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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
1.乱世の始まり
1/64

1 <郭嘉編>落陽

生まれつき体の弱い郭嘉はずっと室にこもって生きてきたが、二十歳になって世界をみてみたいと旅に出ることにした。まずは、董卓が焼いたという洛陽へ向かうことに。


今回は郭嘉が主です。郭嘉だけでは話が進まないのでオリジナルのキャラがいますがご了承ください。

 子供のころは、二十歳まで生きられないだろうと言われていた。

 確かに体は弱かった。ちょっと無理をすればすぐに息が苦しくなるし、しょっちゅう熱は出るし、体のために食べなければと思っても、少し多く食べればすぐに吐く始末。

 自分は長生きできないだろうと諦めながらも、郭嘉は子供時代を書におぼれて過ごした。書に触れれば知らない世界に、知らない人の考えに触れることができたからだ。

 本当ならもっといろんなことが知りたい。色んなものを見て、人に会って、新しいことが知りたい。そう願っても、体は長旅に耐えられない。しかも世は徐々に乱れ、気軽に病人が旅できる時代でもなくなっていた。

 だから、あきらめるしかない。

 そう、思っていた。十五歳になったあの日、彼が訪ねてくるまでは。

「体が弱くて仕官出来ない? そんなもったいない」

 そう言った彼の言葉には世辞の色は感じられなかった。本気で言っているのだ。

 驚いて見つめると、彼はその澄み切った瞳でじっと郭嘉を見つめてきた。

「体が弱いといっても、まだ若いのですから、よくなるかもしれないではありませんか」

「文若殿。それが、そいつは医者にずっとそう言われているのですよ。それこそよちよち歩きのころから熱ばっかり出して」

 横から口をはさんだのは親戚の郭図だった。いくつか年上のこの男は、こうやってたまに客人を連れてきてくれる。外出しづらい郭嘉にとって、彼が連れてきてくれる客人は数少ない外界との接点だった。それはありがたいと思ってはいる。

 しかし、郭嘉はあまり郭図が好きではなかった。郭図が客人を連れてくるのは、どちらかというと自分の知識や人脈を自慢したいという意図があるらしく、同席すればたいてい郭嘉は馬鹿にされることが多かった。

 それでも、客人には高名な人物も少なくない。加えて、話していれば郭嘉を評価してくれる場合もある。今回の客人、荀彧もまた、どうやら郭嘉をそれなりに評価してくれたようだった。

「医師はなんと言っているのですか?」

 荀彧は郭図ではなく、郭嘉へと訊いてきた。涼やかな瞳に見つめられ、少しどきりとして、郭嘉は口を開く。

「生まれつきの虚弱体質だろうって言われました。精の付くものを食べて体を鍛えるしかないと。でも、たくさん食べようと思っても吐いてしまうし、少し動けばすぐにだるくなるし……だから、多分無理だと」

 荀彧は困りましたね、と小さくつぶやいて眉を下げ、考えるように口元に手を当てた。

 同じ男のはずなのだが、なぜかその手元の優雅さに気を惹かれた。彼の言葉も所作もとても上品で、端正な顔立ちと相まってつい見とれてしまう。

「ですが、惜しいことです。あなたほどの智者が体が弱いから世に出られないなんて。ああ、そうだ。よければ今度医師を紹介いたします。先日会った医師がとても素晴らしい方で、巷では神医と呼ばれることもあるとか」

「智者だなんて、文若殿。こんなガキに大げさな」

「そのようなこと、ありませんよ。先程から少しお話しただけで奉孝殿がいかに智にあふれているのか判ろうというもの。まだ若いのですから、あきらめるのは早いですよ。もしかしたらよくなるかもしれないのだから」

 荀彧はにこりと笑って言った。

「我々には生まれながらにして恵まれている分、天下に対して責任があると私は思っています。我々は天下を安んじ、市井の人々が心穏やかに暮らせるように尽力する義務がある。もちろん、あなたが真に体が弱くそれが叶わぬというのなら仕方のないことですが、あなたのすぐれた智謀は埋もれさせておくにはあまりに惜しい。奉孝殿もその才を天下のために役立てたいと思われるでしょう?」

 問われて、郭嘉はひどくとまどった。今までそんなことを言われたことなど一度もなかった。兄たちもいかに遊んで暮らすかだけに腐心しているような有様だし、たまにやってくる郭図は自分を侮って憐れむように見てくるだけだ。

 そんなこと、自分にできるのか?

