10:<郭嘉/荀攸編>絶望の淵で2
荀攸編続きです。
郭嘉は使者として劉表と対面したのち、伯求(=荀攸)の心中を垣間見る。
翌朝、郭嘉は護衛の兵と共に襄陽の府に赴いた。
入り口で訪いを入れると、しばらくして劉表の下へと導かれた。
習った通りの作法で名を名乗り、拝礼する。形式的なやり取りの後、郭嘉は初めて顔を挙げて劉表を見た。
居並ぶ臣下の中央に座る彼は、確かにいかにも上品そうな、厳かな顔をしていた。ただ、にこにこ笑っている割に、あまりいい印象は受けない。
「随分遅うございましたな。先ぶれの早馬は五日も前に来ておりましたぞ。もはや使者など来ないかと思っておりました」
「それは失礼をいたしました。道中色々とありまして」
郭嘉は護衛に指示をして、持ってきた書簡と進物を劉表へと捧げさせた。
「こちらは、袁冀州(袁紹)よりの書簡と、同盟の証としての進物にございます。どうか、お納めください」
劉表側からも従者が出て、それを受け取る。劉表は進物を脇に置かせると、竹簡を開いて中を読んだ。
「帰って袁冀州殿に伝えられるがいい。同盟の件はこちらとしても願ってもないこと。喜んでお受けいたすと」
「ありがとうございます。では、同盟の証として、ぜひ南陽を攻めていただきたい」
ここまでは、書簡に書いてあったはずだ。
しかし、劉表は途端に申し訳なさそうに顔をゆがめた。
「なるほど、書簡にも確かにそうありますが、しかし、困りましたな。袁術軍は十万の大軍。我らに果たして打ち負かせるかどうか……」
劉表に呼応するように、周囲の幕僚たちもうなずいている。おそらく、最初から示し合わせていたのだろう。
「袁冀州殿も無茶なことをおっしゃるものだ。御身は大軍を有しておられ、袁術軍などさしたることはないと思っておられるのもしれないが、ここ荊州は豪族の力が強うございましてな。兵を集めるのも至難、せいぜいで数万でござろう。とても袁術軍に対抗は――」
「何をおっしゃいます。刺史に就任してすぐ、豪族五十数人を計にはめ、この場で斬殺された方のおっしゃることとは思われません。刺史に就任されてからすでに数年。少なくとも南郡からここ襄陽までは把握しておられましょう。劉荊州殿の治世はなかなかのものと評判でございます。さぞかし多くの兵馬を養っておられるとお見受けしますが、見込み違いでしょうか?」
劉表の顔色がさっと変わった。それでも郭嘉は微笑みを絶やさず、彼を見据え続けた。簡単に顔色を変えるな、と言われたことを思い出していた。
劉表のことはあらかじめ調べていた。袁紹からもらった情報もあれば、静の部下を使って調べさせたこともある。荊州は劉表が刺史になって以来、孫堅の件以外は大きな戦乱には巻き込まれていない。治世の評判も悪くないので、十万くらいの兵は養っていておかしくないと思えた。
「もしどうしても袁術軍と正面切ってぶつかるのが気が引けると言うのでしたら、袁術の糧道を断ってはいかがです?」
「糧道を、だと?」
「はい。私は許から苑を経由してここまで来たのですが、袁術支配下の領域はどこもひどいものでした。街はさびれ、周囲の田畑も荒れ放題。あれで一体どうやって十万もの兵を養っているのかと疑問に思わずにはいられませんでした。さらには袁術は奢侈にふけり、遊ぶ金を捻出するために民に重税を課しているとか。それを嫌がって逃げる者も多数と聞きます。戦乱で荒れ果てた田畑、しかもそれを耕す者も逃げているとなれば、一体どうやって糧食を賄っているというのか……。いかに重税を課しているとはいえ、搾り取る元がなければ取るものも取れません。となれば、別のところから調達していると考えるのが自然でしょう」
にこりと微笑んで見つめると、また劉表のわずかに顔色が変わったのがわかった。楽しさで頬が緩みそうになって、また言い聞かせる。表情を変えてはいけない、と。
