16:<荀彧編>徐州騒乱(後編)
徐州で曹操が虐殺を働いたと噂が広まる中、曹操が帰ってきた。
「おおむね、儂の手の者が調べたのと合致しますな」
荀彧が隠密の持ってきた情報を総合して程立に話すと、彼はそう言ってうなずいた。
「そう、ですか。ではやはり……」
「まあ、多少噂に尾ひれはついているとして、相当な殺戮があったことだけは、間違いないようですな。泗水もせき止められはせぬまでも、相当多くの死体が流れていたとか」
「殿は、一体なぜこんなことを……」
もう何度目かわからない言葉を口にして、荀彧は片手で額を覆った。
本当に経過報告だけの戯志才からの報告書を鵜呑みにしていた自分が情けない。出陣して三カ月たったころから妙な噂が飛び交い始め、半年経った今では、曹操がとんでもない殺戮をしたという噂は打ち消しようもないほどに広がってしまっていた。
せめて臣下の間には疑問の声くらいあっていいと思うのだが、なぜかここにきて曹操は激情の人で気に入らない奴はすぐに殺す、というような根も葉もない話まで広がっていた。出陣前に暴れていたのを見て誰かが言ったのに尾ひれがついたのか、それとも誰かが悪意を持って広めているのか。いずれにせよ噂が広がりすぎてもはや打ち消すことも難しい。
「まあ、ある意味大変な孝と言えなくもないが」
程立が言った。
荀彧にとって救いなのは、程立が淡々としていることだ。彼自身は曹操が殺戮を働いたことはあまり気にしていないようだった。
ただ、いくら親の仇だからと言って、何万という民を殺していい理由にはならない。
どうして曹操がそんなことをしたのか、荀彧は理由が知りたかった。
曹操は確かに激しいところもある男だが、一方できわめて理知的な男だ。道理に合わないことをこうも派手にやらかすとは思えないし、こんなことをすれば士大夫から反感を買うことだってわかっていたはずだ。わかっていて抑えられないほどの怒りだった、ということなのか。
「これから、離反する者もでるかもしれませんな」
「そう、ですね」
ありうる話だ。現に、ここにいていいのかと思っているらしい官吏の話はちらほら聞いている。
荀彧がじっと考え込んでいると、程立が心配そうに顔を覗き込んできた。
「文若殿は、いかがかな?」
「はい?」
「あなたのような聖人君子には、いささか厳しい現実かと思うが」
「わたしは、聖人君子などでは」
「皆、あなたを注視しておりますぞ。幕下最も徳高いあなたが、果たして今後殿に付き従うのかどうか、とね」
言われて、初めて気づいた。そういうふうに見られているのだ。曹操の元を離れようなどという選択肢を、荀彧自身は全く持っていなかった。
「わたしは殿を主としてお仕えすることに、いささかの疑問もありませんが」
小首をかしげて言うと、珍しく程立もまた首をかしげた。
「殿の所業を聞いて、君子たるに値せず――と、言っている者も多い。そなたはそうは思わぬのか? 袁紹にそうしたように、そなたが殿に愛想を尽かしてもおかしくないと思っておる者は相当いると思うがな」
「袁紹は単に無難なだけの能無しと見たから去ったまで。わたしは殿に欠けたるところがあると思ったことはございません。いくらか過ぎたるところはあるかもしれませんが……」
此度のこともそうだろう。ただ、曹操の激しさは必ずしも悪しきものではないはずだ。
「天下を安んじようというのです。殿の激しさは必要なもの。ただ、それがあらぬ発露の仕方をしてしまった。それだけのことでしょう。臣としては、君が道を誤ればそれを糺すのが務めと思っていますが」
荀彧の言葉に、程立はまた珍しく目を丸くし、その後何度かうなずいていた。どうやら納得したようだ。
「ならば、いいのだが」
「ただ、皆にそういうふうに見られているのですね。考えもしませんでした。ご忠告、ありがとうございます、仲徳(程昱の字)殿」
荀彧が礼を言うと、程立は妙な顔をした。
曹操から帰還する、と連絡があったのは年の瀬の迫ったころだった。おそらく、到着するころには年が明けているだろう。
