11:<郭嘉/荀攸編>:絶望の淵で3
荀攸編はまだ続きます。
襄陽を出て江陵へ向かう一行。益州行の船をさがしていると、船頭から衝撃的な言葉を聞かされる。
翌日、郭嘉は護衛のいない隙を狙って伯求と共に宿を出て、街道を南に取った。
別に言ってもよかったが、言えばまた色々と面倒になるのは目に見えている。朝食時に食堂に護衛たちがいないのを見計らって、そのまま宿を出た。
「よかったのか? 後でもめるのではないか?」
昨夜酔って涙を見せた伯求は、最初こそ恥じて見せたものの、その後は前よりむしろ落ち着いて見えた。言いたいことを言って、すっきりでもしたのかもしれない。もっとも、彼にとってあれは酔っての醜態だったようだけれども。
「いいんですよ、別に。もう冀州戻るつもりもないし。やることは一応、やりましたしね」
「使者の任の話か」
「ええ。袁紹にとっても、劉表にとっても利のあることです。もしかしたら、俺がわざわざ来なくたって、いずれは自然とそうなってたかもしれませんけどね」
袁術は公孫瓚や陶謙と結んでいる。となれば、袁術と対立する劉表と、公孫瓚と対立する袁紹が手を結ぼうとするのは自然の成り行きだったかもしれない。郭嘉はあくまでそれを利用しただけだ。
「だが、君もよくわからない男だ。袁紹の元を去って曹操のところへ行こうと思っているのに、あえて袁紹の利になるようなことをするとは」
「袁紹には結構長いこと世話になったし、多少役に立ってもいいかなくらいには思ってましたよ。あと、これ、曹操殿にとっても結構利のあることだと思ったし」
「曹操にも?」
「ええ。曹操殿は黄巾賊百万を降して、土地も糧食もなくて困ってるんじゃないかなと思ったんです。だから、劉表と一緒に袁術を討てれば予州が手に入る。曹操殿は沛国の出身だし、予州ほしいと思ってるでしょ」
郭嘉が言うと、伯求は小首をかしげた。
「それは、どうだろうな」
「え?」
「確かに、予州を治められるならば多少利もあるかもしれんが、今の曹操軍にそれだけの余力はあるまい。百万の賊を受け入れるなぞ、並大抵ではないぞ。おそらく兗州はまだ元黄巾賊の処遇で苦労しているのではないか。その上兗州が落ち着かないのに予州を、などと欲を出せば、余計に治まらず、下手をすれば乱を招くだろう。そもそも、賊徒百万を受け入れた時点で曹操軍は相当の糧食を彼らに提供したはずだ。となれば、次の戦をするにも兵糧が足りていないという状況も考えられる」
郭嘉は驚いて伯求を見つめた。
「私が曹操の部下なら、しばらく戦をしないでくれと言いたいところだろう。それなのに、袁紹が劉表をけしかけて袁術が北上してくる。戦わねば袁術軍の餌食。もちろん袁紹は助けてくれない。背後には公孫瓚と結ぶ陶謙。これでは兵糧がなかろうが戦うしかない。曹操軍にとってはかなり困った状況に思うが」
「そ、それは……」
「しかも、仮に曹操軍に袁術を迎え撃つだけの余力があったとしよう。劉表との挟撃がなったとして、もし袁術が滅びるようなことがあれば、それはそれでもめる。まず、袁術のいなくなった汝南を曹操が獲ろうにも、袁紹が認めまい。汝南は袁家の本拠だ。次に、袁術がいなくなったことで目下袁紹第一の敵は公孫瓚、次いで曹操となる。公孫瓚はすでに袁紹と戦っていて、負けるのは時間の問題だろう。となれば、次の標的は曹操だ。まあ、勝てないな」
「そ、それはわからないんじゃ」
「河北四州を制した袁紹と、兗州をやっとやっと治めて四方八方に敵を抱えて戦の連続、余力のない曹操では力の差は歴然だ。戦う前に臣従するしかなくなるだろうな」
通りのいい低い声で理路整然と言われると、もうそうなるとしか思えなくなってしまった。
さっと体から血の気が引くのがわかる。正直、そこまで郭嘉は考えていなかった。領土が広がれば曹操にとってもいいことだろうくらいにしか。