「では、どこから糧食が供給されているのか。北は敵対関係にある曹操殿。西は洛陽。もちろん食などあるはずがない。徐州の陶謙と考えられないこともありませんが、いささか遠い。となれば、必然的に……」
じっと劉表を見つめると、彼は一切の表情を消し、すっと目を細めた。しかし、それ以上彼が何か言うことはない。郭嘉は微笑んだまま、たたみかけた。
「何も、責めているのではありません。乱世で領土を平和に保とうとするには色々と気を遣わねばならないことも多いでしょう。ですが、それもここでおやめになってはいかがです? 南陽の荒れ方を見れば、袁術が天下など獲れないのは明白。それならば、無駄に袁術に恩を売るのをやめ、天下に最も近い位置にある袁紹殿に恩を売っておいて損はないと思いますが」
劉表が瞑目し、小さくうなずくのが見えた。
「だが、もし糧道を断って袁術が怒ってこちらに攻めてきたらいかがするのだ」
「その時は、『袁紹殿に脅されて仕方なく』とでも言えばいいですよ。従わなければ袁術もろとも一呑みにするぞと脅されたとでも言えば、袁術はそれならばと袁紹殿を攻めようとするでしょう。それに、万が一攻めてきても、背後には曹操殿もいますしね」
「ふむ」
劉表はひげを撫でながら考え込み始めた。次いでそばにいた幕僚らしき男二人とひそひそと話し合い始める。それを、郭嘉はじっと待ち続けた。
内心は少し焦っていたが、それでも顔色には出さないように気を付けたつもりだ。
しばらくして、幕僚たちが劉表から離れる。劉表は大きくうなずいた。
「よかろう。袁冀州殿の策、お受けいたす」
「ありがとうございます」
これで、任は終わりだ。
平伏して床を見つめながら、郭嘉はにやりと笑った。
劉表は孫堅が死んで以来、毎月一日、秘密裏に袁術に一定の兵糧を送っていたのだと言う。それを条件に、不可侵の約束を結んでいたらしい。
じき、二月になる。
そこから兵糧を送るのをやめる、と劉表は約束した。兵糧が送られてこなければ、早晩袁術は怒って兵を挙げるだろう。劉表は兵糧を送るのをやめたのを袁紹のせいにするだろうから、多分袁術は北上するはずだ。劉表は袁術がいなくなって手薄になった南陽を抑え、曹操は袁術をうまく引き込んで叩く。そこまでうまくいけば完璧だろう。
「――ていうわけなんで、俺、この策がきちんと成立するまで見届けて帰りたいんだけど、いいですかね?」
歓迎の祝宴を、という劉表の言葉を丁重に断った後、郭嘉が護衛の兵たちにそう言うと、隊長らしき男が顔をしかめた。
「それはいかほどの時間ですか?」
「そうだな。兵糧を送ってこないことに袁術が気づいて、怒って兵を挙げるまで……だから、ひと月くらいじゃないかと思うけど」
「長すぎますな」
「そうかな? でもここで使者の任終わったからさようならってのも、ちょっと無責任な気がして」
「それはそれは、あなたがそんな真面目なお方だとは存じ上げませんでした」
意外な反応が返ってきて、郭嘉は驚いた。こんな風に言い返されたのは初めてだ。
「なんならあんたらだけで先に帰ってもらってもいいよ。もう使者の任は終わったんだし、護衛も必要ない。俺の従僕もそこそこ戦えるし」
「ひとまず、冀州に指示を仰ぎます。滞在されるのは? 最初に泊まったあの宿ですか?」
「そのつもりだけど」
「では、そのように。移動される場合は必ず我らにご連絡を」
「りょーかい」
襄陽城内で話をつけ、護衛は宿までついてきたが、夕方食事をしようと食堂に降りてきた時にはまた姿が見えなくなっていた。
「これで解放してくれたんならいいんだけどな」
「どうでしょう。今までも夜だけはいませんでしたからね」
「何やってんだろうな?」
「おそらく、別の任を受けているのではないでしょうか? これを機に袁術・劉表の領内を見てこいとでも。隠密のようなことはできなくとも、街の様子を見てくることくらいはできます」
