12:<荀彧/荀攸編>絶望の淵で4
なかなかうまく兗州が落ち着かず奔走する荀彧と、荊州にまだとどまっている郭嘉と荀攸。
これで荀攸編終わりです。
穀物一石(20kg)=百銭くらいの金銭感覚でご覧ください。
「少々強引なことをしてしまって申し訳ありませんでしたね」
荀彧は府の入り口近い客間にいた。
客――と言っても、商家の女将は恐縮して平伏している。荀彧は彼女の前に立つと、顔を挙げるように言った。
四十歳を少し過ぎたくらいの女性で、なかなかしっかりしていそうな顔をしている。ぱっと見て、どことなく目元が郭嘉によく似ていると思った。
「奉孝殿の母君、ですね?」
「はい。燕杏と申します」
「ああ、やはり。調べて驚きました。先程部下に帳簿を確認させたところ、潁川の燕という商家からかなりの穀物を買っていたようです。部下が覚えていましたよ。わざわざ潁川から、しかも珍しく女主人が取り仕切っている商家だと。あなたのことですね?」
「はい。私は元々郭家にお仕えしている一族の者にございます。亡き旦那様は体が弱く、荘園の管理もままならず、わたくしが代わりにお手伝いをさせていただいておりました。その最中に亡き旦那様にご厚情を賜り、息子を授かったのでございます」
ということは、正妻ではないのだろう。そういえば、郭嘉がそんなことを言っていたのを荀彧は思い出した。
「わたくしの生まれが生まれでございますので、元々、奉孝も我らの一族として育てるつもりでございました。ところが、あの子は旦那様に似て体が弱く、武術はからっきし、代わりに書物にばかり興味を持って。しかも、正妻のご子息たちはどちらかというと学問が嫌いで、与えられた書物を奉孝に下さるような状況でございました。亡き旦那様は、いずれ奉孝をどこかへ仕官させて、あわよくば孝廉に、とよく申しておりました」
「奉孝殿ならばそれも可能だったかもしれませんね。いささか、まあ、品行方正さには欠けるような気もしないではありませんが」
ただ、少し前ならば、多少金を積めばどうとでもなるような状況でもあった。傍流とはいえそれなりの家柄で、郭嘉のあの頭があればそう難しい話ではなかっただろう。
「このようなご時世では孝廉など夢ではございましょうが、わたくしとしては、亡き旦那様の願いを受けて、息子がどなたかにお仕えしてくれれば、と願っております」
「わたしも、奉孝殿が殿にお仕えしてくれればと願っているのですよ。あなたからも、一言口添えしていただけませか? いつまでも冀州で遊んでいないで、こちらへ来るようにと」
燕杏は一瞬考える様子を見せ、はい、と言った。
「それはそうと、わたしとしては、奉孝殿だけでなく、あなたとの関係も大切にしていきたいと思っているのです。これまでこれほど穀を売っていただいたからには、それなりにわたしたちを買ってくださっているのですよね? 穀の蔵がもし潁川にあるのなら、こちらへ荷を運んでくるのにもいくらか難儀しているのでは? もしよければ、力になりましょう」
「ありがとうございます。わたくしとしましても、曹兗州様にそう言っていただけるのは大変光栄なことにございます。今後、兗州様に真っ先にお取引をお願いできればと」
「よろしい。では、そのように」
荀彧が微笑みかけると、燕杏はぱっと頬を染め、平伏した。
年が明けてから、曹操の本拠地が鄄城に移った。荀彧は家族共々鄄城に移り、しばらくは帰順した青州の元黄巾賊の入植を行うため、兗州各地を走り回った。通達だけではどうもうまくいかなかったからだ。
荀彧が思っていたより、各城市の反発は大きかった。曹操の言っていた通り、元賊徒を受け入れるということにかなり抵抗感があるようだ。各地の県令と会い、説明し、時にはその城市に入植した者を伴って説得に当たったりしているうち、どうも自分でやるのではうまくいかないということに気づき、曹操に頼んで、陳宮と程立に説得を頼むことにした。彼らは兗州の名士で、影響力が大きい。この場合、地元出身でない荀彧より、兗州出身の彼らの方が適任だと思ったのだ。とはいえ、結果は少し改善したくらいで、たいした違いはなかった。
