18:<郭嘉編>嵐の前の静けさ(後編)
郭嘉は結局母について荀彧に会いに行くことに。
曹操が出陣したと聞いてから半月ほどして、母が鄄城へ商談に行くことになった。
結局、郭嘉はそれについていくことにした。一つは荀彧に話したいことができたこと、そしてもう一つは、曹操がいないならいきなり仕官にはならないだろうと踏んだからというのもある。
日が昇ってすぐに濮陽を出て、鄄城に着いたのは昼すぎだった。
濮陽から鄄城までの街道はかなり人が多かった。まるで戦など嘘のように商人や旅人が行きかっている。
濮陽の繁栄ぶりからすれば、鄄城もさぞかし繫栄しているのだろう。そう思って分厚く高い城壁をくぐったのだが、中に入ってみるとそこは、街というよりは要塞という雰囲気が強かった。行きかう人間はほとんどが兵だ。市もあることはあるようだが、濮陽に比べればぐっと規模が小さい。
府に入ると、今度は文官の姿も見かけるようになった。皆きびきびとせわしなく動いている。時折女官ともすれ違った。
冀州の袁紹のところとはまた違った雰囲気だった。なんとなく、官吏の表情が引き締まっている。忙しいからなのか、それとも主が戦に明け暮れているからだろうか。
いくつかあるらしい客間の前では、商人らしい男たちがちらほら見られた。順番待ちなのかと思ったが、母はすぐに客間へと通された。
こちらでお待ちを、と言って、先導した女官が去っていく。彼女は室を出る直前に、ちらとだけ郭嘉の顔を盗み見て出て行った。
府の入り口で、母は「隣にいる若い男は誰だ」と聞かれて「息子です」とすでに答えている。おそらく、不審者だとは思われていないと思うのだが。
「あの女官、奉孝殿のことが気になるようですね」
「みたいですね。いつも一人だったんでしょ? だからじゃないですか?」
郭嘉の言葉に、母は苦笑しながら言った。
「奉孝殿、覚えておくといいですよ。こういうところに勤めに出る女官はそこそこの家柄の、そこそこ教養のあるお嬢様が多いのです。皆、なぜ出仕するかというと、婿を探しに来るのですよ」
「は?」
「若い男が珍しかったのかもしれませんね。ここの幕僚の方々、皆三十は過ぎた方が多いから」
郭嘉は今日、文人らしい格好をしてきている。新しく仕官しに来た者のように見えたのかもしれない。
「いや、まさかそんな」
「お前は亡くなった旦那様に似て見目も悪くないし、出仕すればさぞかしもてると思いますよ。私としては、お前にそろそろ妻帯してもらいたいところですし、ちょうどいいのではないかしら?」
「なんですか、ちょうどいいって。俺はまだ結婚なんて」
「濮陽に着いてから、何度か妓楼に遊びに行っていたでしょう?」
知らないとでも思っていたのですか? と笑顔で切り返され、郭嘉は思わずひるんだ。
「そんな、商売女にお金を使うくらいなら、私は二人でも三人でも気に入った娘をそばに置いた方がよっぽどいいと思いますよ。子もできますしね」
母親とこんな話題はしたくないし、したこともない。今までこんなことを言ったことなど一度もなかったのに。
郭嘉はどう答えていいかわからず、顔をそむける。それでまた、母が笑った。
「縁談、探してきた方がいいかしら?」
「勘弁してくださいよ。ただでさえ仕官の話で頭いっぱいなのに」
「では、仕官が決まるまで待ちましょう」
母は至極上機嫌だ。一層気まずくなってしまって、郭嘉は荀彧が来るまで母に背を向けて口をつぐんでいた。
しばらくして、早い足取りで近づいてくる音が聞こえてくる。ここの官吏はせわしない奴ばっかりだな、と思っていると、その足音はいよいよ近づいてきて、そのまま室に入ってきた。
扉が開き、すらりとした男が入ってくる。息を弾ませ、信じられないものでも見るかのように郭嘉を見つめた彼は、すぐに相好を崩した。
「奉孝殿、やっとその気になってくださったのですね!」
荀彧だ。しかしまさか、彼がそんな大急ぎでやってくるなんて想像もしていなかった郭嘉は、駆け寄ってきた彼に手を取られ、思わずのけぞってしまった。
「え、あの、俺、まだ」