「ああ、なるほどな」
「で、どうなさるんです? あの何殿と一晩飲んだら、すぐに荊州を離れますか? まさか、本当に策の行方を見届けるとは言いませんよね?」
「うーん、ちょっと、迷ってる」
策の行方は気になるのだが、戦の趨勢ならいずれ噂で聞こえてくるだろうと思う。ただ、郭嘉にはそれより気になることがあった。
「俺、どっちかっていうとあの人の今後が心配なんだけど」
伯求は最初に会った時、死にたいと言っていた。ここ数日でそういった発言はなくなったが、まだ時折昏い瞳をしている時がある。
「なんか、ほっといたら死んじゃいそうでさ」
「若、言っておきますけど、乱世で死にたいなんて言っている人間は掃いて捨てるほどいますよ。そのいちいちを救おうと思っていたらキリがありません」
「そりゃそうだけど。でも、あんな立派そうな、頭のいい人がさ。絶対どっかの元高官だって。俺、何伯求ってどっかで聞いたことある気がするんだよなぁ」
ただ、どこで聞いたのかを思い出せない。
「一つはっきりしているのは、あの人には護衛がついています。三人」
「護衛? そんなのいなかったろ」
「隠密です。さりげなく離れたところから見守っています。もうこれだけで、手を出さない方がよさそうな人物のような気がしますけどね。ちなみに」
静がさっと視線だけ動かす。
「今も見られています。いるのは一人だけですけど」
「え」
全然気づかなかった。
「俺、見張られてる?」
「そのようです。さすがに城の中まではついてきていないようでしたけど、今朝宿を出たところから、ずっとですよ。多分、使者として劉表のところへ赴いたことは知られているでしょう」
「まあそれは、昨夜すでに見抜かれてたし。でも、どういうことだ? 俺警戒されてるのか?」
「敵意は感じませんが……。向こうも向こうでこちらが何者か知りたいのかもしれません」
「ふーん。ま、隠密使ってるのだけは確かってことか」
死にたい人間が隠密を使って何かをするというのも妙だ。死にたいと言っていたのは演技だったのか、あるいはその気持ちはなくなったのか。
そして、隠密を使えるだけの身分だと言うことだ。通常隠密を必要とするのはそれなりの高官に就いている者か、さもなれば手広く商売をやっていて情報収集が必要になる者かだ。どう考えても、伯求は前者だろう。
先に飲みながら待っていると、日が暮れる少し前、伯求と名乗った男はやってきた。
「大事は終わったのか?」
席に着くなり、彼は言った。
「ええ、問題なく。これでお役御免です。いや、肩凝りましたよ。もう使者なんてごめんですね」
郭嘉が大仰に肩をすくめて見せると、伯求と名乗った男もまた、ごくわずかに口の端を持ち上げた。
「さぞかし大任だったのだろう。うまくやりおおせたようで何よりだ」
「あなたのおかげですよ。顔色変えちゃダメだって言われたから、ずっとそれを考えて顔色変えないように気を付けてました。だからうまくいったんじゃないかな」
「それは何より。君はもう少し寡黙になればきっとうまく出世するだろう」
「それ、どういう意味……」
郭嘉が顔をしかめても、伯求は気にもしない。彼は淡々と言った。
「きっとその愛嬌でさぞかし主の寵を得ているのだろうが、それだけでは謀士としてはいささか重みが足りない。いずれは行き詰まるぞ。時として策を秘さねばならない時もあるだろうに、君はすぐ顔に出るし、こんなところでどこの馬の骨ともつかぬ男を拾ったりもする。そういうところが、足りない。そう思うだけだ」
また親が子に諭すかのような言い方だ。だがその声音はどことなく温かい。
「それって、元高官から、これから官途に就こうとする若者に対する忠告ですか?」
「……そうだな」
自嘲の笑みともに、彼は言った。
「まあ、これで大任は果たしたのだ。君の主も喜んで、君への寵も篤くなるだろう」
