13:<郭嘉/荀彧編>徐州騒乱<前編>
一旦潁川に戻った郭嘉。
一方、泰山で陶謙が略奪を働いているらしいと聞いた曹操たちはどう泰山を攻めるかという話をしていたところ、曹操の父が陶謙に殺されたらしい、という情報が届き、曹操は激昂して徐州へ向かうことに。
三国志詳しくない方のために一応(適当な説明で済みません)→*孝廉:当時の高級官吏へ推挙される制度のこと。地方の長官にその地方の品行方正で親孝行な良家の子弟が推挙されることが多かった。*辟召:高級官僚がその権限で幕僚に招くこと。
郭貢がどこから来た人なのか悩みましたが袁紹からということにしました。もし全然別勢力の人だったと言う記録があったらすみません。
いつの間にか春は終わり、夏になろうとしていた。
陳留に攻め込んだ袁術は、曹操と何度か戦うことを繰り返し、結局汝南のすぐ南、揚州の入り口にある寿春に落ち着いたらしい。曹操は深追いせず、汝南あたりまで袁術を追った後、定陶へ戻ったという。
曹操の戦いぶりはかなり鮮やかだったらしい。逃げる袁術を追いまくり、袁術はすっかり色をなして逃げ惑ったという。
潁川へ向かう途中でその話を聞き、郭嘉はほっとしていた。
曹操は郭嘉が思っているよりずっと慎重だ。定陶なら兗州全域をにらむ位置と考えていいだろう。濮陽や鄄城よりは南にあるので、予州を狙えなくもない。手堅く行くならいい位置だ。
やはり、伯求といい曹操といい、自分には見えないものが彼らには見えている気がする。袁術は勢力を広げたがっているはずだ。南へ行ったとなれば、おそらく袁術は大きな群雄のいない江東へ目を向けるだろう。これは、四方に敵を抱える曹操にとっては望ましい結果だろう。
ということは、次の曹操の目標は徐州だろうか。しかし、攻め込むには理由がない気がする。曹操はどうやって口実を探し出すのか。あるいは、兗州を落ち着かせるのを優先して、しばらく戦をしないということも考えられる。
一方、袁紹は相変わらずだ。すぐ隣で公孫瓚と劉虞がやりあっているのをただ傍観している。やはり、郭図に言った策は採用されなかったようだ。この先を楽にしたいなら、絶対に劉虞を生かしておくべきだと思うのだが、おそらくじきに彼は負けるだろう。
ただ、こうしてみてみると、むやみに戦を仕掛けない袁紹もその分力を蓄えられると言うことで、ある意味賢明なのかもしれない。目下一番多くの兵を養っているのは袁紹なのだ。
劉虞が負ければ、袁紹は公孫瓚を討とうとするだろう。おそらく、その決着はすぐにつかないだろうと思えた。公孫瓚はなんだかんだ戦には強い。となれば、曹操としてはその間に徐州を獲るのが上策だ。
そんなことを考えながら、潁川に向かった。馬上でも考え込むことが増えていたのか、陽翟に着く直前、静がじっと見つめてくることに気づいた。
「どうした?」
「いえ、随分黙っているので。さみしいのですか?」
言われて、郭嘉は目を丸くした。
確かに、伯求がいるときはいつも移動しながら馬上でなにがしか議論することが多かった。各地の情勢や書物など話は多岐にわたり、黙っていることの方が少なかったかもしれない。しかし静と二人きりになってからはほとんどしゃべっていない。そもそも静と議論なんてできないし、するつもりもない。それを、彼は郭嘉がさみしがっていると取ったようだ。
「まあ、さみしくないって言ったら噓になるけど。でも、別に落ち込んでるわけじゃない。もともとこんなもんだったろ? 何、それともお前俺と議論できるだけの知識あんの?」
「あるわけありません」
「ああ、そういえば結局本名聞かなかったな」
何伯求という名は偽名だったはずだ。最後に聞けばよかった、と後悔したがもう遅い。
陽翟の街に着くと、城門の入り口で誰何を受けた。名と住所を名乗り、中へ入ることはできたが、守兵がいることが不思議だった。
「えっと、すみません。あなたはどこの兵?」
もしかしたら間抜けな質問かもしれない、と思いつつ門を守っていた兵に聞いた。
潁川は少し前には袁術の勢力下だったはずだが、今袁術は寿春まで移動していてこの辺に影響力があるとは思えない。それなのに、街に守兵がいるというのは不思議に思えた。