 呆然として驚いている郭嘉に、荀彧はまだいくつか言葉をかけてにこやかに帰っていった。

「奉孝、言っておくが、別にお前が特別なんじゃないぞ。文若殿は誰にでもあんな感じだからな」

 荀彧が郭嘉をほめたのがよほど気に入らなかったのか、あるいは荀彧が妙に郭嘉を気に入ったように見えたのが気に食わなかったのか、郭図は荀彧が帰った後までそんなことを言った。

 郭嘉自身も、きっと世辞だろうなと思ったものだ。世に出たこともないたった十五の子供が言ったことが、そうそう智にあふれているなんて言われることもないだろうと。

 ところが、半月ほどして本当に医師がやってきた。華佗という名のまだ若い医師だったが、一通り問診し、触診した後、彼は薬とその処方を置いていった。なるべく体を動かし、食事をしっかりとるようにとも言った。

 郭嘉がすぐ吐いたり熱を出したりするから無理だというと、ではどの程度体を動かしたら熱が出るのか、何を食べたら、あるいはどのくらい食べたら吐くのかを色々試してみて、そうしないで済む程度のことをすればいい、と言った。

 今までの医者なら、吐くだの熱を出すだのですぐに「それではどうしようもないですね」だったのが、初めて明確な対処法を教わった。

 俄然興味がわいてきて、それから郭嘉は自分の体を試すように色々なことをやってみることにした。

 まず、毎日出歩くことにした。日々距離を長くし、自分の限界がここだとわかると、だるくならない程度の距離を毎日歩くようにした。食事も同じだ。華佗はなるべく肉や魚を食べ、どうしてもだめなら豆を食べろと言った。少量ずつ肉や魚を食べてみて、自分が吐くのは量よりも何を食べるかだったことに気づいた。華佗が残した薬の処方は医師に預け、その薬も欠かさず飲んだ。これも効き、半年、一年と過ぎるころには吐くことも、寝込むことも劇的に減っていた。

 となると、俄然興味がわいてきて、色々と試したくなってきた。医術も学んでみたいと思ったが、何せ手元には医書などというものはない。医術を学びたいという希望は、さすがに親に却下された。医師の身分は低い。傍系とはいえ郭家はそれなりの家系で、到底許されるものではなかった。

 それでも、ここまで体が丈夫になったなら色んなものを見たい。

 出歩くついでに遊ぶことも覚えたが、それよりもやはり郭嘉は学問が好きだった。知らない知識に触れることは何よりも楽しい。思えば自分は幼いころ文字を習ったくらいで、あとはほとんど書を独学で学んだだけだった。智者と交わってみたいし、きちんと先生にもついて学問をしてみたい。

 遊学に出たい。そう親に伝えたのは二十歳になった時のことだった。

 二十歳で死ぬと言われていた男が、二十歳になったから旅に出たいという。

 親は親なりに悩んだようだが、所詮郭嘉は父にとっては三男の、しかも妾腹の子供だ。さしたる期待もしていなかったのだろう、父は鷹揚に許可を出し、ついでに金と付き添いの家僕までつけてくれた。