「……俺、余計なことしちゃったかな」
「無論、これは私の勝手な予想だ。曹操には荀文若もついていることだし、曹操軍は曹操軍で何か策でもあるかもしれん。何せ乱世の姦雄などと呼ばれた男と、王佐の才を持つという洛陽でも指折りの才子が組んでいる。我らの思いつかないようなことを思いつくこともあるだろう」
荀文若、と言った伯求の声音に少し微妙なものを感じて、郭嘉は伯求を見た。しかしその横顔からは感情は読み取れない。
「文若殿、そんなすごいんですね」
「そうだな。洛陽の士人で知らぬものはあるまい。王佐の才と呼ばれたこともそうだが、それにふさわしい才子だと評判だった。最後に会った時は自分が扶けるべき王は誰なのか、などと悩んでいたが、まさか曹操を選ぶとは」
どういう意味だろう。じっと見つめると、視線に気づいた伯求が軽くため息をついた。
「王佐の才。そう言われれば、帝をお扶けする運命にあると思うのが普通だろう。それが、あの男は当時の霊帝を見て、『わたしがお扶けすべき王はここにはおられないようです』などと言っていた。生意気なことを、と思ったが」
「曹操殿が次の王、って思ったってことですか?」
「わからん。最近会っていないからな」
「もしかして、結構文若殿と仲良し?」
口ぶりからすると、かなり近しい関係のように思える。もしかして兄弟だったりして、と思ったが、面差しは似ていない。
じっと見つめたことに気づいたのか、伯求が嫌そうに目をすがめた。
「仲良くはない」
「でも、詳しそうですけど」
「彼が洛陽を去る直前まで、朝廷で顔を合わせていたからな」
「ふーん」
元荀彧の上司だろうか。口ぶりから察するに、なんとなく荀彧に対して含むものがありそうだ。
「黄巾賊を民として受け入れると言ったのも、おそらく荀文若の献策だろう。普通ならば賊徒と言えば討伐としか思い浮かばないはずだ。だが、あの男は黄巾の乱が起きた当初からずっと言っていた。民を乱に追いやる政が悪いのであり、賊徒をすべて討伐すればいいなどというのは間違っている、とな。だが、私に言わせればそんなものは理想論だ。現実に、賊徒となった者がすぐ善良な民に戻るとは思えんし、つい先日まで賊徒だった者たちを市井の民があっさり受け入れられるわけもない」
「でも、曹操殿はそれで多くの兵を手に入れて、声望も高まった。必ずしも、失策とは限らないですよね?」
郭嘉が言うと、伯求はうなずいた。
「王佐の才とやらのお手並み拝見だ。多分、これから兗州は荒れるだろう。それを抑えられれば……曹操の天下も、見えてくるだろう」
伯求が眉をひそめ、うめくように言う。まるでそれは、世界の滅びを予見するかのような、重苦しい言葉に聞こえた。
その夜、のんびり進んでいたら次の街に着く前に日が暮れてしまい、野宿になった。街道から少し離れた位置にたき火を焚き、それを囲んで軽く食事をとった。
静が薬を溶かすための湯を沸かしている。それを、郭嘉はぼんやりと見つめていた。
護衛の兵が追いかけてくるかもしれないと緊張していたせいか、一日馬を駆ったせいか、妙に疲れがたまっている。正直眠くてしようがなかった。
湯が沸くと、静が少し冷ましてから薬を溶かし、郭嘉に渡してくる。それに口をつけると、伯求が言った。
「どこか、体が悪いのか?」
「うーん、よくわからないんだけど」
よくわからない? と伯求が眉をひそめている。無理もない、と郭嘉は笑った。
「俺、元々体弱いんですよ。数年前まではほとんど室から出られないくらいだったんだけど、これ飲むようになって体動かすようになって、改善したんですよね。だから、一応。正直効いてるのかどうか疑問なところもあるんですけど、前、半月くらいだっけ、飲まなかったらぶっ倒れた時あって」
