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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
1.乱世の始まり
14/64

14:<荀彧編>徐州騒乱<中編>

 任城自体は実にあっさりと陥落した。

 曹操に指示された通り、言葉を尽くした八つ裂きにするぞという旨の書簡を送ったのが効いたのかもしれない。すぐに陶謙から「曹嵩が死んだのは本意ではない。自分のせいではない」と返書が来たが、曹操はそんなものには取り合いもしない。八万の大軍が任城を囲んだ。

 陶謙自身は攻城が始まる前後にはもう単騎逃げ出していたらしい。指揮官のいなくなった任城はあっさりと落ちたが、今度はどこに逃げたかわからない陶謙を追う征伐が始まった。

 戯志才経由で経過が次々と入ってくる。陶謙はおそらく泰山を経由するのではなく、南から彭城を目指したらしいということで、軍は奇しくも最初に徐州侵攻を描いた計画と同じ方向に進んだようだ。

 追加の兵糧を送る手配をしながら、荀彧は隠密たちに噂を流すよう指示した。曹操が父親を殺されたことに激怒して陶謙を追っている、と。相当な大軍で、しかも曹操が戦に強いのは知られた話だ。そこに父親の報仇という大義が加われば、いくら徐州の城市といっても陶謙に味方はしづらくなるだろう。うまくすればあっさりと城門を開き、陶謙を差し出してくれるかもしれない。

 荀彧としては曹操に早く冷静さを取り戻してほしい、その一心だった。

 一方、曹操が出陣してすぐ、陳留から妙な情報がやってきた。

 陳留太守の張邈と、袁紹から任じられてやってきた予州刺史の郭貢が、陳留通過を巡ってもめているというのだ。

 陳留太守といっても、張邈はとっくに自分の兵権のほとんどを曹操に預けてしまっている。曹操が通すと言った以上通すのが通常だが、どうも、彼は袁術を退けたのが曹操なのに、袁紹が予州に手を出すのが気に入らなかったらしい。

 いつもなら張邈に関することは曹操に頼むのだが、曹操がいない今、代理は荀彧にしかできない。荀彧は陳留へと向かった。

 張邈の立場は、微妙だ。

 反董卓連合のころを思えば、彼は曹操や袁紹と並び立つ存在だったはずだ。むしろ曹操よりよほど群雄として力を持っていたと言っていい。それがなぜか曹操に入れ込み、彼を庇護し、ついには兵権のほとんどを曹操に預けてしまった。かといって、曹操に臣従することはしていない。彼は依然陳留太守として、陳留にいる。

 聞けば、曹操と張邈はかなり親しい友人関係にあるようだ。張邈の方が十歳以上年上だが、お互い何かあったら家族を頼むと約束までしているらしい。おそらく、曹操にとって無二の友なのだろう。

 張邈は袁紹とも友であったらしい。ところが、袁紹は曹操とは違って張邈を格下とみなしている。張邈は些細なことで袁紹に諫言し、不興を買ったらしい。曹操宛にしばしば張邈を殺せ、という袁紹の書簡が届いていた。ただ、曹操はそのいちいちに反論し、張邈に対しては相変わらず友として、その立場を尊重していた。

 張邈はしばしば曹操に会いに来ていたので、荀彧とも面識がある。人柄を見れば、義に厚く温厚な文人、という感じだ。あえて乱をおこしそうな人間には見えない。

 だから、郭貢ともめたというのは妙だと思えた。

 陳留に着くと、すぐに府へ通された。

 先ぶれは当然出してあるが、守兵たちにも特におかしなところはないし、街も落ち着いたものだ。

 (やくしょ)を官吏に案内されて歩いている間、回廊でふといるはずのない人間を見て、荀彧は足を止めた。

 陳宮だ。そしてその隣。具足こそ身に着けていなかったが、明らかに武人とわかる体格のいい男と一緒に歩いていた。顔に見覚えはない。

 二人は妙に親しげに話しているように見えた。あの武人を見下す陳宮にしては珍しい。

 すれ違ったわけではなく、中庭を挟んだ回廊の向かいを歩いていた、というだけだ。おそらく彼らは気づかなかったのだろう。そのまま府の出口の方へと歩いて行った。

 陳宮とは最近顔を合わせる機会が減っていた。主に鄄城で州全体の政務を見る荀彧に対し、陳宮は濮陽で東郡を任されている。東郡出身で、場合によっては兵を率いることのできる彼は、曹操にとっては傍に置いておく謀臣というよりは、郡県を任せる方が適任と思っているのかもしれない。