「さっそく鄄城に邸を用意しましょう。あなたのようなできる方が来てくださって本当に助かります。今は折悪く殿は出征しておられますが、帰ってこられたらすぐにでも」
「いや、だから文若殿! 俺、まだ仕官するとは言ってない!」
「え?」
ぱちくりと、荀彧が目を丸くする。掴まれた手をそっと外させると、郭嘉は姿勢を正した。
「仕官しに来たんじゃないですから」
「では、何をしに?」
「文若殿に言いたいこととか、聞きたいことあって。こんなでもなきゃ、なかなか時間作ってもらえないだろうと思って」
荀彧は怪訝そうに小首をかしげると、一つうなずき、奥の席に座った。
「仕官する前に聞いておきたいことがあるということですか?」
「まあ、そんなところです。そりゃ、本当なら曹操殿に直接聞くのが筋なのかもしれないけど、俺、そんな伝手ないし」
「殿は、これはと思う方とはいつも二人きりで話され、その上でどのような仕事を任せるかお決めになる方ですよ。ですから、望めばそれは可能でしょうが、なにせ殿は今出征されていますからね。ともあれ、わたしも日中は忙しいので……」
荀彧は口許に手を当てて少し考える様子を見せた。
「どうでしょう。府内に部屋を用意させますから、今晩泊っていくというのは。日が暮れればわたしも仕事が一段落するでしょうから、わたしの房で一緒に食事でもしながらゆっくり話しませんか?」
「それは、喜んで。ありがとうございます」
郭嘉がうなずくと、荀彧は母へ目を向けた。
「燕杏殿には申し訳ありませんが、城下の宿に泊まっていただけますか? わたしが府内に女性を泊めたとなると要らぬ疑いをかけられることにもなりかねません」
「もちろん、心得ております。お気遣い感謝いたします。それはそうと、予州で集めている穀と、今年の作柄の見込でございますが――」
そこからしばらく商売の話になった。今母が予州で穀を買い集めているが、旱魃で値が高騰していること、今年は旱魃がひどく、収穫は少なくなりそうなことなどを話し、いくらで取引するか、運ぶのに必要なのはどれだけの兵なのか、というところまで。時には雑談を交え、商談は二刻程(約三十分)で終わった。
終わるなり、荀彧は女官に郭嘉へ部屋を用意するように指示したようだ。彼自身はすぐに次の来客があるらしい。
「では奉孝殿、また夜に。迎えに行かせます。ゆっくりしていってください。なんなら、府の中なり街の中なり、見ていくといいですよ」
母と別れ、客間へと案内された。移動の疲れもあって、なんとなく昼寝をしているうちに日が暮れていたらしい。呼ばれた時、郭嘉は牀の上だった。
呼びに来たのは女官ではなく、今度は若い男だった。どうやら荀彧の従僕らしい。
慌てて軽く身なりを整え、荀彧のところへ向かった。
若い従僕について歩くうち、どんどん官舎の奥の方へと入っていった。途中、何度か身分のありそうな文官とすれ違い、その度に視線を感じた。
――俺、ここ来て大丈夫なのかな。
明らかに、部外者が入っていい範疇を越えている気がする。かなり奥までやってくると、従僕はようやく「こちらです」と言って房の一つを示した。
「いらっしゃい、奉孝殿。お待たせしましたね」
入ると、荀彧がすでに中に入って待っていた。郭嘉が座ると、すぐに食事が運ばれてくる。
「酒はでませんが、話をしたいというならその方がいいでしょう。たいしたおもてなしもできませんが」
膳に並んだ食事は特別豪勢ではなかったが、郭嘉には十分な量だった。
礼を言って口をつけると、ふと荀彧がまじまじと見つめてきていることに気づいた。
「また、印象が変わりましたね。三年ほどぶりでしょうか? 少し日にも焼けて、なかなか凛々しい印象になりましたね。もうあなたを病弱などと思う人はいないでしょう」
「そうですか? 文若殿は少しやせましたね」
前はもう少し穏やかな御曹司らしい雰囲気が強かった気がするが、今の彼はどこか怜悧さが強い。ふわりと微笑んでも、その瞳には強い光が宿っているような気がした。
「激務ですからね。妻にも言われていますよ。仕官して、太るならともかく痩せるなんて無理をしすぎではないかとね。わたしとしては、これでもまだましになったほうだと思うのですけど」