飲み終えて、器を静に渡す。温かなものを飲んだせいか、また眠気が強くなる。郭嘉はそのまま地面に横になった。
「ごめん、寝ていい?」
伯求を見て、次に静を見る。うなずいた伯求とは違って、珍しく静が口を開いた。
「その前に、若。一つ確かめておきたいんですけど」
「なに?」
「例の護衛の兵たち、追いかけてきたらどうしますか? もう冀州に戻るおつもりはないということでいいすね?」
なんで今そんなことを。
疑問に思いながら、郭嘉は横になったまま答えた。
「そうだな。冀州戻るつもりはないよ。あいつら来たらどうするかなー。冀州帰りたくないって言って、穏便に帰ってくれないかな?」
「交渉して駄目だった場合、始末をつけますね」
「始末って、お前。殺さなくてもいいだろ」
「あれだけの手練れだと、中途半端なことはできませんよ。こっちも命がけです。いいですね?」
「まあ、お前がそこまで言うなら……。でもお前、あいつらに勝てるの?」
「無理です。ですから、何殿、お願いしたいことがあるのですが」
そう言うと、静は伯求に耳打ちしていた。そんなことは初めてだ。気になって見ていると、二人はひそひそと小声で何か言葉を交わしていた。
「え、何? なんか――」
「では、お願いいたします」
「あまりあてにされたくはないのだがな。まあ、しようがあるまい」
伯求が持っていた剣を手に取り、それを素早く少しだけ抜いて、再び鞘に納めた。焚火のはぜる音に交じって、カチン、とその鞘の音が響く。次いで、伯求が誰にともなく言った。
「仕事だ」
何の話? と郭嘉が口にするより前に、伯求が立ち上がる。彼は周囲を見回して言った。
「寝込みでも襲うつもりか? こちらとしては早く寝たいので、さっさと出てきてくれると助かるのだがな」
「え? なんの――って」
伯求が誰もいないはずの闇の中に言った後、二十歩ほど離れた木陰から三人、男が姿を現した。
護衛の兵たちだ。
「えっ、いつの間に」
「夕暮れからずっと、つけられてました」
こともなげに静が言う。
「なんで言わないんだよ」
「言ったら大騒ぎするのが目に見えていたので。言ったでしょう。こっちは命がけですから」
言いながら、静が郭嘉の前に立った。
「そちらから声をかけてこないと言うことは、交渉の余地はないと思っていいですね?」
「ふん、よく気づいたな。まあいい、どうせ戦えるのはお前だけだろう。後ろの二人は、どう見ても文人だからな」
すらりと抜き放たれた剣が月明りを返して輝く。どうやら本当に交渉の余地はなさそうだ。
「ちょ、ちょっと待てよ。あんたら俺を殺す理由ないよな?」
「ずっと気に入らなかったんだ! 豎子が、偉そうにあごで使いやがって!」
「いや、護衛ってそういうもんだろ。ていうか、俺殺して大丈夫なのかよ。冀州に戻ってどう言い訳するんだ?」
「田軍師からは、もしあんたが逃げるようなら殺していいと言われている。あんたが冀州に戻らないって言ったから殺したって言えばそれまでだ」
実際そうなので、返す言葉もない。田豊も手は打っていたと言うことだろう。簡単に使者に出すからおかしいとは思っていたのだが。
「あんたそんな心狭くて出世できないと思うけど」
郭嘉が言うと、隣の伯求が笑った気配がした。見れば、彼はこんな状況でも落ち着き払っている。
「あいにくだったな。この護衛の任をやり終えれば田軍師から都尉に取り立てると約束されてるんでね」
ということは、かなり上級の兵だ。腕もそこそこ立つのだろう。前に立つ静の緊張もひしひしと伝わってきている。
兵が躍りかかってくる。それに、静が苦無を数本投げつけた。
「なっ」
兵たちがひるむ。その一瞬を逃さず、静が切り込む。彼の切っ先は隊長らしき男を捉えたらしく、赤いしぶきが飛び散った。