 世はちょうど、董卓が洛陽を焼き、長安に逃げたころだった。




 いよいよ出発という日、そのままいつも通り出かけようとして、郭嘉は一緒に旅立つ従者に止められた。

「若、そのままじゃだめですよ。服、脱いでください」

「は?」

「そんな軽装で旅ができると思ってるんですか」

 彼はため息交じりに郭嘉の着物の襟をつかむと、おもむろに着物を上半身脱がせた。されるがままになっていると、彼は脇から匕首が固定された革製の帯を取りだし、単衣(はだぎ)の上からそれを郭嘉の胸のあたりに固定した。着物を着れば、ちょうど襟元から匕首を取り出せるような位置だ。

「へえ、こんなのあるんだ」

 郭嘉が感心したように言っても、従者は手を止めない。彼は匕首を固定すると、今度は再び郭嘉に袖に腕を通させ、襟元を整えた。

「街の外は盗賊が出て当たり前だと思ってください」

「それはわかってるけど、え、そのためのお前じゃないの?」

「護衛一人で相手にできる数なんてたかが知れていると思ってください。もちろん、若がこんなもの使う状況にならないのが一番ですが」

 従者がため息をつく。どうやら彼の想定では賊には襲われることが前提のようだ。

 従者は静といい、年齢的には郭嘉より五つ程上だ。乳兄弟として子供のころから一緒に過ごしているが、そこそこ腕が立ち、従者としての仕事も慣れている。何より郭嘉のことをよくわかっているので、郭嘉としてはこの上ない同伴者だった。

 旅に必要なものは一通り彼が準備してくれているはずだった。門のところにつながれた馬には多少の荷も乗っている。

「あと、これを」

 静に剣を差し出され、郭嘉はちょっと顔をしかめた。

 剣なんて握るのは何年ぶりだろうか。子供のころは剣術ができるようになれと散々鍛錬させられたものだったが、結局体の弱さもあいまって、物にはならなかった。

「いや、いいよ」

「よくないですよ。剣もなしに外に出るなんて」

「今まで散歩してるときは剣持てなんて言わなかったのに」

「散歩と旅は違いますよ。こけおどしでも帯剣してないと、賊から見たらいいカモにしか見えません」

 郭嘉はしぶしぶ剣を受け取った。が、ずしりとしたその重みに思わず顔をしかめる。

「重い」

 静を見上げて言うと、彼は盛大にため息をついた。

「これでも一番軽いのを選んだんですけど」

「こんなもん振れないって」

「あきらめてください。使っていればそのうち持てるようになりますよ」

 静は手早く郭嘉の帯に剣の鞘を差し込んで、固定してしまった。体の左側に荷重がかかって妙な気分だ。

「もう戦うこと前提なのね」

 郭嘉がため息交じりに言うと、もちろんです、と静は言った。

「盗賊に遭わないことの方がかなりの僥倖ですよ。特に近頃は都も荒れているという話ですし」

「まあ、そんなのも聞くけどさ」

 郭嘉は軽く母に挨拶をして、そのまま馬に乗って出発した。郭嘉も母もあっさりしたもので、じゃ、行ってきます、気を付けて行っていらっしゃい、で終わりだ。横にいた静の方がそれを見て不思議そうな顔をしていた。

 城市を出ると、街道沿いに北西へと進む。陽翟から出ている街道は主に二つで、一つは都洛陽へ、もう一つは許へと向かう。郭嘉は洛陽への道を取った。洛陽へ行けば、そこから各地へと街道は枝分かれする。陽翟から旅に出るなら、一度洛陽に向かうのが定番だった。

 静が途中まで行く先を聞かなかったのは、都に着くまでは聞く必要がないと思っていたからだろう。しかし、出発してしばらくして、少し不安になったのだろう。彼は郭嘉に馬を寄せ、聞いてきた。