そこから、荀彧は仕官してからこれまでのことを軽く説明してくれた。最初は文官の数も少なく、やることが多くてほとんど家には帰れなかったらしい。青州黄巾賊を吸収したあたりから人が増え、仕事の量も増えたが、相対的に荀彧は少し余裕ができたらしい。
「それでも、一番大きいのは戯志才殿が来てくださったことかもしれませんね。戯志才殿、ご存じですか? 潁川の、兵法に関しては当代並ぶもののない智者だと思うのですが」
「知ってます。一回、公則(郭図の字)がうちに連れてきたことありましたよ。大昔ですけど」
「その志才殿が、殿のお気に入りなのですよ。以前ならば仕事が終わってからほとんど毎日、殿と夜通し色々なことを話しあっていて、家に帰れないこともざらでした。ところが、志才殿が来てから殿の話し相手はもっぱら志才殿になりましてね。おかげで、最近は家に帰ることができていたんです」
軍務以外の話でたまに呼ばれることもありますけどね、と荀彧は言った。噂の戯志才は相当曹操の寵を得ているようだ。
「すごいですね、そんな気に入られてるんだ、戯志才殿」
「ええ。ただ彼は、本当に軍略にしか興味がないので……。わたしとしてはもう少し広い視点を持ってくれればと思わないでもないのですが。それで、奉孝殿はどうしていたのです? 冀州から、大方劉表のところへ使者に出たのでしょう? わたしたちを、出し抜くためにね」
にっこり笑って言う荀彧の眼差しが怖い。思わず郭嘉は彼から目をそむけた。
「いや、まあ、結果的にはそうなんですけど」
「あなたの狙いはどの辺にあったのですか? 劉表と袁紹の同盟? それとも、袁術の滅亡でしょうか? 袁紹がそれを望んでいたのですか?」
「その前に、文若殿は、どうして俺が使者に出たって知ったんですか?」
「わたしの情報網を見くびってもらっては困ります。各地に知人友人がいますので、彼らが色々なことをわたしに知らせてくれるのですよ」
「ああ、なるほど」
「で? こんなにお願いしているのにわたしの仕官の誘いを無視してまで、どうして袁紹の使者の任を?」
相変わらず、荀彧の頬には微笑みしかない。ただそれが、郭嘉には無性に恐ろしかった。
「いや、俺はまじめに働くつもりなんかなかったんですよ。ただ、公則に言われて軍議に参加してるうちに、なんか目を付けられちゃって。しかも田豊っていうやつが、まじめにやらないなら殺すみたいなこと言い出すし。それで、使者にでもなれば冀州を出られるかなって思って」
「病で郷里に帰ると言えばよかったのでは?」
「そのつもりだったんですけど、出てくなら相応のことも考えなければいけないとかなんとか言われて」
ふうん、と荀彧が小首をかしげた。
「袁紹のところにも、そこまでしようとする者がいるのですね。田豊殿とはわたしも多少面識はありますが、そこまで……。もちろん、奉孝殿を見込んでのことでしょうけど」
「俺、そこまでのことしたつもりないんですけどね。でも、冀州を出た時は俺、結構名案思いついたって思ってたんですよ。劉表をけしかけて袁術を攻めさせれば、曹操殿と挟み撃ちで袁術はつぶれて、空いた予州を曹操殿が獲れるだろうって。青州黄巾賊を降したばかりできっと土地にも糧食にも困ってるだろうから、ちょうどいいだろうと思ったんですけど」
荀彧を見ながら言うと、彼はそうですね、とうなずいた。
「当時、確かに土地も物資も足りなかったのは確かです。ただ、袁術につぶれられては困るのですよ。そうなると、袁紹の矛先がこちらに向きかねない。公孫瓚と相争っているとはいえ、そちらはじきに決着がつくでしょうし」
「そうかな? 俺は、そうは思わないけど」
荀彧が意外そうに見つめてくる。
「そうですか?」
「ええ。なんだかんだ公孫瓚は強いし、劉虞を倒して士気も高いと思いますよ。袁紹はその点、力を温存してはいるけど、なにかと愚図だし、できるだけ被害を少なく勝とうとするところがある。多分、直接ぶつかり合う前に誰か使おうとするんじゃないかな。さしずめ、辺境の蛮族に進物でもして、劉虞の敵討ちさせようとするとか。自分は劉虞が死ぬの黙って見てたくせによく言うよって感じですけど、袁紹ってそういうの、平然とやる男だから」