それと同時にどこからともなく数人が現れて三人を取り囲み、戦い始めた。五人はいるだろう。しかし、護衛の兵たちも大したものだ。驚いてはいるようだが、それぞれ数人を相手にしても剣をふるって身を守っている。
「え、な……っ」
驚く郭嘉を後ろから引く手があった。振り返ると、伯求だ。
「危ないぞ。戦えないのなら下がっていろ」
そういう彼は、手に持った剣を抜いてもいない。
「どういう状態? 伯求殿は気づいてたのか?」
「いや、さっき君の護衛に言われて知った。君の護衛の手下三人は、あまり戦えないのだそうだ。それで、私の影に協力してくれないかと言われた。影には手を出すなと言っていたので、あまり気は進まなかったのだが……。まあ、どうしようもない。私もこんなものは持っているが、正直剣術に自信はないしな」
腰の剣は、飾りと言うことだろうか。その割にところどころ傷ついて、いかにも使った形跡がある。
しばらくすると、決着はついていた。
襲ってきた三人とも、地面に横たわっていた。見れば、彼らの体には切り傷以外にも何本か苦無が刺さっている。不意を突いた最初の一撃が勝負を決めたのかもしれない。伯求の隠密たちもちらほら怪我をしていた。
「片付けろ」
伯求が言うと、彼の隠密たちが死体を運び始めた。どこかへ隠すなり埋めるなり、するのだろう。
「……なんか、慣れてる?」
思わず問うと、伯求は小首をかしげた。
「何度か、賊徒に襲われて戦っていたことはあったかな。その時の死体は、どうしたか知らないが」
「場所を変えましょう。血の匂いがすると、落ち着きませんし」
そう言った静もまた、血に濡れていた。怪我をしているのか返り血なのかよくわからない。じっと見つめていると、静が不思議そうに目を向けてきた。
「初めてですね、そんな顔するの。いつもは血を見てもケロッとしてたのに」
「そうか?」
「ええ、いつもそうだったでしょう? 賊徒を罠にはめた時も、私が賊徒を斬った時も、むしろ楽しそうにしてたような記憶がありますけど」
「いや、なんかお前が血まみれだからさ。怪我とか、大丈夫か?」
言われて、静は初めて自分の状態に気づいたようだ。彼は一通り自分の体を見回すと、首を振った。
「かすり傷ですよ。後で洗ってきます。お見苦しくて申し訳ありません」
「いや、そういう話じゃなくて」
「このくらいで済んでよかった。心底そう思います。私一人では勝てませんでしたから。何様、ご協力感謝します」
静が伯求に向かって頭を下げると、伯求は首を振った。
「いや、気にするな。というより、私でなく連中に礼を言ってやってくれ。できれば報酬もな」
「承知しております」
「報酬?」
郭嘉が横から口を挟むと、伯求は恥ずかしい話だが、と肩をすくめた。
「長安を出て以来、私は連中に扶持(給料)を払っていないのだ。もう必要でもないし、どことなりと行ってしまえといったのだが、連中が勝手について来ているという状態でな。だから、力を借りたからには報いてやりたい。が、私には今その余裕はないのだとさっき、彼と話していた」
「そうだったんだ」
静が腰の財布から黄金を一枚取り出し、それを恭しく伯求の手に渡した。
「こちらを」
さすがに驚いたらしく、伯求が肩をすくめる。
「随分、豪勢だな」
「主の命を守れるなら金など惜しみません。それに、この先もお願いしたいと言う意味も込めて。ただ、一流の隠密に仕事をお願いするにはこれでも少ないかもしれませんが」
「いや、十分だ」
伯求は隠密の一人を呼ぶと、今度はそれを隠密の手に渡した。伯求がご苦労だったな、と言うと、隠密は恭しくそれを掲げ、膝をついて礼を言っていた。そしてすぐ、彼は木陰に走っていく。しばらくはそれを目で追っていたが、闇に紛れたせいもあってすぐにわからなくなった。
「なんか、伯求殿の隠密、すごそうですね」