陳宮は面と向かって荀彧を非難した。そもそも黄巾賊を入植させるなど無理だったのだ、と。実際もめている以上、荀彧も反論できない。結局、うまく受け入れられなかった城市では、元黄巾の者たちは入植できたとしても城壁の外に集落を作るような形で定着していった。
比較的うまくいっているのは東武陽の南東に新たに作った集落で、人数の多さもあって、畑の開墾などかなり進んでいるようだ。開墾した土地には二年間租税を免除するとしたこともあって、各地で入植できなかった者たちもそちらへ集まっているようだった。
問題は、来年だ。耕作放棄地も、開墾した土地も一年で十分な量の収穫が見込めるとは思えない。加えて、曹操は四方八方に敵を抱え、戦は続く。どう考えても兵糧が足りない。
そんな中、陶謙が兗州の北に突然兵を進めてきた。曹操を攻めるつもりというよりは、袁紹を牽制する姿勢にも見える。これを、曹操は青州兵を用いて軽く蹴散らしていた。
陶謙は泰山まで退いた。もし徐州を攻めるなら今だ、と言えなくもない。陶謙を更に追い込めば彼は徐州へ帰るだろう。それに乗って徐州を攻め、兵糧を奪う。
これだけなら陶謙が攻めてきたのは渡りに船だと思っただろう。けれど、兗州領内が今一つ安定しない現状では、それを曹操に進言するのもはばかられた。多分、今徐州を獲っても保てない。
しかも、ほどなくして劉表ともめた袁術が北上してくるらしいと噂が広がってきた。
「殿、荀彧です」
入れ、と声がかかり、曹操の執務室へと入っていく。卓の上には地図と無数の竹簡が並べられ、上座に座る曹操の向かい合うようにして、下座の端っこに竹簡に埋もれるように戯志才が座っていた。横には書記官も控えている。彼は利き腕を失って以来、ほぼ常に書記官を同行させていた。
戯志才が来てからというもの、曹操に夜呼ばれるのはもっぱら戯志才の役目になった。
戯志才が今まで書き溜めた書物を基に、二人して古今の戦術について議論を交わしているのだと言う。おかげで荀彧は好きなだけ仕事に没頭し、時には家に帰ることもできるようになった。ただ、戯志才は文官の仕事はほとんどできない。結局、軍師が決まったとはいえ軍務関係の書類の処理は依然荀彧の仕事のままだった。
室に入ると、曹操が荀彧に竹簡を渡してきた。目を通すと、袁紹からだ。
「袁紹が、袁術を討てと言ってきた」
「元々、袁紹が劉表をけしかけた、ということのようですね」
「そうだ。袁術を、北上させるために」
「こないだの、陶謙が突然攻めてきたのもその絡みでしょうか? 公孫瓚を助けるために袁紹への牽制と見せかけて、あるいは袁術と陶謙で殿を挟み撃ち、というような」
「可能性はあるな。まあ、陶謙はあっさり退いたが」
曹操は不満そうに椅子にもたれかかっている。代わりに、卓の端に座っていた戯志才が声を挙げた。
「好機ですね。南からは劉表が攻め立てると言います。うまく挟み撃ちできれば袁術を討つなど容易い」
「問題はそこではない。どう思う、文若?」
曹操が嘆息と共に見つめてくる。荀彧はうなずいて言った。
「今、袁術に消えられては困ります。袁紹は今でこそ公孫瓚と争っていて他に矛先は向けてこないでしょうが、仮に公孫瓚との決着がついてしまった時、南に袁術がいなければ次の標的はこちらになってしまいます。我らがもう少し大きくなるまで、袁術には生き残っていてもらわなければ」
袁術がいる限り、袁紹は曹操を袁術に対する盾として利用しようとするだろう。つまり、その間は曹操が袁紹から攻められることはない。いずれ袁紹とぶつかるときは来るだろうが、それをなるべく先にして力を蓄えることが必要だ。
「そうだ。志才、わかるか? 目の前の戦にただ勝てばいいというものではない。次があることを見越して策を立てねば」
「はい。となれば……」