「我らは曹兗州軍の兵だ。袁術が南へ移って、太守や県令も一緒に逃げ出したらしいので、治安維持のために一時的に街を守っている。ここだけではなく、許などもそうだ」
「へえ、そうなんですね。それは、ありがとうございます」
礼を言って城門をくぐる。見た限り規律はきちんとしていそうなので、街としては守兵がいるのはありがたいだろう。
「ふーん、曹操殿、ここまで手を伸ばしたんだ」
今潁川を獲ることに利があるとは思えない。それほど物資があるわけでもないだろうし、人も移住してしまって少ないはずだ。それでも守兵を置くことにしたのは、袁術と相争ううちに自然と勢力下に入ったのか、あるいは、荀彧あたりが曹操に頼んだのだろうか。
そんなことを考えながら自宅に着いて、郭嘉はその理由をなんとなく理解した。
自宅の門から、兵士たちが輜重を引いて出てきたのだ。それも、一台や二台ではない。
「え、っと!?」
驚いて郭嘉が声を挙げても、誰も気にも留めない。
もしかして略奪か、と思ってさっと目を走らせると、邸にいた家僕と目が合った。
「あ、若! 若ではありませんか! お久しゅうございます! 冀州へ行っておられたと聞きましたが、戻ってこられたのですか?」
家僕が駆け寄ってくる。郭嘉も知っている者だ。
「まあそうなんだけど、これは?」
「これは、奥様が曹兗州様に穀を売られることになり、曹軍の兵士の方たちが運び出しているのです。こちらとしてはいつも穀を運ぶのに人を雇っておりましたので、こうして兵士の方に運んでいただけるので助かっております」
「ああ、そういうこと。びっくりしたよ。いきなり家から兵士出てくるからさあ」
家僕と話しながら門をくぐって邸に入ると、兵士たちはまだせっせと敷地内の蔵から荷を運び出していた。
一体どれだけあるんだろう。
ぼんやり見ていると、家僕が郭嘉に耳打ちした。
「いつも収穫期の秋にたくさん買い込んで、夏までに売り出すのです。穀は春を過ぎると値が吊り上がり、それで儲かります。しかし次の秋までには蔵をある程度空けねばなりませんので、いつもこの時期まとめて買ってくださる方にお譲りするのです」
なんでも、いつもは護衛を雇ってあちこちへ運んで売っていたらしい。ところが、今回は母と荀彧が示し合わせ、曹操軍が兵を出して運ぶ代わりにすべて曹操軍に売り渡すことになったのだという。
「つまり、安く買いたたかれたってことか?」
郭嘉が聞くと、家僕はいいえ、と首を振った。
「それでも平価よりは高く買ってくださっております。護衛を雇う金を考えたら、儲けが多いくらいで」
「ふーん」
ちなみに、と家僕はひそやかに続けた。
「実は蔵はここだけではないのですが、奥様はこれですべてだと曹軍には伝えておけと。ある程度残しておかないと、今年の作柄が悪かったら困りますから」
母の強かさには本当に頭が下がる。郭嘉は苦笑するしかなかった。
「お前さ、そういうことは俺にも黙っとけよ。俺が文若殿に言っちゃったらどうするんだよ」
「おや? 若は穀の売買を見に来られたのではないのですか?」
「違うって。俺、金勘定するつもりないから」
おそらく、荀彧は穀を運び出すついでに潁川まで手を伸ばしたのだろう。こんなことができるのも袁術の影響がなくなったからこそだ。もし袁術の守兵がいれば、こんな堂々と運び出せたはずがない。
兵士たちが運び出している間、郭嘉は邸の中へ入って様子を確かめた。
略奪に遭ってめちゃくちゃだった邸内は、今はすっかりきれいに片付いている。あの日血痕を見た気がするが、それも綺麗になくなっていた。多分、さっきの家僕あたりが片づけたのだろう。どうやら母は商売を再開するにあたって邸もしっかり元に戻していたらしい。
一回りして玄関へ戻ってくると、ちょうど荷が運び終わるところだった。先程の家僕と、兵士の責任者らしい男が向かい合って話し込んでいる。家僕が兵士から金を受け取っていたが、それはせいぜいで両手のひらに乗る程度の包みだ。その量の少なさに、郭嘉は思わず後ろから声を挙げていた。