「若、どちらへ行かれるつもりですか?」

「まずは、洛陽かな」

「若、街道はう回路もありますから、わざわざ洛陽まで行かなくても大丈夫ですよ。南なり北なり、途中で道を変えたほうが」

「いや、俺、洛陽に行きたいから」

 一瞬、静が目を丸くする。彼は笑顔を作って、もう一度言おうとした。

「いえ、ですから」

「俺は洛陽が見たいつってんの」

 もう一度郭嘉が言う。静は今度こそは悟ったらしく、ダメです、と首を振った。

「いいですか、若。ご存じないようですから申し上げますが、都は今」

「俺が知らないとでも思ってんのかよ。董卓が洛陽を焼いて、長安に逃げたってんだろ? わかってるって」

「なら、どうして」

「その、焼けた都っていうのが見たいんだよ。想像できるか? 俺は洛陽には行ったことないけどさ、相当でかいんだろ? 宮城だってそんな簡単に焼けるようなもんじゃないだろ。それを、董卓が焼いて捨てたっていうんだ。見てみたい」

 静はあからさまに眉をひそめ、しばらく口もきけない様子だった。

「……焼け野原になった都を見ることに、どんな意味が?」

「意味? さあ。ただ、見たいんだよ」

 郭嘉が言うと、静はいよいよ困ったというふうに顔をしかめていた。どう言いくるめるか考えているのだろうが、言葉が見つからないらしい。

「ですが、今都がどうなっているかわかりません。さすがに火の手は収まったでしょうが、それこそ賊徒がたむろっている可能性も」

「かもな。でもいいんだよ。今そこで歴史が動いてる、それを、見たいんだ」

 じっと見つめて言うと、静はあきらめたようにうなずき、それ以上反論することはなかった。



 洛陽までは、馬で二日ほどの距離だ。初日は山間の街道を登り、途中で宿を取った。その翌日は、山を下れば都が見えてくるはずだった。

 山間の街道をゆっくりと馬で降りていく。街道の両脇は切り立った崖か森で、街道は広いが人気がほとんどない。昨夜宿を取った街でも、都に行くのかとかなり驚かれた。最近は、都から逃げてくる人間はいても都に行こうという者はそうそういないらしい。

 しばらく街道をくだったところで、静がしみじみとため息をついた。

「信じられません」

「何が?」

 まだ都に行くなんて、と言うつもりか。郭嘉が半ば呆れて静を振り返ると、彼は郭嘉ではなく、街道のずっと先を見つめていた。

「以前ここを通った時は人通りがすごくて、馬で通るのも一苦労だったんです。それが、これだけ広い街道に、たった二人きりですから。時代が、変わったのだなと」

「ああ……」

 街道の広さはそのまま、それだけの人通りがかつてはあったということだ。かつてはすべてが集まっていく都だったのに、今はこぞって人が逃げ出している。静が嘆息するのも無理はない。

「お前、あっちこっち旅してるんだな」

「はい。旦那様の命であちこち調べておりましたので。ここ最近は賊徒も増え、乱世だとは思っておりましたが、こうして人気のない街道を歩くと、来るところまで来たのだなという気がします」

「来るところ?」

「世も末だなと」

「ふーん」

 末の世とはどんなものだろう。世の中に終わりがあるとでもいうのだろうか。郭嘉には、今一つぴんとこなかった。

「それより、これだけ人通り少ないなら、盗賊も出ないんじゃないか? 獲るものないしさ」

「それは……」

 静がさっと視線を走らせる。

「馬蹄の音が」

「え?」

 耳を澄ますと、確かに郭嘉にも聞こえた。それも、一つ二つではない、かなりの数だ。

「若、あっちへ」

 静が馬から降り、道のわきにあった森を指さした。郭嘉も馬を降り、馬を引っ張って木陰に隠れる。しばらくすると、街道を埋め尽くすような軍勢がやってきた。

「これ……」

「しっ」

 話しかけようとして、静に口を抑えられた。大勢が通り過ぎていく音に驚いて馬も落ち着かない様子だったが、それも抑える。通り過ぎていく軍勢はかなりの数だった。賊徒でないのはすぐにわかる。そろいの具足を着て、旗も立てていた。

