15:<郭嘉編>実りの秋
徐州騒乱の裏で、郭嘉は実家に帰って実りの秋を見守っていた。
やや閑話休題なお話です。
郭嘉は潁川で収穫の秋を見守っていた。
仕官しようかどうしようか、と言っている間に曹操が徐州へ出陣したと聞いたのだ。曹操がいないところに仕官に行くというのもなんとなく気が引けて、彼が帰ってくるまで待とう、と思っていた。
郭嘉は、時に自分も荘園に行ってみたりしながら、家僕たちが実に手際よくすべてを進めていくのを感心して見ていた。
潁川各地の荘園から穀を刈り入れ、それを蔵へ入れる。一方、この頃には市にも穀が大量に出回るので、それも買い込む。先日空になったと言っていた蔵はあっという間にいっぱいになった。そしてこれを、また来年の春まで寝かせるのだと言う。秋の穀は大量に出回っているので値が安く、売るには適さない。
それなら農民も春先までため込めば金持ちになれるんじゃないか、と思ったが、通常、農民は農作物が主な収入源だ。生活する金を手に入れるためには、農民は安いとわかっていてもこの時期穀を売るしかないのだという。蔵にため込んでおいて春に売り出すなど、経済的余裕があるからこそできることらしい。
ただ、大量の穀を売買するのもそう簡単なことではない。
賊徒が畑の穀を狙ってやってくるので、畑を護衛する兵が必要になる。通常、広大な田畑を有する豪族は部曲(私兵)を雇ってそれを守る。郭嘉の家も例外ではなく、金を払って部曲を使っていた。
郭嘉はちょうど暇を持て余していたので、その部曲の頭との交渉を担当することになった。
もちろん、交渉と言っても長年の付き合いがある。部曲の頭は毎月一度、金を取りに来て、田畑の状況を報告するくらいだ。別段難しい話ではなかった。
話しているうちに畑を狙ってくる賊徒の討伐の話になった。そこそこうまくやっているようなのだが、潁川にはまだ黄巾賊の残党が残っていて、時には困ることもあるという。
それならと、半分興味で荘園に行き、頼み込んで部曲の指揮をしてみたりもした。部曲は千人ほどで、そこそこ調練もしているらしい。兵法通りにしてみようと思っても、思い通りに行くこともあれば行かないこともあった。時には乱戦に巻き込まれ、危ういところを静に助け出されたりもした。
結果、数か月荘園で馬を駆って走り回っていたせいだろう。最初は息切れも激しくて大変だったが、収穫がすべて終わるころには体力も随分ついて、楽々ついていけるようになった。部曲の頭にも頼りにされるようになったし、一度賊徒を派手に討ち負かしたので賊徒もあまり荘園に近づかなくなった。
すべての収穫が終わった冬のはじめ、郭嘉はちょっとした達成感と共に邸に戻った。普通なら、そこで兗州に行こうと思ったかもしれない。ただ、事態はまた困ったほうに動き始めていた。
屋敷に戻って、届いていた手紙を見ていた時だった。ふいに門のあたりが騒がしくなった。なんだと思っていたら、足音も荒く回廊を歩く音が聞こえてくる。
誰だ、と思っていると、部屋に乗り込んできたのは郭図だった。
「え、なんであんたが――」
「奉孝! お前、ここで何をしているっ!」
郭図はずかずか部屋に入ってくると、驚いて立ち上がった郭嘉の襟をつかんだ。
「なんで冀州に来ない! 俺はてっきり、お前が死んだものとばかり思って……!」
「はぁ?」
勢い込んで言ってから、郭図は深いため息をついて見せた。
「使者に発った後、護衛ごと帰ってこなかったから、冀州ではお前が途中で賊にでも襲われて死んだんだろうと言われていたんだ。それが、なんでこんなところでのんびりしてるんだ、お前!」
「なんでって、実家戻って何が悪いんだよ」
「悪いに決まってるだろうが! 殿に臣従しながらそれを放り出して潁川に戻るなど」
「俺、袁紹に仕えた覚えないけど」
郭図が頬を引きつらせる。彼は大仰にため息をつくと、掴んでいた郭嘉の襟を放した。
「使者まで任されて、まだそんなこと言うのか」
「まだそんなことってなんだよ。俺は穏便に冀州出るために知恵絞ったつもりだけど? 結果袁紹も得したし、別にいいだろ。俺はもう、一宿一飯の恩くらいは返したつもりだけど」
しばらくにらみ合う。
膠着を解いたのは郭図のため息だった。
「お前、わかってるのか。殿はかなりお前に目をかけてらっしゃったんだぞ。荊州からお前が戻ってきたら正式に軍師を任せたいと仰せだった。それが帰ってこないというので、荊州に捜索の者まで遣わされたんだぞ。此度のことだって、多分お前は死んだんだろうから、私にお前を弔ってやれとの仰せで、私はわざわざここまで」
「へー、そりゃ間抜けな捜索隊だな。俺は潁川にいたのに、その発想はなかったんだ」
郭嘉が言うと、郭図がまたため息をついた。
「まあいい。一緒に冀州に戻るぞ」
「やだよ」
郭嘉が言うと、郭図がまた睨んでくる。