「何、それだけ? あれだけの穀で?」
「若、違いますよ。これは手付金で、残りは鄄城で奥様がいただくことになっています」
家僕が包みを開いて見せてくれる。中から出てきたのは黄金だった。家僕はその数を数え、兵士を見上げる。
「確かにいただきました。それでは、よろしくお願いいたします」
「うむ」
兵士が胡散臭げに郭嘉を睨んでくる。
「ちなみに、そちらは? 来たときはいなかったが」
「ああ、申し訳ありません。こちらは我らが主家、郭家のご子息です。若君は学問に打ち込んでおられ、まったく商売に関わっておられませんので、解らなかったのでございます。どうか、お許しを」
家僕と共に郭嘉もすみません、と言って拱手した。
「それはそれは結構なことだ。若君、我が殿は商家の生まれであろうと貴賤の別なく能あるものは登用してくださる。志あらば、鄄城まで来られるといいだろう。燕家にゆかりの者と聞けば、荀軍師も口をきいてくださるかもしれない」
「はは、そりゃどーも」
門を去っていく兵士を見送って、郭嘉は苦笑した。
「まさか兵士にまで口説かれるとか思わなかったな」
「曹兗州様は広く人材を募集なさっていると聞きますよ。若は……曹兗州様にお仕えなさるのですか?」
少なくとも、郭嘉が冀州にいながら誰にも仕えていないことだけは把握しているようだ。郭嘉はその質問に首をかしげるだけにしておいた。
「それより、お前知ってる? 父上の墓ってちゃんとしたのかな? 母上がなんか、仮で庭に埋めたとか聞いたけど」
「はい、それはもうすでに。先月お邸を直した際に、張夫人のご遺体とともに、郭家の墓にお移ししました」
張夫人とは、父の正妻のことだ。一緒に陳留まで逃げた時もかなり弱っているようだったが、死んだとは知らなかった。
「張夫人、亡くなったのか?」
「はい。陳留に着いて間もなく、病で亡くなられたと聞きました。ご子息は二人とも、見つかりませんでしたからね。心労がたたったのでしょう。おいたわしいことです」
「そっか」
「明日にでも墓に参られますか?」
「そうだな。そうする」
「それでは、今宵はお邸でお休みを」
家僕に導かれて邸に戻る。
このままここに残るか、それとも濮陽へ行くか。あるいは、鄄城か。
物の少なくなった邸を歩きながら、郭嘉はまだ考えていた。
「まさか守宮令とは」
孝廉に推挙された翌日、荀彧に会いに来たのは荀攸だった。
「孝廉の試験は首席だったと聞いたが、吏部尚書は頭がおかしいんじゃないか。こんな、誰でもできるような、しかも宦官の仕事を、洛陽一の才子に任せるとは」
「どうやら、妻の父の恩寵に預かった方々が手を回したようですよ。昨夜、初出仕の後呼び出しを食らって、おとなしく言うことを聞くならすぐにも尚書あたりにしてやると言われました」
普通ならありえない出世だ。荀攸が眉を顰める。
「金でも要求されたのか?」
「ならば、まだよかったのですけど。寄ってたかって抑えつけられそうになり、思わず怒鳴りつけてしまいました。久々に大声で怒鳴って疲れましたね」
笑って言ったが、荀攸はますます顔をしかめ、嘆息した。
「見目が良すぎるのも問題だな」
「誰でもいいのでしょう、ああいう連中は。わたしが宦官の娘を娶ったことで、宦官に好意的だとでも思っていたのかもしれません。わたしはいっそ感心しましたよ。宦官になっても情欲から解放されないのだと。それはそれは、さぞかし辛いことでしょう。だからこそ、彼らはああやって帝の寵を競い、その不満を政を牛耳ることで解消しようとするのかもしれない」
妙に冷静な荀彧を不思議に思ったのか、荀攸は腕を組んで壁によりかかった。
「随分落ち着いているな。どうするのだ? まさか清濁併せ呑む父君を見習って濁流に乗ろうと言うのでもあるまい」
「まさか。いくらなんでも御免こうむります」
荀彧は、元々朝廷に出仕することには気が向かなかった。王佐の才などといくら言われても、腐敗しきった朝廷に出仕することに意味を見出せなかったからだ。