 陳留の隣は東郡だ。郭貢の軍が陳留にとどまっているので様子を見に来たという可能性もないではないが。

「おお、荀軍師。よくぞいらしたな」

「張陳留(張邈)様、お久しぶりです」

 数歩離れたところで立ち止まり拱手したのだが、張邈はわざわざ荀彧に歩み寄ってきてかじりつくように言った。

「孟徳は大丈夫か?」

「え?」

「君は孟徳のそばにいたのだろう? 孟徳は父君が殺されて出征したと聞いた。あいつのことだ、相当頭に血が昇っていただろう」

 さすがというべきか、曹操のことをよくわかっている。そのあまりにも心配そうな眼差しも、嘘を言っているとは思えない。決して裏切ることのない無二の友、そう曹操が信じるのも無理はないのかもしれない、と思った。

「確かに、激昂しておいででした。わたしとしては出陣なさるのは少々心配だったのですが、到底止められるような状況ではなく……」

「ああ、やはり! だと思ったのだ。孟徳はたまに怒ると手を付けられなくなることがあるからな」

 夏侯惇も似たようなことを言っていた。荀彧自身はあそこまで激昂する曹操はあまり見たことがないのだが、親しい仲ではそうでもないのかもしれない。

「今はおそらく、彭城あたりを目指しておられるのではないかと思います。補佐として殿に従っている戯志才殿は非常に冷静な方なので、めったなことはないとは思うのですが」

「そうであることを願っている。孟徳は頭の切れる男だが、怒りで我を失って、とんでもないことにならねばいいのだが……」

「それはそうと、張陳留様。予州刺史、郭貢殿の件ですが」

 荀彧が切り出すと、張邈は嫌そうに顔をしかめ、そそくさと最初に座っていた場所へと戻った。

「私はな、荀軍師。別にあいつを通さんと言った覚えはない」

「え?」

「大体、本初(袁紹の字)のやり口が気に食わんのだ。先だって袁術をけしかけて孟徳を襲わせたことも、それを打ち払ったのが孟徳であることもすっかりなしにして、予州を我が物にしようとは」

「それについては、我らは見解が違います。おそらく、袁紹は殿を牽制しようとしているだけでしょう。そもそも、兵一万で袁術に対抗して予州を治められるわけがありません」

 納得しない様子の張邈に、荀彧は丁寧に説明した。郭貢が袁紹からの牽制であることは明らかだが、現状ではなかなか予州まで手を伸ばせないこと、むしろ袁術に対していい緩衝になること、そして袁紹からの牽制を受け入れることで、彼との関係も良好に保てること。

 曹操が納得していることだ、と言うと張邈は渋い顔をしながら、何度かうなずいた。

「まあ、それならばな。それはそれで、構わんのだが」

「ですが、さっきのお言葉はどういう意味ですか? 張陳留様が通さないと言ったから、郭貢殿はここにとどまっているのでは?」

 張邈は即座に首を振った。

「私は通さんと言った覚えはない。ただ、奴が面会させろとうるさいのだ。私がその必要はないと言うと、話したいことがあるからどうしても面会したいと。おかしいだろう? そこまでする必要があるか。私は通るなとは言っていないと言うのに」

「それは、確かに」

「本初は孟徳のいない隙に私を殺そうとしているのではないか」

 そんなことはない、と否定はできなかった。袁紹は曹操にしつこく書簡を送ってきているが、それを無視されて実力行使に出たと考えられなくもない。曹操のいない今なら可能だろう、と。