「うーん、それはどうかな。俺、まだ主がいないから。そもそも使者の任申し出たのも、逃げ出す口実欲しかったからだし、あんまり気に入られても困るんですけどね」
郭嘉の言葉に伯求が驚いて目を丸くしている。こんな顔を見たのは初めてだ。
「どこまで、俺のこと掴んでます? こいつが、見張りが一人、周りをうろちょろしてるって言ってるんですけど」
隣の静を指して言うと、伯求はすまない、と軽く頭を下げた。
「そうだったのだな。これは言い訳にしかならないが、私には面倒な連中がついていてな。おせっかいにも私が望みもしないのに色々とやろうとする。君のことを調べると言った時、私はやめろと言ったのだが」
「別にいいですよ。ちゃんと名乗らなかった俺も悪いですからね。俺、本当は郭嘉、字を奉孝と言います。こないだ名乗ったのは、姓は母のもので、名前とかは父のものでした。すみません」
「いや、謝らずともいい。使者の任を帯びていれば、名を名乗れないこともあるだろう。だが、潁川郭家は知り合いがいるが、君の名は聞いたことがないな」
「そりゃそうでしょう。俺は郭家でも傍系で、しかも体が弱くてほとんど家にこもってましたからね。で、あなたは? どこの何者なんですか?」
問うと、男は黙ってしまった。この上名を名乗れない理由でもあるのだろうか。郭嘉が首をかしげると、彼は閉口した様子で聞いてきた。
「君はこの後、冀州に帰るのか、兗州に帰るのか?」
袁紹の部下なのか、曹操の部下なのか、と聞いているのだろう。
「知ってるんじゃないんですか?」
「いや、そこまでは」
「まあ、帰るっていうか、行くなら兗州かな。でも、来たのは冀州からですけど」
男は明らかに困惑した様子で眉をひそめた。
「それは、袁紹の元を去って曹操の元へ行くと取っていいのか?」
「まあ、大体そんな感じかな」
「使者の任を果たしながら?」
「さっきも言いましたけど、俺、袁紹に臣従したわけじゃないんですよ。ただ、潁川が襲われた後、なんとなく袁紹のところにいたのは事実で」
郭嘉はこれまでのいきさつを簡単に説明した。なんとなく袁紹のところに居座っていたらいつの間にか目を付けられ、そこから逃げるために荊州への使者を申し出たことも、もう冀州へ帰るつもりがないことも。
「袁紹は、袁術よりはずっとましですけど、どうもいまいちですよ。見ててイライラする。もっといいやり方あるのに、って。なんかやる気あるんだかないんだかよくわからないし」
「で、曹操のところへ行くと?」
「それは……まだ、迷ってるんですけど」
郭嘉が言うと、男が首をかしげる。それに、郭嘉は苦笑を返した。
「俺、自信なくて。曹操殿の配下には文若殿はじめ、謀士がたくさんいるみたいだし、俺なんて役に立てるのかなって。行っても意味ないのに、行く意味あるのかなーとか」
「意味がないことはあるまい。政とはいくらでも仕事のあるものだ。行けば行ったなりにどれだけでも仕事はあるだろう。まして、今兗州は人手不足であえいでいるのではないか?」
「でも、地味で地道な書類仕事とか、したくないですよ」
郭嘉が言うと、伯求は目を丸くし、初めてたまらないとばかり、はっきりと笑った。
「では仕官は無理だな。どこへ行ったって絶対に地道な書類仕事は付きまとう」
「えっ、そうなんですか」
「当然だろう。どんな高官だって上奏文や報告書は書く。まあ、優秀な書記官がいれば多少は代わってくれるかもしれないが、それでも偉くなればなるほど目を通さなければいけない書類は増えるものだ」
よっぽど意外だったのか、彼はしばらくくつくつと笑っていた。
「そんな笑わなくてもいいのに」
やっと笑った顔が見られた。嬉しいと思ったが、言葉には出さなかった。言ってしまえば、きっと彼は笑うのをやめるだろう。
