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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
2.濮陽争奪戦
17/64

17:<郭嘉/荀彧編>嵐の前の静けさ(前編)

曹操の再出陣を前に、郭嘉は兗州へと向かった。母を潁川へと連れ帰すために。しかし郭嘉が思っていた状況とは違う方向に事態は動いていく。

 年が明けて三月、郭嘉は濮陽へと向かっていた。

 母を潁川へ連れて帰るつもりだった。兗州の状態自体は落ち着いているが、いつ何が起こるともわからない。そして、もし変事が起こるなら曹操が徐州へ出征した後だろう。噂では、曹操は夏になるまでには再び徐州を攻めると宣言しているという話だった。

 陽翟から許を経由して陳留まで至る道を馬で移動しながら、潁川が襲われて皆で逃げた時のことを思い出していた。あの時は傷ついた大勢の人に囲まれて、自分も重い体をひきずって、だましだまし動かしていた気がする。しかし今は、街道にはごく普通の旅人がまばらにいるくらいで、自分もまた、以前よりぐっと軽くなった体で馬に乗っている。頬をなぐ風は心地よくさえあった。

 いくつか経由した街もまた、三年前に見たものとは変わっていた。荒れていた潁川の街は復興し始めているし、兗州の街はどちらかというと戦の雰囲気が強かった。特に陳留を過ぎて曹操の勢力圏に入ると、その印象はぐっと強くなった。あちこちに兵がいて、きびきび動いている。ただ、その分街はそれなりに活気もある。

 曹操が徐州で殺戮を行ったせいでもっと兗州は不安定な感じがするかと思ったのだが、街だけ見ていると曹操の治世はなかなかのもののように思えた。

 濮陽もまた、城壁をくぐる前から街の活気が見えるようだった。濮陽の近くへ来ると、道行く人がぐっと増えた。荷を引く商人らしき者も多い。もちろん、きびきび動く兵士も多いのは同じだが。

 他の街同様に、城市の中に入るには名を名乗り、住人ならば住所を、旅人なら訪れた目的を言わねばならない。他の人たちに混ざって列に並び、郭嘉は城門での誰何(すいか)に素直に名を名乗った。

「郭嘉です。母がここに住んでて、会いに来たんですけど」

「住所は?」

 門番の声はそっけない。郭嘉は住所がわからないので、後ろに控えていた静に目を向けた。

「えっと、住所?」

「住所は――」

 静がすらすらと住所を言うと、門番の態度が目に見えて変わった。彼はしゃんと背筋を伸ばし、なぜか失礼しました、と言って帳簿を探し始めた。どうやら台帳と住所を照合するようだ。住所を探し当てると、門番は首を傾げた。

「ん? 名前は、なんでしたっけ?」

「郭嘉、ですけど」

「その住所に住んでいるのは郭ではないが」

「ああ、母上の名前になってるんじゃないかな。母親は燕杏だから、燕になってないですか?」

「ああ、それなら、確かに」

 言いながら、なぜか門番はじろじろと郭嘉を見てきた。なんだろう、と思い眉をひそめる。門番はひとしきり郭嘉を見た後、どうぞ、と言って通してくれた。

「なんだ? もしかして母上、有名人?」

「違いますよ。多分ですけど、住んでいる場所の問題ではないかと……」

「え?」

 静は何度か母を訪れて濮陽に来ているので、場所を知っている。彼について歩くうち、静の言っていた意味が郭嘉にも理解できた。

 城市の中は、いくつかの区画に分かれる。(やくしょ)のある区画、市場のある区画、というふうに。そして居住区もまた住む者の身分によって厳密に分けられる。農民の区画、商人の区画、そして貴族の区画というふうに。

 母が住んでいるという邸は貴族の居住区でも奥の奥、官吏たちの居住区にあった。その区画に入るにも門がある。呼び止められはしなかったが、門番たちはじっと郭嘉を見ていた。多分、見知らぬ人間が来たとでも思っていたのだろう。