陶謙のこもった郯を落とせず、兵糧が尽きての帰還、ということらしい。追加の兵糧は任城を出たころには送っていたが、徐州に入ってからは送っていなかった。遠いというのもあるが、戯志才が徐州で調達できている、と言っていたからだ。ただそれも、食べつくしてしまったと言うことだろう。
曹操が到着した当日、荀彧は群臣たちと共に府の門で曹操を出迎えた。
「殿、ご無事のご帰還なによりでございます」
いつものように拱手して出迎える。顔を挙げて見ると、曹操は軽くうなずいて、すたすたと中へと入っていった。
その三歩後ろについて歩くと、すぐ隣に曹操に同行していた夏侯惇がやってくる。目が合うと、彼は沈痛な表情で一つうなずいて見せた。そのすぐ後ろに目を向ければ、戯志才の姿もある。彼はいつも通り涼しい顔をしている。じっと見つめる荀彧に怪訝そうに首をかしげてさえ見せた。
回廊を抜けて、謁見の行われる広間に入る。曹操はいささか乱暴に椅子に座ると、すぐさま椅子に片肘をつき、そこにもたれかかった。
荀彧と夏侯惇がいつもの位置に立つと、そのほかの者たちも順にいつもの位置に立った。
改めて曹操を見ると、いくらかやせたように見えた。ただ、瞳はぎらついている。まだ抑えきれない憎しみがくすぶっているのは間違いなさそうだった。
「ご苦労。戦果の報告は後だ。文若」
「はい」
「三カ月以内に再び徐州を攻める。準備をせよ」
「かしこまりました」
荀彧が拱手すると、軽く周囲にどよめきが起こった。
「志才」
「は」
「今度こそ郯を落とす策を立てよ、良いな」
「かしこまりました」
「元譲、お前は今度は留守を守れ。荀彧、程立は鄄城に、陳宮とお前は濮陽だ。いいな」
言われた夏侯惇は、最初顔をしかめ、答えなかった。
「夏侯惇、聞こえぬか」
曹操の声音にはいら立ちがにじんでいる。二人の間でなにがしかのやり取りがあったことは、想像に難くなかった。
「……いえ、聞こえております。拝命つかまつります」
その後も、曹操の話は全て次の出陣に関するものだった。曹操の父に関すること、徐州で何が行われたかは一切説明がなく、曹操は指示だけ終えるとそのまま私室に下がってしまった。
曹操がいなくなると、張り詰めていた空気が緩む。夏侯惇が盛大なため息をついたのを皮切りに、群臣たちは口々に言葉を発し始めた。
一体徐州で何があったのか。殿はどうしてそんなことを。留守を守っていた文官たちが、同行していた武官たちに詰め寄っている。それを遠巻きに見ていると、横から戯志才が声をかけてきた。
「案外、あんたは落ち着いているな」
その言葉、そっくりそのまま返してやりたい、と荀彧は思った。
「わたしが泣いて取り乱しでもするとでも思いましたか?」
「あんたのような聖人君子には、到底理解できぬことだろうと思ったのだが」
「皆、わたしを誤解されているようですね。わたしは聖人君子でもなければ徳高いわけでもありませんよ」
何を言っている、とばかり戯志才が顔をしかめる。それに、荀彧は首を振った。
「それより、志才殿。あなたの報告書は結果の羅列でしかなく、非常に困ります。何があったのか、もっとちゃんと教えてください。どうしてこんなことに? 実際のところはどうなのです? 噂では泗水が死体でせき止められたなどという話ですが」
そんなにあの報告書は駄目だったかな、などととぼけたことを言いながら、戯志才は思い出すように腕を組んだ。
「順を追って話せと言うことだな。まず、そう、任城を陥としたころは、殿はまだ十分な冷静さを持っておられた。陶謙が南の方へ逃げたらしいというので、奇しくも最初に徐州侵攻を考えた時の戦略で行けそうだな、という話をしていたのを覚えている。私に一軍任せるから、麦を刈り取ってこいともおおせで、まあ、いつもの殿だと思っていた。ところが……あれは、どこだったかな、途中で夜襲を受けたのは」
「小沛だ。小沛で夜襲を受けてから、孟徳は手が付けられなくなった」
横から口を挟んだ夏侯惇が、また深々とため息をついた。