「でしたら、わたしが郭貢殿と話してまいりましょう。早くここを離れて寧陵へ向かうように」

「そうしてもらえたら助かる。すまぬな、孟徳のいない中、そなたも大変だろうに」

「いえ、わたしにとってもこれは重要なことですから」

 そのまま下がろうとして、ふと思い出す。廊下ですれ違った陳宮と、武人らしき男のことだ。

「そういえば、先程陳軍師と回廊ですれ違いました。彼は、なぜこちらに?」

「ああ、公台(陳宮の字)殿も郭貢を気にして来られたようだな。袁紹からの軍がとどまっている、おまけに奉先殿の騎兵までやってきて、一時一触即発になってなぁ」

「奉先、殿?」

「呂布殿だよ。本初のところから逃げてこられたのだそうだ」

 こともなげに張邈が言うのに、荀彧は心底驚いた。呂布と言えば董卓をその手にかけた男ではあるが、その前には別の主も殺している。利害のためならあっさり主を殺すあたり、ろくでもない男であることはまず間違いない。

 袁術のところを追い出され、袁紹のところへ行ったと聞いていたが、大方袁紹のところからも追い出されてきたのだろう。無理もない。いつ主を裏切るかわからないような男を置いておく方がどうかしている。

「呂布殿、とは聞き捨てなりませんが」

「荀軍師はそう言うだろう、とさっき公台殿とも話しておったのよ。奉先殿をここにとどめ置くとなれば、おそらく荀軍師が黙っていないだろうからあきらめた方がいい、と」

 張邈は毛ほどにもまずいとは思っていないようだ。しかも、陳宮も呂布も字で読んでいる。妙に親しげなのがひっかかる。

「呂布殿をここに留め置かれるのですか?」

「いや、そうはせぬよ。私は奉先殿を孟徳に推挙したいと思ったのだがなぁ、公台殿は孟徳がおらぬ間にここに奉先殿がここにいるのは、到底荀軍師が認めはしないだろうと言ってな。いや、まさしくその勢いだな。公台殿はさすが、よくわかっておられる」

 笑って言う張邈に、荀彧は嘆息したい気分だった。人が好いにもほどがある。しかし、それを表に出すことは許されない。

「では、どうなさるのです? まさか、陳軍師が」

「いやいや、もちろんそんなことはない。公台殿が、河内の張楊は奉先殿と同郷だから受け入れてくれるのではないかと言っていたから、そちらへ行くのではないかな? だがな、荀軍師。私はあれは傑物だと思うぞ。孟徳が帰ってきたらぜひ引き合わせてやりたいのだ。孟徳ならばあれほどの武、喜んで使いこなそうぞ」

「それは……」

 曹操ならば、呂布が帰順すれば喜びそうな気はする。当代きっての猛将と名高い呂布、そして、曹操は一芸に秀でていれば多少難があっても受け入れる男だ。それがたとえ、二度主を殺した男だとしても。

「一度奉先殿と話してみられるといい。あれは決して主を裏切ることを好むような男ではない。ただ、無邪気に感情のまま動いてしまうというだけなのだ。しかるべき主に仕えれば、裏切るなどと言うこともないだろう。私は、孟徳ならば彼を使いこなせると思うのだがなぁ」

 なんとなく、曹操の前で同じことを言う張邈の姿が簡単に想像できた。そして、それを受け入れる曹操の姿も。ただ、義理とはいえ二度も父を殺した男を、ただ無邪気などと言ってしまうのは荀彧には到底理解できない境地だ。

「お言葉、胸に。ですが、今兗州には殿がおられず、そこに素性の知れぬ軍があるのは我らには脅威です。どうか、推挙の件は殿が帰られるまでご遠慮いただきますよう」

「わかっておるよ。孟徳も、今は頭に血が上っておってそれどころではなかろう。本当に、無事に帰ってきてくれればいいのだがな」

 張邈は今までも何度か曹操に武将を推挙している。彼にしてみればその延長だろうが、冗談ではない。また、親しげに字を呼ぶあたり、陳宮は張邈と親しくしている可能性がある。こちらも、今一つ意図が読めない。張邈と親しくなることに利があるとは思えない。

 考えながら厩までやってくると、そこでは陳宮が待っていた。

「お久しぶりですな、荀軍師」

 さっと視線を走らせるが、呂布らしき男はいない。陳宮一人だった。

「お久しぶりです、陳軍師。これは異なところでお会いしますね」

「そのようなことはありますまい。私は東郡を任された身。陳留に袁紹の軍が居座っていると聞けば、確かめに来るくらい許されると思いますがな。そちらこそ、殿の不在でさぞかし忙しいでしょうに、わざわざ陳留まで来られるとは」