卓の上に広げられた地図に、戯志才が手を伸ばす。彼の指は南陽から汝南、そして寿春へと動いた。
「汝南でも南の方か……欲を言えば揚州あたりに、袁術を落ち着かせたいところですね。今江東には目立った群雄はおりません。南へ広がれるとなれば、袁術もあえて殿の領域を侵そうとは思いますまい」
「そうだな。となれば、我らも沛、梁、陳と、うまくすれば潁川あたりまで手を伸ばせる」
「落とせても、汝南はやめておいた方がいいかと思います。かの地は袁家の本拠。仮に汝南を制しても、支配は難しいかと思います。仮に袁術が揚州まで行ったとしても、汝南は緩衝地帯として手は出されぬことです」
「では、最終的には袁術には汝南の南あたりにいてもらった方がよさそうですな。となれば……まずは袁術の北上を待ちましょうか。こちらから遠征するより、引き込んで討つ方が何かと有利です。多分、街道を北上して陳留あたりまでくるでしょうから、そのあたりですかな」
「では、人と物資を今のうちに動かしましょう。守兵を減らせば、そこに袁術は拠るのではないでしょうか? 落としやすそうな城というと」
荀彧が曹操を見ると、彼は地図を指して言った。
「封丘、襄邑、太寿あたりか。どれも守りには向かん城だ。陳留の張邈には袁術が来ても通してやれと通達しておこう。それで、他の城市が手薄と見ればそちらに向かうだろう」
曹操の挙げた城市をたどっていくと、陳留の北から街道を通って梁へ向かう道筋が見える。その先には曹操の郷里、譙がある。仮に袁術が逃げ込んだとしてもおそらく曹操に有利に運ぶのではないかと思えた。
「その城を転々とさせることができれば、自然と袁術は南へ走るでしょうな」
「うむ。後は、袁術がどこまで骨があるか。そして、わが軍が十万の軍相手にどこまで耐えられるか、か。青州兵の実力を測る、いい機会だな」
椅子に片肘をついて地図を見つめる曹操は、どこか楽しげだった。
荀攸は埠頭で衝撃的な言葉を聞いた日から数日、郭嘉と共に江陵にとどまっていた。正確に言うと、ふさぎ込んだ自分に、郭嘉が付き合ってくれたという方が正しいだろう。彼は食事を共にする以外は江陵の町中で遊んでいるらしく、日中はいない。食事の時も当たり障りのない会話で終始して、彼が気を遣ってくれているのは痛いほど感じていた。
甘えていて情けない。そう思う気持ちはあったが、彼の能天気な明るさがありがたくもあった。
ところが、そろそろ踏ん切りをつけて身の振り方を決めなければ、と思い始めたころ、郭嘉が熱を出した。
最初は疲れが出ただけだろうと思っていたのが、一日後にはほとんど口も利けないほど高熱になり、体に発疹まで現れた。
慌てて呼んだ医師はこともなげに言った。
「中原から来られた方がよくかかる風土病です。おそらく半月程高熱が続くかと」
「半月も?」
「ですから、高齢だと耐えられず死んでしまうこともありますが、まあ、大丈夫でしょう。まだお若いですからね」
医師はそう言って薬を置いていったが、燕静という郭嘉の従者は青い顔をして郭嘉の側から離れなくなった。
「多分、水に中ったのだと思います。私が、江になど連れて行かなければ……」
申し訳ありません、と彼が言うと、横になっていた郭嘉がぼんやりと目を開いた。
「ばか。俺が、行きたい、っつったんだから……」
胡乱な瞳が、燕静の後ろから覗き込んでいた荀攸にも向けられる。彼の唇はごめん、とかすかにつぶやいているように見えた。
「気にするな。ゆっくり休め。そもそも、君をここへ連れてきたのは私だ」
「はは、ふたりして……来るって決めたの、俺なのに」
郭嘉が寝込んでいる間に、状況は動いていた。
劉表に糧道を断たれた袁術が北上し、陳留あたりまで攻め入ったらしい。打って出た袁術を、曹操が会戦で鮮やかに打ち破った、という報が届いていた。
「袁術は……?」
目を覚ました郭嘉に教えてやると、彼は心配そうに言った。
「死んではいない。陳留の西の別の城市に逃げ込んだそうだ。こうもあっさり次々城を陥としているあたり、案外曹操がうまく袁術を狙う方向に動かしているのかもしれんな」
