮陽があるのだからな!」

 それだけ言うと、劉翊は馬首を返して去っていった。

 劉翊の姿が遠ざかっていくのを視界の端にとらえながら、荀彧は血の気が引いていくのを感じていた。

 濮陽には、兗州各地の豪族や県令などの家族が滞在している。扱いはもちろん賓客としてのものだったが、半分は人質として、だ。もし濮陽が反乱側の手に落ちたとなれば、その人質は丸ごと、反乱側に渡ることになる。しかも、鄄城で働く幕僚の一部にも、濮陽の方が住みやすいというので濮陽に家族を住まわせている者がいる。彼らもまた人質にされるとなれば、離反者が増えるかもしれない。

 そして、濮陽が反乱側についたということは、濮陽にいた陳宮が、やはり反乱に加担していると見るべきだ。彼の兗州内での名声は高い。人質と相まって、兗州全土が陳宮になびくというのも、十分あり得る話だ。

 荀彧は兵たちに門を堅守するように言い置くと、足早に府へと戻った。




 濮陽の府の奥まった一室に、郭嘉は座っていた。

 特別、手を縛られるとか、白刃を突き付けられているという状況ではない。室も牢獄ではなく、ただ出入り口が一つしかない広い部屋、というだけだ。入り口に兵士が数人立っている以外には、特に剣呑なものは感じなかった。

 邸で兵に囲まれて剣を向けられては、さすがに逆らうことはできなかった。

 臣従するつもりはないと断ったが、それならば、と郭嘉は一人邸から連れ出された。兵士に連行されて来てみれば、城の奥の一室に押し込められた。

 官吏の居住区からは、同じように連れだされた者がいたようだ。部屋にいるのは数十人というところだ。男女関わりなくいるが、年配の者が多い。おそらく、兗州の豪族や官吏たちの父母だろう。

「手荒な真似をしたこと、ひとまずはお詫び申し上げよう」

 部屋の入り口に立っている陳宮が言った。言葉とは裏腹に、いかにも居丈高な、高圧的な言い方だ。

「薄々お察しかもしれないが、ご説明申し上げよう。これからこの濮陽は、こちらの張邈殿のものとなる。張邈殿は元々陳留にて四海を睥睨しておられた英雄だが、先だっての曹操の悪辣な所業を見て、世を糺さんと立ち上がられたのだ」

 陳留の隣に立つ五十歳くらいの男がおそらく張邈だろう。文人の格好をして立っているその姿は、確かに君子らしく見えないこともない。ただ、彼は陳宮にそう紹介されても口を開くことはなかった。ただ黙って立っているだけだ。

 郭嘉が気になったのは、むしろその隣に立つ偉丈夫だった。

 こんな大きな男は見たことがない、と言いたくなるような背の高い男だ。筋骨隆々として、具足を纏ったその姿はまさしく一騎当千と謳いたくなるような姿だった。

「これより我らは、張邈殿の指揮の下、こちらの当世無双の豪傑、呂布殿のお力を借りて、義にもとる行いをした曹操を屠る! そのため、まずはこの兗州の地が必要なのだ。それで、諸君にご協力願いたい」

 ――あれが呂布か。

 董卓を斬ったくせに、長安をまとめられず追い出されたという武将だ。いきさつから判断してなんとなく小物を想像していたのだが、武将としてはかなりのものだったようだ。今まで見た誰より、強そうだ。

 じっと見つめていると、呂布と目が合った。目が合うと言うより、睨みつけられたという方が正しい。その眼力で瞬時に背筋が凍った。

 曹操ともまた違う。誰かと目が合って、こんなにぞっとしたのは初めてだった。

「これから、私は檄文を兗州各地に送るつもりだ。ついては、そこにあなたがたに一筆書き加えてほしいのだ。あなたがたがここにいること、そして、我らに協力する、ということな」

 要は、人質がいるのだから黙って従え、と各地の豪族たちに通達する、ということらしい。

 室に座っていた者たちが困ったように顔を見合わせ始める。それに、陳宮は穏やかな声で言った。

「そもそも、あなたがたも曹操の治世には納得いかない部分も多かろう。突然黄巾賊を受け入れろなどと無茶なことを言ってみたり、徴税はやたらと厳格で豪族が手心を加える余地もない。そのうえ開墾政策でやたらと各地から流民が流入してくる。それもこれも、きれいごとばかりで現実を見ない曹操と荀彧の無茶な施策がもたらしたことだ。我らは、もっと現実に即した治政を行っていくつもりだ。もちろん、それには諸君らの協力は欠かせない。曹操のように、諸君らを下僕のように扱うつもりもない。兗州の豪族には豪族のやり方があるというものだ」