「殿がおられぬ今、名代としてわたしが動くしかない場合もございますから」

 にこりと笑って言ってやると、陳宮はあからさまに顔をしかめた。

「ふん、ならば、早々に郭貢のところへ行かれることだ。先程まで、呂布殿がここにおられましてな。呂布殿、ご存じですかな? 当世無双と名高い御仁だ。袁紹のところから追われてこちらに逃げてこられたが、騎兵五百、率いておられる。張陳留殿と意気投合した様子で、張陳留殿が袁紹に命を狙われていると聞くと、激昂して郭貢を殺してやると息巻いておりましたぞ」

 さっと、血の気が引くのがわかった。もし呂布が郭貢を襲いでもしたら、この曹操のいない時に袁紹ともめ事を起こしたことになり、とんでもない事態になりかねない。

「あなたは……! 止めなかったのですか!?」

「それはもちろん、止めましたとも。だからこそ呂布殿をなだめ、河内に行かれてはどうかと勧めたのだ。もし荀軍師が来られねば、私が郭貢を説得するつもりでしたが、そちらはあなたにお任せしたほうがよろしいでしょうな? 殿の名代たるあなたにな」

 陳宮はにやにやと笑っている。もし呂布が郭貢を殺すようなことがあれば、笑ってなどいられない状況になるとわかっているはずなのに。

 荀彧は挨拶もそこそこに馬に乗り、急いで郭貢の元へ向かった。郭貢は陳留から数里離れたところに駐留していると聞いている。馬に乗ればすぐだ。

 まもなく見えてきた軍は、一万にしては少ないように見えた。そしてその前に、見事な馬をそろえた騎馬隊が見える。おそらくあれが、呂布の騎兵だろう。

 近寄っていくと、馬上の二人が十歩ほど離れて大声で言い合っているのが聞こえてきた。干戈を交えているわけではないが、不穏な雰囲気だ。

「郭貢殿にお目通り願う!」

 荀彧は騎兵を回り込んで、大声で怒鳴りあう二人に近づいて行った。

 すぐそばを通るだけで、騎兵の剣呑な空気が肌を刺すようだ。生半可な騎兵でないことは嫌というほど感じた。これだけの騎兵なら、なまくらな一万の兵など蹴散らしてしまうかもしれない。

「曹兗州の代理として参りました、荀彧です。こちらで一体、何をしておられる!」

 向き合っていた二人が向き直る。堂々たる体躯の男がおそらく呂布で、文人風の男がおそらく郭貢だろう。

「なんだ、貴様」

 呂布が地に響くような低い声で言った。曹操とはまた違う、肌を刺すような圧倒的な威圧感だ。荀彧は平静を装い、まっすぐに呂布を見つめ返した。

「曹兗州軍の荀彧です。先程陳留府であなたがこちらへ向かわれたと陳軍師から伺いました。呂将軍ですね? まずはお伺いしましょう。なぜこちらに?」

「なぜだと? この男を殺すためだ!」

「それは聞き捨てなりませんね。郭貢殿は予州刺史として派遣されてきた方。ここでその命を奪われたとあっては、要らぬ禍の元です。そも、なにゆえそのようなことをなさろうと?」