「まさしく、今そういう情報が入ってきていますよ。劉虞殿の息子を担いで、蛮族を動かそうとしているのではないか、と」
「てことは、そいつらにしばらくやらせてから自分が攻めるって感じでしょう。多分、一年じゃ決着はつかないんじゃないかな。直接ぶつかってもそう簡単には決着はつかないでしょう。それで勝てるんなら、何年か前にぶつかってた時にもう勝っててもおかしくない」
被害を少なくとか、できるだけ楽に勝とうとか、発想は悪くはないと思うのだが、場合にもよるだろう。袁紹のやり方は、なんとなく策士策に溺れるという言葉を連想させる。どこか詰めが甘く、策を生かし切れてもいない。
「本当に簡単に勝とうと思うなら、劉虞と結んで、最初に公孫瓚を叩いておくべきだと思ったんですけどね。でも、それを公則に献策させようとしたら、袁紹は劉虞にいい感情持ってないから無理だ、って。天下を獲ろうって奴がそんなんでどうするんだよって思うんですけど」
「辛辣ですね。ですが、そこは同感です。袁紹は無難ではありますけど、天下を狙うにはいささか足りない、と思いました。その点、我が殿はすばらしい軍略をお持ちですよ。なにせあの軍略においては並ぶもののない志才殿が韓信・陳平にも劣らぬ軍略の持ち主だ、と心酔して臣従を決めたくらいですからね。もちろん、殿は軍略だけがすばらしいわけではありませんけど」
そういう荀彧の顔にはてらいなど全くない。自信満々、本気でそう思っているらしいことが見て取れた。
「軍師になりたいと言っていましたよね? それならば、殿の臣下になることをお勧めしますよ。志才殿が言っていました。どれほど兵法に通暁しようとも、それを使えるだけの将器がなければ意味がない、と。殿は、まさしく当世並ぶもののない将器をお持ちです。あなたの軍略を生かすに、これ以上ない主でしょう。それなのに、あなたはまだ仕官をためらっておられる。なぜです?」
その、戯志才がいるからだ、というのは少し情けない気がして、口に出すのははばかられた。なんとなく、負けを認めるようで気分が悪い。本人に伝わる心配のないところでは平気で言えたのに、いざ曹操のお膝元に来ると言葉に出せないのが不思議だった。
「一番は、徐州のことかな。俺、本当は母を潁川に連れて帰ろうと思って濮陽に来たくらいですから」
荀彧は眉をひそめたが、反論はしない。郭嘉は彼の目をじっと見つめた。
「文若殿はどう思ってんの? さすがにあんなことあって、全く影響ないってことはないでしょ」
「わたし自身は、殿にお仕えするのになんの疑問もありません。もちろん、驚かなかったと言ったら嘘になりますが。ただ、文官の中には、確かに今後を危ぶむものも多い。豪族たちも、多かれ少なかれ動揺しているでしょうね」
「なんか、結構軽い感じですね。もっと深刻なんじゃないんですか? 士大夫は結構ああいうの、気にするでしょ?」
「もちろん。ですけど、幸いなのは今のところ大きな影響は出ていないということです。最悪の事態を想定すれば、陶謙が殿を非難して、周囲の群雄に同盟を持ちかけることでしたが、今のところそんな動きは全くありません。陳留太守の張邈殿は殿が帰還なされた時にわざわざ殿を心配して駆けつけたくらいですし、袁紹は今回の出征に援軍まで出して殿を支持しています。陶謙は公孫瓚に近い群雄に援軍を要請したと聞きましたが、そんなもの、元々敵対していたようなものですから、大した影響はない。そして、ご覧になったでしょう? 兗州の治世は今のところ安定しています。市井の民にとっては、徐州でのことなど遠い世界のことなのですよ」
ふわりと微笑む荀彧の瞳には、はっきりとした自信が見て取れた。彼自身が全く揺らいでいないのは確かなことのようだ。
「母も、そんな感じのこと言ってました。商人が一人も逃げ出してないから、曹操殿がつぶれるってことはないって。でも、どうなんです? 幕僚の人とか、誰も何も言ってないんですか?」
「何も、とはいきませんけどね。殿を批判して、処断された人も、一人。ただ、わたしが思ったよりは、影響が少ないですね。今のところは」