 滔々と陳宮の話は続いた。穏やかな声音で、いかに自分たちにつくことに利があるかを説明している。実際彼の言葉には説得力があるのか、聞きながらうなずいている者もいた。

 やはり、少なからず曹操のやり方は兗州の豪族に反発を招いていたようだ。

 陳宮の話が終わって筆と竹簡が用意されると、皆特に抵抗もなく書簡を書き始めている。

 そんな中、自分の周囲にいる者たちには竹簡が用意されていないことに気づいた。皆きちんとした文官の格好をしている。もしかして陳宮に加担しなかった曹操の幕僚たちだろうか。そう思っていると、その中の一人が声を挙げた。

「公台! 貴様こんなことをしてどうなるかわかっておるのだろうな!」

 五十過ぎくらいの白髪交じりの男だった。臆することなく陳宮に怒鳴りつける声音は低く、迫力があった。

「これはこれは孝先(毛玠の字)殿。あなたこそそのようなことを言わず、今後のことを考えられてはどうか? いかな曹操と言えど、兗州全域を失ってはその兵を保つこともできないでしょうからな」

「孟卓殿! あなたもあなただ! 私はあなたを見損ないましたぞ! あそこまで殿を支えておられながら、なぜ今このような」

 次いで怒鳴りつけられた張邈は、そしらぬふうで孝先と呼ばれた男から目をそらした。だが、反論はしない。

 その後も、孝先という男は陳宮の側にいる男たちを一人一人罵っていった。顔色を変える者、変えない者様々だ。だが、誰一人態度を変える者はいない。

 一通り罵り終わった後、孝先という男がぜいぜいと肩で息をする。それを、陳宮は楽しげに見下ろした。

「状況は飲み込めましたかな、孝先殿? 我ら、決して思い付きで立ったのではござらん。貴殿もご存じの通り、曹操は己の私怨のために何十万という無辜の民を虐殺するとんでもない輩だ。愛想を尽かさない方がどうかしていると思いますがな」

「ふん、ご大層なことを言って、貴様の動機はどうせ文若殿に勝てぬから、自分が操れる主が欲しいとかそんなところであろうが! 貴様ら、わかっておるのか! お前らをそそのかしておるのはこんな狭量な男ぞ! 真に天下を思う殿に敵うわけがない。いざ殿に負けた時、(うぬ)らはくだらぬ保身で反乱に加担したこと、必ずや後悔するぞ!」

 孝先という男が陳宮の後ろの立つ文官たちに怒鳴りつけたが、誰もが視線をさまよわせるだけで、反論はしない。

 やる気があるのかないのか。

 郭嘉が胡座をかいたままぼんやりと見ていると、陳宮が郭嘉に目を留め、歩み寄ってきた。

「小僧、どうだ、気は変わったか? 兗州全域は間もなく我らの手に落ちる。そうなれば、曹操など風前の灯火。いずれ露と消え去ることだろう。我らに加わったほうが何かといい思いができると思うがな」

「は、冗談じゃないね。文若殿に地位を奪われたからってバカ担いで反乱やるような奴に、誰が従うかっつーの」

「口の減らない小僧だ。ではどうする? 荀彧に助けでも求めて文を書くか? 何なら筆を貸してやるぞ」

「それなんか意味あんの? 俺がここにいるって知って文若殿が俺のために何か躊躇するとでも?」

 陳宮は小首をかしげ、薄笑いを浮かべてうなずいた。

「なるほど、あの男はそのような情に動かされる男ではあるまいな。曹操のためなら平然と友を切り捨てるくらいのことはするだろう」

「ま、俺、文若殿とそんな仲いいわけじゃないけどね」

「ならば尚更だろう。いいか、もう一度言うぞ。ここで曹操は兗州を失った。寄る辺を失った曹操など、早晩露と消えよう。そんな男にまだ仕官するとでもいうのか? 翻って、我らは一晩で兗州全土を手に入れた。それも何の犠牲も払わずに、だ。どうだ、我が智謀、なかなかのものであろう」

「は、あんたおめでたい頭してんな。ひっかきまわして水面に起きた泡なんて、それこそ一瞬で消えるさ。いくら人質を取ったからって、兗州全域、あんたに服従するわけがない」

「そう思うか? ならばしばらくここで事態の趨勢を見守っているがいい」

 陳宮は兵士に人質たちを見張るように言い置くと、室の入り口へと戻っていき、今度は呂布たちと話し合いを始めた。

「おそらく、鄄城、東阿はそうやすやすとは我らの側には落ちますまい。鄄城には荀彧たちがおりますし、東阿は程立の郷里。県令も奴の息のかかったものだ。私は兵を率いて東阿に行ってまいります。呂将軍、あなたには鄄城を攻めていただきたい。今、劉翊殿という荀彧の同郷の男が先行しております。彼がうまくやれれば城門を開けるでしょうから、落とすのはたやすいはず」

「任せろ。文官だけの城など簡単に落としてやる!」

「頼もしいことですな。ただ、城外には夏侯惇が二万の軍を率いて駐屯しています。重々気を付けられますように」

「わかった。で、どうするのだ? もし鄄城を落としたら、曹操が帰ってくるまでにもっと他の城市を攻めるか?」

「他の城市は、おそらくこれから送る書簡でほぼ我らになびくことは間違いないでしょう。書簡を送るついでに各地に我らの手の者をやり、城を把握させ、守兵を援軍としてこちらへ送らせます。将軍には鄄城を落としたあと東平に向かっていただき、徐州からの街道を断ち切っていただきたい。おそらく曹操はそちらから戻ってくるはずです」