「そっか、なら、いいんだけど」
郭嘉が力なく笑う。
見ていて胸が痛んだ。
彼でなく、寝込んだのが自分の方ならよかったのにと思わずにはいられない。そもそも、自分と出会わなければ彼はここまで来ることも、病にかかることもなかったはずだ。
半月すれば熱も下がるだろうと思ったが、二十日を過ぎてもまだ熱は下がらなかった。再びやってきた医師は、ちょっと長引いているだけだろうと言うだけだ。燕静は郭嘉の体が弱いので危ういのではないかと、本気で心配している。郭嘉の体は明らかに衰弱してきていて、最近は話しかけてもうつろだった。
いたたまれず、宿を離れる時間が長くなった。
江陵の街はなかなかの繁栄ぶりだ。劉表の治世はうまくいっているのだろう。中原の戦乱など嘘のように市場には物があふれている。廃墟となった洛陽、董卓に支配されすさんだ長安、荒らされたまま袁術の支配を受け、さびれた潁川。これまで通ってきた街を考えると、襄陽や江陵の栄えぶりは別世界のようでさえあった。戦がないことがいかに市井の生活に大きな影響を与えるのか、よくわかる。
天下が、朝廷が、と中原で争っているのが、果たして正しいのか否か。帝などいなくても、世の中は平和なのではないか。そんな気さえしてくる。
都も守れない帝に、帝たる資格なんてない。帝は、ただ戴かれていればいいとは思わない。
あっさりと言った郭嘉の言葉が浮かんでくる。自分もうっすら考えていることではあったが、ああもはっきり言われると衝撃は大きかった。若いから言えるのか、それとも彼が漢室に囚われないだけの慧眼の持ち主だからか、それとも、自分が漢室にとらわれすぎなのか。
そんなことを考えながらふらふらと市場を歩いていると、ふと呼び込みの声に気を惹かれた。
「旦那、どうだい、ひとつ! 甘~い宝玉みたいな蜜だぜ!」
露店に果実と壺を並べた男が必死になってこちらに呼びかけている。果物など間に合っている。踵を返そうとした瞬間、店主が慌てて壺を持ち上げ、中を荀攸に見せつけてきた。
「ハチの蜜! 旦那くらいのお方なら食べたことあるでしょ?」
「……蜂蜜?」
見れば、壺の中にはいくつも並んだ六角形の中に黄金色の蜜が詰まったハチの巣があった。
「珍しい。こんなもの市で売っているのだな」
「たまたま手に入ったんだよ! 俺、貴族様のお邸に行くようなツテなくてさぁ。高くてみんな買ってくれないんだ。旦那、どう? 万病に効くって評判だよ! あ、でも赤ん坊には毒だけどね」
荀攸は眉をひそめた。万病に効くというのは嘘だろう。ただ、老人が滋養強壮に口にするといいという話は聞いたことがある。ふと、脳裏に郭嘉の姿が浮かんだ。ここしばらくろくに食事もできず、衰弱した彼の姿が。
「いくらだ?」
「この一瓶が百銭だよ」
商人が言ったのは、手のひらに乗るくらいの大きさしかない小瓶だった。
「ふざけているのか。高すぎだろう」
「旦那、金持ち過ぎて相場わかってないでしょ。これでも結構安いぜ」
そう言われると、言い返せなかった。そもそも市で買い物などほとんどしたことがない。ましてや蜂蜜の相場など、めったに口にすることもないのでよくわからない。
しようがなく一つ買い、宿へと戻った。
燕静に渡すと、彼は蜂蜜を知らなかったようだ。
「これは?」
「蜂蜜だ。気休めかもしれないが、滋養にいいらしい。奉孝殿に飲ませてやれ。ああ、そのままでは喉に詰まるかもしれないから、湯で薄めるといい」
「ありがとうございます」
言われたとおり、彼は白湯でいくらか薄め、かいがいしく郭嘉に飲ませてやっていた。
「その、かなり高いものなのでは」
飲ませた後、静が珍しく話しかけてきた。見たこともないものが出てきたので恐縮したのだろう。
「いや、気にすることはない。なかなか治らないのは食事がとれず衰弱しているせいもあるのではないかと思ったのだ。それに、長い間世話になっているのはむしろ私の方だ。君にも、悪いことをしたな。こんな男を拾ったばかりに、大事な主がとんだ目に遭っている」