「なんだ、戦でも始まるのか?」

 通り過ぎた後、街道へ出てつぶやく。森に隔てられた街道の向こうには、遠く土煙が舞っていた。

「いや、違うか。都から地方へ向かうってことは、董卓軍だろ。賊徒討伐とかか?」

 しかし、都を焼いて長安に逃げるような奴が賊徒討伐をするとも思えない。かといって、戦とも考えにくかった。少し前に反董卓の軍が挙がったという話は聞いたが、結局連合軍はほとんど戦をせずに散会し、董卓は董卓で軍勢が集まっただけで長安に逃げてしまったのだ。今更反董卓軍を討伐もないだろう。

「今の軍って、どのくらい? 一万はいかないよな?」

「五千ほどかと思います。輜重を多く引いていたので、もしかしたら物資の補給と言うこともあるかもしれませんが」

 なるほど、それはあるかもしれないと思った。都はめちゃくちゃ、長安も突然人が増えれば物資も足りないだろう。予州あたりで物資を買い込むのに兵を出したという可能性もある。大量の食糧なら、運ぶにも人手が必要だろう。

「戻りますか?」

 静の言葉に、郭嘉は少し考えて首を振った。

「いや、せっかくだし洛陽行こうぜ。もうすぐだろ。大体、董卓が予州を攻める理由もないし、お前の言う通り物資の補給じゃないかな」

 しばらく歩くと、崖の上から洛陽の街が見えてきた。

 といっても、それは華やかな都の姿からは程遠い、すすけた、黒と灰色の廃墟でしかなかったけれど。




 焼け落ちる前の洛陽に来たことがあったわけではない。

 けれど、実際半ば廃墟と化した洛陽を見たときは胸を突かれた。

 人気のないかつての都は、建物は焼け落ち、そこら中に死体が散乱してひどいにおいが漂っている。腐臭と焼け焦げた匂いが入り混じって、郭嘉は吐き気を必死にこらえた。

「……ひどいもんだな」

 洛陽の街に入って一刻程歩いて、やっと声になった言葉がたった一言、それだった。

 隣を歩く静が小さくうなずいた。彼もまた、不快をこらえているのか眉をひそめている。

「若、正直あまり長居するのはどうかと」

 袖で口を覆いながら、それでもすたすた進んでいく郭嘉に心配になったのだろう。静が心配そうに声をかけてきた。

「なんで?」

「危険です。おそらく、盗賊の類がそこらにたむろしているかもしれません」

「んー、そうか? 董卓が都を焼いたのってもう何か月も前だろ? もう略奪し尽くされて何も残ってないんじゃないのか?」

「どうでしょう。天下の都です。裕福な官吏の館も多い。まだ何がしか残っていると思ってやってくる盗賊も少なくないと思いますが」

「まあ、そうかな」

 たまに見える人影は、明らかに取り残された棄民という雰囲気の者が多い。ぎらぎらした目つきで物欲しそうにこちらを睨んでくるが、今のところ襲い掛かってくる気配はなかった。