「かもしれん。だからこそ、いつまでもこんな男についているのはどうかと思うのだがな」
そんなことない。そう言おうとして、郭嘉は口をつぐんだ。伯求の瞳が昏く沈んで、静かに闇を映していたので。
途中寄り道したりしながら、一行はのんびりと江陵へと向かった。
伯求は時が経つにつれて調子が戻ってきたのか、ほとんど暗く沈み込むことがなくなった。時折笑顔も見せ、郭嘉が問えば驚くほど鋭い解が返ってきたりする。
彼と話していると、自分とは明らかに立場が違うのだとしみじみと感じることが多かった。明らかに為政者の視点で世界を俯瞰しているような、そんな深さを感じる。比べて、自分はまだどこか低い視点で局地的なところしか見られていないという気がした。
荀彧と話したとき感じた深さとはまた違う。彼と話しているとどんどん自分を引き出されるような、そんな感覚になった記憶があるが、ここまで圧倒されはしなかった。
書物にだけ向き合っていても、わからないことがある。
袁紹のところに行ってから多くの人と会ってきたつもりだが、こんなことをしみじみ感じさせられたのは彼が初めてだった。
本来四日くらいのところを、時には一日宿で議論して終わり、時にはわざとわき道にそれてみたりして、江陵に着いた時はすでに半月近くが過ぎていた。
江陵から船に乗って、伯求は益州に行くつもりだろう。
おそらく、もう離れても大丈夫だろう、と郭嘉は感じていた。正直居心地のいい相手だったので少々さみしい。ただ、彼をとどめるだけの理由がない以上、別れはしようのないことだった。
と、思っていたのだが。
「船が出ていないだと?」
「ああ。益州への船はもうないよ。たまに益州から船が来ることもないこたないが、それも益州牧様の許可がないと荷も人も乗せられない。前は、月に一回くらい船出てたんだがね」
埠頭までやってきて、あっさりとそう言われてしまった。伯求を見ると、最初に一言発したきり、すっかり固まってしまっている。
「旦那さんたち、益州の人じゃないよな? もしかして中原から益州にでも逃げようってのかい? でも、益州様の許可証がないと。俺らも、それがないと逆にどんな目に遭わされるかわからねえからよ。悪いけど、無理だわ」
「益州へ行く道って、他にあったっけ? 荊州から陸路」
隣にいた静に聞くと、彼は首を振った。
「街道は、ないかと。そもそも益州へ行くには山を越えるか船で行くかでしょう。あるいは、襄陽から漢水を通って漢中に至る航程があったかも……」
「漢中は今、五斗米道とかいうやつらが牛耳ってて、ヤバいって話だぜ。やめときな。それこそあっちは誰も寄り付いてねぇよ」
「最近、益州行く人はいないんだ?」
「ああ」
「朝廷から正式な任官を受けた人とかは? 益州が任地だったら、益州牧もさすがに文句言わないんじゃないか?」
郭嘉が言うと、船頭はあからさまに顔をしかめた。
「はぁ? 朝廷? んなもん、生きてるか死んでるかもよくわかんねえ帝の言うことなんて、誰が聞くんだよ。こっちはもう荊州様とか益州様とか、実際に実権握ってる人たちの言うこと聞くしかねえぜ。下手に逆らったら首が飛ぶ。それに、最近みんな勝手に官位名乗ったりして、どれが本物か偽物かなんて、俺たちにゃわかんねえよ。無理無理!」
ひらひらと面倒そうに手を振られる。これはもう引き下がるしかなさそうだ。郭嘉は突っ立ったままの伯求の腕を引き、埠頭から離れた。
「……何という、ことを」
うめくように、伯求が言う。漢室を信奉する彼からすれば、さっきの船頭の言葉はありえない発言だろう。郭嘉さえ、そこまで言うかと驚いたくらいだ。
「時代は変わったんだよ、伯求殿」
腕を引き、人混みをかき分けて歩きながら思う。
灰燼と帰して人通りのない都より、こうして栄えている街を治めている牧の方に実権が移るのはある種当然のことだと思えた。