「この男が孟卓(張邈の字)殿を殺そうとしていると聞いたからだ! 袁紹め、オレだけではなく、あのような君子にまで手を出そうとは、許せん!」

 叩きつけるような怒声に、荀彧はあくまで平静でもって応えた。

「本当なのですか、郭貢殿?」

「ちっ、違う! 私は決してそんなことは考えていない!」

 郭貢は泣き出しそうな顔をしていた。どうも、さほど大した将でもないらしい。

「では、なにゆえこちらに留まっておられるのです? 袁冀州殿からはあなたは寧陵に駐留すると伺っておりますが」

「そ、それは補給に困っていたからだ。張邈殿は殿とも親しく、君子と聞く。わ、私はそもそもこちらに来たくて来たのではなく――」

「黙れ! 誰が貴様の言い訳なぞ聞くか!」

 呂布ががなると、郭貢はすぐさま口をつぐんでしまった。

「呂将軍、落ち着いてください。そのような態度では話を伺うことも――」

「貴様もうるさいぞ! それ以上四の五の言うようなら、貴様から殺してやる!」

 言い返そうとした瞬間、鼻先に戟を突き付けられる。とっさに口をつぐむと呂布がいかにも嬉しそうににやりと笑った。沸き起こるいらだちを抑え、荀彧は冷厳と見つめ返した。

「噂にたがわぬお方だ。余程その武に自信がおありと見える」

 荀彧が低く言い返すと、呂布は意外そうに眉をひそめた。

「先程、私は陳留府で張陳留様があなたを我が主曹孟徳様に推挙したいという旨、お伺いしましたが、このような話し合いの場に暴でもって臨もうとするような輩を推挙とは。張陳留様はすばらしい慧眼の持ち主と思っておりましたが、いささかその目は曇っておいでのようだ」

「何!?」

「僭越ながら、わたしは曹孟徳様の右腕をもって任じております。あなたが気に入らぬものすべて斬って捨てるようなお方であるならば、わたしは到底あなたを幕僚としては認められません。殿には呂奉先殿という男は大変浅薄で、到底主の言うことなど聞きそうにない梟雄ゆえ、幕下に加えることはなりませんと申し上げておきましょう」

 呂布の頬がひきつる。荀彧は鼻先に突き付けられた戟をそっと手で押し、その矛先を逸らした。

「張陳留様は、あなたは傑物で、然るべき主にさえ仕えれば容易く人を裏切ったりするような男ではない、と仰せでした。我が主は非常の才をお持ちの方は、多少の難があっても目をつむるお方。わたしも、いくら二度も主を裏切ったとはいえ、張陳留様があそこまでおっしゃるからには推挙を認めざるを得ないと思っていましたが、このようにまともに話もできないようなお方では」

「ま、待ってくれ。オレは別に、話を聞かないと言っているのではない。ただ、この男が孟卓殿を殺そうとしていると聞いて、それならば止めねばと思ったのだ」

「ですが、郭予州どのはそのつもりはないと言っておられます。話を聞かせていただけますか?」

 郭貢に話を振ると、彼は震えながら事情を話した。

「そ、そもそも私ははめられたのだ。冀州では派閥争いが甚だしく、ちょっとしたことで目障りな者を厄介払いするようなところがある。私は先だって殿に献策をしたのだが、それをやっかんだ連中が、あれよあれよと私を予州刺史として送り込むことにしてしまったのだ。たった一万で、予州を獲ってこいなどと! 無理に決まっている!」

 どうやら、袁紹軍ではまだくだらない派閥争いが続いているようだ。ある意味平和とも言えるだろう。強者の余裕だ。曹操軍にはそんなことをしているような余裕はない。

「殿も殿で、無理だと申し上げても、とりあえず予州にいればいいから行けとおっしゃる始末。とりあえず兵は預けられたものの、糧食も十分ではなく、それならばと君子と名高い張陳留殿に後ろ盾をお願いしようと思ったのだ。張陳留殿は殿とも親しくしておられると聞くし、場合によっては殿を説得してくれるかもしれないと」

「それはないでしょう。ご存じないようですが、袁紹殿と張陳留様は最近対立しておられ、我が殿の元には張陳留様を殺せ、と袁紹殿から盛んに命令が届いていますよ」

 荀彧が言うと、郭貢は愕然と目を丸くした。

「そ、そうなのか?」

「しかも、張陳留様は、あなたがここに兵をとどめておられるのは自分の命を狙っているからに相違ないと思っておられるようです」

「だ、だからか。面会を申し込んでも断られてばかりで、おかしいと思っていたのだ」

 郭貢はがっくりとうなだれてしまった。

「ひとまず、一度冀州へ戻られてはいかがです?」

「それはできん。軍令違反ではないか。下手をすれば首が飛ぶ」

「では、寧陵へ行かれてはいかがです。かの地に守兵はいません。駐留して善政を行えば、いくらか兵も糧食も賄えましょう」

「だ、だがそれはいつの話なのだ。差し当たって数か月持ちこたえるだけのものがなければ無理ではないか」

 時節は秋に入っている。すでに収穫は終わっているだろうから、順当にいけば府の蔵に穀が入っているはずだ。ただ、寧陵のあたりは陳留からも近く、守兵のいない城のあたりは、荀彧がこっそり兵を回して穀を刈り取っていた。寧陵の民が餓えない程度には残したつもりだが、果たして突然やってきた兵一万を養えるかと言うと……。