「ま、お前がいればなんとかなるだろ」

「十人以上に囲まれたら勝てません」

「じゃあ囲まれないようにすればいい」

「若」

 あきれたような声を無視して、郭嘉はすたすたと歩いていく。半歩後ろを歩く静が軽くため息をついた。

「若は怖くないのですか?」

「怖い?」

「身ぐるみはがされて、殺されるかもしれないとはお思いにならないので?」

 振り返ると、静のじっと見つめる瞳にかちあった。そこには疑問も咎める色もない。ただ、あきれた色があるだけだ。

「んー、そうだな。あんまりそういうの、考えたことないな」

 郭嘉は前を向いて再び歩き出した。

「お前がなんとかするだろ」

「重ねて言いますけど、十人以上に囲まれたら勝てません」

「そん時は俺の神算鬼謀が何とかするさ」

 おどけて言うと、静のため息が聞こえてきた。

「こんなことなら旦那様に頼んでもう何人か護衛をつけてもらうのでした。まさか洛陽に行きたいなんておっしゃるとは……」

「父上が俺ごときにそんな人数割く訳ないだろ」

「まさか、旦那様は若君を兄弟の中でも最も目をかけていらっしゃいますよ」

「んなわけあるかよ」

 生まれてこの方、父は自分に無関心だった記憶しかない。寝込んでいてもろくに見舞いに来たこともなく、用件があるときに顔を合わせるくらいだった。母は母でかいがいしく世話を焼いてくれはしたものの、彼女の思いは息子を武将にでもしたいというところにあったようで、病弱な郭嘉に剣の遣い方や暗器の遣い方を教えようとした。しかしなにせ体が弱かったので、武将なんて夢のまた夢だ。いつしか母も書に埋もれる郭嘉を穏やかに眺めるだけになった。特別に親の愛情がなくてさみしいと思ってきたわけでもないが、少なくとも溺愛されて育ったわけではないことはわかっている。

 気軽でいい、と思っていた。上の兄たちは皆家の威信を背負い、仕官しろとせっつかれていたのだ。自分がこうして呑気に旅に出られたのもひとえに親に期待されていないからだろう。旅に出れば何があるかわからないこの世の中で、あっさり旅が許されるなんて死んでもいいと言われているのとほぼ同義と理解している。

「どうせこの先短いんだ。今死ぬのも十年後死ぬのもの同じさ」

「若」

「でも、さ」

 咎めるような静の声に、にやりと笑って郭嘉は振り返って見せた。

「せっかくもうけた命なんだ。どうせなら死ぬまでやりたいこと思いっきりやって死にたいだろ?」

 静は目を丸くした後、もうそれ以上言いつのることはしなかった。




「なあ、反董卓で連合組んで諸侯が洛陽を攻めたんだったよな?」

「正確に言うと、洛陽の董卓を討つといって兵を起こしたものの途中で放棄して、諸侯は散会。確か孫堅という武将だけが董卓軍の一部を破って洛陽に入っただけで、あとは戦わずに逃げたのじゃなかったでしょうか。いや、もう一人戦って負けた将がいたような気もしますが」

「で、その孫堅って奴はせっかく洛陽に入ったってのに洛陽を放棄してどっか行ったってことか? どう見ても兵、残ってないよな?」

「噂では天子の陵墓を修復だけして荊州だったか、南に戻ったという話です。元々孫堅は江南の出身だとか」

「ふーん」

 意味不明だ。天子の陵墓なんぞ修復する前にやることがあるだろうに。

「この惨状を放置して、董卓を討つのに長安に向かうでもなく、家に帰ったと」

「董卓には勝てないと思ったのではないでしょうか。反董卓に集った多くの諸侯の兵はそれぞれせいぜいで二万程度と聞きます。片や董卓は優に十万は兵を擁している。おまけに西涼の兵はこの平和な(くに)にあって、長らく異民族の脅威に曝され戦い続けた数少ない軍ですから、精強だとも聞きますし」

「平和『だった』だろ」

 郭嘉が口をはさむと、静はそうですね、とうなずいた。

「つーか、お前詳しいな」

「さっきも言ったでしょう。ついこの間まで旦那様の命でいろいろと情報を集めておりましたので」

「父上の?」

「ええ。旦那様は穀物や武器を扱っておられましたので、商売をする上で、各地の情勢の知識は必要です。それに、いかに傍系とはいえ、郭家も世の情勢に無関係ではいられないとお思いのようでした。もっとも、あなたの兄君たちはその旦那様の気持ちに応えられずにおられましたが」