二人が言うには、任城を出ていくつかの城市を落とすうち、曹操が怒り狂って各地の城市で陶謙を探し回っている、といううわさが広まったらしい。そのうち曹操が到着すると城門を開く城市が現れはじめ、比較的穏便に陶謙捜索は進んだという。
小沛もその一つで、曹操たちは城内をしらみつぶしに捜索した後、次に向かおうと近くで夜営していた。そこに、夜襲を受けたという。
「思えば、小沛に陶謙がいたのかもしれん。我らも、あっさりと城門が開いたので油断していたところはあった。夜襲を受け、大混乱に陥った。被害自体は大したことはなかったのだが、殿は激昂されて、それで、青州兵に命じられたのだ。小沛城に陶謙がいないか探せ、一切の略奪を許す、すべて殺してよい、と」
青州兵はその言葉に忠実に小沛を荒らしまわったと言う。それこそ府から民家一つ一つにまで押し入って、片っ端から殺し、略奪したらしい。だがそれでも、陶謙は見つからなかった。
その後、いくつかの城で同じことが繰り返された。曹操に許可を得た青州兵たちは誰の言うこともきかない。彭城を空にする勢いで殺しつくしても、それは止まらなかったそうだ。
「青州兵は、まだ半分賊徒の気分が抜けていない。俺たちの言うことなど聞きもせん。孟徳の言うことなら聞いたかもしれんが、なにせ孟徳が止めもしない。泗水に死体を投げ込んだのも青州兵だ」
「川は、せき止められてはいなかったが、まあおびただしい死体の数ではあったな。ただ、あれはあれで理にかなっているぞ。あのまま城市に死体を放置しておいたら、片付けが面倒だ。腐る前に始末してしまうべきだろう。殿はその冷静さはお持ちだったと見える」
頭を抱える夏侯惇とは対照的に、戯志才は淡々としたものだ。
その後、陶謙が彭城から郯に逃げたらしいというので郯を囲んだが、さすがにここはすぐに落とせるということはなかったそうだ。おそらく陶謙がいたのだろう。城壁は高く、曹操軍は攻めあぐね、数か月が経過した。徐州内で略奪した食料も底をつきかけ、そこで夏侯惇が必死になって曹操を説得したのだと言う。曹操は、夏侯惇と怒鳴りあってもまだなお、退くとは言わなかったらしい。
「どうやって、説得したのです?」
荀彧が問うと、夏侯惇は依然嘆息しながら言った。
「殴りつけた。孟徳を殴ったなぞ、子供のころ以来だぞ。もうこっちは殺されるのも覚悟の上だ。だが、殴りつけて、兵糧がないと散々言って、それでやっと孟徳も目が覚めたのか、ようやく戻ると言ったのだ」
普通ならば、上官を殴ったりすれば軍令違反で処刑だ。夏侯惇でなければ許されるものではなかっただろう。
「戻るときは、殿は冷静だった。いくらか頭も冷えたのだろう。だがな、此度のこと、悪いだけではないぞ。殿のあの怒りがなければ、青州兵のあの勢いがなければ、あれだけの城市をあんな短期間に落とせたわけがない。孫子に従うならば戦に将の私憤を乗せるのは間違っているが、だが時としてその激情がすばらしい戦果を生むこともある。私はそれを学んだ」
淡々とした戯志才は、どこか嬉しそうでさえある。荀彧は頭を抱えたくなった。
「誰も止められなかった、ということですね」
「なぜ止める必要がある。あれほど速やかに城市を陥としていたというのに」
戯志才の言葉に、その場にいた者は皆ため息をついた。ついで、夏侯惇が言う。
「皆、青州兵を止めようともしたし、孟徳に進言もした。だが、孟徳はこれでいいと言い続けた。どうにもできん」
夏侯惇が首を振ってうなだれる。そこに、曹仁がぽつりと言った。
「まあ、殿の気持ちもわかるけどな……」
そこに同調する武将たちが何人かいた。彼らにとっては、少しやりすぎたというくらいの感覚なのかもしれない。
ただ、文官はそうもいかない。ケロッとしている戯志才は置いておくとして、ほとんどの者がためらいを隠せていない。
「皆、とりあえず持ち場に戻りましょう。殿のご指示通り、次の出陣に向け準備を」
荀彧が言うと、文官たちが不満そうに、あるいは不安そうに見つめてくる。その顔に、荀彧は一人一人目を合わせ、見回した。