「ひとまず、寧陵に向かってください。糧食については、こちらが多少融通しましょう」

「ほ、本当にか!?」

「はい。ただし、条件があります。我が軍に矛を向けないこと。袁術軍などが北上してきた場合は速やかに連絡すること。そして、予州に一部我が軍の守兵がいる場合がありますが、それは尊重すること。もちろん、袁紹殿には内密にすること。いかがです?」

 郭貢が困ったとばかり顔をしかめた。

「そ、それは……」

「ひとまず寧陵に向かわれ、善政に努められるがいいでしょう。そうすれば袁紹軍でのあなたの地位も少しは向上するのではありませんか? ただ、あなたもご自分の身の振り方についてお考えになっては? そのような無茶な命を下すような者を主と戴くことに疑問はお感じにならないのですか? 落ち着いたらご家族を寧陵に呼び寄せ、よくよく今後を考えられた方がいいと思いますよ。なにせ乱世ですから、何があるかわかりません」

「そ、それはどういう」

「予州をしっかりと治めたという実績があれば、袁冀州殿に対しても顔向けができ、またここでわたしと密約を結んだことで、我が殿ともよしみを通じることになる。今後何があるかわかりませんから、わたしとしてはこれが、あなたにとっての最良と思われます、とそう申し上げております。お約束、いただけますか?」

 にっこり笑って言うと、郭貢の顔はあからさまにひきつった。

 しかし、背に腹は代えられないと思ったのだろう。最後には彼は、わかった、と言ってうなずいた。

「ありがとうございます。では、早々に寧陵に向かわれますように。後ほど、そちらに糧食をお送りしましょう」

「わかった。頼むぞ」

 郭貢が去ると、荀彧は呂布に向き直った。

「呂将軍は河内へ向かわれると聞きました。兵糧など足りておられますか? よろしければ、多少融通なりといたしますが」

「オレとしては、陳留にとどまることができればいいと思っているのだがな」

「それは、どうかご遠慮願いします。殿がおられぬ状況では、いくらわたしでもあなたをどう遇するか決めかねます。また、殿は今徐州に征伐に出られており、兗州はいささか不安定でもある。どこにも属さない軍を置いておくことはできません」

「なんなら曹操殿に協力してやってもいいが?」

「それも、ご遠慮願います。我が軍は緻密な計画に基づいて動いており、突然他軍が入ってくると計略にほころびが生じる可能性がございますので。どうか、ご理解ください」

 馬上で、可能な限り深々と頭を下げる。ずいぶん経ってから、呂布は仕方がないとばかり嘆息した。

「まあ、いいだろう。今のところはあの二人の顔を立てて河内へ行ってやる。ただ一晩くらい陳留に泊っていくのはいいだろう? 今日ここに着いたばかりなのだ」

「もちろんです。では、明日までに必要な糧食を届けさせましょう」

「ふん、いいだろう」

 呂布が号令すると、騎兵隊は整然と列を作って陳留へと走っていった。見事としか言いようがない。敵に回すと相当厄介だろうな、と荀彧は思った。

 荀彧はすぐに手を回し、呂布と郭貢への糧食を提供した。郭貢にはほどほどの量を送り、恩着せがましく袁紹宛に「郭貢が困っていたので援助した」と書簡を送っておいた。一方、呂布には十分すぎるくらい送り、胸の中で二度と来るなと念じておいた。

 鄄城に戻り、政務に戻る。その後、戯志才から続々と報せが届いた。

 ただ、曹操の様子の記述はなく、すべてが戯志才の報告だ。彼が書記官に代筆された経過報告は本当に経過報告だけで、その間曹操がどうだったかがいまいちわからない。彼は淡々と通った城を並べ、城を落とすのに何日、場合によっては何時(一時=二時間)かかったかだけを記し、陶謙がいなかった、麦を刈り入れた、などと書き連ねてあるだけだ。

 報告書からわかるのは、曹操がとんでもない速さで彭城へ至る道程にある城を落としたことと、陶謙が見つからなかったこと、だけだ。

 だから、その道中とんでもないことになっていたことを、荀彧は当初知らなかった。

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