今のところは。そして、処断された幕僚がいるらしいことも、郭嘉はひっかかりを覚えた。
「殺された人、いるんだ」
「ええ、残念ながら」
「曹操殿って、そういう感じの人なのかな。批判する部下殺すみたいな」
「いつもは鷹揚な方ですよ。部下の諫言はきちんと聞き入れ、最善と思われる策を選ばれる方です。ただ、殺された方はいささか言い方に問題があったようですね。殿を貶めるようなことをあちこち言いふらしていたとか。場合によっては謀反につながるようなことも言っていたということで、処断となっていたようです。もちろん、それでもあなたのように眉をひそめていた人はいますけど」
「他の幕僚の人たちは何も言ってないんですか?」
荀彧は少し考え、首を振った。
「わたしの知る限りでは、はっきり殿をお諫めした者がいるとは聞きません。わたしが何も言わなかったことも、大きかったかもしれませんね。多分、わたしが言わなかったので言い出せなかった、という方もいるでしょう。皆が皆、そうでもありませんけど」
幕僚の中で荀彧の影響力は絶大、ということだろう。荀彧が揺らがないなら、曹操も大丈夫だと思った幕僚も多かっただろう。
「でも、どうするんです? 仮にこれで徐州陥とせても、きちんと支配するのは難しいんじゃないですか? 徐州の民はさすがに、曹操殿を受け入れないでしょ」
「それは、確かに難しい問題ですね。ただ、不可能ではないと思っています。徐州の名士がすべからく殿に背を向けるとも限りません。どこにでも利で動く人間というのはいますからね。案外、そういう利害だけで動く人間というのは操りやすかったりもするのですよ。金さえ積めばこちらの言うことを聞くわけですから。相当緩い条件で徐州牧を任せると言えば、乗ってくる者もいるのではないか、と思っています。ただ、これはやってみないとわかりませんけどね」
「じゃあ、徐州のことはほとんど悪影響なしってこと?」
「そこまでは、言いませんけど」
荀彧は口許に手を当て、考える様子を見せてから、ふと微笑を浮かべた。
「そうですね、殿が天下を獲った後、史書には汚点を残すかもしれませんね。もちろん、その時の史家が殿に汚名を着せるだけの気概があれば、の話ですけど」
まるでもうそれが決まりきったことのように言ってのける。自信たっぷりの怜悧なまなざしに、郭嘉はもう苦笑するしかなかった。
「自信たっぷりなんだ。なんか、すごいですね、そんだけ主君を信じられるって」
「あなたも、お仕えしてみればわかりますよ。あれほど天下を獲るにふさわしいお方はいません。わたしは自分が本当に『王佐の才』などというものを持っているのかどうかはわかりませんが、ただ、それにふさわしい、然るべき主を選んだつもりですよ。当世あれほどの傑物は他には見当たりません。こういう言い方は憚りがあるかもしれませんが、時々天下を治めるべく天命を享けた方とはこういう方を言うのではないかと思うことさえ、あります」
荀彧の言葉は、本当に揺らぎない。心底曹操を信頼しているのだ。
ただ、傍から見ていると少し盲目なんじゃないか、という気もする。曹操が父の敵だからと言って徐州の民を殺しつくすような男だとすれば軽率だともいえるし、怒りを抑えられるだけの理性も持ち合わせていないのではないかとも思える。
荀彧がそこに気付かないとは思わない。わかっていて盲目を演じているのか、それとも本気で曹操にほれ込んでいるのか、郭嘉には見極められなかった。
「そもそも、文若殿ってどうして曹操殿を選んだんです? 当時、曹操殿ってほとんど袁紹の部将くらいの感じだったのに。会ったことあったんですか?」
「いえ、お会いしたのは東武陽に行って初めて、でしたね。ただ、評判は色々聞いていました。なぜ仕えたと言われれば、お会いしてみてこの人だ、と思ったのが一番大きいのはもちろんですけど、そのきっかけということなら、そうですね、やっぱり何伯求殿のお言葉が大きいかな」
「え」
聞き覚えのある名前が不意に出てきて、郭嘉は思わず声を挙げた。しかし荀彧はそれに気づかず、話を続ける。