出世しようと思えば宦官か外戚に媚びを売るのが最短と言われるような世の中だった。それこそ、父がわざわざ心を砕いて有力な宦官の娘を妻にあてがってくれたというのに、荀彧はそれを利用してのし上がることには抵抗を感じていた。そんなことをしても自分の才を認められることにはならないし、よくて宦官の手先で終わるのが関の山だろう。
一方、荀攸は現実主義者だった。多少そしりを受けようが朝廷の内に入って腐敗を糺さない限り現状は変わらない。世を糺さんとするならば、朝廷の内に入らねばならない。それが、彼の持論だった。
だから大して能のない、肉屋の息子である外戚に辟召されてもあっさりそれを受けたのだろう。もっとも、官位を受けても外戚におもねることまではしていない。朝廷内での荀攸の評判はかなり高いものだった。もっとも、その肉屋出身の大将軍は周囲を自身の寵臣で固めている。荀攸はまだそこまでは食い込めていないようだったが。
「君が残ってくれると、私としては心強いのだがな」
「そう言ってくださるのはあなただけですよ。でも、多分そのうち地方に飛ばされるのではないでしょうか? 昨夜、散々お偉方を面罵しましたからね」
「で、そのまま郷里にでもこもる気か? 王佐の才とまで呼ばれた才を、棄てるとでも?」
問われ、荀彧は自然と失笑がこぼれるのを感じた。
王佐の才。
その言葉がどれほど自分を縛ってきたことだろう。
支えてどうにかなりそうな王などいないとしか思えない。それなのに、周りは荀彧が朝廷の臣になると信じて疑いもしない。
こんな、腐りきった朝廷だというのに。そこに、意味があるかどうかさえわからないのに。
「わたしがお扶けすべき王は、ここにはおられないように思います」
こんなことを言えば、荀攸がどんな反応をするのかはよくわかっていた。
不敬極まりない言葉だ。帝の前で言えば首が飛んでもおかしくない。
それでも、荀彧にはそうとしか思えなかった。
案の定、荀攸が不快そうに眉をひそめる。それでもなお微笑んで彼を見つめると、荀攸は小さく首を振った。
「まだ、陛下と謁見してもおらぬのだろう? 確かに世上の評判はよくないが、案外、暗愚と言うほど愚かというわけでもないと私は思っている。施策の中にはなかなか見るものもある。ただ、宦官をうまく御しきれていない。そこが問題だ」
「では、宦官を排除しますか? そんなこと、無理でしょう。そもそも、佞臣を退けられない、それが、暗愚と言わずしてなんと言うのです。わたしは、現状を変えうる方は他にいるのではないかと思うのですが」
「どういう意味だ? 漢室を滅ぼそうとでもいうのか」
「まさか、そういう意味ではありません。ただ、いつまでもこうやって外戚や宦官が実権を握っていたのでは腐敗は収まりません。誰か、能のある官吏が帝の代行をする。そういう制度が必要なのではないでしょうか? 公平に能吏を評価して、皇帝陛下の補佐とする、そのような制度が」
そもそも、腐敗の原因は帝の寵さえあれば誰でも政をできてしまう、というところにある。そこに能力は考慮されない。それが問題だと荀彧は考えていた。
「そして、そのような制度を作りうるのは宦官でも外戚でもない。そう思うのです」
その時、荀彧の脳裏に浮かんでいたのは、当時清流派の代表のように言われていた袁紹だった。だがまさか、そこから数日後に袁紹が朝廷の宦官を根こそぎ殺しつくすとは、考えもしていなかった。
夜中にふっと目が覚め、荀彧は寝台から起き出した。
妙な夢を見たものだ。
その後、宮中で行われた殺戮を目の当たりにし、董卓がやってきた後、官位を捨てて郷里に戻った。その後はしばしばあの血に濡れた惨劇を夢に見たものだが、参内初日の夢など、見たのは初めてかもしれない。
荀攸はどうしているのだろう、と思う。
何顒と共に董卓暗殺を試みたが投獄され、その後獄を出て蜀郡太守に任じられたという。彼がどうしてそんなことを言い出したのかは想像に難くない。おそらくすべてに絶望してしまったのだ。
それを知らせてくれた鍾繇は、荀攸の様子がおかしかった、とかなり心配していた。もしかしたら死を選ぶのではないか、探し出して保護したほうがいい。彼はそんなことも言っていた。