「お前!」
「袁紹見てたらイライラするんだよ。ほんっとやることなすことぐずぐずしてさあ、あんな奴に天下獲れるわけない。あんたこそ、考え直した方がいいんじゃないか? あんた本気で袁紹が天下獲れるって思ってんの?」
「当たり前だ。殿が獲れなくて、誰が天下を獲るって言うんだ」
「それは……」
少し前なら曹操、と言ったかもしれない。ただ、昨今流れてきた噂で、そう言いづらい状況になってしまっていた。
「お前、まさか曹操のところに行こうっていうんじゃないだろうな」
これも、まだ迷っていることだ。郭嘉が答えずにいると、郭図はあざけるように笑った。
「曹操なんて、やめておけ。聞いたか? 徐州でとんでもない虐殺をしたらしいじゃないか。項羽の例を挙げるまでもない。そんなことする奴に天下は獲れない。今頃文若殿だって己の不明を恥じてるだろうさ。なんであんな奴を主に選んだのかってな」
曹操が徐州で相当な民を殺したらしい、という噂だけは聞こえてきていた。それが本当なら、確かに曹操の天下はかなり遠くなる。となれば、漁夫の利で袁紹、と考えられなくもない。
「来い、奉孝。俺とお前が力を合わせれば、他の連中なんて押しのけて、天下を恣にできる」
郭図が手を差し伸べてくる。郭嘉はそれをしばらく見つめたあと、首を振った。
「奉孝」
「あんたの、そういうとこだよ」
「なに?」
「袁紹は多くの有能な人間を抱えていながら、それを充分に使いこなせてない。高名な文人は何人もいるのにほとんどが袁紹の館で遊んでるだけだ。しかも臣下としてやる気のあるやつのほとんどは権力争いに汲々としてる。俺、心底疑問なんだけど、あんたは何がしたいの? 天下を安んじたいのか? それとも権力争いに勝って偉くなりたいだけか? あんたは散々俺を牽制してただろう。俺が袁紹に気に入られないように、俺があんたの立場を悪くしないように。いつも思ってたんだ、他にやることあるだろ、って」
「な……」
「良禽は枝を択ぶって言うだろ。あんたが本気で天下をどうにかするつもりなら、主は選ぶべきだ。部下を使いこなせない、部下が権力争いして足の引っ張り合いしてるってのにそれをやめさせられない、そんな奴が天下獲れるんなら、見てみたいね」
郭図がまた睨んでくる。言い返せないのだろう。郭嘉は室の入り口を指さし、言った。
「わかったら、帰ってくれ。俺は、少なくとも冀州に行くつもりはない」
郭図はしばらく郭嘉を睨んだ後、あきらめたようにため息をついた。
「愚か者が。後悔するなよ」
その後、郭図は数日自分の邸に滞在して冀州に戻っていったようだ。
確か、郭図の家族も潁川が襲われた時殺されていたはずだ。彼には彼の、思うところがあるのかもしれない。悪いことを言ったかもしれない、と思ったが、後悔はしなかった。彼が権力争いに明け暮れているのは事実なのだから。
年の瀬、久しぶりに顔を合わせた部曲の頭の表情は穏やかだった。
「今年は楽でしたねぇ。若君がいてくれたのもあるけど、今年は賊徒が割に少なかったですよ」
「ふうん、なんでだろうな?」
「去年の年末、兗州で青州黄巾賊が討伐されたでしょ。あれで結構、こっちの黄巾賊も落ち着いたみたいですよ。もしかしたら曹操がこっちまでくるかもしれないってんでね。曹操の腹心は潁川の出身だって話ですし」
賊徒は賊徒なりに、世の情勢を見ているようだ。面白いな、と郭嘉は思った。
「みんなどっか逃げたってことか?」
「いえ、ではなくて、結構兗州に行った奴が多いらしいという話です。賊徒としてではなく、農民としてね。なんでも、兗州では土地を開拓した者にはその土地を与えて、二年だったか租税を免除するんだとか。場合によっては農具を貸してくれたりするらしいってんで、やる気のあるやつは兗州行ったのも多いみたいです」
「へえ、そりゃ……。知らなかったな。俺、てっきり土地を与えたのは青州黄巾賊だけだと思ってた。誰でもいいんだ」
「まあ、どさくさにまぎれちまえばわかんないってことじゃないですかね。ただ、これも来年はどうだか。今度は兗州や徐州から逃げ出す奴が続出して、また来年の収穫時期は荒れるかもしれませんなぁ」
それは、郭嘉も同感だった。
曹操が父親の敵を討つと言って徐州を攻めたのが、秋の初め。ちょうど収穫のころだ。最初、もしかして麦を狙って兵を起こしたんじゃないかくらいに、郭嘉はうがってみていた。
ところが、そこから数か月たった今、ものすごい噂が飛び交い始めている。
曹操はとんでもない勢いで徐州の彭城までの城市をいくつも抜いたらしい。そして、その通った城でとんでもない殺戮を働き、泗水の流れが死体で流れがせき止められたとか、人間だけではなく犬も鶏も、命あるものはことごとく殺しつくされたとか、とてつもない噂が飛び交っていた。