言うと、燕静がふと微笑んだ。そんな顔を見るのも、初めてだ。
「好奇心旺盛で、なんにでも首を突っ込みたがる人ですから。ですが、この病にかかったのは私のせいでもあります。違う土地に来て、水には気をつけねばならないとわかっていながら、江で若を遊ばせてしまったのは私ですから。お心遣い、感謝いたします」
それから三日ほどして郭嘉の熱は下がり始め、そこから更に数日経った頃には、彼はしっかりと意識も取り戻していた。
「よかったー、治って。さすがに死ぬかと思った」
能天気に笑う郭嘉の顔を見て、荀攸は心底安心していた。
「それはこちらの台詞だ」
「伯求殿、蜂蜜買ってきてくれたんだって? 高かったでしょ。なんか悪いな」
そう言いながら、郭嘉はわずかに残った蜂蜜をさじですくって口に含んだ。
「懐かしいな、蜂蜜。子供のころ熱出すとたまに父上がこれ持ってきてくれて、結構楽しみだったんだよな。俺、妾の子だからほとんど父上と接触なかったんですけど、熱出したときにたまに蜂蜜持ってきてくれると、その時だけ優しくしてもらえて、結構嬉しかった記憶ありますよ」
「かわいがられていたのだな」
「どうだろ。それ以外には、ほとんど用事がない限り会うこともなかったけど。って、あ、そういえば……」
郭嘉が傍に控えていた燕静に目を向けた。
「俺、すっかり忘れてたけど父上の遺体ってどうしたんだ? ちゃんとした?」
「奥様が、潁川から逃げるときとりあえず箱に入れて庭に埋めたと聞きました。後で一族の墓に入れるつもりだとおっしゃっていましたよ」
「そっか、じゃあせめて墓くらい後できちんとしないと。俺、喪に服してすらないし」
さらりと言う郭嘉の顔に悲しみの影はない。
「父君が亡くなったのか?」
「だいぶ前ですけどね。もう、二年過ぎたかな。最初に潁川を出た時に、董卓軍の連中がやってきて殺されたんですよ。俺はたまたま街を離れてて助かったけど。父上も、多分兄上たちも。兄上、見つかってないんだろ?」
郭嘉が問うと、静がうなずく。
「母上はうまく難を逃れて生き残ったんですけどね。でも、ばたばたしてて、喪に服すとか悲しむとか、そんな時間全然なくて、すっかり忘れてた」
「薄情な……」
「一昔前だったら、喪に服さないとか、あり得なかったですよね」
確かにそうだ。それなりの家なら、親が死ねば三年は喪に服す。だがそれも、この乱世ではそうしていない者も少なくないだろう。それどころではない、という方が正しい。
「孝廉はあきらめるしかなかっただろうな」
「はは、確かに。俺、正直ばかばかしいって思ってたんですよ。孝廉って、親孝行しないとだめだからって、みんな何年も喪に服したりするでしょ? あんなの何の意味があるんだって思ってた。だけど、潁川で襲われた後、家族が死んで、財産失って呆然としてる人たち見て、ああ、案外喪に服すってものも意味があるのかもしれないなって初めて思ったんですよ。大切な人死んだら、そりゃしばらく引きこもりたくもなるよなって」
郭嘉の穏やかな瞳が見つめてくる。最初に、彼に放っておけないから、と言われた時もこんな目をしていた。無邪気なくせに、無遠慮に踏み込んでくる。憎らしくも、好ましくもある眼差しだ。
見透かされたようで決まりが悪い。荀攸は彼から目をそらした。
「儒の教えにも、それなりに意味がある」
「そうですね、本当。俺、孟子嫌いだったけどもう一回勉強するかな」
踏み込んでくるくせに、こちらが引くとそれ以上は踏み込まない。こういうところも、この男の厄介なところだった。
「その体で旅は当分無理だな。もうしばらく、ここに滞在したほうがいい」
「そのつもりです。さすがに長時間馬に乗れる気、しないですよ。伯求殿は? どうするんです?」
「私は……」
「もう益州、行くのはやめるんでしょ?」
確かに、それはそうだ。手段がない。
では、どうする?