「普段あれほど合理的に、最良の策を持ってしか動かないような方が、ここまで我を忘れて動かれた。これは驚くべきことではありますが、それは一方ではそれほどまでに父君を想われてのこと。孝の表れとして、受け止めるしかありません。そもそも、殿を牽制しようとして父君を人質として持ち出してきたのは陶謙です。それを、殿が兵を止めたにもかかわらず殺した。陶謙に厳しい処罰を与えようという殿のお心はわたしにもわかります。こうなったら、早く陶謙を討っていただかなくては」
荀彧が言ったことで、文官たちもいくらかは落ち着いたようだ。思い思いの表情で持ち場に戻っていく。夏侯惇と目が合うと、彼はひどく疲れた様子でうなずいた。
武官たちもまた広間から下がっていく。その時、その人の波に逆らって入ってくる者がいた。張邈と陳宮だった。
「なんだ、孟徳はいないのか? 帰ってきたと聞いて飛んできたのだが」
張邈は心配そうに周囲を見回している。陳宮は荀彧と目が合うとふいと目をそらした。
それにしても、また、二人一緒だ。なんとなくそれがひっかかった。
「殿は、先程私室に下がられました」
「どうだった? 大丈夫そうだったか?」
「呼んでこよう。孟卓殿の顔を見れば、孟徳も喜ぶだろう」
夏侯惇が言い、曹操の私室へ向かう。荀彧はそれを見て幕僚たちに下がるように指示を出した。残っていた者たちが下がり始める。その中で、陳宮だけが残った。
「私も、殿のお顔を見てから帰ってもよろしいですかな?」
問われ、荀彧はうなずいた。むしろ、下がったほうがいいのは自分ではないか。そう思った時、足早にやってくる足音が聞こえた。曹操のものだ。
「孟卓!」
曹操は広間へ駆け込んでくると、そこに立っていた張邈に抱き付くようにして駆け寄っていった。張邈が驚いてそれを支える。曹操は張邈の胸に額をつけ、彼の腕をつかんで体を震わせていた。
「ど、どうしたのだ孟徳」
張邈が問うても、曹操は答えない。嗚咽が聞こえ、曹操が泣いていることに気づいた。ぎょっとしていると、肩を叩かれた。曹操と一緒に戻ってきた夏侯惇だった。
下がったほうがいい、ということだろう。荀彧がうなずいて踵を返すと、後ろから曹操のかすれた声が聞こえてきた。
「どうしたらいいのだ、俺は……! 自分でも、どうしてこうなったのか――っ」
思わず振り返りかけ、やめた。さすがに陳宮も遠慮したのだろう。一緒について広間を出たようだ。
「張邈殿は、殿にとって随分特別な方なのですね。あのような……」
夏侯惇と並んで歩き、広間から離れたところで、荀彧は言った。夏侯惇がそうだな、と言いながらうなずく。
「孟徳が唯一甘えられる相手なのかもしれんな。歳も結構上だし。袁紹相手にも多少そういうところがないでもなかったが、袁紹はどことなく孟徳の血筋を馬鹿にしていたからな。その点、孟卓殿はそういうこともなく、孟徳にとっては兄に近い存在なのかもしれん」
それにしても、曹操が泣き出すとは思っていなかった。憎しみに囚われていると思っていたが、それも含めて、彼自身もまた、己の心を持て余しているのかもしれない。
「完全に情緒不安定に陥っておりますな」
並んで歩く二人の後ろから、陳宮が言った。どこかあきれたような声がある。
「あれではもう一度徐州に出て、果たして勝てるのかどうか」
大仰に肩をすくめ、陳宮はすたすたと歩いて行ってしまった。
夏侯惇と共に足を止め、思わず顔を見合わせる。最初にため息をついたのは夏侯惇だった。
「陳軍師は相変わらずだな」
「殿をあざけるような言い方が、少し気になりますが……」
「まあ、総大将があんなみっともなく泣けばああいうことも言いたくなるだろう」
「そうでしょうか? わたしはむしろ、殿の人間らしい一面を見てほっとしましたけど」
夏侯惇が目を丸くし、苦笑する。
「俺にとっては、あんたのよう聖人君子がそう言ってくれるのが、一番ほっとするよ。帰ってくるまでは、孟徳があんたに愛想尽かされるんじゃないかって真剣に心配していたんだからな」
また、聖人君子などと。
今度は、荀彧が顔をしかめる番だった。