 到着してみると、邸は小ぶりながらきれいに整えられたものだった。調度も結構上等なもののように思える。とても庶民が住むようなものではないし、母があえてそんなふうにそろえたとも思えなかった。

「ああ、奉孝殿。久しぶりですね」

 出迎えた母は血色もよく、特に問題はなさそうだった。

 ただ、問題はこの邸だ。

「母上、どういうことです? ここって官吏の区画だろ? なんでこんなとこに」

「荀彧様が貸してくださったのですよ。最初は市場にある店を貸してくださると言っていたのだけど、我が家は店を構えるような商売はしていませんから、ご遠慮申し上げたのです。そしたら、色々あってこちらを、と。いずれ奉孝殿が来るだろうから、気にしないで使ってくれと言われて」

「はは、もう俺来ること前提なんだ」

「そうだと思いますよ。ここ、官吏の方々の中でも、結構高位の方が住まう区画のようですからね。お隣は主簿の方だと言うし、その隣は実質的に郡政を取り仕切っておられる陳宮様のお邸だし。荀彧様は、きっとお前が曹操様の幕僚になると思われているのじゃないかしら?」

 それは門番も態度を変えるだろうと思った。じろじろ見られたのも、幕僚が住むような場所なのに顔を見たことがない、くらいに思われていたのかもしれない。

「これで俺が仕えないって言ったらどうすんだろ」

「曹操様に仕官するつもりはないのですか?」

 また、この問いだ。

 何人もに聞かれて、その度にまだ迷っている。郭嘉は今度もまた、首をかしげるだけにしておいた。

 ところが、母は意外なことを言った。

「奉孝殿。私は、曹操様はなかなか有望だと思いますよ」

「え? 有望、って」

「濮陽の街を見たでしょう? 中原は今完全に乱世で、戦ばかり。ともすれば、市に物が並ばない街も多いでしょう。それなのに、ここの市はまるで乱世など知らないように、たくさんの物があふれています。それもこれも、曹操様の治世がうまくいっているからです」

 母は続けて滔々と曹操の治世の良さを語った。

 街に活気があり、兵の規律はしっかりしていて、他の地域に比べて賊徒も少ないこと。農民は農民で農具の貸し出しや開拓推奨策があったりして、積極的に耕作しているらしい。

「何より、幕僚の方々がとてもしっかりしているのですよ。普通お役人様相手に商売をしようと思ったら、売り上げの何割かは賄賂で消えていくことを覚悟しなければならないのが当たり前です。私のような女だったら、下手をすれば体を差し出せと言われてもおかしくありません。それが、荀彧様は全くそのようなこと、ないのですよ。最初に袖の下を渡そうとしたら、はっきりと断られて。『そんなことをするくらいならその分安く穀を売ってください』とまでおっしゃったわ」

「そりゃ文若殿はそうだろうけど」

「他のお役人の方もそうなのですってよ。曹操様が、そういうところとても厳しいお方なのですって。ここを治めてらっしゃる陳宮様もね、本当に有能な方よ。おかげで、この濮陽には今中原でも最も多くの商人が集まっているのだそうよ。聞けば、中原でここまで市が栄えているところは他にないのですって」

 他にもつらつらとあそこがいい、ここがすばらしい、と言い連ね、最後に母は言った。

「私は、曹操様のような方が天下を治めてくださればって心底思うのですよ、奉孝殿」

 目をキラキラさせて言いつのられて、郭嘉は母を直視できなかった。

 母の言葉を訳するならば、「曹操に仕官しろ」だ。

「それなのに、お前は何が不満で、あそこまで荀彧様に仕官を求められていながら断っているのですか? ああ、勘違いしないで。母はお前に強制するつもりはないのですけど」

 本当かよ。胸の中でぼやきつつ、郭嘉は口を開いた。

「母上、確かに曹操殿の治世は結構よさそうだと俺も思いました。でも、知ってます? 曹操殿、徐州でかなりの虐殺をしたとか。ああいうの、士大夫の反感を買うと思うんですよね。多分、曹操殿はもう天下を獲れないよ」