しかしそれも、簡単なことではない。蜀郡に手紙を出そうとして、益州に渡る手段がないと家僕が帰ってきていた。桟道という桟道が落とされ、各地から出ている船も益州行きはほぼなくなったという。
果たして荀攸が蜀郡に行けたのかどうかもわからない。潁川には戻っていないようなので、仮に益州に行かなかったのならどこにいるのかもわからない。
広範囲に探そうにも、荀彧にはその手足がなかった。一族に従属する隠密がいるのは知っているが、父が宦官とよしみを通じたせいで、父の代から隠密たちからは遠ざけられている。
荀家の隠密は、その時々で最も能のあるものを主と選ぶ、と言われていた。荀彧の知る限りでは、叔父の荀爽に付き従っていたはずで、おそらく叔父が死んだあとは荀攸についているのではないかと思う。今一族でまともに官途についているのは彼を除けば荀彧と弟の荀諶のみだ。となれば、隠密には荀攸以外の選択肢はない。隠密がいるなら、荀攸もおそらく無事だとは思うのだが。
妻を起こさないように寝台から降り、廊下に出る。庭に面した廊下は風が心地よく、荀彧は目を閉じた。
と、その時、気配を感じた。
さっと身をひるがえす。ほんの数歩先の廊下に、黒い影が一人、膝をついているのが見えた。
「何者、だ?」
自分が暗殺の対象になるなど考えたこともなかった。剣さえ持っていない。どうする、と身構えたところで、影は言った。
「慈明(荀爽の字)様の元から参りました。荀家の影の者にございます。どうか、文若様にお力添えをいたしたく、参上いたしました」
「叔父上の、ところから……?」
言われて、にわかに信じられるものではなかった。宦官の娘を娶った自分の立場が一族の中で微妙なのは重々承知している。ただ、荀攸が行方不明な今、彼らの選択肢がもはや荀彧にしかなくなったのかもしれない、という気もした。
「随分、時間が空きましたね。叔父上が亡くなってから早二年ですか。その間、何をしていたのです?」
問うても、影は答えない。
「公達のところにいたのではありませんか? 彼は無事なのですか?」
これもまた、答えない。
「黙っていないで顔を挙げよ。主に顔も見せられぬような影なら要らぬぞ」
ぴしゃりと言うと、そこで影は顔を隠していた被り物をとり、まっすぐに荀彧を見た。月明りに照らされたその顔に見覚えがあって荀彧はほっと息をついた。
「一度、慈明様のところにいた時にお目通りしたことがございます。覚えてはいらっしゃらないかとは思いますが」
「いえ、覚えています。叔父上が、わたしに会っておいた方がいいと目通りさせてくださいましたが、当時そなたはわたしに名も名乗らず去っていきましたね」
「……よく、覚えておいでだ」
「人の顔を覚えるのは得意なのですよ。必要な相手は、一度見たら忘れません」
その時は、確か荀爽も明確な説明はしてくれなかった。困ったように微笑む荀爽の顔を見て、大方宦官の娘と結婚した一族の恥さらし、くらいに思って名乗りを拒否したのだろうと思っていた。
「で? そなたの主はわたしでいいのですか? 宦官とよしみを通じた一族の恥さらしと、そう思っていたのでは?」
「己の不明を恥じるばかりです。慈明様はおそらく後継に文若様をと思っておられたことと思いますが、我らはそれを拒み」
「構いません。わたしより、公達の方がよほど才にあふれ、実際朝廷でも中枢に近いところにいました。せいぜいで守宮令のわたしなぞ、そなたたちの主とみなされなくて当然です」
いくらか皮肉が過ぎただろうか。影はすっかり恐縮し、平伏してしまった。
「まあ、いいでしょう。手足が足りなくて困っていたところです。ありがたく、そなたたちの力を借りましょう。扶持はいかほど?」
「お任せいたします」
「では、明朝府の私の室へ来なさい。そこでそなたに任を与える」
「かしこまりました」
平伏する影を前に、寝室に戻る。扉を開けてふと振り返ると、影の姿はなかった。