「どういう意味?」

「うだつが上がらなくていまだに仕官できていない、という意味です」

「あー、そうね」

 兄たちとそう交流が多いわけではないのだが、確かに兄たちはどこにも仕官せず遊びまわっていると聞いた気がする。父は父で官途には就かず商売を主にしていて、金はあるが官位はない。父としては息子の誰かが孝廉にでも推挙されればよかったのだろうが、今のところそれもない。

「ただ、こうなってくると仕官も簡単じゃないな。まずどこに仕官するかって話になる。朝廷はこんなだし、下手にどっかの諸侯に仕えれば負けて路頭に迷うかもしれないからな」

「あのお二人の頭は『働きたくない』ということしかないようにも見えますけどね」

「はは、ま、気持ちはわからんでもないけどな」

「若君にはどこかに仕官しようという気持ちはおありで?」

「俺? 俺ねえ」

 少し考え、郭嘉は苦笑した。

「まず、それに耐えられるかどうかだよな」

「これだけの旅をしておられるのです。最近はかなり体力もつけられました。不可能ではないと思いますが」

「うーん、そうかな。まあ、これはと思う相手がいれば、してもいいかな」

 眼前に広がる惨憺たる有様の洛陽の街を見て、郭嘉は目を細めた。

「少なくとも、こんな惨状をほっぽりだしてどっか行くような奴は却下だな」

 結局は反董卓で集まった諸侯も本気で世直しなど考えていなかったということだろう。それに、郭嘉はよくわからない怒りを覚えた。

 高貴な生まれの者にはそれ相応に責任が伴う。市井の者の命運は自分たちにかかっているのだから、天下を安んじる義務がある。

 いつだったか、荀彧が言っていた言葉が聞こえた気がした。

「文若殿、今どうしてるかな……」

 あの人のことだ。きっとどこかの主に仕えてせっせと働いているに違いない。

 あの涼やかな瞳がたまらなく好きだった。その後、彼が王佐の才などという人物評を得た人だということも聞いた。彼ならそう言われるのにふさわしいと思う。帝の隣に立ったって似合いそうな雰囲気だった。

「若? 何か言いましたか?」

「いや、なんでもない」

 いつか、荀彧に会って礼が言いたい。あなたのおかげで世界が広がったのだと。

 ただ、今は眼前のことだった。どうせなら、宮城(きゅうじょう)が見たい。

 焼け落ちた建物の間をかいくぐり、おそらく街の中心街だっただろうところを抜け、郭嘉は宮城を目指していた。通り沿いの邸がどんどん大きなものになり、来たことがあるという静の話も聞きながら、郭嘉はついに宮城の中へとたどり着いた。

 門をくぐると、だだっぴろい広場が広がる。入り口から半里ほど先に階があり、登った先に建物。焼け落ちて無残だが、ところどころ鮮やかな色が残っている部分もあり、あれがきっと宮殿だろうということはわかった。

 破れて焼け焦げた綺羅をかいくぐり、中へと入る。すすけた赤い柱、天井を見上げれば見事な装飾を施された天井、窓と言う窓には見事な細工の格子がある。いずれも黒く焼けてはいたが、かつての栄華はなんとなく想像できた。

 前を見れば、玉座らしきものがある。やはり破れて焦げた紗幕があたりに散乱し、燭台や何かの像なども壊れて散乱していた。

 歩けば、ざり、と床に散乱した小石が鳴る。元は磨き抜かれた床だっただろうに、今はただの炭だ。主を失った玉座もまた、黒く焼け焦げ一部が壊れていた。

 郭嘉は広間の中心で立ち止まり、そのすべてをじっと見つめ続けた。

 四百年、人々が必死に守ってきたものも、壊れるのはほんの一瞬なのだ。

 それともこれは、天が漢に天命なしと示した罰だろうか。そんなことを考えて苦笑する。

「若」

 後ろから静に声をかけられ、郭嘉は苦笑しながら振り返った。

「なんか、気、済んだわ。一回帰る――っ」

 ひゅっと頬のすぐ横を何かが通り過ぎていく。すぐ後ろでうめき声が聞こえ、郭嘉は慌てて振り返った。ほんの二歩ほど先に、見知らぬ男が首を抑えて倒れこんでいた。

「えっ!?」

「若、こっちへ」

 声が聞こえたのと同時に腕を引かれ、入り口の方へと半ば強引に押しやられた。よろめきながらなんとか再び静の方を振り返ると、静が剣をひらめかせているのが見える。賊は五人。静は郭嘉が呆然と見ているほんのわずかの間に、襲ってきた全員を当たり前のように倒していた。