「虐殺? あの、徐州で十城を空にしたとか、泗水が死体でせき止められたとかいう噂のこと?」

「そう。だから」

「でも、上に立つ方に逆らったら殺されるなんて、よくある話ではなくて?」

「は?」

 母は心底不思議そうに小首をかしげ、手を頬にあてていた。

「お上に逆らったら殺されることなんて、当たり前でしょう?」

「いや、でも」

「それに、大昔項羽という人も何十万という人を生き埋めにしたって聞いたことがあるわ。始皇帝だって儒家を皆殺しにしたんでしょう? よくある話なのではないの?」

「は、母上よく知ってるね。でも、どっちもそれで声望失って滅亡したって説があるくらいで」

「先のことはわからないわ。でも、ここの商人は皆、噂を知っていても濮陽を出ようとはしていませんよ。つまり、誰も曹操殿が倒れるなんて思っていない、ということではないかしら? 商人はそういうところ、すごく敏感なものよ。皆、負ける城市には絶対に寄り付かないものですから」

 思いもかけないことを言われ、郭嘉は言葉を失った。

 もっと兗州の民が広く曹操に批判的になっているものとばかり思っていた。だが、案外そうではないというのか。

「でも、徐州で虐殺をしたとか、怖くないんですか?」

「怖いと思いますよ。でも、それは曹操様に逆らったからでしょう? そうでないならば、何も恐れることはないと思いますよ。むしろ、曹操様には逆らわない方がいいと思った者の方が多いんじゃないかしら? 曹操様って戦がすごくお上手なんでしょう? 味方についておくに越したことはないと皆思っていると思うけれど」

「……そう、なんだ」

 郭嘉は愕然として、しばらく言葉もなかった。

 立場が違うと見方が違ってくると言うことなのだろう。上層部の士大夫はわからないが、市井の民にとっては、遠い徐州で曹操を怒らせた奴が罰を受けた、くらいの感覚なのかもしれない。もちろん、徐州の民は曹操に恨み骨髄だろうが、少なくとも兗州の民は曹操の治世の恩恵にあずかっているので、そこまで曹操に批判的になっていないのかもしれない。

 ――俺が思ってるより、影響って限定的、なのか?

 ただ、母の視点は市井の民のものだ。士大夫はまた違うだろう。それがどうかは、わからない。

「奉孝殿、私は月が明けたら荀彧様のところへ商談に行くことになっているのですけれど、どうです? 一緒に行って荀彧様にお会いしてみたら。せっかくここまで来たのですから」

「それは、ちょっと。もう少し、様子を見てから決めますよ」

「そうなの? それでは、お前が濮陽に来たということだけお伝えしておくわね」

 本当に食えない。

 にこにこと母に言われ、郭嘉は笑ってごまかすことにした。




 陳宮が訪れてきたのはその日の夜だった。

 といっても、彼は郭嘉を訪れてきたわけではなく、母相手にやってきたらしい。家僕に聞くと、どうやら彼は、荀彧だけでなく、濮陽にも穀を売ってくれないかと度々やってきているのだという。

「陳宮様、どうかご容赦を。今はもうじき夏で、去年に収穫したものはすべて荀彧様にお譲りしております。今、荀彧様からご依頼をいただいて、予州で必死にかき集めているところですが、お約束通りの量が集められるかどうかさえわかりません。なにせ、今年は旱魃で――」

 気になって玄関まで行き、郭嘉は柱の影からその会話を聞いていた。

「あの陳宮って人、何者だっけ?」

 ついてきた静に問うと、静が耳打ちする。

「東郡の治政を任されているという方です。荀彧様が来られるまでは、曹操様の右腕と言われていたとか。今も重臣であることに変わりはないようですが」

「ふーん」

 年の頃は四十前後というところだろう。母と話しているのを見ても、あまりおとなしそうな感じはしない。むしろ荀彧を引き合いに出してしつこく言い募っているのを聞いていると、言葉の端々に荀彧への嫌悪がにじんでいるような感じがする。