「いっそ、喪に服するのもありだと思いますけど」
考え込んでいると、郭嘉がぽつりと言った。
「おせっかいかもしれないけど、気持ちが落ち着くまでのんびりってのも、ありじゃないかな?」
はっとして見つめれば、郭嘉は恥じたように「違いました?」と言った。
「……なぜ、そう思った?」
「長安で、多分董卓あたりに逆らって投獄されてたんでしょ? ってことは、当然家族だって無事じゃないだろうし。最初、かなり落ち込んでたし」
言われて、思い出す。初対面だと言うのに、ふと本音が口をついてろくでもないことを言ったものだ。あの時はなにもかもがどうでもよくて、投げやりになっていたというのもあるかもしれない。
いや、本当は、誰かに救いを求めたかったのかもしれない。
じっと見つめてくる郭嘉の眼差しは優しい。気づかわしげで、今でも余計なことを言っていないかと思っているらしいことがわかる。そんなふうに思うなら踏み込まなければいいのに、踏み込まずにはいられないのが、荀攸には不思議だった。
「……死んだと、決まったわけではないのだがな」
「あ、ごめん。俺余計なこと」
「いや、いい。それに、友が死んだのは事実だからな」
今でも思い出す。冷たくなった何顒の亡骸の感触を。じっと手のひらを見つめれば、牢獄の中で彼の亡骸を抱いた光景が脳裏によみがえってくるようだ。
何も、できなかった。その絶望に囚われて、死ぬことしか考えていなかった。
それが、今はその呪いから解き放たれつつある。
郭嘉をじっと見つめると、彼は不思議そうに小首をかしげる。それが妙にいとおしく、荀攸は彼の頭をぽんぽんと軽くたたいた。
驚いて郭嘉が目を丸くする。それに、荀攸は微笑んだ。
「感謝する、奉孝殿」
君がいなかったら、私は多分死んでいた。その言葉は胸の中だけで続けた。
おそらく、あの動乱の中そのまま喪に服していたら、自分は死を選んでいただろう。底の見えない深い絶望だった。だが、目を閉じても、もう己を呪う声は聞こえない。
この能天気な男が、深淵の闇から自分を引っ張り上げてくれたのだ。
不思議そうに首をかしげる郭嘉を見ながら、荀攸はもう一度胸の中で感謝の言葉を述べておいた。
そこからさらにひと月、一行は江陵にとどまっていた。
郭嘉の体力が戻るまで、というのが建前で、彼は彼でこの先の身の振りかたに迷っていたらしい。あちこち出掛けては、ああでもないこうでもないと悩んでいるようだ。
荀攸はこの間に抄本(写本)の仕事を見つけていた。抄本は文字の知識がないとできない仕事なので、給料は悪くない。食べるために仕事をする、というのは初めての経験だったが、背に腹は代えられない。
いい加減手持ちの金も底をつきつつある。普通なら一族の誰かに援助を頼んだりするものだが、今、荊州にいることを知られるのは気が引けた。特に荀彧あたりにバレようものなら、仕官しろとせっついてくるのは目に見えている。
荀攸はその仕事をしながら、しばらく江陵に滞在するつもりだった。
それを郭嘉に話すと、彼は不思議そうに言った。
「そんなことしなくても、どっかの名士の家庭教師とかすればいいんじゃないですか? 伯求殿って実は結構名の通った文人でしょ? そんな、誰でもできるような仕事しなくても」
士大夫にとって、食いつなぐために仕事をする、というのは不名誉なことだ。郭嘉はそれを気にしたのだろう。
「いいのだ。あまり目立つことはしたくない。知り合いに会わぬとも限らないからな。それに、たまにこんなことをしてみるのも悪くない。黙々文字を書いていると、余計なことを考えずに済む」
「それなら、まあ……」
「で? 君はどうするのだ?」
「うーん、ひとまず潁川に戻ろうかなって思ってます。父上の墓のこともそうだけど、一回邸どうなってるか見てこようかなって」
「兗州にも冀州にも行かないのか」
「それは、もう少し先かな」
まだ自信がないらしい。
自信など、独りで研鑽してそうそうつくものではない。むしろ世間に出てこそ自信がつくものだが、若い彼にはまだそれがわからないのだろう。
「もし私が君の立場なら、一度冀州へ戻るかな」
「え、なんで?」
「いずれは曹操に仕えたいが、重用されるかわからず迷っているのだろう? ならばまず、袁紹のところへ戻って今回の使者の任を果たした功を認めてもらう。ある程度袁紹の寵を得るか臣下たちの中で一目置かれる存在になったところで、今度は袁紹を面罵する」
「ええ?」