 鼻につく、血の匂い。

「……殺したのか?」

 静は答えることなく、郭嘉の腕を引っ張ってすぐに外へと走り出した。

「お前、すごいな」

 宮城の前の広場を走りながら言うと、静は一瞬だけあきれたように目を向けてきた。その手には、まだ血に濡れた剣を握ったままだ。

「随分落ち着いてますね」

「そうか?」

「脅かそうと思って、わざと若に近づくまで黙ってたんですけどね」

「は?」

「気づいていなかったでしょう。あの連中、最初からあの部屋にいましたよ。玉座の後ろと、柱の陰に」

「ぜ、全然気づかなかった……」

 そのまま手を引かれながら出口に向かって走る。徐々に息が上がるのを感じたが、郭嘉は必死になって走った。

 広場の真ん中あたりまでくると、静は走るのをやめ、ゆっくりと歩きながらようやく郭嘉の手を離した。おそらく、郭嘉が息を切らしているのに気づいたのだろう。

 静はひゅっと剣を振って血を払うと、それを腰のさやに収めた。

「お前すごいな!」

 もう一度言う。純粋な尊敬を込めて言ったはずだったのだが、やはり静は困ったとばかり片目をすがめた。

「怖かったでしょう?」

「いや、全然。そんな暇なかったよ」

 笑って言うと、静はますます顔をしかめた。

「私がいなかったら死んでましたよ」

「その前にここまで来られなかったんじゃないか? お前本当すごいよな! 最初に俺の横すり抜けていったの、あれ苦無だろ? あれであんなちゃんと賊殺せるんだな」

「死んでいるかどうかは……」

 静がちらと宮城を振り返る。どうやらさっきの連中がやってこないか心配しているようだ。

「と、とにかく。怖い思いをしたから家に帰りたくなりましたよね?」

「いや、全然」

 頬を引きつらせ、静が固まる。しかしそんなことは気にせず、郭嘉は声も高くいった。

「なあ、どうせなら長安も行ってみようぜ。俺、長安がどんなか見てみた――」

「ダメです! 絶対ダメですからね!」

「なんでだよ」

「無理に決まってるじゃないですか。ここ以上に治安が悪いことは必至ですよ。大体、あなたは遊学しに旅に出ると言ったんでしょうが! こんなところ来たってなんの勉強にもなりませんよ!」

「なんだよ、今現実に何が起こってるのか見るのだって立派なお勉強だろ」

 郭嘉がむっとして言い返すと、静が一瞬言葉に詰まる。しかし、彼はすぐに気を取り直して反論してきた。

「それはわかりました。ですが、長安なんて絶対に私一人では若を守り切れません。どうしてもというのなら、一度陽翟に戻って旦那様の許可を得て、護衛を増やしてください。でなければ、私は同意できません」

「んなもん、父上が許可するわけないだろ」

「わかっておられるなら、私がうなずくわけがないこともお分かりでしょう。そして、独りで行けるはずがないことも」

 そう言われてしまうと、郭嘉としては黙るしかなかった。

 幸いここまでの道のりで寝込むことはなかったが、疲労がたまっているのは感じている。ここからまともに休める宿があるところまでまた半日は歩くだろう。となると、体力がどこまでもつかもわからない。

「――しょうがないか。じゃ、一回戻ろう」

 ところが、戻った潁川では大変なことが起こっていた。

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