「文若殿との権力争いに負けた奴、って感じかな」

 郭嘉のつぶやきに、静は答えなかった。

 その間も母と陳宮のやり取りは続く。陳宮は荀彧より三割高く買うので、譲ってくれないかとまで言っていた。

「どうか、ご容赦くださいませ。商売人にとって信用は何よりも大きな財産でございます。わたくしが荀彧様にお約束した量、確保できなければそのご信頼を裏切ることにもなりますし、またあてがないのに陳宮様にご用意いたしますと申し上げることも、できないのです。それもまた、お約束を破ってしまうことになってしまいますので」

「そうは言うがな、女将。我らは困っておるのよ。荀文若は穀を惜しんで、我らには最低限の量しか渡さぬ。じきに収穫の時期だからとわずか三か月分しか寄こさぬのだ。これではあまりに心許ない。こちらとしては、なんとしても確保せねばならぬという気にもなる」

「お気持ちはお察しいたします。ですが、ないものをお譲りすることはできないのです。どうか、平にご容赦を」

 母が玄関の床に平伏し、戸口に立った陳宮が忌々しげに嘆息した。

「まあ、わかった。今日のところは引き下がろう」

「ありがとうございます」

「ところで、ご子息が来たと聞いたが」

「は、はい、つい先程。お耳が早いのですね」

「噂の、殿に仕官する予定だと言うお方かな。一目、会ってみたいのだが」

 戸惑ったのか、母は応えない。それに、陳宮は穏やかに続けた。

「いやなに、品定めしようというのではない。ここは官吏の居住区でも奥の奥。本来ならば仕官していない者を置いておくこと自体が異例なのだ。荀文若が言うから特別に許しているが、こちらとしてもこの辺の住人は顔を覚えておかねば、万が一何かあった時困るのでな。場合によっては間諜と間違えて捕えてしまうかもしれない」

 陳宮の嫌味たっぷりな言い方が癇に障る。イラついたまま出て行こうとすると、静に腕を掴まれた。

「なんだよ」

「若、その格好では。とても目上の方に会うような格好ではありません」

 言われてみれば、旅装を解いてだらだらしていたので、申し訳程度に単衣(はだぎ)を着ているだけだ。

「今、袍を」

「いいよ」

 郭嘉はまだ引き留めようとする静の手を払うと、すたすたと玄関まで歩いて行った。

 呼びもしないのに、しかも襟元をはだけた単衣で出てきたことに驚いたのだろう。母が顔をしかめている。そして陳宮もまた、眉をひそめていた。

「母上、客人と聞きましたけど、どなたです? こんな日が沈んでから来るような奴、のこのこ出てって自分で応対しちゃだめでしょ。ろくでもない奴だったらどうすんだよ」

「ほ、奉孝殿!」

 咎めるような母の声を無視して、郭嘉は陳宮に目を向けた。

「で、どちら様?」

 腕を組んでねめつけると、陳宮の頬があからさまにひきつった。陳宮が何か言おうとする前に、母が慌てて郭嘉の前にまろび出てくる。

「奉孝殿! こちらは東郡を治めておられる陳宮様ですよ! なんですか、その態度は」

「ああ、そうなんですか。すみません、こんな夜に来るとか、てっきり夜這いにでも来た奴かと思いました」

「奉孝殿!」

 母の声はもはや悲鳴に近い。

「礼儀を知らん小僧だな」

「そりゃすみません、商家のドラ息子なもので」

「奉孝殿! いい加減になさい!!」

 母は叫んだ後、陳宮に向かって「申し訳ありません!」と平伏した。

「なに、女将、気にすることはない。夜も更けてから来た私にも非はある」

 言葉だけは穏やかだが、陳宮の目には明らかないらだちが浮かんでいた。

「で? 名は何というのだ? 殿に仕えるつもりなのであれば、いずれ顔を合わせることもあろう。ここに邸を与えられたということは、場合によってはそなたが私の部下になることとてあるかもしれんな」