「何伯求――何顒殿、ご存じですか? 人物評では高名な方で、わたしを王佐の才と評してくださった方でもあります。伯求というのは何顒殿の字なのですけど、その伯求殿が、殿のことをとても高く評価してらっしゃったのですよ。わたしがまだ洛陽にいたころ、そう、ちょうど董卓が洛陽を牛耳る直前のことです。その時、叔父の家に招かれましてね、そこに何人かの文人と共に、伯求殿もおられたんですよ」
荀彧は懐かしそうに、しかしどこか寂しげに微笑んでいた。
「当時、黄巾の乱はひとまずの落ち着きを見せたとはいえ、賊徒も絶えず、なんとなく乱の気配はしていました。朝廷では外戚と宦官の争いに袁紹が口を挟んでいて、何か始まるのではないかという予兆のようなものを皆感じていたのだと思います。その時に、この乱を治めうるのは誰だろう、という話になったのですよ。もちろん、真っ先に名前が挙がったのは袁紹でした。なかなかやりそうだから、案外袁紹が何進をうまく操って朝廷を動かすのではないかと。でも、そこに伯求殿が言ったのですよ。『本初(袁紹の字)にそこまでの器はない。おそらく、天下はじきにもっと乱れるだろう。その時、乱を治めうるのは曹孟徳一人に違いない』と、そうおっしゃって」
ふふ、と荀彧が楽しげに目を細める。
「意外でしたよ。伯求殿は袁紹とかなり親しくしていましたからね。それなのに、名を挙げるのは親友の袁紹ではなく、別人だったのですから。だから、伯求殿が殿を評していたのが、なんとなく記憶に残っていたのだと思います。曹孟徳は乱を治める激しさと知略を持ち合わせた当世きっての傑物だ、というようなことを言っていたかな」
「その伯求って人って、四十歳前後くらいの人?」
もしかして、と思って聞いてみたが荀彧はいいえ、と首を振った。
「いえ、生きていれば五十歳になるかならないかだったと思いますよ。そこまで若くは見えなかったと……。どうしたのです? 会ったことでもあるのですか?」
「いや、俺、荊州で何伯求って人と会ったから」
「いつの話です?」
「去年の年明けくらいかな。袁術が陳留に攻め入った時」
「ああ、あなたが荊州に使者に出向いた時ですね。では、別人でしょう。その時伯求殿はもう亡くなっています。董卓が死ぬ直前、董卓暗殺を企てて投獄され、獄中で自死を選んだと言う話ですから」
ということは、やはり郭嘉が荊州で出会った何伯求は偽名の別人だったということだ。ただ、彼の言っていた経歴と少し似通った部分はある。
「その、董卓暗殺って、あの王允と呂布がっていう?」
「いえ、また別だったようですよ。伯求殿は、先程の宴席でわたしの従子と意気投合して、他に何人か廷臣たちと語らって計画を立てていたと聞きました。ですが結局計画は漏れ、従子と共に獄に落とされたと聞いています」
「従子……?」
「小憎らしい話ですよ。いつも伯求殿に褒められていたのはわたしだったのに、結局、そういう重大なことに誘われたのは従子の方だったんですから。二人は董卓の乱が起こった時、わたしには早々に洛陽を出るようにと言ったんです。後で二人が暗殺を企てたのだと知った時、あてにされなかったのだと複雑な気持ちなりました」
もちろん、わたしが残ったところで大したことはできなかったでしょうけど、と荀彧がさみしげに言った。
「その、従子って人は? 一緒に死んだんですか?」
「いえ、従子は運よく董卓が死ぬまで生きながらえ、獄から生還しています。でも何を思ったか蜀郡太守を願い出たらしくて、今は半分行方不明ですよ。一体、どこで何をしているのやら」
――ああ、そうか。
腑に落ちた。
荊州で郭嘉が会った「何伯求」は、おそらく荀彧の従子だったのだろう。荀家の者だと名乗れば荀彧に所在を知られてしまうと思って偽名を名乗ったのだろう。獄中で死んだ仲間の名がとっさに出てきた、というところなのかもしれない。
「奉孝殿? どうしたのです?」
じっと考え込んでいた郭嘉を不審に思ったのだろう。荀彧に声をかけられ、郭嘉は首を振った。
「いえ、なんでも。文若殿の口から『小憎らしい』なんて人間らしい単語が出てくるのが意外で」
「どういう意味ですか、それは」