翌朝出仕すると、荀彧の執務室にはすでに影が控えていた。目立たない兵士の格好をしている。朝から属吏や女官が出入りしていたはずだが、誰も気にしていない。さすがといえばさすがだが、これは敵方の隠密にも可能なことなのかもしれない。そう思うと少し不気味に思えた。
「ひとまず、泰山の様子を探ってほしい。陶謙と天帝教と名乗る連中が略奪を働いているとか。かの地の状況が知りたい」
荀彧は膝をつく影のすぐ鼻先に立って、彼に銀を数枚与えた。
「ひとまずは、これで泰山に行って帰ってくることはできるでしょう。残りは、帰ってきた時に」
いくら一族の隠密とはいえ、すぐには信用しない。そう示したつもりだ。影も心得ているのか、何も言わない。
「もう一つ。公達の行方は知っているのですか?」
影は顔を挙げず、答えなかった。
「知っているのですね?」
重ねて言うと、影は恐縮して平伏した。
「どうか、お許しください。公達様は今しばらく喪に服したいとおっしゃっていたそうでございます。決して、文若様に居所を教えるなとも」
少なくとも生きているということか。荀彧はほっと息をついた。
「誰かついているのですか?」
「元々公達様についていた者が、ひとり」
「そうですか。ならば、安心ですね。色々ありましたから、しようのないことでしょう」
しばらくは、彼を呼ぶのはあきらめるしかないだろう。
ただ、もちろん喪が明けたからといって彼が曹操を主に選ぶかどうかはわからない。腐敗した朝廷を糺すことには人一倍熱意を持っていたように思うが、ことここに至って、彼がどこにつきたがるかは未知数だ。帝を担ぐと言い出さないとも限らないし、群雄の誰かにつくと言っても袁紹を選ぶ可能性だって高い。袁紹と仲が良かったとは聞いていないが、何顒と袁紹は親しくしていた。何顒が袁紹を勧めていた可能性もなくはない。
彼だけは敵に回したくない。荀彧にはその思いが強かった。
それから間もなく、袁紹が予州刺史を派遣すると言ってきた。
袁術がいなくなって予州が空白地帯になったとでも思ったのだろう。曹操が予州に手を伸ばす前に牽制したのだろうと思えた。
ただ、汝南はまだ袁術の勢力が強い。北半分も曹操が十分な影響力を持っているわけでもなければ、守兵がいるわけでもない。潁川だけはどさくさに紛れて守兵を置いたが、これも意地でも保とうというものではなかった。
「刺史を派遣して、どうするのでしょう? 袁紹はまじめに予州を獲るつもりでしょうか? 袁術とぶつかることになりますが」
「兵一万、寧陵に駐留させると言っている。その通行を認めよと」
寧陵は予州の北端にある。曹操が定陶から南下して予州を狙うなら通る位置だ。曹操への牽制であることは明白だった。寧陵は先だって袁術との戦いの際曹操が陥としているが、守兵は特においていない。
「俺は通してやればいいのではないかと思っている。寧陵に一万いるとなれば、袁術へのいい緩衝にもなる。袁紹にしては、珍しく兵を出すのが妙と言えば妙ではあるが」
「潁川の守兵はどういたしましょうか? もしその袁紹の遣わした刺史が、潁川に我らの守兵がいると気づけばいい顔をしないと思いますが」
「それもそのままでよかろう。潁川からは相当な穀を買っているのだろう? もし袁紹が文句を言ってきたらその時考えればいい」
「では、そのように」
「それより、泰山だ。陶謙が泰山で賊徒と一緒に略奪を働きつつ、華と費を落としたそうだ」
曹操が地図を指して言う。泰山は徐州との境界で、ほとんどが山だ。華も費も兗州から徐州へ抜ける道程にある。
「おとなしく徐州へ帰らず、泰山に拠点でも作ろうと言うのでしょうか?」
「またこちら側に戻って来られると厄介だな。あるいは、お前の言っていた通り、これを理由に陶謙を攻め、徐州まで攻め込むか」
好機と言えば、好機。ただ、兗州を把握しきれていない以上、曹操が兗州を離れて遠征することに若干の心配がある。
荀彧が返答を迷っていると、曹操の側に控えていた戯志才が言った。
「それならば、泰山へは行かず、徐州へ直接参りましょう」
「何?」
二人して戯志才を振り返る。彼は身を乗り出し、一瞬右手を出しかけ、そこに腕がないのを思い出したのだろう。左手を出し直し、地図の泰山のあたりを指示した。