 にやりと笑うその顔に、郭嘉はまたいらだちを覚えた。ただ、それは顔には出さない。

「俺、別に小役人になりたいわけじゃないんで。文若殿に頼んで、あんたの下には付けないでって言っときますよ。まあ、別にまだ曹操殿に仕官するって決めたわけじゃないけど」

 陳宮が怪訝そうに眉を顰める。

「では、なぜここに」

「最初は、母を潁川に連れて帰るために。……徐州のことがあって、多分、兗州はろくなことにならないと思ったんで」

 どういう反応をするか、それを見ようと郭嘉はあえてあいまいな言い方をした。

 陳宮がわずかに眉を動かす。短い沈黙の後、彼はにやりと笑った。

「なかなか、聡いではないか」

 小さなつぶやきだったが、思いもかけない言葉だった。今度は郭嘉が眉をひそめる番だった。

「あんた――」

「なるほど、徐州のことがあって殿に仕えるのをためらうと言うのはわかる。そなた、殿に仕えるつもりがないのなら、張邈殿はどうだ。陳留太守の張邈殿は、君子と名高い御仁だぞ。徐州でのことのような失態を犯すこともあるまい」

 張邈という名は聞いたことがない。それ以上に、曹操に仕えているくせに、他人を推薦するところが妙だ。

「誰に仕えるかは、俺がこの目で見て決めますよ。そういうあんたは、そんなこと言いながらなんで曹操殿に仕えてんの?」

 郭嘉が言うと、陳宮は自嘲したような笑みを浮かべ、暫時、瞑目した。

「この男となら、天下に手が届くかもしれぬと思った。……の、だがな」

 陳宮は踵を返しながらまだ何かつぶやいていたが、それは郭嘉の耳には届かない。

「邪魔をしたな。女将、また来るぞ。そこの小僧も」

 去り際、陳宮が肩越しに郭嘉を振り返る。

「お前、なかなか使えそうだ。覚えておく」

「いや、いいよ」

 そう言った郭嘉の言葉は陳宮には届いていなかっただろう。彼は足早に去っていった。




 再出陣の準備は着々と進んでいた。三日後には曹操は再び徐州に向かう予定だ。

 今のところ、兗州にさほどの動揺はない。商人や農民が逃げ出すこともなければ、官吏の誰かが反旗を翻すといようなこともない。ただ、曹操を非難して首を刎ねられたものが一人、おそらく曹操に愛想を尽かして出て行ったのだろう者が三人。ただ、いずれもさほどの重臣ではなかった。

 後はこの平穏を、曹操がいない間どれだけ保つことができるかだ。

 荀彧はそう考えていた。

 曹操に久々に夜呼び出されたのは、そんな最中のことだった。

「荀彧です」

 入れ、という声を聞いてから曹操の居室へと入る。

 ここ最近はほとんど常に戯志才が竹簡と共に在室していたのだが、今日は彼の姿もない。室はきれいに片付いていて、従者の姿すらなかった。

「お呼びと伺いましたが」

 こんなふうに二人きりで話すのも久々かもしれない。

 荀彧が曹操から少し離れた位置に座ると、上座に座っていた曹操が決まり悪げに片肘をついた。

「……三日後、出陣する」

「はい」

「後のことはお前に任せるつもりだ。鄄城にはお前と程立。濮陽に陳宮。夏侯惇には兵二万を預け、鄄城と濮陽の間に駐屯させる」

「はい。存じております」

 曹操はそれからも各地の守兵の数を語り、琅邪から東海へ出て郯を攻めるつもりだ、と言った。

 いずれも、軍議などですでに言われていることだ。曹操に呼び出されてこんな当たり前のことを言われるのも珍しい。

 一通り曹操が言い終わるまで、荀彧は相槌をうちながらおとなしく聞いていた。その間、曹操はじっと荀彧を見つめている。それを、荀彧は穏やかに見つめ返した。曹操の眼差しに、いつものような威圧感はなかった。むしろ、戸惑っているようでさえある。