「桟道は落ちてる。船もない。これはさ、もう、益州なんて行くなってことだよ。そう思うだろ?」
問うてみても、伯求は返事をしない。しばらく見なかった昏い瞳をして、ただ茫洋と地面を見つめているだけだ。
「あなたみたいな立派な人は、天下のために働かなきゃだめってことだ。天がそう言ってるんだよ」
うなだれる伯求を引っ張って、とりあえず江陵に宿を取ることにした。
寝室に入っても、伯求は寝台に座ったまま、ずっと地面を睨んで一言も発しなかった。
かける言葉が見つけられず、郭嘉はその向かいの寝台に横たわっていた。もう大丈夫かと思ったのに、ささいなことで気分が変わる。どうやら、まだ大丈夫ではなかったようだ。
――どうしたもんかな。
いっそ、彼を北へ連れて行くべきだろうか。それとも、しばらく一緒に荊州に滞在してみるというのも面白いかもしれない。荊州にも中原から逃げてきた文人は多いと聞くし。そんなことを考えていたら、静が手紙を二つ持ってやってきた。
「若、お手紙です。母君と、荀文若殿から」
「え、文若殿? どうしてここわかったんだろ」
「若が使者に立たれたのを知って、母君に託されたようですよ。持ってきた者が、必ず返事をと言われたとか」
「いや、だからなんで俺が使者になったの知ってるの、っていう……。まあ、いいや」
今回は、竹簡ではなく絹布の手紙だった。焦って書いたのか、珍しく所々文字が乱れている。
曰く――
奉孝殿、袁紹の使者を買って出たと聞きました。行き先は大方南の方でしょう。袁術ですか? 劉表ですか? いずれにせよわたしたちに仇なすような任を受けられたとは、わたしは考え方を改めねばならないでしょうか?
あんな無難だけが取り柄の能無しに仕えるなど、慧眼を持つあなたとも思えない大きな過ちです。曹孟徳様に会って話せば、誰があなたの主にふさわしいのか、そして誰が天下を獲りうるのか、すぐに理解できるでしょう。南に行ったならそのまま冀州へ帰らず鄄城まで来られますように。待っています。
「うわ……」
両手で絹布の両端を持って広げながら、郭嘉は苦笑を禁じえなかった。
「なんか、怒りがにじんでるんだけど」
「手紙を簡単に広げるな。見えてしまうぞ」
横やりを入れてきたのは伯求だった。彼は相変わらず寝台の端に座ってうなだれたままだが、ちらと郭嘉を見てため息をつく。
「私がいることを忘れるな。読まれたらどうするのだ」
「別に読まれて困るようなものじゃないですよ。見ます?」
苦笑交じりに伯求の方へ絹布を向けると、彼はさっとそこに目を通した。
「随分熱烈だな」
「熱烈っていうか、こんなの来るなんてびっくりですよ。初めてですよ、こんな袁紹を能無しとかばっさり言ってるの。しかもいつもは竹簡なのに、なんでか絹布だし」
「おそらく、それは演出だ」
「演出?」
「怒りの余り、あるいは驚きの余り、きちんと竹簡に書く余裕もない、と言いたいのだろう。現にあの男がこんな文字を乱れさせることなどそうそうあるまい。それもわざとだ」
「え、そうなんだ」
「それだけ、君を取られまいと思っているのだろう。大したものだ」
わずかに皮肉のにじんだ言葉に、郭嘉は苦笑するしかなかった。自分としては、本当に荀彧が自分の何をそこまで評価してくれたのかよくわからない。
次いで、母から来た竹簡を開いた。そちらは呑気なものだ。曹操の使者に連れられて濮陽に移ったこと、荀彧と面会したことが書いてあり、曹操とつながりができるのは自分にとっても利のあることなので、その言葉に甘えることにした、とある。荀彧からは息子をなんとしても仕官させるようにと言われたが、そこは任せる、とも。
「母上もちゃっかりしてるよ」
曹操に仕えるかどうか任せる、などと言ってのけるあたり、彼女も強かだ。