そこからしばらく、当たり障りのない話をしながら、お互いに酒を飲んだ。二人で結構な量を空けたかもしれない。途中で静が釘を刺してきた。基本、郭嘉は酒にはあまり強くない。自分でもわかっているから、酔わないように少量ずつ口に含んでいた。
一方、伯求はまるで水でも飲むように酒を飲んでいた。郭嘉が眠気を感じ始めたころ、さすがに伯求も酔ったのか、少し饒舌になっていた。
「若いというのはうらやましいものだ。その才を思う存分生かし、天下を安んじることもできる。……うらやましいことだ」
妙に、しみじみとした声音だった。伯求とてそれほどの歳というわけでもないだろうに。
「なんなら、一緒に兗州まで行きます? 伯求殿の方が、俺なんかよりよっぽど仕事ができそうだ」
軽く言ったつもりだった。彼は江陵に行くと言っていたので、行かないの一言で終わるだろうと思っていた。しかし、彼の頬からはすとんと表情が抜け落ち、そのまま瞳に影が落ちる。
「……いや」
沈黙の後のひどく深刻な声に、郭嘉の方が驚いてしまった。
「そんな顔しなくても。冗談ですよ。確か江陵まで行くんでしたよね? そういえば、江陵へは何しに?」
暗く影を落とした瞳がさまよう。彼は逡巡を見せた後、瞳を伏せた。
「……益州へ、行くつもりだった」
「益州?」
「任地が蜀郡なのだ。だが、長安から益州へ通ずる桟道はことごとく落とされていて、それで、荊州へ回った」
「なんでそんな、地の果てみたいなとこに。あれ? でも長安から荊州なら、普通武関を通る街道ですよね? それじゃ俺たちと出会うはずが」
「ぼうっとしていたら、道を間違えて、途中、洛陽へ行ってしまってな」
「それはまた、すごく盛大に道間違えたんですね」
伯求がゆっくりと瞳を伏せる。しばらくの沈黙の後、まるで最初に会った時のように、ひどくゆっくりと、言葉を探すように彼は言った。
「……迷いがあった。自分で願い出ておきながら、本当に、蜀郡に行ってもいいものかと。桟道がすべて落ちていたので、余計そう考えてしまった。これは、天が益州へ行くなと言っているのではないかと。だが、途中長安に戻っても、朝廷に行く気にはなれず……。道を誤って洛陽へ行けば、あそこはまだ、灰燼に帰したままだ」
伯求は額に拳を当て、顔を伏せた。
「半年近く、とぼとぼ歩きながらずっと考えていた。これほど多くの命を犠牲にしながら、何一つ、誰一人救ってはいない。漢の臣として生きてきた自分は、すべてが間違っていたのではないかと、そう、思えてしまって……」
しまいに彼は両手で顔を覆い、うなだれてしまった。
半年前の長安なら、ちょうど董卓が死んだあたりだ。余程の何かがあったのだろうことは、想像に難くなかった。
漢の臣として。
そう言えるだけの地位にあった人が、ここまで追いつめられている。
――人生懸けて、帝に仕えてきたなら、そうかもな。
どう言葉をかけていいのか、郭嘉は迷った。
潁川から逃げていた時、死にたいと言っていた人間には何度も出会った。家族を失い、財産を失い、絶望した人たちを見ていて、なんとかなるなんて言葉がいかに無意味かはわかっているつもりだ。ただ、そういう者の中にも旅を続けるうち、気が紛れ、生きる気力を取り戻した人もいた。
彼に一緒に行こうと誘ったのは一緒にいることで、少しでも気が紛れれば。そう思っていたからだ。
最初は、誰かが死んだとかで落ち込んでいるのだろうと思っていたが、どうもそれだけではなさそうだ。失ったものの大きさは、郭嘉には推し量ることもできない。
それでも、寡黙であれと言った張本人が、酔っているとはいえここまで話してくれたのだ。
「伯求殿」
呼びかけると、彼はぴくりと肩を震わせた。
「江陵、行きましょう。そこからなら益州、行けるかもしれないんでしょ?」
務めて明るく、何気なく言ったつもりだ。伯求が顔を挙げ、見つめてくる。その頬が濡れていることにも、郭嘉は気づかないふりをした。
「俺も、長江、一回見てみたいんですよね」