 すべての説明を終えると、沈黙が降りた。

 それでも、じっと見つめあう。

 こんなことも初めてだ。怒っているわけでもなさそうだし、何か試されているという感じもしない。となれば、他に何があるのか。

 荀彧はありうるだけの可能性を考えつくし、小首をかしげた。

「何か、気にかかることでもおありでしょうか?」

 曹操が言いよどむところなど見たことはないが、もしかしたら、言いにくいことでもあるのかもしれない。そう思って問うと、曹操はきまり悪げに目をそらした。

「……なぜ、何も言わぬ」

「何も、とは?」

「徐州のことだ。なぜ、何も言わぬ。言いたいことはあるだろう」

 荀彧は意図をはかりかね、何度か瞬きをしてからもう一度首をかしげた。

「言いたいこと……ですか。そうですね。おそらく、此度の戦は勝つこと自体は難しくはないと思うのですが、問題はその後徐州をどう治めることかと。殿が徐州にとどまることはいささか危険だと思いますので、おやめいただきたく思います。理想で言えば徐州の名士が殿の命の下徐州牧になるのが望ましいとは思いますが、果たしてそんな名士がいるかどうかもわかりませんし、幕下に徐州出身で牧を任せられそうな方も――」

「そういう話ではない」

 いらだちをにじませ、曹操が睨んでくる。しかしそれも、いつもの威圧感などない、どこか後ろめたさでも感じているような弱々しい視線だった。

「俺が、徐州でしたことについてだ。なぜ、何も言わぬ。お前が一番、俺を責めたいと思っているであろうが」

 思いもかけないことを言われ、荀彧は眉をひそめた。

「どういう意味でしょうか。責めるとは」

「とぼけるな。俺が徐州でしたことが、どんな噂になっているかは知っている。お前のような男には、到底容認できることではあるまい。なのに、なぜ何も言わぬ。最初は俺を(たばか)ろうとしているのかとも思ったが、お前に限ってそれはあるまい。ならば、なぜだ?」

 曹操の表情は、まるで親の愛情を疑う子供のもののようにさえ見える。どうして嘘をつく、とでも言わんばかりだ。こんな顔を見るのも初めてだ。面食らってしまい、荀彧はとっさに言葉を返せなかった。

「なぜ、何も言わぬ!」

「申し訳ありません。ですが、なぜ? なぜそう思われるのですか? どうして、わたしが殿のしたことを受け容れられないと?」

「なぜだと? 聖人君子をそのまま形にしたようなお前が、俺が徐州で虐殺したなどという話を聞いて到底容認できるはずがなかろうが」

「……殿まで、そのようなことをおっしゃるのですか」

 もう何度目かわからないため息をついて、荀彧は首を振った。

「殿、わたしは聖人君子などではありません」

「は? 何を言っている」

 この反応まで一緒だ。荀彧はまたため息をつきたくなった。

「殿。もちろんわたしも、殿が徐州で下された()()()()()については、なぜそんなことを、と思わなかったと言ったら嘘になります」

 曹操の瞳に一瞬、怒りの影が見える。

「ですが、帰ってきた殿を見て、その思いはなくなりました。殿は言い訳もされず、粛々と次の話をなされた。かと思えば、張邈様には涙も見せられた。わたしは臣として十分に殿をお支えできていなかったのだとも、思いました。おこがましい話かもしれませんが」