「泰山は天嶮の地です。どうしても大軍の利を生かしにくく、賊徒など、散発的な攻撃を用いる者に有利になりがち。下手をしたら伏兵にやられかねません。その点、徐州へ向かえば平原での戦いで、思う存分会戦できます」
戯志才は地図上で泰山から徐州へと指を動かした。山を南に迂回し、彭城まで。
「もし我らが徐州を攻めているとなれば、泰山の陶謙軍は孤立を恐れ慌てて徐州に戻って参りましょう。それを叩けば、勝利は間違いない」
「なるほど」
曹操は乗り気だ。
荀彧はまだ口許に手を当てて考え込んでいたが、曹操にじっと見つめられ、しぶしぶうなずいた。
「その場合は、ぜひ定陶、もしくは亢父に兵を置いていただきたく存じます。一応は牽制しておかなければ、陶謙が兗州へなだれ込んでこないとも限りません。また、袁術なども攻めてくるかもしれない」
言いながら、まだ荀彧が口許に拳を当てていたせいだろう。今度は戯志才がじっと見上げてくる。
「不満げだな?」
「そんなことは。ただ、兗州領内が落ち着かないと言うのに戦の連続で、しかも殿が徐州へ行かれるとなると……」
ただ、これは自分の力不足の部分もある。ふと、今度は曹操と目が合った。
「申し訳ありません、殿。そちらはわたしがなんとかいたします。では、もし可能であれば、出陣は少し遅らせてた方がよろしいかと。彭城あたりで麦を刈り入れてきていただければ、重畳です」
「そうだな」
曹操が片肘をつき、地図を見下ろす。彼は地図上の定陶に兵の駒を置き、次いで別の駒を彭城まで動かした。
「では、引き続き定陶に兵を残そう。鄄城、濮陽などの守兵はこれまで通りだ。これで袁紹、袁術それぞれに抑えになるはずだ。ただ、泰山をそのまま放っておくわけにもいくまい。泰山を攻める姿勢だけは見せよう。五千ほど、亢父に向かわせるか。後は時を待って、俺は南から彭城へ。うまく陶謙をおびき出せればよし。これを討ち、ついでに麦をいただいてこよう。彭城を落とすところまで行ければ御の字だが、なかなかそこまでは難しいだろうな。深追いはせず、冬には戻る。どうだ?」
荀彧と戯志才がうなずくと、それで作戦は決まった。
「問題は、あとひと月ほどの間に陶謙がどちらへ向かうかですね。亢父に兵を進めれば、こちらにはこないとは思うのですが。泰山で略奪を続けるか、あるいは、琅邪あたりへ一度戻る可能性も――」
「琅邪、琅邪か」
突然曹操が言う。驚いて見つめると、彼は困ったように眉をひそめていた。
「どうかなされたのですか?」
「いや、父上が確か、戦乱を嫌って琅邪に逃げていたはずだと思ってな」
中原の戦乱を嫌って徐州に逃げた者は多いと聞く。さして珍しいことでもないが、それが群雄の家族となると話は違ってくる。普通はおおむね一族を伴うものだ。下手に敵地にいようものなら人質になる可能性が高い。
そういえば、曹操の一族や親族は武将や文官に何人かいるが、彼の父母という人には会ったことがないことに荀彧は気づいた。
「お父君が、琅邪に?」
「ああ。あれは揚州で兵を集めたころだったか、俺が家の財を根こそぎ使って兵を集めたのに腹を立てたらしくてな。付き合っていられんと言って琅邪へ移ったのだ。多分、まだ琅邪にいるのではないか」
なんとも薄情な父親だ。ただ、初期の曹操は負け続けて相当兵を失っている。相当な財産があったはずなのにそれを使い果たすほどとなれば、親としては不肖の息子に呆れたということもありそうな気はした。
「居場所はご存じないのですか? こちらへ移っていただいた方がいいのではありませんか。琅邪は徐州の一部ですから、もしお父君が陶謙に囚われるようなことになると……」
「そうだな。こちらへ移ってもらうよう、人をやろう」
といっても、琅邪となれば、まっすぐ兗州へ向かうには渦中の泰山を通ってこなければならない。
何も起こらなければいいが。
しかし、その不安は的中することになる。
ひと月後、陶謙が任城を攻めた際、陶謙から曹操の元へ書簡が届いたのだ。
父親が徐州にいることを忘れるな、と。