むっと眉を顰める荀彧の顔が珍しい。郭嘉は笑ってごまかしておいた。
「ああそうだ、俺、文若殿に言っておいたほうがいいと思ってたことがあって。陳宮っていう奴のことなんですけど、あいつ、なんか変じゃないかって思って」
「変?」
郭嘉は陳宮が母に穀を売ってほしいと言っていたことを告げた。荀彧より三割高く買うとまで言っていたことも。
「文若殿がケチだから三か月分の蓄えしかないとか、結構好きなこと言ってましたよ。なんか妙だと思って」
郭嘉が言うと、荀彧は口許に拳をあて、考える様子を見せた。
「備蓄が三カ月と言うことはないはずです。ひと月ほど前に各地の城市を確認した時は、濮陽には半年分は備蓄があったはずですからね。ただ、陳軍師が独自に穀を調達しようとすること自体は別に咎められるようなことではありません。兵糧は常に不足ですから。余裕があれば独自に蓄えるように、と各地の城市には通達を出してあります。それに、交渉の際にいい条件を引き出そうと少し大げさに言ったりすることも、なくはないと思いますよ。ただ、気になると言えばあえて燕杏殿に取引を持ち掛けることでしょうか。そもそも潁川から穀を調達するのは効率が悪いのですよ。あなたの母君は量が多いので成り立っていますけど、少量だと運ぶ手間の方が高くついて意味がなくなることもあります。それに、陳軍師は東郡出身。なんの縁故もない潁川の商人になぞ声をかけなくても、地元の兗州の商人にいくらでも伝手があると思うのですけど」
荀彧はしばらく考えてから、一つうなずいた。
「まあ、妙と言えば、妙かな。でも、もしかするとわたしの息がかかった者と思って半分嫌がらせという可能性もなくはないかと。お恥ずかしい話ですけど、あの方はわたしを目の敵にしているので」
「あの人、どういう人? 文若殿の政敵?」
「政敵だなんて大げさな。袁紹のところとは違って、我が軍はそんな悠長なことをしていられる余裕などありませんよ。ただ、わたしがあの方の地位を奪ってしまったようなところがあるので、目の敵にされているのです」
荀彧が来た当初は、陳宮が曹操の右腕のような地位にあったらしい。当時は治める城市も少なく、文官も少なかったので陳宮はほとんどの政務を一人でこなしていたのだそうだ。ところが、そこに荀彧が来て、曹操が次々と仕事を任せてしまった。陳宮は結局、東武陽を出るころには到底曹操の右腕とは言えない状況になっていたらしい。
「陳軍師も、なかなか人物ではあるのですよ。彼は城市を経営するのが実にうまい。東武陽も彼のおかげでかなり栄えたのだと、殿がおっしゃっていました。濮陽もそうでしょう? 多分今中原で最も栄えている街ではないかと思いますよ。それに、彼はわたしとは違って軍の指揮もできる。一度共に籠城したことがありましたが、指揮ぶりはなかなかのものでした。わたしだけだったら持たなかったかもしれない」
「でも、なんか感じ悪いですよね? あれじゃ部下がついてこないんじゃ」
くす、と荀彧が笑った。
「そういうところはありますね。特に武官を見下すので、武将の方々からはとても評判が悪いですよ。でも、案外と東郡の名士・豪族にはとても評判が高くて、彼が交渉ごとに出てくるとまとまりやすい。うまく、内と外で顔を使い分けているのかもしれません」
「ふーん」
どうやら嫌な奴ではあるが、陳宮はそれなりに認められた存在ではあるらしい。あれで、と思うとなんとなく腑に落ちないのだが。
「もしかすると、わたしの推挙と言うことで、奉孝殿にも陳軍師は冷たくあたるかもしれませんね。それは、覚悟しておいた方がいいかと」
「ていうか、もうそんな感じでしたよ。まあ、俺が嫌味言ったのもあると思うけど。そういえば、あの人妙なこと言ってましたよ。曹操殿に仕える気がないなら張邈は君子だから、そっちに行ったらどうだとか」
「張邈殿に?」
「変だと思いません? 普通、自分以外の主薦めたりするかな? あの人、曹操殿とも仲悪いとか?」
「それは……ないと、思うのですけど。ただ、その言葉は、覚えておきましょう」
何か思い当たる節でもあるのか、荀彧はじっと考え込む様子を見せた。