「できるだけ大勢の前がいいだろう。君の口ぶりなら、袁紹を悪し様に罵る理由などいくらでもあるだろう。袁紹の無能を言い立て、お前のような能のない君主に仕える義理はない、と言って曹操のところへ行く。そうすれば、君は袁紹に求められながらそれを蹴って曹操のところへ行ったことになり、周囲は君に一目置くことになるだろう。また、曹操も曹操で袁紹には敵愾心を抱いているはずだ。そこに、袁紹の仕官を蹴ってやってきた男が自分に仕えたいと言う。間違いなく重用されるぞ」
郭嘉が苦笑いを浮かべた。
「それって、意味ある? むしろ殺されそうな気がしますけど」
「殺されはしないだろう。むしろそんなことを言う臣下を殺したとなれば、袁紹は確実に名を落とす。それを気にして、袁紹は君を殺せないはずだ。仕官して、主の寵を得ると言うのは大変だぞ。知識や実務の才だけではない。家柄は当然、見た目も、相性も、当然ある。少しくらいは演出するなりして、己を売り込まなければ」
納得いかないらしく、郭嘉は腕を組んで考え込み始めた。
「君の場合、一番足りないのはそこだ。すぐに顔に出る。もう少し感情を消し、寡黙になって貴公子らしく笑っていろ。もう少し口調を整えて身なりを整えれば、目鼻立ちは悪くないのだから、それなりに見栄えもする。それだけでも違うぞ」
「身なりって、髪の毛ぶった切った人に言われたくないよ。俺、これでも結構見た目は気を遣ってる方だと思うんだけど」
言い返され、思わず笑った。返す言葉もない。あの時は身なりを気にする余裕がなかったのだと言っても、言い訳だろう。
それから数日後、郭嘉が街を出るのを見送った。城壁の門の近くまで一緒に行き、互いに拱手する。
「じゃ、お元気で。できればまた、お会いしたいですね」
「そうだな。君の名が荊州まで轟いてくることを期待している」
「はは、そうですね。何年後かにそうなってるって、期待してます」
苦笑しながら踵を返し、郭嘉はしばらく手を振りながら歩いて行った。
彼が城門を抜け、姿が見えなくなって荀攸も踵を返す。住まいは長屋の一室を借りてあり、抄本の仕事を地道にこなしていればしばらく生活に困ることもないはずだ。
城市の通りを歩き、借りた自室へたどり着くと、荀攸は一つため息をついて座った。
もう一つ、片づけねばならないことが残っている。
「出てこい。いるんだろう」
荀攸が言うと、どこからともなく影が姿を現した。隠れていたのか、それとも荀攸についてするりと中に入ったのかもわからない。
出てきた隠密は、荀攸が仕官して以来付いてきている者だった。確か、父の命に従ってやってきた、と言っていたはずで、当時は部下が五人ほどいると言っていた。その後、大従父の荀爽が死に、彼に付いていた者も合流したというのは聞いていた。
「大従父のところから付いてきた者もいると言っていたな。今、何人いる?」
「十五人ほどおります」
「多すぎる」
吐き捨てると、影はじっと荀攸を見上げてきた。次に何を言われるのかわかっている顔だ。
「お前たちは、全員荀文若のところへ行け」
「公達様」
「今、最も影の力を必要としているのは彼だろう。こんなところで遊んでいないで、彼を助けてやれ。天下を、安んじるために」
しばらく影とにらみ合った。ずいぶん経って、口を開いたのは影の方だった。
「公達様は、いかがなさるのですか」
「私は、しばらくここで羽を休めながら、天下の趨勢を見守るつもりだ」
漢王朝が滅ぶのは、もはや時間の問題なのかもしれない。かといって、その片棒を担ぎたいとも思わない。少なくとも些細なことで心が乱れない程度には落ち着かなければ、仕官など難しいだろう。
「荀家の影は主を選ぶのだろう。ならば、こんなところで引きこもっている世捨て人ではなく、時代の矢面に立って必死に戦っている男の元へと向かうべきだ。違うか?」
影はまた迷いを見せた。しかし、断り切れないと思ったのだろう。かしこまりました、と言って彼は平伏した。
「ですが、公達様、どうか、私だけは残ることをお許しください」
「だめだ」
「公達様にも、護衛は必要でございます」
「必要ない」
「お願いでございます。御身は、私にとっては無二の主にございます!」
声を荒げ、反論されたのは初めてだった。特別、彼に何かをしてやった気もしなければ、そこまで思い入れを持たれる記憶もない。だが彼は彼で、そう思う何かがあったのだろうか。
それ以上、影は言い募ることはしなかった。ただ床に平伏したまま、荀攸の言葉を待っている。
「……養ってはやれんぞ」
「最初から申し上げております。私がおそばにおりますのは銭のためではございません」
「……好きにしろ」
「ありがとうございます」
荀攸が額に手を当て、目をつむって嘆息する。
目を開いた次の瞬間にはもう、影の姿はなかった。