いつものように曹操の執務室に入ろうとした瞬間、物が壊れるような派手な音が響く。
荀彧はびくりとして、部屋の入り口で足を止めた。
さっと入り口に控える兵に目を向けると、先程からこのような状態です、と小さく言う。
「殿、荀彧です」
一応訪いを入れてみるが、返事がない。思い切って「失礼します」と断って中に入ると、その瞬間またがしゃん、と大きな音が響いた。見れば、硯が床に転がっている。おそらく、曹操が硯を投げたのだろう。当たったらしい竹簡の山が崩れていた。
その崩れた竹簡の横に座っている戯志才と目が合う。彼は心なしか青ざめて、口を引き結んでいた。
「文若か。どうした?」
声音だけは冷静だ。たが、曹操の目には明らかな怒りがにじんでいた。初めて会った時のような恐怖に身がすくむ。それを抑えながら、荀彧は言った。
「今、泰山に出していた者が帰ってきたのですが、どうやら、殿のお父君は、すでに」
「知っている」
「え?」
曹操は床に散らばっていた竹簡の一つを拾い上げ、それを荀彧の足元へと投げてよこした。
拾い上げ、目を通す。その内容に、荀彧は眉をひそめた。
曹操の父曹嵩は、琅邪から兗州に向かう途中、陶謙に兵を差し向けられ殺された、とある。
陶謙から脅しの書簡が届いたのは任城陥落前。書簡を見て曹操が兵を留めたのをいいことに、陶謙はすでに任城を落としていた。ただ、どうも情報を総合すると、最初に脅しの書簡が届いた時点で曹操の父は死んでいた可能性が高い。
「任城へ行くぞ。すぐにだ」
曹操が足早に室の外へと向かう。荀彧とすれ違いざま、彼は思い出したように荀彧に目を向けた。
「文若、陶謙に書簡を送れ。必ずや、八つ裂きにしてやるとな」
自分に向けられたものではないとわかっていても、憎悪のあふれた曹操の眼差しに背筋が凍った。
室の外に出た曹操が出陣準備を指示する声が聞こえる。それに従う兵たちの声。それが遠ざかっていくのを聞きながら、荀彧はようやく息を吐いた。
「……大丈夫でしょうか。完全に冷静さを失っておられる」
「兵法に照らせば、望ましいことではない。だが、あれは止められまい。俺はむしろ、あの激情を殿がどう兵に乗せるのかを見てみたい」
戯志才が楽しげに目を細めて立ち上がった。
「先日言っていた通りに兵を配置しよう。彭城攻略に向かう兵を、そのまま任城へ」
「そうですね。物資はひとまず任城攻城を前提に用意しましょう。陶謙を討てればよし、彼がどこかへ逃げるなら追加で送ることにして。陶謙には脅しの書簡を送りましょう。殿の父君が殺されていることをこちらが把握していること、殿が激怒していることが伝われば、陶謙も怖じ気づくかもしれない」
陶謙が、そこまで本気で曹操を挑発しようとしていたとは思えない。そもそも数か月前に発干で完膚なきまでに敗れて逃げているからだ。となれば、最初の書簡は曹操を脅して動きを止め、略奪をするだけして戻るつもりだった可能性もなくはない。
それが、どうして殺すところまでやったのか。人質は生かしておいてこそ用をなすものだが。
「まあ、任城は陥ちるだろう。当初の計画を遂行するだけの冷静さが殿にあるなら、わざと陶謙を逃がして徐州まで追って、麦を獲ってきてもいいが」
戯志才の言葉に、荀彧は首をかしげた。あの曹操にそこまでの冷静さが残っているとは思えない。本気で陶謙を八つ裂きにしかねない勢いだった。
「わたしは、殿のあのお怒りが静まることを願うのみです」
おそらく、陶謙は死を免れないだろう。陶謙が死ねば、空白になった徐州はあっさり落ちてくるかもしれない。
そう思うのに、なぜか漠然とした嫌な予感ばかりが沸き起こってくる。さっきの、あの曹操のすさまじい憎しみをみたせいだろうか。
そんなことを考えていたら、なだめるように戯志才に肩を叩かれた。
「怒りは、必ずしも悪とは限らん。感情に任せて兵を動かすのは確かに下策だが、あそこまでの怒りがあれば敵は怯え、味方も心を動かされる。案外あっさり徐州が獲れるかもしれん」
戯志才が同じようなことを言う。
確かにそうだ。それなのに、やはり嫌な予感はなくならなかった。