「東平だと? しかし、鄄城を落としてオレがそっちの方へ向かったら、濮陽はどうなるのだ。お前は東阿を攻めるのだろう? 兵のいなくなった濮陽を、夏侯惇に取られるのではないか?」

「こちらにも守兵を残して、門を堅守します。それは、孟卓殿にお願いしたい。よろしいですかな、孟卓殿?」

「わかった。しかし、私は兵の指揮はとれぬが」

「心配いりません。鄄城ほどではありませんが、濮陽の城壁も堅固。しかも、濮陽の兵は私に心服していますから、必ずや曹操の兵から城を守ります」

「それならばいいが」

 張邈が戸惑いを浮かべ、陳宮を見、そして呂布を見た。

「心配ないぞ、孟卓殿。要は、夏侯惇を蹴散らせばいいのだ。オレが何とかしてやる!」

 任せろ、と言って呂布は室の外に出て行った。その後ろ姿を、張邈がじっと見つめている。どこかまだ、不安そうな眼差しだ。

「孟卓殿。ご心配なく」

 その張邈の肩を叩き、陳宮がにやりと笑う。

「呂布殿の武と、あなたの徳、そして私の智謀があれば、曹操など赤子の手をひねるようなものですよ」

 陳宮は同じく室に控えていた文官たちに向き直り、言った。

「そなたたちは書簡が整い次第、各地の城市に向かうのだ。城が帰順したら、手筈通り守兵を把握してこちらに。よろしいな」

 文官たちがうなずくと、陳宮はそのまま室を出て行った。

 残ったのは、人質たちと、張邈、そして文官たちだった。

 沈痛な面持ちの張邈とは裏腹に、文官たちはいまいち締まらない印象だ。呂布はすごいなとか、これなら勝てるんじゃないかとか、入り口の近くで雑談をしていた。

 反乱と言うのはもうちょっと緊張感をもってやるものなんじゃないだろうか。なにも人質の前でぺらぺらしゃべらなくてもいいだろうに、と思うのだが。

 悪戯心が沸いて、郭嘉は声を挙げた。

「それにしてもあんたたち、すごいね」

 郭嘉が言うと、文官たちが郭嘉を振り返った。

「あの曹操殿に反旗を翻そうって言うんだろ? 百万の賊徒を数万でやっつけちゃうような、十万の袁術軍が恐れをなして逃げ惑うような、徐州の十城数日で抜いちゃうような、とんでもない戦上手を相手にさ。兗州全域が曹操殿に反旗を翻したって、曹操殿は十万くらい徐州に連れてってんだろ? きっと反乱が起こったって聞いたらすぐに取って返してくるぜ。もちろん、勝てる算段ついてて反乱起こしたんだよな? 俺、楽しみにしてるよ。当世きっての戦の天才相手に、あんたらがどんなものすごい軍略で勝つのか」

 郭嘉が言葉を重ねる度、文官たちの顔色はどんどん変わっていく。

「そうそう、文若殿に聞いたところによると、曹操殿がブチ切れたのってどっかの城が最初は好意的に門を開いたくせに、その後不意を突いてだまし討ちをしたからだってね。そこから裏切り者は全部殺せってなったとか。下手したら、今度大虐殺が起こるのはもしかしたらここかもな。あんたたち、ちゃんと激怒した曹操殿をはね返せるだけの準備してんの? その顔見てると、どうも心配になってくるんだけど」

 文官たちが青ざめて顔を見合わせている。それを、郭嘉は笑った。

「このくらいのことで青ざめてどうすんだよ。首と体がおさらばする覚悟もないくせに、あの曹操殿に反旗翻したのか? こりゃ次に死体でせき止められるのは河水かもな」

 やれやれ、と首を振って見せる。文官たちと同じく青い顔をして押し黙る張邈に目を向け、郭嘉は言った。

「特に、そこの張邈って人。あんた、曹操殿の無二の友なんじゃなかったっけ? 文若殿が言ってたよ。曹操殿が徐州から帰ってきた時あんたの胸で泣いてるのを見て、自分はまだまだって痛感した、って。そこまで信頼されてる人が、よくも曹操殿を裏切れたもんだ」

 かっと張邈が睨んでくる。それに目を細め、郭嘉は微笑んだ。

「曹操殿が帰ってきたら、あんたは間違いなく八つ裂きだろうな」

 張邈が何かを言いかけ、やめる。彼は音がしそうなほどきつく歯噛みすると、一言だけ、絞り出すように言った。

「もとより、覚悟の上だ」

 素早く身を翻し、室から出ていく。やはりその姿は四海を睥睨する英雄、には見えなかった。


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