 曹操が怪訝そうに見つめてくる。それを穏やかに見つめ、続ける。

「わたしは、殿の君主としての顔だけを見て、それが殿のすべてのように思っていたのだと思います。殿の君主としての一面はあまりに完璧で、父君を無残な形で奪われても心を乱さないかのように思っていたのかも知れません。ですが、実際にはそんな人間などいない。父君を奪われた怒り、絶望、それに突き動かされた覇者たるべき方の怒りの発露とは、このようなものなのかもしれない。そう思い、己の浅薄さに恥じ入るばかりです。殿がまるで感情など有しない方のように思っていたということですから」

 今回のことでわかったことがある。理知的で計算高く、合理的にすぎるくらいだと思っていた曹操だが、その実彼は実に感情の影響を受けやすい人間でもあるということだ。一般的に感情的なことは君主としては望ましいことではないと思わがちだ。だから、曹操はそれを隠そうとしていたのだろう。そして、実にそれをうまくやっていた。荀彧は今まで曹操が本気で怒っているところなど見たことはなかったということなのだろう。

 あれほど長い時間二人きりで議論を交わしながら、曹操をわかったつもりになっていた。それが情けない、とも思う。

「曹孟徳様という方を、ようやく知ることができた。わたしが此度のことで申し上げることがあるとすれば、それだけです。そして臣としては、過ぎたことはそれとして、この先どうするのが最善かを考えるのが仕事かと思っております」

 微笑んで言う。納得いかないのか、曹操はしばらくじっと荀彧を見つめていた。

「……本気で、そう言っているのか?」

「はい。それに……」

 荀彧が言いよどむと、曹操が怪訝そうに眉をひそめる。それに、荀彧は自嘲の笑みを浮かべて見せた。

「実を言うと、殿が徐州の城をいくつか空にしたと聞いた時、それならそこに青州黄巾の民を移住させれば一石二鳥ではないか、と一瞬考えてしまいました。このようなこと、他の方には絶対に言えませんが」

 実際にはあまり現実的ではないだろう。徐州は完全に曹操の勢力下に収まったわけでもないから、彼らを入植させたところで保てるかどうか怪しい。やはり、堅実に徐州を治めることを考えるならば、地元の名士や豪族の協力は不可欠だ。勝手に入植させたとなれば、更に徐州の反発を招くのは目に見えていた。

「皆が言うように、わたしが本当に聖人君子なら、このようなこと、決して考えはしないでしょう。わたしもまた、無意識に外向きの仮面をかぶっているのかもしれません。聖人君子に見えるような、仮面を」

 苦笑いを浮かべて曹操を見つめると、彼は納得したようで、小さく何度かうなずいた。

「……きれいごとだけでは天下は獲れぬ、な」

「はい。ただ、力だけでもまた、天下は獲れません。きれいごとの仮面もまた、必要かと」

「俺はだめだな、文若」

 曹操が嘆息する。それに、荀彧は首をかしげた。

「何をもってそう言われるのですか?」

「私怨に囚われ、己に力があるのをいいことに、多くの罪のない命を奪った。かぶるべき君子の仮面をかなぐり捨ててしまったということだ」

「それは、力を有する方がしばしば陥る罠なのでございましょう。歴史に鑑みても、そのような例はいくつもございます」

「しかし、これで徐州の支配は困難を極めよう。仮に陶謙を殺したところで、徐州を治められるかどうか」

「それは、わたしたちがなんとかいたします。殿が陶謙を討たれることには意味がございます。陶謙は許しがたいことを為しました。その報いは、与えねばなりません。ただどうか、徐州の民にもまたその罪があるのだとは、思われませぬように」

「わかっている。もう、あんなことはしない。ただ、陶謙は必ず、八つ裂きにする」

 荀彧はそれにうなずいて返事とした。

 曹操は曹操で、感情を、そして己の行動を持て余しているのだろう。

 彼もまた、人間なのだから。そう感じると、ほっとするのが自分でも不思議だった。

「ご武運を祈っております。後のことは、お任せを」

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