「兗州に行くのか?」
伯求が聞いてきた。郭嘉が首をかしげると、彼は重ねて言う。
「呼ばれるうちが花だぞ。そこまで買ってくれているのなら幕僚の中で埋もれることもあるまい。あとは、その見込まれた才を発揮すれば寵臣になれる」
「簡単に言うなあ。そりゃ、伯求殿くらい凄ければそんなの簡単だろうけど」
「私など、まだまだだ」
「嫌味? 俺、あなたと話すようになってから、自分の未熟さしみじみ思い知しらされてばっかりなのに」
「歳の差だ。君があと五年どこかの君主の元で働けば、きっと私の言うことがわかるようになる」
「五年て、長いなあ。じゃあ、伯求殿も一緒にどうです? 曹操殿は間違いなく天下を獲るお方らしいですけど」
「……天下を、か」
絹布をひらひらさせながら言うと、伯求はまた昏く瞳を沈ませてしまった。失言だっただろうか。しばらくすると彼は深いため息とともに言った。
「先程の船頭の話、どう思う?」
「え?」
「各地の群雄が、野心を抱いているのは知っている。劉表、劉焉あたりはこのまま己の州を自分の国とする腹積もりだろう。袁紹、袁術あたりは天下を伺い、おそらく天下を獲れば帝にとって代わるつもりのように思える。君はどうだ? 漢室について、どう思う?」
「どう、って……」
じっと見つめられ、郭嘉はなんと答えるべきか迷った。自分の胸の内にある言葉は、彼の望むものではないとわかっているからこそだ。
「市井の民にとって、あるいは多くの士人にとって、もう漢朝などあってないようなものなのだろうか」
すがるように見つめられると、ごまかすことはできない、と思った。
「俺は、あの廃墟になった洛陽を見てから、ずっと思ってますよ。都を焼かれて何もできないような帝に、帝たる資格なんて、あるのかって」
言葉を選んで、ゆっくりと言ったつもりだ。郭嘉が言葉を重ねるうち、伯求の瞳にまた影が落ちていく。それが、郭嘉の胸を締め付けた。
「ただ戴かれるのが、帝じゃないと思う」
そこまで言うと、伯求はさっと目をそらし、痛ましげに目をつむってしまった。
「…………そう、だろうな」
長い沈黙の後、伯求がぽつりとつぶやく。
「伯求殿は、どう、思ってるんです? 漢室を復興、できると思ってる?」
「復興、か」
皮肉げに口許を緩め、彼は首をかしげた。
「何をもってそうするかということにもなるだろうが、あの幼い帝が天下を制して親政を行うことを目指すと言うのなら、それは不可能だろう。現に、廷臣たちは董卓の残党さえ持て余している。私は――」
何か思い出したのか、彼が言葉に詰まる。何かを振り払うように首を振って、彼は続けた。
「私は、董卓を殺せばすべて解決すると思っていたが、まったくそうではなかった。もはや、誰かが死ねば元に戻るなどという局面ではない。誰か、力を持ったものが天下を制し、号令する。そうでなければこの乱は収まるまい。そして、力でもって天下を獲ったものは己が帝だと言い出すだろう。それも、自然の成り行きなのかもしれない。だが……」
伯求は片手で顔を覆い、うなだれた。
「すまない。いささか感情的になっているようだ。しばらく、休ませてくれ」
彼はそのまま寝台に横になり、布団をかぶってしまった。
郭嘉がそっと部屋を出ると、静もそれについてくる。なんとはなしに彼を見上げると、視線に気づいた静が見つめ返してきた。
「どうしたらいいと思う?」
「放っておくしかないでしょう。下手に何か言ったりしない方がいいですよ」
「だな。じゃ、暇もできたしどっか遊びに行こうか」
「若。その前に、ご自分の身の振り方、決めなくてよろしいので?」
あきれ交じりの眼差しを一瞥して、郭嘉は肩をすくめて見せた。
「それはゆっくり考える」
静の小さなため息が聞こえる。それも、郭嘉は聞こえないふりをした。