どこまで本当のことだろう、と思う。噂には尾ひれがつくものだ。
ただ、曹操が麦を獲るために言い訳をこじつけて出陣したわけではないことだけは間違いなさそうだ。余程の怒りがなければそこまでしないだろう。
噂によれば曹操は彭城まではあっさり落とし、陶謙を追って徐州の州都、郯まで行ったらしい。陶謙がそこに逃げ込んでいたらしく、曹操軍は今郯を囲んでいる、と言われていた。
今、郭嘉は士大夫の世界から離れたところにいるのでわからないが、おそらく、兗州の曹操に仕えている者たちの間にも相当動揺が走っているのではないかという気がする。
もし殺戮が本当なら、およそ君子としてやっていいこととは言えない。そんな男を主に仰ぐなんて、という者も当然出てくるだろう。もしかしたらあの士大夫の鑑のような荀彧も、戸惑いの中にあるかもしれない。
そして郭嘉も、一層迷いが強くなってしまっていた。
「いや、それにしても潁川が襲われてめちゃくちゃになった時はどうなるかと思いましたけどね。燕奥様が生き残っててくれてよかったですよ。若君はこんなの当たり前みたいに思ってるかもしれないけど、この辺が襲われた後、管理する家がなくなって耕す奴のいなくなった田畑とか、はたまた主がいなくなって小作がなんとかしようとしたけど部曲がなくて略奪に遭ったとか、そういうのばっかりですからねぇ。若君のところはしっかりした奥様としっかりした跡継ぎがいて安泰だな」
「跡継ぎって、俺のこと? 俺、家継ぐつもりないんだけどなぁ」
いつの間にか父も兄もいなくなり、自分しかいなくなくなったのだな、としみじみ思った。もっとも、荘園と商売の方は母に任せておけばどうとでもなるだろうが。
「おや、どこかに仕官でもされるんですか? まあ、若君は頭がいいから」
「……それも、まだ考え中」
最近、誰と話してもこんな問答を繰り返してばかりだ。
自分はどうしたいのだろう。郭図にあんなことを言ったくせに、郭嘉はまだ迷いの中だった。
この世の中をなんとかしたい、その思いはぼんやりともっているが、かといって、どうも仕官となると気が引けてしまう。最近はいっそ一生学問をして過ごすと言うのも悪くはない、という気もしていた。
「俺はありがたいことに雇っていただいていますけどね、最近は賊徒やめて、どっかの群雄につくやつとかもいますよ。あと、結構あっちこっちの豪族も、部曲ごと誰かに仕えるっていうのが多いみたいですね。そういう意味では、曹操は結構人気だったんですけどね。あの人、割と身分の貴賤関係なく、腕っぷしさえあれば買ってくれるってんで」
「ああ、それは聞いたことある。まあ、戦の連続で兵が足りなくて、誰でもよかったのかもしれないけど」
「それが、中には武将として取り立てられたってのもいるって話ですよ。時代ですね。力があれば、どんだけでものし上がれる。そういう意味では、俺は結構曹操が天下を獲ったら面白いんじゃないかって思ってたんですけどね」
「すごいな、そんなこと考えるんだ」
「そりゃそうです。俺だって生まれで苦労しましたから、能ある奴がのしあがれるっていいって思いますよ。ま、俺にはそんな才はありませんけど」
部曲の頭は立ち上がると、受け取った金を頭の上に掲げ、ありがとうございました、と頭を下げた。
「きちんと使っていただけるうちは、俺らは若君の忠実なしもべです。また、よろしくお願いします」
「こっちこそ、また来年もよろしく」
去っていく姿を見送った後、郭嘉は傍にあった卓に片肘をつき、そこに頭を預けた。
今、静には兗州の様子を確かめに行かせている。
噂が本当なのか。もし本当なら、兗州の様子はどうなのか。これをきっかけに曹操から離反しようという者はいないのか。
状況によっては、母をこのまま濮陽に置いておくのはまずい。ただ、現状一番大きな商売相手は曹操らしいし、穀の移送に兵をだしてもらったりしている以上、そう簡単に関係を切るのも難しいだろう。当然、向こうとしてはこちらの穀をあてこんでいるはずだ。
ただ、もしこれをきっかけに曹操が滅びるとなると、いつまでも曹操についているのは危険だ。場合によっては曹操の滅亡に巻き込まれる可能性だってある。
目をつむると、初めて曹操に会った時のことが目に浮かぶ。
炎のような、圧倒的な威圧感。この人なら天下を獲ってしまうんじゃないかと思わせるだけのものを感じた、あの感動。
あの感動のまま曹操に仕えてしまえばよかったと思ったことは一度や二度ではなかった。しかしそれも、ここに来てこれでよかったのかもしれないと思う。
賢そうな人だと思ったが、曹操は案外激情だけの人だったのだろうか。
「これから大変だぜ、曹操殿」
誰もいない室でぽつりとつぶやく。
「士大夫敵に回して、さすがに天下は獲れないんじゃないかな。そんなこと、わからないような人だとは、思わなかったんだけど」




